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コンビニの弁当よろしく、それが賞味期限を過ぎていようがいまいが、日が変わればさっさと捨てられるように、生体を構成するタンパク質は、エントロピー増大(無秩序)の脅威から、前もって生命秩序を守るために片時もなく消失と生成の作業を繰り返しているようで、そのスピードは私が細胞の分裂などで漠然と想像していた、まだら模様の変化なんてものではなく、はるかに早い(Dynamic)。そのイメージはまさしく川の流れに現われる渦や澱みの映像に近いので、生命現象とは福岡さんの言われるとおり―― 動的平衡(Dynamic Equibrium)にある流れそのもの ――としか言いようのないものなのかもしれません。 ところで、私は知らず知らずのうちに「生命とは何か」という命題を、「生命現象とは何か」という言葉に置き換えているのに気がつきました。現象(振るまいかた)をどこまでも追いかけて分析していけば、今どきの分子生物学はすべての生命現象を物理化学の記述で説明してしまいそうです。またそれができるという前提で突進しているように、この本を読んでいると思えてくるのですが、そういえば例の利根川進さんはかつて「精神活動はいずれすべて脳内物質のはたらきで説明できる」とかおっしゃってましたね。 この福岡さんの本も、後半になるとご自身も携わっていた、すい臓細胞からの消化酵素タンパク質の分泌プロセスの話が出てきて、生命現象が起こす細胞膜の陥入過程の分析の話は、例の生命のホメオスタシス(恒常性維持機能=内部と外部の峻別)ともからんで、とてもスリリングかつ詳細になってきます。私たちのような素人に理解できるように説明するのは、これぐらいが限界かなとも思えてきます。 細胞がDNAの情報に基づいて(DNA=核酸は情報の維持と伝達の受け持ちで、実際に体組織をつくるのはタンパク質)、細胞内で作り出した消化酵素は、宇宙船のエアロックのように、人為的?に作られた外部環境(小胞体)にいったん入ってから外部に開く(細胞膜が開く)。外部に細胞膜を直接開く危険を回避するためのプロセスは、生命現象の精妙さを示して余りあるのですが、科学者たちはそこに留まることをせず、細胞膜がなぜ風船をこぶしで押しつけるように内部に陥入するのか、という過程を厳密に化学変化の記述で説明しようとします。そこにはどうやら細胞膜のpHの分布変化がからんでいるようなのですが、理系の物事の現象をどこまでも理づめで解析していく過程というのは、文系のはなはだアバウトな頭ではしんどいで話ではあります(お疲れさんでしたなあという感じ、失礼!)。 終わりのほうで、すい臓細胞の細胞膜を形成するカギを握っていると思われるタンパク質(GP2)を、あらかじめ遺伝子操作によって造れなくしたマウス(ノックアウトマウス)の実験の話が出てきますが、叩いても叩いてもノックアウトされないマウスを見て、福岡さんは生命は機械の部品ように静止したものではなく、生まれた瞬間から時間の相のなかにあって、片時も停止することがない動的平衡状態にあるからこそ、ノックアウトされないのではないかと示唆されて締めくくられています。 結局、生命現象とは何かではなく、そういう生命現象をもたらしているのは何か?生命的秩序とは何か?という根本的な命題というのは、科学的解析だけではたして解答可能なのかという、大きな肝心な疑問に突き当たってしまいそうです。 この本の途中には、示唆に留まっていても大いにこちらの想像力を刺激する記述が、あちこちに仕掛けてあって、例えば周期的な細胞分裂をコントロールする生物時計(体内時計)の核心に、きわめて正確なリズムで合成と分解を繰り返すタンパク質の存在があるなどといわれると、結局生命的秩序というのは、根本的に化学物質の反応に基づいているに過ぎないのか、という気さえしてしまいます。例のR・ドーキンスの生物=DNA生存機械論と似ていて、何となくうんざりしてしまうのですが、それはこの本の値打ちとは何の関係もありません。 私はこうした多様な想像力を刺激してくれる本が、大好きです。―― 父から電話があって、例のテレビ電話をSETUPしてくれというので、見に行ったのですが、先月苦労してインターネットでさぞかし便利で面白かろうとSETUPしたGoogle Earthや青空文庫やWikipediaといったアプリケーションは、すべからくデスクトップから削除されて、残っているのは通信囲碁のアイコンだけ、この人の頭はいくら叩いてピースが剥がれ落ちても、囲碁だけは特化して残り続けるみたいです。―― おわり ――
