全8件 (8件中 1-8件目)
1
これは厳密に言うと、ブラームスの音楽を聴いて感動したというのではなく、ブラームスももちろん含んでいるのですが、それを奏する指揮者とオーケストラ、そして女性ソリスト、そしてそれを聴く(見る)私との関係性で立ち昇ってくる感動であって、これはレコードで音楽を聴くときの感動とは別のものです。 レコードは一回限りであるはずの音楽という出来事を、永遠性に閉じ込めたパッケージで、そこから出てくる感動は自ずから生の一回限りのライブとは異なります。このあたりカラヤンは充分意識していたので、繰り返し聴くに堪える完璧な響きを求めたのでした。しかしそれは同時にライブの音楽の中味も変質させたので、彼の音楽はライブで聴いてもレコードで聴いても、いつも同じ感じがしたものです。 こうなると何もわざわざコンサートホールに出かけなくてもいいじゃないか、という話に当然なってくるので、高いチケットはカラヤンの美形を拝むためにいくようなものでした(彼はそれも多分に意識していました)。 当時から私の周囲には、熱狂的なライブ派がクラシック、ロック、フォークを問わず居りましたが、そのころの私は一回限りのライブに高いチケット代を払う神経が理解できず、同じ代金でLPなら10枚以上は音楽が聴けるのにと思ったものです。今は別の考えを持っています。 というより、このブラームスのコンチェルトを聴いて衝撃を受けたのです。それまで、ともするとクラシック音楽をLPで聴いていると(とくにマーラーやブルックナーは)、感動もするが、妄想がとてつもなく肥大化して、うんざりしていたのですが、ライブでの感動というのは、いくら感動しても自己肥大化するということがない。その中味が曲と演奏家と聴衆の関係性で成り立っていて、コンサートホールにいる全員と一回限りの共有の時間を味わえるのです。 それを知らせてくれた、かの女性ソリストには感謝しているのですが、よく考えてみればレコードが登場する以前は、みんな音楽はライブで聴いていたのですね。 今や私たちの世界は、音楽はCDに、演劇は映画やテレビやパソコンという動画保管庫に、食べ物は冷蔵庫とレトルトパウチでパッケージされ、身のまわりから時間というものを奪ってしまいました。いつでも好きな時に、モノが手に入るということは、逆に生きた時間とは永久に出会えないということなのです。 それまでライブの演奏を聴いても、その解釈だとか音質だとかテクニックだとか、レコードの聴きかたの延長でしか、コンサートには行かなかったのですが、彼女のヴァイオリンを奏する美しい背中を眺めていて、それまでの音楽を聴くという行為から、本来の意味で音楽を享受するということが、どういうことなのか、曲が進行するにつれて確信に変わり、歓喜に似た気分が沸き起こってきたことを思い出します。 コンチェルトというのは、基本的にソリストを惹き立てるために作られているので、いかにも華やいでいてコンサートでは映えますね。ところが先にも言いましたが、ソリストが女性の場合、本人の意思とか考えとは関係なしに、男が聴いていると、どうしてもけなげに見える(まあタイプにもよります、M・アルゲリッチなんか男みたい)。 これは一回限りの共有の時間という舞台設定もあるのでしょうが、男のソリストならまず感じないであろう種類の感触です(早い話、男の演奏家にけなげとか、いじらしいとか言ったら失礼でしょうが)。 私はどうもこのあたりに「女性なるもの」の本質を見るのです。 ― つづく ―
2007.03.27
コメント(0)
「華」について フィギュアスケートを見ていて、久しぶりに興奮してしまいました。もちろん昨年のトリノの荒川さんの快挙とは、比ぶべくもないのですが、去年の感動と興奮の何ぶんかでも、ありありと蘇ってきて、楽しかったですね。 それにしても1位になった安藤美紀さんも、去年の屈辱を跳ね返しての世界一は、立派だし価値が高い。むしろその立ち直りの早さに驚いてしまいます。まあ今回のグランプリシリーズでは、昨年とは別人かと思わせるような体のキレがあって、改めて彼女を見直してはいたのですが。 とはいえ、やはりフィギュアスケートは女子のスポーツだな、と改めて思ってしまいます。スピードやスピン、ステップのキレなど男子も面白いけれども、スポーツアスリートとしての能力にプラスして、美的要素が加味されるフィギュアは、やはり女子のスポーツですね。早い話がこんな優雅なコスチュームを着てプレイするスポーツは他にないでしょう。 