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昨日のブログで仙石原のススキを楽しんだことを記した。そこでも述べたが、火山噴火など水流がせき止められて生じた湿地は、湿生植物→乾生植物(雑草)→ススキ(萱)→熊笹→低木(灌木)→高木、と変化して行くのだろう。ススキ以降の植生変化は人為的に制御することができる。薄ヶ原を保持する目的で野焼きが行われる。ススキは焼かれても春になると根から新芽が出てくるが樹木はそうはいかない。成長するためにはなん年かの時間を要するからである。したがって野焼きを毎年行っていれば森林化することはない。アメリカの国立公園などでは10年に一回くらいの山火事が起こって自然が保たれているという。中には山火事の熱で初めて種がはじけて発芽するというような猛者植物もあるそうだ。また枝葉が焼けても幹は残りそこからまた枝葉を延ばす植物もあるという。昔イエローストーン国立公園を訪れた時、山火事の跡地に群生するヤナギランの美しい花と、黒い幹から緑の枝葉をつけた樹木を見て驚いたことを思い出す。つまりは下草を刈り、枝打ちをして森林を繁らせる役目を人間ではなく自然に発生する山火事がしてくれというわけである。植物は自然に逆らわずあくまでも自然に同化して生き延びているわけである。日本の新聞はアメリカの山火事被害を大げさに報じるが本来森林が茂るべき区域に人間が別荘や住宅を作るのが違反なのかもしれない。自然との調和を美しく謳いあげることも必要だが、元来人間の歴史は自然との闘いの歴史でもある。ススキが原となった仙石原にもまだ歩道の縁などに野草が生き残っている。これはリンドウだろう。伊藤佐千夫の小説「野菊の如き君だった」では野菊と対で描かれている。美しい花であるが今のところ同定できない。これもいたるところで見るがヨメナとノコンギクの違いがわからない。キキョウの一種だろう。特に野草花に注意したわけでもなく、なんとなくカメラに収まっていた花を記載したが、ここで述べたかったことは生野草植物、乾性野草、萱 という植生連鎖の痕跡が仙石原でも見られるということである。
2017.10.31
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紅葉にはまだ早い箱根であるがいまはススキの見ごろと推察して出かけてみた。箱根仙石原のススキはいつが見ごろかというと答えは難しい。まず冬の間は幹が倒れ敷いた枯れ野原で広々として爽快である。三月初め春を感じ始めると野焼きである、すると野原は一変真っ黒な広がりとなる。春一斉に芽吹いたころも新鮮な緑のじゅうたんで気分がいい。夏の間に成長した穂先が夏の終わりには垂れてきれいな曲線をつくる、そして中秋ともなると満月の光にキラキラと輝いた穂先が美しい。晩秋になると穂々が種を振りまくために銀色に輝き、葉っぱはその年最後の緑の仕事をおえようとしている。今はちょうどその時期で晴れた日の陽の光で透ける穂先の輝きは見事である。仙石原が相当するかどうか分からないが湿地は小さな雑草→ススキ(萱)→熊笹→低木(灌木)→高木林、と変化して行くのだろう。ここも隣は湿地植物園である。こう強く感じるのは近くの十国峠など50年前は一面のススキ原であったのに今は一面のクマザサの原にかわっている。こういった植生の変化を遅らせてススキが原を維持するためには野焼きが重要だ。毎年焼かれたのでは樹木は育つ暇がない。奈良の若草山などはそうして何百年も草原を維持してきたのだろう。ウィークデイとて性別・年齢に偏りのある観光客が約700mの一直線の遊歩道を歩いている。私はここを歩くのは50年ぶりである、そのときすでに遊歩道はあったがそこは草に覆われた広々とした田舎道であった。あれからの月日は大分この遊歩道の様子を変えている。水で流された道路は登山道の体をなしており、人々は端の狭いコンクリート堤を歩いている。上の写真を見て初めて気付いたが正方形の模様がはっきりしている。これは多分野焼き作業のために作られたものであろう。面白いのは遊歩道の左右のススキの写真である。順光のススキは銀色に輝いているのに反して逆光のススキはやわらかいラクダ色である。下りは三国峠や長尾峠を抱えた箱根外輪山の景色となる。青空に揺れる銀色の刺繍のような光景はまさに一服のトランキライザーといってよいだろう。
2017.10.30
