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例の地学のBasalt先生が云われるには、「小中学高校大学の先生の中で、高校の先生がいちばんタチが悪い、大学の先生は自身の専門分野については、世間をバカにして(どうせ分りっこない)何も説明しようとしないし、小中学の先生は専門知識より人間教育が主体だから、いいのだが、高校の先生というのはいちばん中途半端で、自分の専門を(熱心な先生ほど)どうしても披露したくなるもんや。」というのですが、説明不足の披露ほど生徒にとってやっかいなものはないのでした。 一般に当時の高校の教科内容は、説明抜きに各教科の深堀りをやるので、うかうかすると、たちまちわけが分らなくなる。中学校で分っていたはずの事柄が、いつのまにやら遥か深みに連れて行かれて、これは到底自分の間尺には合わないな、と思い至るのはよくあることです。 この理解できないままに授業を受けるという苦痛は、高校では進学進路先の決定と絡むので、私など真っ先に数学を捨てました(数学の時間は3年間、苦行の時間でした。ところが矢野健太郎でしたか、数学の解説本はおもしろかったですね。授業と関係ないと、何でこんなにおもしろいのでしょう)。しかし数学の先生というのは、浮世離れした変わった人が多い、体操のときなどラクダのパッチ姿で出てくるんですね(この種の名物先生というのは、今いるんですかね)。 英語も大抵にしてくれというような、イディオムの暗記や長文読解をやるのですが、当時人気の原仙作の「英文標準問題集」などは、取り扱うテクストの中味がおもしろくて、T・S・エリオットやH・リード、S・スペンダーなどは、ここで知ったのでした。 こんな牧歌的な高校の勉強風景というのは、たぶん今の受験システムに完全に繰り込まれた高校には、望むべくもないでしょう。自分の体調変化や能力や興味の変化と、並行して生じる不満や不安は、この時分に当然今も昔もあると思うのですが、高校入学時点で大学受験科目だけを勉強する(中高一貫の私学や一部の公立は、中3ぐらいから)という、当節の教育システムに、上のような牧歌的な勉強風景の入り込む余地はないでしょう。 その意味で、当時通った私の高校は、伝統校という矜持がものすごく強くて、受験対策など二の次、大学とは別個の高等教育機関としての存在感をハッキリ持っていました。今の受験予備校化した進学校とはだいぶ様子が違ったようですね(でもその結果、たぶん私の年代ぐらいを境に、レベルが落ちたとよく云われ、その後普通の受験校に成り下がったというのですが)。 私は「日本史」の深堀りな教え方が不満で、「世界史」を受験科目にしました。古文書まで網羅して、微細な事項を教えるにも拘らず、肝心の日本という国の姿、あるいは歴史的なものの見方、または考え方というのは、何一つ見えてこないのです。私の記憶では、これは先生の教え方の上手い下手ではなく、カリキュラムそのものの問題だったろうと思います(現に先生は日本史のほうが優秀でした)。 結局のところ受験という話題を除けて(これを優先して要領良く立ち回る生徒も、もちろんたくさんいました)、自分とは何か?どこから来て、どこへ向かうのか?といった、人生の基本的な関心事にこれほど時間を費やした時期はなかったので、それが理系文系を問わず勉強でも、体育他の実技でも、この時期にあったということは良かったのです。中学と違い先生の出来不出来と関係なく、自分の興味に沿って勉強を楽しんでいたのでした。 ではなぜ「世界史」なのかというと、歴史の全体像をダイナミックに捉えるなら、多少の粗さはあっても世界史のほうがおもしろそうだと思ったからでした。 どうせ勉強するなら、おもしろそうな科目をやるにしくはないと思ったのです。 ― つづく ―
2006.10.31
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勉強が壮大な苦痛の世界そのもので、知るを楽しむ、あるいは多面的な思考の方法を見つけるなどという余裕はなかったのでした。ただ小中時代と違うのは、先生の権威でイヤでも勉強していたものが、履修分野そのものに批判的になり、さらにまた自分の将来も見据えて、勉強の中味を選択する。これが高校時代だったようで、したがって先生もずいぶん批判的に見るようになって、前にも触れましたが、ほとんど尊敬に値する人はいないなどと、おおいに生意気になったりします。 対するに高校の先生方は大いに権威をまとっていて、生徒から見ているとほとんど戯画的に見える、それでも義務教育でないという厳しさは共有されていて、骨折その他で1ヶ月休めば即留年、恋愛事件をおこせば即退学、表向きのスマートさとは裏腹に、生徒と先生はずいぶんと緊張関係があったように思います。 今の高校の先生方はつらいですね。ただでさえ生意気ざかりの生徒たちに、今回の必修科目うんぬんで頭を下げる、このままでは生徒はつけ上がるばかりで、権威も何もあったものではありません。これに関して、親も世間も、学校あるいは教育委員会が一方的に悪いという、例によって他人に責任を擦り付ける思考回路で、ものを言っていますが、はじめにも言いましたが、これは親も子も学校も含んだ、社会全体の共犯関係で捉えないと、本質が見えてこない。 生徒自身がこれをおかしいと思ってなかったとは、言わせませんよ。皆分っててやっているのです。この種の自己欺瞞は(なつかしい単語ですな)敗戦後日本の欺瞞体質とパラレルで、内心のウソ偽りを(戦力の不保持を宣言しながら、世界第3位の戦力を持つ)、社会が(世間が)共有することで、成り立ってしまう。誰かがそれをおかしいと指摘すると、誰もそれに論理的に反論できないという仕儀になるのです。 断っておきますが、私は古臭い平和主義者ではありません。一つの不健全な思考回路が、新たな不健全さを生み出す、ということを云いたいのです。今高校生たちは、我が身に降りかかった災難を、内心のやましさを感じることなく他に転嫁するという、敗戦後繰り返された不健全な思考回路を、これで身に着けようとしています。 さっそく今年の高3生に救済策が施されようとしています。そもそも今回の事の発端は、文化相が「日本史」を「世界史」に変えて必修科目にしたいと、「美しい国」を標榜する現内閣のバックを受けて発言したことに始まったのでした。ことが伊吹さんの意図とは関係のない話に展開しているので、基本的にはもう関心の外にあるでしょう(つまり早々の収拾策でお茶を濁すでしょう。彼らのご子息が有名私学に通っているのは公然のことですから。ついでに言ってしまうと、昔は私学というのは大学も含めて、公立に入れない子の学校でした、今や公立が東大も含めて私学化しているのです。受験システムに完全に組み込まれて、今や学問の目的価値自体が変質させられようとしています)。 困るのはこうして権威を失墜させられて、放り出された高校の先生方でしょう。立場上、こっちも悪いが、あんたも悪い、とはとてもじゃないが云えなくて、親にも生徒にも頭を下げて、沈黙するだけ。これが各地の進学校を中心におこるのなら、やっぱり日本の将来は暗いと云わざるを得ません。責任転嫁の思考回路を何とも思わないインテリほどタチの悪い生き物はいないのです。生徒や親に多少でも、内心のやましさを感じるところがあればまだ救われるのですが。 まあしかし、あまりこれを親御さんに云うのは酷かもしれません。なにしろ牢固とした教育階層社会は、敗戦後日本の巨大な社会構造で、これを覆すにはほとんど革命に匹敵する価値観の転覆がないと無理でしょう。したがってこれに寄生する受験屋産業が衰退することはなく、はたまたその巨額の政治献金を無視できる政治家もいないでしょう(ある医学部受験専門校など、受講料は年間で1600万円ですよ!しかもそれで受かれるのです、今の受験システムは)。 楽しい歴史的なものの見方の話をしようと思っているのに、ちっとも進みません!したがって楽しくありません、あ~あ。 ― つづく ―
2006.10.30
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他でもない歴史について、今高校で「世界史」が必修科目であることを、私はうかつにも知らなかったのでした。高校の「日本史」がどれほど価値のあるものかどうか、私の高校時代を思い出すかぎり、あまり期待は持てないのですが、歴史をたんに古代からの暦年の暗記物と捉えたら、すべての社会科目(歴史も地理他も)は無味乾燥、勉強のための勉強になってしまい、ひとたび受験科目を外れれば誰も見向きもしないでしょう。 私の時代は、高校の必修科目は社会系は地理、世界史、日本史、倫理社会の4科目、理科系は物理、化学、生物、地学の4科目で、数学だけが理系と文系に分かれておりました。国語は現代国語と古文、漢文の3科目共通で理系の人には苦痛だったでしょう。さらに実技科目が3教科選択必修で、体育の実技など、さながら戦前の軍事教練みたいでしたよ。 当時、国公立大学の受験科目は、理系文系を問わず5科目で、私学のみ数学、国語選択の3科目受験が出来ました。「受験地獄」という言葉は、団塊の世代の壮絶な受験戦争のあとで、たぶんそのころのほうが、今より盛んに使われていましたね。そして受験地獄の主たる原因を、国大系の受験科目の多さに求める声が大きかったように思います。 いずれにしても国大を受けるには文系理系を問わず、数学が出来ることが条件で、数学が出来るか否かが頭の良さの判定基準になっていたように思います。 ま、それはともかく、高校生の自分にとってみれば、文系志望の(数学ができないので)身分で、何で化学の周期率表を覚えねばならないのか、原子核の周りを取り囲む電子の雲の話を聞かねばならないのか、しじゅういらいらしていたのは事実で、高3になると、友達ともども内職にふける、ないし私語を楽しむということはありましたよ。 しかし厳密に理系文系に志望コースを分けるのは高3からで、したがって高2までは両方をふらふらする友達もたくさんおりました。何より数学の出来が、国大、私学受験の分かれ目になるので、そちらのほうが肝心だったのです(私のように真っ先に白旗をあげた者にも、複素数や極限値は叩き込まれましたよ)。 いずれにしても、今現在役に立つとか立たないとか、効用だけの視点であの広大なる高校の履修科目を考えても、あまり意味がないような気がします。かといって、役に立ってないから必要なかったかといえば、そうでもない。効用だけで論じるなら、中学生でも司法試験その他は、当時でも受験できたので、やはり教育とはたんなる効用とか資格を目的になされるものではなかったでしょう。 歴史の話をしようと思っているのに、高校時代の勉強の話が長くなります。 当時も小中学生対象の学習塾は、私の田舎にもありました。なかには有名な人気の先生もいましたが、一般的に塾は学校の勉強が遅れた子が(病気その他長欠で)行くところで、進学目的に通う子はごく少数でした。そろばん塾と併営のところも多かったのです。学習塾が「おけいこごと」のレベルから受験対策に特化していったのは、たぶん80年代以降で、今のように受験屋産業が隆盛をきわめて、社会的認知をIT産業に先立つ10年ほど前から受けるようになったのには、時代的な必然性があったようです(これはまた別の機会に触れます)。 それにしても、高1のときの地学、先生が岩石の専門家で、比叡山に岩石の採取ツアーなるものに連れて行く。生徒がハンマーで叩いた岩石を、いちいち説明するのですが、私どもは先生をバサルト!(Basalt、玄武岩)と呼んでいたものです。 はたまた、物理では実験観察とレポートが中心で、天秤型の質量測定器の測定結果は、天秤の針が左右に振れる、その目盛りをmmの1/10単位で読んで、10回づつ記録していく。数値がいいかげんですと、民主党の幹事長みたいなギョロ目の先生が、やり直しを命じる。私は面倒くさいことは全部、グループのおとなしい女の子にやらせてました(その子は薬科大学へ進学しました)。 勉強とは何だったのだろう、先生は何を教えようとしていたのだろう、というのは今もって謎ですね。ひょっとしたら、壮大な苦痛の世界をみんなで共有することを、楽しんでいたのかもしれません、なんちゃって。 ― つづく ―
