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私をシステム屋だと思う人は殆どいない。普通に話をしていて、職業柄が出るものであるが私は、それが無いのか、自分で言わない限りシステムの仕事をしていたと思われた事がない。気さくに話しかけたり、聞いたりする。顔が若く見られて、締りが無い顔をしているのか、どうもオッチャンタイプに見られるのである。自分では、それなりに繊細だと思っているが、私と話す人は、繊細でなく、大雑把なタイプに見えるらしい。確かに、買い物に行っても2,3度行くと、気さくに話したりする。だから、自然に親しくなって、「今日は何がお勧め」等と聞くのである。良く行く魚屋では、私をお客さん扱いしない。最初の頃は、お客さんとして見ていたのであろうが最近は、お客さんとして見ていないのか、為口で話をする。私も、何故か一言多い事を言ってしまい、自分からお客だと思っていない部分があるので、相手もその様に対応するのであろう。これは昔からそうだったが、ただ仕事のしている時は誰も近ずいて来ない事が多かった。皆に言われたが、仕事に向かうと異様な雰囲気を出して居るようで近ずきがたいと言われる事が多かった。仕事以外だと、気さくに話をしたり、相手の年齢に合わせた行動を取ったりするのである。被災地に行っても同じで、仮設の若い自治会の役員さんと漫談的会話を繰り返していた。あの頃は震災当初なので、誰もが暗い気持ちであったと思う。その役員さんも、その気持ちを察して明るく振る舞って仮設の皆さんを少しでも、あの震災の苦しい気持ちから抜け出させようとしていたと思う。その相手が、間が抜けている私であったのだろう。手頃に話を合わせるし、相槌も返すので良い相手であった。私は、それで良いと思っていたし、自分は人としての気持ちを大切にしたかったので、本当にイジメでないかと思うくらい、毎回、私を取り上げて皆さんを笑わせていた。人は笑いの中に、多少なりでも救われる時間があると思う。だから、私が出来る範囲は、小さいけれど相手に多少なりの安心感を持って貰い、親しみを感じて貰う事にしている。ただし、本来のやって居た仕事関係は、自分のすべてを出したいと思っているので、其の部分は譲れないが今のままも自分を維持して、欲も無く、金も無く無欲な自分で居たいと思っている。人に親しまれるだけ、私は幸せであると思うし、それがあるから、被災地にも4年以上行って、家族同然に見て貰えるのであろう。
2016.03.31
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今、私は自分勝手な考え方で、高齢で介護に必要な方と被災地と知的障害の方との関わりを持っている。それぞれに状況が違うが、今後の問題点を抱えている。高齢化は進み、介護の必要な方は増えるであろうし被災地の高齢化も進み、過疎化現象で町自体も存続が難しい時期に来ている。同時に知的障害がある方でも、将来的な事を考えて行くと多少なりにも自立の道を模索すべきであると思う。幾度か知的の方と、宮城に行って講演を聞いたが知的障害の方と、介護関係で仕事を考えてとの事であったが介護の必要な方は、高齢者であり、障害のある方に対する考え方も、理解力が乏しい部分があるので難しいと考えた。ただ、あまり接触が無い場合なら問題も起きないであろうとは思うが、同じ施設内で、どうしても接触機会ある。その時の介護の必要な方の反応はと思ったり、障害のある方が、状況によってパニックをも考え見た。そこには多くの問題があると思うし、仮に問題が起きた場合は政策的には良い案であるが、無理があると思えるのだ。確かに、これからは高齢化により、介護の必要な方は増加の一途を辿る事は当たり前であろう。それが分かっているが、介護する側の人材不足も深刻である。今回の案は悪くは無いが、解決すべき問題点が多過ぎるように思えるし、互いに心理的な問題が起きうる確率が高い。私は介護の必要な方の、お手伝いも行っているが健常者の私でも手こずる部分が多いのに、果たして障害の方が、それなりに対応出来るか疑問があった。それは頭で考えた論理であるが、色んな面で経験から考えられる事ではあるし、関わる誰しもが考える事であると思うが、やって見る価値はある事である。確かに問題点は多いが、その問題点を多少でもクリアーしてやる方法は無いかを考えて見た。だが、これには、それなりの準備と資金や心理的要素が絡むそうであれば、別な部分で生かせる方法は無いか模索してみたいと思って、動いて見ようと思っている。四月中には、知的の方と宮城に行き、その後に南三陸に行く予定を立てて、何か別な部分を学んでこようと思っている。果たして、何が見えて来るか、何が問題点として私が考える以外に出て来るか、また、別な部分で知的障害の方の自立の道が無いかも模索してみたい。
2016.03.30
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安保法案が施行される事になったが、中東や欧米・アジアがそれぞれに、紛争状況になって来た。果たして、平和憲法を掲げている日本の先行きも分からない状況下である。これからは、日本も色んな紛争に巻き込まれて行くであろう。安保法案は、私達の学生時代にも、日本で大きな問題に成り若者が声をあげた。その時代が、逆流したかの様に、今、若者が声を上げ出した。私は、これは良い事であると思っている。政治家の劣化は平和ボケした国民にも責任があり同時に金を、ばら撒き行政を牛耳った官僚の責任も多大であると思う。だが、日本の経済事情は悪化して、立て直しも難しいのははっきりしているが、政治家と官僚は増税と言う名で国民に責任を投げて来ている。この状況下では、日本は貧困格差が激しくなるであろうし貧困層の増大は計りしれない状況になる事は間違いない。どう考えても、高齢化・少子化であり、それに対する予算は膨らみ、その膨らんだ分を調達する術が無いのであるから福祉関連の予算削減と国民に対する増税で切り抜けるしかない。また、国民も増税で生活が苦しくなるし、その為に子供たちに対する高等教育が出来なくなり、私達の時代の様に優秀な子も家族の為に働く事になる。今の政治家や官僚連中は、生活の苦しみを味わって居ないからどれだけ苦しいものかが分かって居ない連中であり金は自然に湧いて来るものであると思っているのであろう。その連中が、借金大国の日本の財政を健全化する等と言っても自分たちが模範を示して、国民にお願いするなら分かるが無駄な税金を使い、戯けた事を言う政治家や官僚では日本の発展は無いであろう。痛みの分からない人は、表面上だけで繕い、自己保身しか考えていないものである。それの代表が政治家であり官僚であろう。国民も、それを許して来た事に責任がある。政治家は、誰がやっても同じ、官僚は優秀な大学を出て居れば良い政策案を作ってくれるだろうと、相手任せにしていたツケが、今になって日本を崩壊に進めている事を気が付くべきであったが、それが出来なかったのが国民であろう。今、日本は多少なりの希望があるのは、若者が政治に関心を持って来た事である。今までの選挙では、中高層が投票していたが、その人達はシガラミで投票して、自己利益のオコボレを貰い受けて来ただけであり、本来の政治を考えて居なかったから今の劣化した政治家を作り上げたのである。これからの若者が政治を変えてくれる事に期待したい。
2016.03.29
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最近SNS関係を簡単に考える傾向が強いように思う。確かに便利な連絡網であり、色んな人達が見られて知らない人と知り合うツールである。そこに落とし穴がある事が、多い現象が起きている。単純に連絡ツールなど使うなら問題も少ないがそれを悪用しる場合も出て来る。これは一般的に判断が付かない場合が多いのである。人は、それぞれであるが、良い事に使うなり、営業的に知って貰う為に使うなら良いが、相手のプライバシーに入り込む方が居る。それは悪戯心である場合と、如何わしいサイトの為等悪用例は多くなって来た。普通に使う方は、その様は状況は想定しないで安易に連絡出来れば良いと思うので、あまり気にしないで使う方が殆どである。確かに気にしていたら、切りが無い事である。だが、目で見えない物が飛び交っているのでありそこには安全性を考えて行われているが、見えない事は安全性を強化しているが、抜け道もある事を自覚して使わなければならない。だが、そこまでは考えていないであろう。連絡が取れればいいや、使い勝手が良ければ、いいやになってしまうのが人の心理であろう。私も同様であるが、ただシステム関係の仕事をしていたので非常に敏感に反応してしまう。今までの動きと、多少の変化が生じると、何かが変わったかを追求し出すのが私である。これも仕事柄なのであろうと思う。前にも書いたが、基本的に私はコンピューターを信じて居ません。どうしても人が入り込み、使う立場や利用方法等では便利な道具であるが、ネット社会になると見えない情報が飛び交うのであるから、危険性が高まる。また、それを利用して悪用しようとする人も後を絶たない状況が増えて来た事も問題であり。私は悪用する側に対しては、必ず潰しに掛かろうと思っているしそれなりの対応策を高じるように努力しようと思って潰しに掛かります。それが私のシステム屋のプライドなのでしょう。
2016.03.28