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今回の箱根旅行は天気予報に騙され、初日は終日寒い雨風の一日であった。翌日朝食会場から窓外を見るとまさしく蒼穹の空。前日は灰色だった芦ノ湖もこの日は空に負けぬ碧。その山の端をたどるとちらりと白いものが、これこそ3776mの頂である。それにしてもちらりである。昨夜来の悪気も大分治まったのでホテルから近い桃源台から箱根町へ海賊船遊覧することにした。多くの外国人観光客、小学生の遠足などで賑う桟橋から船に乗り込む。体調も完全ではないし、もう数えきれないくらい乗船しているのでキャビンで座って過ごす。装飾の異なる海賊船が行き交う、もう一艘が続いた、これは多分団体チャーター船なのだろう。上の写真で左側にある建物はプリンスホテルの竜宮殿である。本殿(中央)左の建物(新館)が一つ余計であるが、それを除けば宇治の平等院を模した造りになっている。東日本大震災で建物が損壊してしばらく営業していなかったが今はもう開業しているのだろうか。戦前浜名湖ホテルとして開業し、戦中の軍隊接収を経て廃屋になっていたものを西武の堤康次郎が箱根に移築したもので、歴代総理大臣や外国の要人が多く宿泊している。さて箱根町のピアのすぐ裏側から湖を挟んで反対側の箱根外輪山の尾根を通るスカイラインを走るバスが一日4本くらい運行されている。尾根筋に民家はなく常に富士の姿を眺めながらの観光路線であるがあまり知られてなく、この日の乗客は外国人を含む3組6人だけである。観光バスではないが途中展望台を兼ねた三国峠駐車場で5分くらい停車してくれる。バスの窓からやや緑がかって見えた峰は肉眼ではさらに白いものを頂いて美しい姿であった。前日降ったこの雪は初雪ではないが初冠雪だそうだ、つまりこの白いものは来年の夏までこの頂に居座ることになるらしい。富士の左側の裾野の向こう側にはうっすらと南アルプスが見える、そこには北岳があるはずで、したがって日本で1,2番の高さの山が見えるわけである。バスは最初に乗った6人を乗せたまま、この日の朝船に乗ったピアノある桃源台についた。箱根の温泉街や芦ノ湖湖畔では外輪山に阻まれて富士の姿は上半分しか望めない。この路線バスはその外輪山の上を走るので写真のように富士の全容をとらえることができる。この雄大な景色の路線はもっと知られてしかるべきだろう。
2017.10.29
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先週の天気予報は大いに人騒がせであった。一週間にも及ぶ連日の秋雨が続き、週末の台風を経て以後は連日秋晴れの予定であった。ほぼ100%秋晴れを予想して箱根の宿を予約した、ところがである25日は朝からしとしと雨。仙石原でススキが原を散歩する予定だったがとんでもない、時間があり余ったのと幸いフリー切符なので乗り物は何でも乗れる。そこで大涌谷の噴気原を見に行くことにした。私はロープウエイで桃源台から大涌谷を往復したが、大涌谷からさらに早雲山へ抜けるロープウエイは噴気谷をまたいで雨と火山性噴煙の中をゆっく動いていた。ここのロープウエイはカタツムリのように2本の角をロープにかけている。これだと風が吹いても横揺れが少ないだろう。ロープウエイ駅の前は朦々たる噴気である。2015年の爆発以前は小規模な噴気であったが今は迫力満点である。ただ寒い雨中とて観光客は写真を撮るとすぐ屋内に逃げ込んでいる。客の半分以上は外国人なので寒かろうが暑かろうが旅程を消化しているのだろう。噴気孔は硫黄で黄色いばかりでなく辺り一面に硫化水素の匂いが立ち込めている。2年前に来た時にはロープウエイの客に湿った紙タオルとマスクを配布していたが今はもうしていないようであった。山体維持のための防壁がしっかりされている。そして驚いたことに建物がずいぶん増えている。ここでは噴気を冷まして温泉水を作り温泉宿に給湯しているとのこと、たぶん従業員のための防毒フィルターを備えた換気装置が付いた避難小屋が出来ているのだろう。私はゴンドラの中で寒さに震えだした、ところがこの気温8℃、冷たい風雨の中皆真冬のいで立ちなのに半ズボン姿のこんな人もいる。ヨーロッパアルプスなどに出かけると寒い高山でも半ズボンの人がよくいるが、さすがにこの人には参った。西洋人の基礎代謝は高くて寒さに強いということは理解できるがそれにしても恐れ言った次第。私は当然の結果としてその夜は体調絶不調で温泉浴どころではなかった。
2017.10.28