2007.09.21
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エントロピー(Entropy)とは、熱力学における「乱雑さの尺度」とされ、どんな種類のエネルギーも最終的には熱エネルギーに変換され、どの種類のエネルギーにも変換できずに再利用が不可能になるということを示した「熱力学第二法則」を「エントロピー増大の原理」として、統計力学や量子論あるいは情報理論にまで援用されるようになりました。 E・シュレーディンガーによれば、水槽にインクを垂らしたとき、かき混ぜたり加熱しなくても、最終的にインクは水槽全体に一様に拡がって運動を停止するようにみえる。これはインクの粒子に水の粒子がでたらめに当たることを繰り返すことで、結果的にインクの粒子全体が一様に拡散していくことを表わしているので、すべての物理現象は秩序ある地点から乱雑な方向へ一方向に向かってすすみ、乱雑さが一様になったとき(エントロピーが最大になったとき)に一連の物理現象が止まる(熱力学的死)とされます。 すべての物質はこのエントロピー増大の系から免れることはできないわけで、もし細胞が水分子と同じ大きさなら細胞はたちまち乱雑さへの道を歩んでしまうことになります。E・シュレーディンガーのプリミティブな問いかけ「ヒトはなぜこの大きさでなければならないか、逆に原子はなぜこんなに小さいのか」というのは、ヒト(生命)が分子のエントロピー増大の影響から免れるためという示唆を導くためでした。 福岡さんによれば原子の直径は1~2オングストローム(1mの100億分の1~2)、細胞の直径はその30万~40万倍ということで、それを構成している原子の数はそれこそ天文学的数字となります(ちなみにヒトの大きさは細胞の何倍になるのでしょうか、ヒトを構成する細胞の数は60兆個といわれますが、ヒトの直径を仮に1~2mとした場合、皆さんは計算できます?) 私の文系的想像力では、細胞も分子も目に見えないほど小さなものは、すべて同じ振るまい方をしているだろうくらいにしか考えないのですが、この本を読んでいると原子は素粒子の系、細胞は生化学の系、ヒトは情報の系でそれぞれまるで別個の振るまいをしているようで、現代の分子生物学は生化学の系を素粒子レベルの振るまいかたで説明しようとしているように思えてきます。 R・シェーンハイマーの実験は、まさしく生命現象を分子レベルで説明しようとした嚆矢だったので、はからずもE・シュレーディンガーが示唆した「生命現象とはエントロピー増大の法則から逃れようとするシステム」という命題に対して、生命を構成する数多のたんぱく質を、物理的プロセスのエントロピー増大よりも速やかに捨て去って、新たなたんぱく質を生成し、捨て去った部位にはめ込んでいることを立証することで、一つの解を得たのでした。 ―― (生命という一つの)秩序は(それが)守られるために絶え間なく壊されなければならない。 ―― (同上)という言葉はとても示唆的です。 ところで、たんぱく質とは20数種類のアミノ酸が何百何千と(天文学的順列組み合わせで)つながってできた高分子なのですが、生命現象というのは今どきのコンピュータと似ていて、あるたんぱく質が具合悪くなったとき(活性酸素とか紫外線とかで)、悪くなった部分のアミノ酸を取り替えるのではなく、そのたんぱく質全体をバッサリと捨てて原子レベルからいちいち組みなおす。そうして組みあがった、サラのたんぱく質をジグソーパズルのピースよろしく特異的に決まった欠けた部分にはめ込む。 どうやら私たちが日常食する食べ物は、エントロピー増大の無秩序状態から逃れるため、先回りして片時もなくパラパラと欠け落ちていくたんぱく質を、修復し穴埋めするために使われているようで、何だかWindows98当時の最適化の画面を想像してしまいました。 そういえば、私の祖母が死ぬときも5日前ぐらいから食事をしなくなったのですが、その途端に急速に無秩序状態が進行したのですね。ヒトの死とは生命的秩序が維持できなくなったとき、すなわち熱力学的にも死なのです。― つづく ―
2007.09.19
