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今だから云える、と言われてしまえば、そのとおりです。自分の恥の記憶であっても、今だから笑い飛ばせるというところは確かにあって、だから不登校はどうのこうのと論を張るつもりはありません。 目下、不登校ないしフリーター(ないしニート)と目されて、社会を捨像(nigrect)していると思っている人たちには、とりあえず現在の状況が、いつまで続くか分らない(先が見えない)ということが問題で、私のつたない経験をいくら語っても、おそらく耳には届かないでしょう。 その意味で、現在進行形の事件というのは、スポーツもそうですが、当事者でないと分らない。ただ、あまり深刻に考えない(自分自身を笑い飛ばせるほどの)ということと、取りあえず何か行動(action)してみる、ということは必要です。戦闘でいう威力偵察という奴で、ドラを鳴らしながら正面攻撃をしかければ、おのずと相手は(対象は)反応せざるを得ず、その反応でこちらの方針は決まるので、ずいぶんと楽になりますよ。(今の仕事でもそうですが、ワイワイとんがってる奴のほうが、使うほうは楽です。手綱を握って調整するだけですみますから。チョイ見いで、様子を探ってから行動する人は、私の場合は評価しません。様子を探るのは、私の役割ですので。) というわけで、小学校の不祥事?は私の原体験となって、長く後を引きました(今でも?)。それにしても解読不能な体験(親も子も先生も)を持ったにしては、その後小中高校と普通に過ごせたのは、やはり周囲の気遣いが陰に陽にあったからだと思いますよ。 小5,6年の先生は、ベテランの男の先生で、よく盛り立ててくれました。子供というのは、そのあたりの気遣いがよく分かるのです。友達もそれなりの気遣いをしてくれました。小学生でも子供同士の気遣いというのは、けっこうあるのです。しかし私の天狗の気性は、小4を境にすっかり影を潜め、むしろ内向的な印象を身にまとうようになりました。これは素のままの性格を押し隠して、別の風貌を身にまとうことを覚えた、最初の出来事だったのです。 中学になると先生にもいろんなタイプ(教科担任なので)がいて、良い先生、悪い先生と、先生同士を比較して批判的に見るようになる。困るのは途中で性格が変わる先生で(ホントですよ!)、最初怖かった先生が、急に優しくなるというのは、中学生では理解不能で、せめて学年変わりまでは1本通してほしいと思ったものです。それと女の先生で授業中とテスト中とで態度が一変する人、何が不満なのか、テスト中はやたらと不機嫌で、生徒をどなりちらす。家庭不和か、仕事の不満か知らんが、むかつくこと再々ならずでしたね。 ま、総じて中学時代は先生よりも、生徒同士の付き合いが重要になってきて、クラスも先生の出来不出来に関係なく、まとまるところはよくまとまってましたね。私の終生の友達も、この時期に出会った奴が2,3人います。(例のクラシックマニアです) 高校はいわゆる進学校といわれるところだったのですが、庄司薫でしたか「赤頭巾ちゃん気をつけて」という小説にでてくる、昔の日比谷高校ほどではないにしても、いやったらしい学校でした。 ひとことで云えば、先生が生徒に卑下しているところがあって、確かにずば抜けた生徒など、数学の先生を手玉に取ることなどはあるにせよ、先生が生徒にお追従するというのはね。ま、考えてみれば、その高校の卒業生はたいてい大学へ進み、おそらく今教室で教えている先生より、ほとんどが高い地位や収入を得るだろう(まあ確かに事実なのですが)、それに比べてこの先生たちは年で、もう先がないとは分っていても、もう少し誇りを持ったら、という感じで、今考えても良い印象が少しもないのです。(高校とは残酷なところですね) 友達では遠方から来ている奴などに、マジで革命を考えている(当時はまだ左翼系が、本通りを跋扈していました)コワイのもいて、生態的に興味があって、いろいろ議論したものです。しかしこちらがある意図を持って近づいた友達というのは、しょせん意図が解消すれば途切れるので、不思議と高校時代の友達とは、その後縁がありません。進学校というのは、あまり良くないですね。どことはいいませんが、どこでもおおむねそうじゃないですか? ― つづく ―
2006.07.28
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私の時代の学校というのは、何はともあれ先生の権威というのは健在で、お医者さんと同じく、陰で良い先生だの悪い先生だの云うことはあっても、表立っては云うことはしませんでした。そのかわりヤブ医者と評判の医院には、誰も行きませんでした。 学校は医者と違って、先生の選択はできないので、云ってみれば、子供に親を選べないのと同じような感覚が、学校に関して、親にも子にもあったような気がします。当時は一家族の子供は3,4人はいて、しかも近所の子供、奥さんとの付き合いも濃密だったので、先生の評判というのは口づてに継承されていきます。あの先生はコワイだの、厳しいだの、優しいけど時々怒りまくるとかね。 新しい先生が転任してくると、たいてい来るだいぶ前から、相当な評判が近所に喧伝されていて、私たちは固唾を呑んで、新学期に臨んだものです。 小学校4年のときでありました。担任の先生が突然私を叱ること、しばしばで、子供心に理由が理解できず、夏以降学校に行けなくなってしまいました。今ではその理由はよく分かります、男の先生の叱り方というのが。 私は幼稚園に入るときも、さかんに愚図っていたようで、環境の変化に異常に緊張するタイプだったようです。(男の子はどうもこういうのが多いみたいです。幼稚園でも驚くほど面倒見の良い子は皆女の子でした。)成しうるならば、ずっと居心地の良い家およびその周辺で、いつまでも過ごしていたい、というのが本音でした。 小学校入学時は、さすがにそういうことはありませんでした(姉二人も通っていたので)。小学1,2年の先生が上手い女の先生で、今考えても指導力とか管理力で参考になることがあります。もう定年間近かの人で、貫禄と余裕でクラスを引っ張っていました。最初の授業でドカンと雷を落とすのです。理由は忘れましたが、叱られる子供は、教壇に並ばされ一人一人どなられます(私もその1人です)。どうも今考えると、クラスのボスたちに対する先制パンチだったような気がするのですね。 最初の半日で誰がどんな性格か、振る舞いをするか、瞬時に嗅ぎ分けて、直ちに鉄槌を下しておく。そうすればあとが楽になる、というのは、私自身が会社勤めで、どこか支店などに転勤したとき、よく経験したことでした。(私の場合は、転勤が決まると、前もって転勤先にコワイ上司やで、といううわさを、ドラのように打ち鳴らしておいて、乗り込んでいったものでした。そのほうが行ったあと楽なのです。もみ手で擦り寄ってくる人、チョイ見で遠くから様子を見る人、今でもそうですが!?) 話は別です、この先生はまさか管理術の勉強をしていたとは思えず、ご自身の経験で編み出された方法だったでしょう。今の先生はマニュアルに頼りすぎじゃないですか?安月給でも(小学校の先生は、昔は安月給でした)それなりの地位と尊敬を持たれていましたから、先生のほうも余裕を持って対処されてましたね。そんなに勉強されてるという感じでもなかったですよ。 ところが学校でも人事にはいろいろ気を使うようで、小3,4年というのはたいてい、ちょっと経験のない若い先生が担任になることが多い。そして男の先生の担任もこの時期になります。小学生にとっては男の付き合いというのは、友達と親父は別として、初めてなわけですね。 それまでクラスのボスとして、私と私の友達3人ほどがクラスを仕切っていました。1学期の半ばから名指しで叱られることが多くなり、夏休み明けにさらに注意されるに及んで、学校に行けなくなりました。当時は不登校とか、登校拒否などという名称は、まだありませんでしたから、さあ親も学校も大変です。 家に担任はもちろん、校長先生まで跳んできて、理由を聞きます。親は親で、途方にくれて母は涙ぐむ、親父は怒ってどなりまくる、そのとき生まれて初めて親父から殴られました。 結局、どういう理由か忘れましたが、2,3日してまた学校に行くようになりました。(ここは大事なんですが、今思い出すことができません、すいません)母に連れられて、復帰するとき、小学校中の窓という窓から、私を見つめる顔の行列は、今でも覚えてますよ。 その後、担任の先生は、さわらぬ神に何とかで、とにかく早く学年が移りゆくことを願っているように見えました。(翌年転勤されました。まあ無理もないか、たぶん小学校始まって以来の不祥事?だったので、今では不祥事でもなんでもなくって、ほとんど日常茶飯事のようですが。) だから私は今どきの不登校という話題には、あまり重きを置いてないのです。とっくの昔からそんなことはあったんだと、それだけは私は云えますね。 ― つづく ―
