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Feb 28, 2006
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最近寒天ダイエットがブームになってるようです。 このブームを作ったのは、おそらく「発掘あるある大辞典」(2)でしょう。第61回06.12放送の『寒天で本当ににヤセるのか!?』が大きなきっかけになっていると思われます。 では、はたして寒天にダイエット効果があるかどうか? それは確実にあるといえると思います。 ただし、そこには大きな落とし穴が! Dr.ガイアさんの楽天プログ『ラストホープ 健康・美容かけ込み寺』の「寒天のダイエット効果は本当か?」の中で、番組で紹介された論文を取り寄せて調べた内容が載っていました。 それによると、----- 引用開始 -----------研究論文ではそれぞれのグループの摂取カロリーが算出されている。対照群の夕食の摂取カロリーが664kcalであるのに対して、寒天群では324kcalに減っている。これだけで約3カ月間で約2kg体重が減ったことの説明が付く。いくら寒天の効能を列挙しようとも、体重が減った主な要因は寒天を食べたために夕食が減ったことに他らない。----- 引用終了 -----------という結論に。 私もその見解にほぼ賛成です。番組で紹介している効果も確かにあるでしょうが、はっきり言って寒天ダイエットではリバウンドする可能性が高いです。 どういうことか説明しましょう。 そもそも、一般にダイエットを『体重が減る』とあいまいに捉えていること、ここが問題です。■体重が減る要素1.水分が減る2.宿便が減る3.脂肪が減る4.筋肉が減る5.骨格などが減る 体重が減っても、脂肪が減っていない隠れ肥満では、健康的なダイエットとは言えません。 さて、この寒天ダイエットの方法と減量効果を見ると、 市販のトコロテン1パック150グラムを朝、昼、晩の3回、食事の前に食べるだけ。 さて、初日に1キロ痩せたという女性の場合は、「3日間でなかったものが、もう毎日でるような感じで」つまり、宿便が出たということで、当然脂肪が減ったわけではありません。 とはいえ、寒天の食物繊維効果で便秘が解消したのは良かったですよね。 でも、この減量はこれでおしまいでこれ以上減ることはないと思われます。そして、寒天を止め、また元の食生活に戻ったらおそらく繊維不足でまた便秘になる可能性大です。 2日目にすでに1.3キロの減少したアイス屋さんの息子さんは、「腹持ちがよくて、あんまり食べれなくなってしまった。たまに間食しちゃうけど、それでもかなり減ってきた」とのこと。この方、84.9キロが83.6キロに減少とのこと。 これは、単に食べる量が減ったことが大きな要因と考えられます。これもまた、寒天を止めたら、以前と同じ量を食べてしまう可能性大。 いろいろな効果は確かにあるのかもしれないけれど、その脂肪減少効果は少ないと考えられます。■それよりも、大きな問題は、食べるカロリーが半分に減った時に、栄養素は、前と同じになるような工夫をしているのかどうかということ。 おそらくしていないでしょう。 今の日本人の食生活は、たんぱく質が不足している人が多いのです。特にダイエットをしようとする人の場合、それが顕著です。 私たちの身体は、ダイエット中であっても、新陳代謝をしています。新陳代謝で新しい身体を作るたんぱく質が不足すると、筋肉から材料を調達します。 しかし、代謝でカロリーを消費しているうちの7割が基礎代謝で、その4割が筋肉で消費されています。 つまり、筋肉(特に赤筋)が落ちると、基礎代謝量が落ちて、太りやすい体質になります。 そして、そのことは、同じ「あるある大辞典」で、第20回 08.22 『基礎代謝は必ず上がる!』以降、何回か取りあげてあるのに、今回はその部分に触れていません。 寒天も他の栄養素が必要量きちんと摂れるようにしながら使えばいいのですが、単純に痩せ薬のような感覚で、食べる量を減らすための道具として使うだけだと、寒天を止めたとたんに前より太りだす可能性が高いので、気をつけてください。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 28, 2006
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「相手を喜ばせること」がエネルギーの交換かどうかという質問をいただきました。 実は、このことについての説明には、非常に重要なポイントを理解してもらう必要があります。 「身体と心と魂のバランス」というタイトルで連載で書いているブログでこれから説明したいと思っています。 実は、本来人々を苦しみから救うはずの宗教が、宗教間、宗派間で争いをしてしまうことや、悟りを開くのが難しい理由は、ここにあります。 簡単に言うと、意識の方向性です。半田広宣 著「シリウス革命」という本には、融解作用という言葉がありますが、それに関係していると私は考えます。 難しい話はここまでにして、「相手を喜ばせること」を考えて見ると、共依存の人も相手を喜ばせることをしますし、相互依存できる人も相手を喜ばせることをします。 たとえば、「私>はなぜカウンセリングを受けたのか 」という本を書いた東ちづるさんのお母さんは、ちづるさんが優秀なので、学校から賞状をもらってきたりすると誉めていたそうです。最初はちづるさんも誉められて喜んだと思います。 では、喜んだことでエネルギーを与えていたかというと、『お母さんに誉められる良い子でいなければならない』という考えを植え付けるコントロールドラマで、ちづるさんから逆にエネルギーを奪っていたんですね。 だから、カウンセリングが必要になったわけです。 極端な例で説明すると、共依存のコントロールドラマで愛(条件付き)を与えるときは、暴力団員が覚醒剤を最初は無料で与えるようなものなんですね。 自分との関係に依存させて、エネルギーを奪うためにやっているんです。 それがコントロールドラマです。 セックスに限らず、本当の意味で、エネルギー交換が行われるためには、無条件の愛が不可欠です。 見返りのエネルギーを求めない愛です。 無条件の愛であること自体が、無限のエネルギーと繋がることなので、ただ愛ややさしさを与えるだけになるんです。 「周囲の人に喜びを与えることこそ幸せにつながる」のではなく、無条件の愛であるとき、すでに幸せなんですね。 人に喜びを与えている時に、まだ幸せを感じていない、幸せに繋がるんだと感じているとしたら、それは条件付きの愛です。 抽象的で分かりにくいと思いますが、月を指す指として、いく通りもの指で指し示しますから、その交点をご自分で見出してください。<戻る|続く> ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 28, 2006
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私たちはいろいろな目的を持っています。 その目的は、実はすべて基本目的の手段なのです。 すべての人は「幸せになる」という基本目的、第一目的を持っていて、その目的達成のための手段を用意します。それが下位の目的となります。 たとえば、1.幸せになる(幸せである)2.幸せな家庭を築く3.よい会社に入る4.よい大学に入る こんな構図がよくあると思いますが、それぞれが目的であり、上位の目的達成のための手段になっていることがわかります。 ところが、直前の目的に囚われ過ぎると、目的と手段の逆転が起こって大切なものが見えなくなります。 たとえば、大学入試に失敗しただけで、人生が終わったように感じるということがあります。 周りから見ると、入試に失敗したからといって、すべての終わりではないと論理的に考えられます。 ところが、本人は目前の目的に囚われて、目的と手段の逆転が起き、本来上位の目的の手段でしかなかった下位目的「よい大学に入ること」がすべてになっていたから、『人生が終わった』と感じてしまうのです。 自分の基本目的に意識的になること。それが自分らしく生きるために必要なことです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 27, 2006
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荒川静香選手が金メダルを獲り、惜しくも銀メダルとなったアメリカのコーエン選手。 昨日のブログにも書いたように、荒川選手は、1.自分らしい演技をすること2.オリンピックで演技できることを楽しむことこのふたつを目的に競技に臨みました。 試合後のインタビューで、「メダル争いとか、競うとかという気持ちはまったくなかった」という意味のことを言っていました。 自分らしい演技をすることというのは、事前に決めるプログラム内容が決まってしまえば、単にメダルのために背伸びする必要もなく、いつもの自分でいいのだから、達成すべき目標ですらありません。 残されたのは、ただ『今(フィギュアスケート)を楽しむこと』 だからこそ、実力を出し切れたのだと思います。 一方、2位に終わったコーエンは、「(勝利)を信じれば実現する」という姿勢だったようです。 「その姿勢が不安に取って代わられた」という見方もあるようです。 「勝利を信じること」で、荒川選手とは逆に、勝つことにフォーカスしてしまい、それが『本当に勝てるのか?』という不安に繋がったということなのでしょう。 しかし、願望実現の法則において『信じる』ということは、そういう不安を抱くようなものではありません。 奥さんが、『さあ、これから(いつもの)スーパーに行って、お肉とたまねぎを買ってこなくちゃ』と思うとき、『本当にスーパーにたどり着けるだろうか?』とは思いませんよね? スーパーに行けると信じている、というより、まったく疑っていない状態ですよね。 それが願望実現の法則でいう『信じている状態』です。 コーエン選手の場合であれば、滑る前、滑っている最中、自分の完璧な演技がイメージされ、表彰台で金メダルを受けている自分がありありと見えることです。 スポーツ選手が試合前にイメージトレーニングをしますが、うまくできている自分を何度もイメージすることで、自分にそれを信じ込ませているんですね。 そして、それは結果的に、今ここを全力で生きること、楽しむことに繋がります。 つまり、結果的に金メダルを獲った荒川選手と同じ境地になるんですね。 よく言われる願望実現や今ここを生きる、今ここに全力で当たるというこは、そういう奥深さの上で語られていることなのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 25, 2006
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2006年トリノ冬季オリンピック、第14日め、23日、フィギュアスケート女子で、荒川静香選手が今大会日本初の金メダルに輝きましたね。(^^) 本当におめでとうございます。 きっと、多くの方もそうだったと思いますが、私は荒川選手の流れるような優雅な滑りに魅せられました。 のびのびと美しく切れ目を感じさせない優雅な演技は、滑っているとか、演技している、踊っているとかいうのではなく、銀盤の妖精が舞っているように私には見えました。 ホントにステキだった~(*^^*)美しかったです。 途中から感動で眼が潤んでしまいました。演技の途中から始まった観客席からの鳴り止まなかった拍手とスタンディングオベーションはみんなも同じように感じていたんだなあと思いました。 オリンピック・フィギュアスケートのアジアでの金は初めてだそうです。きっと長く語り継がれる金メダルになると思います。 金メダルを獲って、君が代が流れていたときに、荒川選手も歌っていましたね。(^^) 今回、荒川さんはメダルを獲ろうという気持ちよりも、オリンピックの雰囲気を味わうこと、その中で自分らしい演技をしたい、楽しみたいという気持ちで臨んだようです。 かつての西ドイツのイナ・バウワー選手が1950年代に始めて披露した両足のエッジを180度開いて横向きに滑るイナバウワーという技を、今回入れるかどうか荒川選手は悩んできたそうです。 というのも、現行の採点方式では直接の点に結びつかないからです。 でも、荒川さんは、小さいときから身体がぐにゃぐにゃと言えるほどやわらかかったそうで、身体が柔らかいから、荒川選手のイナ・バウアーは世界一美しいといわれているのだそうです。 メダルや得点を優先すれば、入れなくてもいい技ということになります。 でも、荒川選手は自分らしさを出すために敢えてイナ・バウアーを入れました。 『メダルを獲らなくては』と思って臨んでいたら、それは他人の眼を気にしてプレッシャーを感じてしまうことになるので、せっかくの力を出し切れなかったかもしれません。 でも、自分らしさを表現することを優先したことで、ちょうど良い緊張感になって、今回の金メダルに繋がったんじゃないかなあと思います。 なんて、余計な解説は野暮というもの(笑)(^^; きっと何度も映像が流されると思いますので、荒川選手の優雅な舞とステキな笑顔を心行くまで楽しみたいと思います。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 24, 2006
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身体と心と魂のうち、魂の欲求を最優先して、無条件の愛を選択するとき、どこまでも広く穏やかでやさしい心を手にすることができます。 では、身体の欲求を優先するとどうなるかというと、それは本能部分ですから、相手の意思を無視して人のものを奪ってでも自分の動物的欲求を満たそうとすることになります。 心の欲求を優先すると、どんな手段を使ってでも良い人であろうとします。他人から認められようとします。 実際は、常に身体の欲求(動物的欲求)だけを優先している人などいませんから、3つの欲求の優先順位はその時々で変わっています。 多くの人は、その優先順位の変更が無意識に行われています。結果的にその割合でその人がどんな人かが決まってきます。 もし、あなたが自分というものをしっかりもって、自分らしく生きたいのであれば、まず、どんな自分でありたいのかを決め、最初は、その欲求を意識的に優先的に選択することが必要です。 それが習慣になるとそれがあなた自身になるのです。 スイスの哲学者ミハエルは、そのことをひとつの詩にしました。 心が変われば 態度が変わる 態度が変われば 習慣が変わる 習慣が変われば 人格が変わる 人格が変われば 人生が変わる あなたがこうありたい自分を決め、それを(欲求の優先順位を意識的に決めることで)態度で示していけば、あなたの習慣(クセ、思考、行動パターン)が変わります。それはあなた自身が変わるということであり、、そしてそれは、あなたの人生をも変えてゆきます。<戻る|続く> ■ランキングベストテンを目指しています。今回のブログはいかがでした?(^-^) 『ちょっといいかも(^^)』と思われたら、 ランキング↓にご協力を!!
