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「私とは何か」これは哲学的な問題でもありますが、心のことを考えるときとても重要なことになります。 たとえば、ご飯と味噌汁という朝食を続けたきた人にとってパンの朝食は違和感があるということもあるでしょう。 もうその人にとって「朝食=ご飯」になっているわけです。 実は、「私ということ」について、それと似たようなことが起きています。『私とは、この肉体だ』と漠然と感じてしまっているのです。 ん?違和感がありますか?『私って、この身体が私でしょ』って思いますか? 大林宣彦監督が尾道を舞台にして作成した映画に『転校生』というのがあります。原作は山中恒の『おれがあいつであいつがおれで』です。 このタイトルが表しているようにひょんなことから男女の生徒の身体が入れ替わってしまうお話です。 そのとき、私というものの主体となったのは、入れ替わった身体ではなく、意識の方でした。 身体は「私の身体」という感覚で、私そのものではないんですね。 それなのに身体と私が一体であるかのように感じてしまうので、心の平安から遠ざかってしまうのです。 半田光宣さんの『シリウス革命』という本には、「意識が物質に偏っているために正しく認識できない」というような意味のことが書かれています。 私とは身体ではないとしたら何か? このとき、「私とは魂だ」と言って、物質的な魂を想定するとしたら、実は、それは「私とは身体だ」という人とあまり変わらないともいえるのです。 では、心の問題を考えるとき、「私ということ」をどのように考えたらいいのか?続きます。<続く> ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Mar 31, 2006
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心のトラブル、そしてそれが物質世界に表現されたトラブル、これらはすべて恐れとその恐れから逃れるためにしてしまっているコントロールドラマが原因となっています。 恐れとは、『基準以下ではダメだ』という思いから生じます。多くの人は、なかなかこの視点は持てないと思います。 この視点を持つと人生がシンプルになっていきます。 この『基準以下ではダメだ』という思いがあるから、競うことになり、争いが起こるのです。 もう少し詳しく説明すると、この基準を絶対視したときに恐れの感情に支配されることになります。 基準を相対的なものだと正しく見ていれば、恐れに支配されることはありません。 なぜなら、基準を生じさせている目的を見直せば、恐れはあっという間に消えてしまうからです。 たとえば、この間のトリノ冬季オリンピックで、荒川静香選手は、『メダルを期待されていなかったから、この(ハレの)場を楽しもうと思った』というような意味のことを言っていました。 もし、メダルをとることを目的としていたら、『失敗したらどうしよう』などという恐れから緊張しすぎて、実力を出し切れなかったかもしれません。 よく、「開き直る」という言葉がありますが、このような『失敗したらどうしよう』などという恐れから解放されるために、『私は私だ、できることしかできない、今はメダルのことは忘れて自分にできる精一杯のことをするだけだ』というように思い直すことが、実は目的を変えることになっているのです。 このとき、「メダルをとる」ということが、自分の思いだから、自分だけで変更できるのです。オウム真理教の信者が、おかしいと思いつつ、サリンをまいてしまったのは、「サリンをまく」ということが、自分の思いではなかったからです。 コントロールドラマは恐れから生じ、その恐れは、他者の価値観を生きていることから生じているのです。 「自分を生きる」 このことをみんなができるようになると醜い争いはなくなります。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 今日はとても深いお話をしてみました。よかったと思われたらぜひ ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Mar 30, 2006
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>コントロールドラマを仕掛けないのはだいじょうぶだけど、のらないのは難しいです。知らない顔をしていても、勝手に向かってくる相手にはどう対処したらいいのでしょうか? という質問がありましたので、説明します。 コントロールドラマの支配のパターンのひとつの分け方として、「脅迫者」「尋問者」「傍観者」「被害者」という4つにわける考え方があります。 これらの組み合わせで「コントロールドラマ」が行われています。 ごくごく簡単に説明すると、脅迫者:恐がらせ暴君となり、相手がそれにひれ伏すことで支配します。尋問者:おまえが悪いと責めることで、心理的に支配します。傍観者:あいまいさ、神秘性で注目を集めることで支配します。被害者:こんなに被害を受けたと相手に罪悪感を抱かせることで支配します。 たとえば、脅迫者のタイプは、暴力団の脅しのような感じですね。相手の脅しにビクビクし、相手の言いなりになってしまうことがコントロールドラマにのってしまうことです。 ところが、肝が据わっていてどっしりとかまえて、相手の脅しにビクつくことなくゆったりと穏やかに対応できる人がいますよね。 このような場合は、相手に対応していますが、コントロールドラマにはのっていないということです。 被害者が「あなたのせいでこんなにつらい」と訴えてきたときに、罪悪感を感じて被害者に借りがあるように感じたりすると気持ち的に相手に支配されますよね。それがコントロールドラマにのってしまうことです。 こちらに落ち度があって責任があったとしても、そのことで罪悪感を感じたり、気持ち的に相手に隷属したりしないことがコントロールドラマにのらないということです。 間違えないで欲しいのは、これは、相手に対し「『申し訳なかった』というような謝罪の気持ちを持つ必要はない」ということではないですよ。謝罪の気持ちを持ちつつ相手に対して卑屈になる必要はない、ということです。 コントロールドラマは、無意識に相手の気持ちをあやつって相手を気持ち的に隷属させることで自分を気持ち的に優位に立たせるドラマです。 そうやって相対的に自己価値を感じることで自己肯定感のなさを補っているのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Mar 29, 2006
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日曜、月曜と2日間、私の住む新潟に遊びに来てくれたお二人とゆったりと過ごしてきました。ステキな旅でしたよ。(^o^) そのうちのおひとりは、サンタクロースさんです。(^^) 自己形成セミナーのなどにも数多く参加され穏やかで人間的にもステキな尊敬できる方です。 この方、北海道・南富良野にサンタビレッジを作って訪れる人にステキな贈り物をしているんです。 mixyにも同名のコミュニティーを作っていて、その説明にこうあります。(mixy参加には、紹介が必要です。)サンタクロースを信じる人。 夢を実現することに邁進する人。 与えることの喜びを知っている人。 ただそこにいるだけで幸せな人へ。 この方は社長さんで、お仕事も夢を実現しようと頑張っている人を応援するするというもの。 そんなステキな人との旅ならでは、ステキな旅でした。(^^) ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Mar 28, 2006
