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腹の立つことやボヤキのたぐいを、パイを投げつけるようにして書きっぱなしにしておくと、よけいに書く気をなくしてしまうのですが、結局のところ私自身が、同じレベルでヒトや物事にいろいろなレッテルを貼り付けて、分かった気になっている、あるいは分かったふりを自分自身に仮装しているからで、そのフラストレーションが溜まって噴出しているようです。これでは他の面白ネタで気分を変えようとしてもムダで、あまり健康的とは云いがたいですが、その中味をもう少し探ってみたいと思っているのです。 前回触れましたが、この国の構造全体が脆弱化していて、その主たる原因が「考えることをしない社会」というように書いたのですが、何でも問題が出てくると一見専門用語風のレッテルを貼り付けて、分かったことにしておくというのが、どういう結果を招くかという事例を見てみましょう。 安部さん騒動のころ「若年性うつ」なる用語が新聞に出ていて、ある大学が地域の小学校中学校の調査を行った結果、小学高学年の10人に1人、中学生の4人に1人が「うつ」ないしうつ病の前駆症状を示していた(正確な数字ではないかもしれません、改めて調べる気がしないのです)というのですが、大学の研究意図は別として(まさかそんなお手軽な調査分析で済ましているわけがないと思いますが)、少なくとも新聞その他の報道の仕方では、用語が一人歩きしかねない内容になっているのです。 児童生徒の考えや振るまいの調査結果に、病理的な専門用語を使うと、それがまるで病気であるような印象を与えてしまい、病気ということであれば=治療、投薬という思考パターンに結びつくでしょう。 私の周辺で本物の「うつ病」に罹った人がいましたが、がんの治療薬の副作用で「うつ状態」に陥ったらしく(専門家ではないので断定はできません)、これは一種の心の風邪のようなもので、ある種の神経伝達物質の分泌が何らか要因で突然異常を来たすらしい。原因はともかく、罹患している最中は周囲がすべて灰色に見えて、なにごとにも興味を失い、食事をしてもまったく味がしない(その人の話では、いっしょに食事していた友達から「こんなに不味そうにものを食べてる人、見たことがない」と言われたそうです)、雑踏にまぎれると老人ばかりが眼に入って「この人たちは何で生きているのだろう、何のために存在しているのだろう」とか、地下鉄のホームを歩いていると、ここで飛び込んだらなんて楽なんだろうとか、高層ビルの窓から下を覗き込んで、地上が異様に近くに見えたりする。 反対にマラソンランナーのように、走り続けると脳内から快楽物質(脳内麻薬ともいわれるエンドルフィンという神経伝達物質)がさかんに分泌されて、一種の恍惚状態になるそうですね。愛の行為の最中にもさかんにβ-エンドルフィンが分泌されるというところからみても、ヒトの心というのは快も不快も、相当原初的な生命現象の振るまいに操られるところがあるらしい。それなら生き物はみんな快楽物質を得るために走り続け性交に耽れば、すべからく幸せになるかといえば、もちろんそんなことはなくて、これは生命活動を推進するための一種の麻酔状態ですから、醒めてみれば周囲の状況がまったく変わってないということは誰でも知っています。 まあそれはともかく、「若年性うつ」といわれる名称でもって、それらが上のような「うつ病」と同じ病理の一種で、したがって病気治療ということで、もし投薬治療などで解決しようということになるなら、これは「ちょっと待ってェや」という話になるでしょう。思春期とは第二次性徴を中心に、心身ともに大人に成る発達段階の途中をいうので、その過程では当然身体の変調や心の不安定感が誰にも襲ってくるわけです。大人に成るとは、すなわち身体的にも精神的にも安定の状態に入ることを意味するので、その途中に「うつ」状態や暴力行動が出てくるのは、むしろあたりまえだと考えるべきでしょう。 もちろん程度の差というのはあります。