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私のような門外漢のうろ覚えの知識では、生体はタンパク質(Protein)でできていて、その体を動かす燃料が炭水化物(糖質Carbohydrates)、燃料の貯蔵庫が脂肪(Fat)という程度にばくぜんと考えているのですが、もちろん近代の生物学は極めて厳密かつ合理的な解を求めて、はるか彼方にまで突き進んでいるようです。 逆にいうと、そうした最先端の科学を、一般に分かりやすく紹介してくれる本はありがたいので、優れた科学解説書はヘタな小説よりも想像力を刺激してくれる。この「生物と無生物のあいだ」はそういう種類の本です。科学の専門書が素人にとって、どういうものであるかというのは、例えばWikipediaの「分子生物学」を見ていただいても明らかで、要するに頭が痛くなるだけで、想像力を喚起するというようなことはない。まあこれは百科事典や専門書が正確な記述を旨とする以上、止むを得ないことで、だからこそ科学の解説書には優れた散文の記述力が要求されるのです。まあ中には竹内久美子女史のように、ご自身の文章力に酔っ払ってしまって、かえって科学的信頼性に?が付くような文章もあるのですが。 さいわい福岡伸一氏は、ご自身がアメリカで最前線の分子生物学に携わっていたこともあって、自身の文章力に頼りすぎずに、いかに素人に分子生物学の現状を、分かりやすく正確に伝えるかに意を砕いているようにみえます。 ところで、前にも触れたことがあるのですが、ヒトの身体というのは約60兆個の細胞で構成されていて、その細胞は組織ごとにまだら模様に更新されている、とくに外部と直接接触している皮膚や腸などはしょっちゅう最新の細胞に入れ替わって、衣替えを繰り替えしているというのですが、私のうろ覚えの知識ではその細胞の更新のカギを握っているのがDNAでありました。 ワトソン、クリックの有名なDNAモデルは、あまりにもその構造が美しく、さらに自己複製機能をおのずから示していたことから、生物の定義として「自己複製機能を有する」ということが云われてきたわけですが、ではウィルスのようにDNAだけを有していて、代謝機能や細胞構造を持たない構造体ははたして生物と言えるのかどうか。 まあそれはさておき、私たちはこの逆向き二重らせんモデルが折りなす、精妙な複製機能を理解することに眼を奪われて、これがその後の生物学や思想に与えた意味をあまり考えることはしませんでした。大づかみで言うと私たちは、このモデルによって生命現象が、いずれ物理化学的な理論と検証で、すべて記述できるだろうということを知ったわけで、福岡さんによれば、それはワトソン、クリックのDNAモデルが発表されるおよそ十年まえに、量子力学の理論物理学者だったE・シュレーディンガーが示唆していたことの実現でもありました。もうひとつは生命が宿す相補性という構造の性格です。 分子生物学というのは、いうなれば生命活動の振る舞いを細胞や遺伝子レベルでなく、遺伝子やタンパク質を構成する分子や原子レベルで記述しょうとしているようで、この本ではじめて知ったR・シェーンハイマーの行なった実験の意味するところは、私には大変新鮮でした。 詳しい中味は本編をぜひ読んでいただくとして、かんたんにいうと私たちが日常食べる食物というのは、タンパク質や炭水化物として、そのまま体に吸収されるのではなく(植物由来、動物由来のタンパク質は、ヒトの体の部品にはそのままでは使えないのです)、分子レベル原子レベルにまでいったん粉砕されて、一から(原子レベルの部品から)ヒト固有のタンパク質をそのつど再構築しているというのです。しかも通常私たちの感覚では、食物というのは大半が日常活動のエネルギーとして消費されていると思いがちですが、実際は大半がタンパク質として体組織の構築に使用されているらしい。 福岡さんの示されるイメージは、人間の体とは浜辺に立つ砂人形のようで、一個一個の砂粒は海水に洗われ波に打たれて、しょっちゅう入れ替わっているのに、全体としての砂人形のかたちは変わらないというもので、これが例の動的平衡(Dynamic Equibrium)という、新たな生命観の提唱となります。 福岡さんの砂人形のイメージをもってしても分かりにくいのですが、たとえば渓流の流れに生じる渦や澱みのようなもの、川の流れは一瞬たりと止まることはなく、新たな水が流れ込んでいるのですが、その一箇所だけを見ていると、渦や澱みはいつも同じように生じている、中味は一瞬にして入れ替わっているのに、全体としてのカタチは保たれているように見える。