Feb 24, 2006
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愛し合うものがセックスによって感じる素晴らしいエネルギーに満たされるという感じを明確にするめたにこんな比較をしてみましょう。 自分は相手を愛していないけれど、相手が自分を愛してくれるときです。 それは、うれしいかもしれないけれど、単にプライドをくすぐられる喜びに過ぎないんですね。 まして、レイプなどのように心がないセックスでは、まずエネルギー交換を感じることはありません。 愛し合うもの同士にあるのは、お互いが相手を愛する気持ちです。 見返りを求めない無条件の愛は、相手が自分を愛しているかどうかは関係ありません。あるがままの相手を認め受け容れています。 その否定するものがない状態の上に、相手から求められることによって自分の価値を感じる喜びを感じます。 そして、セックスの喜びを感じます。私たちは、個体の存続、種の存続のために必要なこと、つまり、眠ること、食べること、セックスなど(のうち、必要で役立つもの)は、本来、無条件に喜びを感じるようにできています。 身体に害のある食べ物は、基本的にまずく感じ、喜びを感じないようになっています。 同様に、セックスから感じる喜びも、心が伴っているか心が拒んでいるかでまったく違うものですよね。 非常に気づきにくいことですが、無条件の愛、悟りの境地そのものは、暖かな穏やかさそのもので、それ自体に歓喜はありません。 でも、否定するものがないその心は、喜びを何倍にも増幅して感じることができるというか、本来の喜びを100%感じることができるのです。 そのように愛するもの同士のセックスには、最高の肉体的喜び、最高の心の満足、喜び、最高の受け入れ態勢(無条件の愛)が、重なることで、すばらしいエネルギー、喜び、とろけるようなエクスタシーを感じることができるということなのです。<戻る|続く> ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 23, 2006
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やっぱり、ストレスがないと身体の調子もいいですね。(^^) 健康か病気かということには、肉体的疲れや栄養状態、病原体、生活習慣などさまざまな要素がありますが、ストレス、精神的な疲れもかなり大きな要因を占めていると思います。 そもそも、ストレスや笑顔が免疫力に大きく影響していることが知られていますよね。 ちょっと面白い調査があったのでご紹介します。---------------------------------------------------------------- アメリカで、医学部の学生を対象に「性格と病気の因果関係」について調査したものです。 調査の内容は、学生の性格を(A)(B)(C)の3つに分類し、30年後に病気との因果関係を調べたそうです。(30年とはすごい調査ですね(^^))性格の分類は以下のようになっています。●(A)の学生注意深く、細かいことを分析してから仕事をしたり行動判断をするグループ●(B)の学生頭がよく、即座に行動し、何事も明確に発言するグループ●(C)の学生非常に頭がよく、何かをするのに時間をかけたりかけなかったりと、気分が不安定・不規則なグループ 実験の結果、(A)と(B)の病気の発症率は25%前後とほぼ同じで、(C)は77%もの確率で病気になったそうです!しかもガンとか潰瘍が多かったとのこと。ちなにみ(A)(B)(C)のグループで一番健康だったのは(B)だったそうです。さらに、心筋梗塞はひとりもいなかったとのこと。 ---------------------------------------------------------------- さて、みなさんは、この調査結果をどのように見ますか? たとえば、「(B)は行動的で積極的な性格だから」というような表面的な見方をしていると、そこにあるものが見えてきません。 なぜ、行動的になれるのか?なぜ、積極的になれるのか?そこが大切なんですね。 私は、基準はどこにあるか、共依存か、という視点からこの調査結果を見ました。 すると、(B)の◇1「即座に行動する」という行動は、決断が早いという思考から生じている決断が早いのは、その人が決定権を持っている(キーマンだ)から。(セールスのポイントは、キーマンに話をすることですよね。そういうことからも、考えると導き出せるんですよ)その人が即座に行動できる、決定権を持っているということは、その人が自分に自信を持っている、自分で選択の結果を引き受ける覚悟をしている、自分で決めて良いという許可を自分で自分に与えている、自分を拠り所にしている(自灯明)ということが推測できます。◇2:「何事も明確に発言できる」ということも同じで自分の考えに自信を持っている、自分で選択の結果を引き受ける覚悟をしている、自分で決めて良いという許可を自分で自分に与えている、自分を拠り所にしている(自灯明)ということが推測できます。一方、77%もの確率で病気になった(C)は『何かをするのに時間をかけたりかけなかったりと、不安定・不規則』といなう事実があります。不安定・不規則なのは「気分」のせいだと、研究者が勝手につけた解釈がさらに事実をゆがめてしまいます。 おそらく、気分ではなく、「他者の意見」があるかないか、他者が同意しているかどうかの差であろうと私は推測します。 たとえば、(C)の人が、『楽天でブログを書こう』と思ったとき、Dさんが「ダメダメ、楽天ブログはダメだよ」というと、とたんに迷ってしまう。(C)の人が、『楽天でブログを書こう』と思ったとき、Eさんが、「それはいいね。楽天のブログはいいよ」と賛同してくれると即決できます。DさんとEさんが同時に意見を言った日には、二人が決着をつけて、意見を統一してくれるまで決められないかもしれません。(極端な話ですよ(^^;)決定権を他人に渡してしまっているので、自分の思い通りいくことが少ないですからストレスがたまりますよね。ガンとか潰瘍とかのストレス、免疫力が大きく影響する病気が多いのもうなづけます。一方、(B)の人は、Dさんが「ダメダメ、楽天ブログはダメだよ」と言っても、その理由を聞き、参考にしても最後は自分の考えや好みで決めますから、いつでも即決、即行動できるわけです。自分のしたいことをスパッとやっていますから、ストレスは少ないですよね。(^^)その中間の(A)の◇注意深く、細かいことを分析してからというのは、何をしているかというと、自分や他者を説得、納得させるための根拠を用意しているんですね。その根拠を基に、反対意見を持つ他者を説得しながら自分が納得したことをやっているので、やっぱりストレスが少ないわけです。 以上の私の分析は、もちろん、推測の域をでていません。(私のたわごとだと思ってくださってもいいですよ。そうではなく、なるほどと参考にして下さってもいいですけど、その場合の責任はあなたに帰属します(笑))でも、もし、その視点が調査したら、共依存度は、少ない順にBACだと思いますよ。(^^) ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 22, 2006
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「囚われてはいけないに囚われる」「すべきをなくすべき」というパラドックスが生じるのは、基準のぶれにあります。 「~すべき」「こうあるべき」「~せねばならない」理由は、それが正しいからです。 正しくないことを「すべき」ではありませんよね。 そして、「正しいということは、目的という基準に適っている」ということです。(道理や法も目的基準のひとつ)(目的と目標と手段という細かい部分の説明はここでは省きます) 目的を持ち、それを達成しようとしたら、そのためには「○○すべき」が生じるが当然なのです。 たとえば、『今度のテストで100点を取ろう』という目的を持ったら、「勉強すべき」なのはあたりまえです。 ところが、『今度のテストは100点』という目的を持ったのが母親で、テストを受けるのが子供の場合、勉強をすべきなのは『今度のテストは100点』と思っていない子供である、というズレが生じます。 そのような目的のないところに本来なら生じない「すべき」を押し付けることが、うまくいかない「すべき」なのです。「すべきはなくすべき」なのは、このような「すべき」なんですね。 このような「すべき」は、自分を基準に見たときに二つあります。ひとつは、上記の母親のように1.自分の正しさを別の人に押し付けて従わせようにする場合この場合、あなたの心の穏やかさは、相手の気持ち、行動に振り回されることになるので、心の安らぎを得るのが難しくなります。 言ってみれば、あなたは自分の心の平安の決定権を相手に自ら譲り渡したようなものです。 愚かですよね。もうひとつは、この逆です。姑が「専業主婦なんだから、掃除、洗濯、食事くらい完璧にやらなきゃだめでしょう」と言ったときに、その言葉を自分の中に納得していなのに嫌々正しさとして取り込んで、不本意ながら従ってしまうような場合です。2.他人の正しさを同意していないのに取り込んで、納得できないまま従ってしまうような場合です。 上記のテストの場合なら、子供側の視点ですね。子供もテストで良い点を取りたいと思っていて、『今はまだ勉強不足だから100点じゃなくても90点以上ならいいや』という基準を設定したとします。 自分の実力、気持ちに合わせた目標なので、それならやる気が起きるのですが、最初から自分が無理と感じてしまう100点という目標では、自分の心を苦しめる「すべき」になってしまうわけです。 このように他人の価値観や目標、目的を自分の同意なしで受け入れてしまう場合は、他人に自分の正しさや目的という基準を決める権限を与えてしまっていますから、やっぱり心の平安の決定権を相手に自ら譲り渡しているわけです。 そのように基準としての目的がどこにあるかをはっきりさせることで、「すべき」がはっきり見えていき、間違った「すべき」は消えていきます。<戻る> ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 22, 2006
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私たちはセックスによって素晴らしいエネルギーに満たされるという感じを受けることがあります。 それは言い換えると、心が何か暖かいもので満たされるという感じと沸き上がる歓び、ポジティブな気持ち、やさしさなどが入り混じったものではないでしょうか。 アルコール依存症者のカウンセリングの過程で明らかにされ、知られるようになってきた「共依存」という概念がさらに研究されるに連れ、私たちが所属する社会自体が、その社会の人々にある程度の共依存を強いてることが明らかになってきています。 つまり、いわゆる普通の人は、共依存であるということなんですね。 共依存ということは、自分の価値を他人の評価に求めているという面があります。 簡単に言えば、誉められたり、認められたりしているときに、うれしい、満足、満たされているという感じがありますよね。 愛し合う二人のセックスのポイントは、なんといっても『愛し合っている』ということです。 愛されているということは、相手から認められているということですから、共依存の不足感、欠落感が満たされることになります。 でも、愛し合うものが感じるエネルギーとは、実はそれ以上のものなのです。<前に|続く> ■今回のブログはいかがでした?(^-^) もうすぐベスト10入りです。『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、ランキングに参加ヨロシク。 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 21, 2006
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心を病む原因のひとつに「できないことをしなければならない」という矛盾に支配されるということがあります。 たとえば、『理想的な主婦になるべき』と強く思っていたり、周りから精神的圧力を掛けられている場合、完璧な人間はいませんから、必ず理想から外れてしまうことがあります。 その「ずれ」を容認できない場合、心を痛めることになります。 今のは場合なら、『理想的な主婦になるべき』という「囚われ」「すべき」「あるべき」「ねばならない」などを手放すことが必要になります。 ところが、「囚われ」「すべき」「あるべき」「ねばならない」などをいけないものだと決め付けてしまうと、「囚われない」に囚われるという矛盾したことになってしまうのです。 以前に、ある人から、「あなたは『囚われない』に囚われてる」と指摘されて、その矛盾に気がつきました。 「囚われてはいけないに囚われる」「すべきをなくすべき」というパラドックスは、どう紐解けばいいのでしょうか? さて、その答えは、すでにこのブログの中で説明しています。 みなさんも、考えてみてください。<続く> ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 20, 2006
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何かを選ぶということは、他のものを選ばないということです。 そして、何かを選ぶということは、その選択の結果を引き受けなければならないということです。 選択の結果とは、選んだことによって生じた結果と選ばなかったことにより生じなかった結果です。 たとえば、健康的にバランスの良い食事ではなくおいしいものを好きなだけ食べ続けるということを選択したら、その選択により、美食の満足、満腹の満足という結果と肥満という身体、生活習慣病という結果を引き受けることになるかもしれません。そして、逆に言うと健康な身体という結果を逃すということも引き受けることになったわけです。 なかなか自分で選択できない人は、そうした選択の結果の責任をとることを恐れているのです。 私たちは、すべての可能性の中から選択したものとその結果で自分を創造していきます。 私たちは自分の選択の結果なんですね。 今に満足でない(こうありたい自分を目的する)なら、これまでの選択を見直してみるというのが正しい(目的に適った)選択となります。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 19, 2006
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心の病気で苦しんでいる人は、カウンセリングを受けたり、AC(アダルト・チルドレン)や共依存などの本を読んで「こうすべき」「こうあるべき」「ねばならない」が自分を苦しめていたことを気づきます。 でも「こうすべき」「こうあるべき」「ねばならない」そのものがいけないんじゃないんですね。 「こうすべき」「こうあるべき」「ねばならない」がいけないのは、ほとんどの場合、基準が自分以外にあるからなんです。 『神との対話』という一見ぶっとんだ本がありますが、この中にもそのことは、明確に指摘されています。(この本は、実際は、心理学などに基づいてかなり緻密に書かれている本だと私は思っています。多くの人は、トンデモ本として最初から毛嫌いするか、神ということに依存して盲従したりして、この本を活かしきれていない人が多い気がします)---- 引用開始 ------------「あるべき」という言葉がいけないのは、誰かが基準を設定する点だ。そうすると、あなたがたの行動は自動的に、何を歓びとすべきかという他人の考えに制約され、方向づけられ、指示される。<中略>人生のすべてにおいて、誰かが決めた適正規準に違反するから、やらないなどということは絶対にやめなさい。(『神との対話2』P133)---- 引用終了 ------------ たとえば、自分が『(出前をしていない)駅前のお店のラーメンが食べたい』と思った(目的を持った)時、ラーメンを食べるためには「出かけなればならない」ですよね。 でも、この「ねばならない」はOKなんです。自分でそうしたいと思った結果として生じた「ねばならない」だからね。つまり、自分が『出かけるの面倒だから、駅前のラーメンはもういいや』と思ったら、この「ねばならない」は消滅するのです。だから、自分の心と「ねばならない」の不一致が無い、だから、心を病むことがないんです。 ところが、誰かが決めた基準「ねばならない(正しさ)」は、それを行う自分の気持ちと無関係に、他人によって決められているので、自分の心と「ねばならない」の不一致が生じ、だから、それがストレスになり、心を病むことになるのです。 そして、「ねばならない」とか、基準だというと、ピンとこない人もいると思いますが、「こうあるべき」という基準は、私たちには『正しさ』として認知されています。 そして、漠然と「正しさ」には従わなければならないという暗黙の服従が強い人(一般には良い人)ほど、心を病む可能性が強くなります。 そして、「正しさに従う」ということは、社会が求めていることであり、常識として、他の人の目という拘束を受けているので、なおさら、心を痛めることになるのです。 それを「共依存を強いる社会」と言っています。興味のある方は「嗜癖する社会」(A・W・シェフ著/斎藤学訳)などを参考に読んでください。嗜癖する社会 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 18, 2006