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上野公園に足を踏み入れる時というのは美術館博物館へ行った時なのでいつもは午前中である。今回の運慶展は前ブログに記したように、混雑を避け閉館前に行ったので博物館を出た時辺りはすでに黄昏時でまさしく《誰ぞ、彼は》の刻であった。灯のともった国立博物館を初めて目にした。いつも平面的に感じていた本館が立体的で美しい。構内から出てみると前回の訪問時は工事中であった噴水池が修繕されてニューギニアインパチェンスを主とした花で囲まれている。遠ざかってみるとなんかパリの公園にいるような錯覚に陥る。駅近くの国立西洋美術館にも明かりがともっていた。コンクリート打ちっぱなしのエントランスといい本館といい、これが世界遺産とはとても信じられないどちらかといえばアグリーな建造物である。ル・コルビジェの作というだけで一括指定してしまううユネスコの姿勢もどうかと思う。下の写真にもみられるが、ひび割れたコンクリートがどうして美術的なのだろうか。打ちっぱなしのコンクリート建造物の思想はよくわかるが、その場合、コンクリートにその板目がはっきり残るように表面を特殊仕上げをした型板を使い特別なコンクリートと特別な施工があっての話である。運慶が仏像の中に仏の心を示す水晶の心臓を埋め込んだような気持がこの美術館の施工に宿っていたとはとても思えない。今でこそ仏像はX線CTにかけられしまったが。運慶にしてみれば全く想定外のことで彼は永遠に人に知られるとは思わず像の内部にまで仏教の精神を埋め込んだのである。建物は好きではないが、前庭に設置されているロダンの彫刻(地獄の門、考える人、カレーの市民、アダム)は大好きで通りかかったときには良く眺めている。この日はもう門が閉まっていてはいれないが、さらに建物の前にはブールデルの《弓を引くヘラクレス》が明るかったのでズームしてみた。公園の噴水やブールデルの彫刻にしても黄昏時の映像は人間の目にははっきりとしない光景でもはっきり映し出してくれる。コンパクトデジカメ、様様である。
2017.10.22
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18日、数日来の雨天が途切れて秋晴れとなった、好天はこの日だけで夕方にはもう雲が広がり、そのごまた数日間は雨との予報。大がかりな宣伝に誘われて国立博物館の運慶展に出かけた。新聞でも大々的に報じているしテレビも美術番組で取り上げている。ネット検索すると入場に午前中は数十分も並ぶという、仕方がないので午後にした。午後3時の入場、待ち時間こそほとんどなかったが例によって作品はまともには見えない混雑ぶり。仕方なくまず全体をさっと見て回っているうちに、4時の館内放送で観覧は5時までですと放送される頃にはゆっくり見て回れるようになったので、先ほど目を付けておいたところを重点的に回った。運慶さんとはどんな作品を作ったのだろうと軽い気持ちで出かけたがやはりその迫力には圧倒された。仏師とはいえこれはもう高僧の心持で彫られた作品であることが伝わってくる。仏像は如来や菩薩という高い位の仏の像、主として仏を守護する天、仏の化身として直接人間に接してで実務をとる明王、仏に仕える童子、歴史上実在した僧の像に分かれる。私が好きなのは仏のSP達で寺の山門に置かれて寺を守っているあの四”天”王達である。毘沙門天、とにかく強そうである。外見はどう見ても金属の彫像にしか見えないが胴が中空の木彫像である。右手には三叉の槍を、右手には釈迦の遺物を収める多宝塔をかざしている。(願成就院蔵)多聞天は毘沙門天の別称で興福寺の上の像はより装飾的であったと思われる。装飾品は木質のものも含めて胴体とは別に作ってくっつけたもの。運慶の仏像は一木彫ではなく全体をいくつかのパーツに分け胴内はみな空洞になっている。上の写真の大日像は運慶26歳のデビュー作、天才的仏師といっても工房の一員、このくらいの年にならないと一人で制作することは許されなかったであろう。運慶は作品にその名を記した最初の仏師といわれている。それだけ運慶の仏像に込めた思いは単なる職人仏師ではなく魂を込めている。実際さいきんのCTスキャンで仏像の胎内に多宝塔の木彫柱を埋め込んだり、心の在り処として水晶の球を心臓部に配置したりしていることが明らかになっている。禅宗のお説教でよく聞く”当所すなわち蓮華国、この身すなわち仏なり”を地で行く人々の心の中に仏が住むという人間臭い仏像ということもできる。