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・歳の暮れから正月にかけての行事は、田舎の我が家でのやり方を説明するとほとんどをその方式にしてやってくれた。 年末の大掃除で、障子の貼り替え、すすはらい、拭き掃除、門松などの飾り付け、餅つきと御供えは子供の頃はいつも手伝わされた家族の行事であった。自分が主になってしなければならなくなってもいやではなく楽しかった。 おせちなどの食べ物の内容は妻に任せたが、半分は手作りであったようだ。31日朝の歳取り行事、元旦の若水汲みと、雑煮作りは男の仕事として中学生のころからやらされていたので、これらも担当した。 元旦に、雑煮ができたころ薄化粧をして現れた妻が初々しかったときもある。正月の挨拶を家族で交わすと「一家の主」という立場を改めて自覚するときでもあった。正月は例年田舎の両方の親と仲人さんに挨拶とお墓参りに行くのが恒例であった。元旦に出かけると初詣の人の多いところ以外は交通機関もすいていて便利だった。車を手にいれてからは、年賀状の来るのを待って、それを持って読みながら田舎に向かったことが多かった。 田舎の甥や姪には、小学生になるとお年玉を渡すようにして、大学卒業まで続けた。これは好評だったようで、今でも正月などに会うたびに言われる。正月の行事として、家族でトランプや百人一首などもした。百人一首は子供が文字を覚えるのにも、古典に親しむきっかけにも良いと思って続けたが、兄弟同志の競争意識が仇になり、小学生くらいまでしかできなかった。 自分は古典文学が好きだが、これは小さいときから百人一首に親しんできて古語の言い回しに抵抗感がないことも影響しているかもしれない。 妻亡きあとは、こうした古典文学教室にでも入って、再び勉強しなおすのも楽しいかもしれないと思う。そのうち、孫ができて文字が読めるようになったら、百人一首の読み上げ側になり一緒に楽しめたらいいなー。
2004年12月31日
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3・お金のことでは、互いにそんなに隠し事はなかった。ほとんど何でも話してしまうのが、二人の共通の性格だったかな。全体のことは、ほとんど任せてもらった感じで、それだけに一生懸命に将来妻に不自由をさせないことを検討した。 妻の貯金額はほとんど把握していたし、自分の名義のものは社内貯金くらいのものしかなかった。妻あてのボーナスはそれにプラスして、貯金に回した。また、必要額を聞いてボーナスから小遣いとして渡した。これだけは半年毎の楽しみでもあったようだった。 が、この請求額もささやかなもので、ほんの少しの服や靴を買う程度の額で、女心としてはもっとおしゃれもしたかっただろう。 長生きしたら、国民年金も十分もらえるよう遅ればせながらかけ続けた。これは結果としてかけ損となってしまった。また、自分が早く死んでも、妻には遺族年金も含めてそんなに不自由のない生活ができるだけの額を残す予定で、それなりの蓄えはできたつもりでいたが、・・・・ 全体としては明朗会計の家庭であったと思う。 ただ貧乏な生活だったため、服などは十分買ってやれなかったが有名メーカーのバーゲン情報や、デパートの割引セールなどを上手に利用していて、何度かお供をさせられたこともあった。 住宅は、ぜひ確保したかったので、初めは借地の長屋を買った。経済的に少し余裕ができると、次の新しい住宅へと移るアメリカ式住宅買い替えを実行した。そのため合計5回も住宅を移ったことになる。2回目からは、土地付き住宅となり、広さも少しずつ広くなった。ただ、勤務先からはだんだん遠くなり、1時間を少し越すようになった。インフレがあったので、住宅は購入した時の値段より若干上回る値段で売却できた。したがって、貯金をしておくよりもよほど有利な結果となった。子供達が大学へ行く年齢になる頃は、住宅ローンも終わりに近く、もっぱら学資に使うことができた。しかし、稼いだ金額の大半は、住宅資金と学費に消え、親の使える分はそんなに多くはなく、妻には随分と不自由な思いをさせてしまったのが心残りである。子供の学資が終わり、さあ少しは自分達の為に使えると思った時には定年に近く、その後すぐに発病となり、病気にしか使うことができなかったのは、皮肉でもある。 妻が働くようになってからは、自分で稼ぐ分は自由に使ってよいと約束したから、稼ぎの半分は妻名義の貯金に回し、半分は服などの好みに使っていたようだ。妻は自分でも昔の反動で買っているような気がするといっていたこともあるように、毎月なんかの服を購入したりしていた。そんなことで、働くことへの欲が出て、かなり無理しての勤務もあったようで、それが発病の遠因だったかもしれない。 妻の貯金は、免疫療法・健康食品・入院・葬儀費用として消えた。 妻が先に逝ってしまったので、仏壇やお墓は改めて準備することになったが、「私が先に逝って残念だけど、面倒で難しいことはお父さんにしてもらえてよかったかも」との妻の独り言が聞こえるような気がする。
2004年12月29日
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1・最初の出会いは、喫茶店でのお見合い。 その時は、黒い皮のコートを着ていた。やや太めで健康そうな感じだった。話してみると、かなり前向きの発言が多く、純粋なものの考え方を持っていて、感じが良かった。 当時の選考基準としていた、「頭が良い、目が良い、字が上手い、感じがよい」をほぼ満たしていて、一応合格点。 でももっといい人がいるのではないかと、別口も探してもらっていたが、なかなか合格点に達しない。 そうこうするうちに、結婚するかどうかの返事を欲しいと迫られ、エイやと決めて返事をした。(後で聞いたところによると向うの選考基準は「大学出、背丈170cm以上、眼鏡着用」でこれもパスしていたとのこと。眼鏡が条件とはまた一風変わった基準) 婚約指輪も、予算の限度を伝えるとその枠よりかなり低めのものをいうなど、なにかと控えめな性格であった。 2・最初の二人の取り決めは家計のやりくりを誰がするかだった。父母は、父が銀行員だったためか、必要費用だけ月決めで母に渡し、臨時出費はその都度に渡していた。その話をすると、そのやり方でよいということになった。 普通の月の消費に関する費用は、家賃、税金、などは別でほぼ定例的に出費するものを含み、妻の小遣い分は入っていたかな(記憶なし)余りは社内貯金と社内住宅積み立てに回した。当時は利率が数%以上もあり、ずいぶんと助かった。給料が上がるとそれに応じて必要経費を自己申請してもらいそれだけを渡すようになった。 たいていの月はその範囲で賄ってくれた。けれど新婚所帯は季節物など何かと臨時出費が必要で、そのたびに別会計が必要だった。その方式でずっとやってきたが、気楽な面もあれば、窮屈な面もあり、一長一短だったかな。 給料が銀行振込になってからも、しばらくは会社で直接銀行から引き出して、手渡ししていた。渡す度に「ありがとう」といわれ、ずいぶんと嬉しかった。 こうした、何かをしてありがとうと言われるのは最初から今に至るまで、ずっと続いていて本当に幸せを感じた。 だから、次はまた何かをしてあげようと言う気になるのだった。
2004年12月26日
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・妻はほとんどを専業主婦で過ごしてきて途中から国民年金に入っていた。後半の約10年は厚生年金に入り、最後1年は又国民年金だった。社会保険事務所へ死亡通知を届けにいったところ、「ごくろうさん」でおしまい。約25年を国民年金、約10年を厚生年金を払っていた。ところが支給のほうは病気のため、長生きできる保証がないため繰上げ支給を2回だけもらっていた。そのため新たな給付は無いとのこと。生存の月分までの支給で打ち切り。もし、まったく給付無しであった場合でも、わずかな給付金しかないとのこと。厚生年金も遺族分は少ないので、貰えば併給できないので損をすることになるし国民年金には遺族給付は無いとのこと。何のことは無い。最後の2年間の支払い分にも満たない給付で終わりとは情けない。これではがんなどの病気の人は払うだけ無駄というもの。何年生きていれば、得かを計算して、それ以下を予想したら自分で積み立てておいたほうがよほど得になる計算である。満額給付になるとして、計算してみると77歳以上まで長生きしないと繰上げ支給したほうが得になると思う。 A*0.7*(5+X)>A*X A:支給額、X:65歳以降の支給年数 11.7>X 早期死亡の場合の給付が改善されないかぎり、遺族の不満は残るだろう。 我が家の場合は、長生きする皆さんへの奉仕をした形となった。
