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「したいことをする」という言葉は、悟っていない人でも表面上は理解できる言葉です。ですから、わかった気になります。 でも、「したいことをする」と「自分を愛する」は同じことを別な面から表現している、という状態が見えるかどうかというと、悟った人にはそれがありありと観え、悟っていない人には、まったく別なことに見えているはずです。同時に「したいことをする」とは、「本当の自分として生きること」であり、「自分らしく生きる」ということでもあります。ここでは、「自分」というものについての理解がどこまであるか?という問題になります。 悟った人の自分とは、怖れを超えた自分であり、普通の人の自分は、怖れから逃れることを優先している自分なんですね。 悟るということは、表面上の理解ではなく、その奥にある深い理解に行き着くということでもあります。 深い理解にたどり着くと、それまで別のことに見えていたものがどんどん集約されて観えて来て、世の中の観方、人間関係のあり方など、どんどんシンプルになっていきます。 だから、悟りを開くと人生はシンプルで楽になるんですね。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Sep 25, 2006
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地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教松本智津夫被告(51)の死刑が十五日、確定したというニュースの中で、被害者とその家族が未だに恨みの気持ちを手放せないでいる様子が伝わってきました。 自分に不利益をもたらした相手を恨むということは、自分にとってどんなメリットがあるでしょうか? たいていは、恨む相手は身近で関係のある人のことが多いですよね。そういった場合は、「恨むということ」そのものではなく、相手に恨みの気持ちを持つ結果として、相手に対する態度も変わってきます。その結果、相手にも不利益を与えることができますから、恨むこと自体が相手に対する復讐になっているように誤解しがちです。 しかし、今回の松本智津夫被告の場合は何人が恨み、何人が許そうとも本人の現状には何の影響も与えません。 実際は、態度などの実力行使以外は相手が恨まれていることを気にしなければ、いくら相手を恨んだところで相手には何の影響もないのです。 むしろ、恨みを持ちつづけている限り、その人が幸せを感じることができないだけなのです。誰かを恨んだり、嫌ったりする心は、当の本人の心を痛めているだけなのです。 私たちの心を暖かくしてくれるのは、その本人が受け容れたものだけなのです。 無条件の愛とは、無条件の受容です。受け容れることだからこそ、愛は私たちの心に響いてくるのです。 どんな気持ちであれ、それは自分に向かうものなのです。 そうであれば、愛を選択することがいかに大切かわかりますよね。(^^) ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Sep 16, 2006
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私が悟りの状態についてよくたとえに出すのは、「悟りは螺旋階段だ」というものです。 これまで「はっぴーわーるど」というサイトを運営して多くの人と話をしてきましたが、「悟りを開くとまったく怒ったり悲しんだりしなくなる」と思っている人も多いみたいなんですね。 でも、そんな感情がなくなった人間なんて気持ちが悪いだけです。 ご存知のように、螺旋階段は現在の位置を0度として昇っていくと一階あがったときに360度回って、0度の位置に戻ってきます。ただ高さが上がっているだけです。 それと同じように、悟りを開くと、傍から見た目には、以前と同じように感情的になっているように見えるものです。 ですが、一般の人が感情的になるとき、囚われた観念を持っているので、感情に振り回されることになるのですが、(共依存の状態)悟りを開くと、すべてに実体(固定された姿)はないということがわかっているので観念を自在に持ち替えることができるので感情に振り回されなくなくなるんです。(自由自在)(自由とは自分に由ること、自在とは心のままであること) 感情はただとおり過ぎるものとなります。その感情を味わうことを楽しめるのです。 以前読んだ本に、栄西だったかの師が亡くなったときに、遺体にすがって大泣きしているのを周りの者が見て不思議に思って「あなたは悟ったと聞いたのに、どうしてそのように泣くのですか?」と聞いたそうです。 このように多くの人は誤解していますが、悟りというのは、生がただあたりの前の姿で表れて来る状態なのです。 腹が減ったら飯を食い、眠くなったら眠りにつき、悲しくなったら涙を流し、楽しかったら大いに笑う、飯を食ったら茶碗を洗い、客が来たらお茶を出し歓待する。 ただ自然のままに生きることなのです。 男なら涙を見せるんじゃない、とか、女のくせにそんなはしたないことをしてはいけないとか、身体が悲鳴をあげているのに無理をして身体を壊すまで働くとか、よく考えてみたら、それは社会の都合で押し付けられた「社会の構成員ならこうあるべき」という社会を維持する側の正しさに過ぎないのです。 そうではなく、自然にあるがままに生きることが悟りの境地なのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Sep 4, 2006
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