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感情に振り回されているとき、穏やかな心を手にしたくて仏教の本などを読んだことがありました。 ところがこれがさっぱりわからない(笑) やっぱり悟りは難しいと思ったのですが、今、自分が感情や自分の外側に振り回されない境地を手にして振り返ると、さっぱり分からない仏教の本というのは、書いている人がまだ悟っていないということがわかりました。 つまり、書いている本人が悟りが分かっていないのだから他の人にわかりやすく説明できるわけがないんですね。(笑) 悟っていない人が説く話は、表面的な知識でしかないので、全体を通して見ると、一貫性がなく、論理矛盾があります。 一方悟った人は、自分が見ている悟りという一点を基準に話すので(悟りをひらくとシンプルになる、というのはそのこと)全体に一貫性があり、一見矛盾しているようなことも、論理的に一貫した説明ができます。 たとえば、悟った人が愛、あるがまま(ありのまま)自然になる今ここを生きる感応する日常そのものになるというようにいろいろな表現をしても、これらは、すべて同じものをそれぞれ別の一面から表現しているだけで全部同じものです。 たとえば、茶筒を真横から見ると長方形真上から見ると、円斜めから見るとまだ違って見えますが、茶筒を知っている人は、どれを見ても茶筒だとわかります。 それと同じことですね。 面白かったのは、松原泰道さんが若いときに書いた「般若心経入門」祥伝社という本の中の般若心経の説明はさっぱりわからない。 ところが、「瞑想と悟り」◇ダライ・ラマ14世だったか(?)に、同じ松原さんが般若心経の現代語訳が載っているのですが、これがシンプルで分かりやすい。 つまり、この間に松原さんの悟りがあったと思われます。 ですから、読むなら本物を読みましょう。 これは仏教の本だけではなく、心理学についても同じことが言えますよ。 では、これから今日、明日と、友と温泉旅行に行ってまいります。というわけで、明日はブログ書けません。 いってきまーーす。(^^)/ ぽちっとなよろしく。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪ぽちっとな
Mar 26, 2006
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感情に振り回されないためには、感情の発生の仕組みを知ることが有効です。 鍋に油を入れて火にかけるとそのうち火がつきます。油が火の温度に出会って、火が生じたわけですね。 しかし、鍋に入れたのが水だと火はつきません。 これと同じように、考えもその考えに反する出来事に出会うと怒りの感情という火がつきます。 これは以下のような式で表せます。 考え + 出来事 → 感情 これを感情法則と私は呼んでいます。 たとえば、『高校生は髪を染めてはいけない』という考えを持った人が、髪を染めた高校生に出会うと怒りの感情が湧きます。 油を水に変えるように『誰でも髪を染めようが自分なりに自由におしゃれして良い』という考えに変えたら、髪を染めた高校生に出会っても怒りの感情は湧かなくなります。 メールレクチャーをしているある人に「考えを変えることで心は楽になります」とお話したところ「そんな簡単なことでいいのですか?」と驚かれました。 『考えを変える』このことは、言葉でいうと簡単ですが、実践にあたって三つの壁があります。 ひとつは、自分が持っている「囚われた考え」に自分だけで気づくのは難しい、ということ。 これは私たちが普段は空気の存在を意識していないように、自分が囚われている考えというのは、その人にとっては当たりまえ過ぎてそれが自分の囚われた考えだと気づけないのです。 二つめは、表面的に考えを変えたように振舞ってもダメで心から考えが変わることが必要だということ。 三つめは、自分を感情的に許せない人が変えるべき自分の基本的な考え(偽りの自分)を変えるためには、自分を許す、愛する必要があるが、ひとりではこれが難しいこと。 この三つがあります。 特に三番目は、この説明だけではその論理がわからない人も多いと思います。 このような壁を超えるためには、メールレクチャーのように個別に対応することが有効になります。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Mar 25, 2006
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人は感情の動物だということは、みなさん聞いたことがあると思います。 「嗜癖する社会」の著者A・W・シェフがいうように、社会は人々に在る程度の共依存を強いています。 つまり、社会に適応するということが実は共依存になることになるのですから、ほとんどの人は広義の共依存の概念に当てはまります。 共依存であるということは、おそらくあなたの想像以上に感情に支配されているということなのです。 心を病んでいる人はそのことをつよく実感していると思います。 周りの人やお医者さんなどが「あんまり気にかけないことを心がけましょう」なとど言っても『頭ではわかっていてもそれができないから苦しんでいるんだ』と感じるのではないでしょうか? ほとんどの人が恐れを動機に、防衛機制などの無意識の心の働きによって感情的に思考し、行動しています。 そして、それが癖、パターンになっています。 つまり、心の苦しさから回復するためには、その無意識の部分を明確に理解することが必要です。 心の仕組みが分かることで、意識的に思考し、行動することができるようになり、癖、パターンを変えることができるようになります。 その結果、世界観が変わり、人生が変わっていきます。 心が変われば 態度が変わる 態度が変われば 習慣が変わる 習慣が変われば 人格が変わる 人格が変われば 人生が変わる (スイスの哲学者ミハエルの詩) ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Mar 24, 2006
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アカシックレコードという言葉があります。アカシックレコードとは、宇宙の過去から未来までのすべてのことが記録されるといわれる異次元のデータベースのこと。 以前に、そのアカシックレコードを考えるというサイトがありました。一体どんなものか?ということを追求しようというサイトです。 しかし、臨死体験をして意識の世界に行き、光の存在と出会い、宇宙の知識を教えてもらうとき、そこにはすべての情報があるようです。つまり、それがアカシックレコードなのだと思っています。 そして、退行催眠による光の存在との会話から推測すると、その情報とは、実は私たちの本来の意識だと思われます。それは神意識です。---- 引用開始 ----------------------------------------------参考 飯田史彦、奥山輝実共著「(光との対話が人生を変える)生きがいの催眠療法」PHP研究所刊から。D:その光に、「人間は、何のために生きているんですか?」と、聞いてみてください。C:「成長するため・・・・・一人一人が、自分の成長のための課題を持っていて、それをもって登っていくことによって、全部一緒になる・・・・・バラバラのものが、ひとつの存在になる、それが最終目標・・・・・」D:「そうやって成長していって、最終的に、人間はどうなるんですか?」C:「光そのものになる」(P235~P236)D:「それじゃ、光のあなたが、それをすべて学び終わったら、あなたはどうなるんでしょうか?」と聞いてみてください。C:「無」だそうです。(P112)D:「人間は何のために生きているんですか?」C:「勉強するため」D:「勉強していったら、最後には何になるんですか?」C:「神に」(P261)---- 引用終了 ---------------------------------------------- 物質世界としての宇宙の対となる言葉は、その意識の世界だと私は思います。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Mar 23, 2006