2004年12月22日
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・病院への手紙 ・四十九日も過ぎ、少しづつ家の中の整理を始めようと妻の日用品の入っていた整理たんすの整理を始めた。下着類は誰にもあげられないので、燃えるごみ行き。装身具の類の入っていた引出しの奥に、どこかのお守り類と一緒に、白い紙が数枚出てきた。貴重品かなと思って見ると初期の入院の時に妻に渡した手紙であった。時期は、癌と推定されて手術を待つ間に、病院へ行ったとき、手渡したものだった。前日までにいろいろ書き付けておいて、直接手渡した。面と向かって言うと照れくさいことも、文章にするとすんなり言えることから、いろいろな励ましの言葉と、良くなったらこんなことをしようといった内容だった。 そのうちの一つに、ゆっくりと北海道旅行をしようというのがあった。 北海道には、20年ほど前に単身赴任で冬期だけ4年ほどいた関係で、気候の良いときに、妻を連れてゆっくり一週したいと常々話をしていたことを改めて書いたものだったが、妻はそれを唯一の希望として何時までも胸にしまって、一生懸命に治りたいと念じていた。そして行ける事を信じて、親友にも話し、手紙も大事にしまって置いたものであろう。 他の手紙は残っていないところを見ると、この手紙が一番良かったのだろうか。 結果的に、そうした旅行はできなかった。言い訳になるが、入院してする抗がん剤の治療の時期がいつもはっきりした周期でするというわけでなく、またその後も検査が不定期にあったためでもあった。また、もう少しすればもっと良くなるのではという淡い期待もあった。 今思えば、少しぐらい治療を前後しても楽しい時間をとるようにしたほうが良いと言えるが、その時は担当医の言うことは半ば絶対的に思えたためでもある。こうした点では、夫婦二人とも真面目を絵に描いたような態度であった。むしろ、もっとおもしろおかしく暮らしたほうが免疫力ももっと向上したかもしれないと今でこそ思う。また、電話は早いが記録に残らない点が欠点で、手紙には記録という長所があることを改めて感じた。「 やこさんへ一緒になってから、約34年経ち、無事に会社の定年まで勤めあげ、やっと、これから二人で人生を楽しもうと思っていた矢先に思いがけず癌宣告とは余りに神様の無情を感じる。 想い返せば、よくここまで付いてきてくれたと感謝の念で一杯だ。ほとんど財産も無い状態から出発して、3人の子をなんとか大学まで出してやれたのも、健康で定年まで勤め上げられたのも皆妻としてのやこの努力によるところだと思う。 新婚時代から朝はいつも、30分は早く起きだして,みんなの朝食の支度をし、夜も皆が寝てから寝るという生活パターンをずっと続けたその疲れが、いま出たのではないかと思われてならない。 乏しい家計の中でわずかなボーナスの一部を小使いとして渡したとき、喜んで受け取ってくれたのがうれしかった。 その話をお袋にしたとき、お袋も,涙を流してくれたのが昨日のように思い出される。 生活態度ではいつも自分より他を立てて、譲るという事が多かった。そんな態度に甘えて、ストレスの発散の相手にしてしまったことも幾度かあった。自分では判っていてもどうしようもなかった。けれどじっと我慢をしているのが判っているだけに、すまなかった。 がんばり屋としての面もあり、冬季に会社の都合で半年ほど北海道に単身赴任が数年続いた時には,県の卓球選手権のB級で優勝したのも帰ってから本当にびっくりした。留守の間のさみしさをうまく他へ活用した精神力を見直したものでした。 お菓子の製作に興味をもってから、ベターホーム協会やホテルの菓子職人の講習会に長い間出席し、そのコツを体得し、今の家に引越したときには、自宅でお菓子つくりの発表会までしたその行動力には、まったく驚いた。 さすがに,商売としての成り立ちまでには、いきませんでしたが,つい先までクリスマスとか誰かの誕生日等には腕をふるっているのもほほえましい。 また、当時,単身赴任から帰ったときに,家族旅行を企画し、伊豆や白浜、などへ行ったことも楽しい思い出を作ってくれたおかげです。 武道の審査を受けに行く日などは、朝一番に神棚にお参りして合格を祈ってくれたことも、感謝の念でいっぱいです。 おかげでいまの六段までこれたと思う。 昨年に仕事のことで、かなりの負担が増えたとき、珍しく手助けを求めてきたのに、自分も体力的にきつく、助けてやれなかった状態が続いたのが直接の発病の原因ではないかと思う。 夜ぐっすり眠れないとか、夜中にトイレへ行く回数が増えたなどの危険信号を聞きながら、自覚症状がほとんどなかったことからなにもアドバイスもできず、放っておいたのが悔やまれる。今は、仕事のことは忘れて,治療に専念するように祈っています・ 治療のためには、あらゆる手段を試みるつもりでいます。Mワクチンや、キノコのことなどの方法も調べています。キノコのことはインターネットで安く、手に入ることも判り,すぐ注文しました。内容は信用がおけるものだと思っています。 又,気力を保持するためにも、回復したら、いっしょに北海道をはじめ外国などにも足を伸ばす夢を実現しよう。 」
2004年12月20日
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1)お墓 実家を出て、独立した一家を構えるまではなんとかできても 生きることが精一杯の毎日で、亡くなってからのことまでは なかなか考えることができない。 妻が先に亡くなって、いざ亡骸をどうするということが現実問題 として起こってくるとうろたえることになる。 葬儀が終わると、実際問題としてお骨箱が白木の飾り机の上に 鎮座しているのを見ることになる。さてどうするか。 たまたま入っていた新聞広告や、葬儀社の紹介などを頼りにあちこちの墓地を息子と廻る。地元の住民でないとだめなところもあるかと思えば、制限はないが、行くのに不便だったりと条件が合わない。この先自分が齢を重ねたとき、行きにくい所では困る。足場も良くなくては困る。などと思っているうちに先頃お世話になった方が亡くなられて葬儀と墓地を近くに求められていたのを思い出した。 念のためそこへ行ってみると、丁度運良く募集中の墓地の区画があった。広さと日当たり、方角、駐車場からの距離などを総合的に考えて、我が家の経済力に見合った場所を見出すことができた。高い山の中腹にある墓地と比べるといくらかは高価だが、子孫のように後から利用する人から見れば、交通の便や足場の良い所の方が使い易いことには間違いがないことから、そこに決める。 妻に残したはずの貯金を使えばなんとか、都合できそうである。かくして、我が家のお墓が決まった。妻には生前そこを一度案内した記憶があるが、まさかそこが我が家のお墓の場所になるとは妻も思ってはいなかっただろう。 東向き、広場に面して、駐車場から徒歩1分の場所が我がお墓の立地条件である。広さは1.5聖地で墓石と墓誌を予定している。息子達も希望すればそこを使うことも可能である。
2004年12月19日
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1)仏壇・葬儀を終えると、妻はお骨となって我が家へ帰ってきた。白木の位牌と祭壇は四十九日までで、あとは仏壇に納めるのが普通だという。その仏壇が無い。床の間はあるが、直に置くわけにもいかない。正直言って、田舎では昔からの仏壇があり、風習も若干ちがうので仏壇のことなぞ、考えたこともなかった。少し落ち着いてから、仏壇屋を回る。大きいのから小さいのまで、いろいろある。しかも表面の仕上げのやり方で値段も色々。 まず床の間に置くことにして、高さは人の背丈ほどのものにする。仕上げは、明るい色のほうがよいとの息子の意見を入れて欅の模様が表面にでている柄を選ぶ。昔からの黒塗りのものは、若い者には今一と映るようだ。自分が使う時間より、息子の使う時間のほうが長いからと考えて、息子の選択に任す。中に飾るお釈迦様も全体の色合いに似た像とした。お釈迦様の左右には掛け軸を飾ることにした。そんなこんなで、店の仏壇に各種の仏具を並べてみるとそこそこの感じに納まる事がわかり、購入の契約をする。 数週間後、大安の日に仏壇がはいった。お寺さんに法要のついでにお釈迦さまの目をいれて(開眼)もらう。位牌の並べ方、仏具の配置、などなど、具体的には始めての事ばかりで、聞いた内容はメモに記録して残すようにした。それでもあっという間に四十九日となり、白木の位牌から黒塗りの位牌にかわり、仏壇に入って、安住の状態となり一安心。法要の後で、姉に先祖代々の霊位の位牌も置いたほうがよいのではとの助言を得て、それも追加することにする。お鈴の音がどうも割れた音がするようで、いまいちの感じがする。お寺さんによると、こんなものかとのこと。でも澄んだ音色のほうが良いから交換を申し出ることにした。
