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私たちは、誰しも程度の差はあっても人間関係のトラブルにあいます。 その人間関係のトラブルを解消するためには、いくつか方法があります。1.その人間関係から逃げる(職場を変わる、やめるなど)2.強引に相手を自分に合わせさせる(権力などが必要です)3.相手との妥協点を見つけるために話し合う4.自分、自分の考えかた、自分の対応を変える ほかにもあるかもしれませんが、自分だけでできるのは、4番目の自分を変える方法です。 さて、自分を変えるという時、言葉で「自分を変えたいんです、変えます」と言いますがでも、「この場合の『自分』とは何か?」がわかっていないと何も決心していないのと同じなのです。 一言で自分といっても、肉体をさすこともありますし、魂をさすこともあります。 でも、この場合の『自分』とは、選択している基本的な考え方、もっと正確に言うと『意識の主体が選択している正しさ』なのです。 つまり、自分を変えるというのは、自分の中の正しさを変えるということなのです。 その決心がないと、いくら口で「自分を変えます」と言っても代わることはできません。 防衛機制で、自分の正しさを守ろうとすることに終始することになります。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jul 29, 2006
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これまで幸せを感じる生き方を多くの方に講演や掲示板、メルマガ、メールなどいろいろな方法でお伝えしてきました。 たとえば、「囚われないこと」「この世に絶対は存在せず、すべて相対的であること」「目的を明確にしないまま、いいとか悪いかと決め付けられない」というようなことを言いますが、これらは言い方は違ってもすべて同じことを説明しています。 そして、これを行動に移すと「すべてを受け容れる」「あるがままを受け容れる」「すべてを愛する」というような言い方になります。 ところが、メールなどで「いいとか悪いかと決め付けられないんですよ」と書くと「じゃあ、私が相手に対して、『それが悪いんだ』と決め付けてきたことが悪かったんですね」「私のほうが悪かったんですね」という言い方をされる方が非常に多い、というより最初はすべての人がそういう言い方をします。 読めば分かりますが、逆説的ですよね。(^^; このときに、目的をはっきり認識した上で言っているのならいいのですが、たいてい目的が不明確なまま話しています。 こうなると、「二極化の迷宮」に入り込んでわけが分からなくなってしまいます。 なぜそうなってしまうかというと、その人の基本的な考え方が「いいものと悪いものがある」「正しい間違いがある」「光と影に分けられる」というような二極化思考だからです。 一方、「(目的なしには)いいとか悪いかと決め付けられない」というのは、二極化思考と比べると、まったく新しい考え方になります。 この新しい考え方にシフトすることが、悟るということなんですね。 ところが、その新しい「いいとか悪いかと決め付けられない」考え方を二極化思考で考えて判断しようとするので、迷路に入り込んでしまうのです。 ですから、それを防ぐために、悟りとか愛を語るときには、師の教えに必ず従うこと、とか考えるのではなく感じなさい、とか正しいかどうかを考えるのではなく、そうしたらどうなるだろうかを想像しなさい、とか二極化思考を止めて、新しい考えを受け入れるやり方を取り入れています。 悟りとか愛とは、これまでと別の意識状態、思考パターンになることです。パラダイム・シフトした意識状態です。 目的を明確にすること。 それが意識的に行動し、迷路に迷い込まないためのポイントです。 幸せであること、ゆたかさを感じること。 人は満たされているとき、不足は感じません。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jul 22, 2006
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今朝、子供(高校生)といろいろと話をしていたら、学校で「ゆたかさについて」の小論文を書かされたという話になりました。 子供は、何を書けばわからず「ゆたかさは人それぞれに違う」という内容で書いたらしい。そうしたら、可視化にそうなのだけれど具体的に自分が思うゆたかさについて書くように、ということで書き直しをさせられたとのこと。 そうして、改めて「ゆたかさ」について考えてみると、自分でもはっきりしていないことに気づいたそうです。 そして、たいていの人はそうだと思います。 改めて「ゆたかさとは?」「幸せとは?」と問われても、答えられない自分がいることに気づくと思います。 つまり、多くの人は、ゆたかさやしあわせを追い求めていながら、自分が具体的に何を求めているのかを知らないということなんです。 だから、選択に迷いが生じるのですよね。 悟った人というのは、自分の目的をはっきり認識した人、気づいた人と言えます。 自分が求めているものをはっきりと知っているから、選択のときに迷わず選べるのです。 ちなみに、バシャールは、ゆたかさについてこう言っています。「自分のやりたいことを、やる必要のあるときにやること」(1-P61)「豊かさ」とは---、「自分がやりたいことを、やりたいときにできる才能」(2-P108) ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jul 22, 2006
