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この6月(前編)10月(後編)と映画化される人気コミック「DEATH NOTE(デス・ノート)」 名前を書き込まれるとその人が死ぬという文字通り死のノート。正義感あふれる主人公ライトは、キラと名乗り、世にあふれる犯罪者たちをデスノートで裁いていく。 そして、キラの登場後、6年で戦争がなくなり、世界の犯罪は7割減少した。 キラことライトは言う(page.105 無理 より)。キラ「キラを捕まえるそれが過去において正義だった事もあったかもしれない しかし、今は明らかに それは悪世界の意識は 変わったんだ」 キラの裁きは、正義の裁きなのか、それとも独善に満ちた連続殺人なのか? キラ(ライト)を追い詰めたニアにキラ(ライト)は言う。キラ「ニア 間違っているのはおまえだもう 僕が正義なんだ」 それに対するニアの返答は名言です。ニア「そうかもしれませんね何が正しいか正しくないか何が正義か悪かなんて誰にも わかりません・・・・・・もし神がいて神の教示(ことば)があったとしても私は一考しそれが正しいか正しくないかは自分で決めます」ニア「私もあなたと同じです」キラ「!?」ニア「自分が正しいと思うことを信じ、正義とする」 そうなのです。自分で考えることを放棄したものでも、実際は何かに判断をゆだねるという形で一時放棄しているに過ぎません。 それは地下鉄サリン事件の実行犯を見ればよく分かります。 どんな人も最終的には、自分で自分の正しさを選んでいるのです。 自分らしく生きるということは、正しさの判断を放棄しないということなのです。 ニアの言うとおり、それが神の言葉であっても自分で考え決めること、そのとき、真に自分を生きることができます。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 30, 2006
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「悩まない脳」・・・悩んで心の病気になっている人は『うらやましい』と思うかもしれませんね。 この「悩まない脳」とは、フジテレビ「土曜プレミアム」『人体再生ロマンSP2』で紹介していたのですが、「悩まない脳」は高次脳機能障害と呼ばれる傷害でけっしてうらやましいものではないのです。 ある女性が自転車同士でぶつかって倒れ、道路に脳を打ち障害が残った、そのことを両親が伝えても、この女性は思い悩んだり、将来を悲観して泣いたりすることもなく、「そう」と淡々と反応したというのです。 この「悩まない」という症例は、高次脳機能障害と呼ばれる脳の障害の中でも少ないため研究が進んでいません。そこで、今回番組では、まったく逆の研究、うつで悩む人に詳しい専門医を訪ねます。 その専門医の見解は、この女性は脳の障害によって「未来予測ができなくなってると思われる」というものでした。 私たちは、現状を認識し、過去の似た経験をもとに思考することで未来を推測します。 機能不全家族の中で望まない経験を繰り返してきた人は、これまでと同じように望まない未来予測をし、そのことを悩むのです。 ここがポイントです。 未来予測はあくまで可能性で、実際は、望む未来、望まない未来のどちらになるかはわからないのですから、人が悩んでいるのは、実際に訪れる未来ではなく、その人が自分のデータに基づいて予測した未来です。 だからこそ、望む未来を予測する楽天的な人は悩まないのです。 私はメールレクチャーで、とりあえずの考え方と対応を教えます。それを実践した方はいつもと違う体験をします。 たとえば、いつもはコントロールドラマに乗って売り言葉に買い言葉でけんかをしてしまう人に、1.それはコントロールドラマです2.コントロールドラマに乗らないことが穏やかな心をもたらします3.相手が売り言葉を仕掛けてきても、「ええ、そうね」と受け入れてというようなアドバイスをします。 それを実践すると、いつもけんかを仕掛けてくる人は、自分が認められるので自己肯定感を得ます。売り言葉に買い言葉で反論してくるということは、自分を否定しているということですから、相手を排除するか相手に勝とうとします。 ところがすでに自分を認めてくれた人に勝つ必要はありませんから、けんかは終わります、そして自分を認めてくれた人を排除するなんてできませんから、いつもと違って大切に扱うようになります。 その自分が望む体験をすることが大切なのです。この体験を繰り返すことで自分が望む未来予測ができるようになるのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 29, 2006