2004年12月17日
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1)宗教について ・妻はホスピスへの入院を検討しはじめたとき、半分冗談でキリスト教に入ろうかなと言ってみたり、お経についての解説書を読もうとしたりしていたが、結局はこれといった結論を出さずじまいだった。 死に対する恐怖心といったものは、あまり無かったようだがもう生きていられないということへの心残りと寂しさはあった。 そういった面からのあきらめの気持が半分と少しでも長くとの気持が半分といったところであったようだ。 それでも周囲への感謝の気持を十分持てたことは、ある種の悟りでもあり、達観でもあっただろうか。 葬儀は両親と同じ宗派の仏式でおこなった。葬儀と法要にはお寺さんに来ていただいて、お経を上げてもらったが、そのお経はやはり難しい。解説書を読めばなんとか字面は判るがその内容までは、なかなか理解できない。 小学校のときに、般若心経をほぼ空で覚えて今でも大体は空んじてはいるが、内容は不明である。解説書によるとどう生きるかということが主体の文章のようであるが・・・数ヶ月前にやはり、知人の奥さんが卵巣癌で亡くなられた。その方は、亡くなる直前に洗礼を受け、キリスト教の葬式であったが、牧師のお話といい、賛美歌といい、現代の我々にも判りやすい内容であったのと比べると、仏教はまだまだ改革の余地があるものと思える。たぶん、過去のお坊さんは頭の良いエリートであって、素直に漢文を理解できたでしょうが、今の庶民には、ちょいと掛け離れているような気がする。キリスト教の革新運動が起こったのもこうした背景があったかもしれないとも思った。 健康な時には、せいぜい故郷へ帰った時のお墓参りくらいしかしない状態だったが、四十九日も過ぎ、法要も一段落した今、こうした宗教との関わりを今後どうしていくか考え直してもみたい。2)料理当番・定年退職後の生活設計を話し合っていたとき、料理教室へ行って料理を覚え、交代で食事当番をしようということになった。料理は、嫌いでないが残念ながら少しのノウハウしか知らない。ところが、当然の発病で教室どころではなくなてしまい、いまだ行けないでいる。体調の良いときは、レシピなども聞きながら書き留めたものもいくつかあるが、いかんせん、数が足りない。手間もかけられないから、昔田舎で母のしていた料理を思い出したり妻の古いテキストを引き出して読んだり、新聞の記事を切り抜いたり、TVの放送を参考にしたりと、情報を集めるようにしている。料理の実際で難しいのは、材料を揃えていないとできないことである。ということは、献立を考えてから買い物にいくというステップが必要で前もって準備が要るのである。この献立決定から買い物までの時間が勝負であることが判ってきた。また、内容も前の日と替えるようにしたりと制限条件もあり、小人数対象の量の判定がこれまた難しい。美味しければよく食べるし・・・・それに、盛り付けのセンスも大事であることが判ってきた。小さな料理店では、盛り付けするのもカウンターから見えるがよく見るとかなり神経を使って盛り付けているのが見える。材料を買う時、料理する時、いずれも最後の盛り付けにまで思いをはせておけば、良い仕上げになるというものだとも判って来た。理屈はそうでも、これからは場数を踏んで、息子達に嫁ができたらいっしょに料理も作ることができるようがんばらなくちゃと思う。
2004年12月16日
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1)心の空白 ・定年退職後思いもかけず、突然の妻の発病で二人の闘病生活が始まり病に向き合うのに必死であった間も束の間、あっという間にあの世へ逝ってしまった。長いようで短い闘病生活でもあった。 病を知ってから、この時の来るのを頭の中で覚悟はしていたもののもう少し、もう少し長生きができるのではないかと思い続けていた。 それは、はかない希望でもあった。 妻の家にいないという状態は、入院中も同じような状態なのに 胸の中にぽっかりと大きな穴が空いてしまったような気がする。 ふと思わず、何かを語りかけようとして妻の面影が心に浮かぶと とたんに涙が湧き出てしまう涙もろくなった今の自分をどうしようもない。 喪中の挨拶状を出して直ぐ後、小学校時代の恩師から電話があり先生も昨年ご主人を亡くされた由で、「慰めの言葉も見つからない」との涙声に、どんな慰めの言葉より心を打たれるものがあった。 お年とはいえ、先生もさぞ辛い日々を送られたことだろうとと共感した。 思わず電話の両方で泣いてしまった。2)妻の写真 葬儀も葬儀社の親切なご指導で、夢中のうちに無事終了した。葬儀に使う写真を前もって選んでおくようにとの助言があったがいざとなるとなかなか気に入った写真がなくて困った。幸いにも病の1年ほど前に息子の友人と食事に行った先での夫婦二人の写真がとても穏やかで気に入った表情であったのでこれを使うことにした。息子たちも親父が気に入った写真ならそれでいいよと言ってくれた。今で思えば人生の一番良いときの写真であったことになる。ネガも見つかり、この写真を親族と妻の親しい友人達へ形見として配った。いつも持ち歩いている自分の財布にもこの写真を入れた。毎年の年末には、その年の写真を整理してアルバムに貼り付けるのが年中行事のひとつであったが、闘病が始まってからは、それもない。今年はなんとか整理ができるようになりたいものである。3)歌での癒し 以前から何故か懐古的な歌謡曲が好きだったが、その中心テーマは「だまって付いて来てくれる」人を歌った内容だった。これは妻との関係を象徴するかのような内容で、いま後ろを付いて来てくれる人がいないという寂しさが心のなかに広がっていることがわかる。車の中で、CDをかけながら妻の人柄を偲びながら歌を口ずさむ毎日である。後ろを付いてきてくれるということは、それだけ自分に責任もある訳で、ある意味で必死で生きてきたともいえる。時々後ろを振り向いてこの道を進んでいいかと訊ねながら二人で歩いた道でもあった。それでも控えめな妻の希望を十分にかなえるまで行かぬうちに、一人ですっといなくなってしまったことでやり残したことへの心残りがある。 また「運命(さだめ)に負けて」という内容は、死に別れをした今となっては先に亡くなるという運命だったとも解釈できて、自分の気持ちをうたった部分と共鳴できるのでこれも心を癒してくれる歌である。4)妻と手紙 婚約時代から、電話のまだない時代のこととて、やりとりは主に手紙であった。急ぎの用事は呼び出しの電話を使ったが、ほとんどは手紙であった。一緒になってからも双方の親が比較的筆まめで、よく手紙が届いた。返事を書くのは、字の上手な妻の仕事となり、やりとりするうちに書く要領もうまくなった。二人で手紙を書いて、書いた後で見せ合うと、家族のことは同じことを二人で見ているわけだから、似たような内容になり、苦笑したことも何度かあった。そのうちだんだん二人の書く内容の受け持ちが分けれてきて、同じことを二人で報告することは少なくなった。二人で書くときは封書で送り、一人のときははがきで出すようにもなった。父が生存中は、ほとんど父の手紙だったが、父が亡くなると母は下手な字ながら、行も曲がりながらも手紙をくれた。くれば必ず返事を出したがちょうどその往復の時間を入れると週に一度くらいになり、適度な間隔でもあった。 妻からの手紙は、一人になった母の最大の慰めであったようで、何度も取り出して読んでくれたそうであった。よく書いてやってくれたものと感謝でいっぱいである。 妻の入院中は、時間のある時はなるべく病院にいくようにしていたが都合でしばらく行けないときは、電話が使いづらいこともあってよく手紙が来たし、友人にもよく書いていた。 最後の入院の前に書いた遺書には、病気のことの他に、感謝の言葉がいっぱい詰まっていて、ありがたいことであった。自分のことを理解して、受け入れてくれていたことが確かめられてそれなりに嬉しいが読み返す度に寂しさもひとしおである。息子達が結婚したら、筆まめな親父になってやろうと考えている。