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私が良く言うのであるが、身体が動けるだけ幸せであると。これは私が、高齢で介護が必要な方の、お手伝いを行っているからであろう。その様な方を多く見て来たから、自分が、これだけの年齢になっても動き、お手伝いや被災地にも行けるのであろうと思う。人は特に現場サイドを見ると、その現場の現状が見えて来る。そこから自分なりに、何が出来るかを模索すると思うのである。私も幾度か死と言う事を考えた事があるし、その様な状況になって、半分諦めが先行した事もある。だが、そこから立ち上がった時に、前にも書いたが自分は人に助けられた分、世の中で働いていないから神様が、働きが悪いから、お前はこっちに来る資格が無いと言って私を叱って居るのだと考えている。元来、私は仕事でも、必ず現場サイドを把握してからシステム設計を行っていた。現場が使えないのでは、システムは生きないし、生かせない。また、現場サイドの能力的な事も把握していないとシステム提案も出来ないので、必ず現場に入れて貰ってからシステムを構築した。その癖が抜けないのであろう、何か自分で行動を起こす時には必ず現場サイドを体験して意見を言う。だから私が文句を言う場合は、自分の知り得ない事には口を出さない事が多い。ただし、政治に関しては別であるが、国民としての義務があるから。人は多々にして、文句は言うが動かない人達が多い感じを私は持っている。文句を言う人ほど、いざとなると動かないで傍観する人を多く見て来た。動いて実態を知り、悪い所を直し、良い所を伸ばす事が出来るが実態を知らないで、頭で考えて文句を言う事には、私は反発したくなる。だが、多くの人達や政治家・官僚は現場サイドを見に行く時は選挙が近い時だけで、上辺だけ見て知った振りをするし意見を聞いたふりだけで、中身も知らないで自分は、やっていますという態度に、自分は一番腹がたつ。行政も同じで、現場サイドの問題点は、事が起きた時に動くが、表面だけで実態を把握しないで対策を作る事が殆どであろう。それは、こちら側からすれば、強い所には対応するが弱者には見向きもしない。所が現状は弱者を救うべきが、現場サイドを知らない為に表面的な部分だけを見て対応する。これが現実であると思うが、私は実行して文句を言おうと思って、走っているが、これも自己満足でやって居るだけである。私の基本的な考え方は、やって見て理解して言う相手がやらないなら、こちらがやって実行して実績を作って、認めさせるしか無いと思っている。これも自分では、オゴリだとは思うが、それが私らしさだとも思っている。
2016.03.27
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今回も高齢者で介護の必要な方の所に行ったが2時間以上、話を聞く事になった。どうも、2時間以上は、私にとってもストレスが溜まる事になって来ている。相手の方は一方的に話す方なので、私は相槌だけでありそれも辛い部分があると感じて来た。これも長い付き合いから起きる事であるが、自分なりの意見を言うのであるが、果たして可能な事なのか疑問に思う事も言い出す。昔の私なら反論しかねないであろうと思いながら聞いている。ただ、私は聞いてから、自分の意見を言う事を若い頃からしていたので、聞くだけは聞くのである。高齢で介護の方は、どうしても外出機会が少ないので話し出したら止まらない傾向があるのは分かるので聞いてあげる大切さもあるが、それも時間的に多いと私のストレスになる部分が出る。私程度の時間帯でもストレスが溜まるのであるから介護士さん達のストレスは大変なものであろうと思う。今回の三名の方を殺した罪で、若者が逮捕された事や夫婦の方が介護をしている方を殺してしまう事件が多くなったが、ストレスからであろうと思う。人間は自由が利かなくなると、我儘が出て来る事が多い。最初の頃は、それも処理できるが、介護する側がストレスが溜まると、ストレスの捌け口があるなら柔がれるが、無い場合は相手に向かってしまうであろう。この様な問題は、これからは多く起きるであろうしこれからはもっと増えるであろう。高齢化が進み、日本の家族に対する考え方が変わって来た今は、その様な事件も起き、また貧困格差が広がると介護家族に対してのストレスが増大して行く事ははっきりしている。政府が一億総活躍等と言う前に、もう少し介護を行う人や介護を受けている人達の為になる事をやるべきであろう。今回の川崎に事件を、単なる介護を受けている人が殺されたと言うのでは無く、介護する側の立場も分析してそれなりのストレス解消出来る方法や報酬を考えるべきである。また、私達も殺された方を重点に見るが、それに及んだ実態をも見てやるべきであろう。確かに殺人であるから問題はあるが、この様な事件は殺人を起こした方の心理も考えて見るべきであると思う。
2016.03.26
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私の性格なのか、何かに打ち込むと、その状況では、誰しも問題が多いとか、無理があると言う事に、挑戦したい気持ちになる。私の考え方は、問題があるから挑戦して、問題を少なくして、やって見るべきであると思うのと、無理であるが、無理を超える方法論を探し出すと、そこには新たな物が見えて来ると思うのである。確かに問題がある場合は、回避すべきであろうが問題を解決する事を考えて行く中で、違う方法論が生まれると言う事は幾度も経験して来た。また、無理である事も同様で、そこで立ち止まってしまうより向かって見て、色んな事を模索する中で新たな物も生まれる。問題や無理な事をやるより、今まで通りの事をやる事は安全だし、安定しているであろうが、進歩が生まれないと私は思うのである。確かに私が考えても、問題があり無理であると思う事がある。だが、それが少しでも、やって見る価値があるなら色々な事を考えて見ると、違う見解や方法が出て来るしそれをやる事によって段階的に修正出来る事もある。何かを発見するのは、意外と失敗から出て来る事が多い。それは失敗した事によって、思考錯誤して行動を起こすからでその行動を起こさないと、何も出て来ない事が多い。良く言われるが、失敗を恐れるな、失敗から生まれるものが大きい事が多いと、むしろ簡単に成功すると人の考えを止まらせると思う。人間を成長させるのは失敗が大きい。だが失敗を反省して、さらなる挑戦を行う事が必要である。成功は、それなりの人に与える自信にはなるが、それを継続して行くと、人は怠慢になる事が多い。怠慢とは、成功に酔いしれて、自分を見失う事が多いと思う。山に頂上があり、最初は登るが頂上に立ったら下りである。登りは成功に向かいながら、テッペンを目指すが必ずや下りがある事を人は忘れがちになる。そこには人のオゴリが出て来て、成功に自分が酔いしれているからであろう。だが、必ずや成功ばかりでは無い事を知る事になる。その時が早いか、遅いかであるが、成功を経験すると自分を過信し過ぎて、次のステップを考えるのが遅くなるのが人間の様な気がする。その繰り返しが、若い頃であり、それによって人は成長するのであるが、若い頃は気が付かないのであると思う。私も若い頃は、自信過剰な所が大きかったと思う。それが自分の糧になった部分があるが、ある程度まで行くと自分を見失う事もあった様な気がする。其の事に気が付くのが遅かった事が幾度もある。それでも自分なりに成長したと自負していたが今振り返ると、成長は自分を鼓舞出来るが、そこには失敗と言う事に反省して、向かって行ったから成功があった事だと思える。だから、私は前に向かいたい。人が無理、問題ありと言っても、それは私に取ってはヒントをくれたと思って、考えて思考錯誤する事にしている。無駄でも良いから、やって見て、そこから何かを得られればと思いながら、挑戦してみたいと思っている。
2016.03.25
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ベルギーのテロ事件を日本の報道機関が放映しているが他国事の様に報道するが、日本もテロが起きる可能性がある安保法案が制定された事を関連づけては、報道しない。今は、テロは欧米で起きる事が多いのであるが、日本が今回の安保法案で、自衛隊がアメリカ諸国の援軍に行くようになれば、テロ組織は日本も敵国と見なしてテロが起きる確率は高くなる。今の政府はアメリカが右と言えば、右を向き、左と言えば左を向く政府であり、政権与党の政治家がアメリカの51州目が日本などと言う暴言を吐く人まで居る。その様な考え方の政府であれば、アメリカが中東で戦線に加われば日本も自衛隊を出すであろう。同時にそうなれば、相手側は日本も敵と見なすのは当たり前であり敵と見なしてテロを起こす対象国になるであろう。これは誰が考えても分かる事であると思う。前回はフランスで、今回はベルギーでと、民間人を巻き込んだテロ事件であるから、テロを起こした組織に対しては許す事が出来ないが、その状況を作り上げて来たのは、他国の利益の為に介入して起きた部分も強い。今や地球は多民族が、あらゆる国に住む時代であるし住む国では生活の為であるが、人間である以上は生まれ育った国の思想や習慣は消える事が無いであろう。日本は戦争を行い敗れて、アメリカの援助を受けて経済大国になりアメリカナイズされて来た。だが、今までの経過で日本も経済的に世界で通用する国にはなったが、その中で平和主義を貫いて来たのである。戦後70年以上経ち、日本の経済的に世界に貢献して来たのは敗戦と言う経験があるからであり、その経験が平和憲法を作り戦争放棄を行って来た。それなりに世界でも認める憲法の元で、私達は暮らして来たのである。だが、今回の安保法案で戦争加担国になる道を作りだし戦争を行うに近い行動範囲を広げて行こうとしているのが今の政府であり、与党である。本来なら日本は中東等で、平和憲法を持つ国としての貢献が出来る方法を模索すべきが、それを破棄して加担国の道を選んでいる。日本は独自の平和主義で貢献を行う努力もしないで、日本国民をも不安に貶める道を進み始めたのであろう。国民も、もう少し意見を言うべきであるが、それが出来ない国民性なのか、政治家の遣りたい放題の道を辿りテロの脅威に曝されて行きのではないであろうか?