ところで、2位になった浅田真央さん、技術的には世界一であるうえに、最近は優雅さも加わって、この人の竹トンボのように高くてブレないトリプルアクセルを見ていると、彼女はどこまで伸びるのだろう、と思ってしまいますが、あとは経験を重ねることと、ケガ、体調管理だけですか。 ライバルの韓国のキム・ヨナさんもすばらしい技術と表現力を持っていますが、今回はちょっと体調が悪かったみたいですね。初登場したときから、真央さんの自信たっぷりな表情と姿勢というのは、これまでの日本人選手には、なかなか見られなかったもので(荒川さんもその点では、表情はうつむき加減でしたが、トリノではそれがかえって別次元のオーラを放っていました)、きっぱりした表情はおのずから陽性な華やぎを感じさせます。 というわけで、これまた勝手な想像をしてしまうのですが、何となく浅田さんはアメリカで人気が出そうな気がするし、逆に荒川さんはヨーロッパのほうが人気が出るかもしれない、と思ったりもします。 それにしても、日本の民放というのはアスリートに対するRespectというか、敬意が足りませんね。相手は世界一と世界二位のスケーターなのに、まるでアイドルかテレビタレント扱いで、見当はずれな質問を繰り返す。紋切り型の答えを無理強いしているからこうなるので、見ているこちらが恥ずかしくなってしまいます。安藤さんは四人めの世界選手権王者、浅田さんは二人めのトリプルアクセル成功者になったので、昨日までの彼女たちとは違うのです。 これは質問するアナウンサーやリポーターの問題というよりは、日本のジャーナリズム文化の貧困さを表わしているので、何事も視聴率を前提にした下劣な視点でしか、ものを見ない(考えない)組織の姿勢が危ないのです。みんな優秀大学の人ばかりのはずですが、ここで問題なのは組織の知的貧寒さで、「あるある」は何も「あるある」だけの問題じゃない、あっちにもこっちにもこれは「あるある」! ―― 閑話休題、 私が今回話をしようと思っていたのは、この女性の持つ「華」のことです。 昔、京都のコンサートホールでブラームスのヴァイオリン・コンチェルトを聴いたことがありました。もう独奏者の名前も忘れてしまいましたが、フルオーケストラがシンフォニックな第一楽章の冒頭を奏でたあと、その女性ヴァイオリニストが追いかけるようにffでヴァイオリンを弾きだしたとき、図らずも涙がこぼれてきて、我ながら驚いたことがあります。 ブラームスのこのコンチェルトはとてもロマンティックですが、内容的には決して悲壮なものではなくて、むしろ(ブラームスにしては)楽しい曲なのですが、それなのに心を強く揺さぶられるというのは、明らかに独奏者が女性であるからでした。早い話が、D・オイストラッフやH・シェリングのヴァイオリンでも、この冒頭の数音節で涙が出るということは絶対ないでしょう。 ちなみにこのヴァイオリニストが、すごい美女だったというわけではありません。私の座っていた場所は、オーケストラボックスの向かって右上、コントラバスの横で、ちょうど彼女を背中越しに見る位置だったのです。したがって彼女の顔は覚えていません(あとで名前も見たはずなのですが、顔がよく見えなかったと同様忘れてしまいました)。何だか怒られてしまいそうですが、このコンサートを聴きに来た目的が、別の曲だったせいもあって、不意打ちにあったような気がしたものです。 それでも美しいと思えたのは、100人からのフルオーケストラをバックに、女の子がヴァイオリンを奏でるという姿は、音楽の中味以前に無茶苦茶カッコいいのです。いうなれば、いじらしさとでも言うものでしょうか。 ― つづく ―
2007.03.25
コメント(0)
思想という意味を、思念とか言葉と捉えると、上の表題は意味を成さなくなってしまいますが、例えば生きることへの振るまいというようなものにまで、思想や論理の概念を拡げれば、植物にも明らかに思想や論理がありそうです。ただし、それらの思想や論理は動物界の人間とはかけ離れていて、通常人間は植物の言いぶんに耳を傾けることはなく、動物界の都合で、踏みつぶしたり、刈り取ったり、食べたりして、知らんぷりを決めています。動物界は文字通り「動く」という属性で、やたらと忙しいのです。 それでも、この動物界の周囲を取り囲んでいる植物界というのは、動物にとってたんに生存のための道具立てではなくて、はるかに動物界の論理を凌駕した思想を発しているのかも知れず、数万年前の種子が発芽したり、数千年にわたって同じ場所に生息している樹木などをみると、人間といえども一種の生物的な畏れを感じるのかもしれません。 