2004年12月15日
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・家族ががんになてしまうと、もう長い命は保証されないと考えるのが普通だと思いますが、ただ病気とだけ向き合っていてはQOLは良くならないのではと考えます。・連帯行動 まずは、直接に病気に対する抵抗力を高めたり、抗がん剤以外の方法を探すことから皆一緒に行動することで、連帯感も高まると考えます。人間の持つ力を十分発揮するようにするという考え(ホリスチック的?)には納得できる部分も多く、お勧めの考え方ではないでしょうか。情報を得るには、それぞれの人の得意分野で集めてもらうのが早いし、多く入手できるようです。・目標 具体的に生きる目標があると、人間ふだんより力が発揮できると聞きます。社会のお役に立つ活動に参加したり、奉仕をしたり、家族の増えるのを楽しみにするなど、病から気分をそらすことに打ち込めば充実した生活になると思います。妻は身近な目標として息子の結婚を望み、お付き合いのある方とのお付き合いを増やすようにし、それへの準備に力を入れました。・食べ物 自然食品に限らず、身体に良い食べ物を探して組み合わせて食べるのも、取り組みやすいし、なにより実行しているという充実感があります。費用もあまりかからず、楽しみを共有でき、手軽に毎日できるところがよろしいと考えます。またそんな観点からお店を探すと以外なところに意外なお店があったりして楽しみも増えるのではないでしょうか。玄米食も自分で精米機を買って、撞き具合を変えて食べ比べをしてみる、雑穀類を色々換えて混ぜてみるなど、変化の幅が広がるようです。食べ物の情報も最近ではたくさん出ていますから、取り組みやすいところからはいるのが近道かと思います。食物療法も皆で食べれば、実行しやすいですね。・気分転換 気分をリラックスさせ免疫力を向上させる方法として、気功などの運動、呼吸法、歌、お話、おしゃべりの会合なども生活に変化をもたせる方法として、仲間といっしょにできればこれも楽しく、免疫力も向上するようです。がんになれば長くない人生ですから、楽しみながら生きていくことを重点に、かつ病気対策にもなれば、理屈も備えて取り組みやすいのではないでしょうか。勿論これまでの趣味を続けるのも結構かと思います。こうしたことに取り組めばお友達も増えて、さらに楽しくなると思います。朝の歩く気功をいっしょにする、おもしろいお話をいっしょに考える、カラオケを歌いにいくなどは手軽にできました。・旅行 ガンになるとまず手術をすることが多いですが、傷が回復して体力があれば、旅行にも出かけられることをお勧めします。長い期間でなくても小旅行でも十分と思います。旅に出れば自然と憂さを忘れますし、楽しいですね。思い出もたくさんできると思います。これまで行こうと思っていてもなかなか出かけられなかった所でも治療を兼ねた旅行と割り切れば踏ん切りがつきやすいのではないでしょうか。がんに効くという温泉もあちこちにあります。温泉で効果をあげるには、少し長めの滞在を決め込むこともしやすいでしょう。旅行の内容をよく検討して十分な余裕のあるようにすればほとんどの場合、可能ではないでしょうか。自分で計画をするのが面度なときは、企画旅行に参加しましたが、かなりあちこちを旅行できました。秋田の大曲市での創作花火大会、あちこちの紅葉見物、西国観音様巡りなど病気以前よりかなり多くの旅行をすることができました。
2004年12月14日
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・妻が卵巣ガンとわかってから、一体家族はどうすれば良いのかはまったく判りませんでした。まずは医者を信用すべきかどうかを考えた程度でした。しかし、少しずついろんなことが判ってきましたので、ガンに関する情報という観点からまとめてみました。・入院費用 まず費用はどれほでかかるかは、皆目見当もつきませんでした。しかし、健康保険が適用できる医療の範囲ならば、入院の日数や内容にもよりますが、おおよそ月に50万円ほどまでの支払いですむようです。しかもそれは、月に2~3回の分割払いのところが多いようですので、一度にそれだけを用意することはほとんどないと思います。ただし、差額ベッドなどを使用することになりますとその分は確実に1日当りの費用で発生します。この場合は、事前に説明があるはずですからそれなりに準備が必要となります。・医療費の(健康保険)還付金 健康保険を使う医療費がある限度額以上になると、支払った医療費用(食事代金などを除く)のうちからある程度還付されます。この高額医療費対象額は、一応決まっていますが、健康保険のしくみによりいろんな還付が付加されることもあるようですので、確認が必要です。また、この還付を受けるにも患者側から申請が必要な場合と、自動的に還付される場合、申請の通知だけがある場合などがあるようですので、自分の(または患者の)健康保険の事務所に確かめる必要があります。またこの対象となる額は、初めの3ヶ月(3回)分は最高で73000円程度以上ですが、高額の支払いが継続する場合(4回目から)にはその後は40000円程度以上が対象となります。さらにこの医療費は月単位で、科単位で計算されますので、よく説明を受けるとよいと思います。還付の時期は申請から約3月後です。私が数ヶ月分をまとめて申請したとき、4月(4回)目の分は対象額が低くても該当するはずなのに、非該当と扱われて抗議したこともありますので、注意が必要です。・入院保険金 入院の日数に応じて保険金が出る保険に加入していた場合。入院の日数計算の方法も保険によって違いがあります。たとえば、入院後○日後から始まる場合、ガンと確定してからの日数によるもの、支払い期間に制限があるもの、などがありますから、加入の時に良く調べておくとよいと思います。 さらに、退院後に自宅での療養が必要な場合に、医療保険金が出る場合もあります。これはある日数の入院が必要条件となることがありますし、医師の(在宅療養が必要との)証明が必要な場合もあります。この日数にも上限がある場合があります。 また、保険金の請求には病院の証明が必要な場合が少なくありません。証明をしてもらうと千円単位の金が必要です。金額が少ないと証明が不要な場合もありますので、一度に多くの日数分を請求したほうが得か、こまめに小出しにするのが良いかは手間の関係も考慮して決めると良いと思います。但し請求できる期間が制限されている場合(例えば2年間)もありますから、よく確かめることが大切です。 戸籍関係の書類が必要な場合もありますが、大抵は保険機関に保険金の請求用紙を送るように頼めば、それらのことを記入した書類を送ってくれます。・税金 医療費は確定申告すれば、所得から控除されますが、200万円が限度のようです。但し、支払った金額から前項の保険金や、還付金、食事代金などを差し引いた額が控除されます。病院への交通費も対象になりますので、交通費は手帳などにこまめに記入しておいて、医療費の領収書の日付とともに記入した表を作っておくと計算に便利です。日帰りの場合など、レシートのことがありますが、これもまとめて紙に貼り付けるなどして提出するとよいと思います。・医療情報 一般情報は、がんの雑誌からかなりいい線で入手できました。新しい薬のこと、新しい治療法をやっている病院・大学、患者の会、講演会のお知らせな、代替療法の特徴などがわかります。 雑誌の例:もっといい日インターネットで送られてくる情報としては、CNJ(キャンサーネット)の情報がかなりレベルの高い情報と思います。ここではセカンドオピニオンも受け付けてもらえることもあります。また、健康食品を扱う会社などで、いろんな講演会などを催してくれる場合もあり、そこへ出席するのも情報を得る方法の一つです。・健康食品(サプりメント) 巷には健康食品という範疇のものが一杯あります。健康食品もその効果がどんな理由で効果を発揮するのかを確かめて利用すのが良いとご指導をいただきました。それにより、利用する量と時間も関係するとのことです。詳しくはそういった内容の書いてある本や雑誌をよく読んでから、医師に相談されるのがよろしいと思います。