2016.03.24
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前にも書いたが、私は写真が嫌いである。どうも、写真顔は自分のイメージと違っているのである。だから写真を撮ろうと言われても、逃げ回る事が多い。自分から進んでは撮らないし、撮られたくないのである。確かに自分はイケ面では無い事は自覚している。おかしなもので、人は歳を取る毎に、その人の性格が顔に出るように思う。特に。私が感じるのは、女性は顔に性格が出る人が多いように思う。性格がキツイ人は、それなりに厳しい顔をしていると感じる。男性も同じなのかもしれないが、性格が歳をマス毎に顔に出るように思うのである。私の場合は、誉める所が無いので、誉められるのは笑顔が良いねであるが、確かに八の字眉毛なので笑っている顔に見える事は自覚している。若い頃は、何ニヤケテル等と言われたが、私はニヤケテルわけでは無いのであるが、その様に取られるのである。年齢と供に、その事に関しては、どうしようも無いので諦めて意識しなくなった。意識しても治らないのであるから、そのままの自分を出せば良いと思うようになったのである。最近は特に色んな面で、「顔に出てるね」と言われる事が多い。前は仕事が机に向かっているのが殆どなので、対人関係は少なかった。それが仕事をしなくなってから、人と会う事が多くなり色んな関係の人達と接する機会がある。その時に言われるのが、笑顔が良いねであるが、これは私に対する誉め言葉である事は分かっているが、それ以外に無いから言うのであろう。また、私はあまりクヨクヨしないタイプで、あっさりしていて人との対応もザックバランに接するのか、相手から話しかけられる事が多いし、自分からも気軽に話し掛ける事が多い。どうも私はIT関連の仕事をして、緻密な事をやって居たよう見えないようだ。自分でも思うが聞かれると言うが、単純なその辺のオッサン行動が自分の地であると思っているので、気軽に話しかけるし相手も私の顔を見て、警戒しないのか対応してくれる。その面では、私は得な顔をしているなと自分で思っている。確かに、この歳になってモテたいと言う気持ちは無いが好かれたいと思う気持ちはある。人に嫌われるよりは、好かれる方が良いとは思うがその反動で、パソコンに向かって何かをやり出すと人相が変わるのであろう、その時は、あまり人が寄りつかなくなる。でも、一番自分が楽に感じるのは、気軽に話している自分である。それは誰しもが持つ、人間としての面なのであろう。
2016.03.23
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私の性格なのか、育った環境なのか、仕事でのやり方だったのか分からないが、一つの事をやり出すと完成するまで熱中してしまう。これは良い時もあるが、悪い時もある。今はIT関係の仕事からは離れたが、家では毎日の様にパソコンを使いネットを行う。ネットに関しては仕事柄、初期の段階からやっていたのである程度は普通の人よりは、こなすであろうと思っている。長くやっていると、ネットの問題点も利点も分かるようになる。それは経験を積み重ねるからであるので、誰でも出来るであろう。コンピューターのシステムを生業として来たのでネットで起きる問題点に関しては、パターン的な考え方をするのが私であり、その問題点を解決しなければ気が済まない。だから他人に頼まれる事が多くなる。私は一度手を出すと、それの完結まで進み、なお且つ次のステップを自分なりに先読みする傾向がある。システムをやっていると、処理出来るまでで終了であるが私の場合は処理出来たら、次の段階の進む場合の事を想定して、その処理が出来るようなシステムを作りたいと思ってしまうのである。これは人間の欲望と同じで、最初の目的が達成されたら次の欲望が湧いてきて、現在の事で満足しないのと同じである。それを最初の欲望が出来た途端に、次の欲望の事を考えるので先読み傾向の性格である。これは自分で自分を追い込む事になりかねないのであるがこの性格は治らないのであろう。だからネット等での問題点が起きると、それを解決するが次の問題点を想定してしまい、熱中してしまいある時は煮物をしながら、パソコンをやって居て鍋を焦がして、警報探知機が鳴るまで気が付かずに部屋中に煙が蔓延していた事があったりする。今さら、この性格は治る歳でもないし、諦めているがただ、ネットを悪用している連中だけは許す事が出来ないので私は、その連中を潰したい気持ちが強い。
2016.03.22
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最近、政治家の失態が多く見受けられる。それも大臣クラスが、失言や失態をやっていたり、大臣経験者が、携帯や本等読む行動を堂々と政治の場で行っている。この連中は、誰の為に働き、誰から給与やその他の諸経費を貰い受けているのか分かっているのであろうか?仮に私が仕事場で、あの様な行動を起こしたら、馬鹿者と言われるであろうと思うし、仕事をしろと叱られるであろう。だが、政治家の先生方は、私達は国民の為に働き過ぎるくらいこき使われているのだから、あのくらいの事でメクジラ立てるなと言いかねないであろう。まず、政治家が、あの程度の事しか出来ないのであればその辺の天然的な子供でもやれるであろう。それ程、日本の政治家が劣化したのと、日本の教育水準が低下して来たのであろう。今や日本は海外先進国の仲間入りした事によって日本独自の良さを捨て去り、欧米化を真似して対象国を先進国にして来た、ツケが出始めたのであろうと思う。明治維新で日本は海外の文化や様式を取り入れそれが良いものであると言う考え方で進んだ。これは鎖国時代から、開国への道であるから仕方が無いがそこには日本の伝統的な物を排他した部分があった。これは新たな日本を作る為の道であったと思う。それはそれなりに間違いではないが、第二次大戦で敗戦国になった日本はアメリカに従い、国民全体が海外を模範にしようとして突き進み、日本は経済大国までのし上がった事は間違いない。それは間違っていないが、そこには日本の良き伝統や風習を置き去って来た事による反動が出始めたのであろう。それは教育にも出ている。今や教育者は官僚の作ったレールを走り、それからはみ出すと弾き出されてしまうので、そのレールに乗る教育にしか出来ない。その為にサラリーマン化した先生であり、教育者としての尊厳は失われたのである。これは教科書を取っても分かるように、省庁の管理下である。その様な教育を受けた人達が政治家であり、日本を治めているのが官僚である以上は、レール基本人間が、レールを引くのであるから日本は変わる事は出来ないであろう。あの政治家の行為(本や携帯)は、今の学生が授業中にやる事と同じ光景に見えた私である。
2016.03.21
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最近思うのであるが、一億総活躍などと政府が旗揚げしたが日本の人口状況を把握しているのであろうか?高齢化が急速に進み、地方の過疎化が進み、少子化に成り年金にも期待出来ない状況、同時に高齢者の働く場所など無い状況下で、こんな省庁を作り無駄な税金を使うなら福祉と高齢化に対して、資金を出すべきであろう。まず政府は基本的に、状況把握が出来ていないのが問題であるし官僚も問題把握が出来ていないのと、縦割り体制の自己防衛で思い付き政策案を作成しているだけであろう。私は本来、政治家や行政を信じていないし、彼たちは現場を把握して言っているのではなく、聞いて見学して案件を作成しているだけであり、それを政治家が代読を行っているのであると、私は思っている。前記した、どちらも金を動かす事で解決すると思いその金の動きに、必ずや利権が伴う。これは経済の仕組みであろう。だが、その金は国民の税金である事を忘れ、何処からでも湧いて出て来る感覚なのであろう。湧いて出て来ない場合は、国民に増税をさせて作る事しか考えていないし、自分たちの腹は痛くならないので自分たちの選挙や給与に関して、好き勝手な政策を作り上げている。政治は誰が主権者であり、誰の為にやるかが分かっていない人が、殆どの政治家であろう。これからの日本は経済的に世界でも低くなるであろう。そうなると貧困格差が広がり、国民の不満は増幅する。国民も格差が広がる事によって、政治に対して不満を持ち政治に関心を持つ事になると思う。今までの国民の政治に対する無関心さでは、日本の政治家は遣りたい放題であり、数の論理で押し切り、官僚は政策案を作るが実態と伴わない、経済界の言うが、ままの政策であった。私は幾度かブログにも書いたが、日本の政治の劣化は国民に責任があると思う考え方である。日本の経済発展時に育った人達は、発展していた時期に育ち発展までの苦労を知らないが為に、自分に火の粉が掛からない限り誰がやっても政治は同じ、自分たちは苦しくないのだから今が良ければ、それで良しの考え方が日本国民の殆どである。だが、これからは自分たちに火の粉が掛かり始めそれで政治に対して、改めて見直す事になって行くであろう。そうして行かなければ、今の日本の政治体制は変わらず国民に負担が大きくなるであろうと思う。