ところで、数千年前から人間界に登場したゲームに、ご存知「囲碁」や「将棋」がありますが、「将棋」がさまざまの種類の持ち駒を駆使して、戦術的なシュミレーションゲームをするのに対し、「囲碁」の特色は一つ一つの石に区別がないうえに、一度碁盤に置いた石は絶対動かせないことで、より戦略的なシミュレーションゲームの印象が強い。 「将棋」がさまざまなアイテムを具備した王様=自分が、持てる小道具で敵の玉をやっつけようとするのに対し、「囲碁」はプレーヤーに仮託できる小道具(玉に当たるもの)は、盤面には存在せず、あるのは白黒の石のカタチだけです。それでも局がすすむにつれて、あきらかに優勢か劣勢か、あるいはどこに根拠があるのか、明瞭にカタチが姿を現してくるので、それぞれのプレーヤーの思想や戦略が盤面でぶつかりあって、一つの宇宙を築いていきます。 以前にも触れましたが、「囲碁」というのは対局ごとに、それぞれの小宇宙を形作っているので、白と黒の銀河団が衝突したり、妥協したりして、消滅や生成を繰り返します。 私には「囲碁」というゲームを考えついた人(中国の占星術から生まれたといわれますが、もちろん一人の人物の考案ではなく、おそらく数千年かかって、さまざまの人々の工夫の結果生まれたものでしょう)というのは、何か植物の生態を相当丹念に観察したんじゃないかと思うのです。 植物の思想(生き方の振るまい)には、明らかに顔や司令塔に該するものがなくて、葉や茎や根というのは、生存のための道具立て、動物で言えば内臓器官にあたるもので、私たちは毎日植物の内臓を眺めているようなものです(その意味で、花のつぼみが女性器に仮託されるのは、大いに理由があるのです)。ところがこの植物には動物でいうところの主体がない、どこを切ったり踏んだりしても、単体としての主体というものには到ることができないのです。 ところが、群体としての植物というのは、動物からみて、明らかに生存行動としての振るまいを感じてしまうので、それを意志ととらえるかどうかは別として、やはり一種の思想としか言いようのないものでしょう。昔、セイタカアワダチソウ(アキノキリンソウ)が在来のススキなどを駆逐するなどといって、おおいに騒がれた時期があったのですが、人間界の騒ぎとは関係なく、あれほどたけだけしくはえ広がっていたセイタカアワダチソウが、今ではおとなしくススキと共生しています。 古代人はこのあたりに、動物界の騒がしい生存競争とは異なった秩序感を見出したので、結果的に片方の植物が駆逐されることがあっても、それは動物界の食うか食われるか(勝った負けた)の論理とは明らかに異なる振るまい(思想)を感じたでしょう。それはより無機物(岩石や液体)の変化に近いもので、そこでは変化の結果が秩序か無秩序かという判定も無意味にみえる、動物界の勝った負けたの秩序の論理では、解決し得ない論理(思想)を認めざるを得ないように、植物は黙したまま厳然と、私たちの周囲にすっと以前から、生きて在るのです。 「囲碁」では先にも言いましたが、どこにも主体は存在せず、盤面の任意の地点から自分の宇宙を形作ることができます。さらには一つの宇宙を放棄して、別のところに新たに根拠を求めることもできるので、死んでいたはずの石がいつのまにやら生き返ったり、生きていたはずのが死んでいたりというのは、しょっちゅうおこるのです(というより生きているのか、死んでいるのかハッキリしないことのほうが多い)。さらにはそれらの論理を貫徹するのに、一度置いた石は絶対動かせないという原則も、なにやら植物由来の思想を反映しているような気がしてしかたがないのですが。 そういう意味では、最近の囲碁世界選手権に見られるような、勝負にこだわるあまりの、しどけなく激しい囲碁の打ち回しというのは、「囲碁」本来の持つ宇宙的静謐といったものからは、ほど遠く感じられてしかたがないのは私だけでしょうか?何だか40年ほど前の、たけだけしいセイタカアワダチソウの繁殖行動にも似ているように見えるのですが。
2007.03.16
コメント(0)