2006.07.27
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世の中に50年以上も棲息していると、さまざまな人たちと出会い、いろいろな付き合いが生じます。 事務所にいても、老たけた男の子や、不敵な面構えの美女(!?)が、入れ替わり立ち替わり、私の前をわざとらしく通り過ぎては、また戻ってきます。少ないとはいえボーナスははずんだはずだと思案しつつも、何があったのかと考えてしまうのは、年季のなせるわざでしょうか、なんてね。 私のような出来損ないの、ねじくれた根性を持つ人種でも、世の中をうまくやり過ごすには、さまざまな作法と技巧を身にまとって、あと十数年は実人生で生きねばならぬと(家族もいるので)思っています。 それにしても、巷間伝えられる人生を生き抜くスキルや、作法といったものは、あまりにも表面的にすぎ、ましてそれでもって、人生の勝ち組、負け組をあおるマスコミには(彼らは自分たちは当然、勝ち組だと思っている、勝ち組と思うなら、勝ち組の矜持を持ったらどうですか?矜持には責任がともないますよ。なさけない!)、あきれるばかりで、ヒトの生きざま、歴史や文化に対する荒っぽい裁断には、怒り以前のあきらめさえ感じてしまうこのごろです。これは残念ながら、今の日本の教養文化の水準を反映しているのです。 人間の振り幅は、世に伝えられるより、はるかに大きい。つまり簡単には裁断できない。人のやることには驚くほどの高低差があって、状況しだいで、とんでもないことをしでかす(いい意味でも、悪い意味でも)。堀田善衛でしたか、司馬遼太郎、宮崎駿との鼎談で、― 「ほんとに人間は御しがたい、動物ですな。」(という司馬さんの指摘に、はたと手を打つように、)― 「そう!人間とは、まことに御しがたい。」とか。 ― 「時代の風音」 ― だったか?すいません。 これのとらえ方は、二面あって暗く深刻に考えるか、明るく軽くとらえるかで、そのあとの気分がずいぶん違ってしまいます。司馬さんは、暗い一面を充分見つめたうえで、なおかつ明るい視点を見い出そうとするのに対し、堀田さんはどうなのかなあ。 深刻に考えれば、ユダヤやカンボジアの虐殺や、親が子を虐待し、子が親を殺す、今の日本を思えば、いくらでもヒトの世の中を嘆くことはできます。人間は鬼畜よりも恐ろしいことを、状況しだいではやってしまう、生き物であるということ。 しかし逆に考えれば、とんでもない奴でも(私のように!)、普通に生きることは、そんなにとんでもないことではありません。 世の中にはフリーターだの、ニートだの、まるで21世紀になって、はじめて現われたかのような、主として若者に対するレッテルが横行していますが、私たちはこの種の新しい言葉は、まず疑ってかかる必要があります。 一時期さかんにマスコミが喧伝した「ストーカー」なる言葉、まるで新しい社会現象のような伝え方をしますが、実体的には、つきまといは情痴事件では、古くからの(それこそ平安時代でも)おなじみのパターンです。それをケータイという新しいアイテムでもって、まるで新しい型の事件であるかのように取り上げる、マスコミの見識とはこのようなもので、これはもう勉強不足とかのレベルではなく、世間的には未成熟な人間が、大手を振って社会の表通りを闊歩しているような印象を受けます。 それを止めない、おまえたちの世代が悪い、と言われそうですが(そのとおりです)、互いにののしり合っても生産的でないので、私の体験でヒトの振り幅のようなものを考えてみましょうか? 私自身、今ふうに云えば10代は不登校、20代は、ほとんどニートに近いフリーターだったので。 ― つづく ―
2006.07.26
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最近、惹かれている文章が、鴎外の「渋江抽斎」です。読まれました?文章嫌いになられては困るので、若い人には勧めません。私にとっては司馬遼太郎の「ひとびとの跫音」以来の、ただの人たちの群像が淡々と語られていく、それ自体が、作家の文章力で読ませる力を持つ、お気に入りの作品です。 文体ももちろんですが、構成もおもしろい。主人である抽斎は本の半ばで、姿を消し(死亡し)、むしろその後の渋江一族の行く末を、抽斎の奥さんの五百(いお)を中心に、ながながと終わりのないコーダのように続けていく、その手法。本文では「抽斎没後~年には…」と、まるでキリスト生誕後~年という西暦のような語り口。 ところが、一族の淡々とした推移と並行している時代は、幕末と明治をはさんでいるのですね。抽斎没後10年が、明治元年で、一族は江戸屋敷を売り払って、国許の弘前へ帰る。その道行きに佐幕派の領地を通る、といった具合で、文章は鴎外風に淡々と、それこそ冷たすぎるくらいですが、読んでるこちらのほうは、かってにその時代を想像してしまって、興奮するという仕掛けになっているのです。 ― (抽斎没後)第十年は明治元年である。伏見、鳥羽の戦を以て始まり、東北地方に押し詰められた佐幕の余力が、春より秋に至る間に漸く衰滅に帰した年である。最後の将軍徳川慶喜が上野寛永寺に入った後に、江戸を引き上げた弘前藩の定府の幾組かがあった。そしてその中に渋江氏がいた。 渋江氏では三千坪の亀沢町の地所と邸宅とを四十五両に売った。畳一枚の価は二十四文であった。… 食客は江戸若くはその界隈に寄るべき親族を求めて去った。奴婢は、弘前に随い行くべき若党二人を除く外、悉く暇を取った。 … 山形から弘前に往く順路は、小坂峠を踰えて仙台に入るのである。五百らの一行は仙台を避けて、板谷峠を踰えて米沢に入ることになった。しかしこの道筋も安全ではなかった。上山まで往くと、形勢が甚だ不穏なので、数日間淹留した。 五百らは路用の金が竭きた。… 上山を発してからは人烟稀なる山谷の間を過ぎた。縄梯子に縋って断崖を上下したこともある。夜の宿は旅人に餅を売って茶を供する休息所の類が多かった。宿で物を盗まれることも数度に及んだ。 ― 青空文庫より抜粋 結局、この話が終わるのは、鴎外がこれを書いていた大正時代まで続いていて、抽斎の記憶が子孫に、肉声で語り継がれる、最終地点と言っていいでしょう。 この話の主役はどうやら、抽斎ではなく、奥さんの五百で、その気丈な江戸前のきっぷのよさは、この物語の赤い縦糸になってます。 有名な半裸で懐剣を口にくわえて、どろぼうを追っ払う場面のほか、一族の行く末を決めるに当たって、男達が常に五百の裁定を仰ぐなど、抽斎さんははるか昔の遠雷のこだまのように、背景に退き、時代の転換を実際に生きて行ったのは、こういう人たちだったのだと、そして時代がうつりゆくとは、こういうことなのかと、納得させられる。引用ばかりで気が引けますが、 ― 抽斎歿後の第二十六年は明治十七年である。二月十四日に五百が烏森の家に歿した。年六十九であった。…「ああ年のせいだろう、少し歩くと息が切れるのだよ。」五百はこういったが、やはり話を罷めずにいた。 少し立って五百は突然黙った。「おっ母様、どうかなすったのですか。」保はこういって背後を顧みた。 五百は火鉢の前に坐って、やや首を傾けていたが、保はその姿勢の常に異なるのに気が附いて、急に起って傍に往き顔を覗いた。 五百の目は直視し、口角からは涎が流れていた。 保は「おっ母様、おっ母様」と呼んだ。 五百は「ああ」と一声答えたが、人事を省せざるものの如くであった。 保は床を敷いて母を寝させ、自ら医師の許へ走った。 ― 同上 文体もながながとした家系図、消息の記述など、何だか旧約聖書の閲歴の記述に似て、これは渋江家という実在した家族を通して、幕末、明治という時代の移り変わりを叙した、まさしく史伝としか云いようのない読み物だなと思ったものでした。
2006.07.25