この全体としてのカタチを保たせている仕組み(渓流の場合は水流の強さとか川底のカタチとか)こそが、生物を無生物と峻別する何かであろうとするのです。 何だかミステリアスな荒唐無稽の話になりかけていますが、それは私の話のしかたがヘタなせいで、この本の中味のせいではありません。 R・シェーンハイマーはさまざまな実験結果を総合して、―― 生命とは代謝の持続的変化であり、この変化こそが生命の真の姿である ―― 「生物と無生物のあいだ」(講談社現代新書)よりと結論づけています。 ではなぜ生命は片時もなく、変化を繰り返していかなければならないのか。そこで先のE・シュレーディンガーの指摘した物理学の「エントロピー拡散の原理(熱力学第二法則)」にどうしても触れなければなりません。― つづく ―
2007.09.17
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私の数多くない趣味のひとつが読書で、なにも教養とか自己啓発じゃなく、まぎれもなく道楽で読んでいるのです。世間では速読、斜め読みなどという乱読の方法を喧伝する向きもありますが、道楽を究めるためには読む本にも、読むときの体調にも相当気を配らなくてはいけない。 したがって読む本を選ぶときは、相当慎重になるほうです。また気に入った本は、しつこく繰り返し読むタイプです。商業論理からいうと、こういう読者ははなはだ消費行動の弱い、おいしくない客なのですが、50を超えて老眼が出てくると、新聞や雑誌でむやみやたらと眼と大脳を酷使して、かんじんのときの楽しみが半減するという事態は避けたいというのが本音で、どうしても新しい本よりすでに知っている作家を選ぶというように、安全保守的になってしまいます。 それでも年に一冊か二冊くらいは、まったく作家名も本の内容も知らないのに、題名と広告だけを見て書評も見ずに、衝動買いしてしまう本というのはあるのですが、たいてい裏切られて怒りとともに本を閉じるという結果になることが多いのです。 この一年でも例の「ダ・ヴィンチ・コード」などその筆頭で、怒りとともに思わずこのブログで罵倒してしまいましたね。その後題名の魅力だけで買ったのが「となり町戦争」で、これはなかなか面白かったのですが、このブログで取り上げたいという種類の本ではありませんでした。 さて今回取り上げるのは、福岡伸一氏の「生物と無生物のあいだ」(講談社現代新書)という本なのですが、このタイトル、昔、高校か中学生の時の国語の科学エッセイで見たような気がして、ちょっと気になっていたのでした。その作者の名は忘れましたが、要は「生物と無生物の境界は、ハッキリしているように見えて、実はウィルスレベルの話になると分からないことが多い」といったような内容だったと思います。 この本も同じようなテーマを、最新の分子生物学の研究成果をまじえて取り扱っているのかなと思って、書評が出るのも待たずに買ってしまったのですが、ちょっと予想した中味とは違った本でした。しかしそれは買う前の予断を裏切ったということで、怒っているわけではなく、むしろ予想を心地よく覆されたという種類のものだったのです。 予断の原因はこの本の無性格なタイトルと、表紙に巻かれた帯の変な推薦文にあるので、何か寺田寅彦のような美文体の科学エッセイを想像してしまいそうですが(ちょっとその気配もあるのですが)、実際は大学の講義ノートと読める節もあって、要するに分子生物学の科学史解説なのです。したがってその中には、すでによく知られたワトソン、クリックのDNA二重らせんモデルにまつわるDarkな話も出てくるのですが、門外漢の私たちには、むしろ分子生物学の学者で、これまで一般にはあまり知られていなかったO.エイブリーやR.シェーンハイマーの事跡を分かりやすく解説していてくれることで、とくにこの作者の新しい生物観を表現する「動的平衡(Dynamic Equibrium)」というキーワードにはとても惹かれるところがありました。 その話は追々していくとして、実はワンセットのジグソーパズルには、ひとつとして同じ形のピースはないということを知ったのは、この本だったのです。うかつなことですが、父のジグソーを毎日眺めながらも、その1ピース1ピースは端を除いて全部同じ形で、場所を決めるのはそこに画かれた図柄の断片だろう、図柄を推理してはめ込んでいくのだろうと思っていたのです。 