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―― 伝統は論理よりも厳格である ―― T.S.エリオット 最近すっかり取り上げられなくなって、本もなかなか手に入らないというのが、例えば深瀬基寛の「エリオットの詩学」角川文庫とか、島崎敏樹の精神分析学の岩波新書本などです(ネットでは古書本で出てるみたい)。いずれも、かつて我が書庫で強い光彩を放っていた本ですが、前にも言った理由で、いつのまにやら無くなってしまいました。 我が家の擦り切れたLPレコードが、なかなか無くならないのとは対称的に(柄がデカいので捨てにくい?)、本というのは手元にあるうちは、いつでも読めるだろう、いつでも手に入るだろう、という感じが特に文庫本や新書本にはあって、ついつい疎かにしてしまい、今になってシマッタ!と思うことがしばしばです。 というわけで、うろ覚えのエリオットの警句を書いてみたりするのですが、自信がありません。 深瀬さんというのは、京大で英文学、特にエリオットやオーデンの詩を扱っていた人ですが、上記の代表作といっていい「エリオットの詩学」など、パラグラフごとに読み手に挑戦するような字句が連なっていて、なかなか厄介ですよ。 若い時というのは、小難しい(渋面の)字句や単語や音楽、絵画に妙に惹かれることがあるので、大江健三郎などその最たるものでした。今はすっかり読めなくなってしまいました。その理由は彼の考え方とか思想が、私と合わないとかいうことではなくて(もちろんそれも含まれるのですが、大部分ではありません)、そのゴツゴツした文体の呼吸が、世の中に出た自分にとっては、到底読みこなせる中味ではないということです。彼の文章に付き合っていくには、相当時間と心の覚悟が必要なんじゃないですか。 時間と心の覚悟に応えてくれるのであれば、誰でも読む労力を惜しまないでしょう、ゲームマニアが何時間でも仮想空間に熱中できるように。応えてくれるかどうか、危ういところが(簡単には応えてくれないところが)辛いところですね。 彼の小説の話は、私がもう一度頭を冷やして、一から彼の小説を読み直さないと、たぶんフェアじゃないでしょう。前も書いたかもしれませんが、いっときは彼の「遅れてきた青年」と三島由紀夫の「鏡子の家」のトーンが、あまりによく似ているので、彼らは裏返しの同類ではないかとも疑ったりしていたのですが、今はよう言いまへん。 深瀬さんは、その点では文体が晦渋とかいったことはありません。しかし一行でも読めば、たちまちこちらの脳ミソがハチ切れるといった類の文章です。 例えば、―― 「伝統的」といえば見たところ大して残酷な形容詞ではない。しかしこの一見柔和な形容詞によって、現実のなかに実存しながら吾々の気に食わないものが絶えず過去の墓地へ繰り込まれ、そこでは時間が絶えず殺傷されているのである。あいては時間だから倫理と刑法の問題にはならないが、過去を含まない現在、「時間における地方根性」を自我の内容として定立する限り、自我を生かすことは過去を殺傷するという犠牲においてするより外に道はないのである。 ―― 「エリオットの詩学」深瀬基寛(角川文庫)よりといった調子なんですが、どうですか。 「残酷な形容詞」だの「過去の墓地」だの、何となくエリオットの評論や詩句に出てきそうな単語を用いながら、エリオットの解説ではなく、紛れもない深瀬ワールドを展開する。これは英文学を研究渉猟しつくして、なおかつ自身の言葉で語り尽くす、エリオットの方法論で今どきの文明を論じているように見えます。―― 伝統の状態は意識よりも実存的である。伝統の実存性を証明する最上の方法は、試みに意識によって伝統を両断してみることである。例えば戦前に多くの思想家が試みたように日本精神というような過去的実体によって現実を裁断してみる。現実はたちまち敗戦の形で以って過去に復讐し、その結果は、少なくとも明治以後百年の日本の歴史は現実によって食われてしまったのである。台湾以下の領土の喪失は現実が過去を食う最近の適例である。戦後の民主主義の闘士は日本の過去の封建性を完全に封鎖したつもりでいる。しかし応仁の乱以上の民主的乱脈振りが第二の秀吉をどこかの闇屋の小倅から仕立て上げないとは限らないのである。ギリシャ以来、独裁主義の母はいつでも転落した民主主義なのである。伝統はいつでも観念論が失敗した時だけに、否定的にしか自己主張をしないようなものである。だからそれは自覚的現象ではなくして、むしろ潜在的実存である。伝統が自らを形成してゆく仕方は近代の合理的意識の要求通りには決して動いてくれないのである。 ―― 同上 この本の初版が創元社から出たのが、1952年ということは敗戦後7年、おそらく著者は敗戦直後からの思いを綴ったのに間違いなく、残念ながら「闇屋の小倅」も「伝統が自らを形成してゆく仕方は近代の合理的意識の要求通りには決して動いてくれない」というのも、ことごとく現実のものとなって、いまだに表通りを闊歩しているようです。 この本、手に入りにくいので、もしその一部でも見てみられるなら、「知られざる思想家たち」というHPでパラグラフの一部を見ることができます。 丹念に原文を写されたみたいですね。