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メグ・ライアンとSFとラブストーリーが好きなので、この映画は観たかったのだけど、結局、地上波放映のテレビで観ることになりました。(^^; 朝、新聞で「ニューヨークの恋人」とメグ・ライアンの文字を見つけたときは、『これは、見逃せない!』って思いましたね。(^^) 映画が始まったら、もうメグ・ライアンにくぎ付け(笑)でも、レオポルド役のヒュー・ジャックマンも、ハンサムでチャーミングでジェントルマンで私的には好感が持てました。 だから、私的には、かなりお勧めの映画ですね。(^o^) ディレクターズカット・エディション でも、日本男児的な人には、レオポルドのような愛し方は気に入らない人もいるのかも? もっとも、私もレオポルド役のような愛し方をしたいし、そうしているつもりでも、時に荷物をもった女性と一緒にエレベーターに乗ったのに、先に降りてしまい、「開くボタンを押して私を先に下ろそうと思わなかったの?」と言われたことも(^^; ジェントルマンの道は険しいぞ(^^;; ところで、この映画は共依存的な視点から見ることもできます。 ケイトがレオポルドに、自分の恋愛運がないことをぼやき、レオポルドが「これまで相手に恵まれなかったんだよ」と言うシーンがあります。 でも、共依存の人が同じように恋愛に失敗するのは、その共依存的な思考や行動のせいであることも多いのです。自ら、依存症やDV的な人を好きになったり、うまくいきかけた恋愛に自ら終止符をうってしまうことをやったりしているんですね。 それから、レオポルドが属していた貴族社会の格式や立前を重んじる風潮に縛られ、自分を生きられない苦しみは、現代でも同じですよね。 あの映画「タイタニック」でも、同じようにローズが貴族社会に縛られている苦しみが描かれていましたよね。 ケイトが前彼に「私の最高の時をあなたに捧げたのよ」と言い、彼の「あれが咲き身の最高だったの?」という失言に傷つくシーンなどでも、ケイトが相手の期待に生き、見返りを求める姿勢で恋愛をしていることがわかります。 そんなふうに見ることもできるけど、やっぱりメグ・ライアンの映画の良さは、私にとっては彼女の最高の笑顔です。 今回は、最後のダンスのシーンで見ることができました。それだけで花丸です(^^)v ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 17, 2006
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今日の青春アドベンチャー(NHKFM)「イカロスの誕生日」第5回の中で「良い子やめた」というセリフがありました。 女優の東ちづる(ちずる、ではない)さんの著書に『はなぜカウンセリングを受けたのか-「いい人、やめた!」母と娘の挑戦』(マガジンハウス)という本があります。そのサブタイトル部分にも「いい人やめた」がありますよね。 心を病んでいる人の多くは、良い人であり、親の良い子であったりします。 どうしてなんだろうと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、それは論理的に、当たり前のことなんですね。(理論的にではない) 良い子というのは、親の価値観から生じた親の期待、親の「正しさ(こうあるべき)」に従っているから、その親から見ると「自分の思う正しさを守っているから、良い子だ」ということになるのです。 子供の価値観、正しさがまったく親と同じならば、何の問題もないのですが、そんなことはまずありえないことです。 それなのに、「正しさ(あるべき)」を子供に押し付けている親から見て、その子がすごく良い子だとしたら、その子供は親の期待に応えるために、自分の価値観、自分のしたいことを押し殺して、親に合わせている部分があるはずです。 その程度が大きければ、その子はすごく辛抱をしているはずですから、つらい人生となり、さらに、それが禁止令としてその子の生活全般をがちがちに押さえつけていて、自分を生きることがほとんどできていない状態ならば、心の病気になってもおかしくないですよね。 良い人も同様です。従う対象が親だけではなく、法律や規則や常識、世間体などあらゆる「こうあるべき」に『従わなくてはいけない』と自分を縛り付けているのですから、心がほっとする間もないくらいかもしれません。 たとえば、主婦として、お掃除は毎日きちんとしなければならない、料理は出来合いのものを買うのではなく、きちんと作らなければならない、家の用事があるのに遊びに行ってはならない、「~ならない」「~あるべき」というように、がちがちに自分を縛り付けていたら、心もパンクしてしまいます。 でも、本当はすべての人に共通する「こうあるべき」などないのです。ですから、本当は、良い人をいくら演じようとしても、誰かにとっては良い人ではない、ということになっているのです。 たとえば、家事を完璧にこなそうとして、「部屋を汚すな」「掃除のじゃまだ!」と子供を怒ったりしたら、子供にとっては、良い人ではなくなっているでしょう? すべての人にとっての良い人は不可能です。実際は、親の良い子の延長線上、親の価値観においての良い人であろうとしているだけなのです。 ですから、共依存の束縛から解放されるためには、機能不全家族の中で身につけた「(自分が思う)良い子」をやめることが必要になってきます。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 17, 2006
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「暮らす」という言葉の元の意味は「暗くする」だそうです。そこから「日の暮れるまでの時間をすごす」ということから「暮らす」になったようです。 でも私たちは「暮らす」ということに、単に時間を過ごすということ以上の意味を感じて生きているように私は思います。 思うに「暮らしを楽しむ」ということは、「生きることを楽しむ」なんですね。 私は学生の頃、積み木くずしほどではありませんが、一時期、ちょっとだけ荒れたことがあって、その時に『何のために生きているんだ?』という青春ならではの疑問?(笑)を感じたことがありました。 その時に考えたのは、「人は幸せになるために生まれてきた」「幸せになるために生きている」ということです。 そして、今は「生きる」ということは、「自分というものを精一杯表現すること」だと思っています。 「さんたのはっぴーわーるど」というサイトを始めてから、多くの幸せになりたい人、穏やかな心になりたい人と接してきました。心を病んで苦しんでいる人もたくさんいました。 そんな人との関わりの中で、私自身がDVから回復し、穏やかな心を手にする過程で身に付けたことを伝えることによって、その人たちがどんどんラクに生きられるようになっていくのを見たり感じることができるのは、とても幸せなことです。 DVをしていたときは、私と接することで相手は辛さを感じ、不幸せを感じていたのに、今は、実際にお会いしたり、サイト、メルマガ、ブログ、メールレクチャー私と接することで幸せに変わっていく人がいるのですから、それはとてもうれしいことですよね。(^^) 今も何人かの方のメールレクチャーをお受けしていますが、個別にその人の固定観念という色眼鏡を手放すお手伝いができるんですね。個別だから効果も早くてどんどん緊張が取れ、生きるのがラクになり、たとえば、パニック障害からどんどん回復したり、極度の緊張から首の後ろにあった肉体的痛みが取れたりするなど、大きな回復があります。それまでの辛さから解放され、その方がどんどん穏やかな心を手にして喜んでくださるのを一緒に私も感じられるので、とても楽しいですね。(^^) 暮らしていく、生きていくということにおいて、人間関係は切り離せないものです。 人間関係をつらいものとして感じているか、楽しいものと感じるかているかは、暮らしていく、生きていくということにおいてとても重要なポイントになります。 人間関係に息苦しさを感じていたら、相手の目を気にしていますから、自分を100%表現することなどできません。 つまり、自分を100%表現し、自分らしく輝いて生きるということと人間関係を楽しいものと感じることは繋がっているんですね。 そんなことをお伝えすることで私が手にした喜びをお伝えし、その喜びをドミノ倒しのようにもっともっと広げていきたいですね。(^^) ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 17, 2006
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セックスはエネルギー交換だとしたら、いったい何のエネルギーなのでしょうか? 焼けた石を具材の入った鍋に入れて加熱する石焼鍋というものがありますが、「石焼鍋は、エネルギーが交換されている」と言えば、鍋の中の具材、汁に焼けた石の熱エネルギーが伝えられているというようにその状態を具体的に把握することができます。 「セックス」という言葉も「エネルギー」という言葉も「交換」という言葉も知っているから、「セックスは、エネルギー交換だ」と言われるとわかったような気になってしまいます。 ですが、石焼鍋のように具体的にその状態を把握できないですよね。熱エネルギー?運動エネルギー?(笑) 神の意図やそこに関係する「男性は自分では生命エネルギーを作り出すことが出来ない」というようなわかったようでまったくわからない説明は、なにも説明していないのと同じです。 その前提となっている科学的には荒唐無稽ともいえる理論の真偽が証明されていないのですから、そこから導き出される結論の真偽もわからないままです。 ですが、実際に私たちはセックスによって素晴らしいエネルギーに満たされるという感じを受けることがあります。 ですから、まず、その点に着目してセックスにおけるエネルギーの交換ということを考えていきます。<前に|続く> ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 16, 2006
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魂の欲求を最優先して、無条件の愛を選択するとき、感情に振り回されることがなくなります。 感情がなくなるのではありません。感情はあるのですが、一瞬の自然な感情だけになるのです。三ツ星☆さんのブログに一瞬の感情についての記述があります。ちょっとその部分を引用させていただきましょう。(ご本人の許可を得て転載しています)--- 引用開始 ------ダンナが部屋が「散らかってる!」とものすっごく怒りまくってて、子供もおびえてるのに、わたし、いつも以上にすっごく冷静だったんですよー自分で自分にびっくりです(笑)<中略>ほんとに、怒りがはじめの一瞬しか沸かなかったんですよーいつもより穏やかだったので、自分で自分にとまどってます~(^^;)--- 引用終了 ------ 聞いてみると、初めての体験だったそうです。 なぜ、こんなことが可能かというと、相手が仕掛けてきたコントロールドラマに乗らなかったんですね。 たとえ双子や三つ子であってもすべての人に個性があり、これか好き、あれは嫌いというように必ず違いがあります。 ですから、好きなものがあるときは肯定的な感情が湧き、嫌いなものがあるときには否定的な感情が湧くのは当然なのです。 でも、その感情は本来すぐにおさまるものなのです。 エリザベス・キューブラー・ロス博士は『「死ぬ瞬間」と臨死体験』の中で 「自然に育てられた子どもの自然な感情は、十五秒くらいしか続きません」(P108)と言っています。 「バシャール」(VOICE)という本の中でも「自然の怒りというものは10秒~15秒しかもちません」(P261)と言っています。 でも、私たちはもっと長い時間、感情に振り回されることがありますよね。そのような感情を感情だと思い込んでいますが、それは、思い、思考が、自然な感情を反復させるからなんです。そして、その思考は、心が創り出しています。 私たちがこれまで感情だと思っていた長時間振り回されてしまう感情というものは、実は、感情のふりをした思考だとも言えますし、思考によって増幅された感情だとも言えます。 そのような二種類の感情があることは、最近の研究でわかってきた脳の働きからも言える科学的なことなのです。 解剖学的に、感情機能には、高次の感情機能(思考が反復させた長時間続く感情)と低次の感情機能(自然な感情)があることが明らかになっています。低次の感情は『大脳辺縁系(旧哺乳類脳と呼ばれる動物脳)』から生じ、高次の感情は、『大脳新皮質(新哺乳類脳と呼ばれる人間脳)にある前頭前皮質』から生じています。低次の感情は本能的なものであり、条件反射的に生じます。そしてこの感情は、数秒間しか持続しません。高次の感情には、思考による価値判断が深く関わっています。そしてこの感情は、長期間持続する場合があります。(思考を司る)前頭前皮質を破壊された人からは、高次の感情が失われます。そして、大脳辺縁系を破壊された人からは、低次の感情が失われるのですが、同時に、高次の感情も失われます。何故ならば、高次の感情は、低次の感情を土台として機能しているからです。 このように、私たち人間特有のゆたかな感情は、人間特有の人間脳の理性、抽象的思考、言語コミュニケーション、目標設定能力などによって生まれてくるものなのです。 そして、ゆたかな感情があるからこそ、人間らしい生き方ができるんですね。 でも、同時に感情に振り回される苦しさを生む諸刃の剣でもあります。 感情に振り回されずに、ゆたかな感情を満喫して幸せな人生を送るためには、心(正しさ、分離)の欲求よりも魂(平安、ひとつであること)の欲求を優先されることが必要なのです。<戻る|続く> ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 15, 2006