絵画はいつも修復してきれいに鑑賞できるのにどうして仏像はできないのだろう。国宝だからできないというのであれば国宝指定を辞退するという道はないのだろうか。もちろん文化遺物とみるか芸術作品とみるかで意見は分かれるであろうが仏像にも両法の道があってもよいのではなかろうか。運慶の作と伝えられている上の二つの大日如来像、確かにこの二つはよく似ている。如来、菩薩、天、明王の4つの位の仏の揃い踏みが上の写真であるが私の参観した日は如来、菩薩像は留守で実物大の絵幕であった。展覧会後半には全部揃うそうである。確か中学校の授業で仏像の表情にはシルクロードを経てギリシャの影響が及んでいると習ったことがあるが、インドの高僧・無著、世親(むじゃく・せしん)の像の顔には西洋的なものもインド的なもの全く感じられない。この二体の像は安置されていた場所が奥深い堂というよりは風雨の影響を受けやすい小さな堂に安置されていたのであろう、塗装は完全に剥げ落ちている。それだけに表面がよく分かり、柔らかな法衣の波が丁寧にに彫られている様子がわかる。位の高い仏に仕える修行僧として童子がおり、彼らは修行得度して後に菩薩になる童子たちである(後に大名にもなりうる小姓、後に横綱になり得る付け人のようなもの)。和歌山の金剛峯寺にある不動明王に仕える8人の童子像が有名らしいが、そのうち6体が国宝で後の2体は何らかの理由で後に補充されたものらしい。不動明王は人間の悪業を懲らしめるために大日如来が化身したもので、憤怒の形相で表現されるが、本来人間を救うためのパフォーマンスであるから童子たちには祈りの姿も多くみられる。6体のうち恵光、清浄、恵喜は左手に武器、右手に蓮、経典、仏舎利を捧げている。また衿羯羅は経典のみ、制多伽、鳥俱婆誐は武具のみと別れているがそれぞれ得意とする分野を示しているのだろう。上の色鮮やかな聖観音像は保存状態がよく、衣もさることながら触ってみたい衝動に駆られるくらい肌の色が素晴らしい。これは源頼朝の3回忌の供養のために彫られたもので顔だけでなく肩や腕の豊かさはもう女性そのものである。観音様は菩薩であるから本来は人間の男性であるが信仰を通してその慈愛は女性にふさわしく見事に性転換を果たした菩薩である。最晩年の作品が一番傷みが激しいというのも皮肉であるが、これは金沢文庫の称名寺の塔頭・光明寺に安置されていたもの。大寺院の金堂にまつられるような大物ではなく比較的小型の像であり、重要文化財指定前は大切な扱いを受けていなかったのかもしれない。今回の展覧会を見て感じたのは運慶という仏師の姿である。当時の仏師達は武士達による南都破壊で損傷した奈良の仏像修理が主な仕事であったようで、作家というよりは職人であった。運慶はその精神性を込めた像の制作で自らを僧に準えていたのではなかろうか。さらに依頼主が貴族階級から武家階級に代わり、武士の嗜好に合った像の制作に向かったことも運慶にとっては運がよかったのかもしれない。武士好みの力強い像たちは1,2の例外を除いて材が木であるかとを全く感じさせず、金属の鋳像にしか見えない力強い物ばかりである。これは一木彫ではむつかしく寄せ木造りでしかできない表現ではなかろうか。世が奈良時代や平安中期以前であれば運慶の才能はこれほどまでには至らなかった気がする。
2017.10.21
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体育の日から一泊の予定で上高地の紅葉見物を目指したが数日前からの風邪と松本市内観光で体力を消耗しその夜から体調を崩してしまった。残念だが山中の袋小路の上高地をあきらめてホテルからすぐ帰京することにした。松本駅もモダンに改築されていて広くて明るい橋上コンコースが生まれている。その通路に写真のコーナーが設置されている。そういえばこの日は総選挙の公示日であった。《忙中閑話》マスコミでは衆議院議員選挙を総選挙という。下の写真で緑色の字を読むと「衆議院議員総選挙」とあり、これが正式の名前らしい。つまり、衆議院は選挙で全員が選び直されるので「総選挙」と略す、それなら参議院議員選挙は「半選挙」ということになる。最近期日前投票が増えたらしいが通勤通学の途中駅で投票が出来れば確かに便利である。せっかくの日曜日をつぶさなくてもよいのだからいいことだ。さてその囲い板には松本らしい北アルプスの山並みがポスターされている。良いことである。 乗鞍岳は中央アルプスなのか北アルプスなのかいつも考えてしまうがアプローチは岐阜高山からでも松本からでも良いのでもよいのだろう。 私にはあまり馴染みのない名前であるが天狗巌、かなり北上して大滝山。蝶が岳、鍋冠山と続く。松本から一番近くてはっきり見えるのは常念岳さらにぐっと北上すると爺が岳、鹿島槍、五竜岳と続いてその先は黒部峡谷を挟んで立山連峰と後立山連峰に分かれるがさすがに松本からは五竜岳以遠はほとんど見えない。コンコースのガラス越しのコンパクトカメラではこのあたりが限界であった。こんな雄大な景色を眺めながらの総選挙は悪くない気がする。
