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ボクなりに、要約して言うと、 西洋近代的な思考 の、まあ、日本でいえば明治維新以後の150年間、学校で教えられてきた 「科学的」「論理的」なあらゆる概念 が、われら近代人は長い間、西洋文明の中で育まれ、世界中に浸透した、利己的で、貪欲で、競争的で、疑い深く、暴力的な人間像を各自の意識の底辺に住まわせてきた。
ホッブスの「万人の万人に対する戦い」から、リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」に至る、暗く悲観的な性悪説が、現代世界の主流である経済学や政治学を支えている。そこでは、ホモ・サピエンスの「サピエンス」は「ずる賢さ」としての知へと貶められている。
一方、ルソーに代表される性善説は、「楽観主義」「ロマンチシズム」「非現実主義」として、「幼さ」や「女々しさ」、「ナイーブさ」として批判や嘲笑に晒されることが多かった。 どうやら我々はいつのまにか、信じたくないことを信じさせられて、しまいには、そう 信じることを自分が望んだと信じてしまったかのようなのだ。今や「知的」であることと、シニカルであることは切っても切れない関係にあるらしい。世界中にさまざまな「陰謀説」がはびこるのも無理はない。環境活動や社会変革運動の中にさえ、性悪説やシニシズムから来る絶望感が広がっている。 こうした自己否定の泥沼こそ、分離(セパレーション)の物語が行きついた場所だ。
「進歩」と「発展」によって、地域、コミュニティ、自然生態系といった制約から一つずつ人間が解き放たれ、“自由”になって飛び立っていくという物語―言い換えれば、「人間」ということばの「間」を取り除いていったことの結果だ。その果てに、人類はいよいよ存亡の危機に立たされている。
世界各地でベストセラーになっている「ヒューマンカインド―希望の人類史」が教える通り、人間孫座の本質を「愛」「親切」「友情」「助け合い」「信頼」と言った関係性に見出す新しい時代の性善説が、今、生物学や人類学をはじめとしたさまざまな分野で勃興している。「あいだ」という非西洋近代的な概念の井戸から汲み出される思想が、「分離からつながりへ」の転換という人類史的な事業に寄与する可能性をボクは信じ始めている。(P13~14)
現象を区切ることで理解する定義だったといえるのですが、行き詰まりに直面している今、 区切る んじゃなくて、
「あいだ」を考えてみませんか!という論旨ですね。
ここからは、私事になる。ぼくは六〇年代に本を読み、まねごとのようになにか書くようになった。その際、もっとも影響を受けたのは日本語で書く現代詩人たちだった。固有名をあげるなら、 谷川雁 と 吉本隆明 である。彼らは、二人とも、単に詩人であるだけでなく、優れた批評家であり、また、同時に、社会運動の実践者であり、新しく社会思想を作ろうとした人たちでもあった。その時代に、なにかをしたいと思う若者たちにとって、もっとも輝かしいロールモデルが彼らだった。六〇年代、まず先鞭をつけたのが谷川雁であり、吉本隆明がその後に続いた。日本社会への影響という点で、単に「詩人」であることの枠を超えた存在が、この二人であった。のくの書くものの中にも、いまでもこの二人の考え方、ことばの作られ方が深く刻み込まれている。吉本隆明は最晩年に至るまで、影響を与え続けたが。思想家としても詩人としても、谷川雁の仕事は、ほぼ六〇年代に終了している。鮮烈な記憶を残して彼は消え去ったのである。ぼくは作家として、一九八一年にデビューした。さまざまなことばがぼくの中に流れこんでいたが、そのもっとも直接的な影響は 藤本和子 が翻訳した リチャード・ブローティガン だったように思う。七〇年代に始まった藤本和子のブローティガンを日本語に翻訳する試みは、翻訳の世界にとって、戦後最大の事件の一つだった。それは、彼女のことばは、翻訳である以上に、あまりにも独特の魅力をもった日本語だったからである。二葉亭四迷のロシア語からの翻訳が日本近代文学を成立させたように、藤本和子の翻訳は日本語に新しい世界を付け加えたのである。だが、藤本和子の日本語の奥には、 「ブルースだってただの唄」 があった。アメリカ黒人女性の聞き書きがあった。そして、藤本和子の聞き書きのさらに奥には、 森崎和江の「からゆきさん」 における、性を売らねばならなかった戦前の日本女性、 「まっくら」 における、筑豊炭鉱の女坑夫からの聞き書きがあった。いううまでもなく、 「苦海浄土」 における 石牟礼道子 の水俣病患者の聞き取りも、その一つだった。森崎和江こそ、戦後最大の労働運動となった三池闘争を背景に九州の炭鉱でサークル運動を繰り広げていた谷川雁のパートナーであり、その運動の中に石牟礼道子もいたのである(やがて、森崎も石牟礼も、運動から離れていく)六〇年代、谷川や森崎や石牟礼が見つめていた世界、そこから生まれたことばと、数十年後、なにも知らずに対面していたのである。おそらく、森崎や石牟礼は、政治や社会を動かす「男」たちのことばの本質的な欠陥に気づき、もっと弱い者たちのことばに耳をかたむけることかた、すべてを始めたのだろう。その仕事は、半世紀以上のときを超えて、今に伝わっているのである。
マイッタ!でした。
「自分のことば」と自分との「あいだ」の再確認のようなことですね。どうせ、ヒマなわけで、ゆっくり辿りなおそうと思います。
政治・社会・文学・生活、それらすべてが混沌と混ぜ合わさっていた頃、そう、なにもかもが、「雑」然としていた時代に生き、やがて、「弱い」者たちのことばに耳をかたむけ、遠く隔たった者たちを、「翻訳」また「通訳」という「あいだ」の仕事によって結びつけてきた者たちがいた。彼ら、彼女らの仕事を受け継ぎ、ぼくたちは、さらに前に進まなければならないのだ。 「弱さの思想」(大月書店)、「雑の思想」(大月書店) と、 お二人 で論じてこられた現代社会に対する論及シリーズの結論ですが、ボクはとりあえず、その 二冊 を読むことから始めたいと思いますね。
はじめに 辻信一第一章 さまざまな「あいだ」第二章 「あいだ」を広げる二つの視点(田中優子・山崎亮)第三章 「あいだ」は愛だ第四章 「あいだ」で読み解くコロナの時代第五章 「弱さ」×「雑」×「あいだ」おわりに 高橋源一郎
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