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トリノオリンピックの開会式で、故ジョン・レノンさんの妻オノ・ヨーコさんが、「平和を広げよう」「一人一人が変える力を持っていることを忘れないで」とテロや紛争が絶えない世界へ、鮮烈なメッセージを伝えたことを、今日はじめて知りました。(^^; 「イマジン ピース(平和を想像してみよう)」「10億の人が平和について考えれば、平和は訪れる」「そんなに頑張らなくてもいい。ドミノ倒しを思い浮かべてみて。メッセージはあなたが思うよりも速く巡っていく」「いまが行動を起こすとき」「すべての人が平和に暮らすことを想像してみて」 ジョン・レノンの名曲「イマジン」は、私も大好きな曲です。 『世界平和』というと、とてつもなく大きなことで、一般市民には関係なくて、政治家のように力を持っていなければ関係ない、以前の私はそう思っていました。 今も、そう思っている人が多いんじゃないかなあ? そう思っている人には、ジョンやヨーコの「一人一人が変える力を持っている」というメッセージは、響いてこないんじゃないかと思います。 以前の私がそうでしたから。 でも、今は、はっきりと分かります。世界平和というのは、私たちひとり一人の問題なんです。 なぜなら、世界という存在の実体は、私たちひとり一人だからです。 かつて私も自分が、固定観念、自分の独り善がりの正しさに囚われた色眼鏡で世界を見ていることに気づき、その色眼鏡(フィルター)を外して(無条件の愛、無分別で)観た時、そこにまったく違う世界が開けて観えてきました。 それは、カルチャーショクに似た衝撃でした。 『今まで見ていたものはなんだったのだろう?』イエスやブッダが示唆していた愛の世界、それを自分のこととして感じることができました。 そして、そのまったく違う世界観を体験してから感じることは、誰しも、その違いを少しずつ体験しているということです。でも、あまりに当たり前すぎて気づけないでいるんです。 観ようとしなければ見えてこないんですね。 でも、確かに私たちは 「一人一人が変える力を持っている」んです。 あなたが形にする小さな愛は、確かに人々の間をドミノ倒しのように伝わって世界を駆け巡るんです。 臨死体験をしたベティ・イーディーさんの「死んで私が体験したこと」という本にこんな記述があります。 『わたしが傷つけた人たちが、今度は別の人を同じように傷つけている姿がありました。この被害者の連鎖はドミノ倒しのように続いていって、また振り出しに戻っていきます。最後のドミノは加害者であるわたしだったのです。ドミノの波は向こうへ行ったかと思うと、また戻ってきます。思わぬところで思わぬ人をわたしは苦しめていました。わたしの心の痛みが耐えられぬほど大きくなっていきました。』『さっきの波及効果の裏返しの面を見せて下さいました。そこには、なにか善いことをしているわたしの姿がありました。善いことといっても、わがままを出さなかったという程度なのですが、それがドミノの波となって外へと広がっていきました。わたしがやさしくしてあげたその友人が、今度はその友人に優しくしてあげる、こんなふうに連鎖が続いていくのです。まわりの人の人生は、愛と幸せが増すばかりです。こうなったのも、わたしのちょっとした行ないがあったからです。みんなは、ますます幸せになっていきました。幸せになったおかけで、人生の歩みも前向きで意義のあるものになっていきました。わたしの心の痛みは、喜びにかわりました。』(「死んで私が体験したこと」から) 私たちがしたほんの小さな行いが、世界をまわって自分に戻ってくるのなら、私は愛を形にしたいと思います。 「わがままを出さない」というような ほんのちょっとのことでいいのなら、誰でもちょっと意識するだけでできますよね? 想像してみてください。そんな小さな愛が広がって、多くの人に愛と幸せが増していき、結果的に成和に繋がっていくとしたら、なんてステキなんことでしょうか!(^-^) 一人一人が愛にあふれた世界に変える力を持っているのだから、たった今から始めてみませんか?※このメルマガを私に断らずに移用してくださってかまいません。※賛同して下る方は、メールやFAXなどで多くの方に呼びかけてあげてください。(このブログに対するコメントや掲示板などでメッセージいただけたらもっとうれしいです(^^) ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 14, 2006
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動的バランスをとるために魂の欲求実現を優先させるということは、無条件の愛ですべてを受け容れるということです。 多くの人が誤解するのは、この「受け容れる」の意味です。 たとえば、「幼児虐待も否定しないのか!そんなことでは、世の中がめちゃくちゃになってしまう」とよく反論されますが、 受け容れるということと、ふつうに使う肯定、否定の肯定とは違うんですね。 すべてを受け容れるということは、「ある条件下で相反するもの」を同時に受け容れることになります。 無条件ということは、良いとか悪いとか肯定する、否定する、という区別をする条件がないということですから、すべてを受け容れられるのです。 たとえば、「学生のくせに髪を染めるなんてけしからん」という人は、「学生は質素であるべきだ」というような基準を持ってるはずです。 無条件の愛とは、そういう「正しさは、絶対的なものではない」という正しい見方を基にまず、現状を認めることです。 別の言い方をすれば、自分では選択したくないことのその奥にある愛の部分に眼を向けるということです。 別の言い方をすると、そのことにある良いところを見つけるということです。 これができるようになると、それまで否定していたこと、嫌いだったことや人に対して自然な怒り(短い感情)が湧くだけで、その後は、感情に振り回させたりせず冷静に最適な判断ができるようになります。そして、それまで否定してことや人に対して、暖かいまなざしを向けることができるようになります。 なんと、ちょうど三ツ星☆さんのブログにそいうことが書かれたお話がありました。 その現状認識の後に、自分の好みという全体の下での好き嫌いで肯定否定をし、行動するということです。 「やすらぎ療法(セラピー)」という本ではこう説明しています。----- 引用開始 ----------------無条件の愛とは、相手の非常識を支持したり、イヤな行動を大目に見ることではありません。相手の身体や行動を超えてその奥にある部分に目を向けること、その人の霊的な本性としての愛の本質を見ようと選択することです。相手がどんなに嫌なことをしても、ただ我慢するのが無条件の愛ではありません。(P35)----- 引用終了 ---------------- 無条件の愛とは、仏教で言う無分別です。 ほとんどの人は、生まれてからずっと善いこと、悪いことというように分別していますから、無分別、無条件の愛という概念を持っていません。 だからこそ、意識して無分別、無条件の愛を体験することが大切なんです。<戻る|続く> ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングに↓参加よろしくです(^^)♪ ブログ・ランキング
Feb 14, 2006
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NHKFMの青春アドベンチャーで、「イカロスの誕生日」というお話が始まった。 人類の中に十五万人に一人の割合で、翼を持ち自由に空を飛ぶことができる“新人類”が生まれ始めた。彼らはイカロスと呼ばれた。イカロスたちとわだかまりなく共存してきた一般の人間たち。だが、一方でイカロスを敵視し、権力を駆使してイカロスを差別・弾圧しようとする集団が現れ、一般市民を守るという名目で、イカロスたちの自由を束縛する法律が通過し、イカロスたちの受難の日々が始まった。 そんないわれのない苦難を受けるイカロスの気持ちになって、涙が出てきた。 武宮恵子さんの「地球(テラ)へ」も、超能力を持った新人類ミュウたちの受難を描いている。 私たち人類は、未だに、肌の色や、人種、階級など、自分と違う者を排除して否定してしまうという愚かなことをやっている。 なにが愚かだって、差別されている側の数が多くなり、力関係が逆転すれば、自分が差別される側になってしまうのだから。 それは、落語の「一眼国」というお話でもよくわかる。 『なんて愚かなんだ』と悲しくなり涙も出てきたが、ふと、自分が子供の時のことを思い出した。 すっかり忘れていたが、私自身、小さいとき近くに住んでいたろうあ者だろうか、口のきけない子供を他の子供たちと一緒なって、からかっていたことを思い出した。 なんということをしていたのだろう! そのときの、あの子の悔しい気持ち、悲しい気持ちが自分のことのように感じられて、車を運転していたのに涙があふれて止まらなくなった。 本当にごめんなさい。 きっとあの世での人生回顧の時に、あの子やあの子の親御さんの悔しい気持ち、悲しい気持ちを自分の感情として感じることになるんだね。きっと、今感じているようなものではなく、もっともっと悔しく悲しかった気持ちを味わうことになるんだ。 でも、それは自業自得だから仕方がない。 でも、でも、もし、今、そんなことをしている人がいたら、すぐに止めて欲しい。相手の人のためにも、あなた自身のためにも。 お子さんがそんなことをしないように、よくお話してあげて欲しい。 そのような障害を持った人や、人種、階級などのいわれのない差別をしない子供に育ててあげて欲しい。 そして、逆にそんな苦難を受けている人は、悔しいかもしれない、悲しいかもしれないけれどあなた自身のために許してあげて欲しい。 このブログが、差別することなく、みんな当たり前のように平等に接することができる世の中を創っていく一助なればと思います。 ■今回のブログに賛同してくださる方 ランキング↓にご協力をお願いします。
Feb 13, 2006
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Noと言えない人とNoと言える人は、どこが違うのでしょうか? 大きく二つの違いがあります。 頼みごとをされたときNoと言える人は、1.自分がされたら喜ぶことをしたいと【自分が】思っている(自分の中の決め事、自分の正しさなので、自分で変えられる、融通がきく)2.自分がしたいから頼みごとを引き受けます(基準が自分)Noと言えない人は1.相手の期待に応えなければならないと思っている(実際は、禁止令によって刷り込まれたもので、自分で変えられない、融通がきかない)2.しなければいけないと感じてしまうので、イヤであっても断れなくて引き受けます(基準が外側にある) Noと言える人は、釈尊の自灯明、法灯明と同じです。 Noと言えない人は、表面的には「Noと言える人」と同じですが、そこに至る動機の方向性が逆なんです。 「シリウス革命」という本を読んだ方は、わかると思いますが、この方向性の違いは、統合とは逆の融解へと向かう方向性です。 ふつうに考えても、自分の『こうしたい』という情熱を実現させていくとき、自己実現の実感、喜びがあるのはわかりますよね。(^^) 逆に、周りから「こうしなさい」「こうしなければならない」「こうしなきゃダメじゃないか!」と言われてやらされるとき、自分が押しつぶされて、奴隷のような状態で、心から喜びが消えていくだろうことは、分かりますよね。 その違いが自分が基準か、他人が基準か自分から行動しているか、誰かの価値観に従わされて行動しているかなんですね。<戻る|続く> ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 13, 2006
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あなたの周りに人から頼まれると快く引き受けてくれる親切な人がいませんか?もしかしたら、あなた自身がそうかな? そういう人はたいていとっても親切な良い人ですよね。(^^) でも、そういう人は、案外そのことで悩んでいたりします。 もちろん、その人は『親切にしたい』『親切にして喜ばれるのがうれしい』という思いがあるから、親切にするわけです。でも、たまたま、自分が忙しかったりしたときに『今回は断りたい』という相反する思いがあったりすると、どちらかにしていいか悩んでしまうわけです。ところが、そのような良い人は『なんか断るのが苦手だ』『相手が嫌な気持ちになったら相手に悪い』『人を傷つけたくない』というような思いを感じて「No」と言えない人でもあったりします。 人に親切にすることは、社会的、道徳的に見ても、とても善いことです。 臨死体験をしたダニオン・ブリンクリーに光の存在は、こう言いました。「愛とは、自分がされたら喜ぶような方法で他人に接することだ」(ダニオン・ブリンクリー/ポール・ペリー共著/レイモンド・ムーディー博士解説◇大野晶子訳「未来からの生還」株式会社同朋舎◇P71より) そうだとしたら、「人から頼まれたことを快く引き受けること」は、あの世の基準でも善いことだということです。 そんな善いことなのに自分が忙しかったり、それが大変だと思ったときに、『断わりたい』と思ってしまうとき『自分はなんて悪い人だ』と自己嫌悪や罪悪感を抱いて、心を痛めてしまうんですね。そう感じたくないから、Noと言えない、断ることができなくなっています。 場合によっては、Noと言えないために、自分ではできないことまで引き受けて、逆にトラブルになってしまうこともあります。 でも、同じように親切でも、できないときには、平気で「No」と言える人もいます。どこが違うのでしょうか? Noと言えない良い人たちは、『なんか断るのが苦手だ』『相手が嫌な気持ちになったら相手に悪い』『人を傷つけたくない』という思いを感じているからNoと言えないのですよね。 なぜ、そんなふうな思いに支配されているのでしょうか? 実は、そういう思いは、恐れなのです。 幼い時に、頼みを断ったことを親に責められたり、人の頼みを断ってはいけない、と厳しくしつけられたりしてきたからです。 それが、いつのまにか、自分の考えに正しさとして刷り込まれ、そのうちに、最初から自分の気持ちであったかのように感じられるまでになり、本当の自分の気持ちと区別がつかなくなってしまったのです。 そういう状況の中で、頼んだことを断られるというのは、(頼みを断ったことを親に責められたりして育ったので、頼みを引き受けることが絶対的な正しさに感じられていますから、自分が正しく、相手が悪い人に感じられるから、自分は被害者に感じられる)ので、自分自身が傷つきます。また、誰かが傷ついているのを見たときに、自分が同じことをされたときの傷ついた気持ちが相手に投影されてかわいそうに感じて、Noと言えなくなってしまったのです。 そういうとき、どうしたらいいのでしょう? 同じように親切でありながら、必要な時には、ちゃんとNoと言える人とどこが違うのでしょうか? 共依存の特徴に■自らを犠牲にして他人を助けたり、世話をしたりする(無意識のうちに、自分が相手にとって必要となったり、ありがたがられる、などの報酬を期待している)■度を越して他人への責任を感じている。というようなことがありますが、そのようなNoと言えない人は、「恐れ」「自己肯定感のなさの補填」を動機に思考、行動しています。 つまり、断ることは、無意識ですが、恐れや自分の価値のなさに直面することに繋がるから、断ることが困難に感じてしまうのです。 一方、Noと言える人は、恐れではなく、愛で、自分がそうしたいからそうしているだけなのです。だから、時間的な理由、能力的な理由で頼みに応えることは難しいと感じれば、頼みを受けたいと感じません(したいことではない)から、素直にNoと言えるのです。 そこには、『親切にしたい』『親切にして喜ばれるのがうれしい』という思いと『今回は断りたい』という相反する思いの葛藤はないのです。偽りの自分(他者の価値観)はいないのです。 実は、これまで説明してきたように、この場合の『親切にしたい』『親切にして喜ばれるのがうれしい』という思いは、幼い時に親などから禁止令によって刷り込まれ、いつのまにか自分の気持ちのように振舞っている偽りの自分と呼ばれるものなのです。 自分が一人だとしたら、自分の思いがふたつあるはずはないのです。自分の中に偽りの自分が同居しているから、相反するふたつの思いが生じるのです。 見えない虐待3でも説明したように、親の期待や正しさに応えようとしているうちに、親の価値観が自分の価値観のようになってしまうことがあるのです。(もちろん、自分が納得して選択したときは、本当に自分の価値観となります) 多くの場合、その価値観(偽りの自分、納得していない正しさ)は機能不全家族の中で、見える虐待、見えない虐待によって恐れとともに刷り込まれたものです。 そこから解き放たれるには、1.偽りの自分(自分の中の納得していない価値観、正しさ)の存在を認める2.刷り込まれたときの恐れに感じること、人を許す、受け容れることです。 恐れとは、そうであってはならない、という思いと現実のギャップから生じています。 たとえば、お父さんとお母さんが仲が悪い、『そうであってはならない』と思うから幼心でなんとかしようと、自分が納得していないのに親が喜ぶこと、親の不仲が解消されることをしないではいられなくなり、それがパターンになっていき、そのパターンから外れることは、恐れに結びつき、過去の恐れが、現在に投影されて、Noと言えなくなる、そのような仕組みがあります。 ちょっと詳しく説明しすぎましたので、もしかしたら、わかりにくいかもしれませんが以下なども参考にしてださいCounseling style の 「No」と言えない私心あたたまるお話【鏡の法則】<続く> ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 12, 2006