ところが、マーラーは技法的な多層性だけでなく、思想的あるいは心理的な多層性も合わせもっているので、これは言わば多層的な心理のStructureとでも言うべきものです。そこには当然個人的な心理の複雑性だけでなく、彼が意識せざるを得なかったユダヤ的な屈折した心理も多量に含まれているので、マーラーを最初に取り上げたのがワルターやバーンスタインなど、ユダヤ系の指揮者であったことからも、このユダヤ的心情を理解できなければ、指揮は不可能とさえ思われてきたのでした。 第9番でも第1楽章の多層的な表情とは裏腹に、あとに続く第2、第3楽章の度外れた諧謔とパロディー、何でこんな音楽に付き合わないといけないの、という類のレベル(この部分をすごいと思われる人は、私には正直言って世のオペラファンと同じく、相当の人だと思っています)ですが、暗い決別の音楽としての第4楽章にいたるまでに、どうしてもこのバランサーが必要だったのでしょうか?このあたりのユダヤ人に限らず(ショスタコービッチやバルトークでも)、西欧人一般に見られる諧謔性や執拗さは、私たちには到底入っていけない世界かとも思えてしまいます。 マーラー(1860~1910)は時代的な音楽技法を意識しつつも、客観的に理論立てることはせず、何よりも自身のEmotionを優先した(後期ロマン派の面目躍如たるところです)ので、音楽技法的なStructureの解析だけでは、彼の音楽は出てきません。彼の中心的な作品である歌曲と交響楽の境界もあいまいで、相互に出入りを繰り返しています。「大地の歌」では、どちらともとれる作品になっていて、おそらく彼にとってはどっちでも良かったのでしょう。 となると彼の作品の今日的価値というのは、彼のEmotionにどれだけ客観的なStructureを見出せるかということになってくるので、70年代にバーンスタインが復興させたについては、当時の現代音楽が無調性以後の行き詰まりを見せていた時代のタイミングとちょうど合っていたのでした。 しかし言わばユダヤ的情念の専売特許のような解析だけでは、マーラーの今日的意味というのはたいしたことはないので、今ではいろいろな国のいろいろな指揮者が、彼に取り組んでいます。その向かうところは、情念のみの後期ロマン派の「嘆きの歌」でも、知的な印象派的整合性でもなくて、情念の身体解剖図であって、はたして彼の見た美の地平線というのは、ほんとうにわれわれにも共有できるのか、ほんとうに彼はそこまで到りついたのか、まだまだ彼への関心は続くのかなという気がします。 何だか例によって、だんだん難しい話になってしまいました。難しい原因のほとんどは私の言語表現の拙劣さにあるので、これは私の頭のなかがキチンと整理されずに、混乱したままの状態であることの証明なのです。それでも、ともすれば後期ロマン派的に情念に偏した解説などを読んでいると、なんとなくマーラーが古びて見え、いま自分がマーラーを聴いている理由はそうじゃない、ではなぜ聴くのかということを、もう少し自分なりに解析したかったのでした。 実際に書いていると「美の論理」というものは、音楽であれ書であれLogicではなく、バラの香りのように明晰に嗅げるものなので、結局言葉じゃなく現物を享受するしかないのかな、と絶望的な気分になってしまいそうです。 それでも音楽の話は楽しい(やめられない)、機会をみて今度は私のもう一人のお気に入りのJ・シベリウスの話もぜひしたいと思っているのですが、はたして誰か読んでくれるかな?
2007.03.13
コメント(2)
多層的なSonorityとStructure 私は素人ですから、難しい音楽理論や楽理、楽典を論じることなど、もちろんできないのですが、素人でも本を読んで心を動かされることがあって、その感じた中味を自分の言葉で表わしたいと思うように、マーラーの音楽について私の感じていることがらを書いてみたいのです。したがって、ここから先は私の妄想的感想文になります(はじめからそうか?)。 それはともかく、19世紀末から20世紀前半にかけて、西欧のクラシック音楽の技法や理論は、極限的なほどに精密詳細化して、音楽家にとってけっして居心地の良い時代ではなかったでしょう。 むしろドイツ、オーストリアの周辺国で従来の音楽技法を駆使したすぐれた音楽家が現われましたね。チャイコフスキーやR・コルサコフ、ドボルザーク、スメタナそしてシベリウスまで、彼らはあるいは国民楽派として、従来の技法で充分にその才能を開花できるという幸福な作曲家たちでした(じつは日本のコンサートホールで、もっとも多く取り上げられる作曲家たちはここにいるのです)。同時代にドイツ、オーストリアのロマン主義とはまったく別の方向から、新しい音楽が現われました。フランスのドビュッシーなどです。これらは音楽というよりも印象派の絵画の手法に刺激されて生まれたもののようで、感情過多なロマン主義とは対極的な音楽ではありました(シベリウスは後に、これらの音楽を相当意識せざるを得ませんでした)。 