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スピリチュアルな本の翻訳で有名な山川紘矢さんがご自身が翻訳された「なまけ者のさとり方」◇タデウス・ゴラス著◇山川紘矢・亜希子訳◇地湧社という本にあとがきを書いていらっしゃいます。 今は、PHPから文庫も出ています。 そのあとがきの中で山川さんはこう書いています。--- 引用開始 -------------------------------------------------- そもそも「さとる」とはどういうことなのでしょうか?本文中にも説明がありますが、このことは人によって、それぞれ定義、解釈が異なることでしょう。私が学んだことは、「枠をはずす」あるいは「限界を設けない」そして「すべてを愛する」ということだと思うのです。「こうあるべきだ」「何々でなければならない」「これは正しくて、あれは誤りだ」「この方が上だ」「この方が得をする」「勝つ方がいい」というような自分の体の中に深く根をはっている判断基準に一つひとつ気がついて、「この世には何でもあり得る」「良いも悪いもない」「さとってもさとらなくてもいい」「今の自分が最高」「この世はこのままで素晴らしい」ということが体の中から湧き上がってくることではないでしょうか。つまり、すべてを受け入れ、愛する、ということです。そうすると、地獄のような状況にいると思っていたのが、実は天国にいたことを発見するのです。(P120 あとがきより)--- 引用終了 -------------------------------------------------- 昨日のパラドックスを解くヒントがこの言葉に載っています。面白いのは、先日のブログで紹介したように足立幸子さんが「損得」から「尊徳」へということを言っていましたが、山川さんも「この方が得をする」という悟りから遠ざけている判断基準、枠に気づきましょう。ということを言っています。 身体の基準を優先すると、損得や勝ち負けは、肉体維持に大きく関係してしますからとても重要な価値を持ちます。 ところが、心の穏やかさ(さとり)を優先すると別なものが大切になってくるんです。 私たちは、一般的に当たり前のことは省略して話す、考えるようにしています。たとえば、「今日は晴れだね」っていう言い方をよくすると思います。あるとき、ネットで「今夜はきれいな満月が出ていますよ、みなさんも見てみませんか」みたいな発言があったのですが、ネットだといろいろな地域の人が参加していますから、雨や曇りでつきが見えない地域もあったのです。また「今日はいい天気だね」っていう言い方もよくしますよね。 これなど、特に要注意の思考です。なぜなら、人により良い天気と判断するものが違うからです。 一般的には、差しさわりのない話ということで天気を挨拶につかいますが、銀行の人は、大勢のお客様の前では天気の話をしないらしいです。たとえば、「良い天気が続きけっこうなことですね」と冬にスキー場経営者が混じっているところで言ったら、『小雪でスキー場がオープンできずに困っているのになんて無神経なやつだ!』と憤慨されるかもしれないですからね。 そんなふうに自分の判断基準を自分以外に当てはめるような思考を止めることがさとりなのです。それを一言で【無分別】と言います。 和尚の存在の詩でも、グルジェフの弟子のP.D.ウスペンスキーの言葉を使って「私が理解したところによれば」を付け加える(P106)、という形で同じことを言っています。--- 引用開始 --------------------------------------------------最初にまず“私の理解によれば”をつけるんだそれは君の理解なんだよなぜならば君は自分自身に従って聞き自分自身に従って見ているにすぎないからだ君たちは見ることや聞くことについての凝り固まったパターンがあるからだ(『存在の詩』P107)--- 引用終了 -------------------------------------------------- 私たちの心は、いつもこの凝り固まったパターンで思考しその結果を心に反映させています。 苦しみを無くしたい人は、この凝り固まったパターンを取ればいいのです。 気づいた人は、みんな同じことをいうのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 29, 2006
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無条件の愛とは、「すべてを許すこと」 コントロールドラマから降り、無条件の愛を選択し、すべてを許そうとして頑張っている人が陥りやすいわながあります。 「このところ、コントロールドラマに乗らないし、相手に怒鳴ることもなかった、それなのに、また今日コントロールドラマをしてしまった」と落ちむことがあります。 これって、ちょっとヘンだと思いませんか? どこがおかしいかわかりますか? 無条件の愛を選択するつもりで、コントロールドラマをしてしまった自分を許せないことがヘンなんですね。 私はこの状態を「二極化のわな」と呼んでいます。良くなろうとして、分別の世界に囚われて、逆に悪くなる方向に意識を向けてしまうんですね。 なぜ、そうなってしまうのかというと、【無条件の愛は、すべてを許さなければいけない】と思ってしまうことです。 無条件の愛とは、「すべてを許すこと」ですから、これを代入して言い換えると【すべてを許すことは、すべてを許さなければいけない】ですね。 ちょっと見る限り、正しいように見えるでしょ。でも、このように言い換えて補足するとおかしいことが分かります。 【すべてを許すことは、許せないことも許してはいけない】あれあれ、ヘンですよね。このパラドックスは、【囚われないに囚われる】と同じものです。 このパラドックスを解く鍵(キーワード)があるのですが、なんだかわかりますか? 今、私が思い浮かぶキーワードは、4通り以上あります。連休になることですし、いろいろ考えてみてください。(^^) 思い浮かんだら、ここのコメントに書いて見てくださいね。同じ答えでもかまわないからどんどん書いてね。(^o^) ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 28, 2006