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ある女性が「自分の顔が嫌い」と言いました。自分のことをブスだと思っていると言うのです。 ですが、そんなことないんですけどね。(^^) 美しい女優さんでも、完璧な美人顔ってそういるものではありません。 でも、自分で『私の顔のここがダメ』と思い込むとそこに囚われてしまって、どんどんそこが気になってイヤでイヤで仕方がなくなるんですね。 今、高3の娘が中学のときのことです。 バレーボール部だった娘がネットを片付けていると、一緒にネットを持っていた人が手を離してしまったために、ネットのスチールワイヤーが蛇のようにのた打ち回ってあっという間に娘の口の上に突き刺さったのです。 口を貫通して穴が開いてしまったのです!女の子の顔に穴が開いてしまったのです。 私もすでに家に帰っていたときに、学校からその連絡があったのです。 さすがに動揺しました。すぐに病院に行くこともできましたが、妻と私が動揺して二人で駆けつけたら、娘はもっと動揺するのではないかと思ったのです。 私が行くことで傷が良くなるのであれば、すぐにでも行きますが、むしろ、動揺する親を見て、娘が『親が動揺するほど自分の傷が大変なことなんだ』そう思い込み、『こんな傷のついた自分の顔なんか嫌いだ!』と思ってしまう心の傷の方が後の人生に大きな影響を与えるだろうと考えたのです。 すでについてしまった身体の傷はどうしようもありません。では、これから私にできるのはなんだろう?『私ができるのは、この出来事を娘がトラウマにしないようにしたあげることだ』そう思ったので、できるだけ動揺したりせずあるがままを受け容れようと思ったのです。そして、妻にもそう話し、妻だけが病院に行きました。 でも、私の父、娘のおじいちゃんは、私が病院に行かなかったことが娘のことを心配しないひどい父親に見えたようです。 今でも、娘の顔には、そのとき突き刺さったスチールワイヤーが開けた穴の傷跡が残っていますが、娘はそのことをそれほど気にかけていないようです。 もし、気にかけていたらおそらく暗い性格になっていたかもしれません。でも気にしていないから、特別なことでもないと傷のことなど思い出してもしていないのもしれません。 おかげさまで、明るい娘です。(^0^) あのとき、あわてて動揺したまま病院に行ったりせず、開いてしまった傷のことより、まだついていない心の傷(トラウマ)が、これからつかないように気をつけたことがよかったと思っています。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 11, 2006
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寒い冬に香り豊かなホット・サーモティーを飲む時間は、生活の中のささやかな幸せ、癒しの時間です。(^^) このお茶は、飲むだけで代謝が上がって減量にも効果あるらしいです。 夏に身体ポットポッとなって、『冷房が効いてないのかなあ』と思っていたんですが、このサーモティーを飲んだときだけ、身体が火照っているのに気づいてビックリしました。(@o@) さすがに冬は火照っている感じはないですが、いくぶん、寒くないかもですね。 そんな効果もありますが、私が幸せに感じるのは、その香りです。4つの香りがあるんですが、私が好きなのは、ラスベリーです。ホントにいい香りなんですよ(^^) 寒い季節にその暖かさとステキな香りでとてもリラックス気分になれます。 ところで、香りってちょっと特別なんですね。 人間の脳は、大きく二種類に分けられ、大脳新皮質は人間の進化にともなって発達した脳で、高度な知的活動をつかさどっています。簡単に言うと意識や理性を左右しているところです。それに対して大脳辺縁系は、旧皮質または古皮質と呼ばれていて、動物的な本能をつかさどっているところです。動物に共通である食欲や性欲のような本能的な欲望、怒り、快感などの情動に関係しています。 アロマ・テラピー(セラピー)というのがありますよね。「アロマ=aroma」とは「芳香」、「テラピー=therapy」とは「治療」のことです。 映像や音と違い、香りの刺激は、直接に大脳辺縁系に届くんですね。 つまり、香りで食欲や性欲や感情をコントロールできるというわけです。 最近、資生堂では、運動しなくても交感神経を活性化させて中性脂肪を燃焼させる香料を発見したそうです。 香りって、すごいですね。(^^) ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 11, 2006
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バレンタインデーも近いので、チョコレートケーキを作ってみました。えっ、なんでおやじが作るのかって? それは、私がケーキを食べるのも作るのも好きだからです(^○^) では、我が家流というか、わたし流の簡単レシピをご紹介します。(笑)参考にしやすいように、作る過程の写真を入れまてみました。今日は、16Cmの丸型で作りました。本来、卵を泡立てずに作るケーキを敢えてメレンゲを使って作っています。■材料・薄力粉 100g~110g・砂糖(普通の白砂糖でOK) 150g~170g・純ココア(調整ココアじゃないよ) 30g (チョコレートを使わない分、これだけは純ココアで!)・卵 3個(常温に戻しておきましょう)(本日フリーサイズだったのでSかMサイズでした)・バター(有塩でOK) 100g~125g(本日100g、それで使い切ったから(笑))・お好みでラム酒など■作り方1.卵を黄身と白身に分けます。2.まず、白身を泡立てます。(ハンドミキサーを使うとラクです)3.ある程度泡立ったら、砂糖を半分程度いれて、さらに生クリームのようになるまで、泡立てメレンゲをつくります。(こんな感じにきめ細かく、模様が書ける感じにします)4.次に、黄身をちょっと白っぽくなるまで泡立て、そこにメレンゲを2/3ほど入れます。5.4を混ぜ合わせます。6.5に薄力粉、残りの砂糖、ココアを粉ふるいもせずぶちこみます。(なんてアバウトな!(笑))ふっくらと仕上げたいときは、こんなことをしてはダメです。(笑)7.粉があまり見えなくなるまで混ぜます(笑)(ふっくらとしたあげたいときは、ここも予め粉をふるっておき、2、3回に分けて粉を入れ、ざっくりと混ぜます)8.7にレンジでチンした溶かしバターを入れ、9.バターを生地に混ぜ込みます。(滑らかになります)10.オーブンを170度の予熱を始めます。11.生地がきれいに混ざったところに、残りのメレンゲをざっくり混ぜ合わせます。(このメレンゲのおかげでベーキングパウダー無しで膨らみます) ここでお好みで、ラム酒などを入れてネ(おいしそう(^^))12.生地を型に入れたら、ちょっと上から何回かトントンと落として空気を抜いておきます。ここで、生地を斜めにして型のふちにつけるようにしながら、一周つけると、膨らむときに周りだけでなく、有る程度、周りも上のほうまで膨らみます。今回は、やるのを忘れました(^^;なので、真ん中だけがぼよよーんと膨らんじゃいました。13.予熱が終わったら、12を入れ、40~50分焼きます。(ご自分の目とタケ串を刺して確認してください)(真ん中あたりが焼け切ってなくてもOKです)14.焼きあがり!15.お好みで粉砂糖などでデコレーションします。・ワープロで打った文字を切り抜きました・文字を切り抜いた紙をケーキにのせ、その上に粉ふるいを押し付けて粉砂糖を刷り込むようにするときれいに文字が書けます(最初浮かしてふるったら、粉が散ってうまくいきませんでした(^^;)16.試食 そのままでも、生クリームを添えても。手作りチョコケーキと香りが良くて代謝を上げる効果もあるサーモティーでお茶にしました(^^)私「どうよ?」娘「うん、うまい(^^)」私『ヤッター!(^○^)/』簡単なので、よかったら、みなさんもお試しください。■ 速報!!(13:54)やったーーー!!ブログランキング・ベスト10入りしました。\(^O^)/わーい 見て見て↓(^o^)このケーキ、さっそく、お祝いのケーキになりました(^^)みなさま、ありがとうございました。m_ _mこれからも、読んだら「ぽちっとな」してくださいね(^^) ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を「ぽちっとな」と押してね(^^)♪
Feb 11, 2006
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魂、心、身体という優先順位で欲求実現をするとき、それは毎瞬毎瞬の選択となります。 身体の欲求や心の欲求の実現というのは、ほとんどの場合実現までに時間がかかります。 ところが魂の欲求実現とは、無条件の愛であることです。それは、言い換えれば、すべてを受け容れるということです。 その選択の瞬間は、毎瞬舞瞬なんですね。 何かを否定してしまう瞬間というのは、日常何度もあるものです。その否定をやめること、基本的にただそれだけが魂の欲求です。 何かを否定してしまうという欲求が実現すると、自分がされたら喜ぶような方法で他人に接すること(愛)が、自然にできるようになっていきます。 ここで、多くの人が誤解してしまうのは、否定しないということと選択しないということを混同してしまってるということです。 たとえば、「幼児虐待も否定しないのか!そんなことでは、世の中がめちゃくちゃになってしまう」とよく反論されますが、それは無条件の愛の理解が難しいゆえの誤解なのです。<戻る|続く> ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 11, 2006
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多くの人が世界が平和になることを願っていると思います。でも、ちょっとだけ気づいて欲しいことがあります。 尾田栄一郎さんの素晴らしいマンガ「ワンピース」の中の一シーンです。(「反乱軍を攻撃しましょう」という部下に対し)国王「やかましい!!! ならんと言っている!!!」 「やられたらやり返す気か 子供のけんかじゃないんだぞ!!!」部下「しかし、国王様!!! このままでは国の存亡に関わります!!」国王「それがどうした!! だからと言って原因もわからずこの国の民を討ち滅ぼすというのか!!?」 「それこそが国を滅ぼすということだ!!」 「いいか 国とは“人”なのだ!!!」(尾田栄一郎さんのコミックス「ワンピース」19巻 P16P17より) 私はこれを読むと、国王の人に対する暖かいまなざしが感じられて、ウルウルしてしまいます。(;_;) ぐすっ!気を取り直して(笑)注目して欲しいのは「国とは、人なのだ」という国王のセリフです。 「お国のため」という名目で、かつて日本でも悲惨な戦争が行われました。 でも、国民なくして国はあり得ません。尾田さんの言うとおり「国とは人」なのです。同じように、世界の本質も人なのです。 ですから、世界平和とは、世界を構成する私たち一人一人の心が平和になることなのです。 心の中では憎しみ合いながら、顔だけ笑って握手しても、それは見せかけの平和に過ぎません。 本当の平和は、一人一人の心の平和から始まるのです。そのことに気づいた私たち一人一人が自らの意識を変革し、本当の愛に目覚めることから、世界平和が始まっていくのです。 それは小さな一歩かも知れません。 でも、確かな一歩だと私は信じています。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 10, 2006
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神さまが私たちに与えてくれた贈り物のひとつに「自由意志」があります。 自由意志があるからこそ、「私は私」なんですね。 楽天ブログ「かめわざ快心塾」のかめおかゆみこさんの今日のブログ「他人を変えることはできません」は、私と同じ考えです。エリザベス・キューブラー・ロス博士も、「神が人間に与えた最高の贈り物は自由意志です。」(「死後の真実」P17)と言っています。 でも、自由意志を誤解する人がいます。Aさんが「あなた(Bさん)に○○をして欲しい」と言ったら、Bさんは、それに従わなければならないということだ、と思ってしまう人がいます。 自由意志をみんなが持っているということは、自由意志の範囲は、自分の思考、行動の範囲までなのです。 みんなに自由意志があるということは、Bさんにも、Aさんの申し出を受ける自由も断る自由もあるわけですからね。 表面上、従わせることはできますが、その人の意識そのものを【直接】心から変えることはできません。 ちょっと考えたらわかることなのに、なぜ、『誰かに期待されたら、従わなければならない』と思ってしまう人が多いのかといえば、このブログで何度も説明してきたように、機能不全家族の中で、しつけとして親がコントロールドラマで、子供を自分の言いなりになるように操作してきたからです。 それには、肉体的虐待や心理的虐待が使われたりしますよね。 その結果『相手の期待に応えなくちゃ』と思ってしまう思考パターンが出来上がっているので、その人にとっては、それが当たり前に見えるんですね。 しかし、そのような間違った認知を正せば、自分の心の穏やかさ、内的平和のために、相手を変えようとすることは、間違った考えだとわかりますね。 自分の心の平安のためには、自分を変えることが一番有効なのです。 そして、面白いことに、自分が内的平安を取り戻すと、周りも以前よりあなたの言うことを聞いてくれるようになってくるんですね。 面白いでしょ(^^) ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 10, 2006
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セックスは、エネルギー交換だという見方があります。恋愛とセックスは密接に関係していますよね。(*^.^*) 私と同じブログ・ランキングに参加されていて、今ダントツトップのはづき虹映さんのブログをみたら、「お互いのエナジーの交換ということがよく分からない」という質問に答えて「セックスとは…」というテーマで、書いていらっしゃいました。 私は、はづき虹映さんのメルマガもとっていて、はづきさんのお話には、賛同することも多いのですが、今回のお話は、あまり納得できないですね。(^^;「本当に書きたいこと、言いたいことは、ここではほとんど言えません」というコメント付ではありましたが、今回は、はっきり言って「なあにこれ?」という感じです。 そこで、私なりに「セックスとエネルギー」についての考えをお話したいと思います。 質問者の質問の主旨は、1.なぜ、セックス(という行為)が存在するのか仮に、セックスがエネルギー交換だ、ということを前提として考えた場合2.なぜ、セックス(という行為でエネルギー交換)をするのか?ということだと思います。 さて、この質問にある「なぜ」という言葉、セックスが存在する理由、意味、セックスによってエネルギー交換をする理由、意味が問われています。 ところが、意味というのは、意志と目的(意図)に対して相対的に存在します。今の例で単純に言えば、1.人を創った存在(仮に神としておきます)の意図と2.セックスをする人間側の意図の両面があるということです。 この場合、神の意図を知りたいという質問であると考えていいと思います。 でも、そんなもん、神さまに訊かなきゃ答えはでないよ!というのが、正解です。(^^) とは、神さまの意図を、臨死体験者の話やその他の状況などから推測するしかないのです。 つまり、確定した結論はでないということです。 さらに、同じ意識の意図であっても、理由は複数ある可能性がある、そのどれを訊きたいのかをはっきりさせる必要がある。ということです。たとえば、自動車メーカーの人が新しい2ドアの車を作ったとき、「ドアを2つつけたのですか?」という質問に対し、1.ラクに乗り降りできるように2.4ドアよりも、デザインが優れているから3.2人乗りの使用をメインに考えた車だから4.ドアなしは安全基準上許可されないからなど、複数の意図があり得るのです。 だから、その部分を明確にしてから、ある前提におけるひとつの推定として答えるしかないんですね。 うーん、とても一回では説明しきれないのでまったく核心に触れられないまま、(^^;<続く> ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 10, 2006
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みなさんのおかげで、今(10:15時点)のブログランキングが11位!な、な、なんとベスト10まで、あとワンランクです!!! すごーーーい。\(^0^)/注目↓ 感謝感謝です。m_ _m ここまできたら、ベスト10入りしなくちゃ。 多くの人に、無条件の愛のやさしさ、あたたかさを知ってもらいたいっ!