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― 名状し難いものが私を駆っていた。行く手に死と惨禍のほか何もないのは、既に明らかであったが、熱帯の野の人知れぬ一隅で死に絶えるまでも、最後の息を引き取るその瞬間まで、私自身の孤独と絶望を見究めようという、暗い好奇心かも知れなかった。 ― 大岡昇平「野火」(新潮社版) 「野火」の主人公が、病気で原隊を追われ、病院からも追い払われて、ひとりフィリピンの野山に出発する、はじめの部分のモノローグですが、なんと不遜なまでに自信たっぷりな、口調の良い文章でしょう。 作者は、主人公の狂人(ないし狂人のふりをしている)の語り口を借りて、人物像を作り上げると同時に、作者の文章技巧の限りを、この小説で試みているように見えます。全編を通して、欧文脈がかった伏線と美文の連続で、テーマもキリスト教を土台にした「罪と罰」でした。 高校生でも理解可能な技巧は、長い間、私の書くレポートや小文の文体に反映して、我ながらうんざりしたものです。上のパラグラフのリズム、口調が良いので、そのまま単語を置き換えて、他の文章にできると思いません? 作者の頭にも、ひょっとすると、先に文章の響きとリズムがあって、単語は小説家の博覧強記で、あとからはめ込んでいったのじゃないか、と思えるほどです。(云いすぎかな?) ― 私の運の導くところに、これがあったことを、私は少しも驚かなかった。これと一緒に生きて行くことを、私は少しも怖れなかった。神がいた。 ただ私の体が変わらなければならなかった。 ― 同上 どうですか?主人公が堕天使に変身して、他の兵隊を殺して喰う仲間を、殺す直前の一文です。響きとリズムが先に聞こえるでしょう。こんなことを高校時代に知った私は、それ以後しばらく翻訳ものは止めて、日本の小説をずいぶん読み漁ったものでした。 すでに「飼育」や「奔馬」を読んでるコワイ友達が何人かおりました。いずれも眩いばかりの文章力で、圧倒されましたが、「野火」を超えることはありませんでした。また大岡さんの他の小説でも、「野火」のように、文章に翻弄されるという経験はなかったのです。 結局、語る内容とそれを盛る文体が、絶妙にバランスされて、はじめて私たちは文章に酔うことができる、あるいは安心して身を任すことができる、ということではないでしょうか。いわゆる純文学ではなく、大衆小説(今どき、こういう区分けはいかがなものかとも思いますが)といわれる分野でも、私はキチンとした品格のある文章が好きです。 作者が興奮するのはかってですが、文章が興奮しているというのは、どうなのかなあ。読むほうも、それで興奮すると思っているのかなあ、と考えてしまいますね。映画でも作り手や俳優が興奮してしまって、観客に感動を強要するようなのが、よくありますが、私はパスですね。(とくに日本映画は!)
2006.07.24
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考えてみると、文章というのは難しいですね。小説なら小説、詩なら詩、エッセイならエッセイで、それぞれの内容を盛るにふさわしい文章の姿形があるようです。想像力が文章力を負かしてしまって、荒っぽい読むに耐えない小説というのは、探偵小説や、SFにはよくあります(文学以外の評論やルポ、ノンフィクションは、もともと文章に関心がないから、なおさらです)。読まされるこちらまで、気分が荒っぽくなる小説なんてね。 その点で宮部みゆきさんの「火車」は、内容と文章が、うまくバランスされていて、私は好きです。ところが他の作品はSFだの時代物だの、多才さが縦横にあふれていて、感心はしますが(あきれるほどに)、少なくとも私は読む気がしません。 面白いのは、いわゆる純文学作家といわれる人たちの書いた、数少ないSF(あるいはSF的小説)は逆に、文章が立派過ぎて、内容が負けている。三島由紀夫の「美しい星」とか、安部公房の「第四間氷期」なんか、心理分析はお手のものの、三島がなんでSF的妄想家族を書くのか、そもそもわけが分らないし、安部さんの方は予言機械なるもの(コンピュータ?)で、未来を見通すと、地球が水でおおわれて(第四間氷期)人間が水棲動物(エラ人間)になっている、という話ですが、グロテスク感が先行してSF的爽快さに欠ける、おそらく書いている安部さんも、あまり楽しくなかったんじゃないかと思いますよ。 以前にちょっと触れましたが、外国ものですがC・ウィルソンの「スペース・ヴァンパイア」は、いわゆるSF小説家でない作家が書いたSFとしては、私にとってベストワンですね。V・ヴォークトの短編が下敷きになっているそうですが、主人公が異星人(善玉の精神寄生体)であることを意識しないまま、地球にやってきたエイリアン(悪玉の精神寄生体)をやっつけるという、よくある筋立てですが、ウィルソンお得意のオカルトや性愛行動のウンチクが、とても面白く、読ませますよ。ちなみに、これの映画は完全なB級作品で、本編とは何の関係もありません。 やはり作家は、自分の得意分野になると、とたんに能弁になる、C・ウィルソンの場合、もともとセックスや猟奇殺人に、実存的な思索を加える人でしたから、うまくマッチングしたのでしょう。 こんなことを私が、くどくど云うのは、私が小説に目覚めたのが、先にもあげた大岡昇平の「野火」だったからです。 いわゆる文学を小中学にかけて、読んだり読まされたり、しているころと違い、書いてある内容以上に、その文章に圧倒されるという経験を、この小説で初めて味わったのでした。小学時代はともかく、中学時代はみずから力んで、「戦争と平和」(当時ソビエト映画になってましたな)「ジャン・クリストフ」(ベートーヴェンがモデルと聞いたので)などに手をつけて、感想文なるものを書いたりしてましたが、それこそヴァレリーでしたか「すぐれた長編小説は、怠惰な読者を、最初の部分で、追っ払うように出来ている。」(Bingo!) 私の文学に対する記憶は、というわけで「野火」以前と以後に断絶があるのです。(おおげさな!)今こんなことを書いているのは、自分の記憶を一つながりに繋げるためにやっているようなものです。 というわけで、内容を盛る文章の姿形について、ちょっと話をしましょうか。 ― つづく ―
2006.07.21
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話がずいぶん遠回りをしてしまいました。「日本沈没」のことです。 SFは誰でもそうですが、ジュニア版で小中学生のころから、皆身近に感じています。「地底王国」「海底2万里」「宇宙戦争」などなど、小中学校の図書室とはSFを、タダで読む場所でした。ところが、同じ期待で高校になってSFを読むと、たいてい面白くないのです。その荒唐無稽さがハナにつくわけで、これは今に至るも私の場合は変わりません。 残念ながら翻訳もの、日本ものを問わず、例えば「野火」(大岡昇平)や「日本的霊性」(鈴木大拙)のような衝撃はSFにはないのです。比較すること自体がアホやと云われそうですが、ハードSFといわれる堀晃の「トリニティシリーズ」なんかは、短編集ですが、SFのトリックと今日的な味付けが何とも云えず、私のSFベストワンです。 堀晃氏「梅田地下オデュッセイ」で、一時期話題になりましたが(ちなみにこれはミュータントの誕生と、現実の梅田地下街の風景が、うまく密着しておらず、私はあまり好きではありません。)、その後とんと聞きません、どうされているのでしょうか?「トリニティシリーズ」は時間旅行のトリック(出発時点の現代から未来へは跳べて、戻れるが、出発時点より過去へはさかのぼれない)のしかけと、未来が過去からの侵略(主としてエネルギー源の収奪)で疲弊しているという、現代的アイロニーが秀逸で、いまだに私の愛読書の1つです。 それに比べて「日本沈没」は、SF的興味とは別のところで、私の場合、関心があったわけです。発売当初から小松左京氏は、日本民族が国土を失ったとしたら、どうなるか?という大命題を掲げられていたような記憶があります。 当時「日本人とユダヤ人」を発端としてユダヤ関係の本も読み漁っていましたから、亡国の意味を日本人はどう捉えるか、という命題は、私の血を沸かせるテーマではありました。 ところが実際に買ってみると、この本は「沈没」がメインテーマで、どうやったら日本国土は1年で沈められるのか?(Newton編集長の竹内均氏が、理論的根拠を与えました、100万年の時間経過を1年に圧縮すれば、沈められる!