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超長期天気予報によれば我が一億年後の誕生日 曇り 「日本文学盛衰史」 の中で、ブルセラショップの店長さんだか何だかで、糊口をしのいでいる 「石川啄木」君 が読んだ歌ですね。最後の 「曇り」 だけ一文字空けになっています。
「ラインマーカーズ」(2003)
穂村が啄木に自らを託す歌としてこれを選んだのは、「高すぎる自意識とプライド」という点こそが二人をつなぐ接点だと考えたからではないかと思う。一億年後も自分の名は世界に残っているような気がしてならないという素朴な実感もまた共有しているのだろうか。 (山田航) で、 穂村 の自作解説の結びはこうでした。
誕生日の永久欠番、というなんかそういう感覚にちょっと惹かれるところがありますね。死んだあと幽霊として自分のところに出てきたガールフレンドの髪形がなんか中途半端とかね、そういう事に対するあこがれが何かありますね。 どうして、 「ガールフレンドの幽霊」 の髪形の話になっているのか、よく分かりません、前後にそういう歌が取り上げられているわけでもありません、が、 啄木 と、そして 穂村 自身の「自意識」には。直接コメントしていませんね。ちょっと残念だったのですが、ページを繰っていると、別の歌の話で出てきました。
その「曇り」とちょっと近い感じなんだけど、人間って髪型がいつもそうなるものじゃないのかな。と。髪型が中途半端な気味が好きだっていうのは、ぼくの感覚ではとてもいい愛の言葉なんだよね。 (穂村)
メガネドラッグで抱きあえば硝子扉の外はかがやく風の屍 この歌をめぐっての、 山田航 の解説はこうでした。
高橋源一郎「日本文学盛衰史」(2001)所収 石川啄木の歌として書下ろし
「シンジケート」 の頃の作風をほうふつとさせる一首である。 「メガネドラッ/グで抱きあえば」 といういささかつまずき気味の句跨りになっており、ここにごこか歪みのある都市風景が託されている。
(中略)
そして何より大事なのが、これが 石川啄木作 という設定で書き下ろされた作品であること。
非常に 穂村的 な作風なのだが、穂村なりに啄木に思いを馳せて作ったと思われる。風の屍に囲まれて硝子扉をはめられたメガネドラッグは、啄木が感じていた時代の閉塞感の比喩なのだろう。
そして、現代の歌人である穂村もまた。啄木と同質の閉塞感にシンパシーを覚えていたのだろう。
ひまわりの夏よ 我等の眼よりゴリラ専用目薬溢れ
ルービックキューブが蜂の巣に変わるように親友が情婦に変わる
ほかに 「日本文学盛衰史」 に寄せられた歌にはこのようなものがある。
後者は後に 「親友が恋人になる」 と改められて発表されている。
外に出られない、出ても何も変わらない世界の中で、ひたすら小さな変化と他者との感情の交感を求め続けていた人。それが 穂村にとっての啄木像 だったのだろうか。 (山田)
〈ルービックキューブが蜂の巣に変わるように親友が情婦に変わる〉 という歌を、別なところで 「親友が恋人になる」 に改めて発表したってありますが、これはやっぱり「親友が恋人になる」のほうがいい。そう思って推敲したんでしょう、忘れましたけど。 面白いですね、ぼくは、実作者の発言のほうに納得しました。まあ、 「親友が恋人になる」 のほうが、より禍々しいというあたりは、もう少し詳しく聞きたいところではあるのですが。
つまり「ハチの巣」と「情婦」がつき過ぎで、情婦だと蜂の巣のようにまがまがしいってことが普通になっちゃうんだけど、実は恋人のほうがよりまがまがしいんだっていう感覚。親友が恋人になることがより怖いと思い直して推敲したんだろうな。これを読んで思い出しました。
啄木像は意識していません 。実際の啄木に合わせてもあまり意味がないような内容でしたから。小説のなかの啄木のほうは多少意識しました。 (穂村)
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