Feb 10, 2006
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釈尊の教えをヒカリズム流の四諦(したい)で、説明しましょう。1.苦諦(くたい) :此岸(凡夫の意識)には、四苦八苦の苦しみがある まず、事実を事実として、認めることです。 実は、心を病んでいる人は、嫌なことも嫌ではないと思おうとしたり、実際に、表面上嫌ではないと感じていることもあるのです。 でも、それは自分の心を偽っていますから、なんとなく心が晴れない、わけのわからない苦しさを感じたりします。 ある女性は、黒っぽい服装やボーイッシュな服装が好きだと思っていたし、ずっとそういう服装をしていたのですが、実は、男の子が欲しかった母親の影響で、母親に好かれるように自分がそういう服装が好きだと無理やり思い込んでいたということがありました。 そして、そのことに気づいたその女性は、ピンクのフリフリの服を着て、本当の自分を取り戻したそうです。2.集諦(じったい):凡夫の意識にある苦は、煩悩、妄念という間違った考え方が原因(縁)となっている(出来事、たとえば、死も原因、縁であるが、それは変えられない) ポイントは、出来事それ自体に苦があるのではないということを正しく見ることです。 私たちは、自分が苦しいと感じることは、誰でもそうであるかのように思ってしまうけれど、実際は、同じ出来事でも、それをきっかけに苦しみを感じる人もそうでない人もいるというのが、経験的にも、論理的にも正しい見方です。 たとえば、学生の頃、『勉強なんて苦痛だ』と思った人も多かったでしょうが(笑)一方で、勉強しているときが楽しいと言う人もいましたよね。 それは、勉強ということそれ自体には、『楽しい』という意味も『苦しい』という意味もないということなのですね。 それは、受け取る人がどう考えているかによって、感じ方が変わっていたわけです。3.滅諦(めったい):苦をなくすには、苦の原因(縁)である煩悩、妄念という間違った(目的に合わない)考え方をなくせば良い 苦の原因のうち自分で確実に対処できる原因は、自分の考え方なんですね。 原因がわかれば、その原因に対処すればいいのです。 もし、『苦しみたくない』と思うならば(という目的を持つならば)、正しい考え方(その目的に合った考え方)を選べばよいということになるわけです。4.道諦(どうたい):苦を滅する道は苦から逃れようと努力することではなく、苦の原因(縁)である煩悩、妄念という間違った考え方をなくすために八正道を行うのが良い八正道・正しく物事を見る「正見(しょうけん)」・正しく考え「正思(しょうし)」・正しく語り「正語(しょうご)」・正しく行為し「正行(しょうぎょう)」・正しく生活し「正命(しょうみょう)」・正しく努力し「正精進(しょうしょうじん)」・正しく念じ「正念(しょうねん)」・正しく心を決定させる「正定(しょうじょう)」という八つの道が「八正道(はっしょうどう)」です。「正しい」とは「真理に合った」という意味なのですが、悟っていないのに解釈する人は、社会的な正しさに合ったものを正しさとして取り入れてしまっています。そうなると、もう悟ることはできなくなります。 これだけ仏教が栄えても、悟る人が少ないのは、正しさを履き違えているからです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 10, 2006
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妻がぼそっと言った。妻「バンパーっていくらかなあ?」私「どうしたの?」妻「今日、車ぶつけてバンパーが壊れたの」 この時点で以前の私なら、怒りまくっていたか、行動では怒りを抑えていても心の中は怒りとかどうしようもない気持ちがどんどんと湧き上がって胸のあたりが変な感じになっていたはず。 でも、今はまったく心に波が立たないまま、穏やかな気持ちで事実だけを見ることができていた。 これは『本当にすごいことだ!』と感じています。 まず、そんな出来事によって心が乱されることが無いから、争いも起きません。心の中も、外側の出来事としても争いが無いのです。 心の平安が、そのまま外側の出来事として反映しているんですね。 ほとんどの方は、ひどいこと(と本人が感じること)をされて怒っている人に「まあまあ、そんなに怒らないで」と落ち着くように言った時に「こんなことされたら、誰だって怒るのが当然でしょ!」と答えるのを聞いたことがあるでしょ? でも、「すべての人が同じに感じる」ということはあり得ないと言っていいと思います。 もちろん、同様に感じる人が多い、ということはありますが、人によって感じ方は違うはずです。 それが、『みんなも同じように感じるはず』と感じてしまうのは、知らず知らずのうちに、世の中を固定観念、過去に組み立てられた思考パターンというフィルター、色眼鏡で見ているから。 そういう思考パターン、意識から抜け出さないうちは、出来事にまったく影響されない境地というものを体験することはないでしょうし、体験しなければ、実感できないですよね。 でも、本当にそういう境地は存在します。 『神との対話』でも、そのことを語っています。---- 引用開始 -------それぞれの人が内心の平和を見いだしたとしよう。内心の平和を見いだせば、あなた方は「なしでやっていく」ことができるようになる。つまり、あなたがたは外部世界のものを必要としなくなる。「必要としない」、それは偉大なる自由だ。まず、不安から自由になれる。自分には持てないものがあるという不安だ。それに、特定のものがなけれれば幸せになれない、という不安だ。第二に、「必要としない」と、怒りからも自由になれる。怒りとは、不安の表現だ。不安に思うことが何もなければ、怒ることもない。欲しいものが得られなくても、あなたは怒らない。なぜなら、欲しいといっても、好みの問題であって、絶対に必要だというわけではないからだ。だから、あなたは得られないかもしれないという思いにつきものの不安を感じない。したがって、怒りもしない。誰かがあなたの意に反したことをしても、怒りは感じない。なぜなら、どうしても誰かに何かをさせねばならぬ、あるいはさせてはならぬという必要性を感じないから。だから、怒りも感じない。あなたは、誰かが不親切でも怒りはしない。なぜなら、親切にされる必要性を感じないからだ。誰かに冷たくされても怒りはしない。なぜなら、愛される必要性を感じないから。だれかがあなたにひどいことをしたり、傷つけようとしたり、損害を与えようとしても、あなたは相手に別のふるまいをさせる必要を感じないし、自分が傷つけられはしないことを知っている。たとえ誰かがあなたの生命をとろうとしても、あなたは怒りはしない。なぜなら、あなたは死を恐れないから。恐れがなくなれば、ほかのすべてもなくなり、あなたは怒らなくなる。あなたは心の中で直観的に、自分が創り出したものはすべて再び創り出せることを知っているし---もっと重要なことには---実はそれがどうでもいいことも知っている。内心の平和を見いだしたとき、人であれ、場所であれ、ものごとであれ、条件であれ、環境であれ、状況であれ、そうしたことの有無では心の状態も自分という存在の体験も影響を受けなくなる。だからといって、肉体にかかわるすべてを拒絶するということではない。あなたはかつてなかったほどに肉体を充分に体験し、歓びを得るだろう。だが、肉体的なことへのかかわりは、自発的なものであって、規制ではなくなる。肉体的な感覚を経験するのは、自分がそれを選択したからで、幸せになるのに必要だからとか、悲しみを正当化するのに必要だからではない。この単純な---内側に平和を求めて、見いだすという---変化が万人に起これば、すべての戦争はなくなり、世界には永遠の平和がもたらされるだろう。ほかに必要な方策はないし、またあり得ない。世界平和は個人的なことがらだ!必要なのは、環境を変化させることではなく、意識を変化させることだ。(『神との対話2』P198~P200)---- 引用終了 ------- 実は、心の平安を妨げるのは、意識の中に「こうあるべき、ねばならない」という思考が正しさや期待として存在するときなんですね。 外側がその正しさや期待に一致していないとき、そのギャップ(不一致)が心を乱すのです。 これがシンプルな真理なのです。 でも、自分の正しさを握り締めている限り、その真理をものにすることはできないのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 9, 2006
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今朝の、ニュースで、3歳児を虐待で死なせたという痛ましい事件が2件もあった。 1件は、群馬県の夫(25)と妻(28)が、1月初旬から3歳の長男を追いかけ回し、モップで殴ったり、けったり、水風呂に約2時間つからせるなど虐待を繰り返していたらしい。(あまりにもひどくて書いているだけ涙がでてきます) その長男は7日夜に死亡し、司法解剖の結果、死因は全身を殴られたことによる外傷性ショックと判明。全身あざだらけだったという。 両容疑者は「反抗的なのでしつけのつもりでやった」と供述している。 「しつけ」という概念をはっきりさせないと、自分を正当化するための言い訳に利用されちゃうね。 もう1件は、 香川県で、母親(25)が、今月上旬ごろから数日間、3歳のに食事を与えずに死なせた疑い。母親(亡くなった子供の祖母)と長男(4)、亡くなった二男(3)の4人暮らし。 同居していた母親(48)が見つけ、同署に通報したとのことだが、亡くなるまで食事も与えていないことにも気づかなかったんだろうか? 母親は「二男より長男の方がかわいかった」と話しているという。かなり、差別して接していたらしい。おそらく、誰か許せない人物を次男に投影していじめていたのではないだろうか? こんな痛ましい事件が同じ日に2件も起きるということは、まだ発覚していない虐待はどれくらいあるのだろう? おそらく、今この瞬間も、日本のどこかで、いや世界中で何の抵抗もできない幼い幼児や児童が親などの虐待にあっているのだ。 そのことを感じながらも何もできないことが、悔しくてならない。書き込みしながら涙があふれてくる(;_;)。 私にできることは、自分のDVでの体験を踏まえてブログやメルマガ、サイトを通じて、少しでも多くの人に、本当の愛、無条件の愛を知ってもらうこと。 共依存や防衛機制を知ることで、自分の、そして家族のコントロールドラマを理解し、そのエネルギー争いから離脱する人をひとりでも増やすことしかできない。 微力だけれど、この輪を広げていきたいと思う。 ワイドショーの司会者やコメンテーターは、加害者である親の異常性を責めたりしがちだが、共依存の概念や防衛機制の概念を理解すれば、加害者である親自身もそのまた親に愛情を与えられずに育った被害者であることは容易に想像がつく。 しつけとして、社会の正しさをしっかり教えればいいというものではないのだ。 逆にそのしつけが親からの愛情を感じられない状況を生む可能性もある。 一概に答えを出すことはできないけれど、条件付きの愛で、恐れから育てられることで、共依存の連鎖が起きているのだろう。 虐待されて育って大人になった親は、その虐待が連鎖し、子供に同じことすることも多いという。 私自身がそうだったから、それはよくわかる。私にとっては、怒りから殴ってしつけることは、あたり前のことに感じられていて、おかしいとは思わなかった時期がある。 とんでもなく変な話に思う人もいるだろうし、共感してくれる人もいるだろう。 共依存症者は、機能不全家族の中での常識のまま生きているのだ。一般社会では、常識が違うために生きにくさを感じてしまう、というのも同じ理屈だろう。 そんな痛ましい連鎖は、気づいた者から手放していこう。 本当の愛で子供を育てる家庭が増えていき、親の言いなりになるしかない幼い幼児が、このような痛ましい虐待を受けたりしない社会に少しでも近づくようにしていきたいと心から思う。 幼くして亡くなった尊い魂に合掌。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 9, 2006
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身体と心と魂のバランスをとるということは、実践的には、身体と心と魂の欲求実現の優先順位を決めるということで、実施されます。 静的バランスでは、割合が定まっているので、すんなり割合を決めるということでいいのですが、動的バランスは毎瞬毎瞬変化しているので、身体と心と魂の割合をどの程度にするのかと考えることは意味をなさないのです。 ですから、身体と心と魂の欲求実現の優先順位を決めることで、結果的に瞬間瞬間の周囲とのバランスがとれた割り合いを選び取ることができるというわけです。 ゆるぎない穏やかな心、苦を越える、本当の幸せ、悟りということを目的とするなら、 1.魂、霊魂(spirit):すべてとの統合欲求2.心、精神(mind):社会に認められる欲求(社会における自己の維持欲求)3.身体、肉体(body):肉体を維持する欲求の順番です。 たとえば、ご飯を食べるかどうかは、身体の維持の問題ですから(話を単純化するためにそう設定します)、魂も心も感知しません。「好きなものお食べよ」というわけです。100%身体でいいということになります。 ところが、肉を食べるということになると、心が「いや、ちょっとまて、ベジタリアンの方がいい」というかもしれません。食べもしないウサギを遊びで狩をすると言ったら、心が「そんなことをしてはいかん!」というかもしれません。自分はしないのに、ウサギ狩りをする人と知り合いになったら、「あいつのことは許せない」と心はいうかもしれません。魂の欲求はただ一つ、無条件の愛の実践です。優先順位は、1.魂2.心3.身体なんですけど、その欲求がどんなものか、そこを理解するのが難しいんですね。<戻る|続く> ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 今(2006/2/9 0:10)見たら、な、な、なんと15位でした。\(^O^)/みなさま、ありがとうございます。 ぜひ、10位以内になりたいぞ!ご協力、よろしく(^0^)/ 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 9, 2006
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悟りとは、あるがままを受け容れる態度のことだともいえます。こんなお話があります。----------------------------あるとき、釈尊がひとり森で瞑想をされていたとき、何人もの若者が釈尊のそばを駆け抜けていこうとしました。その中の一人が「今、ここを女が大きな物を背負っていかなかったか?」と釈尊に尋ねました。その慌てた様子に釈尊は「いったいどうしたのか?」と尋ねられました。若者はそれに答えて、「今日は休みなので、みんなで一人一人妻を伴ってこの森に遊びに来たのだ。ところが一人だけ未婚の者が自分だけ一人なのが淋しいので、遊女を一人雇ってきた。ところがその女が、皆が楽しんでいるすきに、金の食器など、皆の持ち物を盗んで逃げて行ったのだ」そのときに釈尊はこう尋ねられました。「若者よ、金品を盗んで逃げた女を追い求めるのと、己れ自らをたずね求めるのと、どちらの方がより大切なことだとと思うか?」若者たちは思いもよらない質問にびっくりしますが、すぐに、釈尊の言葉の意味に気づき、「自らをたずね求めることです」と答えます。それをお聞きになった釈尊は若者たちにお話をされました。---------------------------- このお話のポイントは、もちろん、「お金などより悟りの方が重要でしょう」ということですが、実は、釈尊が相手の自由意志を尊重していることが、着目すべき点なのです。釈尊は「若者よ、金品を盗んで逃げた女を追い求めることより、己れ自らをたずね求めることの方がより大切だから、私の話を聞きなさい」とは言っていないですよね。相手の意志を確認しています。 多くの人が、命令だと誤解している厳しい戒律でさえ、提案なのです。 あるがままを受け容れる態度は、人に対することに限っていえば、自由意志を尊重することなのです。 悟りとは、縁起を理解することですから、この釈尊の姿勢は、「どんなに悟りがすばらしいものであってもその人が、悟りを求める気持ち(ひとつの縁)がなければ、その人にとっては、悟りは大切なものに感じられないない」と、はっきり理解していることの現われなのです。<続く> ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 8, 2006