担当の医師が詳しくない場合は、他所の病院の詳しい医師に相談されるのがよろしいかと思います。決して安くないものですから、素人が行き当たりばったりで購入するよりよほど効果的に使用できるとおもいます。同じような効果の期待されるものばかりを取っても効果は今一とのことです。最近はこれらに関する本も多くでていますし、インターネットでもいろいろ探すこともできるようです。その他の代替療法もまとめて書いてある本も出ています。免疫力、アポトーシス、抗酸化、細胞分裂阻害、新生血管抑制などへの作用で判りやすいもので勉強できるとよいと思います。帯津良一先生の本にも詳しく書いてあります。 但し、卵巣癌にも効果があるかどうかという細かいところまで記述してあるものは少ないようです。(卵巣癌は比較的数が少ない)購入の金額により、割引制度のあるところもあります。商品は代金着払いで購入しました。・紹介状 他所の医師に相談に行くのにも、原則として紹介状が必要です。けれどどうも言い出しにくい場合などは、ホームドクターにこれまでの経過を詳しく書いて、紹介状を頼めば書いてもらうこともできます。そんなときのためにも、普段の医師の説明なども詳しくメモを残しておくと良いと思います。紹介状をもらうときの金額も医療機関によりいろいろです。1000円程度のところが多いようです。・患者の生き方など 患者の会を探して出席するといろんな情報が新しく入ってきます。本やインターネットなどで探すことができます。単行本では柳原和子:ガン患者学など。いかにガンと向き合うかをいろんな立場から取材して書いてあり、非常にためになりました。また、その他の内容も生きがい療法、食事の方法などいろいろあります。どれが自分(患者)にあった方法かを探すのも楽しみのひとつとなります。・抗がん剤 最初は抗がん剤はガンにだけ効果があるものと思っていましたが、正常細胞にも影響があることを近藤先生、平岩先生の本から知りました。抗がん剤については、いろんな本がありますが、平岩正樹先生、近藤誠先生の本は一読をお勧めします。また、未承認薬についても最近はいろんな情報があります。薬そのものから、扱う病院までかなり詳しく載っています。病院には系列がありまして、医師に聞けばその系列にどんな未承認薬による治療をする病院があるかはたいがいわかります。また病院によっては、進行ガンは受け付けないところもあります。そんなところでも、どこでどんな治療をうけられるかはかなりご存知です。雑誌にも詳しくのっています。・ホスピス 病院ホスピスと在宅ホスピスがあります。病院は見学予約の必要なところが大部分です。一度、体力と時間のあるうちに、ぜひご自分の目で確かめて、お話を聞いておかれるのがよろしいかと思います。気に入ったら面接も受けて予約をされるのもよろしいでしょう。また、ご近所に在宅ホスピスをしている医師もあるかと思いますので、住所の近辺でインタネットで探してみられたらいかがでしょう。電動ベッドを入れられる空間を確保できる場所があれば、自宅介護も可能です。ただし介護に専念できる人が一人は必要です。その他の買い物などを助ける人がいれば余裕ができます。自宅の場合、電動ベッドなどは自費となるようです。酸素吸入は保険扱いでした。室内の空気を濃縮して供給する方式で、ボンベは外出用に使うだけでした。 点滴は中心静脈からでしたので、針はさしたままで消毒は毎日してもらいました。電池式のポンプで、朝晩に液の交換が必要でしたし、一日に1回の電池(充電式)交換が必要でしたが、たいした手間ではありませんでした。在宅ホスピス費用も病院のときとあまり変わりませんでした。
2004年12月12日
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・帰宅したその日から、家の中で病人を看病する体制をとるのに大忙しであった。特にベッドを入れる場所を開けることが大変だった。家族がいつも居る場所に近いところがよいとのことで、居間を病室に作り変えた。点滴装置と酸素吸入は帰宅した日に、ベッドは翌日入って、いよいよ在宅ホスピス開始である。・担当の医師は帰宅した日から予定通り来ていただいて、診察と点滴装置をセットしてもらった。点滴装置は定量ポンプ方式で持ち運びにはポールよりも便利だが、やはり薬の袋を入れると2kg近くあり、力の無くなった妻が一人でトイレまでぶら下げていくのは難しかった。・家でも病院と同じように点滴とお粥の食事を続けた。看護師か医師または両方が交互に毎日訪問していただいた。看護師には点滴針の周辺の消毒や足のマッサージや浣腸までもしてもらった。点滴の液の交換の方法も教えてもらった。夜中に点滴ポンプで何かの拍子に空気泡が入り、止まってしまったこともあった。医師の電話での指示でチューブの中の空気を抜き動くようになった。慣れればそんなに難しい対応ではなかったが、初めてのときはあわててしまった。点滴薬の交換は、朝と夜だったがこれもすぐ簡単に行うことができた。・食事はお粥を茶碗に軽く一杯食べれば良い方で、果物もほんの一切れしか食べられなかった。それでもトイレへ行けばお通じが出るようにがんばるのが痛々しかった。お腹が張るのを、(ガンのせいではなくて)お通じがないせいだと思い込んでいるようであったが、看護師さんはそんな素振りは少しも出さず要求があれば、気持ちよく対応してくださったのは有り難いことであった。・ベッドのマットは当初入れたのが固いとのことで、空気が出入りする方式のものに変えたが、それでもお尻にジョクソウができて治るどころか段々大きくなる傾向にさえ見えた。・最後の週には、ドライシャンプーで頭を洗わせ、気持いいとみえて、次の日には背中が痒いからと上半身を清拭料で息子に拭いてもらい気持よさそうだった。今思えば、死期の近いことを感じていたと思われるような行為だった。・自分でトイレへ行けなくなったら、病院ホスピスへ行くと言っていたからか妻は必死の思いでトイレへ行った。ベッドから自分で降りたり、上がったりするのが苦しくなってから、大きな声で呼ぶこともできなくなったので、寝ていたり、隣の部屋へ行っていたりするときに用事ができたとき呼びやすいように、チャイムも取り付けた。それでも夜寝ている時には、遠慮して起こさないように自分ひとりで起き上がり、どうにもならなくなってから呼ぶこともあった。小さなかすれた声で「おとおさ-ん」と呼ぶと小さな声でも目が覚めた。・家へ帰ったことを知った妻の友人達が訪問の機会を待っていたので、少し体調の良い日に、来ていただいた。しかし、見たところ痩せて見えないし、本当の状態をご存知ないため、良くなるから頑張れがんばれと言っていただいて本人も辛いことであったろう。ガンの場合は、よくがんばったねと言うのが良いと何かで読んだが、まったくその通りだと思う。・足のむくみを取る薬を頼んで飲んだところ、1日で浮腫みが引いたのにはびっくりした。浮腫みが引くとそこにはやせ細った足が見えて、いままでの肉だと思っていたのは全部水で、本当は全身がやせ細っていたのだった。こんなことに気が付かなかった医療音痴の自分がなさけなかった。・トイレへの往復と共にトイレの出入りでの段差があるのと、便器に座るのに抵抗がありそうだったため、スロープと手すりを取り付けた。トイレの時間から次のトイレの時間までの短い間を利用して部品の買い物と取り付けをした。少しでもお互い楽にトイレを使うことができればとの思いだったが、ほんの1週間足らずの間しか利用してもらえなかった。・最後の週は、さすがにトイレまで歩くのは苦しく、携帯トイレをベッドの際に置いたが、それでもシャワレを使うとがんばったこともあり、まるで抱き合った姿勢で往復した。またオムツもするようにはしたが、それでもオムツでの用足しはせず、トイレへ行くとがんばった。最後のトイレは下着を下げることもままならず、紙を引き出すこともままならず、ちぎってふいてやって、下着も挙げてやった。・妻のホスピスへの意識としては、痛みの無い生活を期待していたようだったが、病院にいるのとあまり変わりの無い病状であったようだった。また宗教系のホスピスでよくある精神的な面での治療はほとんどなくそういった面での期待には添うことができなかった。ただ自宅へ帰ったため、ごく親しい人への形見分けの品を選んだりしたことでは安心できた面もあると思った。・お尻のじょくそうには毛糸の服を重ねて敷くと良いとの情報も入り、さっそく試してみた。初めの間だけはうまくいったが、それもだんだん効かなくなり、じょくそうも広がり始めた。