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「ミュータント・メッセージ」を読んでいるとここに登場するアボリジニの生き方から愛を感じます。 その中のひとつ---引用開始 この<真実の人>族の行く手には必ず食べ物がある。彼らの祈りに宇宙はつねに応じるのだ。この世界は豊かなところだと彼らは信じている。私やあなたがだれかのピアノを聴きにいって弾き手の才能を讃えるのと同じように、彼らは心から自然のあらゆるものを讃える。行く手に蛇が現れると、それは夕食のために現れてくれたということになる。日々の食べ物は夕方の祝いの席の重要な部分だ。食べ物の出現が当たり前のこととはみなされないことを知った。まず天に向かって頼み、現れるのを望むとその通りになり、それを感謝して受け取って感謝の言葉をささげる。この部族はその日の調和、彼ら自身、彼らの友人たち、世界に対して感謝の言葉をささげることで一日を始める。ときには特別な願いごとをすることもあるが、そのときの言葉はこうだ。「それが私のために最高にいいことならば、そしてすべての命にとっていいことならば与えてください」(「ミュータント・メッセージ」P61P62)----引用終了 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jul 16, 2006
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夏休みも近くなりましたね。(^^) あなたは、この夏、どこかに旅行に行きますか? 旅行と旅って本来同じ意味なのでしょうが、ちょっと言葉からくるニュアンスが違うと思いませんか? 私にとって、旅行は、行った先で目的を果たすもので、旅は、旅そのものに何か求めるものがある、という感じかな。(^^) 『失われた過去を求めて』を著したフランスの小説家マルセル・プルーストにこんな名言があります。 真の発見の旅とは、(外側に)新たな状況を探し求めることではなく(自らが)新たな視点を持つことなのである。The real voyage of discovery consists not in seeking new landscapes, but in having new eyes. --Marcel Proust (1871-1922) あなたが今見ている世界はどんな世界ですか?憎しみや嫌な人や嫌なことがたくさんある世界?それとも、喜びや微笑があふれる世界? 今見ている世界がどんなものであれ、あなたが観ている世界をそうあらしめているのは、あなた自身の視点、基本的な考え方なのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jul 11, 2006
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基本的な感情は、愛と怖れの二つだけです。 愛と怖れは、受容と拒絶であり、あるがままと分離でもあります。 罪悪感は、 内に向かう怒りともいえます。要するに、私達は、自分自身に怒っているのです。 怒りとは、怖れの対象に対する攻撃です。 私たちは、自分に存在価値がなくなることを怖れます。つまり、怒りとは、自分の存在価値を取り戻す戦いなのです。 悲しみとは、自分の存在価値の喪失感です。よりどころを失った弱さ、怖れの表れです。 喜びとは、存在価値の確認、獲得の高揚感です。 私たちは、存在価値を感じるとエネルギーの高揚を感じ、存在価値を失うと、喪失感を感じるのです。 愛とは、エネルギーに満たされていることを確信している状態、怖れとは、エネルギーを失うかもしれないという想像が生み出す幻想です。 もし、大金が入った財布を落としたことに気づいたら、その瞬間、その金額は自分の頭の中では財産から差し引かれ、喪失感を味わいます。 たとえ、それが勘違いで、別の場所にしまったことを忘れていただけで、ちゃんと財布があったとしても、財布を落としたと確信した時点で、あたまの中ではその金額は財産から差し引かれ、現実に喪失感を味わいます。 私たちは、本来、エネルギーに満ちた愛そのものなのです。 分離していると確信することが、エネルギーの喪失を現実のものと感じさせます。 あなたが愛であるかどうかは、あなたが何を信じるかにかかっているのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jul 9, 2006
