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祖母について数多くある思い出の、後のほうのものですから、私は七、八歳だった、と思います。戦争の間のことです。祖母はフデという名前でした。そして私にだけ秘密を打ち明けるように、名前のとおり、自分はこの森のなかで起こったことを書きしるす役割で生まれて来た、といいました。もし、祖母が、帳面といっていたノートにそれを書いている、見たいものだ、と私は思いました。 この本の表題である 「『自分の木』の下で」 という、 『自分の木』 について、祖母のことばとして語られています。ここには、さわりを引用していますが、 祖母 は、子供たちが、 自分の木 の下で、時間を越えて年をとった自分と出会うことについてまで、 大江少年 に語った思い出が記されています。
なにか遠慮があって、それを遠廻しにたずねてみると、いいえ、まだはっきり覚えているから、という答えでした。もっと年をとって、正しく覚えていることが難しくなったらば、書くことにします。あなたにも手伝ってもらいましょうな!と祖母はいいました。(P24)
その話のひとつに、谷間の人にはそれぞれ 「自分の木」 ときめられている樹木が、森の高みにある、というものがありました。人の魂は、その 「自分の木」 の根方から谷間に降りて来て人間としての身体に入る。死ぬ時には、身体がなくなるだけで、魂はその木のところに戻ってゆくのだ・・・・。(P25)
子供の私が、 「自分の木」 の下で会うかもしれない年をとった私に ― お祖母さんがその可能性もあるといったのですが ― 、 あなたはどうして生きてきたのですか? とたずねようとしている場面です。別にだまし討ちを計画していたのじゃありません。 以前なら、この気真面目さに辟易していた可能性がありますが、今回のボクは、若い読者たちのこの言葉を贈る作家の気持ちに素直な共感を感じました。
私はあらためてこう考えるのです。いまはもう、あの老人の年齢になった自分が、故郷の森に帰って、まだ子供のままの私に会ったとしたら、どういうだろうか?
《きみは大人になっても、いま、きみのなかにあるものを持ち続けることになるよ!勉強したり、経験をつんだりして、それを伸ばしてゆくだけだ。いまのきみは、大人のきみに続いている。それはきみの背後の、過去の人たちと、大人になったきみの前方の人たちとをつなぐことでもある。
きみはアイルランドの詩人イェーツの言葉でいうと「自立した人間(アップスタンディング・マン)」だ。大人になっても、この木のように、また、いまのきみのように、まっすぐ立って生きるように!幸運を祈る。さようなら、いつかまた、どこかで!》 (P215~216)
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