クラシック音楽の存在理由は、現在に至ってむしろその困難は増幅しているので、先にも触れましたが、20世紀の音楽がコンサートホールで取り上げられることはまずありません。考えてみればモーツァルトもベートーベンも江戸時代の作曲家なのです。 第二次世界大戦後、さまざまに西欧音楽の見直し、あるいは再検討が試みられていて、バロックの復興や、古楽器、ジャズあるいはインドネシアのガメランなどの民俗音楽の導入なども、クラシック音楽の行き詰まりの打開策として試みられてきたのでした。 どの時代であっても、時代を超越した天才というのはありえないので、マーラーも同時代のウィーン楽派や世紀末的な爛熟の気分というのは、ずいぶん色濃く残しています。天才というのは時代を劃する仕事をする人のことですが、後からみるとその劃する歩幅は、ほんとうにほんの一歩に見えます。100年後200年後を予見したような天才というのは存在しません。 というわけで、ワーグナーやブルックナーを経た後の彼の音楽は、R・シュトラウスとならんで、多彩な楽器を用いて多層的なSonority(音色)を響かせます。その音楽技法は楽理楽典としても、たぶんその後の音楽家を刺激して止まないものなので、早い話がそれまで主としてヴァイオリンとオーボエ、その他の管楽器で醸しだしていた主旋律のSonorityはマーラーにあっては意味を成さず、それに加えて打楽器や鐘やトライアングルのような響きも渾然と一体化して音を奏でます。彼の音楽ではホルンもトライアングルも伴奏の役ではなく、弦楽5部や管楽器と等価の位置づけで、そのSonority(音色)を形作っているので、これを実際の音にするには従来の和声的概念を離れてSonority(音色)に対する鋭敏な感覚と堅牢な理論が必要になってきます。 マーラーの解釈に一つの概念を与えるのがこれで、今もっていろいろな指揮者がマーラーを取り上げる理由の一つではないかと思っています。例えばP・ブーレーズのような過激で、なおかつ堅牢な理論を持った作曲家兼指揮者がマーラーを取り上げるというのも、そのためでしょう。ブーレーズはドビュッシーを現代音楽の創始者として位置づけた最初の人ですが、その最大の根拠はドビュッシーのSonority(音色)に対する感覚であったでしょう。これはこれで囲碁ふうに言えば「一局」になるのです(彼のニューヨークフィル、ラヴェル「ダフニスとクロエ」など、以前の情趣とエスプリが横溢したクリュイタンスのとは対称的に、乾いた演奏でありながら、息を呑むほどに聴き手をうならせる、Sonority(音色)を精確に再現すれば、こうなるという見本のような音楽でしたね)。 ― つづく ―
2007.03.12
コメント(0)
その意匠の方向が、ひょっとすると20世紀は間違った方向にすすんでいたのかも知れず、それが証拠に20世紀のクラシック?音楽で今でも演奏される曲というのが、19世紀以前のに比べて圧倒的に少ない、という結果になっています。そこで「クラシックは滅んだ」などという声もちらほら聞かれるのですが、それにしては各地の(バブル期の箱物)コンサートホールは隆盛を極めているようにもみえるのはなぜでしょう。 私に言わせると、クラシックをもっと親しみやすくなどと、聴衆に媚びる必要はないので、本物を堅持してほしい、小説でも古典といわれる名作の入り口は、決して口当たりの良いものではないでしょう。クラシックをもっと広く一般にという声は、私が子供のころにもさかんに言われていたので、一般へのクラシックの浸透などという話は、40年たっても一向に変わってない状況を考えれば、私など恥ずかしくてよう言いまへん。 そんなことできっこないということは、みんな知ってるはずなんですが(古事記や源氏物語は言うに及ばず、鴎外、漱石でさえ読まない人のほうが圧倒的に多いでしょう)、大衆化という名の商業主義はクラシック音楽業界にも入り込んでいるのです。 これは何もクラシックの門を閉ざしてしまえ、と言っているのではなくて、口当たりを好くした古典の大安売りは止めたほうがいいですよ、と言いたいのです(どこでもそうですが、安売りで入ってきた人は、手もなく去っていきますよ。そしてありとあらゆる古典の山脈は、それとは関係なくそびえ立っています。近づくことは一向に拒まないけど、素手で取り付いたら痛い目に合うというのが、古典一般の特徴です。これで何となく賑やかになっているようにみえるのは、ビジュアル系にシフトした、今どきのクラシックの商業市場の手法によるものです)。閑話休題 ――、またまた悪いクセが出てしまいました。 