2006.10.27
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高校の進学校で全国的に、必修科目が受験科目でないことを理由に、実質はずされていたというのですが、こんな話は私の受験時代からありました。これは学校が悪いのではなくて、親も子も社会(世間)も含めて共犯ですよ。みんな知っているのです。要は何がなんでも東大、京大、早稲田、慶応に入れたいとする教育のヒエラルキーが存在するかぎり、これは無くなりません。 日本人の人生的価値は敗戦後、教育のヒエラルキー(階層構造)によって決定されてきたので、それは60年たって変わるどころか、東京一極集中の価値観とともに、むしろますます強まっているように見えます。一度出来上がった価値観を覆すのは、日本人にとって大の苦手で、それによる既得権益者はもちろん、そうでない人もこの階層構造を信じて疑わないのです。というより他に考えようが無いと思っているでしょう。 どんな組織も価値観も、人間の身体と同じで、時を経れば必ず錆び付いて痛んでくる、どれぐらい修繕するか、あるいは一挙に臓器移植を試みるか、はたまた自爆して果てるか、いずれにしても時とは残酷なものであります。 教育の本質とか目的とか問われますが、結局のところ塾と予備校に完璧にマークされる受験体制しか編み出せない、現在の教育システムそのものを変えないと、日本人の価値観は錆び付く一方でしょう。そこを通過してきた学生をかかえる有名大学は大変ですな。ま、しかしそれを教える先生方も、それをかいくぐってきたわけですから、云ってみれば同じ価値観を共有しているわけですか。 私の事務所のあるビルには大手有名塾の教室があります。塾や予備校の内実については、私はかつて多少の絡みがあったのでよく知っています。大手も含めて、いわゆる教育産業というのは、とてもじゃないが成熟しているとは言いがたく、まともな感覚で社会と接している業界ではありません。そうした受験屋業界を政府が公認しょうというわけで、またまた業界からの美味しい政治献金の力に、日本という国の価値は壟断されかかっています。まあサラ金ほどとは云いませんが、生保に近い脅し商売ですよ、言うたら何やけど、この業界は。 大事なのは社会全体がそうした感覚を容認する方向に向かっていることで、医者はとっくに金儲けの脅し商売、高級官僚は日本最大の税金受給者などなど、仕事そのものの価値観など、ここから先も今の日本は認めていないでしょう。 何だか過激になっていますが、お医者さんも先生も、かつての普通の倫理観が社会に共有されていれば、おのずと尊敬され、また仕事の尊厳も維持されます。今は普通の人が、普通の感覚で、普通に仕事することが、しずらくなっている時代で、お金に裏打ちされた看板(肩書き)だけが、価値を決定し、社会が動いていると錯覚している。世間がそれでしか、ものを見ることができなくなっている(判断出来なくなっている)状態になっているのです。 私にはこれは今の日本の東京一極集中の流れとパラレルに見え、時間を拒否した情報系の価値観が変わらないかぎり、この状況は変わらないでしょう。ひじょうに悲しい現状ですが、このまま推移すれば日本は周辺から(地方から)例によってまだら模様に錆び付き、目立たないままに、いつのまにか崩壊しているでしょう。もっとも東京のほうが、何処ぞの核爆弾か、毒ガス、生物兵器で、一挙に無力化されてしまうかもしれませんが。 エリオットの詩にありましたな――これがこの世の終わりかたこれがこの世の終わりかたバーンといかずにすすり泣く ――(訳、西脇順三郎?うろ覚えです、すいません) 今の日本は本当に脆弱化していると考えざるを得ませんね。 実は話そうと思っていたことと、まったく違う話になってしまいました。歴史の話です。 ― つづく ―
2006.10.26
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厚さ0.2mmの攻防 おっさんの口出しすることがらではないのですが(すでに美女!事務が、不信感を露わにしていますが)、なにしろ人間は見た目が肝心ということで、毎朝女性群の白粉が日本中を覆います。 ご存知のとおり、ヒトの皮膚は上皮、真皮、皮下組織の3層からなり、肝心な見た目はこの皮膚組織のうち、厚さ0.2mm(身体の部位で異なります。お顔の皮膚は0.2mm)の上皮の状態で決まります。もともとケモノであるヒトが、なぜ頭部その他をのぞいて、体毛を失ったのか理由は定かではありませんが、皮膚を直接外界に露出することで、ヒトの肌はイヌやネコとは違った進化をしました。 前にも触れましたが、ヒトに限らず生命はホメオスタシス(恒常性維持機能)のために、厳密に内と外を判別します、皮膚は外界との境界面にあって、外部からの雑菌その他の侵入を拒み、逆に内部からの老廃物(垢、二酸化炭素など)を放出します。 皮膚呼吸ということが云われますが、厳密には皮膚の組織は外へ向けての一方向にできており、直接皮膚から外部の成分を取り込むことはありません(酸素交換を行っているのはカエルその他の両生類です。女性にはお気の毒ですがコラーゲンは皮膚からは吸収されません)。上皮細胞は表面から角質層、顆粒層、有棘層、基底層の四層からなり、新たな細胞は一番内側の基底層で造られ、しだいに押し上げられて約28日で上皮の角質となり、最終的に垢となって排出されます。ということは少なくとも見た目に関しては、ヒトは約1ヶ月で入れ替わっていることになりますね(服と違ってまだら模様に変わるので、目立たないだけ。変わってないと思っているのは、例によって脳の情報系のしわざですか?)。 たった0.2mm(ラップの厚さ)の間で行われている生命活動ですが、この基底層にはメラニン色素を含む色素細胞があり、ヒトの肌色を決定しています。 もともとヒトの細胞は基本的に無色であり(ネコやイヌを丸刈りにすると真っ白の皮膚が現れます)、色素細胞が無ければ、皮膚の内側の皮下組織以下が透けて見えるはずですが、紫外線の侵入を食い止めるために、この化学的に極めて安定なメラニンがバリアを構成しています。この色素は細胞内の核に含まれる遺伝子を紫外線から守るため、核の外側に位置し紫外線による遺伝子の変異を防いでいるのです。 ところで――、前にも触れましたが、皮膚の表層は直接外部に曝されているわけではなく、肌の表面からは皮脂と呼ばれる弱酸性の脂質が間断なく排出され、肌の乾燥を防ぎます。また汗腺からは水分が、これまた大量に分泌されて体温調節(内部で生成された余分な熱を放出する)を行っています。 脂質は弱酸性を保つことで、雑菌が付着することを防いでいるのですが、例によってそのバリアをかいくぐって、脂質を食べて皮膚の表面で生息する細菌がいます。これを皮膚常在細菌といいます。これも腸内細菌と同じくヒトと折り合いをつけて共生している種類(プロピオニバクテリウム・アクネス菌、スタフィロコッカス・エピデルミディス菌 ― 誰が付けた、こんな名前!)もあれば、しぶとく生き残って悪さをする悪玉菌もいます。 この折り合いをつけるというサジ加減が、なかなか難しいところで、ヒトの肌も腸内と同じく千差万別、とくに女性は白粉を塗ることで(肌をいじることで)、それに寄ってくる雑菌の種類も増え、ますます話が複雑になってきます。男の顔が荒れないのは、最初から小細工せずに何もつけないからというのですが。 それはさておき、では何がなんでも皮膚の表面から、雑菌を取り除こうと、四六時中、洗顔手洗いを強行する清潔症候群が一時期はやりましたね。私の知り合いでも、それでかえって敏感肌になって、ますます高価な化粧品を何層にもつける仕儀になった方がいます(石油系の化粧品で、素肌にアザが出来た人もいました。これは取れないんですね)。 善玉の皮膚常在細菌だけを増やすという化粧品も、ちらほら健康食品系のメーカーから出ています。 それにしても0.2mmの表面を舞台に繰り広げられる攻防、1枚はがせば皆同じような皮下組織の人体模型に見えるはずですが、誰もそんなことは認めやしません。それならいっそ自分の一番美しいと思う姿を、完全な情報系にホログラム化して、身にまとったほうが早い。生身の身体をあれこれいじるより、よほど痛みは少なくてすむでしょう。 …時は23世紀、スタートレックシリーズ「ボイジャー」の艦内では、ホログラムのドクター(おしゃべりの!)が人間を治療してましたね。いっぽうホログラムデッキでは、ジェーンウェイ艦長がお気に入りのガリレオのホログラムとおしゃべりを楽しんでいる。はたまた「エンタープライズ」のピカード艦長は、探偵ホームズと犯人探しに躍起になっている。 今日の通勤電車の中でも、3D映像のテレビゲームに没頭する今どきの人たちを見ていると、半ば仮想空間に足を踏み入れた来るべき社会をまのあたりにするようです。 話が跳んでしまいました!世の女性を皮肉っているわけではないので、悪しからず。仮想と化粧のハザマを眺めたかったのでした。ヤッパリ嫌味かな? ― つづく ―
2006.10.25
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昔、中国のトウ小平さんでしたか、「黒ネコでも白ネコでも、ネズミを取るネコは良いネコ」。共産中国のトップが13億の人民をネコ呼ばわりとはバカにしたものですが、それはともかく、これはどちらかというと、政治向きであるよりは、企業論理の世界の話であります。 政治の世界は、黒でも白でもとなんでもありとはいかない世界で、一応形だけでも白黒の体面にこだわります。ところが商売の世界では、白でも黒でもとにかくもうける人が勝ちで、ときには黒を白と言い張って商売する人もいる。そしてそれを賞揚する社長もいるわけです。企業論理とはその意味で唐竹のようにパックリ割り切れる論理を、生理的に求めていて、大抵の会社の偉いさんは政治家のように、薄汚い相貌はしていません(その政治家も最近は2世3世の世代に代替わりして、ずいぶん変装が上手くなりました)。 それはさておき、このようなきわめて明解な論理で動いている組織というのは、はたから見ていると危なく見える。私の知っている人で、社員が会社の機密情報を、よそに流して売り上げを補填するのを、見て見ぬ振りをする社長がおりました。その底にあるのは当面の売り上げ利益を確保したいという商売の論理と、社長としての体面があったでしょう。そしてこの人たちのその後に云うこととは、決まって「何も知らなかった」「部下が勝手にやった」。 その社長さん、私は尊敬するところ大だったのですが、「何も知らない」というのは、この人にとって「何も知らないことにする」「何も知らなかったことになっている」ということと同義で、そう決めた瞬間に、ほとんど本気でそう思うことが出来る。その思い込みを演じきるのが(変な言い方ですが)見事で、組織というのはそれぞれに役柄があり、いかにその役柄を演じきれるかということが、仕事を進めていくうえでのポイントであるようです。 対するに勝手にやった(ことになっている)部下が、それに呼応してその役柄を演じ切れれば良かったのですが、この人はそれに納得できなかったようです(それで私にも聞こえてきたのでした)。 組織というのは、多かれ少なかれ個人の人格とは別の、法人格なる抽象概念で社会と向き合っているので、組織人とはおのずと個人とは異なる人格を演じることです――、とはうちの弁護士さんからいつも口をすっぱくして言われているのですが。自分個人の好き嫌いとは別に、組織人格としての好き嫌いがあって、場合によってはそれによって黒でも白と言い張れる演技力が必要になる、このあたりサラリーマンは(世の中の大半の人は)つらいところですね。 役職が上になればなるほど、この個人と役職の人格の乖離は大きくなるのですが、トップになる人はどうもその役職としての人格に完全に漬かれる人のようで、だからこそ「何も知らなかった」と唐竹を割ったように、あっけらかんと言い放つことができる。たいしたもので、私はようしまへん。 それにつけても、うちの若年寄、何を勘違いしたのか、取引先にうちのノウハウを身も具も全部しゃべって得意になって帰ってくるのです。会社の付き合いに腹を割ってどうのこうのなんて、分ってないんだなあ。よほど個人的に得意になりたいことがあったのかしらん。例によって美女!事務に聞いても、このあたりは女性のほうがよく分かってるみたいです。 「そりゃそうです。女は毎朝別人格に変身しますから。」―― なるほど! ― つづく ―
