2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
全5件 (5件中 1-5件目)
1

先日の「いじめの責任」を読んだ方からメールをいただきました。 その方が言うには、「理屈はわかったけれど実際にどう対処したらいいかがたいへんなんだ」とのこと。 たしかにそのとおりです。なぜなら、自分を変えられるのは自分だけですから。 そもそも、『対処して その力で 周りを変えられる』と思うこと自体が間違いだといえます。 誤解がないように、蛇足ながら補足すると、『対処しても 周りが変わることはない』ということではありませんよ。 人を変えるということにおいては、私たちができるのは対処という変化のきっかけなんです。 そして、その中でも効率的な対処というのがあります。 それは共依存、コントロールドラマをある程度知っていればわかることですが、それは、それぞれの親への現状の共依存的な認識を深めることです。 いじめた、いじめられたという表面的な認識ではなく、それぞれの子供が自己肯定感をなくしていて、共依存、コントロールドラマのパターンで行動しているということです。 いじめっこは、相手にいじめ勝つことで自己肯定感の不足を埋めようとしています。ふだん感じている「自分は価値がないんではないか」という怖れをたとえば、いじめたときだけ強くなった気がして感じないで済むから、恐れから逃れるためにいじめを繰り返しています。 そして、その怖れを与えているのがたいていの場合、親なんですね。子供側に対する対処としては、その怖れは怖れる必要のないものだと理解させることでしょう。 いじめで表面上一番困っているのは、いじめられているほうです。そちらの側での対処も親に対する認識強化です。子供に対しては、「美味しんぼ」58巻「いじめを許すな!」に出てくるせりふが参考になります。いじめを見た山岡がやめさせようとするといじめられていた子が「やめてください!そんなことをしたら、あとで僕はもっとひどい目に遭わされてしまう!」(P11) ここからわかること、それは、いじられる子がそこまでのいじめを受け入れている、許可している、ということです。そして、いじめる側は相手がいうことをきかないと、さらにいじめ(脅迫)を強化していしことをきかせようとしているということです。ここにコントロールドラマの脅迫者のパターンがあります。 いじめられる側は、いじめ(脅迫)を許可するのをやめることが必要です。無視するか、立ち向かうか、いじめ(脅迫)に屈しない態度をしめすことが必要です。 私の子供も幼稚園のときに、なぐられたり、いじめられていたことがあります。そのとき、私は自分の子供の手を噛んで訊いたんです。「どうだ、痛いか?その子がぶつのと、どっちが痛い?お父さんがぶつのとどっちが痛い?」「今噛んだほうが痛い、お父さんがぶつほうが痛い」「じゃあ、たいしたことないじゃないか、今度やられたら、相手がやめるまでやり返せそうしないとまたかんじゃうぞ」「わかった」ということで、後日、子供がにこにこして「○○と仲良くなった」と言ってきました。 美味しんぼでも、いじめられていた子が立ち向かっていき、いじめをやめさせるというストーリーになっています。 まあ、幼稚園とマンガだからうまくいったということもあると思います。中学生くらいだと暴力もすごい場合がありますからね。その場合は、周りをうまく味方につけることです。 ただ、勘違いしないで欲しいのは、ポイントは、いじめられている側が気づかないうちにいじめを許可しているのだから、それをまずやめることだ、ということです。 そのためには、覚悟が必要です。山岡は「いじめられているのではなく、闘うか逃げるか(転校)」を選ばせます。 美味しんぼの中でいじめられている子がこう言っています。「自殺するくらいなら、その前に闘ってみる!」(P37) 実は、ヒカリズム的に見ると、このセリフは非常に大きなターニングポイントなんです。 マンガの中では、いじめっ子と闘う、という意味ですが、それは自分のコントロールドラマのパターンを自ら変えようとしていることだからです。 仮に転校していじめを回避できても、そのパターンはそのままですから、一生同じような体験を繰り返すことになるはずです。 でも、自分が気に入らない結果をもたらすパターンを変えることで、これからの自分が変わるのです。 自分の人生は自分で創っている、それはこんなところからも始まっているんですね。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Nov 25, 2006