マーラーは9つの交響曲のほか、交響曲に組み入れられている「大地の歌」と未完の第10交響曲がありますが、第9には当然ベートーベンへのオマージュと畏れがあったでしょう。 後期ロマン派の特色として、形式やジャンルを無視して、何よりも自分の感情を優先するというのは、マーラー以前にもブルックナーなどが典型としてあるのですが、マーラーはそれを極限にまで押し進めて、自ら封印してしまおうとしたようにさえ見えます。楽曲的には全曲の開始である第1楽章の偏重ぶりがそれにあたり、この第9番などもその典型で、内容的にも技法的にも輻輳した表情を持った第1楽章を聴かされると、あとにつづく3楽章が単色の表情に聴こえて、何だかオードブルの前にメインディッシュを食べたような印象を与えます。 それにしても、この第1楽章、一応ニ長調の2度の下降音程が、モティーフになって進行するのですが、形式としてのソナタ構成も調性も、はたまたモティーフの展開も、従来の楽曲技法の概念をはるかに越えて、ほとんど無調性の音楽に近づいているのですが、それでも間違いなくこの音楽はマーラーの響きなのです。言ってみればMajor Keyの悲哀といったところでしょうか(Major Keyの悲哀感はモーツァルトが得意でしたね)。 マーラー特有の葬送行進曲風の進行は、第2番の「復活」や(例のアダージェットの入った)第5番にもみられるのですが、モティーフにも過去の彼の響きが変形加工されて煩瑣に顔を出しているようです。しかしこれは彼の交響曲の集大成というよりは、決別ないし諦観の感じが強い、これほどに自分の過去の響きをを変形加工して、微細に表現するとなると、この楽章の作曲は相当しんどかったんじゃないかと思いますよ。 もちろん作曲に限らず、ものを新たに創りだすというのは、女性のお産にも似て大変だと思うのですが、それでも創造を繰り返すというのは、本来そこにそのつど新鮮な動議づけがあるからで、私は創造というのは一種の死と再生の儀式だと思うのです(ものを生み出すことで、過去の自分は死に、自身も新たな自分に生まれ変わる)。 聴きようによっては、この第1楽章というのは何だか死んだ子を揺り動かしているようで、いかにも辛い。ブルックナーやストラビンスキーも過去の自身の作品をしょっちゅう手直しした作曲家ですが、手垢がつきすぎると最初に生み出したときの新鮮な感触というのは当然失われてしまうものです。 突然下世話な話になって恐縮ですが、営業などでも最初の旬な時間が勝負で、再訪を重ねるのはしんどいでしょう。優秀な営業マンとは再訪以降も旬な感覚を、自分にも客にも維持できる人です。これは別の話かな。 第9番第1楽章の面白味は、それでも終わりまで聴いてしまえることで、そのほとんどの魅力が、過去のモティーフとか形式とは関係なく、音の塊りとして全体が新鮮に聴こえることです。 これはひょっとすると優秀な営業マンの感覚と似ているのかもしれず、再訪してきても常に新鮮な話題を持ってくる。新たな話題や情報なしに何度でもやって来られると、しつこいだけ、しんどいだけという事になりかねないのですが、不思議とそういう人には会ってみようという気にさせるのです。しつこさが、知らない間に熱意に転化する、やっぱりそういう人はよく勉強してますね。 無茶な例えをしてしまいましたが、マーラーが今だにいろいろな指揮者やオーケストラに取り上げられるというのは、たぶんまだその響きの中に新鮮な発見を見出せるからで、それがあるかぎり聴衆も離れないでしょう。 これほどに暗く、執拗でしんどいにもかかわらず、また聴いてみようと思わせるのは、彼の作り出した(見い出した)響きのまだ半分も、実際のオーケストラの響きには実現していないからなのかもしれません。これは取りも直さず、彼が到り着いた美の地平線に、まだ私たちが遠くたどり着いていないのではないかということを表わしているので、まだまだ新解釈のマーラーは出てきそうですね。 ― つづく ―
2007.03.09
コメント(0)