2017.10.18
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松本の観光スポットの一つに旧開智学校がある。開智学校は藩校の流れを汲んで明治5年の筑摩学校(当時の松本は飯田、高山などとともに筑摩県に属していた)を母体とし、明治政府の新学制令を受けて翌年発足している。日本でも一番といわれる教育県の長野である、建築費の7割は市民の供出金によるというから松本市民の新時代における教育への意気込みが伺える。建築材は明治政府による廃仏毀釈で廃寺となった藩主の菩提寺の材を多用し、地元の大工・立石清重が設計・施工したという。今ある記念館は昭和38年(1963)近くの河畔から移築して当初のものに近い形で復元され、現在は重要文化財として公開されている。明治初年に建造された日本人棟梁による洋館が全国各地に点在するがどれも見事で装飾性に富み眺めるだけで楽しくなるものが多い。彫刻飾りなども寺社建築の技術がすぐに洋館建築へと応用されて日本人の器用さというか適応性は優れている。これはまさしく短時間で西洋文化を取り入れて血肉としてしまった日本人の能力である。ただ忘れてならないことはそれが可能であったのは江戸時代、基礎教育がされていたことに負うところが大きい。いくら設計者が優秀でも労働者の質が高くなければ実現は不可能であったことだろう。皇族・貴族の来訪以外には使われなかったというが、中央の玄関ファサードの装飾は見事である。西洋建築の大理石彫刻を左官の鏝細工で作り上げる技術など惚れ惚れするものがある。鏝細工の技術は上の瓦模様にも示されている。現在の復元記念館では屋根の両端が銅板で覆われているが本来そこには4人が手をつないでやっと取り囲むことができるという上の写真の巨大な鬼瓦が乗っていたということだ。かっては職員室であったという部屋に昔使っていたオルガンや机、教材が展示されている。今のようにプロジェクター、スライドなどが無い時代、日本の学校ではつい最近まで掛け軸が大いに使われた。我々の時代でも歴史の先生は巨大な世界地図を担いでふうふう言いながら教室に入ってきた光景を思い出す。そういえば教室には必ず黒板の上に掛け軸をかける鍵型金具が備え付けられていたものだ。昔は文部省が直接制作したことのようで、左上の掛け軸は「一に九を足すと十」「一引くの残り九」と暗記するのだろう。「加算並びに減算呼声」とあるから「九九掛け算」よりも先に習ったのだろう。私はかろうじて旧仮名遣いを習ったので全部読めるが、右の掛け軸は現代の若者には絵が示されていても「てふ〈(てふ)」は読めないのではなかろうか。開智学校は小学校中心ではあるが幼稚園も設けられていた模様で、さらに貧しい家庭の子は子守に出たり弟妹の面倒を見たので子守学級もあったらしい。さらに種々の理由で学習が遅れている子のために特殊学級が編成されおり、その写真を見ると教室の後ろにも先生がついている。黒板や教壇からして普通学級では写真の後ろが前だったのだろう。この写真を拡大してみると黒板には中国東北部(満州)の地図とともに満州国皇帝・溥儀の名前や国旗が描かれ、カラーチョークがないので国旗の色がそれぞれホワイトチョークで書き込まれている。満州国が日本の傀儡国家として建国されたのは1932年(昭和7年)であるからその頃の授業風景だろう。「満蒙開拓団」として長野県は断トツの人数(31,264人)を満州に送り込んでいる、ちなみに二番目に多いのは山形県で13252人である。山村の多い長野県では所得が低く県を挙げて移民を推進していたことが伺える。この旧開智学校記念館に隣り合わせで立派な小学校があり、屋根の展望塔など何か雰囲気が似ているので銘板を見に行ったらやっぱりこれは現在の「開智小学校」であった。
2017.10.17