コメント(1)

ついつい他人のせいにしてしまうときって、ありますよね?そんなとき、おそらくあなたは『あの人が~したから、あの人が悪いんだ』と論理的に正当な(と自分には思える)理由をもってその人にせいにしているはずです。 しかし、イソップ寓話の「すっぱいブドウ」のお話を思い出してください。キツネがブドウを採るのをやめたときにはキツネには「あのブドウはすっぱくておいしくないんだ」というその時点のキツネにとっては論理的に正当(だと自分には思える)理由があります。しかし、キツネが最初にブドウを採ろうとしたときには、『おいしそうだ』と思ったから採ろうとしたのですから、『すっばいブドウだ』とは思っていなかったのですから、あきらかにウソです。こうやって自分をごまかして正当な理由があるかのように自分を納得させているのです。 これが防衛機制(のひとつ)で、自分の心が壊れるのを防ぐ機能です。 人というのは、だれでも「正しくいたい」という基本的な望みを持っています。それなのに自分が正しくないと認めると心が壊れそうになるので心を守るために防衛機制がはたらくのです。 では、スリとか常習的な犯罪者はどうなのかというと、「泥棒にも三分(サンブ)の道理」という言葉があるように、なにかしらの正当(だと自分には思える)理由をつけて自分をごまかして心を守っているはずです。 人が何でもかんでも他人の責任にして、いいわけをしたり、他人を責めたりしてしまうのは、壊れそうになる自分の心を守っているんですね。これは別に人のせいに限りません。この道具が使いにくいから、たまたま風が強く吹いたから、なんでもいいのです。そのときの自分がこういう理由なら正当性があると感じられることをたいていは無意識に言い訳しています。 防衛機制は、ネットでも調べられ、簡単な概要を知ることができます。(機制の文字を間違って規制としているサイトもありますが、文字を間違っているようなサイトの内容は信用できないですね。) 心理学者になるわけではないので、その程度で充分です。ある程度理解しておくと、誰か(もちろん自分も含め)が防衛機制を使うと、そのことが見えるようになります。すると、今までなら『あいつ人のせいにしやがって許せない』と腹を立てていたような場合でも『あの人は、今心が傷つきそうで苦しいから、無意識に防衛機制で心を守っているんだ』と理解してあげることができる(場合によっては、本人以上に)ので、腹が立たなくなって、むしろ、相手をやさしい気持ちで見てあげることができるようなります。 これが愛です。これは別に『相手を許してあげなくちゃ』とか『相手を受け容れてあげなくちゃ』と思って相手をやさしい気持ちで見ているのではありません。自然にそういう気持ちになるのです。だから、愛なんですね。『相手を許してあげなくちゃ』とか『相手を受け容れてあげなくちゃ』と思ってしなくちゃいけないときは、実際には、許してもいないし、受け容れてもいません。 ここがポイントです。 わかりますか?もし、そこに罪があると思わなければ、『相手を許してあげなくちゃ』と思うこともできません。許そうと思っているうちは、許せていないということなのです。←ポイントこれがイエスがいう「あなたは最初から許されている」ということです。 このことをきちんと自分のものにできれば、あなたは本当の愛とそうでないものの区別ができるようになります。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Nov 18, 2006
コメント(0)

「子供に自信をつけさせるためにはどうしたらいいの?」というメールをもらいました。 きっと、多くの方が親として、興味があるテーマだと思います。 まず、考えてもらいたいのは、「自信」とは何か?です。広辞苑によれば、じ‐しん【自信】自分の能力や価値を確信すること。自分の正しさを信じて疑わない心。質問の場合は、「自分の能力や価値を確信すること」という意味でしょうね。 すると、上の質問は、「子供に、自分の能力や価値を確信させるにはどうしたらいいか?」となります。 次に、考えてもらいたいのは、「価値」とは何か?です。一番基本的な意味は、「あることの役に立つ性質(程度)」のことです。