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ほんどんの人は、知らずにコントロールドラマを繰り広げています。 あなたの周りにすぐ文句を言う人っていませんか?(^^; 心の不足感は、期待と現実のギャップに比例します。 心を満たす、満足感を得るためには、二通りの方法があります。1.自分の外側を自分の思い通りにする2.期待の度合いを下げる、期待を手放す この二つです。 多くの人は、自分の外側を変えようとします。たとえば、 子供を自分の思い通りにしようとする母親と自分の主張を母親に認めさせたい子供、両方とも、相手を自分の思い通りにしようとしているのです。 多くの場合、客観的に(常識的に、多数意見として)どちらが正しいかを判断しようとします。 しかし、それも相対的な正しさに過ぎないんですね。 たとえば、日本の常識として、妻がいるのに別の女性を愛するのは正しくないとなりますが、複数の妻を持てる国ならば、常識として何も間違っていないということですよね。 一見、はっきりしている正しさのようでもこうなのですから、もっとあいまいな正しさを客観的な正しさだと言って、押し付けても結論はでません。 それより、ポイントは、この母親も子供も、お互い、相手を自分の思い通りに変えようとしているということです。 この変え方にも、2通りあり、1.相手を力で変えようとする(納得していない)2.相手の意見を認めた上で相手に納得してもらって変わってもらう すぐに文句を言う人は、相手の意見を認めたりせず、力で変えることにいつもフォーカスしている人です。 そのような人とのコントロールドラマは、あなたにダメージを与えます。 あなたの周りを見回してください。そしてあなた自身を見直してください。 そのようなコントロールドラマは仕掛けない、のらないということを意識的にやってみると、心に穏やかさが戻ってきますよ。(^^) ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Mar 22, 2006
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すへての人は、その人の持つ正しさに従って生きています。 誰かが正しいとか間違っているという見方は、その人以外の他者の価値観によって判断しているから間違っていると見えるのです。 本来自分を基準として正しく生きていれば幸せなはずなのです。 しかし、実際は偽りの自分の正しさに生きている場合があるのです。 偽りの自分とは、元々他者の価値観ですから、本来自分を生きていれば感じられる幸せ感を感じることができません。 自分の心を見つめてください。あなたは本当にしたいことをしていますか? ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Mar 21, 2006
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私も以前は感情に振り回されて苦しい思いをしてきました。 穏やかな心を手に入れるためにいろいろとやった末に気づいたことは、この世界はすべて相対的であるのに、そのことに気づかずに絶対的なものがあるという思い込みをしていることがすべての原因であるということです。 これは、お釈迦さまの悟りの根本思想である「縁起の法」と同じものだと私は思っています。 多くの人は、すべての人の見ている世界は同じものだと思っています。 ところが、ある人たちは、「この世界は、今のままで完全だ」というようなことを言います。 そのことに気づいた人は、穏やかな心を手にすることができます。 苦しさは、その人の「あるべき状態」と現実とのギャップの大きさに比例しています。 あるがままを受け容れる人から、完璧を求める人までのどこにその人の意識が位置するかによって、心の状態がきまります。 心が苦しい人は、何かを絶対視していないか、完璧を求めていないか、自分の考えを見直してみると本来相対的に決まっているものを、何かの思い込みで決め付けていることがあるはずです。 その論理的に間違った考えを正すことで、穏やかな心を手にすることができるのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Mar 20, 2006
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叱ると怒るとは違うものとして、意識して使っている人はどのくらいいるのでしょう? 以前にこのブログで「怒(おこ)ると叱ると諭す」というタイトルで一回書いています。 今夜の「世界一受けたい授業!!」で、星野仙一さんが「しかると怒るとは違う」というテーマで授業をするらしいです。どんなお話なのかな?楽しみです。 さて、私の考えでは、「叱る(しかる)」というのは、穏やかな心で相手のために愛を動機に相手の(その人の目的に対して)至らない点を「言いきかせて納得させる。おしえみちびく」ということです。 怒る(おこる)というのは、感情的になって怒り(いかり)の感情を伴って、恐れを動機に自分の持っている正しさの基準を「相手に認めさせよう、納得させよう」とすることです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Mar 18, 2006
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私が住む新潟も春らしい天候の日も増えてきました。雪国新潟に住むものとしては天候が良くなるのはうれしいのですが、でもそれは花粉症の季節の到来でもありますよね。 私もここ数年来、花粉症に悩まされてきました。鼻水、くしゃみに目がかゆい、涙がでてくしゃしくゃ(>_<)まったく、たまらんですよね。 ところが、先日の晴れた日に、同じ課の人が何度もくしゃみをしていたので「風邪ですか?」と訊いたところ、「花粉症!」とのこと。『あれ?そういえば、天気がよくなって暖かくなったから、そろそろ花粉症の季節かも。でも、私はなんともないよ?』 それで、他の花粉症の人にも訊いたら、みんな症状がでているって。中には、テッシューを鼻に詰めている人も(笑) それなのに、それなのに、ああ、それなのに!やったーー!私だけなんともないよ。 思い当たることと言ったら、シェイクくらいなんですよ。 確かに、ダイエット目的で飲んでいる人もアトピーが良くなったとか、花粉症が改善されたとか、言っているのは聞いたことがあったけど、かなり信じられない部分もあったので、ずーと『ほんとかなあ?』とは、思っていたんです。 でも、ほんとに少なくとも私には効果あったみたい(^^) 晴れて暖かく花粉症にはヤバイ天候だったのだけどあんまりうれしかったので、昼休みに外に散歩に出てみました。 帰ってくると、ちょっと目がかゆいような気も(^^;まだ完全に治ったわけじゃないみたい。 今日もちょっと目がかゆい感じがあったので、他の花粉症の人に訊いてみたら、「今日はかなりきています!」だって! ということは、やっぱり改善している!!(^o^)まあ、この程度なら、以前に比べたらぜんぜん問題ないし、ほんとに体質改善されたんだなあ・・・うれしいなあ、「やったーーー」って叫びたい気分です(^○^)/ 身体と心と魂と三位一体で生きていると言っても、身体の健康や美しくあることや好きなものを食べられることなども大切なこと。 魂→心→身体という優先順位を自覚しながら、身体の欲求も満たしてあげる。 それが、身体と心と魂のバランスをとるということですからね。(^^) ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Mar 18, 2006