2007.02.22
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―― 「思想をバラのように嗅ぐ」 ―― T.S.エリオット しばらく、主として物理的な理由で、UPを休んでいたのですが、がまんできなくなったので、再開することにします。しかし以前のように毎日更新というわけには、いかないようです。成しうるならば、週に一回くらいはUPしたいのですが、どうかな? 何だかゲリラのブログみたいな感じがしてきました。 ところで ――、人の思想とか人の成りとかいったものは、何も哲学的な論文に表わさなくても、湯気のように舞い昇ってくるものではないか、ということを考えています。 日本では思想といえば、強面の文章をすぐ連想してしまいますが、言葉によらずとも、人の思想はいろいろな姿で立ち昇ってきますね。 絵画にしても音楽にしても、あるいはスポーツにしても、私たちは言葉に寄らずして、その姿形や響きや色彩から、思想を感じ取ります。アプローチはさまざまで、脳の論理回路だけに寄らずに、身体の五感を動員して感じ取るのです。 これはあまり難しく考える必要は無いので、例えば毛筆の「書」などが好い例でしょう。私は以前から「書」というものの美的あるいは芸術的位置づけが、日本人と外国人で違うのではないかと、疑っています。我々からみれば、あたりまえに感じ取れる美しさとか、「書」の発する思想のようなものが、どうも外国人には伝わっていないのではないか? 私があえて「書道」ではなく、「書」としているのは、例えば日展や日本インターネット書道展に見られるような、今風の表現的な芸術作品では、とてもじゃないですが、私の手に負えないので、さしあたって平安時代の楷書体や平仮名の書(空海の金剛般若経開題残巻や源氏物語絵巻の詞書)のような、読みとしての言葉の機能と、積極的に見るという機能を、合わせ持った「書」で話をしているのです。 日本語や漢字を理解できない外国人からみれば、書というのは一種の抽象画に見えるらしく、私たちのように基本的に文字記号として言葉に、意味をまず感じ取ってしまうのに対し、どうしても造形的な理解をしてしまう。これは例えば私たちが喫形文字や、マヤの象形文字を見たときに、意味から入るのではなく造形的印象から感じるのと同じことです。 これは私に言わせると、大事な意味を含んでいるので、例えば音声で聞く日本語は、私たち日本人にとっては、まず意味から入ってくるので、ふつう日本語を日本人が聞く場合、純粋な響きとして聞くことは至難の業なのです。これは韓国語を聞く機会が多くなった最近感じることで、まるっきり解読不能な韓国語の会話の中に、驚くほど自然な日本語の単語が、頻出しているように聞こえる。私たちの脳はそのたびに、音声回路が言語脳へ行ったり来たりして、一種の混乱を呈するということになるのです。 子供のころを思い出すのですが、高熱を発して寝込んでいたときに、一度だけですが、母や姉のしゃべっている言葉の意味が、突然理解不能になって、音声だけが飛びかっているように聞こえたときがありました。熱でよほど脳が弱っていたのでしょうが、そのとき日本語というものが、実際にはどのように聞こえているのか、分かった気がして一種のめまいを感じたものでした。 日本語を日本人が純粋な響きとして聞くためには、昔ならオープンリールの録音テープを、通常速度で逆回しにして聞くという手があったのですが、今はどうしたものですかね? フランス人がフランス語を聞く響きと、日本人がフランス語を聞く響きは違うのです。 これはどうやら文字という視覚においても、同様であるらしく、「書」などと難しく考えるまでもなく、習字のレベルで私たちは視覚野と言語野を自然に使い分けています。 表意文字である漢字の段階では、まだ意味的機能が強いのですが、平仮名のような表音文字の「書」となると、まさしくクネクネと書き手の気分と思想だけが、紙の上にのたくっている感じで、日本語とは本当に意味的要素よりも、気分を表現するのに便利な言語だなと思ってしまいます。 西欧の文化では、言語としての文字は、記号としての意味合いが強く、例えば書かれた文章の体裁(視覚的要素)は、言語的には捨像されます(その代わり言語の響きやリズムには敏感みたいです)。日本の小説家はたいてい書かれた活字の、見た目の並びにも注意を払うでしょう。これは日本語が意味的要素のほかに、視覚的な美的要素も含んでいることを表わしているので、どうもその理由は、奈良朝以来の和歌の歴史と関係がありそうですね。 エリオットは言語の響きとリズムで、詩から「思想をバラのように嗅ぐ」ことを目指したようですが、日本人は言語の視覚的要素から、書き手の呼吸や思想を嗅いでいたのでした。
2007.02.19
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