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穏やかな心で自分らしく輝きながら幸せを感じる生き方に名前をつけました。それがヒカリズムです。 私たちは本来ひかりの存在ですから、ひかり主義ということです。そして、光り輝いて生きる生き方ということです。 その生き方をシンプルにいうと 自分を無条件に愛することただそれだけです。でも、それだけではわかりにくいのでヒカリズムの境地に至る方法として3か条をあげています0.本当に自分を許し、(無条件に)愛する1.起きたことは抵抗せず無条件に受け容れる2.自分の内から沸くワクワクする思い、したいことを受け容れて、罪悪感を抱くことなしに実践する ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 8, 2006
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よく、人間は「身体と心と魂」が三位一体となった存在だ。というようなことが言われます。 身体を肉体(body)、心は精神(mind)、魂は霊魂(spirit)、という場合もあります。 しかし、いずれにしろ、魂なんて信じられないという人にとっては、うさんくさい話でしかないでしょうし、「心とは何か」をちゃんと説明していないことも多いです。 でも、幸せ、穏やかな心ということを目的にした場合、魂があるかどうかは問題ではないのです。 肉体と心と魂のバランスについて説明しようとしたら、それぞれの言葉の概念をはっきりさせる必要があります。 概念を説明するときは、その目的に適った説明が必要です。ル・マン24時間耐久レースに参加するために「今度はどんな車にしよう」と言ったのに「人力車がオツです」と言ったら目的を理解していないバカものです。(笑) 幸せになる、苦を超える、穏やかな心というような目的を前提にしたとき、1.身体、肉体(body):肉体を維持する欲求2.心、精神(mind):社会に認められる欲求(社会における自己の維持欲求)3.魂、霊魂(spirit):すべてとの統合欲求となります。 かなり予想と違いましたか?(^^) 言ってみれば、身体、心、魂があるとしたら魂、それぞれの望みですよね。 身体に意志があるとすれば、若く美しいままずっといたいと望み、心は、みんなから愛されて、心が温かくなる状態でいたいと望み、そして、魂は、本当の自分に帰りたい、本当の自分で在りたいと望む。 それぞれの表現ですね。この後からの説明で、その定義の意味がだんだんとわかってくると思います。(^^)そのバランスということについては次回をお楽しみに(^^)<続く> ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 7, 2006
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多くの宗教がそうであるように、仏教にもさまざまな宗派があります。 なぜ、さまざまな宗教、さまざまな宗派があるのかという理由について光の存在は、「受け取る人がさまざまだから」という意味のことを言っています。 つまり、インドの六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)を輪廻するという考えをもつ人々に対する教え方と、神道を信じていた日本人に対する教え方は、違うほうが良いし、同じ日本人でも武士と農民では違う教え方が必要だからこそ、いろいろな宗教や宗派が生まれるのですね。 しかし、宗派という違いが発生して、その教え方や修行などのやり方に違いがあっても、教祖である釈尊の教えの基本部分から外れてしまったら、それはもう似ているけれど別の宗教ということになるはずですよね。 ですから、宗派が違っていても、仏教であるからには、釈尊の教えの基本部分は踏襲しているのです。 たとえば、親鸞の浄土真宗の教えを「阿弥陀の本願によって極楽往生することが、救済されること」というような解釈がされることも多いと思います。 辞書を引くと「極楽往生」とは、「この世を去って極楽浄土に生れること」とあります。(広辞苑より) このとき、身体、物質に囚われた見方をすると、極楽とは、あの世のことにしか見えないのですね。 スウェーデンボルグはその著「霊界日記」の中でこう書いています。「天界は、場所ではなく、生命の状態、つまり愛、仁愛、および信仰の生命の状態である」 簡単に言い換えると、天国とか地獄というのは、場所ではなく意識の状態なんですね。 だからこそ、悟りを開いた釈尊は、生きたまま彼岸に渡っているんです。 釈尊の教えは、そのポイントは、ちょー簡単説明では(笑)1.今(此岸には)、四苦八苦の苦しみがある2.此岸(煩悩)から彼岸(涅槃、悟りの境地)へ渡ることによって、苦を超えられる 四苦八苦があるのは、この物質世界だと一般に解釈されていますが、そうではないのです。 物質に囚われ、煩悩(悩みを生じさせるすべての妄念)を持った凡夫の意識の中に苦が生じているのです。 病気が苦なのではなく、病気を嫌なものだと思う気持ち(妄念)が苦を感じさせるのです。 煩悩という縁がなければ、それはたちまち、涅槃なのです。煩悩、妄念とは、認知療法でいうところの、「ゆがんだ認知(考え)」ですね。ゆがんだ認知を正しく認知しなおす方法が、八正道(正しく見ること、考えること、他)です。 非常に単純でしょう? 我が子が死んだことを信じられず苦しみ続けるゴータミーに対し、お釈迦さまが「死人を出したことがない家から芥子の実をもらってきたら、治してあげる」と方便を言って、ゴータミーを苦しみが救ったという「キサー・ゴータミーのお話」があります。 知らない人がいるかなあ?当然いるだろうなあ掲載しておきましょう--------------------------(サンユッタニカーヤ)キサー・ゴータミーの話 コーサラ国の舎衛国(しゃえいこく、シュラーヴァスティー)にキサー・ゴータミーという名の女性が住んでいました。 ゴータミーは結婚してかわいい男の子を授かり、この子を大変かわいがり大切に育てていましたが、男の子がようやく歩いて遊ぶようになったころ、病にかかり突然死んでしまったのです。 ゴータミーには我が子が死んだことを信じられず、動転したまま、その冷たい骸を抱いて町に飛び出し、会う人ごとに「この子の病気を治してください」と町じゅうを頼み歩いたのです。 ある日、お釈迦さまの信者がそれを見かねて、ゴータミーを呼び止めてこう言いました。「その子の病は重い。世間の医者の手に負えるものではない。ただひとり、その子の病気を治して下さる方がいらっしゃる。それは今、祇園精舎におられるお釈迦さまだ。そこを訪ねなさい」 ゴータミーはただちに祇園精舎のお釈迦さまのもとを訪ね、「どうかこの子をお救い下さい」とお願いしました。 静かにゴータミーの話を聞いていらっしゃったお釈迦さまは、やがてやさしくこうおっしゃいました。 「この子の病を治すには、芥子(ケシ)の実が5・6粒いる。町へ行ってもらって来なさい」 ゴータミーは、すぐに町へ出かけようとしましたが、お釈迦さまは、はやるゴータミーを呼び止め、「ただし、その芥子の実は、まだ一度も死人を出したことのない家からもらってくるのだよ」とおっしゃったのでした。 ゴータミーはその意味を飲み込めませんでしたが、そのことを深く考える余裕はありませんでした。とにかく急いで町に出かけ、芥子のみを求めて、一軒ずつ家々をまわって歩いたのです。 みな、親切に芥子の実をくれようとしましたが、しかし、死人を出したことがないかと聞かれて、「一度も出したことはない」と答える家はなかったのです。 そうして家々を回るあいだに、ゴータミーの狂気は少しづつ鎮まっていきます。『愛する人に死なれて悲しみ苦しんでいるのは自分だけではないのだ』と気づいていきます。 やがて夕闇がせまり疲れ果てるまで芥子の実を探し回ったゴータミーは、ようやく冷静になり、お釈迦さまの言葉の意味を理解しました。生まれたものは、いつかは死んでいかねばならない。死別の悲しみのない家はないのです。 そのことに気づいたゴータミーは、ようやく我が子が死んだのだという事実を受け入れることができたのでした。 穏やかな心を手にしたゴータミーは愛児を墓に埋めてやり、再びお釈迦さまを訪ねるとお釈迦さまは、「ゴータミーよ、芥子の粒はもらえたかね」と静かに問われました。「いいえ、ですがもう芥子の粒はいりません。家々を訪ねて廻るうちに、死なない人などいないということがわかったのです。ようやく我が子の死を受け入れることができました。今はもう穏やかな心でいられます。ありがとうございました。どうぞ、わたしをあなたの弟子にしてください」とゴータミーはお願いし、お弟子の列に加えられたといいます。-------------------------- 苦しみはどこにありました? 出来事そのものは変わらないのに、苦しみはなくなりましたよね。ゴータミーは、苦しみを超えたのです。 苦しみから逃れるのと、苦しみを超える、というはの別のことです。 お酒や薬に溺れたり、映画「マイノリティー・リポート」のように、過去の映像を見ることで逃げていても、根本的な解決にはなりません。 苦があるという現実を認めること、その原因を見つけ、対処することその方法はさまざまでも、基本はこれなのです。浄土真宗親鸞会のサイトの「親鸞聖人ってどんな方?」他にこんな説明が載っていました。すべての人の願いは、苦しみ悩みから解放されて、いかにこの難度海を、明るく楽しく渡るかに尽きます。(絶対の幸福とは、どんな事態が起きても壊れない安心、満足、喜びということ)人生に目的(苦しみ悩みから解放されて幸せに生きること)がある。だから早く達成せよ。これ以外に親鸞聖人90年のメッセージはありませんでした。 これによると、死んでから苦しみから救済します、とは言っていないですよね。その部分は、方便なんですね。 方便という言葉の原語は「ウパーヤ」といい、目的に「近づく」という意味とのことです。そして、そこから、目的に近づけるための手段も方便といわれます。 この方便の方が一般的な解釈として広まっているけれど、実際は、釈尊の教えと同じなのです。 その方法が、浄土真宗の場合は、阿弥陀如来の救済を絶対的に信じることで、今まで否定していたことを、それ以降否定するのを止めることで、苦しみを超えるという方法なのですね。<続く> ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 7, 2006
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昨日、ブログ・ランキング28位ということですっごくうれしかったです。ところが、25位以上と以下では、ブログの説明のコメント文字数が違うんですね。当然ですが、25位以上の方が、説明文が長い(^^) そこでもうちょっとで25位以内に入れるということで、読んでくださっているみなさまに、ランキング・ボタンのクリックをお願いしました。 そして、今朝見たら、な、な、なんと25位にアップしていました。みなさん、クリックしてくださったんだなあ。『お礼とご報告のブログ書かなきゃ』と思って、今(10時40分)、確認したら、な、な、なんとさらに23位にアップしていました。 みなさま、ありがとうございます。ここ↓をクリックで確認できます。 これって、かなりリアルタイムだったのねえ。これまで見てなかったから知らなかった(^^;(今11時30分に確認したら、「アクセス件数は30分単位で集計」だそうです。しかも、さらに21位にアップしていました。\(^0^)/わーい) ここまできたら、ベスト10に入れるように頑張ります!(^^)/ご協力よろしく!! 25位以内に入ったので、長い説明文が表示されました。記念に(笑)、その中にある「『魂と心と身体』のバランス」についてのブログを後でアップしますね。 お楽しみに!!(さきほど、ようやくアップしました22:20)
Feb 7, 2006
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ダブルバインドやミスティフィケーションなどで、自分を奪われた人を宮崎駿監督は、映画『千と千尋の神隠し』で『カオナシ』に象徴させている(と私は思う)。 自分の顔がないということは、確固たる自分というものをもっていないということを意味している。そして相手の欲(依存心)をくすぐるものを示して、相手を自分に引き寄せる。(そのような共依存のコントロールドラマを身につけた)(実際は、共依存者自身も相手に自分の依存心を満たすものを感じて近付くのだが・・・) 引き寄せた相手が、引き寄せた餌に喰らいついたら(依存を始めたら)、コントロール争いをして勝つということは、自らが相手を喰らってしまうということなのだ。 そして、取り込んだ相手と一体化した自分の価値を自分の価値の大きさと感じてしまう。自分の価値は、相手次第で決まるものとなってしまう。相手がいなくても、自分の価値は変わらないものだということがわからない。相手との境界線があいまいになっている。(カオナシの身体の大きさも飲み込んだ分だけ大きくなっていった) だが、そうやって拡大した自分というものは、虚栄でしかない。だからこそ、自分の虚構の自己肯定感を守るために、共依存者はイネイブラー(依存症の手助けをしてしまう人)として、依存症者を依存状態のままにしておこうと無意識のうちに働いてしまう。 見えない虐待というのは、その人の精神から自分というものを奪っていく。 自分はあるがままで価値があるということに気がつかずに育ったことにすべての原因があるのだ。 本来なら、親が子供に愛情をそそいで育てていくうちに、自然に子供は『自分が自分であるから愛されているのだ、あるがままの自分で愛されているのだ』と感じるようになる。 ところが今までのいわゆる経済成長の時代は、結果を出したものに価値があるという価値観で動いていた。だから、結果を出せなければ価値がないということになってしまう。そして、結果を出すためには、結果を出す原因がある。結果を出す条件が整っていれば、必ず同じ結果が出る。というニュートン物理学の法則を人にまで当てはめてしまって、その条件に合う人間を作り出そうと、条件付きの愛で子供を育て始めたのだ。 ところが、その目指す結果というものが子供本人のものであれば、それは夢・希望の応援になるかもしれないが、多くの場合、親の夢や期待の押し付けなのだ。 夢は成し遂げることに意味があるのではなく、夢に向かう過程を体験することにこそ意味があるのだ。それを自分以外の、しかもその夢を持たぬ者に体験させても、自分の心を満たすことはできない。 仮に子供が同じ夢をもち、その夢への過程を楽しんでいたとしても、それは親の体験ではありえない。親が依存の対象を子供にしてしまったのだ。 親は「カオナシ」になって子供を喰らったのだ。親という「カオナシ」に食べられてしまった子供は、親の価値観を生きているのだ。「カオナシ」である親の顔は、子供に対する世間の評価なのだ。子供が一流大学に入ることが親の価値なのだ。そんなはずはないよね。でも、そうなっているだ。 それは、子供が親離れし、自分の夢を自分自身を歩き始めるまで続く。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 7, 2006