2016.03.20
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最近話題になっている、人工知能(AI)が、囲碁の名人に勝利したと言われている。AIは、今までは基本的にはデータを蓄積してそこからパータン選択が考えられていたのであるが今回のデータ蓄積では無く、コンピューターにパターンを自作的に覚えさせるようにして、複数台のコンピューターを使われたようである。AIはIBMが先行していたが、今回のはGoogleが考えたAIである。今後はAIは色んな面で出て来るであろう。前にも書いたが、AIが最初に騒がれた数十年前に学会に入りAIの良い点を多少学んだが、あの頃はハードがそこまで進歩して居なかったので、一時的な騒がれ方で終わった。AIは基本的には人間の脳を意識したものであり、それをコンピューター化する為であった。だが、今はハードも進歩してメモリーも階層段階になり記憶装置も大きくなったので、これからAIは進むであろう。前にも書いたが、AIに人が依存傾向が出て来る事は間違いないであろうし、工場や自動車・機器類もAI化が進むようになると、人間の変わりにAI搭載機器が稼働する事が多くなる。人間はあくまでも稼働状況の監視役だけに成りかねない。そうなる事は近い将来であろう。AI機器になると、人間と違い集中力が関係無いので長時間稼働も出来るが、人間は集中力には限界があるので間違いも起こりやすい事は確かであろう。私は工場等でAI機器を使われる事は時代の流れでしょうがないとは思うが、そこには人間の労働力も奪われる事になるであろうし、人間の考える能力低下が起こるであろうと思う。これは時代の流れであると思うし、人間が求めて追求して来た事でもある。だが、前にも書いたが、人間の思考能力の低下にも繋がる。AI機器の依存度が高まると、人は、それに頼り考える事をしなくなり、使う事が当たり前であると言う、考え方になる事は間違いない。今やIT機器に依存している人が殆どであり、1度の設定で使う事が出来るので、色んな面で依存している。人は依存して、自ら考えないようになる傾向が出ている。特に若者は依存傾向が強いので、思考能力や判断能力の低下は避けられない事になりかねない。もしAI機器を教育現場で使用した場合は、人間教育の低下は避けられないし、人としての愛情表現力も無くなりかねない。AI機器に教えられた子供は、末恐ろしい大人になり人道的な部分が欠落しかねない事であろう。
2016.03.19
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昨日、何時もの高齢者のお手伝いに行ったのであるが今回は、高齢者の方が今後の為にやりたい事があるので点字図書館に同行する事になった。高齢者の方が外出の場合は、付き添いのヘルパーさんが付く私はあくまでも、同行して高齢者の方の要望内容を色々解釈して機器の使うソフト関係とそれを使う状況を教えてあげる為である。所が付き添いのヘルパーさんを見た時に、何処かで会った事があると思ったのである。私は何回か見た事のある顔なので、同行している時に話をしていたら、その方は双子であり、兄弟が居ると言うのである。それで名前を聞いたら、私が病院に車イスの付き添いをしていた方と同姓なので、聞いてみたらその方の弟さんである事が分かったのでる。その方は、最初は都内で無く、千葉に住んで居ると言っていたので見た事があるが、違う方であろうと思っていたが私が車イスで病院に付き添って居る方の弟さんである事が分かりこんな事もあるのだと驚いた。本当に顔が瓜二つであり、多少、私が付き添って居る方の方が体格が良いくらいであり、今は大学病院に入院しているので付き添いはしていないが、危惧な事が起きたのである。付き添っている方は、奥さんに先立たれて脳梗塞に成り偶々、お子さんが泊りに来ていたので、発見が早く助かったが、そうでなければ亡くなっていたと聞かされていた。その方は病院でも複数の診療を受けていたので長い時は5時間くらいかかったりもしたが今は入院生活をしているので、私の付き添いも無くなった。今回は偶然に私が関係していた方の親族と会ったのである。その方の弟さんがガイドヘルパーを、10年以上行っているそうである。今は千葉の田舎の方に住んで居るそうでありが本当に偶然とは面白いものと感じてしまった。結果的に高齢の方と三人で外出と言う結果になったが別な部分で、私のお手伝いしていた方の弟さんと遭遇した。その方も言っていたが、ヘルパーの依頼が来ると下調べを行うそうである。何処の位置に電車で降りた場合、エレベーターの位置があるかまた、希望する所までの道順を調べるそうである。私も始めてのお手伝いの場合は、地図を貰い自宅から自転車でどの位の時間が掛かるか、必ず調べるがその方も同じであるが、外出ヘルパーの場合は電車や駅の状況を把握しなければならないし大きな駅なるとエレベーターの位置等も確認するので大変であろうと思う。今回も乗車位置やエレベーターの位置等を把握していたのでスムーズに行動が出来た。その面では、私なりに学ばせて貰ったし、私も、もう少し気を使いながら、学んで行こうと思った。
2016.03.18
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講習は無事終了して、三年更新との事である。果たして私が体力的に三年持つか分からないが更新は三回に別れていて、自分の都合の良い日を選ぶのであるが男性は私一人で、後は女性ばかりであった。確かに介護が必要な方のお手伝いは女性が向いているのかも知れない。男性が少ない事は確かあり、力仕事は私達男性に廻って来る事が多いのであるが、どうしても女性の方が対人に対しては柔らかいので向いているのであろう。今後は、介護認定が1、2の方が、介護保険の予算が無いのでヘルパーの方を頼めない事になり、私の住んでいる地域は4月から、それが始まるので、今後は要請が多くなるとの事である。私は、今回は更新を行う事を迷っていたのであるが最終的に社協に押し切られて更新を行ってしまった。私と社協の考え方に多少の隔たりがあったので、私自身は果たして、このままで良いのか疑問を感じていたのである。私の住んでいる地域で、この様に行われてから数十年が経っているので、色んな問題が起きているとの事である。また、担当の方も若い方が多くなり、それによる判断力の差が出て来て、別な部分で便利屋さんになっている事もあり得た。これは経験や行政との兼ね合いから、問題が起きている事も確かであるが、これから介護認定が厳しくなると判断基準が難しくなるし、私達の様な人を使う事は多くなるであろう。そこで問題が起きうる事は多いし、私達がお手伝いする方の生活状況をしっかりと把握して行かなければ、便利屋化に成りかねない。今や高齢化で一人暮しの方が多いが、近くにお子さんが住んで居ても親に対する簡単な事は行うが、面倒なことや汚れる事等はしない方が多いし、その様な事は私達に頼むと言う事もあった。その様に親子でありながら、自分では面倒を見ているが面倒な事や汚れる事はやらずに、私達に頼む傾向が強くなるであろう。その判断が社協で、どの程度出来るかが、今後問われるであろう。ただ、行政側も介護認定が低い人に対しては、社協側に要請して来る事が多くなり、また、その様な方を担当する人も多くの担当数を抱えて、判断が出来ない事多くなると思う。日本の高齢化対策は、今や破綻的要素が強くなりつつある。これからも政治家が言っている福祉に関しても問題は広がるだけで、何ら対策等は行っていないも同じであろう。今の政治家や官僚は、先を見越した政策を行う事が出来ない連中であり、其の場限りの対策を行っている為にこれからも高齢者や貧困に対する問題は広がる事は目に見えている。悲しいかな、これが日本の現状であろう。地方はもっと深刻化が進むであろう。
2016.03.17