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うつの人、引きこもりの人、なかなか行動できないんじゃないですか? したい行動をしていないとき、したいという思いとしていない言い訳とこれまたぐるぐる思考を繰り返しているんじゃなあい? 一歩でも、半歩でも行動を起こすと、次の一歩が踏み出しやすくなります。 たとえば、買い物にいけないなら、『とりあえず、100メートルだけ出かけかれたらOK、あとは戻ってこよう』と思って始めたら気が楽でしょ(^^) 誰かに話しかけないといけないんだけど、『「イヤ」と言われたらどうしよう(>_
Mar 17, 2006
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うつの人は、考えすぎじゃないですか? 感情にも、本当の感情と感情のような思考があります。 うつの人の感情は、実は、感情のような思考なんですね。 もしくは、思考をきっかけに感情がぐるぐるリフレインしているんです。 時間がないので、ここまで(^^; ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Mar 17, 2006
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「こんなふうに必要以上にネガティブに考えたりするのは間違っている」と頭で判っていても、ココロが付いて行かない、そう考えずにはいられない、『自分の心なのに、なぜなんだ!』と思うことがあります。 それは、心に展開される感情の発生メカニズムを知らないから、疑問にかんじるのです。 多くの人は、今、目の前にある出来事に対して否定的な感情がわいていると思っていますが、実は『過去の未消化の感情が投影されている』とも言えるのです。 たとえば、幼いときに親に認めてもらいたかったのに、その思いが叶わなかったと感じている人は、大人になって周りの人から認められないという出来事に出会うとき、その同じような出来事をきっかけに過去の親に認めてもらえなかったときの否定的な感情が今の出来事に投影されてしまいます。 ですから、今の出来事を頭で理解して納得しても、ココロが感じているのは、過去の未消化の感情だからココロがついてこないのです。 頭ではわかっているのに、否定的な感情を感じてしまい、その結果、否定的な思考がとまらないのです。 いえ、正確に言うと心はちゃんと自分の考えについてきているのです。 今の出来事に対しては、心はもう否定的な感情を感じていないんです。それでもなお残っている否定的な感情は今に投影されている過去の未消化の感情なのです。 そのことを自分が気づいておらず、その過去の未消化の感情も今の出来事に対して感じていると錯覚しているから、ココロがついてこないように錯覚して感じられるのです。 そのメカニズムを知って、投影を止めれば、今に生きることができるようになります。 ココロがついてきます。 ネガティブな思考をとめることができます。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Mar 16, 2006
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頑張ったり、努力したりするから、うつになんです。でも、ちょっと補足説明が必要。 輪ゴムは、ひっぱると伸びて元の自分より大きいものを止めることができます。でも、輪ゴムは元に戻りたがっています。 伸びているときは、努力して緊張状態。元に戻ると、本当の自分であるから、努力なしのリラックス状態。 人間で言えば、成績を上げようとしたり、良い親でいあろうとしたり、良い人であろうとしたり、女らしくあろうとしたり、何らかの理想の状態に近づこうと努力するとき、頑張ります。■ポイントは、この理想の状態が誰の望みか?誰の価値観か?ということです。 たとえば、憧れの女優さんがいて、『自分もあんなふうになりたい』と努力しているとき、頑張っているときは、自分の望みと、努力、頑張りの方向性が一緒ですから、そのプロセス(過程)自体が楽しみ、喜びでもあります。 こういう努力や頑張りならうつになりません。 ところが、親が「女は女らしくなければならない」という親の価値観を押し付けていて、自分はあっさりした今の性格が好きだったとすると、自分の望みと、努力、頑張りの方向性が逆です。努力してるのではなく、努力させられている頑張っているのではなく、頑張るように強いられているんですね。親の期待やしつけなどとして外部から自分の望みの逆方向に力が働いています。ムリに輪ゴムを広げているようなものです。 あまり、自分の心と逆方向に引っ張られると心が壊れてしまうから、反抗したり、防衛機制で、自分もそう望んでいるように思い込もうとしたり、心の中でいろいろな事が起こります。 そして、理想どおりにならないのは、自分が悪いと、罪悪感や自己嫌悪を感じるとだんだんと落ち込んでうつになってしまいます。 自分の望みは何か、もう一度、じっくりと自分の心に聞いてください。 自分の望みだと思っていても、何かもやもやを感じたときは、本当の自分の気持ちではなく、偽りの自分(親などの他者に刷り込まれた自分が同意していない価値観)から来るものかもしれません。 本当の自分を生きましょう。 自分らしく生きましょう。 本当の自分を生きているとき、心も晴れて、笑顔を取り戻し、生き生きと生きられるのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Mar 15, 2006
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うつになる人って、とってもまじめで頑張りやさんで心やさしい人が多いはず。 うつになる人って、『こんな自分じゃまだまだダメだ、もっと頑張らなきゃ』と思いつつ、なかなか思い通りにいかなくて、そんな自分を責めてばかりいるから、気持ちが落ち込んでうつになっていきますよね? でも、なんでも完璧にこなせる人なんていないんです。誰だって得手不得手があるのに、不得手の方だけに気持ちが囚われてしまうから自分がダメなように感じているだけ。 不得手なことは不得手と認めて、得意なことに意識的に気持ちをもっていけば、気持ちも楽になります。 また、他の人から『良い人、誠実な人』って思われるように努力しています。ひとりからでも「誠実じゃない」なんて言われたら、落ち込んじゃったりします。 でも、これまでお話してきたように、すべての人から認められることなんてどんな人でもできっこないんです。 まず、自分が自分を認めてあげましょう。不思議なことに最初に自分が認めてあげると周りも認めてくれていることに気づくはず。 それから、仕事をまじめにきちんとこなそうと頑張りすぎて、なかなかうまくいかないことで焦ったり、イライラしたり、漠然と不安を感じたり。 周りの人から、『もっと頑張らなきゃダメ!』と思われているように感じているかもしれないけれど、一番責めているのは自分自身なんです。 自分で自分を責めて焦ったり、イライラしたり、不安に感じていることが思いのほか多いんですよ。 どうしてそうなるのか、これまでいろいろとお話してきましたが、まず、現状の自分を認めてあげて頑張りすぎないこと! もうあなたは充分に頑張っているのだから。 そのことに気づいてください。 ■今回のブログはいかがでした? 『いいんじゃない』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してください。