実際父も含めてジグソーパズルのファンは、そうした分類整理の作業を楽しんでいるわけですが(何が楽しいのでしょう)、福岡さんの言うにはジグソーパズルにとって、そこに画かれた図柄はどうでもいいのであって(本質ではない)、1つ1つのピースは全部形が違うということでもって、一義的にその場所が決まっている、これを「相補性」というのだそうですが、このあたり本文を読んでもらったほうがよく分かるので、興味のある方はどうぞ。 この話、実はたんぱく質のかたちの相補性を説明するときに出てくるのですが、さしあたって私にはジグソーのピースのかたちが全部異なることによって、一義的に上下左右のピースを規定し、その場所を決めているということを知っただけでも、この本を買った値打ちがあったと思ったものでした。― つづく ―
2007.09.08
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理解できないままに利用するだけは利用しまくるというのが、今ふうの流儀であるようで、早い話携帯電話など利用すること以外に誰もそのしくみに関心を持つことはなく、次々と新機種に乗り換えていく。さまざまなメカ好きもこうした使い捨ての機器には関心を持たないでしょう。 これと同様にコンピュータも8ビットの電子のゲートの開け閉めや、2進法の演算の理屈から始まったパソコンの時代はWindowsの登場から明らかに変化したので、それが証拠にWindowsの仕様は明らかに仮想デスクや仮想通信、仮想商店街などを装って、いわば文系的仕様をほどこされて出てきたのでした。その装いかたがあまりにもうまくできていたので、Windows95はメカ好きの好事家の範疇をはるかに超えて、期待だけが相当先行する形で一般社会に普及しましたね(初めのころは文系の要求する振るまいかたをなかなかしてくれず、また今以上によくフリーズしたので、途中で腹を立てて止めた人も多かったようです)。 今はこの文系的装いかたも、よほど洗練されていて、デジタル・メカであることを日常の使用では、ほとんど意識させずに使えるまでになっていますが(とくに携帯は)、もちろんモニターのうしろには0と1の点滅する電脳空間が広がっているわけです。 父にとっていまどきの電脳空間にほどこされたこうした文系的装いは、すべて煩わしく余計なものであるようで、要はBasicで手作りでつくりあげたアプリケーションのほうが、ブラックボックスのWindowsのOSとそれに付加されたおびただしいソフトより愛着がある、つまり今のコンピュータはつまらないということになるようです。 というわけで、せっかくNETとつながった父のパソコンは、広大な電脳空間を天翔けることもなく通信対局のサイトだけと半ば固定的につながることになったのでした(それにしても2年間NETとつながっていなかったパソコンというのは最新版に更新するだけで半日もかかりましたよ、そのままでは危なくてつなげないんです)。 その父から昨日電話があって、パソコンにテレビ電話をつけることにしたと。対局者の顔が見え、話ができればいちいちチャットを入力する必要もないし、というのですが、私としてはもう勘弁してや、というところですね。閑話休題 ―― 、さて父の趣味にはさまざまあって、もちろんその一部は私にも色濃く受け継がれているのですが、絶対、私が受け付けなかった趣味のひとつにジグソーパズルがあります。これも半端な趣味ではなくて3000枚(ピースと言うんですか)5000ピースはあたりまえ、10000ピースとかになると出来上がりが畳ぐらいの大きさになって、毎夜家に帰ってくると座敷をひろびろと占領している。出来上がった作品?は裏貼りもせずに壁という壁に、かたはしから画鋲で留めるのですが、ご存知かもしれませんが、ジグソーパズルのピースというのはけっこう重くて二週間ほどすると、たわんでくるわけです。 というわけで父の家には、かつて落下して修復した巨大なジグソーパズルが、今も壁という壁を飾っているわけですが、よく見るとほとんどどこかのピースが一、二枚欠けている、歯抜け状態なわけです。父がなぜこんな趣味に陥ったのか、私には今だに理解できないのですが、それはさておき、この夏知ったことでもう一つのポジな話題というのは、このジグソーパズルと関係がなくもなかったのでした。 ひらたくいえば3000ピース、5000ピースのワンセットのジグソーパズルには、ひとつとして同じ形のピースはないということです。― つづく ―