いろんな薬を塗ったり、貼り付けたりしてもらったが、肉の無い身体には治る余裕はなかったようだ。・時々思い出したように、「もっと長生きしたかったのに、せめて春まで生きていたかった」とつぶやくように話したが、「ほんとにそうだね」としか受け答えができなかったのが辛かった。・病院ホスピスは改めて予約してはいたが、今動かすと危ないとのことで結局キャンセルし、最後まで自宅にいることになった。・最後は、お尻のジョクソウで痛いとは言ったがお腹の痛みは言わず「背中が痛い、どんな姿勢をしても痛い。痛みを取って」といったのが最後の2日前。そんなに苦しいのならと楽にしてやって欲しいと医師に頼んだ。その後は、2日間眠ったままあの世へ行ってしまった。2日の間、脈が頻脈になったといっては驚き、呼吸をしているのに、脈が判らないといっては周囲のほうがかえってまごつくことのほうが多かったが、本人はすやすやと眠ったままであった。やがて脈拍もだんだんと少なくなり、自分と二人の息子と親友のNさんに看取られて静かに呼吸を止めた。生前の性格を表すかのような静かな寝顔であった。・控えめな性格の妻の要求をなかなか汲み取ってやれなかったが、そんな自分を頼りにしてくれて、感謝してくれて、有難うと言うことを教えてくれた妻よ、ごめんな。本当にありがとう。・いまでも妻の「おとーさーん」と呼ぶ声が聞こえるような気がしてならない。
2004年12月08日
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・妻の一人での入院・闘病の切なさを感じて、仕事のほうは数週間毎の更新で長期休暇を取ることにして妻の看護にあたることにした。これで少しは妻への恩返しができて、長生きしてくれればこんなに嬉しいことはないと考えた。・終日ベッドの傍らにいると、不思議なことに気が付いた。食事は出るものの、ほとんど喉を通らない。栄養点滴は腕から入れてもらっているもののカロリーを計算すると500kcalあるかどうかの量である。これでは体力が持たないと考えられる。また、腕の血管が細いので毎日針を刺すのに何度も刺しなおされ見ていられなかった。腕も太い部分は針の跡だらけで、もう刺すところを探すのが難しいような状態でもあった。・担当医に尋ねてみると、抗がん剤治療は最初の2回ほどはできたが、今は体力的にできない状態で体力の回復を待っているとのこと。本来は中心静脈点滴を行うのだが、本人が嫌がっているのでできないとのこと。そこで妻に抗がん剤治療はできない状態だから、治療を止めて帰ろうと勧めたがどうしても受けたいという。それなら体力を付けるように中心静脈点滴を受けるようにと納得させた。点滴が始まると食事は出なくなった。それでさらにそれ以上に体力を付けて長生きできるようにと、お粥を買ってきて電子レンジで暖め、果物なども添えて食べ易いように工夫した。本来点滴で身体はそれ以上に食事を要求していないのに食べるわけだから無理無理に口のなかに入れて流し込む感じであった。そんなわけで食べ物の好みの変化も激しく、好みの味や果物の種類の選択に結構気を使った。後で判ったことだが、食べていないのに見かけは痩せていないので元気そうだったのは水膨れで,実際の身体はやせ細っていたのだった。・背中やお尻が痛い・かゆいとのことで、絶えず身体の位置を動かすとそれにつれて枕の高さやクッションの位置の調整が必要だった。胸にも水が溜まり、横になると苦しくて、ベッドの背中側をかなり高くしていたので、枕の位置の調節は紐でベッドにくくりつけたりして、簡単に調整できるような工夫もした。・点滴は24時間続くので、ほぼ1時間おきにトイレへ行く必要があった。点滴の袋と腹水の袋とにチューブでつながれポールにぶらさげて引っ張ってトイレへ行く姿は必死の歩行で痛ましかった。一度歩行途中に貧血状態で倒れたことから後は二人でトイレへ行くようにした。おきあがることから、ベッドを降りて、手に手を取ってベッドからトイレへ往復した。ベッドに上がるにも手助けが必要になっていった。夜中にもトイレへ行く必要があることから、夜中に何度も起こされるのは結構つらいものがあった。ある時は寝不足から不整脈が起こり苦しくなったことから、それ以降は時間があればいつでも寝るようにして自己体力の保持にも努めた。看護師を呼べばいいのだが、スイッチを押しても介助に来てくれるまでの時間が不安定で、無理してでも二人でトイレへ行くようになった。個室で温水洗浄便座だったので用足しも比較的気楽にできたようだった。ほとんど固形の食事は採らなくても、お腹の張るような気がするらしくいつも力んでは、お通じがないことを心配していたのが悲しい。浣腸もしてもらったが出ないものは出なかった。・台風が来て、個室のトイレの調子が悪くなり廊下の向うの共同トイレにまで行かなければならなかったときはさすがに大変で、個室トイレのありがたみがひしひしと感じられた。・夜には特に口が渇くのか、氷の塊を欲しがることが多かったので魔法瓶に氷をいれておいて、要求があると口に入れてやった。・点滴が続くので風呂には入れず、時々足をぬるま湯に浸けては足先を洗ってやり、妻が気持いいといってくれるのが嬉しかった。・終わり頃には,背中やお尻が痛くなったが、病院には使えるエアマットが無く、近くのホームセンターでいろんなものを買ったりしたがどれも今一で、しょっちゅう姿勢を変え、それにつれて枕とお尻にあてるクッションの位置を調整し、頭と腿の付け根を冷やす冷却材を交換するのが仕事でもあった。冷やすことで痛みが和らいでいたかもしれないが、痛いとは言わなかった。・胸からの点滴なので、治療が受けやすいように前開きのシャツを買い、ボタンをマジックテープにしたりしたが、サイズはLLで身体を締め付けないようにするように要求されたりもした。しかしこれらのことは少しも苦にならずむしろ少しでも楽になってくれればとの思いのほうが強かった。・ある時は、急に寒気がするといって体ががたがたし始めたのにはびっくりした。看護師を呼ぶと、まず暖めることが必要とのことで毛布や電気毛布を借りて身体にかけ,手を握って震えの収まるのを待った。熱がある程度上がると震えは収まった。こうしたことは入れたままであった点滴の針の部分からの化膿が原因だったこともあった。・この頃になると久しぶりに電話がかかってきても受け答えがしんどいからと言って出ないようになった。面会に来てくれてもすぐにしんどいと言うようになった。なにか表面には出ないけれど隠しているのではないかと思えるような態度であったが、気にはなったが深くは追求しなかった。今思えば、身体も衰弱し水膨れで体重は変わっていなかったが、体全体が力の入らない状態であったと思えるがそのときはそこまでの状態になっているとは思いもしなかった。腹水はほとんど出なくなっていたせいもあったが、まだ体力の回復が可能との希望的観測を捨てきれていなかったせいもあったかもしれない。・台風の翌日、妻の学友が突然前触れもなく見舞いに来ていたのに病院の玄関でばったり出会った。遠い所をわざわざ来てくださっていたのにまだ面会時間でないので、どうしようかと思っていたところだとのこと。心の優しいところが汲み取れて、思わず涙が出そうになった。丁度妻の調子のよい時間帯だったので喜んで部屋へ案内した。はるばる遠くの病院にまで見舞いに来てくださる友人をもって妻は幸せな人生だったと思う。・付き添いを始めて一月ほどたったある天気のよい朝、カーテンを開けた時、妙に顔が黄色いことに気が付き、最近の検査結果を聞くのを兼ねて医師に尋ねると肝臓にも転移が進んでいて、かなり悪い状態になりつつあり、これ以上病院にいてもどうにもならないから早く自宅に帰ったほうが良いとのこと。覚悟はしていても、やはり心は落ち込む。やはりだめかと。・入院前に数箇所のホスピスを訪ね、あるところを入所候補にしていたので、改めてそこへ面接にでかけ、許可をうることもした。しかし、帰る直前になって、在宅ホスピス医が近くにできていたとの情報が入る。インターネットで探すとほぼ1年前から開業していたとのことで、さっそくそちらへ方向転換する。妻も病院から直接病院ホスピスへ行くことを嫌ったので、まずは自宅へ帰ることにする。在宅ホスピスのできる条件は自分でトイレへ行けることが第一条件とのことでなんとかそれはクリアできていた。・病院では呼吸が苦しいときには酸素吸入もしていたので、そんな内容も対応してもらえるかを在宅ホスピス医と電話で連絡をとり、退院の当日夜から診てもらえるように交渉し、快諾を得て、退院の日取りが決まる。・担当医への退院の挨拶のとき、あとどのくらいの命と予想されるかと尋ねると数週間とのこと。肝臓の働きが悪くなっているのが致命傷のようだ。残念ながら医師の予想通りになってしまった。・酸素吸入、電動ベッド、などの納入日の打ち合わせもすべて電話で自宅への納入予定が決まっていった。酸素吸入は退院の移動中も必要とのことで、病院から手配もした。ただベッドだけは納入日がうまく合わず、退院日には家のリクライニング椅子で寝るしか手段が無く、妻にはすまないことであった。・退院の途中でトイレへ行くには車椅子が楽とのことで、妻の親友に伝を頼って借りてもらい、トイレへの付き添いにも息子の友人を頼み、家族の総力で妻を家に連れて帰った。