というのです。)大都市で大震災が起こったら何が起きるか?1億2千万人を、どうやって脱出させるか?脱出先はどうするのか?というふうな一種のパニック物語になってしまって、私の関心とは少しずれていたのを覚えています。 小松さんの小説は、いつも発想が雄大で、わくわくさせる。しかし残念ながら、テーマの壮大さに比べて、文章が負けてしまい、期待の半分ぐらいのカタルシスしか与えられないことが多い。その中で私がベストワンにあげるのは「果てしなき流れの果てに」ですか。時間旅行と主人公の生体としての変身を、極限まで追い詰めて、SFの醍醐味を味合わせてくれる(これも終わり間際では、文章が想像力に追いつかなくなってしまいました)。 とは云え、SF的興味でなく、日本人論の壮大な仮説としての、亡国というテーマから関心を持った「日本沈没」でしたが、その私の希望は本編では満たされませんでした。そしてその当時たしか続編が、すぐにも出てきそうな予告があったような気がするのですが、何だかうやむやになってしまいましたね。 おそらくテーマが壮大すぎるということもあったのでしょう。国土を失った日本人は、1. まずどこに避難するのか?2. 避難先の国との外交交渉はどうするのか?3. バラバラになった日本人はまとまるのか?4. どうまとめるのか?5. 誰がまとめるのか?6. 外国はそれにどう対処してくるのか?7. 日本本土が無くなって、世界の地政学上のバランスはどうなるのか?などなど、国を沈めるどころの話じゃなく、眼が眩みそうです。 1つには小松さんが体を害されたことも、あったかもしれません。しかし巷間伝えられるところによれば、別の方で続編が刊行されたとか、はたして上のような、私の疑問を解いてくれるのかな、と思いますね。 ―おわり―
2006.07.20
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小松左京の「日本沈没」は、高校時代の隠れ愛読書の1つでした。 当時、第3の経済大国だった日本が、70年を境に公害問題、石油ショック、浅間山荘事件などで、ゆれにゆれて、この先自分たちはどうなるのか?どこへ向かうのか?自問自答しているころでしたね。 それまで経済大国として、何となく自信を取り戻した日本および日本人について、数多くの日本人論が書かれていました。私はそれとは直接関係なく、自分の精神衛生の必要上から、さまざまな日本人論を読みあさっていました。 実を云いますと、日本人論との、最初の出会いは、高校の倫理社会の参考書でした。別に参考書が必要な科目ではなかったのですが、学校で教える西洋哲学の中味がサッパリ理解できない、早い話が教えてる先生が、本当に分って教えているのか、ものすごく怪しいというのが、発端だったように思います。それともう一つ、学校では教科書に出ている東洋思想とか神道については、いっさい触れなかったことがあります。当時はまだまだ左翼思想(今や死語となってますが)が、学校などでは強く、なぜか東洋や日本は扱わない、という雰囲気がありました。 教科書のわずかなパラグラフをみても、なかなか面白そうだ、自分の今の気分にとてもマッチする、という感覚があって、本屋でいろいろ探していたのです。その結果見つけたのが、中村元氏が監修する高校倫理社会でした。中村元氏は云わずと知れたインド仏教、東洋哲学の権威です。参考書というにはビックリするようなボリュームと内容で、後でわかったのですが、大学の教養でもこんな本はありませんでした。 その参考書の東洋思想、とくに日本の思想の部分に入るにつれ、自分自身が急速にそちらへ傾斜していった感覚は、今でも覚えています。物事を理解するとか、納得するということが、どういうことなのか、生まれてはじめて分ったような気がしたものでした。 1つ取っかかりが見つかると、本屋をウロチョロしていても、何となく自分が気に入るだろう本というのは、匂ってくるもので、同じころ「日本人とユダヤ人」の単行本が、さりげなく本棚の隅にありましたね。3回4回高校の帰りに本屋で立ち読みして、買うべきか、止めるか迷っておりました。あまりにも面白すぎたからです。若いときというのは、面白すぎる=不真面目、という感覚があって、同じころ高橋和巳や吉本隆明のようなコワイ本が、表を闊歩していた時代ですから、何となく肩身のせまいところがあったのです。 5回目に本屋のおっさんから、「立ち読みせんと買え!」と怒られました。再発注する予定もないから、汚れたらかなわんというのです。小さい本屋でしたが、小学生からの行きつけで、エロ本(当時は「スクリーン」のような映画雑誌も婦人雑誌も)を友達と見ていると、すぐ跳んできて、どなられました。 その後、高校の国語の教科書にも、自分の感覚にマッチするパラグラフがあることに、気づきました。手塚富雄氏の「日本と日本人」です。手塚氏も云わずと知れたドイツ文学の権威で、リルケやゲーテ、カロッサなどのドイツ文学の研究翻訳で知られた人です。その人のエッセイがこれで、ついに原本はみつからなかったのですが、「ドイツをはじめとして、ヨーロッパの文化には、いろいろ優れた面があるにせよ、その根底には何となくいやらしいところがある。」でしたか、そんなくだりがあったような気がします。なぜかこれも学校では取り上げられず、萩原朔太郎や小林秀雄を読まされたものです。大岡昇平はともかく(およそ文学的表現でなく、論理的な文体で、その文体自体が芸術表現になってる)、萩原朔太郎の詩とか、小林秀雄の評論なんか高校のテキストとしてどうなのかなあ。 ともあれ私は、以前にも触れた音楽と同じく、文学のほうでも、学校とは関係なく、自分で楽しむ方法を見つけたのでした。H・カロッサの「美しき惑いの年」はそのころの愛読書の1つでした。 ― つづく ―
2006.07.19
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漱石の「猫」の真ん中あたりに、囲碁のことが出てきますね。主人の苦沙弥先生とは関係なく、遊びに来た友人が囲碁をやるのを、例によって猫が皮肉な目で眺めているという図柄です。 「吾輩は世間が狭いから碁盤と云うものは近来になって始めて拝見したのだが、考えれば考えるほど妙に出来ている。 広くもない四角な板を狭苦しく四角に仕切って、目が眩むほどごたごたと黒白の石をならべる。そうして勝ったとか、負けたとか、死んだとか、生きたとか、あぶら汗を流して騒いでいる。 高が一尺四方くらいの面積だ。猫の前足で掻き散らしても滅茶滅茶になる。…それも最初の三四十目は、石の並べ方では別段目障りにもならないが、いざ天下わけ目と云う間際に覗いて見ると、いやはや御気の毒な有様だ。 白と黒が盤から、こぼれ落ちるまでに押し合って、御互にギューギュー云っている。窮屈だからと云って、隣りの奴にどいて貰う訳にも行かず、邪魔だと申して前の先生に退去を命ずる権利もなし、天命とあきらめて、じっとして身動きもせず、すくんでいるよりほかに、どうする事も出来ない。 碁を発明したものは人間で、人間の嗜好が局面にあらわれるものとすれば、窮屈なる碁石の運命はせせこましい人間の性質を代表していると云っても差支えない。」 ― 青空文庫 より抜粋 ― 猫の人間に対する講釈は別として、はじめて囲碁を見たときは誰でも、無地の碁盤が、黒白の碁石でぎゅうぎゅう詰めになっていくのを見て、ある種の感慨を催さざるを得ませんね。漱石は猫に仮託して、どこまでも素人の眼で、世の中を眺めたかったようです。 私も、ど素人ザル碁のはしくれですが、それでも無地の碁盤に、最初に石を置くまでは、すごい居心地の悪さを感じますね。人間は何にもなしの空間(Chaos)がどうも苦手で、一目散に秩序が見える空間(Cosmos)に移りたくなるようです。 どうも将棋やチェスとのちがいは、これらが最初から駒が盤に並べられた、想定された空間で戦うのに対し(ほとんどのボードゲーム、テレビゲームがそうです)、囲碁は無秩序(Chaos)ないし、不定形(Amorph)な地点から、ゲームを始めるので、はなはだ取り付くシマがなく、素人にはとっつきにくい。 それでもテレビの観戦碁など見ていると、なかなか面白いというのは、いうなれば打ち手(棋士)同士が、不定形の宇宙空間で、互いの世界観(Cosmology)を争っているように見えるからです。 