2007.09.05
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さて父のパソコンは、人気だったApple2、とっくに消えたナショナルのマイコンキット(名前も忘れました)、さらには日電の9800シリーズ、それと並行してワープロの「文豪」を愛用していたのですが、Windowsに切り換えたときに、それまで大量に保管していたデータが互換できず、もっぱらゲームとしてしか使えなかったのが、Windows嫌いの発端だったかもしれません。 アップル・コンピュータというのは、いろいろな意味で当時の手作りのマイコンファンには、そのメカ好きの嗜好性をくすぐる要素に満ちていたようで、今でもMacintoshといえば、例えばホンダのようにメカ好きにだけ分かる(と思わせる)ようなテイストがあるようです。Windowsというのは、こうした好事家ではなく、最初から一般受けをねらって(パソコンを使いこなす云々は別として)登場したようなイメージがあり、もともとのパソコンファンにとっては、メカ好きの思考回路に意図通り応答しない(言うことを聞かない)、つまらないOSという印象がありました。 したがって理系の好事家の典型であった父にとっては、Windowsは98もXPもゲームをやる道具(その大半が囲碁ソフト)としての意味しかなかったわけで、その点ではNintendoとかPlaystationと同列の位置づけだったのです。 というわけで、2年前に買ったと思われるXP搭載のノートパソコンで、実際に使用している機能は、そのキャパシティの数パーセントという状態だったのですが、NETに繋ぐということで私が駆り出されるという仕儀に相成ったのでした。年老いたとはいえ、私よりは明らかに論理的な思考回路を備えている人間相手に、理屈を以ってインターネットの仕組みを一から伝えることは不可能で、はなはだ文系的表現で事を済ませようとする。 早い話が、インターネットとは情報の大通りで、ヤフーその他のポータルサイトは駅前の案内所みたいなもの、各ホームページは店で、その中に入るには云々…、電子メールは郵便ポストで、ここで個人同士の私信のやり取りをする云々…、メールを送るには云々…開けるには云々…、大通りは車や怪しい人間もいて危険なので、インターネットに繋ぐときは実際の外出と同じく、裸でなくちゃんとした服装をして(セキュリティを施して)、NETに入ること云々…といった具合で、そのいちいちに論理的な解説を求められても説明できるわけがない。 私の想像ですが、パソコン学校の先生やサポートセンターの美女諸嬢でもできないと思いますよ、少なくとも私は納得できる説明を受けた記憶がありません。彼ら(彼女ら)はもともと説明するようには訓練されていないので、主眼はあくまでツールの使い方と、当面の問題の解決だけをするように求められているように思えます。 今でもそうですが、パソコンの問題というのは使いにくさというよりは、エラーやフリーズが起こったときにどうやって解決するか、素人にはほとんどお手上げな状態になることで、かつてはそれで途中で放り出す人もいたのですが、今は理屈を勉強して解決するというよりも、原因の究明はそっちのけで再起動するか、問題のファイルを削除したり元の復元ポイントまで戻って、とりあえず動くようにしてある。 私のようなアバウト人間には、早く復元起動することが最優先なので(大半の人がそうですが)、とりあえず動けば原因などすぐ忘れてしまいますが、父のようなメカ好きにはたぶんこのほったからし状態というのは我慢できないことなのでしょう。 というわけで、分厚いマニュアルを取り出してきて、一から読もうとするのですが、横文字の用語にいちいち引っかかるうえに、眼が見にくくなっているので、結局私に質問してくる。こちらがはぐらかすと、業を煮やしてサポートセンターに電話するのですが、かえって混乱するばかりで(相手の諸嬢も大変だったでしょう)、通信対局どころかNETにつなぐだけで、一日の大半の労力を費やして寝込んでしまうという仕儀に相なるのです。― つづく ―
2007.09.02