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先週の連休明け、もうそろそろかなと思い上高地を目指した。この時期上高地では何処もホテルは満杯なので初日は松本泊まりにし、翌日日帰りで上高地を目指すことにした。初日は風邪気味であったが松本市内を観光することにした、ここのところ紅葉は栂池高原に行くことが多く、松本城以外にはほとんど市内観光をしたことはないことに気付いたからだ。長野県といえば常に松本市と長野市が張り合ってきたが、オリンピックも新幹線も長野市に取られ、意気消沈しているかと思ったが何しろ北アルプスへの玄関口だけあって結構観光で頑張っているところだ。ここも駅舎はモダンに建て替えられているが銘盤は懐かしいものが正面に残されている。 駅前のバスターミナルでは勇ましい武者と忍者が観光案内をしてくれる。いつもいるのかと伺うと、そうではなく連休期間中の祭りに合わせてのサービスだったようだ。それぞれデーター版を持って丁寧に教えてくれた、武者や忍者に丁寧語を使われるのもくすぐったいものである。国宝松本城は2、3年前、桜満開の際詳しく訪ねているので今回は堀の周りを通るだけにした。美しい城である、破風屋根も美しいが天主閣のすぐ脇に二つの櫓を従えた珍しい造りである。上の二枚の写真は90度角度を違えたものであるが、よく見ると右の櫓の外にさらにもう一つ白壁の上にせり出した赤い欄干が見える。ここは大広間でいまでいえばバルコニーのようなもので、月見櫓と称する粋な舞台である。こんなところでの月見の宴はさぞかし優雅なものであったことだろう。城からちょっと離れたところに展開されている「畷手通り」には江戸時代を彷彿させる昔ながらの土産屋が再現されている。畷(なわて)とはまっすぐな長い道を意味するそうで、この場合は外堀と川に挟まれた「長い土手道」に由来するみたいである。そこを引き返して「大名通り」という大通りに出るとビルに挟まれて城建築の古書店があった。なんでも松本城の20分の1の建築だそうだ。以前このブログにも期したが小田原城と「ういろう本舗」の関係が思い出される。川を渡るともう一つの観光街「蔵造り通り」に出る。 千国街道、野麦街道、伊那街道、北国西街道が 交差した松本には土蔵造りの商家や店舗が今も数多く残ってい るようである。なんとなく川越の蔵造りを思い出させる雰囲気である。今年の8月にはここで「セイジ・オザワ松本街角コンサート」なるものが行われたとのこと。小澤征爾が主宰して毎年松本で開かれる音楽祭の会場と上の写真の広場を結んで、ここに大スクリーンを設けて中継コンサートを開くのだそうだ。道路も街角もコンサート会場となるのだろう。
2017.10.16
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先週の日曜日、昼食を終えてブラブラしているとどこからか太鼓の響きがしてきた。マンション8階の廊下に出てみると真下を神輿行列が進行している。日本全国どこの村落でも行われている氏神様の秋の例大祭である。都市化されたとはいえこの辺りはつい最近までは農村であった。私が引っ越してきた39年前にはまだ周りは畑に囲まれており、現在でもまだ氏子という習慣がある。私のマンションから500m以内にも御岳神社と氷川神社という二つの社があり、それぞれに秋祭りを行っている。もっとも最近は氏子の祭りというよりは近隣の子供祭りといった感じである。祭列を見てみると先導するのは紅白の祭り提灯を下げ、小太鼓をたたくお母さん達が乗った軽トラックである。続いて太い綱に多くの子供が手を添えて列の主体となり大太鼓を載せた車を引っ張っている。大人の氏子たちはそろいの法被やたすき掛けで列を主導している。そういえば昔の庭師やとび職の人はみな黒い胸当てにたすき掛けで襟に屋号の入った法被を着て仕事をしていたが、最近はみな薄緑色の作業着になっている。私は散歩の途中で時々吉幾三さんが宣伝していた作業着店に寄るが、機能的な衣装は並ぶものの、あまり法被などは見当たらなくなった。法被を着ていても下はジーンズは少々興覚めである。最後は当然祭りの主人公・神輿の行進である。神輿担ぎといえばお神酒をたっぷり入れた若衆が荒々しく神輿をゆする光景が目に浮かぶが今はどうして小さな神輿を大人が手で支え子供がぶら下がっているといった感じである。地元の小さな例大(?)祭ともなれば幹線道路を練り歩くわけにもゆかず小さな生活道路が主である。それでも老人には何か心地よい追憶のひと時を与えてくれる。