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甲賀流忍者の墓
私は、久しぶりで、三春の福聚寺に行ってみました。三春町史などに載せられていたので知ってはいたのですが、戦国時代の田村氏三代の墓を見てみたいと思ったからです。とにかく初めてのことなので、墓地のある場所も分かりません。庫裡に寄って、聞くことにしました。生憎、住職の玄侑宗久さんは留守でしたが、奥さんに墓地のある場所を聞くことができました。その場所は、本堂の横にある道をまっすぐ登った突き当たりにあることが分かりました。この墓地一帯が山でしたから、道の途中、結構きつい坂の所もありました。山を背にし、一番高い所にあった田村氏三代の墓は三基、しかも一番右にあった墓碑は、人の形をしていました。そのことは町史の写真などで知っていましたから、特に驚くことではありませんでした。参拝を終え、墓地の階段を降りた左に、『甲賀家の墓』があるのをみつけました。一瞬、「甲賀家の墓が?」とは思ったのですが、初期の目的は達したので、そのまま家に帰ってしまったのです。
家に戻った私は、甲賀家の墓について、思いを巡らしていました。そして幾つかの、疑問が出てきたのです。甲賀家の墓が、なぜ領主の墓地のすぐ下の隣接した場所にあったのか? もしかして甲賀家は、田村氏に重用された家系であったのではないか? 甲賀家は、甲賀忍者の流れをくむ家ではなかったのか? などなどです。さあそうなると、気になって仕方がありません。甲賀家の墓地の石碑に、何か手がかりになるものが彫られていないか、と思ったのです。私は日を改めて、再び福聚寺に行ってみました。一度行った場所ですから、道に迷うことはありませんでした。ところが行ってみてわかったことは、この墓地は近年になってから整備されたものらしく、古い墓碑は残されていなかったのです。「これでは分からないな」と思い、庫裡に寄ってみました。幸い今度は、住職の玄侑宗久さんがご在宅でした。そこで私は、疑問に思っていたことなどを、彼に聞いてみたのです。
そこで得た回答は、次のようなものでした。「明治以降の過去帳についてはコンピューター上での整理はついた。しかし、それ以前については手付かずの状態であり、質問に答えられる資料はない。」とのことでした。「う〜ん」と思ったとき、彼はこう言ったのです。「実は甲賀家の墓が、もう一ヶ所あるのです。そこの亡くなった当主が、『うちは侍だった。』と言っていました。しかし何家に仕えたとは言っていませんでした。あそこの墓碑は、古い筈です。」私は場所を確認すると、そこへ行ってみました。数は少なかったのですが、古そうな墓碑が並んでいました。そこで私は、没年月日を確認しました。ただし読めなくなっているのもありましたので、全部ではありません。年代順に並べると、次のようになっていました。(戒名略)
寛延三年(1750)
明和年間(1764〜1772)
文化七年(1810)
天保五年(1834)
ただしここで、1834年から1750年を引くと84年になります。それらを考えれば、もっと以前からの人のもあったのかも知れません。しかしそれ以上のことは、知ることができませんでした。
さてこうなると、忍者とはいつ頃から発生して何をしていた人たちであったのか知りたくなりました。通常私たちは、これらの人を『忍術使い』『忍者』『忍び』と呼んでいます。しかも今や忍者は世界的に有名になり、日本語そのままのニンジャという名で定着しているようです。ところが意外や意外、聖徳太子が『志能備(しのび)』と呼ばれるスパイを使い、朝廷内の動きを探っていたというのです。聖徳太子が志能便として活動させていたのが大伴細人(さびと)ですが、この人が日本最古の忍者であると言われています。一説によれば、聖徳太子は大伴細人以外にも服部氏族などの忍者を使っていたと言われ、服部氏族が伊賀忍者、大伴細人が甲賀忍者の源流になったと言われています。聖徳太子は、西暦574年から622年の人です。ということは、三春に田村氏が君臨していた1586年頃には、すでに忍者はいた、と考えてもいいことになります。甲賀はコウカと読むのですが、コウガと誤った読み方をされることが多いとされます。この甲賀流(こうかりゅう)とは、近江国甲賀の地に伝わっていた忍術流派の総称であって、山を一つ隔てた場所に存在する伊賀流と並んで、最も有名な忍術の一派として知られています。なお、慶長にあたる1600年代に、イエズス会が編纂した「日葡辞書」では、「 Xinobi( 忍び ) 」と表記されているそうです。
戦国時代になると、忍術には「陰忍」と「陽忍」があるとされました。陰忍とは、姿を隠して敵地に忍び込み、内情を探ったり破壊工作をする者であり、陽忍とは、姿を公にさらしつつ計略によって目的を遂げる者です。いわゆる諜報活動や謀略、離間工作などがこれにあたります。この時代の領主の中には、普段からプロの悪党や忍びを集団で雇ったり、合戦前に忍びを募集するところもありました。例えば埼玉県東松山市にあった武蔵松山城主の上田憲定の合戦前の兵の募集の制札には『夜走(よばしり)、夜盗はいくらでも欲しい』『侠気のある剛健なもの』『前科者、借財ある者みな帳消しにする』とあり、陰徳太平記という古典文学書では、『足軽など山賊盗賊でも嫌わず召し集める』とあるそうです。これらは、田村氏も忍者を雇っていたかも知れないということを示唆する文書ということができると思います。忍者は、身体能力に優れ、厳しい規律に律された諜報集団という面の他に、優れた動植物の知識や化学の知識を持つ技術者集団としての一面も持っていたと言われます。
何か田村氏と甲賀家との間を埋める接点はないものだろうか。そう思って、田村三代の治世を調べてみました、初代の田村義顕の生誕は不明、死没は永禄四年(1561)。二代の田村隆顕もまた生誕は不明、死没は天正二年(1574)九月六日とあり、三代田村清顕もまた生誕が不明ですが、死没は天正十四年(1586)十月九日とあり、甲賀家の墓碑の年代とは大きくかけ離れていたのです。すると甲賀家で言っていた『侍』というのは、田村家に仕官したものではなく、秋田氏に仕官していたことを言っていたのでしょうか。また疑問が増えました。
それについて、私は寺で分からなかったので、斎場と仏具店を経営する内藤忠さんを訪ねてみました。彼は職掌柄、町内のそういうことには詳しいのです。法事などでそのような話が出たかどうかを、知りたかったのです。彼は開口一番、「そうだよ。あそこの家は、甲賀流の忍者だった。」と教えてくれたのです。ただし今は東京に住んでいるので、詳しいことは来たときに聞いてくれることになりました。これ以上のことは分かりませんでしたが、皆さんはどう思われますか? これも歴史のロマンの一コマかも知れません。
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