勝負の分かれ目は、最終的に陣取り合戦ですから、多く地(陣地)を稼いだほうの勝ちとなるわけですが、途中には布石があり、戦いがあり、仕上げ(ヨセ)まで、結局どちらが勝っているのか、素人では分らないことが多い。 これも将棋のように、相手の王様を落とせば終わりという、明解な決着とは違い、すべての石を打ち終わって、並べ替えて整理して、はじめてどちらが勝ったという場合(半目勝ち、なんてね)、何だか勝った負けたというより、それぞれの世界観というか、囲碁的な意味での思想の正しさの証明(その対局での)を、行っているようで、明らかに他のゲームの勝負とは異なる、終了の後味がするのですが、どうなんですかね。 スタートレックほかのSFの世界では、パラレルワールドといって、最新物理学で提唱されている、真空からのエネルギーが、次から次へと宇宙の卵を泡のように、創り出しては消えてゆく。その泡の1つが、たまたま今我々の住んでいる宇宙を構成したので、したがって別宇宙が我々のすぐとなりに存在するかもしれない、というのがパラレルワールドの根拠だと思うのですが、間違ってたらごめんなさい。 囲碁は云ってみれば、小宇宙の生成を、何度も何度も果てしなくやっているゲームで、それの検証のために白黒が決めてある、というような気がするのです。どちらの世界観(思想)が正しいのか、整合性があったのか、もちろん激しい戦いの碁もあって、途中で勝負が決まる場合もあります(中押し勝ち)。しかし考えてみれば、実際の宇宙でも小銀河同士の衝突と消滅は、よく発生していることですよね。 そして終わってみれば、あとは一尺四方(もうちょっと広いような気がしますが)の無地の碁盤、 「引き寄せて結べば草の庵にて、解くればもとの野原なりけり」 ―「猫」同上―のカオスが残っているので、この猫は囲碁は人間が造ったと断定しますが、日本棋院のマイケル・レドモンド九段でしたっけ、「何だか神様が作ったゲームのような気がする。」とか云ってましたね。
2006.07.18
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ジダンのテレビ発言で、今しばらく、頭突き問題は後をひきそうです。しばらくというのは、長くはないという意味です。この問題を長引かせて、得をするヨーロッパ諸国はどこにもなく、さながら欧州地方大会の様相を示した、今回のワールドカップの威信を傷つけないためにも、早期の収拾をはかるでしょう。 ジダンがマテラッティの発言を、テレビで明らかにしなかったのは、明らかにすることで問題がサッカーをこえて、社会問題化する内容を含んでいるからです。それで一番困るのは他ならぬフランスであり、昨年から今年はじめにかけてフランス各地で頻発した、移民の暴動がふたたび起こりかねません。ジダンが帰国早々、シラク大統領はじめとして大歓迎を受けた背景には、今後の発言に対する口止めも含まれており、今回のテレビ発言はそれを裏付けるものでした。 フランス国民は、母と姉に対する侮辱だけでなく、民族差別的言質があったことを、薄々感じているでしょう。これが明らかになれば、イタリアーノに対する非難ですまされず、結局、植民地時代の旧宗主国としてのフランスの威信が傷つくのです。 やはり欧州の民族差別問題は、こちらで想像する以上に根が深いですね。フランスでは黒人やイスラム教徒が表立っていますが、欧州全体を見渡すとき、ユダヤ人やロマ人(ジプシー)に対する歴史的な差別と迫害は、今も厳然と存在しているといっていい。それが教会と深く結びついた、中世からの歴史を引きずっているからです。(「ダ・ビンチ・コード」も、こういう取り上げかたをしてくれたら、多少は認めてやるのですが) ユダヤ人差別は、第2次大戦のナチスドイツの所業によって、すべてがドイツに収斂された感じがありますが、実体的にはユダヤ人はイエス・キリストを売った民族として、中世の時代から教会を中心として、常に迫害の対象となってきました。 ある組織が人々を統御しようとするとき、いちばん安易にとる方法は、敵を造りだすことです。今でも形を変えて、世界中の国々で、安直にこの手が使われています(日本の周辺でも、これの大好きな国が2つ3つ)。中世ヨーロッパの歴史は、教会の異端審問の歴史といってもいいので、主導権争いに常に用いられたのが、民族差別でした。自給自足の農民を統御するのに、他国者=異端者=敵の図式は一番やりやすかったのです。その場合、標的にされるのは異教徒と放浪の民(定置農耕にそぐわない)でありました。 というわけで、今回のジダンの頭突きは、せんさくしすぎると、ヨーロッパの歴史の暗部を見せることになり、これは欧州全体の政府機関(統治者)も、マスコミも望まないところでしょう。今後の推移を見ててごらんなさい。 それにしても、彼のイタリアーノ、同じヨーロッパでも教育が行き届かない無知な選手(したがって格別尊敬もされない、例えばドイツのベッケンバウワー、サッカーの皇帝としてではなく尊敬されているのは、彼がワグナーのオペラを観劇できるから)と、それを支持するファン、欧州の中では何となく、英仏独に常に先を越されている意識が国民にあって、ワールドカップサッカーのような、原初的な感情の噴出を認める大会では、ついつい本音が出てしまいますね(よしなさい、と周囲が言ってるのに!)。 断っておきますが、私はイタリアーノが嫌いではありません。どちらかというと、とりすました北欧より、開けっぴろげなラテン的気質の方が、私には相性がよい。ギリシアでの、面白い話があるのですが、これは別の機会で。 ちなみにトリノあたりは、同じイタリアーノでも明らかに気質が違う、寡黙でシャイなイタリア人なんて、やはり国民性などを十把一絡げに決めつけるのは良くないですね。反省、反省! ジダン選手が、マテラッティ選手から面罵されたとき、1回目は彼は何か言い返してましたね。いわゆる受け流すという奴です。2回目は黙ってました、この場合イタリアーノは相手が反応するまで、悪罵を重ねる、黙ってるということは、俺の云ってることを認めるのか、認めないのか、ハッキリしろということでしょう。どこかの国の迫りかたと、よく似ていませんか?ジダンはやはり教育を受けているのです。汚い言葉に反応するには、彼の知性がジャマをしたのです。 3回目は知性がフリーズした(コンセントが抜けた)状態です。この場合、行動は口ではなく(フリーズしているので)手が出る(この場合は頭でした!サッカー選手の反射的反応、野球なら手、足、バット?)。相手は口には口が返ってくると思っているので、一発ノックアウトでしたね。 何処かの国々も、あまり言いつのられると、突然フリーズする国民性というのが、わかっているのかなあ。日本は前科一犯で、周りの国は痛いめに会っているのに、どこまで理解してるのかなと思いますね。
2006.07.14
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ざこば師匠じゃないですが(師匠は言葉いじめですが)、子供のころ私どもは動物たちとは、身近かな付き合いをしていました。付き合いの中には、当然いじめや暴力も含まれていて、今思い出しても赤面至極な内容も数多くあるのですが、書ける範囲で取り上げてみるとしますか。 猫はいまどきのペット猫と違って、野良猫が中心で、家猫もネズミ退治の要員として、存在感(Presence)がありました。ネズミが天井裏を走ると、すぐ家猫を押入れの天井板を外して、追い込んだものです。家猫と野良猫の違いは、家人が飼うかどうか、の違いであって、猫社会はそれとは関係なく周辺に広がっていました。 私たちの猫いじめは、野良猫にパチンコを発射する、つかまえた奴を川に放り投げる、金魚を取ろうとした奴には、取らなくなるまで池に顔を浸ける、などに始まって、これ以上は筆者の品格?にかかわるので書きませんが、子供の想像力で考えつく限りの相当のことはやっておりました。 猫のほうも、子供たち(悪ガキども!)が危ない存在であることを知っているので、私どもの周囲5メートルぐらいには近寄らず、もっぱらやさしい大人に媚を売ることに専念しておりました。 野良猫はすでに野外で淘汰されているので、ものすごく繁殖力が強い。家猫であることを許した、わが家の猫も1代目は、年に3回ほど4,5匹ずつ生むのです。当時でも野犬に関しては、厳しい条例があって、保健所からすぐに駆除係がやってきたものですが、(狂犬病は現実の脅威で、親からもやかましく云われてました。