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さて例によって私事で長く休んでいるわけですが、私事の中味にはネガとポジの二つがあって、ネガの話はしません、―― ポジの話は二つほどあります。 一つは私の父のことで、もう90歳になろうとするのに、何をトチ狂ったか今になって突然インターネットをしたいと言い出す。我が家は父方も母方も祖父の代から長生きの家系で、母方の祖父はやはり90歳を過ぎてから大阪の万国博を見たいといって車椅子をとりだして、家人を惑わしたことがあります。 私の父は以前にも触れましたが、長く学校で建築を教えていた典型的な理系で、何事によらず物事を根本から見直して自分自身が完全に納得しないと、いかなるものにも手を出さないという性癖があって(だから自分の家もよう設計しないという仕儀に到っているのですが)、パソコンに関しては60歳近くになってから何を思い立ったかAppleを買ってきて、自宅で勉強を始める。私の学生時代ですが、狭いボロ官舎の一角をAppleとその周辺機器類が取りまいて、毎夜分けのわからない図形を音をたてて描いていたことを思い出します。 さて父の不思議なのは、そうしてBasicの基本概念を理解したとなると、ピタリとそれ以上の関心を示さなくなることで、当時そろそろマニアの間で話題になっていたパソコン通信なるものには一切手を出さず、ワープロと表計算(及び手製テレビゲーム)のツールとしてのみ使っていたのでした(その使いかたは半端ではありませんでした)。 父のこの個癖はそのはるか以前にも手製ラジオの組み立てのときにあって、聴く目的だけのラジオの製作なら、その当時子供でも作れたのですが、一つ一つの部品がどういう振るまいをして、電波を受信しスピーカーから音を出すに到るのか、というようなことを確認しながらハンダ付けを行っていたような気がします(その結果としての手製ラジオの感度が良かったかどうかは別です)。同じ時期テレビの急速な普及が始まっていたのですが、父はどうもブラウン管というブラックボックスが気に入らなかったようで、一台めの白黒テレビが壊れてカラーに切り替えたときも、家人の予想に反してあまり関心を示さなかったような気がします。 同様のことがらがパソコン通信の分野でもあったようで、CobolだのFortranだのから始まった父の電脳の概念理解はBasicで停止して、DosV以降の展開には無関心でありました。したがってWindows95が登場したときも基本OSがブラックボックス=理解不能であることで手を出さなかったようです。 それが20年近くなって急にパソコン通信を指向したというのには、さすがに脳細胞が半減して自身の神経ネットワークだけで、物事を判断するには間に合わなくなったということでしょうか?はたで見ていると自身の禁忌をはずすほど、今どきのインターネットは父の脳細胞を刺激するのかと思っていたのですが、母の話を聞いているとどうもそんな難しい議論ではなくて、囲碁の通信対局がしたいというのが本音だったのでした。 足腰が相当弱って、外出時には両手にステッキを携えて、まるでノルディック・スキーのようなスタイルで、それでも碁会所にフラリと出かけてしまう。母としてはたまったものじゃないのですが、パソコンの囲碁ソフト相手ではどうしても欲求不満が残るというのは、致し方のないところです。 ゲームとしての囲碁ソフトは相当強くなったとはいえ、チェスや将棋のようにプロとほとんど対等に戦うというようなレベルには程遠く、自称アマ三段の父もパソコンに5目置かせて、白番200目以上の勝ちを繰り返すのであれば、物足りないでしょう。父の今の打ち方は横で見ていると、パソコン以上にほとんど考えてないように見える、形骸化したアマ三段の打ちまわしでもパソコンソフトは歯がたたないのです。 ところで父は、同じような振るまいを碁会所でもやっているかのごとくで、近所の同好の士がウンウン長考に及んでいるのを尻目に、勝とうが負けようが、ほとんどノータイムで打ちまわす。本人に言わせると、考えるのがめんどくさくなっていると云うのですが、これは相手に対して相当失礼なのかもしれませんね。 そこでというわけではないのでしょうが、出かけなくても人とできる、新たな手合いとして通信対戦が出てきたのですが、いざネットに父のパソコンをつないだら、どういう仕儀になったかというのが、今夏の私事のてん末の一つであります。― つづく ―
2007.09.01
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