2006.10.24
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今やこうしてブログを書いたり、資料や地図を調べるのにも、ネットでのお気軽検索が主体となり、私もたびたびWikipediaやGoogleの世話になって、検索のお化けと化してしまいそうです。 その中で、最近私がどうしょうもなくはまり込んでいるのが、Google Earthといわれる地図検索システムです。これについてはすでに新しもの好きのネットマニアの皆さんが、いろいろ解説されているので、内容その他はそちらを見ていただくとして、検索怪物のGoogleが無料で公開しているGoogle Earthなるもの、私がはまっている原因をいろいろ考えてしまいます。たんなる地図検索システムの範疇をはるかに越えて、どうも情報の本質とか、想像力のありかのようなものに気分が向かってしまいます。 Googleはこれを公開するにあたって、テレビゲームの映像を強く意識したでしょう。最初の立ち上げ画面、星空の中に地球が現われるのですが、この地球、マウスでなぞると拡大も縮小も自由、さらに回転も自在で本物の地球儀であれば、地軸にそった回転しかできないはずの地球が、まるででたらめに私の意志で勝手な方向に回せる。さらに住所を入力すれば、たちまちその地点へひととびに到着して、その地点の航空画像をこれまた拡大縮小あるいは3D画像で眺めることもできるというわけです。 テレビゲームの映像処理を多分に意識したについては、利用者の大量取り込みをはかるGoogleのおおきな意図があるのですが、ゲームとの違いは私が好き勝手したい放題に、眺め、拡大し、回転させている映像は、すべて現実の映像がソースになっていることです。 自分の住まいの周辺をためつすがめつしていると、この映像がどうやら一年ほど前の航空写真(たぶん住宅地図会社の)を元にしていることがわかります(最近ご近所は新築ブームなので、新しい建築物は写ってません。このあたりは情報系が固定された性質を持っていることを、よく示しています)。3Dの航空画像を流していると、さながら空中浮遊の感覚に囚われます。この感覚はときに夢に出てくる浮遊感によく似ていて、実体的な感覚がないのに、どうしょうもなく空中を飛行している、という子供のころの悪夢の記憶がよみがえってきました(子供のとき、熱を出して寝ていると、よく空中浮遊や墜落の夢を見たものです)。 さて自分の住まい周辺からGoogleおすすめのパリのエッフェル塔やグランドキャニオンへ跳んでみます。エッフェル塔を拡大していくと、観光客が群れているのが分ります。観光写真の気分で見ていたのですが、途中から変な感覚に囚われました。この地球儀だと、私の住んでいる周辺からパリまで地上300メートルほどの上空をズーッと飛んでいけるという感覚です。おそらく過去1年以内と思われる全地球の記録が、住宅地図のレベルで映像として収まっているということ(地域的にはもう少し粗いですが)、これはいったい何なのでしょう。 上海(再開発の真っ最中で全体にスモッグがかかっているように見える)だろうが、沖縄の米軍キャンプだろうが(那覇の美しい白雲の間に見え隠れする軍用ヘリ)、アテネだろうが、ペテルブルグであろうが、かつて世界地図の記号で示された都市や自然が、おそらく昨年一年間の映像記録として、すました顔をしてこのEathのなかに納まっている(カブールの飛行場には旅客機とは別の場所に、軍用機と戦車らしきものが見えます)。 これはたんなる検索システムなんてものではなく、おそらく数年後には現われてきそうな究極の情報系システムを予見させるものなのかもしれません。軍事衛星はこれよりはるかに詳細なリアルタイムのデータを時々刻々つかんでいるはずで、民間のデータでも現在使っている航空写真が、リアルタイムの衛星画像に取って代わられれば、私たちは今日の今ある地球を、どこでもいつでも見ることができる。現に日本の「大地」という極軌道の観測衛星が、世界中を検索しています。 おもしろいと思う反面、個人の顔まで識別できるデータがリアルタイムでつかめるとなれば、今どきの個人情報など、ほとんど吹っ飛んでしまいそうですね。現にうちの周辺の住宅地を見ていると、さすがに人は写ってませんが(たぶん住宅地図会社で削除したのでしょう)、個人の生活系は家の映像からほとんどつかめてしまいますよ(洗濯物とか車とか、いずれ個人情報の買い取りみたいなことが出てきて、お金持ちの家は全部削除されたりしてね)。これはやはり男はフルフェースのヘルメット、女はブルカをまとった近未来系の風景が何となく現実味を帯びてきましたな。 私たちを取り巻いている世界が、仕事も趣味の世界も情報で成り立っている以上、その材料が本やテレビなどのアナログ的質感から、電子化されたデジタルの世界に移行するのは、脳化社会=情報化社会の現代では致し方のなことなのかもしれません。これは情報の質が、より脳の要求と生理に近づいて行こうとする流れなのかもしれず、脳の中味は我々が実在すると思っているだけで、実はパソコンと同じ仮想の空間かも知れないのですが。
2006.10.23
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話が思いのほか長くなってしまいました。古代史や神話に興味のない方には、難儀で退屈な話になったかもしれませんね。 難波宮跡で発見された木簡の万葉仮名に刺激されて、昔かじった古代史や神話類を思い出しながら書いているのですが、今どきの世の中がかえって別の姿で見えてきたりして、話が長くなっています。 さて――、古代において、鏡、玉、剣の三種の組み合わせは天皇家だけに特有のものではなく、一般に支配者の象徴であったようで、天皇家においては三種の神器として、歴代天皇が即位に際して代々受け継いできたものでした。神器とは神霊が依り憑く対象物を指し(アニミズム)、人に神が依り憑く場合は依巫(よりまし)といい、神意神託を伝える役柄の神主、巫女の始まりとされます(シャーマニズム)。― このあたりWikipediaより ― 「古事記」によれば、三種の神器は皇祖神である天照大神が、平定の終わった葦原中国(アシハラノナカツクニ)を治めさせるため、日子番能邇邇藝命(ヒコホノニニギノミコト)を、日向国の高千穂に降臨させるのですが、その際「八尺の勾(やさかのまがたま)、八咫鏡(やたのかがみ)、、また草薙(くさなぎの)剣」を授けたとあり、これが天照大神の依代(よりしろ)であることを示しています。 鏡と勾玉は、例の「天の岩戸」から天照大神を引き戻す祭に、岩戸の前に用意された榊(サカキ)の木に掛けられたことに由来します。ご存知、天照大神が天宇受賣命(アメノウズメノミコト)のストリップで騒いでいる八百万の神々のようすを、岩戸からチョット見したとき、目の前の鏡に自身の顔が映っている、「これは何ぞ」とさらに身を乗り出したところで、天手力男神(アメノタヂカラヲノミコト)に引っ張り出されて、天地に昼が戻るという話ですね。(これは明らかに、太陽の復活、死と再生の鎮魂と、五穀豊穣を願う、古来からの冬至の祭りに照応しています) 草薙剣は、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)ともいわれ、これもご存知、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の尾から出てきた太刀に由来し、退治した建速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト)が天照大神に献納したとされます。(須佐之男命の来歴は多面的です、また機会があれば触れます) 現在では八咫鏡は伊勢神宮に、天叢雲剣は熱田神宮(日本武尊を祀る)に神体として奉斎され、八尺瓊勾玉は皇居に安置されているということですが、もちろん本物かどうかの真偽はわかりません。 さて、皇祖神である天照大神を伊勢神宮に祀ると定めるまでの経緯は「古事記」には触れられていません。「日本書紀」には、伊勢神宮の鎮座に至るまでに、理想的な鎮座地を求めて各地を転々としたことが記されており、各地平定の歴史と並行して神々の社も移動したことが想像されます。 伊勢という場所を皇祖神の祀り所に定めたことについて、西郷信綱さんは、古代人の宇宙軸(Cosmology)のようなものを想定し、伊勢が都である大和からみて太陽の昇る真東にあたることを指摘されます。ひるがえって西の日没地点は出雲だと言われるのですが、なるほど一直線に線が引けるのですが、出雲についてはスサノオノミコト、大国主命以来の出雲平定(あるいは恭順)の歴史が、大和政権(天皇)にとっては急務であったわけで、どうなのかなあ? 話は変わりますが、お伊勢さんは、何といっても元旦の日の出どきに参るのが一番です。内宮に行く途中、原生林のようなスギ林の間から、この時間、東から昇る朝日が真正面から受けられるように、ちゃんと参道がしつらえてあって、眼が眩むばかりですよ。 さらに内宮の手前を流れる五十鈴川――、禊(みそぎ)を行うにふさわしい清流で、その水は周りを取り囲むモミ、マツ、ヒノキ、カシ、シイ、クス、サカキなどの温帯の原生林に守られて、まさしくここから先が神域であることを、古代人ならずとも納得させられます。 とはいえ、皇祖神である天照大神を、政権の中央である大和ではなく伊勢に祀り、20年ごとに遷宮(建て替え)を行うことで、天皇の正統性を永く後世に定着させようとしたのが天武天皇であるとすると、祭政一致型の古代王権から律令制の中央集権に移すべく苦心した、創成期の政権の意志がここにも感じられるのです。 そのなかで即位式(践祚大嘗祭)だけは、今一度古代からの王権の正統性を今に蘇らせるべく、宮中で行われました。