Mar 14, 2006
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身体と心と魂のバランスをとるということは、それぞれを基準とする欲求の優先順を魂、心、身体の順にとることです。 それを実践できるようになった人たちがいます。 それは臨死体験をした人たちです。 臨死体験者の体験前後の変化を研究したケネス・リングの調査があります。 それによると、臨死体験後は、1)毎日の生活のごく普通の出来事の一つ一つが素晴らしいものに感じられる2)自然の美しさをより感じるようになる3)他の人を助けてあげたいという気持ちが増す4)他の人に対する同情心が増す5)他の人の言うことに耳を傾けようとする態度が増す6)他の人に対する寛容心が増す7)他の人に対する愛情を表に出して表現するようになった8)他の人がどういう問題を抱えているかが見抜けるようになった9)他の人を理解できるようになった10)他の人を受け入れる気持ちが増した逆に1)他の人にいい印象を与えたいという気持ちが減った2)有名になりたいという気持ちが減った3)他の人が自分のことをどう考えているかを気にする気持ちが減った4)生活の物質的側面に対する関心が減った5)人生において物質的成功をおさめることに対する関心が減った6)生活水準を上げたいという欲求が減った このような変化がなぜ起きたのかを推測するとそれまでは「肉体」が自分だと感じていたために1.身体(肉体)の欲求2.心の欲求3.魂の欲求の順番で欲求を満たそうとしてはずです。 それが臨死体験をすることで、自分とは肉体でない、魂(意識そのもの)だと実感したこと、人生回顧をすることで、大切なもの、価値観が変わったこと、このような変化が起きたと推測されます。 物質的なものに対する欲求というものは、身体が基準になっているために起きます。また、分かりにくいことですが、「良い心」というものは、無意識に身体の維持を容易にするために、社会的な地位や評価を上げることを目的としています。ほとんどの人は、この状態にいるので、これが見えてきません。 もし、『善いことをしよう』ということにフォーカスしているようならば、それはエゴ(身体を基準にしている)である可能性が高いです。 魂(愛)を基準としてる場合、客観的に見直した時に、『周りから見たら善いことに見えるかもしれない』と考えることはできますが、その時点では本人は善いことをしているという自覚がほとんどなく、自分がしたいことをしているだけでからです。和尚の『存在の詩』にも、そのことを描写した部分があります。--- 引用開始 ---------------------------------------------------もしあなたに手持ちがありそれが自然に起こって、あなたが与える感じになったら与えなさいただし、それは分かち合いであるべきだ贈り物---これが贈り物(Gift)と与えること(Giving)との違いだ贈り物というのは取り引きじゃない何ひとつ期待されはしない絶対に何ひとつ---ただの認知さえもいらない感謝のうなずきすら---違う何ひとつ期待されてはいないもしあなたがそのことを取り上げなくてもその贈り物をくれた人物の中にはなんの動揺もない実際には、もしそのことに触れたりするとかえって彼は少しとまどうくらいだそんなことは決して期待していなかったのだから反対に彼のほうがあなたにその贈り物を受け取ってくれたことを感謝するだろう<中略>あなたはそれを拒否することだってできたのだからそれで充分だ(『存在の詩』P509P510)--- 引用終了 --------------------------------------------------- よく母親が「あなたのためを思ってこんなにがまんして、こんなにしてあげているのに・・・」というような場合、見返りを期待している、と表現しますが、実は、身体を基準として、死を恐れるところを動機としているのです。<戻る> ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Mar 13, 2006
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暮らしの中の小さな幸せを感じるためには、穏やかな心でいればいいのです。それが無条件の愛です。 そのためには、抵抗することを止めればいいのです。そうは言っても抽象的で分かったような分からないような状態だと思います。 具体的に説明すると簡単です。 10日のブログ「責める気持ち」を例に説明しましょう。 電話を取った長女に対し『そういう場合は、用件を聞くべきだった』と私が思えば、私はそうしなかった長女を責める気持ちがわいてきて、『ダメな奴だ』と思うことでしょう。 それは、『用件を聞くべきだった』という私の考え、そして、それに対する囚われ(「べき」と思っているから)があるからです。この『そういう場合は、用件を聞くべきだ』というのは、私の中の正しさ(の基準)であって、「べき」というように絶対視しているので、他人にも押し付けずにはいられないのです。 そして、その基準からはずれているものに出会うと条件反射的に否定的感情がわいてしまうことになります。これが責める気持ちが生じるメカニズムです。 これはコンピュータのプログラムのように融通が利きません。『そういう場合は、用件を聞くべきだ』という考えがある限り、聞かなかった状況に出会うと否定的な感情が自然にわいてしまいます。 ですから、それを止める方法は、二つあって1.『そういう場合は、用件を聞くべきだ』という考えをやめること2.全員に『そういう場合は、用件を聞くこと』を徹底させる。つまり、他人を自分の思う正しさに従わせる、ということになります。 後者の場合、『そういう場合は、用件を聞くべきだ』というようななんとなくみんなが納得するものは、争いになりにくいですが、A宗教とB宗教をどちらを信じるべきか、のように客観的に判断が下しづらいものは、争いになりやすいのです。 さて、なんとなくみんなが納得するものというあいまいな言い方をしましたが、なぜ、今回のような場合、なんとなくみんなが納得するのかが明確に分かる人は、もうこのブログを読む必要はありません。 その方はもう分かっている方です。 そうでない人のために説明するとまず、正しさというものは、ある目的に適うことを指します。 『そういう場合は、用件を聞くべきだ』という考えには、目的があります。 今回のようなトラブルを無くす、減らすということです。 そして、その目的(前提)を暗黙のうちに了承しているからなんとなくみんなが納得することになるんです。 逆に、原発推進派と原発反対派はいくら議論を重ねても歩み寄ることができないのは、前提となっている目的が違うからです。