「アラバマ物語」のG・ペックが銃で撃ち殺す、あの雰囲気です。)猫についてはゆるやかでした。 したがって、家で生まれた子猫の始末は、家人の仕事でした。ネズミ捕りで水漬けにして殺して川に流すのです。となりでおっさんが釣りをしています。当時はイヌ、ネコ、ネズミなど、生き物を始末したら川に流してました。何だかガンジス河みたいですね。 ところが家猫2代目になると、繁殖力が落ちるように見えます。さらに奇形児のような猫も生まれる、尻尾が曲がっているというのは、よくあることですが、最初から無かったり、胸骨が半分ほど無かったりといったことが、煩瑣に起こるのです。 当時はDDTが、まだ主としてノミ、シラミ退治用に、普通に使われていましたから、そのせいかなと今になってみれば思うのですが、それにしてもノミはいなくなりましたね。 家猫3代目になると、もう野良猫の野生は失われ、ネズミも捕らなくなりました。こういう世代交代が、だいたい3,4年の間に起こるのです。 当時は気づきませんでしたが、生き物の進化とか適者生存とか、ようするに生体の変化というのは、意外とひんぱんに起こっているのではないか? 先日、北極のシロクマ君の生活系が氷山の減少で、危機に瀕しているという記事がありました。シロクマは、氷山の下いる豊富なプランクトンを、食べるオキアミを、食べる魚を、食べるアザラシが、主たる食べ物で、食物連鎖の頂点にいますから、氷山が少なくなれば、たちまち飢えるのです。 野生のクマの生態は、すさまじいもので、2年に1回2匹を生むのですが、2匹というのはバックアップシステムみたいなもので、子孫を残すための安全装置です(ハーディスクの中味をCDにコピーしておいて、片方がダメになってもコピーは残す)。そういえば、日本では人間も、つい60年ほど前までは、3,4人生んで2人残ればという世界だったでしょう。 動物にとっては、生きるとはその日その日が勝負で、食えなくなったら、それで終わり。海で食えないシロクマ君が陸に上がる、人口過多?になった知床のヒグマが、不思議な棲み分けと、共生生活を編み出す、なんていうことが、ひょっとすると生物界では私たちが想像する以上に、ひんぱんに行われているのかもしれませんね。
2006.07.13
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漱石の「猫」は、親から読めといわれて、子供ごころにもちょっとバカにしたところがあったのですが、とりあえず「猫」の話なので面白い、出だしから猫同士の話の間は読み進むのですが、大抵50ページあたりで退屈して投げ出す(トチメンボーがどうのこうのといったあたりで)、あとは最後の甕に落っこちてお陀仏のところを読んで、お茶を濁すという繰り返しを、二三度繰り返してました。案外読んでない人多いんじゃないかなあ。 大人になってから読み返すと、漱石というのは「猫」といえども、重い。筋はすっかり忘れてしまいましたが、軽妙なおしゃべりの中に、うんざりするようなテーマが隠されていて、その後の漱石を予感させるようです。 とはいえ私はその内容はともかく、彼が「猫」を書き始めたのが、1905年(日露戦争開始の翌年、奉天会戦がその年の3月、日本海海戦が5月)の年の1月からということに注目します。今の我々から見れば、当時の日本はそれこそ国家危急存亡の危機にある、全国民が固唾を呑んで戦局を見守っている、という固定観念でその時代を見てしまいます。現に当時の新聞や政治家には、朝野を分かたずといった雰囲気があったでしょう。 とすれば、この「猫」の醸し出す、のどかな雰囲気は一体何なのか、ということです。実は「猫」の中にも日露戦争に触れた記述があるのですが、まるで地球の裏側の出来事のようです(まあ猫から見れば、よそ事にはなるのでしょうが)。 しかし1月に高浜虚子のホトトギスに連載されて、すぐに好評を得たということは、これを支持する読者が、当時の日本に多数いたということであって、これは昭和を経た今の日本人には忘れられた精神が、明治のこの時期にはあったのではないかと、私は思うのです。 日露戦争は実質的に近代戦争の惨烈さを最初に示した戦争でした。欧州では第1次世界大戦が、その大量破壊と死者数の多さで、第2次世界大戦以上に、その後の欧州の歴史、文化、政治に与えた影響は大きいのです。戦争がプロの戦争屋同士(将校は貴族でした)の名誉の戦いから、市民戦争になり、いわゆる銃後の区別が失われたのが、この戦争でした。 日露戦争は、その意味では日本本土で行われた戦争ではないこと、まだ戦場におけるモラルがあった時代だったこと、は勘案しなければならないかもしれません。しかしその戦いで発生した死者数、弾薬の消費量、国家予算をはるかに上回る戦費など、近代戦争の特徴はすでにハッキリと現われているのです。 当時の日本の状況からいえば、負ける確率のほうがはるかに高い、そして負けた場合の代償を日本政府と日本の新聞はどのように捉えていたのか、このような視点の記録が、私にはあまり見えてきません。 とはいえ、そういう時代の最中に「猫」が読まれ、それを支持する精神というのは、ちょっと今の日本人にはないものですね。(当時の政府や新聞が、それを批判したという記録もあまり見えてこないのです。これが昭和18年だったらどうでしょう?)今の日本でもテポドン1発で、これほど大騒ぎする精神ではね。私たちはその後の昭和という時代に形づくられた精神構造に、相当毒されていると思ったほうがよさそうです。 良くも悪くも私たちは自分の生きてきた近々四、五十年の時代精神と、それ以前の50年くらいの時代精神に、無意識に影響されているので、その視点でついつい過去を見てしまいます。敗戦後、日本の社会構造はすっかり変わったと、誰しも信じて疑わないのですが、精神構造は、戦前から戦後も、そのまま引き継いでいるのです。 日露戦争中と太平洋戦争中の時代精神は、峻別して考えたほうがよさそうですね。太平洋戦争中の日本を見る眼で、日露戦争中の日本を見てはいけないのです。
2006.07.12
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宴のあと 長い長いワールドカップサッカーが、ジダンの頭付きで、何となくしらけて、やっと終わりました。内心の悪魔が突然制御不能に噴出するというのは、スポーツ選手ならずとも日常世間でもよくおこることです。 すでに巷間で、マテラッツィのかけた言葉が、人種差別的な内容であったとするコメントが出ていますが、ヨーロッパの人間ならば、おおよその想像はつく言葉を吐いたのでしょう。おそらく真相が出るにしたがって、ジダンを退場に追い込んだ、マテラッツィを擁護するイタリアのマスコミは、窮地に追い込まれるでしょう。 ひらたく云えば、アメリカにおける黒人差別、ドイツにおけるユダヤ差別、日本における朝鮮半島侮辱、アラブにおけるマホメット侮辱にあたる言葉で、その一言で感情が理性を簡単に圧倒する種類のものです。 言葉というのは普段考える以上に、ヒトの深層心理を揺さぶる。云ってはいけない言葉を発することによって相手がどうなるか、このイタリア人はほとんど意識していたはずで、もしこれを許すならば、やはりちょっと小狡いイタリアーノのサッカーという、以前からの私の認識を再確認することになります。 理性は大脳皮質で、ヒトの行動を普段は統御しているものの、感情はそれ以前の原始脳(小脳以下)から発せられますから簡単にくつがえされる。たとえば性欲は理性では統御できないでしょう。あるいはいくらぺ・ヨンジュンやイ・ヨンエに好感を持っていても、政治向きの韓国政府の発言一つ、行動一つで、微温的な交流などたちまち吹き飛ばされる、言葉とはそういうものです。 ヒトラーやケネディは言葉で聴衆を魅了しました。今の日本では言葉のもつ喚起力とか、感情を揺り動かすスピーチなど、めったに聞かれませんが、欧米その他では、話し言葉の魅惑に惹かれて、それに酔うことは珍しくありません。彼らは話している内容(理性)ではなく、話される抑揚(感情)に惹かれて聞きに集まってくるのです。 これは言葉が理性でなく、感情に作用する面を持っているということです。 それにしてもワールドカップは、それぞれの国民性を、その庶民レベルでナマで露わにしてしまうということで、普段のとりつくろった国どうしの付き合いとは、別の面を見せてくれて面白かったですね。 