しかし今どきの風潮は、それらの発現を「ひきこもり」だの「いじめ」だのの名称で、ひとくくりに「いけないもの」「あってはならないもの」ということにしてしまいがちで、それらの解決策がもし投薬や隔離に向かうとすれば、それら麻酔がとけたときには、まったく変わっていない周囲の状況に対し、心身が何も準備できていないことに気付いて、本人は呆然とするばかりでしょう。 というわけで、身体的にも精神的にも安定の状態(大人)になるというのは、なにも心身について悩むことがなくなるということではなくて、「悩む力」を身につけるということだと思うのです。これは政治学者の姜尚中(カン・サンジュン)さんが、夏目漱石にからめておっしゃっていた言葉で、今どきの時代というのは、悩むことをしなくなった社会、あるいはそれを避けて通る時代、もう少し云うと「悩む力」に価値を見出さなくなった時代といえるのかもしれません。「悩む力」とは「思索する力」と言い換えてもいいのですが、ひょっとすると「思索」なんて今どきいちばんはやらないのかもしれませんね。 今のような情報洪水(しかもほとんどが、どうでもいい情報)の状態では、もちろんいちいち情報を吟味している暇などなくて、デジタル信号のテンポにあわせてヒトの頭もチカチカ点滅しているに過ぎないのかもしれません。しかもチカチカ点滅している間は、どうやら脳内麻薬がさかんに分泌されて、覚醒せずに済むのです。 間違いのないことは、大人になって悩み事がなくなるかといえば、もちろんそんなことはなくて、本当の意味でのシリアスな悩みというのはむしろ多くなる。ただし大人はそれに耐える云わば「悩み力(ずるさも含めて)」を身につけているに過ぎない、といっていいのです。 こんなあたりまえのことを、クドクド繰り返さなくてはいけないというのは、もうお分かりかと思いますが、悩まなくなった(それに価値を認めなくなった)のが若者だけじゃなくて、どうやら日本の社会全体に及んでいるらしいことで、安部さんにしても小沢さんにしても、対処が大人の常識としては軽すぎる。それが一国の代表とか一党の代表であるからには、もう少ししっかりせよと言いたくなるからです。まして朝青龍の「解離性障害」など、きいたふうなレッテルでごまかそうとしたって、たんにゴテてフクレているに過ぎないことぐらい、子供にでも分かる。悪役ぶるなら、プロの悪役に徹せよといいたいですね。 実際に「解離性障害」だの「うつ」症状にみまわれた人たちから見れば、三ヵ月ほどでケロッとしているなんてことはありえない、みんな怒ってますよ。真に心の病というものは、薄皮を剥ぐようにして、少しずつしか改善しないものだと聞きました。 こんなブザマな大人の社会を見せて、子供たちがまともに「悩み力」を身につけようなんて思うわけがないじゃないですか。それよりはアバターなる仮想社会で、考えることを止めて永遠の子供に浸っているほうが、よほど楽しそうだと思ってしまうでしょう。 とはいえ、未成熟な大人あるいは非常識な老舗企業の問題が、やたらと世間を賑わしている今日この頃、日本全体が未成熟というよりも、かつての牢固とした敗戦後の日本の倫理観や社会秩序が、とくに90年代のバブル崩壊から2001年以降の世界秩序の再編で通用しなくなっている結果かもしれず、いちいち目くじら立てていてもしかたがないのかもしれませんね。 それにしても、偽装や談合をやっていた高級料亭の料理もまた偽装だったなんて、シャレにもなりませんね。 やたら長くなったうえに、例によってちょっと興奮してしまいました、すいません。
2007.11.30
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さて、いくら書く気がしなくても、書きかけの項目がたくさん残っているので、一つ一つ片付けていくとしますか。 ディアベリ変奏曲を書いたあと、彼からピアノ曲は影をひそめ、死ぬまでの3、4年間は「荘厳ミサ」と「合唱付き」を除くほかは、数曲の弦楽四重奏だけが残されています。しかし彼自身が自分の晩年を意識していたかとなるともちろんこれは別問題で、自分の人生と芸術が総仕上げの時期に来ていることは感じていても、それがあと3年と少ししか残されていないということは、あたりまえですが本人には分からないのです。 