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私は何時も何かを求めて居たいタイプである。興味が出ると、それに向かって行くが、そこには失敗や成功が必ず付いて来る。成功は私を成長はさせるが、学びは、増長が先に出る事が多いように思う。むしろ失敗が自分を成長させてくれることが多い。だが、挑戦する以上失敗はしたくないので、それなりに考えて行動をする。その考えは自らの、今までの失敗の経験を踏まえている事が必要であると思うし、それが無ければ人は成長しないであろう。誰しもが行動を起こした以上は、成功したい。成功には、今までの失敗の経験が生きているはずである。ただ、歳を重ねる毎に自分なりの失敗や成功を見返す事が多くなるし、それを経験として生かそうとする。だが、そこには固定観念で考えてはいけないと思うのである。どうしても前の失敗を固定的に考えて、それに対する反省がなされないで、失敗経験が先行するからである。これは多くの人が、当り前に行う事であろう。その当たり前も、自分の失敗を反省して自分なりの修正を行ってこそ生きるのであるが、失敗がトラウマになっては失敗を生かす事は出来ない。私も多くの失敗を重ねて来た。重ねる毎に、自分なりの反省をしているが、まだ反省途中である。反省が無ければ人は自己本位の考えで進み、そこには人としての進歩が無いように私は思うのである。また、反省しながら同じ事をやり、自分の失敗を見返す事によって自分の失敗の原因を突きとめる事が出来るのであろう。私の若い頃に仕事をしていた時に、部下に言っていた言葉がある。同じ事を、三度間違いを起こしたら、「馬鹿」と言う。同じ事を三度間違うと言う事は、反省が無いからだと言う事が私の考え方であった。人であるから失敗は必ず起こすし、それで人は成長する。成長する為には、失敗をした場合に反省があるからだと思う。また、失敗は人を学ばせてくれるし、次の新たな自分を作る事が出来るし、新たな事にも挑戦する事も出来る。それは失敗を恐れていては、尻込みしてしまい新たな挑戦が出来ないと思うので、私は失敗は学びでありそれによって自分が成長したと思って行く事にしている。どうも気持ちと年齢が反比例している最近の私である。今日の高齢者の方の、お手伝い更新講習でも、何か失敗を行うであろうし、そこには自分の経験から感じた事を一言多く言いかねない。だが、それも新たな前進だと思っているし、前向きに進める為の自己満足と私は捉えている。
2016.03.16
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私は新たな事を模索し出した。その為には、自分の出来る範囲を狭めることになるであろう。明日は社協の関係で、高齢で介護の必要な方のお手伝いの更新講習であり、翌日が何時もの高齢の方の所に行く。そこまでは、今まで通りに行動する事になるが、新規に社協側からの要請で、高齢者の方に対する対応等の方策を考えて行く事になると思う。同時に私自身も高齢なので、何処まで動けるか分からないが来月には南三陸に行く事に予定している。これからは自分なりに考えて、行動を起こして見るが今年最大の私の行動は8月に行うであろう。それは自分自身に対する最後のイジメかも知れない。どれだけ自分が出来るか、なお且つ、これからの自分にどれだけ自信が持てるかを試す事になると思う。今、自分が動ける幸せを、尚伸ばして行きたし自分の可能性を試してみたい。前にも書いたが、8年前に大腸がんで手術をしている。癌と分かりながら、病院にも行かず、その時は死をも覚悟していたので、自分に諦めがあった。だが、幸運にも転移して居なかったのであり、それからの自分の生きているのは得をした感じである。だが、その後に胃に影があると言われて、ショックを受けて、新たな自分を探す行動に出たのである。その胃の影も消えて、再度、海外に被災地にと行くようになった幸福な奴なのであろう。だから私はこう考えている。「お前は世の中で良い事もしていないし、人に迷惑ばかりで何もしていない、だからこちらに来る権利はない、働いて権利を得てから、こちらに来い」と神様が言っているのであろう。その神様も私は信じていないが、困った時だけは神頼みするがそのわりには、神様は冷たく、私にはお金と言う物を頂けない。働くのだから、お金が欲しいが、それとは縁が無いのである。それでも私は動けるだけ幸福なのかもしれない。これからは、私なりに自分自身を見つめ直して行く事にして行こうと思う。
2016.03.15
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あの災害から5年が経ち、多くのメディアが災害時の画像を放映していた。SNSで海外メディアも報道していたが、その画像を見て思わず泣いてしまった。私は災害時には石巻に行き、次に南三陸に行ってあの悲惨な状況を見て、南三陸に4年以上行っている。人間は自然には勝てないであろうが、人の心まで傷つけて流してしまう様な光景である。あの画像を幾度も見たが、見る毎に涙が出る。人間が作った物や、人が流されて行く虚しさと悔しさが、あの災害を恨む気持ちになってしまう。人間の自然に対しての弱さが、あの災害で見えるように思うし。自然界の恐ろしさを見せつける、津波の大きさは人間が立ち向かえない何か大きな力がある。多くの人達が親しい人達を亡くし、その悲しみから立ち直ろうとしている姿を、私は現地で見て来た。私は、その様な被災者の方の姿を見せて貰い私は逆に被災者の人達から多くの暖かい気持ちを貰い私自身の鋭気も貰ったように思う。被災者の方は悲しみから立ち直ろうとしている中でも私達に笑顔を与えてくれた。あの笑顔の下には、悲しみが詰まっているのであろうがその悲しみを見せないようにしている姿は私にとっては有難く感じる事が出来た。私は、今でも南三陸に行くが、私を温かく迎えてくれて海の幸を振る舞ってくれる。私達はお手伝いに行っているのでは無く、逆に被災者の方から、色んな面で学ばせてもらっている。それは都会の冷たさで無く、人としての温かさを与えて貰っていると感じるのである。あの災害で仮設に住みながらも、私達に笑顔を与えてくれるのは自分たちの受けた苦しみを感じているからなのであろう。人は苦しみを味わってこそ、人に対しても優しくなれるのであろう。言葉で「大変だったでしょ」と言っても、それは人間としての、実感が籠っていないと私は思う。自分たちは、苦しみを味わって始めて、その苦しみが分かるのであり、相手の気持ちが理解出来るものであると思う。私が行く時は、仮設で寝泊まりさせて貰う。4年以上行っているが、一度も宿泊施設に泊った事は無い。それは、少しでも被災者の方と同じ目線で生活したいのと最初に南三陸に行った時の、仮設での、あの寒さを知っているからなのである。あの時は幾度も夜中に寒さで目が覚めた。被災者の方達は、あの寒さの中で耐え忍んで来た事を私自身も感じたから、私は必ず仮設に泊る事にした。だから、南三陸に行って一度も布団で寝た事がない。それも来月に行こうと思っているが、仮設も集約され私の知らない方も多く居るので、どの様にしようか迷っている。今や被災の方は、高台移転で家を建て、災害住宅に入居したりで仮設住宅から移動されたのである。被災地は高齢化が進み、仮設で互いに受けた災害が同じであり互に味わった経験から、助け合う気持ちもあったがそれが離れ離れになり、孤独感を感じる方が多くなりこれからは個々になる事によって、精神的な支えが無くなり被災の悲しみが、これから考える事になるだろう。これからこそ、その方達のホローを行うべきであろう。
2016.03.14
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最近の自分は行動を起こして居るのであろうか?自分に問う時がある。この問いは、自分自身でも分からない時が多い。人は自分自身に問う事によって、自分を見つめ直すのであろう。私の今まで生きて来た年数は、自分を問いながら生きて来たように思えるのである。人は、そんな物なのかもしれないと自分に最近は言い聞かせている。だが、そこには又もや、問う自分が居る。問いただしても、自分が見えて来ないのである。見えないが、最終的には自分自身で決定して、実行するしかない。実行する場合は、そこには自己責任が伴う事は確かである。自分が行ったいり、関わった事は必ずや自分の意思で動いているから、自己責任がある事は間違いない。それは他人から見ても、自分に過失が少ない場合でも問題が起きた場合は、私自身の責任から逃れる事は出来ないと思っている。人の生き方は、それぞれであるが、何らかに関わった場合はそこには自分が居るのであるから、自己責任は発生する。だが、多くの人達は、その責任から逃れようとするし他人に、その責任の多くを付加させようとする。私も同様であろうし、問題から逃げたいと思うのが人間の本能であろう。人は多くの人達と関わると、それだけ問題は多くなる。これは人が生きて行く道では、仕方が無い事であるし人は個では生きて行けないのであるから、当たり前であろう。だが、それなりに多くに人達の意見をまとめて押し出されて行く場合がある。その場合は、自分個人の責任範囲を超えて、多くの人達の声を反映させる責任が出て来る。今、日本の政治家で、どれだけ多くの国民の声を反映させるだけの人が居るか疑問に思う。今や政治家は選挙と利権を考えて、行動しているだけで選ばれた責任等無い人が多いし、その様に政党も数を揃える為に名前が通った人を公認して、政治を行っている。今の政治家の劣化は、私からすると、その辺の天然性の強い子供たちが、日本の政治を論議して、選挙と金を目的に活動しているだけに見えるのである。現実の国民生活等は、二の次であり、選挙が近くなるとパホーマンスだけは、国民の苦しみを分かっていますと言い行動や政策を打ち出すが、選挙が終われば、その責任は何処に行ってしまい、金を目的にした企業に媚を売るのが日本の政治家であろう。ここまで、私も歳を重ねたが、これ程の政治家の劣化は見た事もないし、国民の税金を無駄遣いしている輩にしか見えないのである。選んだ私達も日本の国民性なのか、このままだと日本はあの無能政治家を国民が食べさせ、借金大国の道を突き進み、将来の子供たちにツケを残すだけであろう。国民がもう少し考えて行動し、政治家や官僚に対する責任を追及すべきであろう。明日と明後日は、自閉症の方と宮城に行きますのでブログは休みます。