実を云うと、準々決勝でブラジルが消えて、ヨーロッパ勢だけの対戦になったとき、何だかこれはワールドカップではなくて、欧州の地方大会のように見えたのでした。甲子園の準決勝あたりからの一種の寂しさであります。正直に云えば、トーナメント後に生中継を見たのは、決勝の後半だけでした。スポーツというのは、やはり時間を選手と共有するところに値打ちがあるので、あとからビデオで見ても少しも感興が沸かない。結果のわかったスポーツなど(サッカーフリックは別として)、冷えてないビールみたいなもので、何の値打ちもないです。 してみれば、私のワールドカップは1次リーグで終わっていたということです。クリンゴン星人やヴァルカン星人?といった異種族が一同に会して、4年に1回のMoc Combatを繰り広げる、というわくわくする設定が、私にとってのワールドカップの魅力でした。 それにつけても、イタリアーノの差別的発言をはじめとして、欧州というのが以前に比べて、世界の中で矮小化していると思ったのは、私だけでしょうか? 半年ほど前ですか、デンマークか何処かの新聞が載せたモハメッドのカリカチュアが、アラブ世界で大問題になってましたが、それに対するデンマーク政府の無策ぶり、欧州マスコミの反応、世界を主導するという、かつてのヨーロッパの矜持には程遠く、他世界と同じレベルで、まるでワールドカップのように騒いでいたのには、がっかりしました。 ついでに言えば「ダ・ビンチ・コード」のような低級な商業映画が、あちらでヒットすることにもね。 まあ、これは別の話。
2006.07.11
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かつて来た道 3. 1930年代から敗戦までの15年間、日本の政治は軍部の統帥権干犯問題で、実質的にその主権を奪われ、国民主権としての議会政治は骨抜きになっていました。軍部が国家と国民を、壟断し拉致するという図式は、日本においても決して異世界のことではないのです。 これが私が生まれる10年前まで、日本で普通に行われていたということを、時間の感覚で捉えたかったので、10年の経過がどれくらいの時間感覚なのか、たとえば阪神大震災の例をとってみたのでした。 私の生まれたころは、すでにそうした痕跡は世の中になく、まるで日本という国が出来たときから、この民主国家は云わば所与のものとして、昔からあたりまえに、あるかのような感覚でした。軍隊とか戦争とかを話すのは、それ自体がまるで悪であるかのようで、それについて話すことは好戦論者と受け取られることを覚悟せねばならないという、まことに奇妙な時代だったのです。 敗戦後60年、戦争とか軍事力について、まともな議論がなされなかったことは、逆に世界情勢の認識について、今の日本を誤謬に導いているようで、必要以上の煽りと不安感に追い立てているような気がします。(逆に無知蒙昧な楽観論も危ない。実際に兵隊にとられて戦争するのは、若い人ですよ) 最近はよほど議論の機会が増えて(戦争の予感が現実味を帯びてきたので)、昔なら好戦論者といわれた人が、ずいぶん元気になってる、これも困ったことです。 時代とか社会というものが、10年足らずで、そっくり入れ替わってしまう(眼に見えるものではなく、社会風潮といったもの)ということを、私たちは充分認識しておかなくてはなりません。 つい10年ほど前まで、韓国は軍事クーデターで政権奪取した朴正煕(パク・チョンヒ、現ハンナラ党党首朴 槿恵パク・クネさんの父)大統領の敷いた反共親米路線で、当時の日本よりはるかに北朝鮮に対して強硬でした。朴正煕はご存知かもしれませんが、旧日本帝国の陸大出身ですね。 在任中に旧日本陸軍の威力を継承しているのは、自分だけだと(戦後日本が腰抜けになったので)云っていたとか。 歴史というものは、正も負も合わせて継承されていくので、日本の朝鮮半島植民政策を、弁護する理由は、ここから先も無いにもかかわらず、旧日本陸軍の発想や手法は、朝鮮半島の北と南に分かれて、依然として残っているのです。謀略、拉致は旧日本陸軍の得意技でした。 私より10年以上年上の人たちは、多少なりと今の北朝鮮(あるいは韓国)の世情や、国家組織からの声明に、過去からの遠吠えを聞いているのではないでしょうか?自分自身の内部に残っている、かつて確かにあった感覚を呼び起こされているのではないですか? 今の北朝鮮を戦前の日本と同一視することは、もちろんできませんが(半島には島国とは大きく異なる悲哀の歴史があります)、まったく別世界のテロ国家のような断じかたを、はたして日本人(とくに若い政治家)はできるのでしょうか。 これはひょっとしたら、日本がかつて来た道だったかもしれないのです。― おわり ―
2006.07.07
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かつて来た道 2. 私くらいの歳になると、自分の生きた年月の時間感覚で、物差しをあてるように、過去の歴史の時間間隔を、推し測るようになります。早い話が第2次世界大戦は、私には完全な歴史上の出来事ですが(このブログをみている大半の人もそうですが)、敗戦から11年後、自分が生まれたということは、阪神大震災後11年の今年、自分の震災の記憶はどうなってるのかな、というぐあいに。 意外と世界大戦の記憶の生々しい時期に、自分が生まれたのかと、あらためて考えてしまうのです。 あるいは、バブル崩壊からデフレ脱却の15年間(1991~2006)とは、満州事変から敗戦まで(1931~1945)の時間とかね。 親父が生まれたのは日露戦争後15年、第1次世界大戦終結(1918)の翌年で、24年後兵隊にとられ、1年後南方へ送られる前に(船がすでになかったそうです)敗戦となります。 前にも話しましたが、子供のころ親父からは、戦争の話を何度も聞かされました。大阪空襲で焼夷弾の雨の中を、見知らぬ子供の手を引いて走っていたら、子供の背中に焼夷弾が当たって燃えていたとか、高射砲の照準は最初の1発だけで、あとはねらうなんてものじゃない、当たる確率は1万発に1発もない、とか、小銃は手元で1ミリずれたら100メートル先で1メートルはずれる、つまりめったに当たらない、とかね。 しかしよく考えてみれば、親父の戦争体験はたかだか1年程度、敗戦後のGHQとの応対を含めても1年半の期間ですから、その前後の人生期間と比べても一瞬にひとしい。 大岡昇平が有名な「俘虜記」に書いているミンドロ島の戦闘の期間は、約半年、彼自身が敵に向けて、銃を撃ったことは戦争中とうとう無かったのです。 それでも、その戦争体験をライフワークとして、彼は何度も書きましたね。その中にミンドロ島で死んだ同僚の記憶が、戦後平時に死別したはるかに多くの友人たちより、強く私を呼ぶ、というような記述がありました。 話が飛びます。自分が記憶している体験と時間感覚を、歴史の中に連続したものとして、とらえたいのです。 朝鮮半島の話に戻ります。今、北朝鮮の行っている恫喝と欺瞞の外交は、70年前日本がやっていたことではないか?その手法、発想とも、かつて日本人が共有していた感覚ではないかと。― つづく ―
2006.07.06