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虐待というのは、身体に対する目に見えるものだけではありません。目に見えない心に対する虐待があります。見えない虐待1と見えない虐待2に続いて、その3です。 それが、ミスティフィケーション(煙にまくこと:Mystification)です。 ミスティフィケーションは、慈悲心、愛情を装いながら、他人の気持ちをコントロールします。 やはり、ここにも共依存のコントロールがあります。 例えば、子供に向かって「おまえは頭がいいなあ。将来は医者か弁護士になれるな」ということを繰り返すと、子供は、医者か弁護士になることで親が喜ぶと感じます。子供は、その言葉に本当の自分の気持ちを惑わされて、親に褒められたいので、いつしか自分の将来の夢は医者か弁護士であるかのように感じてしまうのです。 親の期待がいつしか子供の偽りの自分になっていき、本当の自分を見失っていきます。。 また、本を選んでいる子供に対して、勉強になる本を読ませたい期待から「○○君は、マンガなんかより、こういう本が好きなんだよね~」とか「前にこういう本が読みたいって言ったよね。さすが○○ちゃんだわ」というように、非常に巧妙に子供の本当の気持ちを煙にまいて、マンガ以外の本を選ばざるを得ない方向にもって行きます。それは、子供の自己感を奪っているということなのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 6, 2006
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Blogランキングからいらっしゃった方のコメントがあったので、ランキングを見てみました。 な、な、なんと、28位でした。 これ↓をクリックで見ることができます。 やったーーー!!\(^0^)/ みなさま、ありがとうございます。 でも、25位以上だと、表示する文字も大きいみたい。ぜひ、毎日「ぽちっとな」にご協力を!!(^^) ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 6, 2006
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>「生き辛さ」は普通の人(ACでは無い健全な人)は持たないものなのですか?という質問をいただきました。 結論から言うと、普通の人も生きにくさは感じます。問題は程度の差です。そことから、どの程度感情的に振り回されてしまうか、それが日常生活において、周りから認められないくらい大きな問題があるかどうか、という差ですね。たとえば、失礼なことを言われて怒るとき、それは誰にでもあることと、と認められるレベルなら、普通のことであり、生きにくさではない、とみなされるということです。 以上が答えですが、興味がある方のためにもうちょっと詳しく説明しましょう。まず、AC(アダルトチルドレン)とは、どういうものかはっきりさせましょう。 アダルトチルドレンは、元々は「アルコール依存症の親のもとで育ち、大人になっても、心や人間関係に障害を抱えて、生きにくいと感じている人々」を指す言葉(Adult Children of Alcoholics)です。 その後、アルコール依存症の親に限らず、機能不全家族で愛情を与えられずに(条件付きの愛で)育てられる人々が同様に状態になることが分かってきました。 それは共依存と同じですね。 ACと共依存の違いは、その名前の付け方の差です。ACは、生きにくさを感じる原因(アルコール依存症の親の下で育った)に着目して付けられたものであり、その観察された状態(依存症者を助けようとしてる人自身が自己肯定感を得るために、アルコール依存症者を通して間接的にアルコールに依存しているので、結果的に共にアルコールに依存している)から名づけられたかの違いでしかありません。(のちに、共依存が人間関係依存であるという状態が見えてくるにしたがって、共にその人間関係に依存しあっているという意味にもなった) さて、AC・共依存の人の特徴を見てみましょう。1、ありのままの自分を受け入れられない 漠然とした不安のため自分の追い立てるように努力し、常に自己否定感がある。(私が存在意義(価値)不安症と名づけた状態) 条件付きの愛で育てられ、条件に適っているときだけ愛されてきたので、「ありのままの自分」を受け入れず、誰かに必要とされる時や相手を支配している時にしか自分の存在を確認できない。 (その結果、自己肯定感を得るためにコントロールドラマを演じる)「生まれてきて良かったのだろうか、生きている価値がない」と自分を大切な存在だと思えない。 2、自分の欲求がわからない 自分の欲求を押さえ込んで、周囲の期待や要求に応えようとしてきた為、そのパターンが身につき、自分の欲求や感情がわからない。自分と相手の境界が認識できず、相手の望む事自分の欲求のように感じる。(このあたり、見えない虐待で説明したことですね) 3、本当の自分を主張できない 主張する事で相手から否定されることが、自分の価値を認められないことに繋がるために、自己肯定感を失う恐れから自分の欲求を主張できない。 相手の要求にNOと言えなかったり、逆に相手を威圧的にコントロ ールしようとする。■このようになる原因は、条件付きの愛でしか愛されなかったことによります。条件を満たしたときだけ、認められ、愛されてきたので、その条件が自分の正しさとして内在してしまっています。 しかし、それは自分で選んだものではなく、幼いときの怖れと一緒に刷り込まれたものなので、(今の怖れは、過去の怖れの投影です)その条件に合っていない自分を感じるとき、漠然とした不安を感じます。 そして、自分の選択ではないから、そのことに気づかないうちは自分では変更ができません。 また、その正しさの程度も自分で決めていないので、相手が許可をしてくれないうちは、どこまでもそれを極めようとするので、その点では、完璧主義者になっていきます。 そのような状態は程度の差はあっても、社会に適合するようにすべての人に共通なのです。 ただ、一般的に反抗期というのがあります。それは実は自立期であって、親の正しさに抵抗し、自分で正しさの基準を決めていく時期でもあります。 ちなみに、私は親に反抗して長髪にしたり、ラッパズボン(未だとブーツカット(笑))にしたりしました。すると、私は、髪の毛と服装を自分で決める自由を得たわけです。 そのように、自分で決められることが多くなった人は、生きにくさを感じることが少なくなります。 一方、AC・共依存の人は、親の良い子であり続けてきたので、目立つ反抗期がなかったという人が多いものです。その結果、ずっと親の期待の呪縛に囚われたままで自分らしく生きられていませんから、生きにくいわけです。 ちょっと話は飛びますが、私は若いときはまったく肩こりと無縁だったのに年齢とともに肩こりがひどくなってきました。 でもそれを『歳をとれは仕方がないこと(当たり前、ふつう)だ』と思っていました。 でも、筋肉をつけようと、お気に入りで紹介している「健康ダイエット」の栄養バランスのいいサプリを使ってみたら、筋肉が付いた上に、驚いたことに肩こりがなくなったんです。 そうなって始めて気がついたんですが、『歳をとれはふつうだ』というのは、一般的な大勢の人の統計から導き出した常識に過ぎないことで事実とはまた別物だったんですね。>カウンセラーに、普通の人は「生き辛さ」は抱えていない、と言われたのですが、ということですが、カウンセラーの基準というものは、一般的なレベルであり、心を病んでいるクライアントの状態を一般的な心の病み方のレベルまでにすることなんです。 つまり、肩こりでも、けいれんを起こすようであれば、病気として異常とみなしますが、少しくらい肩がこっても当たり前、正常であるとみなすのと同様に、一般の人の生きにくさは、普通のこと(それがカウンセラーの基準だから)なので、『普通の人は「生き辛さ」は抱えていない』と言う訳です。 でも、悟りの境地を基準とすると、充分、生きにくさを感じているということになります。 すべては相対的ですから、基準をどこにとっているかというこに着目すると、理解していただけると思います。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 6, 2006
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「自灯明、法灯明」の法とは、インドの言葉でダルマのことですが、これを真理ではなくお釈迦さまの教え、つまり、仏教という宗教の戒律を基準にすることだという解釈があります。 しかし、前にも述べたとおり、基準が二つあるということは迷いを生むことになるので、迷いを超える教えを説いている釈尊がそんなことを言うことはありえません。 今、心理学では宗教依存という状態があることが知られています。宗教はその教えを指針として参考にしているうちは良いのですが、自分の正しさの基準を宗教に頼ってしまうと依存になってしまいます。 臨死体験をしたダニオン・ブリンクリーは、あの世で光の存在にこう告げられました。 「精神主義的資本主義をつくり上げるのです」と彼は言った。「人々の考え方を変え、その未来の思想を推し進めるのです。政府や宗教ではなく、自分の精神そのものに頼る方法を、教えてあげるのです。宗教は結構なことですが、なにからなにまで宗教に左右されるようではいけません。人間は、力のある霊的存在です。愛とは、自分がされたら喜ぶような方法で他人に接することだということさえわかってくれればよいのです」「未来からの生還」ダニオン・ブリンクリー/ポール・ペリー共著/レイモンド・ムーディー博士解説◇大野晶子訳◇株式会社同朋舎(P71)より 光の存在も、そして、宗教の良さも認めていますが、宗教に頼りきってはいけない、自分を基準にするようにと言っています。釈尊の戒律も正しさの押し付けではなく、道が定まらない人向けの指針でしかありませんでした。慈悲も光の存在がいう愛とそっくりです。 釈尊の教えは、この光の存在の言葉に非常によく適合しています。 ただひとつ、ポイントは「自分がされたら喜ぶような方法で他人に接する」ことを義務として、そうすべきだからするのか、自分がそうしたいからするのか、ということです。 宗教の教えにそう書いてあるからそうするのか、宗教の教えを見て、自分もそれに賛同するからそうするのか、その違いを見極めることがとてもたいせつです。<続く> ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 6, 2006
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心が苦しい人の多くは、自分が正しさを生きていないと思っています。正しくない自分がダメだと思うから苦しいということが多いのです。 でも、論理的に考えて、絶対的な正しさというものは存在しません。 正しさというのは、目的ごとにあり、目的は意志ごとにあります。 意志ごと、それは、人それぞれが別々の正しさを持っているということです。 すべての人の目的は幸せですから、自分にとって幸せを感じさせない正しさというのは、見直していいのです。 たとえば、同性愛者の男性が、見かけは男性だから男らしく生きることが正しいという世間一般の正しさに従おうとしたら、苦しい生き方になります。 自分にとっては、女として生きるのが正しいと決め、その自分の正しさに従って生き始めたとき、生きるのがラクになります。 わかりやすいようにこんな例をあげましたが、このことは、私たちの持っている正しさすべてに言えることなのです。 ただそのときに自分をどのような存在だと認識しているか、つまり、マズローの欲求段階説のどの欲求レベルにいるかでその正しさが周りと調和するかどうかが変わってきます。 しかし、それがどの段階であれ、自分で体験し、欲求レベルを自己実現、自己超越へと進めていく必要があるのです。 お釈迦さまの戒律は、そのための指針だったんですね。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 5, 2006
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先日から、メールレクチャーの申し込みを受け付けていますが、私が間違って申し込みメールを削除したものがあります。 もし、申し込まれたのにまだ返事がいっていない方は、たいへん申し訳ありませんが、再度お申し込みください。 お手数をおかけしてごめんなさい。m_ _m
Feb 5, 2006
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映画「マトリックス」は見ましたか? さて、マトリックス力学というものがあります。ボーアの量子論を、ハイゼンベルクが対応原理を指導原理として発展させた力学で、その後、波動力学との関係が明らかになるに及び、量子力学として統一された。(広辞苑より) 映画「マトリックス」の世界は、意識が創り出した世界があたかも現実であるかのように感じられる世界でした。 物質世界を現実とするなら、マトリックスの世界は虚の世界でした。 量子の世界を探ろうとすると、その数式には虚数が出てきます。量子の世界は、虚の世界と現実の世界の境界にあるのではないでしょうか? 量子の振る舞いが確率でしか表せないのは、虚の世界に行っているからでは? 私たちは、まず自分というものを肉体で実感します。ですから、肉体など物質を基準に物を見て、考える習慣ができています。 その結果、『この物質世界が現実である』と思い込んでいます。 それは本当でしょうか? 荘子が『胡蝶の夢』のように、物質世界としての自分と意識の世界の自分、どちらが本当の自分でしょうか? 臨死体験者の話は、意識を自分と感じています。 輪廻転生、生まれ変わりも意識としての自分が本質であることを示しています。 臨死体験者は、そのまれな体験によって、意識の世界の自分を本当の自分だと確信しました。その結果、悟った人と同じ状態になった、というより悟ったといえます。 肉体(物質)としての自分から、意識としての自分に変えることが、悟りに繋がっているんです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 5, 2006
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今度の宮崎アニメは、ル・グウィンの「ゲド戦記」らしい。題名:ゲド戦記著者:アーシュラ・K・ル=グウィン 清水真砂子 訳出版:岩波書店 この本は、すっごくいいです。魔法使いの話なので、ハリーポッターや指輪物語なんかと比較されそうだけど、奥深さが違います。 名前の大切さ、そして影という言葉が出てくるのですが、この本を読む前に、ユングの一般向け心理学の本で、シャドウとペルソナなどを勉強してから読むといっそう面白さがわかると思います。 「真の名前」が重要な意味を持ち、名を隠すというのは、陰陽師と同じですね。 参考に(ゲト戦記の名言などもあって、なかなかのサイトです)ゲド戦記 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Feb 4, 2006
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