たとえば、「字を書くこと」に消し炭も鉛筆も役に立ちますが、あなたが買いたいと思うのは、もちろん、鉛筆ですよね?それは、「字を書く」という目的に対して、どちらも役立つ性質があるのですが、鉛筆のほうが、より役立つ程度が高い、つまり、そういう状態を「価値がある」というのですね。要約すると、「ある目的に対して、役立つ性質」を「価値」というのです。 その基本的な意味がわかれば、ダメな子供でも、親にとってはかけがえがない(価値がある)のか、よくわかるでしょう? つまり、価値とは、目的に相対的に成立するのです。 それがお釈迦さまのいう縁起です。 目的のないところに価値はないのです。 逆に、固定された目的があれば、そこには、価値があるものと、価値がないものが固定的に生じます。 仮に、ある親が『子供をすらりとしたモデルのような女性にしたい』という目的をもったとすると、背が低かったり、太っていたりしたら、その子には、価値がない、ことになります。 多くの場合、親が固定的な価値観で子供を価値評価してしまって、「そんなことじゃダメだ」と決め付ける発言をしています。 すると、子供は『こういう自分には価値がない』と自己評価してしまい、自信をなくすことになります。 親は、ついつい、自分の好みの価値観を子供に押し付けようとしますが、価値基準となる目的はひとつではありません。 これを表現したのが、金子みすゞさんの詩、「私と小鳥とすずと」ですね。私が両手を広げても、お空はちっとも飛べないが、飛べる小鳥は私のように、地面をはやくは走れない。私がからだをゆすっても、きれいな音は出ないけど、あの鳴るすずは私のように、たくさんな唄は知らないよ。すずと、小鳥と、それから私、みんなちがってみんないい。~金子みすゞ~ ですから、目的を替えると、価値観もがらりと変わってしまいます。 子供が自信を失ってしまうのは、画一的な固定した価値観でいつも親が子供を評価しているからなんですね。 ニューエイジでは「すべてに価値がある」という言い方もしますが、それは価値観次第で価値が生じるということです。 ヒカリズムでは、さらに基本的な部分まで掘り下げて「その本質として、価値というものはない」「価値があるかないかは、受け取る人の基準で生じる」と考えます。ですから、子供に自信をつけさせるためには1.親は固定された自分の価値観を手放し、子供のよいところを引き出す価値観を見つけて子供を誉めることです。ただ、誉めるだけではしつけもできませんから、叱るときは叱ります。正すときは正します。そのためには、その場合の目的と結果を子供に提示することです。たとえば、自分の子供のAに「悪口を止めさせたい」とします。「もし、Aが悪口を言われたらどんな感じ?」「やだ、面白くない」「そうでしょう、あなたは相手をそんな気持ちにしたくてしてるのかな?」<中略>「あなたは自分に悪口を言ってやな思いをさせた人にやさしくできるかな?難しいかな?」「できない」「そうよね、だとしたら、あなたがみんなに悪口を言っていたら、そのうち、みんなからやさしくしてもらえなくなっちゃうかもしれないわよ、そんなふうになりたいの?」「やだ」「そうよね。人に悪口をいうことは、自分にやさしくしてくれる人をなくすことにつながってるの、かるでしょ?」「うん」「Aは、人からもやさしくしてもらいたいのだから、どうしたらいいかもうわかるわよね?」「うん」というかんじかな。あとは、子供が自ら「~したい」と言って来たときに、理由を説明せずに「ダメ」といわないことです。それは、子供には自分を否定されたように感じ、『自分は自分の思い通りにしてはいけなんだ』という思考パターンになり、常に相手の意見に従うだけの状態になります。 よくあるのが、洗濯物を干していると「手伝いたい」というようなケース。母親にしてみたら、失敗して、洗濯のやり直しになるのは目に見えているから、なにかと言い訳して、させないことが多いのではないかしら?でも、この場合、失敗しても、とがめず、二人でやり直す、すべてをうれしがることで洗濯のやり直しという代償で子供の自発性を育てる、できるという自信をつけさせる、親が自分を信頼してくれていると確信させられる、親を喜ばせることができると自信をもたせる、失敗してもやり直せると、自信をもつなど、いろいろなメリットがあります。 これだけのことをあとから子供に与える苦労を考えたら、洗濯のやり直しなど微々たる代償だと私は思いますね。(私は今、自分の価値観をあなたに強制せず、あなたに目的と結果を示し、あなたに洗濯させている、いえ、選択(笑)) さて、あなたの心の洗濯になったでしょうか?(^^) ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Nov 17, 2006