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かつて来た道 1. 北朝鮮の自爆的なミサイル発射で、またまた日本は大騒ぎです。 私はこのブログで、政治向きの話は熱すぎて楽しくないので(ブログの第一番の趣旨は楽しむことだと思うので)、しないでおこうと思っているのですが、地理、歴史的なものの見かたは、常に考えてしまう性質です。 ある組織が国家単位の地理と人間と資産を占拠し、その組織の防衛のために、自国民および周辺国に恫喝をくわえるという行動は、北朝鮮に限らず今も昔も世界に存在します。 近い例では南米のコロンビアがそうで、麻薬カルテルが、国より強力な戦力を保持することで、国を牛耳り、外部からは容易に手を出せなくなってしまいました。これは極端な例としても、支配側の組織は往々にして、組織の維持強化のために、自国民を犠牲にし、搾取(さくしゅ)、壟断(ろうだん)を繰り返すというのは、よくあるのです。 近代的な国家の概念ができあがった19世紀以降も、国家組織を裁くシステムは、この地球にはまだ存在せず、どのような小さな国であっても、その主権は基本的には外部からは手出しができないのです。外部から干渉できるのは、その国が他国の主権を侵略した場合であって、国家単位の組織とは、それほどに国内に対しては強力なのです。極論すれば自国の国民および資産の、生殺与奪をすべて握っているといっていいでしょう。 北朝鮮の場合、すでにして日本人を拉致し他国の主権を侵害している時点で、他国からの干渉を受ける立場にあるといえるでしょう。国家組織がそのまま犯罪組織と化し、麻薬、贋札、拉致、恫喝を繰り返す場合、国際社会は連合して、この国家組織を破壊しなければなりません。 大事な視点は、そのとき国家組織とその国民を切り離して考えるということです。これら組織は国家という枠組みで、いわば自国民を人質にしているわけで、北朝鮮の国民はその第1番の被害者であるということです。北朝鮮の国家組織が暴発する場合、彼らが自国民を何とも思っていないのは明らかです。 これは多かれ少なかれ自由選挙によって成り立ってない、すべての国家組織に共通する問題点です。その中には当然、共産中国も含まれますが、中国の場合は国家と国民の関係は、歴史的に見ても希薄であり、国民は往々にして宗族内の維持繁栄を第一義に考えます。(国家の概念は、必ずしも世界共通ではありません。) 中国についてはまた触れますが、ハッキリ云えることは、中国では国家組織とは、3000年の昔から統治の手段であって、一度たりと国民のための体制ではなかったということです。国民が国家に信頼を置いてないという歴史的状況は、今も変わりが無いように見えます。 中国の歴史とは、国家と民族の攻防の歴史であり、統治できなければ、たちまち分裂蚕食される。ここ500年の歴史をみても異民族の統治、国家分裂、国境線の蚕食はいつも発生しているのです。中国の政治家の視点が、日本の政治家の目線と異なることを常に頭に置いておかなくてはなりません。 日本は、その点で国家組織における統治という概念が希薄です。国民はほっておいても統治されている、こんなに統治する側にとって、たやすい国民は世界にないでしょう。国境線は海でハッキリ隔てられている、言語は単一で、しかも他国語との共通性が薄い。こんな国は世界でもやはり特殊と云うべきでしょう。 英国が同じ海洋国家として、引き合いに出されることがありますが、歴史的にはノルマンとアングロサクソンの攻防があり、地域的にもイングランド、ウェールズ、スコットランド、さらにアイルランドは対立的な概念で捉えないといけません。これは日本ではありえないのです。関東と関西の対立などという予断で考えてはいけないのです。 難しい話になってしまいました。これからする話は、朝鮮半島に関する日本歴史私見です。― つづく ―
2006.07.05
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怪物たちの終焉 中田英寿の突然の引退表明で、私の独り言の予定が若干狂ってしまいました。 日本に現在棲息すると思われる、数少ない怪物たち(天才)を語るのを軸に、日本の文化とか日本人の性向をさまざまな角度で、私の語れる範囲でしゃべっていこうというのが、このブログを始めたきっかけでした。しかし私の悠長なテンポに怪物たちは待ってはくれません。余計なお世話とばかりに、私たちの前を走り抜けていきます。 中田英寿に関しては、イチローと並んで自分の言葉でしかしゃべらない、後はパフォーマンスでかってに判断して、という感じが強く、野茂や伊達公子を加えて、もっともやっかいな連中だと思ってました。(伊達さんは世界のトップに並ぶ一歩手前で引退しましたね。何かの番組で自分の内部にある悪魔の発現にうんざりした、というような意味のことを云ってました。トップになるためには悪魔の開放が必要だと、京都の女の人は一筋縄ではいきません?ほんまに。) しかしここのところ中田の発言が、若干愛想良くなっているのが、気になってました。悪く考えれば、アスリートとしての限界が見えてきたぶん、世の中と愛想良く付き合い始めたのかな、という危惧があったのです。何だかこれまで天狗の強面で鳴らしてきた悪役が、突然正義の味方に成り代わったような、いごごちの悪さを感じていたのは私だけですかね。 プロレスや相撲その他で、それまで悪役だった人物が、いつのまにやら善人として社会に飼いならされている、という図式はよくありますね。古くはデストロイヤー、ゴジラ(特撮の)、小錦、ボブ・サップ?いずれ朝青竜も? しかし今回の彼の引退表明をみていると、そういうわけでもないようで、若干安心しています。今後のことは、しばらく様子を見るしかないのでしょう。 というわけで、荒川静香さんも中田英寿も、日本の会場で、私どもの目の前で、本物の真剣勝負のパフォーマンスを見せる、という機会は永遠に失われてしまいました。
2006.07.04
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8:2の法則 ブラジルは以外でしたね。人間がいったん受身にまわると、どうなるかという見本のような試合でした。 何事につけ、攻めに入っているときほど、気持ちのいい時はない。自分たちのイメージどおりに事が進むわけですから、動きにもますます拍車がかかります。しんどいのは受身にまわったときで、ラグビーなんかでも守るときはバックしながら走らなけりゃならないので、ものすごくしんどい。たんに守るからしんどいんじゃなく、後ろ向きに走るという動物としては極めて不自然な体勢を取らなくちゃならないから、しんどいのです。 さらにラグビーは下がりながらも、ぶつからなくてはならないので、サッカー以上に勢い(Momental)の差が、得点結果に現われます。 野球やアメフトは攻守にインターバルがあるうえに、さらにプレーが寸断された一瞬芸の連続なので、立て直しがわりと利くスポーツですが(おまけに作戦タイムが多い)、サッカーやラグビーは連続したプレーなので、立て直しがなかなか難しい。 クアトロ・マジコを揃えても、勝てないということで思い出すのが、組織論でいわれる8:2の法則です。傑出した人間を10人揃えても、組織で実際に機能するのは2人だけ、ということなんですが、いろいろな考え方ができそうです。 世に云うドリームチームは野球、サッカーを問わず、世界にあります。金にまかせて、あれがいいこれがいいで、かき集めたチームとしてはニューヨークヤンキース、レアルマドリード、かつての読売ジャイアンツなどが、すぐ思い浮かびますが、1つとしてすべての選手が機能して優勝したことがない。むしろそれまでスーパースターだったのが、何となくかすんでしまったように見える選手のほうが多い。ヤンキースのJ・ジアンビー、レアルのロナウドなど、オーナーやファンがイメージした彼らの姿とは程遠いものでしょう。 その場合、批判されるのは常に全体をまとめる監督ですが、実際に組織を指揮すればすぐ分ることというのが、複数の人間が集まって何かことを起こすとき、必ず序列ができるということです。これはいい悪いとか、正しい正しくないとかの問題じゃなくて、どうも人間の生理に関係した反応であるようです。 私もつたない経験ではありますが、何人かの強力営業マンをかかえてプロジェクトをやったことがありますが、突出した人間を10人集めるよりは、並みの人間8人に2人のトップを据えたほうが大体うまくいく。私としてはトップの2人の操縦に気を使えばすむわけです。 強力メンバー10人でやっていると、何となく全員の力が以前より落ちているように見える。現に落ちている奴がいるのです。これは本人が怠けてるとか、気が緩んでるとかじゃなく、どうも全員が同じように光り輝くということが、組織の中ではありえないような気がするのです。 何となく納まりが悪くて、結局何人かがスローダウンすることで、2人くらいが目立つということになるのです。不思議なことに全員がレベルアップして、その中でさらに突出して目立ってくるということは、私の経験ではありませんでした。 むしろ並みの8人がトップ2人を見て、考えられないような好結果を残すというケースのほうがはるかに多い。かといってその人たちが、トップの仲間入りをしたのかといえば、そういうわけでもなくて、チームを解散すればまた普通のレベルに戻ってる。何やそれ。 これはもう集団である人間の生理だと思いますよ。
2006.07.03
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