50代の彼の人生に大きな影を落としているのは、例の甥のカールを中心とした家庭の問題で、「ハンマー・クラヴィーア」や「ディアベリ」で、芸術上の大きな革新を例によってピアノによって成し遂げたベートーヴェンですが、その後の彼の作曲には少なからず呻吟の後が見られます。これは中空から美をつかみ出して創造するという芸術上の苦心というよりは、よほど実生活上の問題に足をとられた結果というべきでしょう。 このあたり、モーツァルトやシューベルトの音楽に人生の足跡のような響きが、ほとんどしてこないのと対照的で(天上の音楽と云われたりしますね。彼らの音楽にときに現れる悲哀の表情は、人生的というよりは不思議な透明感に彩られていて、私たちを別世界に誘います)、ベートーヴェンの大きな特色は音楽上の芸術の完成と、実生活上の人生の完成を意志的に両立させようとしたことでした。これははた目で見てもしんどい話で、モーツァルトやシューベルトのように死ぬまで青春のまま、実質的な人生を送っていないかのような音楽家は別としても、その後のロマン派の音楽家のように(ワーグナーやマーラーのように)、悪魔的な人生を送っても芸術が優越するというほど、彼にとって音楽(芸術)は巨大ではなかったのでした。 というわけで、晩年のベートーヴェンの作品はピアノによる音楽的革新は影をひそめて、弦楽四重奏を中心とした室内楽に大きく傾斜していきます。室内楽は形式からいっても、音色の多様性や華やかさは失われ渋くなるかわり、響きの純度は深まるのですが、このころの彼の弦楽四重奏は、例えば「傑作の森」時代の「ラズモフスキー」三部作のように、つねにピアノ的美観にささえられた強い響きが背景にこだましていたのとは対照的に、室内楽以外では表せないような、独り言に近い作曲家の呟きが聞こえてきます。 このころの彼は、ここに自分にとってもっともふさわしい表現方法を見出したようで、それは音楽理論の革新であるよりは、いわば私的な気分の吐露に近い内容でありました。その中でも私は「弦楽四重奏曲 第14番 嬰ハ短調」が大好きで、7楽章という異例の多楽章形式でありながら、第3第6楽章が小さな繋ぎを成していて、外形的なバランスがとてもいいのですが、かといって「ラズモフスキー」のような巨大な構築性は感じさせません。 それは出だしのポリフォニックなフーガの緩除楽章に端的に現れているので、これは明らかに外に向かって語られる音楽ではなく、自身を観照するように内省的であります。ここにはピアノや管弦楽の音には絶対に置き換えることのできない、室内楽だけが持つ響きが全体を領しているので、最終楽章の堂々としたソナタに入るまでは、「これ本当にベートーヴェンかいな?」と思わせるくらいに、云わば「家庭的(Domestic)」な響きなのです。 間違えてはいけないのは、この内面性は後のロマン派のような自己の気分に陶酔したような魂の絶叫なのではなくて、安定した形式のバランスのうえに成り立っていることで、この部分で他者に開かれているということです(このあたり、その後の19世紀ロマン派の芸術観に、明治以降の日本の芸術観は相当毒されたみたいで、それがまた今どきベートーヴェンを更地で聴くということを、困難にしている原因だと思ったりもするのですが)。 ベートーヴェンはこの作品の出来ばえに相当満足していたようで、友人に「ありがたいことに、想像力は昔よりもそんなに衰えてはいないよ(まだ私には音楽を創造する力が残っているようだ)」といったということですが、彼の求めた理想的な家庭というのは、現実の私生活では甥のカールの自殺未遂や、日常的な家政婦とのいさかい(彼は家政婦を豚と罵り、家政婦は彼を悪魔と呼ぶ)をみても、安寧を求める場所には程遠く、世間的には恐ろしいほどの名声と尊敬を勝ち得ていた彼も、それに応えるような受けねらいには疲れて、自分の内面をストレートに写す音楽がほしかったのでしょう。 ベートーヴェンを尊敬するところ厚かったシューベルトが、この第十四番を聴いたとき、「この後でわれわれに何が書けるというのだ?(この曲のあとに、いったいどんな音楽が書けるというんだね)」と言ったとか。ピアノでもオーケストラでもない弦楽四重奏でしか表わせない響きが、美しい形式に盛られて奏でられるとき、それを語るにはこのシューベルトの言葉が最もふさわしく、あとは黙って聴くしかないのでしょう。- ピアノ的美観 おわり -