音楽の話は楽しいのですが、音の中味を言葉で語るのは難しいですね。私の言いたいことは、実際の音をコマ切れでも20秒ぐらいずつ聞いてもらえたら、話はずっと早いのです。 というわけで、他のブログを覗いてみると、皆さんMP3などをピルトインされて、けっこう気楽に音楽を聴けるようにされてます。このあたり著作権はどうなのかなと思ったりもしますが、どなたか詳しい方おられませんか? いずれにしてもブログは、画像も音も活字も合体で表現できるので、便利だなとは思うのですが。 それにしてもマーラー、この巨大なる神経症患者のような音楽が、なぜ今でも人を惹きつけて止まないのでしょう。第一次のブームは70年代でしたか、L・バーンスタインが巻き起こしていましたが、この神経症的な響きを高いお金を出して演奏会場で大オーケストラで聴かされるというのは、考えてみれば相当しんどいはずなのです。 マーラーの同時代の19世紀末から20世紀初頭というのは、オーケストラの技術が極度に高度化した時代で、今日のオーケストラの形は基本的にこの時代のものです(マーラー自身も生前はむしろ指揮者として有名でしたね)。作曲技法も同時代に高度化多様化して、R・シュトラウスや、ストラビンスキー、あるいはバルトークやシェーンベルク、ウェーベルンまで含めると、ベートーベン以来の古典的オーケストレーションは、ここにきてほとんど解体されたように見えます。このなかで今でも、さかんに演奏会に取り上げられたり、CDが出ているのはマーラー、R・シュトラウス、ストラビンスキー、バルトークといったところでしょうか。以後の現代作曲家の音楽は、武満やショスタコーヴィッチの一部の音楽を除いて、世界的にみてもほとんど取り上げられません。聴衆とオーケストラと指揮者が一体となって堪能できる音楽というのは、マーラー以後失くなってしまったかのようです。 このあたりは考えるに値する問題で、巨大化し詳細かつ精密を極めた解剖図のような音楽であっても、マーラーは自身の解剖図を音楽にしたので、機械の図面を音楽にしたわけではありませんでした。他の作曲家の音楽が機械のようだという気はありませんが、12音技法や無調性音楽、あるいは偶然性音楽などと言われてしまうと、音楽に本来付着していたはずの身体性が失われてしまい、極論すれば、どれを聞いても全部同じに聞こえてしまうということはあるのです。 ところで、マーラーと同時代のR・シュトラウス、多才なオーケストレーションという点では、マーラー以上に達者な音楽を聞かせますが、同じような錯綜した音の塊りを聞かせながら、マーラーとはまったく違って聴こえます。このあたりR・シュトラウスは、こうやったらどうだろう、ああやったらどうだろうと、いろいろオーケストラをいじったり、新しい楽器を作ってみたりと、19世紀的な発展史観を楽天的に取り入れていた人のようで、その意味では音楽技術的に自信のある指揮者やオーケストラなら、一度は挑戦してみたい作曲家ではあるでしょう。 しかしその音楽は彼の身体とは無縁のところで響いているので、そうした意味でも彼が交響楽や純器楽曲から急速にオペラに傾斜していったのは、ごく自然の成り行きではありました(彼の同時代のオペラ作家が例の「トゥーランドット」のプッチーニです。ちなみに「アイーダ」のベルディと同時代はワーグナー)。彼は音楽家として長生きしすぎたみたいで、ドイツの敗戦を経験して、はじめて自分を吐露した音楽を書いていますが、それはすでに古色蒼然たる意匠の音楽でありました(それでも48年の「最後の四つの歌」はすばらしいのですが)。 後期ロマン派のわが身の身体解剖図のような、いわば押しつけがましく、しどけない音楽は、20世紀の初めに忌避されたり再検討されたりして、上のような仕儀となったのですが、100年後の今になっても聞かれている音楽というのが、濃厚に身体性を残した最後のロマン派と思われていたマーラーであるとすれば、このロマン性の中には、たんなる押し付けがましいしどけなさではなく、やはり今日的な意味合いが含まれているのでしょう。 ストラヴィンスキーやR・シュトラウスは音楽技法的には革新的な仕事をしましたが、今聞いてみると少しも新しくない(何も彼らをクサしているわけではありません、どちらかというと好きな作曲家です)、むしろベートーベンの「大フーガ」や「ハンマークラヴィーア」あるいはバッハの「シャコンヌ」のほうが、私の場合は新鮮に聞こえる(これは私の勝手解釈)、こうなると音楽技法の発達というものは、音楽の本質的な新しさを示すのではなくて、その意匠に過ぎないとさえ思えてきます。 ― つづく ―
2007.03.08
コメント(0)