2016.03.11
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最近は被災地に行ってないが、4月に行こうと思っている。SNSでも被災地の友達と連絡を取ったりするが、電話も掛かって来る。あちらは寒いので、年齢と供に寒さに関しては弱くなった。また、前は1か月毎に行っていたのであるが、最近は地域の高齢者の方に、多少振りまわされぎみであり行く暇も無かったりした。自閉症の子とは宮城には行くのであるが、南三陸まで足を伸ばすまでの体力が無くなったのと、裕福で無い事もあり、そこまでは行けないのである。今月も、また自閉症の子と宮城に行くが、帰京したら高齢者の方との接触が待っている。本当に最近、思うのであるが、これだけ自分が動けるだけ幸せであると思う。また、自分の考え方で行動できるし、自分なりの意見も言えなお且つ、色んな事が学べて居るのであるから自己満足をしているのである。私の行動は、あくまでも自己満足でやっている事なので何があっても責任は自分で取らなければならないと思っている。他人から見ると、物好きであると思われるかもしれないが今、関わっている人達から、私は学ばせて貰っていると本心から思っている。人は学ぶ気持ちが出て来ると、行動的になる。私も今の気持ちが若い頃に持てたら、もっと利口になったと思えるが、それが分かるようになっただけ、歳を重ねたのであろうと思う事にしている。私の行動力は、高齢者の方や自閉症の方からの原動力で成り立っている事は間違いない。それを生かすも殺すも、私次第であろう。ただ、自分が、もう少し若い時に気がついたらと悔やまれる事があるが、私の辿って来た道の中から今の自分の気持ちが生まれたのであるから、それは、それなりに自分らしさが出て来たのであろうと思うのである。人はそれぞれであり、歩んで来た道は違うのであるから誰しもが分からない事があるし、それで良いと思う。私も自分勝手に行動しているだけで、他人に押し付ける事ではないし公に出す事でもないと思っているので、ブログには書くがこれは私の行動記録であり、自己反省や新たな喜びの感想を振り返る為に書いている。時々、政治に怒りを感じて書く事もあるが、それは自分の気持ちを表現して、怒りを吐き出して居るのである。人は学ぶと言う事を感じた時に、行動的になるのであろう。私は高齢者の方から学ばせて貰っているし、学ぶと言う気持ちを持って貰い、行動的に動いて貰いたいと思う。これは自分も、その様な気持ちから行動的になっているので高齢の方が学びたい気持ちを引き出す、お手伝いもしたいと思う気持ちで接している。その気持ちを引く出す事が出来ない場合は、私の勉強不足でありもっと自分が学ばなければならないと思うのである。こんな生意気な事を考えながら、行動している自分である。
2016.03.10
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今、私は自分自身の考え方を模索している。個で動くタイプである私は、自分なりに行動を起こした場合はそれには責任が付きまとうと考えている。仮に私が言う事が正論であっても、そこには組織体があってそこからの要請で動く以上、そこの制約に従う。これは会社に、勤めていので当たり前であると思っている。前日に書いた訳も分からない事を小言で書いたが組織体での活動は制約があるが、そこには柔軟性も必要と言う私の考え方を書いた。現代社会に於いて、マニュアル化は当たり前でありそのマニュアルで動く事が一般的に成り過ぎた傾向がある。確かにマニュアル化のメリットは大きいし、それによって効率化も計れる事は認める。現代社会はマニュアル化が当たり前になった。私もシステム関係の仕事を長くやっていたのでマニュアルを作成していた。これはコンピュータの世界では当たり前であり、それが無ければシステム操作が出来ないからである。これはシステムや機械的な操作を示しているので必要不可欠なものであるが、対人関係に対しては組織としてのマニュアル化は基準として必要であり行動的要素でも必要であろう。だが、システムや機械的要素のマニュアルと異なる事が多く発生する事は間違いない。人は、それぞれの考え方があり、それぞれに行動を起こす。確かに道徳的な事に関しては、それなりの規約を教える事は必要であるし、それが家庭や学校等でマニュアル化する事は分かるのである。だが、一般的に組織としてマニュアル化した事は対人関係では通用しない事が多く発生する事があるのとそれを行う人の生い立ちで受けた教育等で変化が必要な事が多いのである。これは特に雑多な事が発生する人間関係では、それがある。それをマニュアル範囲では出来ない事も多いのが人間社会である事は、多くの人が経験しているであろう。私は人間関係のマニュアルは基準であり、それは基準として作る事は必要であるが、想定外の事が発生した場合にそれなりの別途の事も考えるべきであろうと思う。どうも最近の若者たちは、マニュアル動向が目立つマニュアル以外の事は、知りません、やりませんの世界になっている。これは、家庭や学校での教育も問題があるが、社会人になった場合に、企業でも同じ傾向が出て新たな発想が出来ない傾向が出て来ているように私は思うのである。対人関係のマニュアルは必要であるが、それは機械的な人間を作るマニュアルで無く、人間として成長を促すマニュアルを作るべきであろうと思う。私も生意気な事を言っているが、私なりの経験から書いている。私はシステムのマニュアルを作る場合も、問題が起きた場合を重視して作成する、操作に関しても書くが、それは当たり前であるが問題が起きた時の対処方法を考えて作成する事が私のマニュアル作りの基本である。企業も社会も、これからは問題が起きた時の対処を考えたマニュアルを作成して、マニュアル社会で育った若者に対処が必要であろう。
2016.03.09
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私も、そうであるが、慣例と制約は守るが為に矛盾を感じる事がある。人は組織体で動くのであるが、そこには組織としての制約を設ける。その制約に則り、人は動き、制約通りに行うがそこには制約内での行為であるので動く事によって、制約と同じ動きをしても、それは制約外である事も出て来る。だが、制約内の範囲とは何ら変わらないが、解釈だけで制約外になりうる事が、行動を起こしているうちに出て来るのである。それは、どう考えても制約内で行った事と同じであるが制約外になっていると言われる事が多い。だが、行った事は意味的には同じである。これは、修正すべきなのであるが、解釈的には最初に決めた制約の範囲に入っていないと言われる事が多い。私の性格では、それに対しては理論的に同じ意味であろうと反論する事が多くなる。その様な事は行政や、それに近い所が言う事が多いのである。あっちは良くて、こっちは駄目だと言う事が多いので、私は文句を言う。どう考えても、行動としては同じなのであるが融通がきかない。これに対して私は矛盾があると匹敵すると相手は考え方は同じであるが、規約に無いものであるからとの弁解で逃げる事が多い。だからと言って、それを修正する事を行う事は殆ど無い。制約や慣例は、矛盾が出て来た所で、修正や改定を行うべきであると思うが、それをやらず、同じ矛盾を繰り返すのである。これでは行政関連は、動きが遅いし、対応能力が低くなる。今や、色々な面で日本は問題を抱えているが、机上の論理と、現場サイドの行動の矛盾が多過ぎる。机上で考えて制約を作るのは分かるが、そこには実行する事によって、不足部分や応用部分が欠場する。それを正して行くべきが、机上論でしか動かない状態であり担当する人達もマニュアル化した行動しか取らない。この事で私は幾度となく、ブツカリ、怒りを感じるが個では虚しく引きさがる事が多かった。どうも私と行政側の相性は悪のは、現場サイドと机上論が原因であろう。これからも、多くの事でブツカリ合う事が出て来るし私も引き下がらないで向かって行くであろう。矛盾は正すべきであり、実行する事で生じる事は尚の事、修正や改定を敏速に行うべきである
2016.03.08
