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ああ、これは・・・という気持ちで写し始めたのが、本書の表題になっているこの追悼文です。
池澤夏樹 「新しい目」 で 石牟礼道子 や、彼女のまわりにいた人たちをたどりなおせたらと思います。されく魂 ― 石牟礼道子一周忌に寄せて
石牟礼道子さんがお果てになってから一年が過ぎた。太陽を一巡りして地球は同じ位置に戻ってきた。また寒い時節。一年前、容態が悪いと聞いたのは取材で行っていた小樽の先の車の中。札幌の家に戻った翌朝に、亡くなったと報せがあった。今も札幌はあの日と同じ雪景色。最高気温は零下五度。いつもの冬である。作家や詩人が身罷った後、悼むのにすべきは著作を読むことだ。ご本人はいなくともその思いと考えは本の中に残っている。いわば永遠の命。ところがこの一年、なぜか石牟礼さんの本を読む力が湧かなかった。どの文章も一行ずつが生々しくて、強烈で、ページを開いても弾かれてしまう。少し読んでわかった気になる自分を認めたくない。まして人前でしたり顔で石牟礼道子を論じるなどとてもできない。一度だけそういう場に立ったけれど、ひたすら作品の抜粋を朗読してお茶を濁した。お目にかかった時の姿や声、それに対してあれだけの作品群を生んだ膂力、この二つの像の間で途方に暮れている。この人を自分の中でどう位置づけていいか今もってわからない。気の利いた言い回しで賞揚すればいいというものではないのだし、そういう役割は一通り済ませた。これ以上はなにかする分だけ自分の中の石牟礼道子が減ってしまう気がする。
熊本で刊行されている「アルテリ」というリトルマガジンの七号に石牟礼さんの詩が載っていた。草稿のまま残ったものが発掘されたのだ。これを読んで、書いている途中で新しい想を得て流れをがらりと変える、石牟礼道子の創作の技法に何百回目かにまた驚いた。渡辺京二さんはこれを「脱線」と呼ぶ(「脱線とグズり泣き」『預言の哀しみ』)。脱線なのだろう。筆の貧しい者は足りない素材を無理に使い回して紙面を埋める。ぼくはものを書く自分は井戸であると思っている。水の湧出量は限られていて、性急に汲み上げると涸れてしまう。しばらくまた滲み出すのを待つしかない。(このイメージの背後には「星の王子さま」のあの滑車がきしむ井戸があるのだが)。石牟礼道子の場合は水は奔放にとめどなく溢れ出て、地形を侵食し、勝手に流路を変える。「アルテリ」の詩は死者のことから始まる―
よみがえる死ながい小暗い原っぱをお月さまばっかり背にして五十年も歩いたいくら死人(しびと)だとはいえ歩きつかれたと云っている
だけどもわたしは原っぱだから死者たちのゆく原っぱでしかないから一度死んだら二度死ぬことはできないおまえたちよむろばっかり抱いていていちどもあたたまったことのないわたしだって生きるとも死ぬとも誰もきめてくれずただ永劫であるわたしはこころが蒼いというだけでおまえたちにはもっともふさわしいものなのだ
死んで(おそらく)浄土に向けて歩み続ける死人たちはわかる。薄暗い道をとぼとぼ辿る。宮沢賢治ならば「ひかりの素足」で一郎が弟の楢夫を連れて仏に出会うまで歩むあの道。しかし、そこでどうして主役を原っぱの方へ切り替えられるのだ?この飛躍、この脱線が石牟礼道子である。運動感、融通無碍、捉えようとするとするりと躱(かわ)してずっと先に行ってしまうダイナミズム。それを考えていて思い至ったのが、心と魂の違いということだ。ここ数年は日本文学の古典に親しんでいるのでこういう方角に思いが向かう。