大嘗祭の風景を空想するに一番の映像は、やはり伊勢神宮の内宮社殿でしょう。 例によって、Wikipediaによれば― 伊勢神宮の本殿などは、20年ごとに、まったく同じ形で建て直される。これを神宮式年遷宮(じんぐうしきねんせんぐう)という。これは、第一に社殿の清浄さを保つためで、他に建築技術の伝承、伝統工芸の伝承などの意味があるとされる。…2005年より第62回式年遷宮が開始され、2013年の正遷宮にむけて諸儀式が行なわれる。 ― さらにその様式は「伊勢神宮」公式ホームページによれば、― ヒノキ白木の掘立柱(ほったてばしら)に萱(かや)の屋根が特徴の神宮の建築様式は、唯一神明造(ゆいいつしんめいづくり)と呼ばれ、弥生時代にまで遡る高床式穀倉(たかゆかしきこくそう)の姿を今に伝えています。― この掘立式高床の穀倉形式というのは、弥生時代以来の定置農耕による稲作の収穫を保存するために、長い時間をかけて出来上がった建築様式と思われ、住民が萱をかぶせた竪穴式住居に暮らしているのが一般だった古代において、まず生存のために一番に守らねばならなかった神聖かつ重要な建物だったでしょう。この掘立て萱葺きというのは、高床であることで穀物の保存には良いのですが、建物自体は湿気に弱い。地面に直接柱を立てれば、たちまち根もとから腐ってくるし、萱の屋根も雨で朽ちてくるでしょう。(大陸の建築は、前にも触れましたが、敷石の上に柱をのせて、瓦で雨から家を守りました。法隆寺や唐招提寺は、当時の最新建築だったのです。そしてこれらは1000年以上経て、しっかりと今でも残ってますね) 必ず朽ちてくるということは、その当時のクニ(村)の統治者にとっては、穀倉の立て替えが権威を維持するうえで、もっとも大切な行事であったでしょう。 という意味で式年遷宮というのは、やはり古来からの定置農耕民の生活形態からの木霊であり、そこを爾来清浄に保つという神道の考え方は、穀物の保管場所としては当然の考えであったでしょう。 私は「古事記」の世界が、唯一視覚的に今も立ち現われる場所はと言われれば、迷うことなく伊勢神宮を挙げます。総檜(ヒノキ)の掘立造り、高床式に直線的な萱葺きの簡素極まりないフォルムは、そのまま弥生時代の米倉を連想させ、周囲の原生林や川も含めて、「古事記」の神話風景はこのように清浄でなければならないと、ひとりで納得したものでした。 あ~あ、やっと終わった。まだまだしゃべりたいことはあるのですが、そろそろ娑婆が騒がしくなってきたので、いったん休止としますか。古代ロマンにふけっているうちに、美女事務からの申し告ぎ書類が山となってますので。 ― おわり ―
2006.10.20
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天武天皇の時代、何度も触れましたが、皇位継承の争いは一族内部でも一般的でしたが、次第に天皇家が全国に支配を及ぼすにいたり、皇位継承の正当性を、より大仕掛けに内外に示す必要が生まれてきたのです。践祚大嘗祭とはこのような必要から生まれたもので、世継ぎの儀式を、古来から続いてきた新穀祭と融合し大規模化することで、その正当性を示そうとしたのでした。 くりかえしになりますが、天武天皇の成したといわれる「九つの偉業」1. 天皇号の創始 2. 陰陽寮・占星台(天文台)の設置 3. 「古事記」「日本書紀」の編纂勅命 4. 践祚大嘗祭の制定 5. 宮都の選定と設計 6. 八色の姓の制定 7. 飛鳥浄御原律令の制定 8. 三種の神器の制定 9. 伊勢の遷宮の制定・開始のうち、1.3.4.8.9.の5つまでが、国家の統治者である天皇の正当性を、古来からの祭式と神話と器物建物に重ねて権威ならしめようとしたものでした。 唐の世界標準たる2.5.6.7.の制度化以上に力が入っているようです。 ここまで書いてきて気づいたのですが、それにしても当時の世界標準が、今では影も形もなくて、日本の土俗制を色濃く残した儀式典類が、今なお牢固として生きているのはどうしてでしょう。よく考えてみるとローマ帝国にしても、元帝国にしても、かつての世界帝国の世界標準とされた社会制度とか、しくみというものは今やどこにも存在せず、今なおその残滓として継承されているのは、詩とか生活習慣のような文化面だけにみえ、人間社会が時間を越えて、残すもの、忘れ去るものについて考えさせるものがありますね。 司馬遼太郎さんが「アメリカ紀行」でしたか、文明と文化の違いについて、文明とは民族を超えて通用するしくみ、文化は民族内においてのみ通用するしくみ、ということで、そこで人間は文明のみで生きれるほど抽象化した自分を想定することなど出来なくて、必ずそれと相容れない仲間内だけの特殊な共有概念を持っていないと、いごごちが悪くて落ち着かない生き物なんじゃないか、というようなことを云われてましたね。 アメリカは世界国家として各民族固有の文化は、建国の概念として待たないということを、前提として成り立っているのですが、実際には各民族ないし宗教団体単位の結びつきは大変強い。自民族中心主義、自文化中心主義(Esthnocentrism)というのは、人間のほとんど生物的衝動に近い部分からくるのかもしれませんね。 となれば歴史に現われた、いくつもの世界標準なるものが、ある時期が来れば影も形もなくなるのに、民族文化などは、2000年、3000年をこえて、木霊のように今に立ち返ってくる、というのは何となくわかるのです。 してみれば今や世界を席巻するアメリカ製世界標準は、1000年後どうなっているのでしょう。文化と文明のありかを考えるうえで、面白い空想ですね。 話がだいぶそれました。 天武天皇の9つの事跡の話です。まず1.「天皇」という呼称の創始は、中国「皇帝」の呼称と違えることで、日本の古式の王に自身を重ねようとした意図が感じられます。 3.は先般より書いたとおりです。 さて4.の践祚大嘗祭のことです。平安時代中期(西暦927年)に完成した延喜式に伝わる践祚大嘗祭の記録をみると、その儀式内容に「古事記」の文脈との強い照応がみられることを、西郷信綱氏は「古事記研究」(未来社)で極めて分析的に詳解されてます。 先ごろ行われた今上天皇の即位式(1990年11月22日~23日)、場所は皇居内(それまでは京都で行われました)でしたが、大嘗祭の3つの拝殿(悠紀殿、主基殿 廻立殿)を新たに建てて、古代儀式そのままに執り行なわれましたね。悠紀(ユキ)殿、主基(スキ)殿内部での行事は、古来秘儀とされ、延喜式に記載された真床襲衾(マドコオブスマ)など、人類学者などにとっても見たい内容だったでしょうが、もちろん公開されませんでした。 悠紀・主基が祭礼に供える新稲を出す国(卜定で選ばれた東西2つの斎国、今回は秋田と大分でした)であることから、新帝が皇祖神と新米を共食することは、ある程度想像できるのですが、「真床襲衾」なる儀式については、いろいろな即位儀礼や、通過儀礼から想像するしかありません。西郷信綱さんは衾(ふとん)にくるまり、ふたたび再生するという動作、皇祖神とともに復活する鎮魂の儀礼を同定されますが、やはり分りません。 いずれにしても、平安の時代に残された儀式次第が、平成の今の時代でもそのまま執り行なわれたのが、重要なのです(即位式は国事行事だったのですが、大嘗祭は天皇家の秘儀ということで、外国の賓客は3つの神殿を囲む神域の外側に配されるという具合でした)。さらにその延喜式の土台となるべき儀式次第は天武天皇の発意によるものとなると、今日ある天皇制の形式はやはり天武天皇で始まったと考えられるのです。くりかえしますが、今から1300年前のことでした。 日本史上最初の条坊制を布いた本格的な中国風都城であった藤原宮は、大和三山を含んで25平方キロにおよぶ古代最大の都市であり、日本で最初の瓦葺の都市でもありました。この都で即位したと考えられるのが、持統天皇の後の文武、元明(後、平城宮に遷都)両帝です。 天平の甍に囲まれた都の中での、藁葺き掘立て式の大嘗宮、践祚(即位)後、速やかに取り払われる建物ですが、それを見つめる古代人の目には、この古式な建物は周囲のパビリオンのようにハイカラな都の建物と比べて、どのように映ったのでしょうか?はたまた条坊の外側に広がる水田と、そこで暮らす弥生式そのままの大半の農民たちに、それらを含む都の風景はいかがなものだったのか? 私の空想は、今に伝わる古代の風景に移っていきます。 ― つづく ―
2006.10.19
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太安万侶がそこまで苦心して残そうとした古代語の持つ意味とは何だったのか? 「古事記」の特色の1つはその中に頻出する歌謡ですが、その記述方式は例の万葉仮名で一音一字を当てています。そしてその読みは当時、唐の長安で用いられた体系的な漢音ではなく、より古層の呉音で記載されているのです。例えば、 夜知富許能 とはヤチホコノ(八千矛の)という具合です。 Wikipediaによれば、― 呉音(ごおん)とは、日本漢字音(音読み)の一つ。奈良時代に遣隋使や留学僧が長安から漢音を学び持ち帰る以前にすでに日本に定着していた漢字音、…仏教用語や律令用語でよく使われ…『古事記』の万葉仮名には呉音が使われている。 ―というのですが、例えば、― 定(呉音:ヂャウ→漢音:テイ)、勤(呉音:ゴン→漢音:キン)、平(呉音:ビャウ→漢音:ヘイ) ― (同上)といった具合に今日でも混用されてますね。 それはともかく、今回最古の万葉仮名の木簡が難波宮跡で発見されて、その成立が以前より4、50年遡ることができ、それは当然それまでに話し言葉を文字に定着させる、さまざまな試行錯誤があったであろうということを推測させます。 太安万侶が古層の万葉仮名で書き記した意図は、古語で詠われ語られた歌や説話を、出来るだけ当時残っていた状態で記録しようとしたと考えられるのですが、そういう意図を推進したのは何だったのでしょうか。 ここで大事なことは、はじめにも触れましたが「古事記」の編纂に関して、現存する他のいっさいの史書その他の公文書が沈黙していることです。あえて公式の場所からははずして、なおかつ記録しておくべき文書が編まれるという強い時代的要請がなければ、「古事記」が編まれる必然性はなかったでしょう。 というわけで、私は「古事記」編纂には、やはり天武天皇の強い意志を感じるのです。稗田阿礼の暗誦する呪術的な古代語を文字に記すことで、これを過去に追いやり(魂鎮め)、それと並行して公的史書としての「日本書紀」を編纂することで、自身の皇統と忠臣の正当性を確保する、古代以来のアニミズム的祭政一致の統治体系から、当時の世界標準である唐の律令制への移行に際しての苦心の施策であったかと思われます。 天武天皇の苦心はその他の施策にも現われました。 話が少し変わります――。 しばらく忘れていた電車の外の風景が、いつのまにやら金色の稲穂から、刈り取られた畦地に変わり、そこここに野焼きの煙が立ち昇ります。2000年ほど日本中でえんえんと毎年続けられてきた水耕は、刈り取られることで本来の荒蕪地と化し、古代人は今年の収穫を感謝するとともに、刈り取られた田に死の臭いを嗅ぎ取ったでしょう。 毎年11月23日に行われる新嘗(ニイナメ)の祭りは、今年の新穀を神様に捧げて感謝するとともに、来るべき冬(死)とふたたびやってくるべき春(復活)を祈念する行事でありました。季節柄は冬至に近く、太陽の光は日に日に弱まって、この天体の季節の移り行きは、そのまま古代人の地上における生と死と復活のイメージと重なったでしょう(稲穂は土に蒔かれて、いったん死んだあと復活する)。 新嘗祭は天皇(スメラミコト)が神官として、主神としての太陽神(天照大御神)に新穀を捧げ、感謝を表わすとともに、弱まりゆく生気を取り戻す、魂振り(鎮魂)の儀式でもありました。これは定置農耕でようやく生計を維持してきた弥生時代からの統治者の重大な行事であり、統治のしくみとしての祭り(まつりごと)が生きていた時代を感じさせます。 ― つづく ―