原発推進派は、たとえば、電化によって人々の暮らしが楽になり、便利になることを第一目的にしていたりします。一方、原発反対派は、安全な生活を第一目的としています。ですから、それぞれ正しさ(目的に適うこと)が違うのですから、目的を変えない限り、歩み寄ることはできないのです。 そして、許しというのは、そのような目的の違い、考え方の違いがあることをしっかりと認識し、それぞれの人の自由意志を尊重する姿勢を持つ、という愛の元に、ぞそれの人の違ったその考えを目的とするなら、それぞれの人は正しいことをしている、と正しく認識することで、そこに罪を認めないことなのです。 最初から罪を認めていないのですから、最初から許しているわけです。 それが無条件の愛の状態です。 そのことは、前に4回に分けてご紹介したブログ「イエス、5000人にパンを分ける」の中でも、パンを隠し持っていて「主よ、私はパンを懐に隠し持っていました。誰にも知られないように一人で食べようと思っていました。私の罪をお許し下さい。この、・・・このパンを皆の人に分け与えて下さい!」と許しを乞う男に対し、イエスが「私が許すのではない。あなたはすでに永遠の昔から許されている」と言います。 これは、イエスが、最初から罪を絶対の罪を認めない意識の人であることを示しています。 しかし、ある前提の下では罪がある、ということも認識していますから、罪を犯すことを咎め、正しい道に導くことができるのです。 あらゆる選択の時に、責めるのをやめ、許すこと 穏やかな心、無条件の愛はそこにあります。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Mar 12, 2006
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フランスで、子供のテニスの対戦相手計27人に睡眠薬を飲ませ、うち1人を交通事故死させたとされる父親が9日、実刑判決を受けたそうです。 その男性は警察に逮捕されたとき「子供の対戦成績で人から評価されていると感じ、全試合が重荷だった」と話したそうです。 他人の評価で自分の価値を判断し、自己肯定感を感じるというのは、典型的な共依存ですね。 ふつう子供の対戦相手に睡眠薬を飲ませるというような極端なことはしないでしょうから、気づきにくいのですが、多かれ少なかれ、ほとんどすべての人がこのような傾向を持っています。 犯罪になるような極端なことはしなくても、他人の評価で自分の価値を測るようなことをすれば、そのとたんに、自分の価値の決定権を他人に手渡してしまうことになりますから、あなたの心は他人次第になってしまいます。自己肯定感は他人に振り回されることになります。 ところが、実際にこの父親のように他人に自分の価値決定権を手渡してしまった人は、その価値基準を絶対視しているのです。 たとえば、この父親であれば、そもそも子供の評価が親しての自分の価値になっていると感じている時点で自分と他人との境界性があいまいになっています。それを仮に認めたとしても、子供の評価はテニスの試合結果だけではないですよね。たとえば、挨拶がしっかりできるだけでも、親として評価されることもあるはずです。 しかし、もうこの父親には、子供のテニスの成績しだいで自分の価値のすべてが決まってしまうかのように感じられているわけです。 日本なら、子供の成績で自分の価値を感じている親も多いのではないでしょうか? この場合であれば、学歴や成績を絶対視していますから、その基準だけで子供の価値も判断してしまうはずです。 絶対視してしまう価値基準はさまざまであっても、問題のポイントは、他者の評価で価値を決めてしまうことです。 そうではなく、あるがままを認める、この姿勢を基本に持つことがとても大切なのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Mar 11, 2006
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心が苦しいのは、責める気持ちがあるからです。 責める気持ちは、自分に向かう場合と自分以外(他人など)に向かう場合があります。自分に向かう場合、罪悪感になります。他人に向かう場合、怒りになります。(罪悪感って、自分に対する怒りなんですよ)(そして、罪悪感と怒りは同じ恐怖の反映です)先日夜7時前に電話があり、長女がとると中学の長男に友達のホンマ君からの電話。 ところがあいにく長男は入浴中「今、お風呂に入ってるんだけど」で、また電話しますと言うことで切れたらしい。『用件を聞けばいいのに・・・』 風呂から上がった長男に長女が電話の件を伝えたが、ホンマ君って何人もいるらしく、「急ぎの用事ならまた電話がくるだろう」ということになった。結局、電話が来たのは夜中の12時前(らしい)。(電話に出たのは次女で、それをみんなが知ったのは翌朝だから)電話の用件は、中学の連絡網で明日の時間割が変わったので、その教科書を持ってくることと前に渡しておいたプリントをやってくること。『連絡網なら、最初の電話の時にそう言えよ(`ε´)草すれば、内容を聞いて伝えたのに』『それにこんな時間では連絡が遅いって!』でも、なんでこんなに電話が遅れたの?・・・なんと、次女がずーっと友達と電話していて、お話中だったらしい(^^;申し訳ない、ホンマさんm_ _m 翌朝、次女が早起きして長男に事情と連絡網の内容を伝えていた。『プリントに関しては、もう遅いって(^^;』結局、長男はプリントはやらずに出かけました。この一連の出来事の中で、責める気持ちを持つことは、いくらでもできます。改善のために、改善すべき点を見つけるのはいいけれど、責める気持ちを持つことは、自分の心を苦しめる以外に役に立ちません。それが、他人に対してであっても自分にたいしてであってもそのときの状況に対しててあっても自分の心を苦しめているだけなんです。責める気持ちを手放したとき、出来事は単なる出来事として淡々と流れていきます。穏やかな心でいることができます。穏やかな気持ちでいると冷静ですから、感情的にならずに、最善を選択することができます。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) ランキングにご協力をお願いします。(ボタンをぽちっとな)
Mar 10, 2006
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他人のために他人の顔色をうかがいながら生きていたら、怖れを動機に思考、行動していたら、日々の生活の中の何気ない小さな幸せに気づくことはできないでしょう。 今週のNHKFMの青春アドベンチャー『風神秘抄』の中で盗賊の首領と源氏に使える主人公草十郎の会話の中で、興味深い言葉がありました。首領 「オレのようにまっとうに生きなきゃ」草十郎「盗賊のどこがまっとうなんだ!」首領 「おれは自分のために生きている」という会話がありました。(せりふはうろ覚えですが(^^;) とても奥の深い言葉です。なにが「まっとう」なのか、それぞれの人の基準で違うということですよね。 義賊や怪傑ゾロ(マスク・オブ・ゾロ)とか、そうそう、ゾロといえば、ロロノア・ゾロのいるワンピースの海賊だって法律を基準にするとまっとうではないけど、庶民を食い物にしている為政者とそれを救おうとする法律を犯すもの、どちらをまっとうに感じるか、微妙でしょ?もし、そうだとしたら、それは基準が二つあるからだと思う。法律を遵守する、という基準と人のためになることをする、という基準この二つが並列にあるから葛藤してしまう。 客観的にどちらが正しいかという問題ではないんですね。 自分が何を基準にして生きるか、自分を基準にしたとき、その人は、自分を生き始めることになります。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Mar 9, 2006