水俣の言葉に由来する石牟礼道子のキーワードが三つある。「のさり」は天の恵み。患者の杉本栄子さんは最後には病気をさえ恵みと読み替えた。「悶え神」は他人の不幸を己のものと受け止めて、何の助けにもならないのに共に悶える、そういう気質を持った人。本が好きな叔父国人は「書物神」。精勤に励む人は「働き神」。そして最も大事なのが「されく」という動詞。「さまよう」であり、ありていに言えば「ほっつき歩く」である。石牟礼さんは「漂浪く」という漢字を当てる。方言を共通語化するための工夫。ここも彼女の詩を引用するのが話が早いだろう―
糸繰りうた
日は日に昏(く)るるし雪ゃあ雪降ってくるしほんにほんに まあどこどこ漂浪(され)きよりますとじゃろ
夜も日も明けずわが魂のゆく先もわからんみんみんぜみのごたるみぞなげなおひとでございます。
「わが魂の行く先もわからん」というところに鍵がある。みんみんぜみが飛ぶように魂は飛ぶ。どこへ向かうか知りようがない(「みぞなげな」は「かわいそうな」の意、と渡辺京二さんにご教示いただいた)。魂は自由だから肉体から離れることができる。「魂(たま)」は「体内から抜け出して自由に動きまわり、他と交渉をもつことができる遊離霊で、肉体が滅びてもこの世にとどまって人を守るとされた」と「古典基礎語辞典」にある。「魂」に対するのは「心」という言葉だ。同じく「古典基礎語辞典」によれば、「はじめは心臓とその鼓動を意味し、そこから、肉体に一つの場所を占める、あらゆる精神活動の主体と、その精神活動そのものを表す。」ものである。だから心は一個の個体から離れることができない。それがエゴイズムの根源であり、故に夏目漱石はあの名作に「こころ」という題を付けた。魂の動きについてわかりやすいのは―もの思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見るという和泉式部の歌だ。あるいは「源氏物語」の「葵」の帖。六条御息所の魂は(ここでは生霊と呼ばれるが)、肉体を脱けて出産の褥に横たわる葵の上に取り憑く。この「糸繰りうた」は母親が子供を、あるいは妻が夫を思っているように読めるけれど、実は自分の魂の行方を自分で案じているのではないか。民謡のようなだいがついているが、実態は自分を哀れむ繰り言なのではないか。昔、心とエゴイズムについて真剣に考えたことがあった。人はみな自分という塔の上にいる。そこは広い平野で間をおいて塔がたくさん並んでいる。それぞれの屋上に一人ずつ人がいて、手を振って合図したり言葉を交わすことができる。それは手旗信号でもいいしLINEでもいいが、しかし人は臆病だから塔を降りて隣の人と抱擁することができない。孤独とはそういうことだ。この嘆きをもとにぼくは「帰ってきた男」という短編を書いた。一本の境界線がある。そこを越えれば個の埒を超えて人格の融合が実現する。エゴイズムからすっかり解放される。しかし、それは人格の消滅かもしれない。二人の男がその境界線を前にして議論し、一人はそこを越えて彼岸にゆく。もう一人は越えられず「帰ってきた男」になる。塔の上の人という問いをインドの山奥でダライ・ラマ法王に直接問うたことがある。いきなりこんなことを問われても猊下も戸惑われて、まああたりさわりのない答えが返ってきた。申し訳ないことをしたと思う。それで考えるのだが、これを心の問題と考えるから解が得られないのだ。これは本来は魂に属する問題である。魂であれば己を保ったまま他と融合できる。「椿の海の記」で語り手のみっちんは狂った祖母おもかさまと融合している。祖母はしばしばさまよい出す。孫が探しにゆくと降りやんだ雪の中に立っている。「世界の暗い隅々と照応して、雪をかぶった髪が青白く炎立っていて、私はおごそかな気持ちになり、その手にすがりつきました」という先、祖母に抱きしめられたみっちんは「じぶんの体があんまり小さくて、ばばしゃんぜんぶの気持ちが、冷たい雪の外がわにはみ出すのが申しわけない気がしました」。これが魂の融合ではないか。