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使い捨てマスクの箱のふたが開いていたのを妻が見て次女に「ちゃんと閉めなきゃゴミが入るでしょ」と注意すると「だって、閉め方がわかんなかったんだもん」という明らかな言い訳。(笑) 言い訳をすると、ダメな自分を見ないで済むから心が傷つかずに済むという利点があります。 でも言い訳とは「できない理由、しなくていい理由」ですから、言い訳をすると改善する必要がなくなり、成長しなくなります。 そして、意識は言い訳を守る方向に向いてしまいます。 ですから、言い訳をやめると「どうすればいいかな」「できるようになりたい」という成長の方向に意識が向きます。 それを言葉にすると自分に対して約束をするのと同じことになります。(コミットメントといいます) 何気なく言い訳をしてしまいがちですが、言葉は意識から生じていて、言葉にするとその意識を固める力として働きます。 言葉に力があるというひとつの理由です。 良い言葉を選びたいですね。(^^) ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 27, 2006
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昨日の娘の事故のブログにコメント、質問をいただき、ちょっと驚いています。 以前の自分を思い出すと、その疑問はよくかわります。「自分が体験していないことは、信じられない」というのはありますね。 人は自分の過去の体験を下に判断を下しているんですね。 以前の私なら考えられなかった穏やかな気持ちですが、それが今では、起きたことをありのままに受け容れることが、当たり前になっています。以前と今の気持ちには雲泥の差がありますね。 周りに振り回されず穏やかな気持ちでいられることは、本当に幸せなことです。(^^)でも、誤解しやいことですが、穏やかな心といっても感情がまったくなくなるのではなく、感情を引きずらず、感情に振り回されないということです。 誰にも長い人生の間には、自分が望まない出来事が起こることがあることでしょう。 それを気持ち的にはそれを拒み続けことはできます。 でも、出来事的には起きてしまったことは誰であっても受け入れるしかないですよね。それを受け入れまいとするから、心が乱れるんですね。 そのことを「期待をしない」「周りを変えようとしない」「あるがままに受け入れる」「無分別」「足るを知る」というような言葉で伝えようとしてきたわけです。 気持ちで拒んでも、受け入れざるを得ないのであれば、そして拒むことが自分を余計に苦しめるのであれば、受け入れるほうがいいですよね。(^^) ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 26, 2006
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最寄りの駅から自転車で帰宅途中の娘が見通しの悪い横道から一時停止線を越えて出てきた車とぶつかって軽いケガをした。車はぶつかった後そのまま自転車に乗り上げ前輪がグニャッと曲がって動かなくなった。 見通しが悪いから一時停止線で止まっても見えないと、一時停止線を超えて止まろうとしたらしい。でも、止まるのはぶつからないようにするためだから、まず一時停止線で止まって、それからすぐ止まれるように徐行して見えるところまで出る、というのが正しいやり方。 皆さんも気をつけましょうね。 ところで、この出来事で私は当事者じゃないことと、娘も軽いケガですんだこともあるけれど、終始穏やかな心でいられたし、娘の気持ち、事故の相手の気持ち、立場を考えることができたと思います。 損得や勝ち負けではなく、それぞれの気持ちを優先できるというのは、心穏やかでいるためのコツですね。 足立幸子さんの「あるがままに生きる」という本に「損得」から【尊徳】になる、ということが載っています。--- 引用開始 ---------------------------------------------------- 私達はお金という形で返ってこなければ、損をしたと思うわけです。(P120) ところがお金というエネルギーではなく、これからは「徳という見えないエネルギーで返ってくることもあるんだ」ということを理解出来ることが大切です。(P122) --- 引用終了 ---------------------------------------------------- ここで、多くの分別の世界に生きている人が勘違いしやすいのは、『損得は悪くて、【尊徳】が良いから、尊徳でなければならないんだ』と思ってしまうことでしょう。 でも、この本にもこうあります。--- 引用開始 -----------------------------------------------------「良い悪いはないんですが、≪深い部分の自分≫が言うことに従って生きられた方が、当然宇宙と調和のとれた結果が出るはずですから、損をしてでも動いた方がよろしいんじゃないんですか」(P120)--- 引用終了 ----------------------------------------------------- 決して、損得を考えることがわけではないんですね。損得や勝ち負けを優先(第一目的と)してしまうか、≪深い部分の自分≫つまり、愛を優先させるか、そういうことなんですね。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 25, 2006