確かに自分も70年位前には祭りにも参加し神輿行列を見物した思い出がよみがえる。日本全国にある氏神様の秋まつりは秋の収穫を終え豊かな実りに感謝しかつ重労働を終えた人たちの娯楽でもあった訳だ。ちょうどアメリカ大陸に渡ったピルグリムたちが最初の秋の収穫を神に感謝する"Thanks Giving Day"がナショナルホリデイになったのと同じルーツである。都市化が進むと秋祭りより夏祭りが盛んになったり、”盆と正月が一緒に来る”などと言うこと通り盆と正月を一緒にしたような光景が見られる。事実この行列があった日の夜今度は盆踊りの音頭が流れてきた。神社のほうを見ると盆踊り(?)が催されているようであった。考えてみれば明治以前は神仏混淆だったわけで神様に盆踊りを捧げることも不思議ではない。
2017.10.15
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先日、日本橋高島屋で以前から気になっていた線画家・池田学の展覧会に行った。線画といえばスイスのクレーが有名で絵を線で描くという技法であるが究極の線画は4コマ漫画ではなかろうか。ただ下のパンフレットの絵がインクとペンで描かれた線画というと驚きである。水彩絵の具を使った部分もあるが個々の対象は1ミリ以下のペンで描きあげられたものである。池田学という画家はかって朝日新聞に多くの法廷画を描いており、ちょうどオウム真理教の裁判と重なったため多くの被告の似顔絵を描いている。その後ウイスコンシン大学のChazen Museun of Artの館長に認められ,そこのartist-in-residenceという一種の住み込み画家として3年半をかけて上の大作 Rebirth(誕生)を書き上げた。この10X12ft(約3X4m)の大作を1日約10センチ平方の速度で描き続け3年半で完成している。東北大震災の津波とそこからの復興を全精神を一本一本のペンに込めて描いたものである。毎日の仕事のうち1日1時間はアトリエに入館者を招き入れ公開してきた。 (以上3枚は美術館ホームページより)それ以前の作品として日本の戦国時代を思わせる「興亡史」初期の作品としてこれぞ線画「巌の王」いつ波に飲み込まれるかもしれない大都市の危弱性を思わせる"Gate".ペンで描かれた白波は北斎の白浪と好一対である。(以上4枚は展覧会パンフレットより)下の「コヨーテ」と題する絵を見てペンで描かれたことを想像するのは困難だろう。 最後の展示作品でありMadisonで3年半の歳月をかけて公開の下描かれた"Rebirth"だけは撮影が許されていて全員がシャッターを切っている。私も何枚か撮影したのでA-Fに拡大図とともに記録しておく。 (A) (B) (C) (D) (E)ここに拡大した部分は大震災からの再生(rebirth)を象徴する人間や自然の営みを描いた部分であるが下の部分は悲惨な災害の光景であった。これを見ているミケランジェロによるとシスチーナ礼拝堂の「最後の審判」や地獄・極楽を描いた仏教曼荼羅に通じるものを強く感じた。仏教では人間の姿も本来仏たる衆生の姿の一つと考えるようなので、地獄に落ちた者も"Rebirth"できるというより現代的曼荼羅のような気がしないでもない。
2017.10.14
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興味ある展覧会があったので先日何十年ぶりかで日本橋高島屋に行った。半世紀をはるかに超える学生時代、東京駅で途中下車して八重洲口のすぐ前にあった国際観光会館ビルの地階にあった小さなニュース・ドキュメンタリー映画専門館で映画を見て丸善に行き洋書を眺めて歩き高島屋に行ってぶらり散歩。これが貧乏学生だった私の多くの土曜日の過ごし方であった。一番印象に残っており、今でもその画面が浮かぶのは1956年、伝説のアルピニスト槙有恒を隊長とする日本の登山隊が初めて8000メートル以上のマナスル(8163)の登頂に成功した記録映画である。当時の表現では総天然色の記録映画は珍しく真っ青な空の下山頂に日の丸を立てる光景がはっきりと映し出された。今まで数えきれない数の映画を見てきたが、その中の一つの場面を上げるとしたら躊躇せずにこの光景を上げるだろう。今は八重洲口もすっかり様変わりしてしまったが、今でも時々八重洲(日本橋)口を出てすぐのビルの上階にあるJR系のホテルに昼食バイキングを食べに行くことがある。