2004年12月07日
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・日増しに膨らむお腹をかかえて、妻は自分の最後のときがそれほど遠い先ではないことを覚悟したようだった。頭は少しぼけてきていて、記憶はほとんどできないが元気な母親と故郷の姉妹へ最後のお別れにと息子とでかけた。ウエストが大きくなって、マタニテイのワンピースしか着られなくなっていた。・健康食品の関係の講演会で知った「ガンの休眠療法」により、たとえガンは小さくならなくても、命だけはなんとか永らえないかとの思いで輸入薬剤による治療法を受けることにする。・妻は息子達と私宛に遺書をしたため、もし今度の病院で亡くなったら皆にこれを渡すようにと封筒に入れた遺書を託された。・息子の運転で一番の親友と共に病院に向かった。病院の近くの旅館で最後の楽しいはずの夜を皆で悲壮な思いで過ごした。・幸か不幸か、病院には個室しか空きがなく、最後の贅沢を覚悟して個室への入院となった。寂しがりやの妻には、かわいそうにも思えたがいかんせん、本人は気丈に気楽でよいとのことであった。運び込んだ荷物の整理が終わり、妻を一人残して帰るのはものすごくかわいそうな気がしたが、それぞれが仕事の関係も有り、しばらく我慢をしてもらうことにする。帰り際にそれぞれの手を握って涙を流して別れを悲しんだ。また来るからと言うのが精一杯だった。・入院当初に腹部の膨満感を楽にするため水を抜いてもらうと、約4リットルもあったそうで、その後もしばらく水は続いた。(結果的には入院の時期が遅かったそうで薬の効果が発揮できず残念であった。)・それからは毎週末泊まり込みで付き添いの看病をすることにした。個室なので、他への気兼ねなしに泊まることができるのがありがたかった。しかし、なれない病院で、一人でいるため何かと不足のものがあった。そのため買い物にでかけて、ゆっくりと買い物をしていると、二人の時間を惜しむかのように、すぐに戻れとのメールが入ることが度々であった。一人でいるのがとてもがまんできなかったようだった。・また趣味で始めた絵手紙を書く材料を持ち込んだが、絵を書く気力が出ず、普通の手紙を書くだけとなったが、それでもせっせと手紙を書き、友達から親切な返事をもらっていた。そのうちの何人かは思いもかけずわざわざお見舞いにかけつけてくれたりして、これが最後のお別れと(口には出さなかったが)嬉しかったようだ。・週末の泊り込みの後で届く手紙には私の疲れを気遣うとともに、言外に仕事を止めて看病して欲しいとの思いが溢れてくるようになった。精神的にも体力的にも一人での闘病生活の限界を感じた。
2004年12月06日
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・二度の手術の後、抗がん剤治療を続けていた。マーカーが10近くにまで下がったある日、「マーカーで見る限り、寛解とみなします」との宣言。突然に近い宣言にとまどいながらも、傷病手当が打ち切られた。・腹腔内に播種が残っているはずだから、このままほっておかれたら、すぐ再発するにちがいないと思い、自衛手段を考えた。まず、妻が患者の会の友達から、Mワクチンをしてくれる医師の存在を知ってすぐ東京へ向かった。これは比較的簡単に入手できた。・また、京都でリンパ球療法をするところもわかり、そこへも申し込みをした。毎週京都まで通った。・その他一生懸命に、玄米食、野菜を主とした食事、朝の気功と自分でできる健康法に取り組んだ。生きがい療法や生き方の講演会にも出て、S県のO病院にも月に1度通った。・しかし、努力とは反対に早くも数ヶ月後からリンパ節の大きくなっているのが認められ、次月には別の抗がん剤治療を再開した。このときに、こままでやっていたリンパ球療法、健康食品などの大部分は効果なしと判断して、止めた。リンパ球療法だけで百数十万円が消えた。・この上は神頼みとして、西国三十三ヶ所の観音様のお参りを始めた。病院で治療をする合間を見てのお参りだったが、上醍醐寺、施福寺などの普通の人でもしんどいところをよくがんばってお参りした。お寺を回ることで小さな旅をしたが、これはそれなりの小さな夫婦の幸福な時間でもあった。けれど遠い所を先に回ったため、京都市内のお寺はお参りできずに終わった。観音様には、もう一度お参りにこさせてくださいとお願いしたと言うが、お聞き届けにはならなかった。・抗がん剤により、点滴の時間が長く、体力のない体にはかなりしんどい治療だった。一時はジョクソウになりかかったりもした。そして今度は抗がん剤を打つとマーカーは徐々に下がるが少し休むとすぐ上昇するというパターンが始まった。これはガンに耐性ができてきているからとのことで、しばらくすると別の抗がん剤に換えるというコースになった。・このころ新聞でハイパーサーミアという温熱療法を知り、そこへも治療で通うようになる。健康保険で認められている療法ということで頼りにして、毎週通った。けれど結果論では、腫瘍が小さい場合はうまく作用しないのではないかと考えられるような結果であった。・またHワクチンも頼みの綱として、東京まで診察を受けに行った。これは使用の途中で終わった。・第四の療法との免疫療法が近くでできるようになったという情報で最後の頼みの綱としてここへも通ったが、やはり効果なくここでも百数十万円が消えた。・抗がん剤をいろいろ換えて治療をした結果、保険の効く範囲での抗がん剤はもうないとのことで、事実上お手上げの形となった。だんだんとお腹がふくらみはじめ、お水が溜まってくるのがわかるようになった。TVで新しくできたS県ガンセンターでセカンドオピニオンが受けられることを知り、早速予約を取りでかける。しかし、ここでももう抗がん剤での治療の限界を確認するだけのかたちとなった。・この後、保険は効かないが輸入薬剤による休眠療法というのがあることを知り、そこへ賭けることにする。
2004年12月05日
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・手術前のCTなどの精密検査の結果と手術の内容の説明を受ける。「卵巣のほかに肝臓などにも転移が見られる。詳細は開いて見ないと判らないが、腸にも転移している可能性もある。腸を切ると人工肛門となる可能性もある。」とのこと。ただ黙って聞いていた。・手術の日、病室をベッドに横になって出て行く妻をあるいはこれが最後かと思いながら見送った。手術の間、時計の針の進み具合が気になる。短時間なら、なにもしないで閉じる最悪の事態、長時間なら大手術と推定して、廊下で物音がするたびに、何度も外へ見に行った。 約3時間後、妻は戻ってきた。かすかに息をしているのを見るとほっとした。腫瘍の半分くらいをとったかなという感じがした。・術後の説明では、「卵巣癌の四期です。卵大の卵巣は摘出したが、残り半分は固く癒着していて取れない。播種はごま粒大のものが肝臓をはじめあちこちにあるが、取りきれない。これは抗がん剤でたたくより方法がない。残りの卵巣は抗がん剤で軟らかくなってから取ることに。大網は大部分残した、リンパ節は触っていない、人工肛門は必要ない」とのこと。ただ黙ってうなずくより方法はなかった。麻酔が切れてからも、苦痛の声は一言も妻の口から出なかったのには感心した。・約1ヶ月後から抗がん剤の治療が始まる。摘出した細胞による効果実験では、どれも同じような効果で、特にこれといった効き目のある抗がん剤はなかったとのことで、標準的な方法で開始された。・同部屋の人たちから、髪の毛が抜けることの対策や、健康食品のことなど何かと教えてもらって、それなりに準備はしていたが、最初の抗がん剤の点滴時点ではほとんど抜けることはなかった。また健康食品の採取を医師に打診したが、よろしいとのことで本格的に探すことにした。