2006.10.18
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ご存知のとおり、天武天皇とは天智天皇の実の弟(偽という人もいます)であり、天智の実の子である大友皇子を壬申の乱で破って、皇統を継いだのでありました。これもよくご存知のとおり推古朝以来、聖徳太子、蘇我馬子ら朝廷内の革新派(中国式律令制と仏教普及)で行われた中央集権化は、畿内各豪族にとっては自分たちの既得権益の危機であり、中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原氏)の蘇我入鹿誅殺のクーデターは、旧勢力の揺れ戻しの動きにのったものとも云えます。中臣氏は蘇我氏に滅ぼされた物部氏と同じく、神を祀る神官の一派でした。 ただし単純に旧勢力vs新勢力という構図で捉えるのは危険で、物部氏一派が石上(イソノカミ)氏に継承されたように、蘇我氏一派にも中臣氏に加担したものがいました。古代の政治勢力争いも戦国期や今と同じく、複雑怪奇ですね。時の強勢力が誰か、すばやく見極めて、どう生き残るかということは、いつの時代でも既得権益者にとっては最優先の課題でありました。 6世紀から7世紀にかけての日本は、各地豪族が蛮居した古代国家群が、大陸朝鮮半島からの刺激もあって、淘汰され統一に向かう時代だったといえ、社会的にはその世界観も含めて大転換の時期であったでしょう。大陸的中央集権制と班田収受等の律令制は(当時大陸は隋、唐の時代で、古代中国国家の大完成をみた時期です)、それまでのアニミズム的祭政一致の国家通念からは、はるかに遠く、それだからこそ誰にでも一目でわかるパビリオンのような中国式大建築と金色の仏像が必要なのでした。 それにいつの時代にもお決まりの皇統争いが加わって、天皇一族の皇統が収まったのは壬申の乱後のことで、時代の通念や世界観が落ち着くのに100年近くを費やしたことになります(そういえば中世的世界観から近世世界観へ転換するのにも、応仁の乱(1467年)から100年かかってますね。今の日本は敗戦後62年ですか)。 天武天皇(大海人皇子)は兄の子を殺して皇位を奪ったこと以上に(兄弟親子での皇位争いは、古代ではそれほど珍しいことではありません。「古事記」「日本書紀」はその記述に多くを割いています)、不安定な王権の体制を、神話と祭式を用いて安定させる必要があったのです。当時の世界標準たる古代中国に相対する律令国家としての対面と、旧来の祭政一致型古代国家の概念とを、どうやって折り合いをつけるか? 視覚的には私たちは、この時代の映像を飛鳥時代の法隆寺、白鳳時代(平城京に移るまで)の薬師寺東塔やCGによる藤原京などで見ることができますが、それと「古事記」に書き記された土俗的なと言っていい生々しいイメージには、大きなズレがあります。 「古事記」の有名な冒頭の神代記、文庫本も出てますから、天地創造から天の岩屋戸ぐらいまでは、ぜひ原文で読んでみてください。葦(アシ)と藁(ワラ)と沼地の臭気が漂ってますよ。 それと何といっても身体の生々しい記述、水蛭子(ヒルコ)だの屎(クソ)尿(ユマリ)、宇土(ウジ)蠅(ハエ)などなど、古代の臭気が満ち溢れて、これはもう糞尿嗜好(Scatorogy)の世界かと思わせます(「家畜人ヤプー」が「古事記」の翻案のようなイメージなのはここからでした)。 しかし古代人の生活風景というのは、稲作の定置農耕がすすんだこの時代では、まさしくこのような映像と臭気に溢れていたはずで、泥田から立ちあがる稲と、閉ざされた殿屋の奥で生まれる赤子は、容易に謎めいてパラレルに同一化されるイメージでした。日本人の原体験というか、原風景というのは、伊邪那岐神(イザナキノミコト)が黄泉の国へ、国産みの途中で死んだ妻の伊邪那美神(イザナミノミコト)に会いに行き、「見るな、― 我をな見たまいそ ―」というタブーを犯して見てしまう、腐乱した身体を見られた伊邪那美神が怒って追いかけてくるのを、黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)で止めて、日向の川で汚れ(ケガレ)を禊(ミソギ)する、そこで天照大神など三神が両目と鼻から生まれ落ちるという場面に、云わば集約されているように思えます。 日本人の判断の基準は、ことの善悪であるより美醜(ケガレ―ミソギ)にあるのでした。 それにしてもこの生々しいイメージは、たんに物語の筋から出てくるのではなく、間違いなく万葉仮名で書かれた言葉によって強く喚起されているので、それはほぼ同じ内容を「日本書紀」が取り扱っていても、中国の史書を強く意識したぶん、「古事記」のような喚起力がないように思えるのは私だけでしょうか。 「古事記」の万葉仮名の記述方法に、太安万侶が相当苦心したことはよく指摘されることですが、稗田阿礼が暗誦する言葉を、どうやって文字に定着するかは「古事記」の至上命題であったようです。公文書で用いられた漢文および漢音の記述では抜け落ちてしまう、古代語の呪術性のようなものを太安万侶は文字に残そうとしたのでした。 ― つづく ―
2006.10.17
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もともと日本人とは何であり、どこから来て、今に至っているのか(で、出来得れば、これからどうなっていくのか?)、というのが、私の興味でありました。 ということで「古事記」「風土記」「万葉集」などに、若いころ手をつけたのですが、戦前と違い日本神話は学校では忌避する傾向が強く、考古学的古代史を熱心に講ずる先生も、なぜか上のような神話説話類を取り上げることは少なかったですね。 したがって私の入り方は、はなはだ恣意的ででたらめなアプローチでした。もっとも「古事記」の解釈、読み方などは、歴史家よりははるかに国文学者をはじめとした、文学研究家が中心で、私の意図する歴史のタガをはめるにはなかなかやっかいな分野ではありました。 そもそも歴史という概念を持ち出すと、たちまち厳密な史料批判の矢面に、歴史史料はさらされます。歴史的事実を確定するということは、歴史を論ずる出発点で、これの批判に淘汰された事実だけが、時系列の区分に刻印されます。 ところが「古事記」はその制作年代を確定する傍証資料がないのです。「日本書紀」については「六国史」の記述から、西暦720年に完成したであろうことが、相当強力に傍証でき、さらにテクストも原本はもちろん失われて存在しないのですが、写本は古本系統と卜部家系統の本が現存して、その制作年代も9世紀から15世紀にかけて相当厳密に特定できます。 「古事記」の序には、― 舎人稗田阿礼が誦習していた『帝紀』(天皇の系譜)・『旧辞』(古い伝承)を、元明天皇(奈良朝)の詔により、西暦712年に太朝臣安萬侶(太安万侶)が書き記し、編纂したものである ―Wikipediaよりとあるのですが、それを傍証する資料がない(「日本書紀」他正史といわれる「六国史」には「古事記」にふれた記述がない。江戸時代の賀茂真淵のような「古事記」偽書説の根拠となっているものです)うえに、テクストも西暦1371年年から翌72年にかけて真福寺本といわれるものが最古で、原本からすでに600年以上経った書写本であるということで、記載にミスが頻発するのはしょうがない、というわけで歴史資料としての価値は薄い、というのが一般でした。 実際に読めば、「古事記」は中国古代の歴史書を真似た「日本書紀」より、はるかに我々の想像力を(それこそ生々しいほどに)刺激するにも拘らず、正統的な歴史上の位置づけは、なされて来なかったのでした。歴史を科学と捉え、厳密に事実考証をくわえればくわえるほど「古事記」は歴史の彼方に霞んでしまうのです。 そこで戦後出てきた構造人類学的なアプローチで「古事記」を分析する試みが現われてきました。「古事記」に何が書いてあるのか、ではなく、なぜこう書かれねばならなかったのか、から入っていく方法です。 岩波新書の「古事記の世界」(西郷信綱著)に出会ったことは、神話を歴史の中に位置づける方法論として、私にはものすごく期待を持たせ、空想を社会化する道がやっと出てきたのかなと、思ったものです。西郷信綱氏の諸論は「詩の発生」や「古代人の夢」に詳しいのですが、古代における神話と祭式と王権の関係が、国文学者としての想像力を背景にしながら、すこぶる明瞭で分析的に書かれていて、私などは必然的に「古事記」という神話を書かねばならなかった天武朝というものを考えてしまいました。 ― つづく ―
2006.10.16
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最古の万葉仮名の木簡が、難波宮跡で発見されて、またまた古代に対する空想が広がります。 私の場合、近畿に住んでいるということもあって、日本の古代史はわりあい身近な映像として周囲に広がっています。学生時代は友達の1200CCサニーを駆って、飛鳥の石舞台、天武持統天皇陵、岡寺、飛鳥寺などを日帰りで、何度もまわったものでした。 もうひとつ私には歴史に対して、個人的な必要がありました。そのころ深みにはまっていた純文学系の小説(三島由紀夫、大江健三郎、倉橋由美子など)の豊饒すぎる別世界のイメージは、私にどうしょうもない危険を感じさせました。これに対し歴史というのは、それが過去にまぎれもなく存在したという事実(これがないと歴史でなく神話になります)を前提にしているので、安心して空想を膨らませることができると考えたのでした。 それはさておき ―― 、万葉仮名とは、ご存知のとおり、上代日本の言葉が、話言葉だけで文字を獲得していなかったとき、漢字を用いてこれを書きしるした表記法です。公文書が漢文で木簡等に書かれた時期に、やまと言葉で詠まれた和歌を、文字で残すために編み出された方法で、万葉集では詞書きは漢文、歌の部分は日本語の語順で表記されています。表記の仕方は時期や巻によって異なりますが(基本的には表意文字は漢字、表音文字は万葉仮名)、いずれにしても平安時代以降の平仮名、片仮名の原型を成すものでした。 従来、万葉仮名の成立は7世紀後半、天武持統朝の時代と見られていたのが、難波宮から発見されたことで、難波宮が完成する西暦652年以前の7世紀中ごろのものと推定され、万葉仮名の成立がそこまでさかのぼるわけです。 難波宮とは孝徳天皇が造営した日本最初の本格的な首都宮殿建築とされ、蘇我氏の勢力削減を企てた中大兄皇子の大化の改新のあと、まだ蘇我氏の勢力の残っている飛鳥を離れて、不安定な体制を強化する意味もあったようです。 そののち中大兄皇子は、さらに近江の大津に都をうつし、天智天皇を僭称しましたね。さらに天智の弟である天武天皇(大海人皇子)が、天智の息子である大友皇子を壬申の乱で打ち破ることで、ようやく飛鳥にもどり浄御原宮を建造し、律令国家の基礎を固めました。 日本の6世紀後半から7世紀というのは、推古朝から天武朝にかけて、古代の群雄豪族が勢力を争い、そこに中国、朝鮮半島の国際関係もからんで、きわめてロマンをそそられる時代ですね。もともと文献が少ないために、考古学的発見があると、たちまち別のビジョンが浮かび上がり、専門家も素人も好きなことを云えるというところがあるのです(江戸時代ではこういうわけには行きません)。 それはともかく、この時代は天皇一族が歴史の主役として登場した唯一の時代で、その後の日本史では(後醍醐天皇を除いて)歴史の表舞台からは退き、背景として(とくに文化面、宗教面で)日本史を彩ることになります。 その意味でも、私はその後の日本の政治、社会、文化の方向を(良くも悪くも)決定づけた天武天皇という存在に興味があって、若いころいろいろと調べたりしていました。これほどハッキリした意志を感じさせる天皇は他にいないのです。 天武天皇の事跡とは「九つの偉業」言われるもので、1. 天皇号の創始 2. 陰陽寮・占星台(天文台)の設置 3. 「古事記」「日本書紀」の編纂勅命 4. 践祚大嘗祭の制定 5. 宮都の選定と設計 6. 八色の姓の制定 7. 飛鳥浄御原律令の制定 8. 三種の神器の制定 9. 伊勢の遷宮の制定・開始政治、社会、文化の諸方面にわたり、今も継承されている1.3.4.8.9.など日本独特の天皇制の創始は、ここに始まったのだと思わせます。 ― つづく ―