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私も被災地に行くが、今だ復興と言う感じはしないのである。盛り土等の変化は、多少はある。また、被災した人達は笑顔で居る、その笑顔の下には悲しみが隠れているように感じる。私が行く南三陸は、仮設も統合されて58か所が3か所となった。私は南三陸には4年以上行っているが、復興の初期段階にしか見えないように思う。今や、多くの人が、あの災害から立ち直ろうとはしているが立ち直るにしても、高齢化が進み、その中で復興と言っても何か虚しさを感じてしまう。また、仮設の残る方は殆どが高齢者である。今さら住宅を建てても、返済も出来ないし身体も自由にならない。高齢の方は諦めからか、悟りなのか、意外と明るい。一緒にワカメなどの作業をしていても、明るさがある。その明るさは、私から見ると幾度かの災害を経験してそこから這い上がった強さを感じる。その強さは、私達からすると、あれだけの災害にあったのにこれだけ強く生きれる物かと思うくらいである。私達は都会に住み、クダラナイ事で自分本位の文句を言いそれなりに病になると、病院に行けるが、あの方達は、今は病院も出来たので行けるが病院が出来るまでは、車で1時間以上かかる所まで行かなければならなかった。私が毎回行く寝たきりに方は、前に私が行く前夜にトイレに行こうとして腰を骨折したが、病院は気仙沼まで行かなければならなかった。その方も寝たきりになって長いのであるが、私が行くと車イスで散歩をするのであるが、認知症もあり私の顔を覚えていてくれない事もあるが、時々思い出してくれ昔話をしてくれる。そこには自分たちの苦労を苦労と思わない強さを感じる。また、他の高齢者の方とも接点はあるが、私はそこから学ばせて貰っている様なもので、私などは何の役にも立たないと思えるが友達として多少は認めて貰っているので、4年以上行っている。ただ、私からすると国や行政は、現実が分からないでただ、復興と言う旗を振っているが、本当の復興はこれからであり、人口減少した被災地の現状を考えた上で予算を作成してほしいと思う。今になって政治家が被災地に行くが、これは選挙が近くなって自分たちはやりますよと言う形だけで、中身のない行動であろう。被災地の方は政治家の言っている中身のない言葉では無くそこで生活する為の実際に出来る事を願いたいのであるが政治家は選挙の為の、単なる言葉だけであり視察や地元の物を食べて宣伝しているが、被災者の深い悩み等は分からないでいるのが現状である。人は自分に降りかからないと、知りませんという傾向が強いが、政治家の様な連中は、たちが悪いと私は思う。復興の予算での工事も、大手が握り被災者の方々にはオコボレ程度であり、大手から流れた物が政治家の懐に入ると、ゲスの勘ぐりをしたくなるのが今の日本である。被災から時が経って、尚の事それが見え隠れするように思える。これからの被災地は心のケアーが必要であろう。今までは、同じ経験をした方が肩を寄せ合って助け合ったが今は、それぞれに個に別れ、心の傷は、これからが深くなると私は思うのである。
2016.03.07
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私は写真嫌いである。自分の顔が嫌いかと言えば、鏡で見るのと写真顔が、違いがあり過ぎると自分で思っているのである。私の子供の頃に、父がカメラ好きで写真を取るのが好きで私達兄妹の写真をよく撮っていた。60数年前でカメラは贅沢品であった。そのカメラを父は持っていたのであるから、如何にお金が掛かるか分からない状況であった。その頃から自分の写真は嫌いであり、どうもカメラを向けられると私は逃げるし、団体で撮った場合も隅の方に居て目立たないようにしている。だから自分から望んで取って貰った写真は殆ど無い。あるとすれば、履歴書や証明書の写真ぐらいなものである。だが、最近はテレビ関係で撮影される事がある。先日もBS系のCMであるが、撮影に来たし、前には全国放送の番組にも出たり、通販のCMに出たのであるから考えが矛盾している自分である。写真に関しては、子供の頃イメージからか、厳しい父に対する恐怖感があり、写真を撮るときにも緊張感があり、硬直化してしまう自分が居た。笑えと言われても、笑う事が出来ずに、ツッタ顔になり子供の頃の写真は作り笑いと、固まった姿勢のが多い。私が今、持っている写真は、他の人が私の分からない時に撮ったので自然体な感じがする。どう見ても好い男には見えないので、私の写真を見て皆さんが誉める所が無いので、言う事が同じ。「笑顔が良いね」である。これはドミニカでの、社交的パーティーで女性に対して美人の場合は、顔を誉めるが、どう見ても美人でない女性にはドレスを誉めるのが礼儀と教えて貰った。それと同じで、誉める所が無い場合は、何処か探して誉める。誉められて、悪い気がしないのが人間である。私の若い頃は、人を誉めると言う事はしなかった。それが短大等で教えた時に、人を育てる事には必ず誉め言葉が必要であり、その言葉によって人は伸びる事を学んだ。私の場合は、父が厳しく、父の顔色ばかりを伺って居た幼年期だったし、仕事に没頭すると自分の世界に入り込み周りが問題を起こすと、自分なりで解決して行くタイプなので問題を起こした人にも厳しく言うのが私であった。それが人を育てる事には厳しさも必要であるが、誉める事も必要であり、それが人を伸ばす大きなカギになる事を学んだ。私もそうであるが、誉められると「豚も木の登る」状態になる。確かに、そこから生まれる、やり気も必要であるが、そこだけでは駄目な部分もある、そこには厳しさも必要であり厳しさがあるから、誉められる事が生きるのであろうと思う。私も、これからも自分なりに厳しく、その中から学ばなければならない事が多く感じる。私の写真から、脱線したが、私の写真嫌いは変わらないであろう。
2016.03.06
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今、あるブログで国会のあり方が問われている。それに関する、賛同要請が来たのであるが、私は賛同しなかった。文面以外の内容的には、賛同できるが、あの怒りの文面には疑問を持ったからである。内容としては、私は今の政府の言っている事とやっている事の矛盾を突いているので、間違ってはいないと思う。私も書いた人の気持ちは分かるし、政治家の批判をブログに書く事が多いし、あのブログと同じような批判文も書いている。だが、表現に文面の仕方が、怒りをブツケル気持ちは分かるがそれなりに書くべきであったように思うのである。今の、あの年代の方達から下の人達の表現の仕方が怒りをブツケル気持ちを、ただ口から出た事を考えない傾向が強過ぎたように思うのである。それは正直で良いのであるが、怒りをぶつける場合でも相手が居るのであるから、相手に対する考えも考慮して書くべきである。それなら自分の怒りが表現出来ないと言うであろう。私も色んな年代の方と関わるが、本当に、あの年代の方は言葉を知らないように感じる事が多い。自由国家なのだから、好きな事を言って何が悪いと反論されるであろうが、人と人の関わりを持つ事はそこには自分個人だけでは無い事も理解して対応するべきである。自分の意見や不満も言う事に関しては、問題は無いし人間である以上、それは当たり前の事であると思う。だが表現の仕方で、その人の人格が分かる場合がある。今回の方は、基本的には自分を正直に表現したのであろう。それは、それとして文面が、あまりにも雑であり直情的になっている。これは日本の教育体制にも問題があるのであろう。今や高校生以下の子供たちの言葉が、私達には分からない言葉が多い。そこには日本語教育の低下が見られるのが、現代社会である。多くの親たちは国際的に通用する英語に力をいれるし教育に携わる省庁も学校も英語教育には熱心であるが日本語に対しては、それほど熱心では無いのが現状であろう。生活の中で会話する日本語を、教えていないのが日本の教育体制であり、それは同時に日本の良き礼儀作法も同様に教えていない様な気がする。今や、日本人である以上は、しっかりと日本語を教えて行き良き日本の伝統的な礼儀も教えるべきであると思う。
2016.03.05