2007.11.28
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私にとっての面白ネタを、少しづつくわえ込んでは取り上げているこのブログですが、ここ最近のご時勢を観ていると、とてもじゃないが好きなことを書き込む気分になれなくて、難儀しています。 電脳世界でだれもが、すぐに撤退できる仮想の全能感を味わっているあいだに、実体世界では本来全能とはいわないまでも、容易なことでは崩れるはずのない権威とか象徴が次々と壊れて、この国全体の構造の脆弱性が露呈している感じがします。 商品偽装にしても安部さんにしても朝青龍にしても、本来高い信用と権威を付加されて初めて成り立っているような立場の人やモノが、いとも簡単に壊れていく、あげくの果ては壊し屋のほうも自ら壊れていくというのは、一体何なのかということなのですが。 お手軽な全能感を手に入れればすぐ分かることは、そうした全能感は満たされた瞬間にチリチリと焼け焦げて消えてしまうことで、たちまち次の渇望を求めて焦慮している自己の気分に気づかされます。これはどうも生命現象の基本的な振るまいに関係しているようで、DNAは個体がどれだけ全能感を味わおうが、それを完全に満たすという感覚には到らせないように仕向けているようで、個体は生命現象を灯しつづけるかぎり、焦燥感に常に駆り立てられるという仕組みになっているようです。 このあたりの根本的な渇望衝動のようなものに深く思索をめぐらせたのが、2600年前のインドのシャーカ・ムニで、生命現象の根本的な衝動を劫火に例えたのでした。絶えざる焦燥感の炎を消すには解脱しかないというのは、一面で生命衝動否定の要素を含んでいて、彼はその危険性とそれを人に伝えることの困難さに誰よりも気づいていたのです。 さて、お手軽な全能感を仮想の電脳空間で手に入れた日本の社会というのは、同時に実体社会の権威や信用に対しても相対化して壊れる(剥がれる)ものとして見る眼をあたえたのですが、その思考過程はまことに浅はかで、今どきのマスコミの立ち居振るまいや見識は、ゲーム世界のキャラクター程度のレベルでしか物事を判断しない、あるいは判断できなくなっているとしか思えません。 個々の知能のレベルではなく、その総和としての社会や組織が物事を見究め考え抜くという手間を、ゲームのようにすっ飛ばして省いているようにみえるので、それこそがここ最近の社会構造の脆弱性ではないかと思ったりもします。 朝青龍のときに「解離性障害」だの、安倍さんのときに「機能性胃腸障害」だの、何か分かったような専門用語を貼り付けて、ことがらを片付けて一丁あがり、この間に誰も何も分析し考えるということをしていないのです。社会構造の脆弱化とは、ものごとを見詰め分析し考えるということをしなくなった社会のことをいうので、例えば夏目漱石は「悩む力」を持っていたと云われますね。今どきの社会は「悩む力」を失った時代にあるようです。 タフな「悩み力」?を支えているのは、たぶん人を取り巻く堅牢な文化や習俗のようなもので、漱石の時代にはごく自然であった漢文の素養や、司馬さんの時代に存在したとてつもない読書への渇望というのは、今どきの電脳社会ではとっくに失われ、薄っぺらなレッテルの貼り付けあい(パイの投げつけあいのような)で、ことがらを済まそうとするのは、やはり社会の脆弱さそのものを現しているとしか思えないのです。 ましてタフ・ネゴシエーターといわれた人が、党首を辞めるの戻るのの騒ぎ、辞めようと思った理由が「プッツンした」では、やっぱり日本は今不幸な状態にあると言わざるを得ませんね。 ボヤキの呟きばかりで、余計に気が滅入ってしまいそうです。何か楽しい話題を拾ってこないと、こんなブログやってられませんね、あ~あ!
2007.11.08
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