楽しみはいつもがらんとしている27階のロビーに大きな鉄道模型のジオラマが動いている。ちょうど丸ビルの上部から見ているような光景で、駅舎の全景と新幹線を含めてホームがよく言える構図である。マネージャーを思わせるいで立ちの紳士が一両ごと連結してレールに乗せている、上の写真にもあるように「お手を触れないでください」と書いてあるが「どうしても手を出してしまい、脱線するのです」と言いながら嬉しそうに手入れしていた。遠景を見るとご丁寧に東京タワーと横浜グランドタワーが添えられていた。スカイツリーよりは古いらしくその景はない外に出て銀座(中央)通りに差し掛かると真っ赤な衣装に真っ赤なゴーカートに乗った外国人婦人が近づいてきた。呆気にとられているとゴーカートからはみ出しそうなボリュームの人間、続いてお猿さんが運転しているではないか。結局7,8台のゴーカートが堂々と銀座通りを通り抜けていった。調べてみるとゴーカートでもブレーキ、ターニングシグナル、ナンバープレートを付けていれば軽自動車として公道を走行できるのだそうだ。そして道路上では原付自転車と同じ扱いでシートベルトやヘルメットの着用義務はないそうだ。そうはいっても歩行者よりははるかに低い運転席である、大型車やトラックが横に来るとずいぶん圧迫感があるだろう。駐車は車並みなのか自転車並みなのか気になるところである。都内にも何軒かレンタル業者があるそうで変装衣装も同時にレンタルできるみたいだ。今のところ外国人観光者の利用が多いそうだが何年かすると日本人にもはやりそうだ。
2017.10.12
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10月4日昼間はずっと曇っていた空が夜7時半頃になると雲がちぎれ始めた。この日は中秋の名月の日であった。テレビの予報官は月が見え始めたことを自分が演出したかのように勝ち誇った態度であった。18時30分頃秋の十五夜は空気が澄んで天も高く、美しいフルムーンである。旧暦8月15日の月を古来「中秋の名月」として薄と団子を供えて月見をを楽しんできた。ただ月の公転周期は29.5日であるためいつもこの日が満月とは限らない、事実今年のこの日の月は左下部がやや暗い印象で満月は今晩(6日)だそうだ。もう一つ、「中秋の名月」「仲秋の名月」どちらが正しいのか分からなかった。そこで調べてみると、旧暦の秋は7,8,9月で8月を仲秋という。したがって8月15日の月が「中秋の月」で「仲秋の月」は8月の月を指すことになる。月は中国や日本の農耕民族にとってすべての生活のリズムを作り基礎であった。今でも農業の仕事は陰暦で伝えられることが多々ある。農民とは対極にあるお公家さんにとっても月見は文化であり、身分・富を享受できる最高の場だった。歌会を催したり、何より野外照明のない時代明かるい満月の下で繰り広げられる夜の娯楽が多かったことだろう。有名な月待山から登る月を愛でる京都銀閣寺の月見、信州松本城に現存する国宝建築・月見櫓など物語性も十分である。私は短い期間仙台に住んだことがあるが、土井晩翠作詞「荒城の月」にちなんでこの夜結構多くの人が青葉城に上っていたことを思い出した。20時半頃日本では月見といえば団子であるが中国では何といっても月餅である。月餅を配ったり持ち寄って宴を催すことも多いらしい。時代は遡りモンゴルが中国本土を支配していたた元朝の末期、政治基盤が弱くなって漢族による反乱が頻発していた。現在の言論統制以上のこの時代に月餅が情報伝達のメディアとして意外な役割を果たした。 反乱軍の指揮官*(張士誠とも朱元璋ともいわれる)が同志への連絡を記した紙片を月餅の餡子に練り込んで同志に配布した。中秋節に月餅を贈る習慣があったため、怪しまれずに8月15日0時をもって一斉に放棄する密書を送ることができた。ちょうどバレンタインデーのチョコレートのようにこの日には月餅を送り習慣が生じたという。* 元朝への漢民族反乱軍として緩やかな共同体「紅巾軍」というのがあり、張士誠も朱元璋も その指揮官であった。元が滅びた後に明朝が出来るが朱元璋が張士誠を制圧して明の太祖(最初の皇帝)となっている。なんか毛沢東と蒋介石を思い起こしますね。 私の推測では朱元璋が太祖になったので権力とともに手柄も自分のものに書き換えたのではないでしょうか。21時頃
2017.10.06
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