2006.10.13
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長寿であることは、本来国としても慶賀すべきことがらであるのに、昨今の国の施策はまるで長生きが年金制度を破壊する元凶であるような論調も見え、老人には生き難い未来を強いようとしているようにも思えてきます。 少子化対策とは、裏返しの老人対策であり、先般の結構ドラスティックな老人医療保険、年金の改定は、この国を、生み難く、老い難いかたちに進めようとしているように見えます。その前提にはこの国の国民は、権威におとなしく、体制の変化を好まず、基本的に国外へ流出することもありえないという、支配者(官僚、資本家および、それに追従して得する議員他)側の牢固とした通念があるからです。 もし日本の国が大陸と地続きであったなら、今のようなおとなしい国民ではありえなかったでしょう。中国では歴史的に国民を支配するために、強大な武力と強権を必要としました。強く握っておかないと、たちまち流民化して暴動が頻発し、体制転覆の要因になるからです。 また別の機会に触れますが、中国史は3000年にわたる支配体制の争いの歴史であり、日本のように国土が固定された島の中での攻防ではありません。中国史とは一つの国ではなく、中国地域(東アジア全般)における勢力闘争の歴史と捉えるべきです。現在の共産中国と台湾の関係は基本的には、毛沢東と蒋介石の清王朝以後の帝冠争いの途中経過であって、したがって共産中国が台湾を認知することはありえません。それはそのまま共産中国体制の崩壊をはらんでいるからです。 話がそれました――。40年ほど前に、日本の人口が1億人を突破したとき、日本の論調は、こんな狭い国に1億人も人がいて、はたして大丈夫なのか、というものでした。戦前の論調も日本は国土が狭いからやっていけない(食えない)、という国民全般の強迫観念から、大陸侵攻へ舵を切ったのでした(実際軍備に国家予算の大半を収奪されて、国家は貧しかったのです)。 それでも日本の国民は、その歴史的特性から、外国に敗れるまで、支配体制を転覆するような発想は出てこず、それは戦後も依然として変わっていないのです。この記憶があるので大半の日本人は、今の北朝鮮の体制を内部から転覆するような勢力は、たぶん出てこないだろうと思っています。戦前(一部共産主義者、無政府主義者を除いて)誰一人、当時の権力に抗う人はいなかったわけですから。ことほど左様に日本人は、風土的歴史的に権力に対しておとなしい、あるいは飼いならしやすい国民なのです。 最近はさすがに、異議申し立ての小うるさい集団がさまざまに現われて、黙ってない市民を標榜しますが、出てくる発想がステロタイプな消費税反対であったり、エゴイスティックな情報開示要求であるかぎり、日本の支配者側は痛くも何ともないでしょう。この手の操作は、頭のよい官僚にとっては、もっとも得意な分野なのでありました(東大合格よりはるかにたやすい偏差値対策)。 ここから先は、妄想です。 老人医療保険、年金の改定が(暴動も起こらず)案外うまく行ったとなれば、次に日本の官僚の考えることは、よりドラスティックな少子化対策でしょう。さしあたり優生保護法の改定あたりからでしょうか。なにしろ日本は堕胎天国といわれて、妊娠中絶が出生児の1/4を超える(表に出ている数字だけでも!)といわれるほどですから、これを禁止するだけでも数字上は出生率は跳ね上がります。 世の中が隣国の動静に合わせて、騒がしくなるにつれ、戦争の機運が高まれば、それによって救われる資本家およびそれに追従する議員さんたちと、少子化対策でたたかれる官僚の利害は一致し、戦力としての兵隊さんを確保する意味でも、堕胎禁止の声が母体保護の名目で出てくるでしょう。こういう話をどこが最初に言い出すか、見ててご覧なさい。 「ゴッドファーザー」であったでしょう。首領であるヴィト・コルレオーネが死ぬ前に、息子のマイケルに云った言葉、「最初に仲裁を言ってきた奴が、裏切り者だ。」と。 またまた話が過激になってしまいました。
2006.10.12
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荒川静香さんのトリノの演技を見て以来、その中味を自分なりに分析しておかないと、ガマンできないということで始めたブログですが、かれこれ半年になりUPしたおしゃべりが100回になって、我ながらしゃべることが好きだったんだなと思ってしまいます。 もともと読者の方はあまり想定せず、自分の雑記帳のような気分で始めたのですが、書いているうちにブログの面白味が分ってきて、昼休みはほとんど仕事を忘れて!これを書いています。 ブログの面白味とは、1. 形式が囲碁のようにまったく不定形であること2. 日記と違って一応読者を想定しているので、読めるように書くこと3. 好きなことを書けばよいので、けっこうストレス発散になることでしょうか。 仕事がら、文書を書く機会は結構多いのですが、連絡文書あるいは研修資料、データ解析など、型式だけで中味はこちらがどなって指し示さないかぎり、まず誰も読みません(一応読んだふりはします)。どうしても読ませる場合は、どこかの国といっしょで、飛び道具をちらつかせながら威嚇します。 殺伐とした気分を晴らす意味でも、これは便利ですね。 ところでブログを続けていくうちに、それ以外の効用も発見して、途中から内容に若干の変化がありました。自分の備忘録のようなものとしての利用です。書いているうちにあれもあった、これもあったと思い出すことが結構あるので、先日来探し続けている本も、これによって気づいたので、書かなかったらたぶん忘れたままだったでしょう(死ぬまで)。 そこで今、自分のブログに課している原則は1. まず自分が書いていて楽しい中味であること2. 読む人がいる前提なので、丸谷才一じゃないですが、「書くに値するものを書く」ということ3. 同じく一応パブリック空間なので、できるだけ出典は明らかにしておくことの3つでしょうか。 逆にこのうちの1つでも崩れると閉じなくちゃしょうがないでしょう。しかし数が多くはなくても、毎回見に来られる方がおられるというのは、これを維持していくうえではありがたいのです(たいていの日記はそれがないので続きませんね、女の子は交換日記なるものをよくやりますが)。 この際、「創世記」のソドムとゴモラじゃないですが、10人の読者がいれば続けよう、5人でも続けよう、1人でも読む人がいれば続けよう、とロトのような心境にもなりますが、1人もいなくて炎上しちゃったりしてね。
2006.10.11
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2ヶ月ほど前、久しぶりに合った大学の同期生にむりやり誘われて、一昨日大学のクラブの同窓会に行ってきました。こちらは20年ぶりどころか、30年ぶりの人がほとんどで、これは再会というよりゾンビの出会い系に近いのですが、いくつか面白いことに気が付きました。 先日の友人二人の変身(変形?)ぶりに、少なからずショックを受けていたのですが、今回その他多くの同期ないしその前後の人たちを見ていると、驚くほど昔と変わってない、同窓会というせいもあるのでしょうが、おおむね学生時代の面構えそのままで、体型も変わっていない人が多かったのです。 中には学生時代の情報系をそのままデジタル化して、30年後の今に転送してきたような人もいて、今という時代はまさしく時間を捨像した情報系の社会なのかなと、あらためて痛感します。今日の都市化=情報化社会は人間に齢を重ねることを拒否しているように見えます。生身の身体は片時も同じであることはなく、身体は(脳も含めて)それぞれの部位で、まだら模様に変身していくのですが、例の養老孟司さんの云うように情報系は固定化されて動かないのです。 なかに自然のままに齢を重ねてオッサン化(オバハン化)されてる方もおられるかと期待したのですが、結局いちばん変身していたのは誘ってくれた最初の二人だけでした。かつての日本や2000年前の中国は齢を重ねることそのものを、「老」とか「翁」という言葉で、尊敬をこめて愛でたものですが、今や吉永小百合さんや十朱幸代さんのように時間を超越した永遠の身体が愛でられるようです。 会に行く前に時間があったので、久しぶりに京都の旭屋書店に、過去の自分の残像を発掘しに行ってきました。前にも云いましたが学生時代の書籍は、この30年間にほとんど失われているのです。高校時代に買った河出書房の「西洋近現代詩集10人」は、すでに出版社自体がなく、リルケやランボー、イェーツ、エリオットの詩句はその言葉の響きだけが、木霊のように辺縁系で点滅します。 その当時ことのほか好んだ詩がW・B・イェーツの「クルー湖上の白鳥」でした。イェーツはアイルランドの人で、湖と古代の塔、および妖精のイメージが幸わう想像力豊かな詩人でありました。「クルー湖上の白鳥」は現代詩の晦渋さはみじんもなく、訳詩も(旧仮名使いですが)歌謡曲のように平明です。 クルー湖上の白鳥木々は紅葉の錦をまとひ、杜の小径は乾けり、秋十月の夕まぐれ薄明のもとにして、水は静けき空を映す。岩間に湛へし水の面には五十あまり九羽の白鳥。想ひいづ十九年の昔われここに初めて鳥の羽数を数へしが、いまだ数へも了へぬ間に、鳥は遽かに舞ひのぼり羽音さやかにおぼつかな大きやかなる輪を描き、やがてくづれて散らばひし。このあてやかの鳥を眺めて、今わがこころ痛みを覚ゆ、われ初めてこの湖岸にきたり、黄昏時を頭上に鳥の羽音をききかろらかに歩を移したる昔に今をくらぶればもの皆変り果てたり。今もなほ疲れを知らず白鳥は思ふどち打ちつれて冷き床しの流れを泳ぎまた大空に舞いのぼる、白鳥のこころは老を知らざり、いづれの国辺をさ迷ふとも、情熱と征服とは常に白鳥に伴ふ。されど今白鳥は神秘に、麗しく、静けき水の上に泛べり。いつの日かわれ白鳥の飛び去りてあらぬに心づくときいづちの藺草のなかに白鳥は巣ごもり、いづちの湖辺にまた沼のほとりに人々の眼を慰めてあるらむ。 ― The Wild Swans at Coole ― W・B・Yeats作 山宮充訳 ― 白凰社「名訳詩集」より ― 思わず全文を転記してしまいましたが、他の現代語訳より、やはり若いとき読んだ言葉の響きが心地よく、たちまちそのころの不安と希望がよみがえります。イェーツは老と時間を美しく詠った詩人でした。やはり言葉の匠はすごいですな。