また、Mワクチンは注射が必要なことから処置してもらえるかどうかを聞いてみるとこれは賛成でなく、注射をしてもらえる処がわかるまで手続きを延期することにした。・最初の抗がん剤治療は、影響が不明なのでということで、点滴後も血液検査などが続いて、ずっと入院生活が続いた。術後の体調の回復はほぼ順調であったが、嘔吐などの影響は強く、食欲だけは以前に比べてかなり低下していた。抗がん剤による影響は、点滴後2週間ほどがもっとも強く、それからは回復していくこともだんだん判って来た。・2回目の抗がん剤の点滴が終わってしばらくして、久しぶりに退院の許可が出た。これからは、通院で様子を見ながら抗がん剤の治療を続けることになる。体調さえよければ、旅行なども可能とのことで、すこしずつ外出も始める。・こんなとき思いがけず、買い物で応募した北海道旅行に当選し、妻と二人で参加した。まだ観光シーズンには少し早くかったが、湖の岸辺に咲く白い、水芭蕉の花が印象的だった。妻とは一度ゆっくりと回る北海道旅行をしようと約束していたが、これが妻との最初で最後の短い北海道旅行となってしまった。・4週間に1回の抗がん剤治療と週1回の検診というパターンの生活がこれから続くことになる。・髪の毛が抜けるということは、予想はしていたが、女の人にとってはやはり重大なことのようだった。普段はスカーフなどを巻いていたが、外出となるとカツラを使用していた。カツラもいろいろあって、値段もピンから桐までのようだったが、自分の頭にぴったりで、顔に似合うのを選ぶのが難しいようだった。また、スタイル別のものや、シャンプーの代替用とかで複数のものを購入していた。・入院生活が一段落したころ、ガン保険の手続きが気になり、保険金の請求用紙をとりよせた。手続きには、医師の証明とともに、給付対象期間は、ガンと確定診断できた時点からであること、請求は2年以内でよいこと、入退院を繰り返すときは、複数の期間記入でよいことなどがわかる。生命共済も似たような書類が必要で、病院に証明してもらうだけでも、少なからず費用が必要なことも判る。・健康保険は、差額ベッド使用の費用は、給付対象外だが純粋な医療費は高額医療費対象として、ある限度以上は3月後に還付されるしくみがあるが、自身で請求の必要な保険機関もあることなどがわかる。こうした保険のしくみがあるおかげで、長期の入院にもかかわらず、実際に要した費用は、あまり多くなかったので助かった。・むしろ、より多くの治療効果を期待して購入した健康食品のほうに多くの費用が必要であった。きのこからの免疫力向上剤、キトサンなどの類、ビタミン類、海藻からの抽出物などなど。どれも宣伝文句は立派だが、その効果は素人では判りかねる。また、消化器系統のガンには有効との記事は多いが、卵巣癌に有効との内容は少ない。それでも、少しでも有効とのデータがあるものを選んで、確実に入手できる方法でもって購入していった。同じ物でも、インターネットでの購入が安いことも判って来て、いろんなデータを比較して購入先を選んだ。・患者同志の連絡会のようなのがあちこちにあることも判るが、ほとんどが東京方面の会で、なぜか地方には少ない。それでも参加できそうな会には2,3加入して、そこでいろんな情報を得ることができるようになった。またそこで同病の方と知り合いになり、お友達もできたようだ。こうした会の存在はありがたいことであった。・会への参加は、大部分一人で出かけたが、時には二人ででかけることもあった。特に最初の場合は、どちらかというと妻は方向音痴なので二人で行って、目標となる目印などをチェックしたり、所要時間を調べたり、乗り継ぎを調べたりと準備が大変。でもそれが会話の種ともなり、それなりに楽しい時間でもあった。時間があるときは、車で連れていったりしたが、それはそれでうれしいことでもあった。・お盆に故郷へ帰ったとき、遠縁の叔父さんが肝臓ガンで、東京へ治療に通っているとの情報を得て、聞きに行く。東京では、大学でリンパ球療法をしていて、行ったその日に帰るというやや厳しい日程ながら月に一度くらい行っているとのこと。それをすると自分では元気が出ることがわかるとのこと。また、玉川温泉にも時々出かけるがこれも良いとのことで、利用方法などを教えてもらう。ただ玉川温泉も長期滞在でないと効果もでないと思われるので、現在の抗がん剤治療をしている間はなかなか時間のやりくりができない。・こんなふうにあちこちから、治療方法についての情報が断片的に入るが、客観的なデータとして揃っているのは殆ど無い。学術的に見ればデータのないことは信用できないとのことで、それはそれとして理解できるが、こちらは今現在で、少しでも効果を出そうとしているので、データを待つ時間が無いのが本音である。現在の確定された抗がん剤の効果を100としたとき、たとえ「1」でも効果があれば、それを積み重ねて10でも20にもしたいのが患者とその家族の気持ではないかと思う。・そういう気持を汲んで治療をされているのが、S県のO先生であることがわかる。また同様の立場で治療に取り組んでいらっしゃる先生も比較的近くにいらっしゃることなどもだんだんと判ってくる。人間の生きる力を最大限生かして治療にあたるということは素直に考えて本当の道ではないかとも考えられるが、現在は試行錯誤の段階のようにも見える。また、外国での治療のありかたなども、いろいろあるようだが、日本から脱出していくほどの勇気と財力と知識も持ち合わせていないのが残念ながらよくわかる・・6クールの治療の結果、アミラーゼもマーカーのCA125も500~600であったのがそれぞれ100程度と一桁に下がり、抗がん剤が効いているのが判り、少し安心できた。あるいは、このまま治ってしまうのではないかと思ってしますような経過であった。・MRIなどでの検査によると、腫瘍の石灰化と軟化が認められた。またこの時期に、お腹の調子がおかしいとのこともあって診断の結果、縫い合わせ部が一部外れていることが判る。これは再び切開して縫直すより方法がないとのことで、腫瘍を摘出するのと兼ねて再び手術をすることとなった。知人の医師に聞いてみると90%は医師の技術によって起こる症状とのことだが、いかんせん患者は結果が出るまでは内容を知ることはできない。・再度の手術で、残りの卵巣と子宮を摘出してもらうも、依然として播種細胞は残る。・1月後、再び抗がん剤投与の治療が始まる。残りの播種細胞も消えてなくなることを祈りながら病院通いが続いた。MRIでの検査では1cm以上の腫瘍は認められないとのことだが、骨盤内リンパ節に軽度の膨張が見られるとのことで、安心はできない状態であることには変わりは無いと思っていた。
2004年12月04日
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・内科の先生からは、ガンの疑いが濃いが、本人に伝えてもよいかとの打診があった。私は、これからの闘病を考えると本人の自覚無しにはとても耐え切れないと考えていたし、本人もそう推定していた気配があり、二人に直接伝えてもらうことにした。・婦人科へ移り、週末に手術前に一時帰宅が認められて家に帰ったとき、二人で声をあげて病名の不運の悲しみに泣いた。しかし妻はすぐに気を取り直して、「お父さんが泣いていてはだめ、一緒に頑張って」と逆に励まされた。 それからはまず情報を集めることにして、インターネットと本屋でいろんな情報を集めることとした。しかし、最初はどんな情報がどこにあるかはさっぱりわからなかった。最初にあたった文献では卵巣がんは比較的薬で治ることが多いとのことで、少しは気持が楽になるも本当にそうかどうかはどうもはっきりしない。 まずは、新聞情報でよく見かける、免疫力を高めるための健康食品を購入することから始める。インターネットで購入の調査をして、安く確実に、入手できる方法を探した。また本屋では、いろんな健康食品の紹介の本の中から、データを詳しく示している本を選び、患者の生き方に関する本をも選んだ。なかでもガン患者学という本はいろんな意味で参考になる内容が多く、妻と必死で読んだ。この本にあった内容は、その後の闘病生活に大きな影響を及ぼした。各種のガン患者が実行した玄米食、野菜、免疫強化食品、精神的安定による免疫力強化などの成功例があり、これを真似すれば我々も成功するのではないかと思った。
2004年12月02日
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