LPレコードが駆逐されて、CDが登場して以来、20年以上そのお手軽さ加減に嫌気がさして、クラシックからは遠ざかってしまった私ですが、たまには古いLPやビデオを引っぱり出しては聴いてみます。 ここのところのビデオ録画の技術は、音響のほうでもすごい発達をしていて、ハイビジョンのライブ録画など、昔のLPを凌ぐような音を聞かせます。ときどき気づいては自分の気になっている指揮者やオーケストラの画像を録画しているのですが、このごろはLPやCDよりもビデオで聴く(観る?)ほうが、多くなってきました。 ビデオのクラシックライブは、最近の私のビデオ試聴の中では、映画やスポーツの録画より観る機会が多くなっており、自分の嗜好性が変化しているように思えます。それにしても最近の映画はつまらないですね、一回は観てもまた観よう、ずっと残しておこうという気がしないのです。スポーツはライブの同時参加でこそ意味があるので、長く残して繰り返し見るという録画の主旨とは、そもそも相反する性質があります(私にとってはトリノの荒川静香さんのFPだけが、長く残して繰り返し見るべき唯一のスポーツ録画です)。 そんな中で、小澤征爾が2002年でしたか、ボストン交響楽団との「お別れ演奏会」で指揮したG・マーラーの「交響曲第9番」は私のクラシックライブラリーの中でも、お気に入りの一つです。 私のビデオライブラリーは、初めのころは当然映画が主体だったのですが、C・アッバード、ベルリンフィルの「復活」のライブが、ことのほか音も良く、例のカラヤンのビデオのような嫌味もなくて、クラシック録画の価値を見出したのでした。それまでクラシックの録画については、LPの最高度の録音技術を聞きまくっていた身としては、どうしても音響的な不平がずうっとあったのですが、アッバード、ベルリンフィルのは画質音質とも、それまでの私の先入観を覆すほどの出来で、これなら(タダだし?)残しておくに値するかなと思ったりもしました。 こうして私のクラシック録画が始まったのですが、そうこうしているうちにLPのときとは違った聞きかたをしている自分に気づいたのです。 簡単に言えば、沈思黙考してヴァイオリンやオーボエの一音一音を聞き逃すまいとしていたLP時代と違い、指揮者やオーケストラの画像を見ることで、ずいぶん音響に関しての、私の閾値が低くなったような気がするのです。そしてよく考えてみれば、音楽を聴くとは、そもそも会場でナマの演奏を、積極的に見るという要素があったはずで、レコード音楽というのはひょっとしたら随分いびつな音楽だったのかなと思ったりもしました。 視覚と一体の音楽は、それまでLPで音だけで聴いていた音楽とは、明らかに聞こえかたが違うので、そのぶんLP時代の極端に異音に小うるさい聞きかたをしていた自分が、不思議に思えたものでした。これは同時に音楽が与えてくれる感動とか、影響とかいうものが、たんに音だけではなくて視覚と一体となって迫ってくるものだということがわかってきたのです。 早い話が、以前にも言いましたが、尺八の演奏などライブで聴いていると、明らかに音が出てないのにも拘らず、演奏者が首を振っていると(尺八特有のバイブレーション)、音が聞こえているような気がする、横山勝也の海神道尺八の「産安」など、一種のバレエを観て(聞いて)いるようで、これは例の武満の「ノヴェンバーステップス」や「エクリプス」では大いに意識して取り入れられてましたね。 それはともかく、指揮者の振りやオーケストラのパフォーマンスを積極的に画像に残しだしたのは、ご存知カラヤン・ベルリンフィルなのですが、オーケストラを指揮するというよりは、音楽を指揮している(あるいは牛耳っている)という画像で、とてもじゃないが気持ちよく見ていられるという内容ではありませんでした(一つにはフィルムによる録画で、画質、音質ともオーディオファンにとっては、がまんができないような内容だったこともありますが)。 その点、小澤征爾はカラヤン流の見せる指揮者の系統の筆頭だと思うのですが、カラヤンのような嫌味がないのは、音楽に対する姿勢が多少カラヤンと異なっているからかもしれません。ひとことで言えば、カラヤンは音楽の頂点(作曲家もオーケストラも聴衆も)に立って指揮しているのに対し、小澤はオーケストラや作曲家や聴衆と等価の位置に立って指揮しているように見えることです。これは彼が武満などの現代作曲家と、積極的に交わっていることと無関係ではないでしょう。 このあたり、「黙って聞きなはれ」のカラヤンと違い、小澤の音楽には聴衆やオーケストラの気分が、多かれ少なかれ反映しているので、彼の人気はこのあたりかなと思ったりもします。 というわけで、小澤の2002年のマーラーは、オーケストラと聴衆の気分が一体となって、小澤の指揮棒に乗り移ったような音楽で、これをライブで聴けた人は得しましたな。 ― つづく ―
2007.03.07
コメント(0)
全8件 (8件中 1-8件目)
1