あるいは権妻であるもう一人の祖母おきやさまが語る浄瑠璃の「葛の葉」の狐忠信に惹かれて、大廻(うまわ)りの塘(とも)で四、五歳の女の子が「いま狐の仔になって、それから人間の子に化生している自分とおもえばただならぬおもいがする。野菊の咲き乱れている足元がふっと暗くなり、この世は仮りの宿りとつぶやいて、えたいもしれずさまよい出したわが魂におどろいて見あげれば、もう色の変わった海の風がするするとうねって来て、逆さ髪の影絵のような芒のあいに、赤いおおきな落日がぽっかりとかかっているのだった」魂がさまよい出す。ほっつき歩く。それはそのままこの作家・詩人の魂が水俣病の患者たちの魂と融合できるということである。だから彼らの思いを深いところで捉えて、彼らの言葉として「苦海浄土」を紡ぎ出すことができた。それは軽薄な読者が聞き書きと思い誤るほどうまくいった。共感能力と言ってもいいけれど、しかしそれは「されく魂」の力なのだ。Sympathyもcompassionも語源は共にpathosを共有するといういう意味である。若い時、石牟礼道子は生きるのが辛かった。世間と折り合いが悪く、何度か自殺を試みたほど辛かった。その思いをとりあえず短歌にした。結婚に際して(!)何とてやわが泣くまじき泣けばとて尽くることなきこのかなしみをと詠んでいる。短歌はミニサイズの私小説である。それで苦しさを表明したけれど、それは心の問題であった。やがて歳月を経て彼女はエゴの砦を出る力を蓄え、心ではなく己の魂に率いられるようになった。その萌芽は戦災孤児を引き取って面倒を見る「タデ子の記」などに見ることができる。他者への関心が生きる力となった。後に水俣病の患者たちに出会った時、彼女はそこに魂の同胞を見出した。近代は、チッソは、魂を拒絶する。無限に増える数字の壁で魂を押し伏せようとする。柳田国男は「我々は皆、形を母の胎に仮ると同時に、魂を里の境の淋しい石原から得たのである」と言った。(ぼくはこれを福永武彦の「忘却の河」の第七章の扉で知った。柳田の原典は「神を助けた話」という赤子塚の話らしい。)。近代はこの「淋しい石原」をブルドーザーで壊してしまった。魂はみな寄る辺なき身になった。こういうことを書きながら、こんな風に石牟礼道子の世界を要約してどうするのだという思いも湧いてくる。いくら解説したところで彼女のオリジナルの一行にはかなわない。第一、この種のことならば渡辺京二さんがすっと先行してずっと的確に書いておられる。この人の石牟礼道子論を読むたびに自分が何も読めていなかったことに気付いて息をつく。石牟礼道子は存在自体が一つの文学的な奇蹟だが、その近傍に渡辺京二がいて彼女を支え、読み解き、世間との間を繋いだこともまた文学の奇蹟だった。彼の「もうひとつのこの世」と「預言の哀しみ」があればぼくのこの小論などとんと無用なのだ。この二冊を全文引用すればそれで済む。そもそもこの文章は引用が多すぎる。資料に依って論を構築するのは理系の手法である。化石に頼る古生物学のようなものだ。他ならぬ石牟礼道子のしなやかな文業に対してそういう途からしか近づけない自分を恥じると同時に、しかし生半可に彼女の文体を模したセンティメンタルな悪文を書かない抑制くらいはあると自覚する。「高ざれき」の癖がひっついた者、という言い回しを彼女はどこかでしていた。どうやら京二さんにもぼくにも、石牟礼道子がひっついているらしい。ではまた著作を新しい目で読もうか。「椿の海の記」と「苦海浄土」、どちらを先にしよう。「十六夜橋」も「あやとりの記」も読んでくれとせがんでいる。傍らには京二さんの本と並べて米本浩二の「評伝 石牟礼道子―渚に立つひと」を置いておこう。
追記
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