2006.10.10
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ここまで書いてきて、気づいたのですが、どうもうちの父は最初から、自分の理想の住まいなど建ちっこないと思っていたフシがあります。 父の考えをそのまま実現するとすれば、平屋であることで最低50坪前後の建て坪は必要で、それを含む土地は全体としてはやはり100坪は要るでしょう(しかも基礎工事には、相当金がかかりそうです)。山間僻地ならともかく、通勤通学が可能な都市近郊を前提とすれば、この広さを確保するのは普通に考えて不可能でしょう。そう云えば父は、司馬さんが土地公有化論を唱えるずいぶん以前から、これを人に語ってました(社会党系ですかね)。 理念が頑としてそこを動かないのであれば、もとより実現は不可能なわけで、非現実を前提にしてどんな提案を出してもケチをつけるというのは、戦後左翼の平和主義とよく似たところがあります。 まあそれはさておき、仮に土地があったとして、和風を建てた場合、問題になるのは、その通気性ゆえに周囲の環境に敏感にならざるを得ないことで、例えばお隣が焼肉をやれば、その臭いを嗅がされるということになります(現に父のプレハブのお隣さんは、健康のために毎日ニンニクを焼くのです)。 今日、これだけ(一部の政治家諸賢と、それを支持するお金持ちのために)個人情報保護とプライバシーが喧伝され、5年もすれば男はことごとくフルフェースのヘルメットをかぶり、女性はイスラム社会のようにすべからくブルカを(失礼!)まといかねまじき、このご時勢では、和風建築は刑務所のような塀と抱き合わせで考えざるを得ず、こうなったらすでに和風じゃないですよね。 そこでふたたび私は、今日の世の中で和風の住まいは可能か、という命題に突き当たります。いつのまにやら父の話が私の話に移っていますが、50をこえると急速に子供のころの生活スタイルが思い出され、あれだけきらいだった和食がむやみに美味しく感じられる、これはいったい何なのか? 断っておきますが、私はいわゆるEcologist(環境主義者)ではありません。私は地球環境保護を称揚して自分の生活スタイルを変えるような博愛主義とは、正反対の立場で、早い話ゴミの分別にも裏話を聞くにつけ、疑問を持っています。何か善意の押し付けに似た、思想的窮屈さを感じるのです。 それはともかく、人と住まいを考えるにつけ、わかってくるのは、周囲の環境で住まい方は大いに左右されているということです。周囲が閉じていれば、こちらも閉じざるを得ず、ただでさえせまい我が家を、さらに小部屋に分割して、今どきの住まいはマイルーム以外、ほとんどパブリック(公道、公共)に近い考え方(西欧の産物であるホテルのような)で、この内外を峻別するスタイルに日本人は充分に馴染んでいないじゃないかと思えるのです。数百年の歴史を持つ西欧の生活スタイルは、その歴史と伝統と自然でできあがったもので、彼らにとってそれは空気を呼吸するように普通のことでしょう。 簡単に和洋折衷などといいますが、外気を遮断する洋風の思想は、積極的に外気を取り入れる(ないし内外をあいまいにする)和風の住まいの思想とは、簡単には相容れないと思いますよ。文字通り遮断機のようにガチャンとドアを閉めれば何をしてもよいというのは、内外の峻別の呼吸を知らない日本人だけの行動パターンで、障子と襖の境(見立て)であれば、その呼吸は知っているので、決してオタク人間は現われないでしょう。 またまた話が過激化しそうなので、これぐらいにしておきましょうか。 一つだけ面白い事例があります。前の仕事で一時滋賀県で営業所長をしていたのですが、そこで採用した女性営業の皆さんは、なぜかほとんどが大阪京都の出身でありました。新居を買って生活費の足しにとがんばっておられる方が多かったのですが、その後京都府や大阪府の営業所長も勤めてから分ったことがあります。滋賀県に移り住んだ方が、ことごとくもとの京都大阪の生活スタイルを、前の地に置き去りにしているということです(豹柄の戦闘服といっしょに)。 滋賀県はもともとエコロジスト発祥の地みたいなイメージがあるのですが、20年ほど前の例の粉石けん運動も確か大阪出身の方が主導してやられてましたね。今でこそ「里山」と琵琶湖で環境立県の代表のような顔をしていますが、もともとの地の人たちがはたしてどれほど環境に対して認識を持っていたか、どうなのかなあ。彦根はお城の堀が、長く下水の浄化施設の変わりをしていましたが、戦後しばらくマラリアの発生地域で有名でしたよ。 一部の声高な運動家は別として、ふつうに移り住んだ方の生活スタイルの変化に、私は興味を持ったのです。まあしかし、これは別の話ですね。 ― おわり ―
2006.10.06
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住まいの話は楽しいですね。 さて、――すぐに出てくる反論は、ただでさえせまい土地に、今どき平屋はないだろう、というものです。今や50坪の土地に30坪の総二階建て、庭(と思しきもの)は玄関周りだけで、あとは2台は入る車庫が占有している、というのが最近の戸建住宅の定番のようで、外気との遮断性という点では、コンクリートの集合住宅とほとんど変わりなく、父の理想形とはますますかけ離れていっているようです。 現在私はコンクリートの集合住宅は2回目ですが、1回目のを売却したのには、前にも云いました外人さんの近所住まいが第一の原因でしたが、もう一つマンション特有の通気性の悪さがありました。典型的な3LDKの二面構造(リビングと玄関の2方向だけ窓がある構造)だと、真ん中にバス、トイレおよびキッチンのユニットが入り、どういじっても風が通らなくなります。いきおい隣家がエアコンをつければ、うちも窓を閉め切ってつけざるを得ず、反比例してリビング以外の部屋は蒸し風呂状態で、しかも湿気が取れないという状態になるのです。 はじめのころは出来るだけ窓を開けるようにしていたのですが、それでも北側の部屋の壁は、ものすごい結露に見舞われました。コンクリートは水を吸うみたいですね。初期段階で壁紙が(コンクリートの水を吸って)波打つようになり、剥がれだしたと思ったら内側から黒カビが発生しました。以来北側の部屋は物置になったのですが、カーテンの裏側にまでカビがはびこり、子供がアトピーを患ったこともあって引越しを決意したのです。 今は三面構造の集合住宅で、何とか通気性だけは確保しています。それにしても3方向に窓があると、ずいぶん風の量が違いますね。例のオンボロ官舎で思い出すのですが、父とネコは夏の午後は、いつも玄関横の廊下に寝そべってました。そこはせまい家中でも一番風通しが良かったのです。 法隆寺!とは云いませんが、かつての民家、田の字型に間取りして、4方向から自在に風が入る。ずいぶん快適な暮らしだったのかな、と思えてきます。 もっとも風がよく入るから好いといっても、調子に乗っていると家中のホコリが舞いあがって、しょっちゅう掃除をしなければならないという仕儀に相成ります。外気を遮断した家なら、隅っこでおとなしくしていたホコリが、その存在を主張するうえに、あたりまえですが、外からもいろいろなホコリが侵入します。ホコリだけではありません、虫や動物も入ってくることがあるので、超清潔!の世代には耐えられない世界ではあります(うちの家内はこの世代に属します、虫嫌い、ホコリ嫌いは徹底したもので、部屋に空気清浄器なる機械を置いてるのですが)。 それにしても最近の私は、修学院や聖護院などの畳に座っていると、広い縁側を介して入ってくる庭園の空気、無上に浄化されているようで、この世のものとは思えない至福の瞬間に感じられるのですが、これも貧乏時代の日本人のDNAのなせるわざかもしれません。 京都の母の実家は、前にも云いましたが下町の長屋で、中庭を介して離れが奥にありました。離れと母屋をつなぐ渡り廊下に沿ってトイレや風呂などの水周りが並び、その吹き抜けの床下から中庭にかけて池があって、子供の私にははなはだ結構な造作でありました。 いっぽう父は自分の家はよう造らんのに、頼まれれば親戚親元の家の設計はしてました(公務員なので、もちろんタダで、それでも頑固な和風形式を理解できない人は多かったようです)。父の和洋折衷型平屋住宅の図面は、何度も見せられたので今でも覚えています。私はその図面をボール紙に貼り付けて、模型を作ったりしていました(切妻平屋の平凡な外観になりました。今ならもう少ししゃれた造作を施すのでしょうが)。 その父が親元の家の改築に際して、施した設計ははなはだ面白いものでした。まだ終戦間もないころだったようですが、親から100年持つ家を造れと云われて、本体の住まいの間取り等はごく平凡であるにも拘らず(お金は無かったので)、床下一面をすべてコンクリートで覆い、さらに柱の設置面には昔ながらの敷き石を置いたのです(床下からの湿気をコンクリートで完全に遮断し、柱との設置面はシロアリや腐食とは関係のない石を使う、今どきの住宅の基礎工事を見てて御覧なさい、床下は掘り返した土のまま、柱や壁の設置面は鉄筋とセメントでしょう)。 例によって建前は何の変哲もない瓦葺き木造平屋ですが、60年たってもビクともしていません。見てくれの古くささとは裏腹に、とっくに腐食したコンクリートパネルやサビ付いた軽量鉄骨、ヒビ割れた基礎のセメントがはがれて中の鉄筋が水で腐食し、家全体が傾いでる今どきのしゃれた住宅より、はるかに持ちが良いのです(良すぎて腹が立つぐらい)。 もっとも今時の考え方では、住居は100年持たせる必要はなくて、ローン完済時を基準に逆算し、30年ほど経てば、たいてい次の家を考えられるのでしょう(でないと住宅会社は儲かりません)。 かくして父の考えはまたしても、今日の時代とは逆を向いていたのでありました。 ― つづく ―
2006.10.05