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私たちは、子供の頃から正しく生きるように教えられてきました。「正しく生きること」、それはもう私たちにとっては当たり前すぎて疑問の余地が無いほどにまでなっています。 ところが悟った人は、正しく生きることを放棄した人なのです。 この場合の正しさは、社会的な正しさです。 悟った人は、自分の正しさ、言い換えると自分の「好み」で生き始めるのです。 戦乱によって世の中が貧困にあえいでいた時代のお話です。 栄西禅師が建仁寺にいたとき、おそらく夫を戦乱の中で亡くしたかなにかで、もう何日も食べることもできずに飢え死にしそうな母子が物乞いにやって来ました。 栄西も食べ物やらお金やら与えたいと思っても、何しろ戦乱の世ですから、寺にも何も無い状態です。 ただそんな中でも仏像は日常生活とは別物ですから、新たに仏像を作るために集められた材料の銅(あかがね)はあったのです。 そこで、栄西はその仏像の光背を作るために用意していた銅(あかがね)をその母子にくれてやってしまったのです。 それを知ったお弟子たちは、尊い仏像を作るために貧乏の中でも大切にしていた材料を横流ししてしまった師匠に疑問を投げかけます。「これは尊い仏像をつくるためのものです。仏のものなのに、どうしてやってしまうのですか。そんなことをするのはいけないことではないのですか?」と非難しました。 そのときに栄西禅師はこうおっしゃった。「仏は飢えた虎の前で、飢えた虎の親子に対して、自分の身も骨も血も全部あげたではないか」(お釈迦様の前世の物語ジャータカにある捨身飼虎の話) 「仏はそうやって、自分の身も骨も血も全部を供養したではないか。自分は仏像をつくるための銅をあげてしまった。 しかし仏像というのは、それは物なのだ。本当に大切なものは、仏の教え、真理というものだ。 私はそう思うから、それが仏像の光背を作るためのものであっても、困っているあの母子を救うためにあげたのだ。 しかし、たとえそうであっても、仏のものを他人にあげてしまったために、自分は地獄に堕ちるであろう。それはわかっている。それでもよいのだ。そうであっても、私はそれを承知の上であの貧しい母子を救うために銅(あかがね)を与えたい、その結果地獄に落ち目のであれば、喜んでそれを受けよう」 そのようにおっしゃったそうです。 そのように悟った人は、ルールはルールとして尊重するけれど、一番の判断基準は自分の気持ち、好みとなるのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jul 8, 2006
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奈良県の医師宅で起きた長男による放火殺人事件から。 父親の医師は事件後、「事件の責任を痛感している」「自分の接し方が間違っていた。医師にしたい思いで、(長男の)気持ちを考えずにやっていた」と話しているそうです。 一方、長男は、取調べの合間に「論語」を読み終え「知識よりも人の優しさや思いやりが大切だと分かった」なとど弁護士に話したそうです。 長男の視点は、論語の視点といえ、一般的によく使われる視点だといえます。このことは日本の文化に孔子の教えが導入されていますから当然のことですが、この視点は社会の維持という目的を基準にしたものだと私は思います。 これはたとえれば、車について話すのに「色よりもエンジン性能が大切だとわかった」と言っているようなもの。車を語るときには、それ以外にも乗り心地や荷物の積める量や積みやすさというものもありますし、運転するときの心地よさなんてものもあります。 私たちは知らず知らずにその社会の文化的な基準を無批判に、というより、無意識に使っています。 けっして孔子の教えが間違っているというのではありませんが、孔子自身、自分が決めた道徳の枠組みの中で縛られて生きてきたといえます。それは、孔子の有名な以下の言葉に表れています。 七十而従心所欲、不踰矩。「七十になってからは、心のおもむくままに行動しても、道理に違うことがなくなった」のですから、それまでは、自分の心に従って生きることと、道理にずれがあったということですよね。 社会、世間、もっと広く言えば、宇宙の流れと自分が一体化したのは、孔子の場合、70歳になってから。順々に課題をこなしてついには宇宙と一体になるという感じ。 一方、老子の場合、最初からタオ(道)と一体になる生き方を説いています。 孔子の場合は、時間はかかるがコースどおりにやっていけば、誰でもいつかはたどり着ける。 老子の場合、体得するのは難しいが、体得した瞬間から宇宙と一体になる。 その違いでしかないと私は思っています。 でも、孔子はその過程で完璧を求めます。老子はタオを体得した人は、完璧など求めない、と言います。(参考) ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jul 2, 2006
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