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怖れを動機としているということは、言ってみれば、その怖れを回避するために行動しているということになります。1.身体、肉体(body):肉体を維持する欲求魂、2.心、精神(mind):社会に認められる欲求(社会における自己の維持欲求)3.自己・霊魂(spirit):すべてとの統合欲求 この1→3の方向性は、死の怖れを動機にしています。 つまり、死を回避するために行動しているので、死を回避するために役立つ見返りを常に求めています。 そのような見返りを求めない行動動機が無条件の愛(無償の愛)です。あの世を見聞してきたといわれるエマニエル・スウェーデンボルグは、その著書「スウェーデンボルグの霊界日記」の中でこう言っています。--- 引用開始 ---------------------------------------------------悪人を特徴づけるしるしは、その思考や言葉に含まれる観念が善から始まるのが普通だが、結局は悪に終わる。善人のそれは、その思考や言葉に含まれる観念が悪から始まる可能性があるが、善に終わる、という事である。なぜなら、悪人においては悪が普遍的に支配しており、そのためその観念は悪の方へ揺り動かされるが、善人においては善が普遍的に支配しており、そのためその観念は善の方へ揺り動かされるからである。普遍的に支配しているのは、目的であり、肯定する基準である。そのため、あらゆるものを引き寄せる面(plane)となっている。--- 引用終了 ---------------------------------------------------「善と悪」を「怖れと愛」に置き換えると、よく分かると思います。ポイントは、「普遍的に支配しているのは、目的であり、肯定する基準である」という部分です。「死にたくない」という目的がその人の思考を支配しているとき、その目的が最優先されます。たとえば、戦争という特殊事情の中、将軍の悪口を言ったら死刑になるというバカげたルールがあるとします。秘密警察からそのルールを隣人がやぶったかどうか聞かれて、密告すれば、その人が死刑になるがその隣人をかばってウソをつき、それがバレたら、自分が死刑になる、という状況のとき、『そんなバカげたルールは認められない』と思っていても、自分が殺されるのを防ぐために、密告の方を選択するということはありえますよね。「自分が殺されたくない」というのを「悪」という分かりにくくなりますが、「怖れ」または、「怖れを動機とした思考、行動」と考えると、分かりやすくなると思います。<戻る|続く> ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Mar 8, 2006
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「迷惑メールが多すぎるのでアドレスを変更しました。」とのことですが、送信されたメールアドレスは、以前と同じものです。 そして、そのアドレスに返信してもエラーになります。 そのため、メールレクチャー3を送ることができません。対応をお待ちしています。
Mar 7, 2006
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「囚われに気づく」「囚われを手放そう」「囚われないこと」というようなことがよく言われます。 多くの人は『囚われ』という言葉を誤解してしまいます。それは見えていないものがあるからですね。 『囚われ』という言葉に対する誤解を解きましょう。 (^^) 『囚われ』とは「こうあるべき」であり、自分の中では正しさのような形で認識されています。その囚われ、正しさに対して見えていないものとは、「基準」です。 自分の考えを基準にしているのか、他人の考えを基準にしているのか、ということです。 自分の考えを基準にしている場合は、自分の考えが変われば、いわゆる囚われ、正しさも変わります。ってことは、自分は囚われの身ではないですよね(^^) ところが、他人の考えを基準にしているときは、自分の考えが変わっても正しさが変わらないんですね。この状態が囚われです。 たとえば、地下鉄にサリンをまくということになったとき、おかしいと思っても、尊氏のいうことが正しいはずだと自分の考えと葛藤になった人がいましたよね?誰かの考え(正しさ)の囚われの身になっているでしょ。 たとえば、父親が「女性は仕事、勤めなどせず、専業主婦として家を守るべきだ」という考えを持っていて、幼い頃は、その考えを素直に信じて「女性は仕事、勤めなどせず、専業主婦として家を守るべきだ」と考えていて「大きくなったらお嫁さんになる」と言っていた女性がいるとします。 この女性が英語が好きで得意で生きがいを感じ大人になって通訳として働きたいと思った時に、素直に自分の考えを実行できるなら、「女性は仕事、勤めなどせず、専業主婦として家を守るべきだ」という考えに囚われていないですね。それまではそれが正しいと思っていけれど、自分の考えが変わったから、正しさもそれに伴って変わったからです。 ところが多くの場合、しつけられていくうちに親の価値観が刷り込まれて「女性は仕事、勤めなどせず、専業主婦として家を守るべきだ」という考えが、自分の中で自分の絶対の正しさと感じられるようになることがあります。 いわゆる新興宗教などでよく言われる洗脳状態と同じような状態です。 あたかも自分の考えですが、根っこは、親の価値観、考えですから、自分の気持ちが『働きたい』に変わっても、その考え自体が、正しさに反する「悪いこと」に感じられて葛藤したり、自己嫌悪、罪悪感を抱くことになるんです。 自分の心を傷つけるから、そういう「囚われ」はダメなんですね。 それに対して、自分を基準にした囚われは『こだわり』と私は使い分けています。 自分の意思でこだわっているだけなので、考えが変われば簡単に手放せるもので、囚われていないですからね。(^^) いかがですか?難しいかな?わかりやすかったかな?よかったら、ランキングボタンをよろしくね(^^) ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Mar 7, 2006