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当時、新しい家とはようやく軽量鉄骨や壁パネル工法によるプレハブ住宅が主流になったころで、当然中味は洋風間取りとダイニングキッチンが定番でした。母の実家は京都下京の医家でしたが、いわゆる典型的な京都長屋の造りで「生まれてこのかた、洋間に住んだことがない。」というのが口癖でした。 あるとき土地の不動産屋さんが、築15年の軽量鉄骨プレハブの物件を紹介しました。64坪の土地に建坪25坪ほどの2階建て、東南に開けた角地で、値段もそこそこ、母が相当の決心でもって父と話していたのを覚えています。父は例によって風通しが悪いだの、間取りに無駄があるだの、傾斜地は水周りが心許ないだの、さまざまに抵抗しましたが、そこは母の粘りと根性が勝ちを征して、いよいよ一世一代の買い物をすることになりました。 父はキャッシュでこの家を買い求めました。父の実家は京都南区の工務店で、子供のころ集金で、よく取引先を周ったと言っていました。戦中戦後のどさくさに工務店は消えてなくなり、お決まりの借金だけが残って、土地の切り売りで凌いだようです。というわけで、父の処世術は何があっても借金はしないというもので、あえて踏ん張らなくてもローンを組めば、自分の好きな理想の家は建てられたと思うのですが、この思想が許さなかったのでした。 その中古住宅を買い求めるとき、父は家の見てくれの造作には一顧だにせず、長靴を履いて床下コンクリートのヒビをくまなく調べ、天井裏のサビ(軽量鉄骨だったので)だけを、持ち主の人目もはばからずに懐中電灯をもって徹底的に調べていました。 父がゴー・サインをこの家に出したのは、築15年であるにもかかわらず、床下の基礎にヒビが生じていないこと、鉄骨にサビが出ていないこと、この2点のみでありました。室内の風通し、玄関から階段にかけての空間の無駄、応接間の下品な装飾(ラブホテル!のような照明と壁紙)いずれも相当我慢したようです。私と母はもちろん快哉を叫んだのでした。 さて、―― 5年が過ぎ、1階の床が何となくべコベコするので、業者に来てもらったのですが、床板をはがしたとたん異臭がするのです。すべての床板をはがしたところ、床下に畳2枚分ほどの広さで水がたまり、その湿気で上の床板を腐らせているのでした。通常、日本家屋では床下の湿気から木材を守るために、60cmくらいの高さを採るのですが、新しいプレハブ住宅は見てくれのために、30cmほどの高さしか採っていなかったのです。 それでも床下の基礎工事のときに、水はけをキチンと考慮すれば水がたまるなどということは、ありえないのですが、自分の家周りの排水溝はともかく、隣接の傾斜地の上にある家からの排水が、いったん地中に入って我が家の排水溝の下をくぐり抜けて、床下にたまっていたのでした。放っておくと木材部分だけでなく、シロアリでコンクリートの基礎もやられる、ということで、大改修をやることになりました(前の住人はわりと、こういう基礎部分や風通しに無関心のようでした)。父の考えで、屋根もついでに葺き替えることになりました。 父によれば、風通しが悪いから、とくに水のたまった上の部屋など、傷みやすく間取りも変更したいのだが、2階部分の構造との関係があってできない。さしあたって基礎と屋根だけは、改装で10年ほどは持たせるから、後は自分でやれとのこと。というわけで、私の戸建住宅への執着は少し水をかけられたのでした。 父の理論は明解で、雨が多く地震もある日本では、土台の基礎工事と水対策および換気(風通し)が肝心で、外気を遮断する新建材などもってのほか、法隆寺を見よと言うのです。 土台を大石で敷き詰めた上に、木の柱をのせ、土壁以外は吹き抜けで、上は瓦で覆う。この構造なら木で出来た建物でも1000年でも2000年でも快適に暮らせる、というわけです。別にエジプトのピラミッドじゃあるまいし、ミイラになるまで家を維持する気はないので、何を抜かすかと思ったものです。 父の理論は続きます。なぜ平屋かというと、まず1.階段部分の無駄なスペースが要らず、2.二階をのせることで生じる構造上の制約がない、3.したがって間取りの自由度が増して、窓も大きく採れる、4.したがって風通しがよくなり換気対策になる(持ちが良くなる)、5.あとの増改築も簡単6.したがって全体の工費が少なくて済む。というわけで、桂離宮を見よ、と言うのです。高床に平屋建て、庭と連携して自由に配置された間取り、この建物は1000年持つやろう、と言うのですが。 ― つづく ―
2006.10.04
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私の父は、学校で建築を教えていました。考え方において進歩的でありながら、生活面では超保守という戦後左翼の典型のような人ですが、家の設計においても思想の合理性に実際が追いつかない場合、実現を渋るという頑固さがあって、ついに自分で設計した家は建てずに(建たずに)、今は中古のプレハヴ(今や築50年くらいの)に住んでいます。 学校の教師という論理性が実際より優先する職業は、ときに実際生活での困難を生じるもので、子供の私は母の長嘆息をよく目にしました。当時の教師の給与では公務員宿舎(ボロボロの)をあてがわれているとはいえ、子供三人の一家の家計は火の車で、他の先生方は表向き禁止されている副業をやられていました。皆さん上昇志向で、数年すると他の私学ないし国大に転任されました。 父は学徒動員であったので、戦後いくつかの職場を転々としたあと、この教師業に落ち着いたのですが、よほど相性が良かったとみえ、定年まで動くことはありませんでした(それでも学生紛争時は学生部長をやらされて、毎晩返ってくるとずいぶん唸っていたものです。学内社会でも世間と同様のエゴイズムの風は吹いているようで、父はいつも割りを喰っていたようです)。 例のボロボロの宿舎、学校開設と同時に建てられたのですが、土地の水はけが悪いうえに、基礎がしっかりしていないので10年もたたないうちに、柱が腐り、屋根はゆがみ、壁土は剥がれるという景況を呈しました。伊勢湾台風や第2室戸台風の折には、強風で畳が持ち上がり、家が平行四辺形に傾いだのを覚えています。 今でも忘れられない光景があります。伊勢湾台風だったと思うのですが、翌朝父と自転車で外に出てみると、近くの田んぼが一面の湖水に変貌しているのでした。私に強い印象を与えたのは、その湖の色でした。想像される茶褐色ではなくて、澄み切った青色をしてさざなみをたてていたのです。戦中戦後の食糧増産で取り急ぎ干拓された土地は、台風一過でいとも簡単にもとの自然に戻ったのでした。東海道線は停電し、その新しくできた湖の向こう側にある本線を、蒸気機関車が走っていて、私は思わず笑ってしまいました。 我が家がそうした干拓地の端に建てられた家屋であれば、水はけや基礎がよくないのはあたりまえで、父ははじめからよく分かっていたようです。そのとき以来、「何で早く家を建てないんや」というのが私の強迫観念となりました。 その父の考えによれば、地震、台風、洪水の多い日本で、理想的な住宅とは木造平屋建でなければならないのであります。学生時代に京都や奈良の神社仏閣をずいぶん研究させられたようで、B・タウトやF・L・ライトなどの影響を受けて、桂離宮や伊勢神宮の機能美に相当かぶれていたようです。 私のほうはコンクリートの(当時コンクリートパネルの簡易住宅が売り出されていました)トーチカのような堅固な住まいが理想で、とにかく雨風地震にビクともしないというのが第一優先でありました。住まいの造作はともかく、母も生まれ故郷の京都に、少しでも近い土地に家を建てるのが終生の願いで、その一点で団結して、さかんに運動したものです。十数年がたち、私が大学生になると、母と一緒に中古の物件を探しました(そのころには新築はあきらめていました)。既成事実で腰の重い父を動かそうというわけです。 持ちかける物件に対し、父がつけるケチは例によって一点に絞られます。一言で云えば日本の風土には日本の伝統建築が一番ということです。これは若い私にはなかなかしんどい話でありました。 ― つづく ―
2006.10.03
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しかし基本的にはモーツァルトは、明晰かつ堅牢な形式のなかで自由に呼吸できた人で、これは例えば蒔絵に施されたような職人芸の技を味わうのに似ています。ソナタ形式は彼の時代に、もっとも自然な衣装なのでした。私たちは一聴するだけで、彼の自然な呼吸に浸り込むことができます。 音楽をパトロンに奉仕するものでなく、独立した芸術と見なし、自己表現の手段と捉えるには、フランス革命後のナポレオンの台頭が必要でした。国家の主権が国民であること(王様貴族のものでなく、国民のもの)、を明確に示したナポレオンはベートーベンの思想に大きな影響を与えました。ベートーベンのスタンスはヘンなたとえですが、印刷会社と出版社とでは同じ受注者の立場でありながら、発注者に対して何となく出版社のほうが偉そうな顔をしている(実際には印刷会社よりずっと貧乏であるにも拘らず、意識の上で対等ないしそれ以上の感覚)、という関係に似ています。 偉そうな顔というのは、同時に強烈な自己表現となって現われるので、ベートーベンのスタイルは、ことごとく過去の形式を壊す、あるいは見直すところから始まりました。「エロイカ」以降の作品はどれをとっても彼の音でないものはなく、形式は彼の自己表現の道具立てとしてしか、機能していません。(晩年の彼によくみられるフーガ、弦楽四重奏の「大フーガ」、ピアノの「ハンマークラヴィーア」、交響曲第9番「合唱付」に見られるフーガは、音の響きとか形式ではなく、まさしく彼の意志の驀進だけを見せられているようです) 実際にこれを聞く聴衆というのは、彼は誰を想定していたのでしょう。どうみても王様貴族のサロンではないし、はたまたオペラハウスでやるにしても、当時の民衆は19世紀後半の新興中産階級(ブルジョア)とも違いますね。 彼以降クラシック音楽は、肥大化した自己表現に向かうので、それはしどけない自己表現が公然と大道路を闊歩する時代でした。ロマン派とは自己表現の多様化、細分化のことで、後期ロマン派のG・マーラーなど1000人の器楽と声楽を使って、自分の神経の痙攣を表現するまでになりました。(L・バーンスタインはマーラーの神経の痙攣的叫びを、まるで解剖学の先生のように、細密かつ大胆に表現しましたね。これはヨーロッパの指揮者ではできなかったことでした) 20世紀にはいると、このような云わば野放図な(押し付けがましい)自己表現に対し、懐疑的な考え方が出てきて、形式や調性が破壊されるに及び、音楽から肉体が失われ、同時に作曲家と聴衆の幸福な一体感は望むべくも無くなってしまいました。まあ純音楽の作曲家というのは、いつの時代でも(今でも)本業では常に貧乏です。時代に持てはやされるのは、常にプリマや指揮者、ソリストなどのパフォーマンス(演奏)なのです。 とは云え、2回の世界大戦と、その後の核の時代は、音楽に限らず、一般にも自己肥大化した表現を見直す契機になっているので、バロック音楽や古楽器の再現、あるいは我らがモーツァルトやハイドンをもう一度聞いてみるというのは、たんに生誕250年だからじゃなく、今の私たちが彼らを必要としているからなのかもしれません。 その絶対に破綻の気遣いのない形式、必要にして充分な和声とメロディー、抑制された感情表現などなど、個人が絶対化し個別化した今どきの精神からみると、これはやはり新しいサロン(社交場、応接間=交流場)で聞くのにふさわしいので、早い話、彼女(私の場合は奥さん)と一緒に演奏会に行くのなら、やっぱりモーツァルトのコンチェルトや室内楽が一番!ピアノ協奏曲第20番やクラリネット五重奏曲は、たちまち彼女の心を鷲掴みにするでしょう。 かつては1回のクラシック演奏会を聞くのに、1万円だの2万円だのもったいなすぎると敬遠していた私ですが、このごろになってやっと生の演奏会の面白味が分ってきました。ひたすらに自己陶酔に浸るならCD、LPで充分ですが、要は生の演奏会というのはサロン(交流場)なんですね。 ベートーベンやブルックナーは一人で(オタク的に)自己陶酔するにはうってつけですが、彼女と行ったら音楽が終わったあと、何となく気まずくなりますよ。出だしの3分間で、必ず女性が涙ぐむ(悲しいんじゃなく、美しくて!)というクラシック、モーツァルト以外にも、あまたあるのですが、それはまた別の話。 ― おわり ―
2006.10.02
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