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私も高齢化の仲間入りして、数年経つが自分では高齢者だと思っていないダメ親父である。私の性格なのであろう、行動が自分の原動力になっていると思っているので、何か目標を持って動く。目標を持つと、それに向かって行かなければならないので自分を鼓舞出来るのである。元来、私は自分の弱味を見せたがらない所がある。これは、私の少年期の生活環境から来たものであろう。また、物腰は柔らかいように見えるのであるが、意外と頑固な気持ちを持っているので、二重人格なのかも知れない。確かに私達の時代は、日本の経済発展の為に働きバチとなって働き、その中で自分を表現して生きて行く上で自分なりの、信念を持っていなければならない時代であった。人は時代の流れで、状況を判断して行くものだと感じる。それは、自分なりに考え行動するからである。そこには人其々の考え方や生き方がある。それは当たり前の事であり、それなりに互いを認め合って行くのであろう。だが、それらを全部は受け入れる事は出来ないであろう。自分の路線と大きく違う場合は、相反して歩む事になる。そこから、別な自分を相反した人から学び、自分を修正する事が大切であると私は思う。相反する事は生まれた環境や習慣でも違って来るし貧しさや裕福な環境でも違い、それによっても考え方が違う。これは生まれ出た時には、ある程度の環境は定められているのかもしれない。ただ、環境から自分を極めるのは、自分である事は間違いない。私自身も幾多の多難な苦しみもあったが、最終的には自分が決定して、責任を持たなければならないと思っている。また、自分が関わった以上は、そこには自己責任が伴い他の人と関わっても、どちらが悪いとか良いとか問われても、自分が関わった以上は自己責任は伴うと思っている。だが、現代社会では、私の様な考え方は馬鹿であると思える。問題が起きると自己責任から逃げて、他人に押し付ける傾向が強いし、他人もやっているのだから、俺もの世界でありそこには責任と言う文字は無くなりつつある。これは日本の教育体制が作り上げた結果なのかもしれない。私も教えた事があるが、注意すると返って来る言葉が「誰々もやってるから」と言う事が多かった。この様な教育で育った人達が、日本の教育体制を作成して、マニュアル化した教育を行っているのが現代であろう。教育はマニュアルで決められる以外に、多くの人としての愛情が無ければならない事を、日本人は忘れているのであろう。マニュアルは基本であるが、人としての心が籠らない限りただのロボット化した人の動作にしか過ぎない。
2016.03.04
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繋がりとは面白いものである。今回、高齢で介護が必要な方の関係で、私が別な部分で行っている自閉症の方との繋がりがある所に辿りついた。高齢の方は目が不自由な方なのであるが、その方は自分なりに勉強したいと言う意欲があり点字図書館などから、SDカードに録音された物を借りてきたりして、自分なりの勉強をしている。また、自分で研究した事などを、私に聞かせてくれるのであり自分なりに研究した事を本にしたいとも言っていた。問題は目が不自由なので、文字を書く事が出来ない。それで私に相談があり、何とかならないかと持ちかけられた。私は、元々はシステム屋なので、パソコンを使い音声認識で文字に変換して、それで本を作成できると思いその関係を調べて見ると言ったのである。これは社協では、お手伝い範囲でないと言われたので私が個人的に動く事に関しては問題は無いであろうと社協に断り、またもや余計な事をやり出した。その事を実行するには、機器(パソコン)とソフトが必要になる。そのどちらも、新しいものでは金額が高いのでありパソコンに関しては、障害者の方々がやっている就労支援の所を行政側から高齢の方が紹介されていたので私が、どの様な物かを模索しに行ってほしいと言われて行く事になったのである。行く事は、社協での範囲では無いので駄目との事であったが私個人の行動で行う事で、了解を取った。そこまで行く交通費などは、その方も裕福では無いので私が出す事になるであろうと理解していたので私は片道2時間かけて自転車で行ったのである。私達は社協からの、お手伝いでも自転車で相手の方の所に行く事になる。だから雨が降った時は、日にちをヅラして他の日に行く。相手からの交通費は貰わない事になっているからである。ましてや、今回の件は私個人が勝手にやる事なので社協は関係ないが、交通費は無い。その為に自転車で2時間(片道)と言う事になった。私に取っては運動不足解消となるので、自転車で行ったのである。自転車も河川敷沿いに走ったので、信号は無いから走り易いし天候も良かったので気持ち良く走れた。到着して、その施設の知的障害や精神障害の方の作業状況を見せて貰ったり、目的のパソコンを、どの位の価格であり、どの様な物がインストールされているかを見た。これが驚く値段であった。Win10がインストールされていて、メモリー2GでハードDiskが160Gで、価格がノートで1万円である。障害者就労支援であるので、企業の払い下げパソコンを整備調整しているので、この価格は安い。私も秋葉原で安いパソコンを買って、自分で使っているがこの価格までは下げられなかったし、探す事も出来なかった。ましてやWin10で、この価格でありノートパソコンなので私の今使っているノートが、駄目になったらここで買う事に決めたと思った。この様に私なりに勝手に動いているが、私の勝手に行っている高齢者と障害の方の繋がりがある部分で、別な所で知る事が出来、学ばせて貰っている。
2016.03.03
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私の性格ではあるが、仕事でも私的な事でも、最初の動きが遅い。これは、自分では分からない状況の事には口を出さないと言う性格である。だからなのか、集団的に騒ぐ事は殆どしないし、自分なりに問題点等を考え、見てから動くのである。だから、会議や集会などは最初に出席した場合は殆ど発言も意見も言わない事が多い。意見を求められた時は、最初の段階は、その時の感想に留めるのである。それが私なりの遣り方で、現場サイドを理解してから動きだす事を、自分の行動タイプと決めている。これは現場や、その状況が把握出来ないで意見を言うのは今までの自己経験からであり、その経験した部分と今、置かれている部分とは、その中で行動する人達の考え方や経緯が違って来るからである。前にも書いたが、私がシステムを構築する場合は必ず現場サイドに入れて貰い、そこで仕事をして問題点を洗い出し、能力的な部分や効率的な部分を把握してから、システム設計を行っていた。これは相手を信頼していないわけでは無く、相手の慣れによって、見落としている部分もあるのでその様に現場サイドを見て、こちらから提案も出来るからである。だから、最初の段階では、私は何かにつけて意見を言わず聞いている事が多い。ただ、行動を起こした場合は、色んな方法や思案を行い為しながら自分の考えをまとめて行くのが私の遣り方である。ただし、私がこれでは、やっても駄目だと思う事も多々あるがその場合は、潔く手を引くか、自分を信頼させながら変化を求めて行く方法を取る場合がある。これには時間もかかるし、自分を酷使して行かなければならない場合があるので、ストレスも貯まる。だが良い方向に変化させて行く為には、この方法も仕方が無い。自分が実行して相手に認めさせる。何もやらない、何も努力したいで言う事は簡単であるが私達は、それなりに経験しているが、経験は経験で生きるが同じような状況であっても、そこで行動している人の考えや状況は、私達の経験した部分とは変わる場合があるのでこの様な私の行動になる。私の場合は、個で行動するので、大きな変化を起こさないがそれなりに変えて行ける場合もある。簡単に言えば、やって行動して、それから言いたい事を言う気楽なタイプなのであろう。
2016.03.02
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私も、ある程度の年齢(高齢)に達して来た。又、多くの人達と接する機会が出て来たが、まだまだ、自分では学ぶ事が多いと思う事に出くわす。若い頃は、それなりに学んでいたと自負していたがそれは自己満足の世界である事を、この歳になってから分かり出したのである。人は学ぶと言う気持ちが出ると、それなりに鼓舞出来るのを私なりに感じている。今、私は高齢者で介護が必要な方と、知的障害のある方と色んな面でお付き合いがある。その方達と相対する時は、相手の目線で行こうとは考えているがそこまで自分が達しない部分が大きい。悲しいかな、どうしても相手と同じ目線に立てない。これは無理な事である事は分かるが、多少なりにも近づきたい。高齢で介護の方には近づきつつあるが、知的の方には近づきがたい部分があり、無理に近づく事も出来ないので一歩下がってから私自身を見直す事にしている。今月は高齢者の方とは色んな面で接する事が多くなりまた、知的の方とも地方に行く事になっている。そのどちらでも私は学ばせて貰っているが、学びを生かす事にどの様に今後に生かせるか模索を開始する月になりそうである。私も同じであるが、自分なりに何かに挑戦する意欲を持つと動く事と自分なりに考える事が出来るので、私がお手伝いをしている方にも、その意欲を持って貰うように私は接する事が大切であると思っている。また、知的の方にも色々な面で観察して相手の気持ちを引きだす事が出来ないかとも思っている。人は自己を磨く意欲が出ると、行動的に成り、色んな事を学ぼうとするものであろう。その学ぼうとする事を引き出して、お手伝いが出来れば私は新たな自分を見出す事が出来ると思っている。3月は、そのきっかけを作りだす為の、私の月になりそうである。いや、その様な月にして行こうと思っているしそれなりに動いて見たいと思う。
2016.03.01
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