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私たちは、『しっかりと見ていたらすべて見えている』と考えがちです。 逆に言うと、『自分が見ているものがすべてだ』と感じてしまうので、自分が見ているものを無意識に真実だと考えてしまうということになります。■1 それは物理的なことでいうと、たとえば、こんなことがあります。私たちは、モンシロチョウのオスもメスも同じ白地に黒い●模様に見えていて、モンシロチョウとはそういうものだと思い込んでいます。 ところが、紫外線が見えている(と考えられている)モンシロチョウには、メスは私たちが見ている模様とほぼ同じですが、オスは、真っ黒に見えているらしいのです。参考{紫外線写真} このように物理的に紫外線の世界などは、(肉眼の)私たちには見えていないものなのです。■2 次に、「物理的な映像の問題」に「思い込みという思考」も関係した「見えていないもの」をご紹介します。 昆虫写真家 海野和男さんのサイトの「擬態」をクリックしてみてください。 緑の葉っぱに擬態したコノハギスなどは、一見すると葉っぱにしか見えません。一度葉っぱだと思い込むと、そこにいるコノハギスという昆虫は見えているのに存在しないものになります。 これも思い込みが大きく作用していますよね。■3 最後は、思考の問題です。 ニューハーフという言葉があります。一般には、女装をして「女性にしか見えない」ような男性のことです。 ニューハーフを知らない人には、おそらく女性だと思い込んでしまうでしょう。 先日のブログ「身体と心と魂のバランス7」に対して、シダーひろさんがコメントを寄せてくださいましたが、そこにも、見えていないもの、思い込みがあるように感じました。 それは「周囲の人々に貢献する方向性で充足していくと幸福になっていく」という言葉です。 おそらく、多くの人は、この言葉に納得してしまうと思いますが、共依存の人は、自分も『周囲の人々に貢献しようとしているし、実際にしていると思う』だけど、なぜか幸せでない、と思う人もいるんじゃないかな? それは、「貢献」と「幸せ」の概念が、少なくともこの文の中では明確に定義されていないからです。貢献とは、広辞苑によれば力を尽すこと、寄与です たとえば、アルコール依存症の夫に尽くす妻は、周囲の人(夫や家族)に貢献しているのでしょうか?(この関係は、アルコール依存症者とイネイブラーとして、共依存の最初の例として知られています) 貢献しているかどうかは、誰がどのように判断するのでしょうか? イネイブラーの妻は夫に貢献していると感じ、夫も妻が貢献してくれていると感じているはずです。 二人とも貢献している、されていると感じているから、共依存の二人は幸福になっていくでしょうか? 自爆テロを行う人は、その人が所属する宗教社会では社会に貢献しているとみなされ、別な社会からは、まったく逆にみなされています。 いったい、この場合の貢献とはどういうことなのでしょうか?これがはっきりしていなければ、「周囲の人々に貢献する方向性で充足していくと幸福になっていく」という言葉は、絵に描いたモチに過ぎません。 幸せになるために周りの人に貢献したくても、自分がやっていることが貢献なのかどうか判断できないのですからね。 さらには、幸福とはどういうことか、についても同様のことが言えるのです。 私たちは、すべてを知ることはできません。 しかし、自分がすることにおいて必要なものが見えていないと、なぜか分からないまま、うまくいかないということがおきます。 今、見えていないものに気づき、見えるようになること、これが大きなポイントになります。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Mar 6, 2006
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欲求の方向性には、愛を動機にしたものと、怖れを動機にしたものの2系統あります。1.身体、肉体(body):肉体を維持する欲求魂、2.心、精神(mind):社会に認められる欲求(社会における自己の維持欲求)3.自己・霊魂(spirit):すべてとの統合欲求 この1→3の方向性は、怖れを動機にしています。その恐れとは、最初の肉体を失う怖れ、つまり『死』を怖れています。マズローの欲求段階説でみると1.「生理的欲求」・・・・・空気・水・食物・庇護・睡眠・性2.「安全の欲求」・・・・・安全・安定・依存・保護・秩序への欲求それが簡単にわかると思いますが、3.「親和の欲求」 (所属と愛の欲求)・・・自分が愛されること、 家族や社会の中に居場所があり 自分の価値が認められること4.「自我の欲求」 (承認欲求)・・・・・・自尊心・尊敬されることへの欲求となると、表面的には、肉体とは関係ないので、肉体を失う怖れ、つまり『死』を怖れているというのはピンとこないかもしれませんね。 今、私たちが住んでいる社会では、社会保障なども進んでいて失業手当とか生活保護の制度などもありますから、たとえば、会社という社会からその価値を認められず失業しても、すぐには死には直結しませんが、そういうものがないとしたら社会から価値を認められないことが死への怖れを感じさせるということを感覚的に理解してもらえるのではないでしょうか? この段階になると、死(肉体喪失)への怖れは、私たちには『自分の存在価値を失う』こととして姿を変えて意識されています。 その状態が広義の共依存状態なんですね。 『死への恐怖』は『生への欲求』であり、『生への欲求』が姿を変えると『生きる価値(意義)への欲求』となっています。 『生きている価値(意義)』を感じられなくなると、姿を変えた『生への欲求』がなくなるので、『死にたい』と感じてしまうことになります。 この方向性は、肉体→心→トランスパーソナルな意識という深化(ひとつに向かう)の方向です。 その逆は、進化であり、分離の方向性です。 余談になりますが、この世界(自然)は葉っぱや羽根にあるようなフラクタルな構造になっていて、意識も進化と深化を大小さまざまな状態で繰り返している可能性があります。(要望と機会があればあらためてそのお話もしますね)<戻る|続く> ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Mar 3, 2006
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なんでもない小さなことが幸せに感じられるということ、そのポイントは小さな幸せがあったからではなく、その小さな幸せに気づくことができる心のゆとりにあります。 幸せというのは、満足している心の状態なんですね。ですから、幸せは欲求(不足感、期待、情熱)と密接に関係しています。大きく3つの段階があり、それは、それぞれ前半と後半の二段階に分けて見ることができます。前半:不足感の充足欲求後半:安定欲求となり1.身体、肉体(body):肉体を維持する欲求魂、2.心、精神(mind):社会に認められる欲求(社会における自己の維持欲求)3.自己・霊魂(spirit):すべてとの統合欲求と合わせると、マズローの欲求段階説と重なります。マズローの欲求段階説1.「生理的欲求」・・・・・空気・水・食物・庇護・睡眠・性2.「安全の欲求」・・・・・安全・安定・依存・保護・秩序への欲求3.「親和の欲求」 (所属と愛の欲求)・・・自分が愛されること、 家族や社会の中に居場所があり 自分の価値が認められること4.「自我の欲求」 (承認欲求)・・・・・・自尊心・尊敬されることへの欲求 5.「自己実現の欲求」・・・自分がなりたいのものへの欲求6.「自己超越」・・・・・・今までの、あるいは現状の自分自身を超えたい という欲求 実は、本来人々を苦しみから救うはずの宗教が、宗教間、宗派間で争いをしてしまうことや、悟りを開くのが難しい理由は、この欲求の方向性にあります。 欲求という言葉で表していますが、方向性が違うと概念もちょっと違ってきます。 マズローが研究した欲求とお釈迦さまが渇愛と呼んだ欲求は同じものですね。渇愛とは、渇して水をほしがるように凡夫が五欲に愛着することをいいます。 一方で、私たちは、この不足感から来る渇愛とは違う欲求があることを知っています。 ひとつは、単に好みで、もうひとつは情熱です。 これらは、愛が動機になり、渇愛は怖れが動機になっています。<戻る|続く> ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Mar 2, 2006
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