コメント(2)

最近、小中学校でのいじめとそれによる自殺などがニュースで取り上げられることが多くあるようです。 ワイドショーなどでは、コメンテーターがその責任の所在を追求したりします。たしかに、物質世界の視点からすると、責任の所在を追及することは必要なこともあります。 しかし、本当に「いじめをなくしたい」のなら、そこに起きている本質に目を向ける必要があります。 いじめの本質とは、共依存の脅迫者のコントールドラマなのです。「脅迫者」というと、これまでのパラダイムでは「脅迫者が悪い」という図式が当然のように頭に浮かびますが、そうではないのです。 たとえば、お話好きの人(しゃべらずに入られない人)と、しゃべるのが苦手で人の話を聞いているのが好きな人との組み合わせになるとたいていの場合、お話好きの人がしゃべって、しゃべるのが苦手な人が聞き役に回るというパターンになりますよね。 いじめもまったく同じなのです。共依存のパターンの組み合わせで、いじめをせずにはいられない人といじめられやすい人の組み合わせができて、いじめという現象に発展するんです。 それは、相性の問題と感情の問題なのです。理性(理屈)で、「悪いことだからしないように」と言っても難しいんですね。 たとえば、幼い頃におぼれたことがある人が「水が怖い」というのと、同じようなメカニズムから起きているので、理性より、感情が勝ってしまって、共依存の特徴のひとつである「~しないではいられない」という状態になっていじめてしまうのです。 いじめることで、自分が上に感じ、自分の価値観を感じているのです。でも、理性もありますから、誉められて自分の存在価値を感じるのと違い、心が晴れない完全には満たされない満足感でしかないのです。 腹が立って、近くにいた犬を蹴って憂さ晴らしをするようなものです。自己肯定感を得られないために、その不足感を埋めるものを求めて「~しないではいられない」状態になり、そこで(選ばざるを得ないような状態で)選んだ手段が「いじめ」だった、ということなのです。一方、いじめられる側にも自己肯定感の不足があって、いじめられやすい態度をしてしまっているのです。 ですから、だれが悪いとかではなく、その自己肯定感の不足を満たしてあげること以外に根本的な解決はないのです。 そういうメカニズムが見えてくると、不良の子供でもその良さを認めてやろうとする先生が慕われたり、そういう先生の下で、更生したりするのもわかるのではないでしょうか? ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Nov 13, 2006
コメント(0)

人生において、一番大切なものがあります。あなたにはそれがなんだかわかりますか?人を信じること?人を愛すること?人と仲良くすること?人のためになることをすること?お金?健康?したいことをすること?幸せになること? きっとさまざまな答えが返ってくることでしょう。 ヒカリズムでの答えは、「その瞬間あなたが一番大切だと思うこと」です。 多くの人は、絶対的に「人生で一番大切なもの」があると錯覚しています。 しかし、評価をするためには基準が必要で、どの基準を選択することが正しいのかを評価するためにも基準が必要で・・・つまり、どこまで行っても絶対的な基準は得られないのです。 悟りの一番のポイントは「縁起」今の言葉でいえば、「相対的」ということです。 それぞれ自分の人生なのですから、基準は自分!お釈迦さまがいう自灯明です。 そして、自分ですら毎瞬変化していますから、(諸行無常)自分の考えも、自分の環境も、毎瞬違っているといってもいいわけです。 ですから、自分の人生において自分が一番切なものは、その瞬間の自分の状況、自分の考え、そのようなすべての要素を考慮してそのなかで相対的に自分が一番大切だと思うものが、その瞬間のあなたにとっての「人生で一番大切なもの」ということになります。 これがわかれば、人生はとてもシンプルになるのです。■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Nov 5, 2006
コメント(1)
全5件 (5件中 1-5件目)
1