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悟りや無条件の愛がなぜ難しいかというと、パラダイム(基本的な考え方)が違うからです。 人はぞれぞれ考え方が違うものですが、それは同じ土台の上での違いです。 悟りや無条件の愛に至るには、パラダイム(基本的な考え方)のシフトが必要です。 同じ土台の上での坂のような変化ではなく、階段や飛び石のように大きな違いがあります。 その違いを表現しているのが、無分別やあるがままを受け容れるという言葉です。 たとえば、あの人は良い人だ、悪い人だ、というような分別は、普通の考え方ですが、自然ではありません。 なぜなら、分別には基準が必要で、基準の取り方で判断結果がまったく逆転するものだからです。 簡単に言うと、普通の考え方とは、その基準(目的)を忘れて判断結果を絶対であるかのように思い込んでしまう間違った考え方ということです。 目的(基準)を意識することで、絶対視をしない考え方が正しい考え方で、そのことをシフトした考え方と私は言っています。 言葉で表現すると、簡単ですよね。 では、そんな簡単なことがなぜ未だに広まらないのかということになります。 それは、基本的な考え方は、幼い時の感情を伴った癖のようなものだからです。その癖のようなものは、パターンともいえます。条件反射といったほうがわかりすいかもれません。 アル中で気にいらないことがあるとすぐ殴る父親のもとで育ったら、父親以外の相手であっても、無意識に気に入らないことを言わないように、しないようにしようとしてしまうでしょう。 そして、もし、相手の気に入らないことをしてしまったら、父親に殴られた恐怖をその相手にも投影して感じてしまうことになるでしょう。 そして、その恐れは対人コミュニケーションのときに、漠然とした不安として人と接することをつらいものにすることでしょう。 多くの人には、その裏の部分が見えていません。今の表面的な対人関係だけの問題のように捉えて解決しようとするからうまくいかないのです。 そのような裏にある見えていない部分が基本的な考え方を変えることを妨げているのです。 そのことが分かれば、あとは簡単です。 たとえば、気に入らないことをしても殴ったりせず穏やかな人もいる、という新たな体験を基に、自分が幸せに感じる考え方を基本的な考えに取り入れることで新たな癖(パターン)、条件反射を作っていけばよいのです。 そして、もうひとつ、死を恐れないこと。 これによって、悟り、無条件の愛に至ることができます。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 25, 2006
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最近、新聞などで一面を使った、ウイダーinゼリー「プロテイン」の広告が載っていますね。 このブログで言ってきたことがそのまま載っているってかんじ(^^) 健康は、心と身体の両面から。 身体の健康を維持するためには、たんぱく質をしっかりと摂ることが必要です。特に、ダイエットをするなら、たんぱく質がとても重要になります。 そして、ダイエットの時には、脂肪は控えたいですよね。でも、普通食で脂肪を摂らずにたんぱく質だけ摂取することは、とても難しいことです。 マッチョを目指すボディビルダーの人なんか、脂肪の少ない鶏のささ身をさらに蒸して脂肪を落として食べたりする場合もあるらしい。 でも、サプリメントの上手に利用すれば、脂肪を抑えて、たんぱく質を摂ることができます。 でも、ここで終わったら片手落ち。 車はガソリンで動くけれど、実はオイルも大切な役割をしていますよね。オイル切れになったら、ガソリンが満タンでもエンジンが焼きついて動かなくなってしまいます。 それと同じように、ダイエットの時もたんぱく質だけ、一所懸命摂取してもダメなんです。 ビタミンB群やカルシウム、ミネラルなどもバランスよく摂ることが必要なんです。 私が使っている栄養をバランスよく摂れるプロテイン製品のリンクがトップページのお気に入り一覧の【身体バランス】にあります。参考にどうぞ。 うちで食べている基本セットには、痩せる成分なんか入っていません。 筋肉がしっかりついた自然な身体にすることで、日常の動きの中で、自然に脂肪を燃焼させることで痩せるから、しっかり身体ができたらサプリをやめてもすぐにリバウンドなんてことはありません。 おまけに、たいていの人は、しっかり栄養を摂っているつもりでも、栄養のバランスが崩れているものです。 それがいろいろな体調不良の原因になっていることもよくあります。そのような場合には、栄養をバランスよく摂ることで、栄養の偏りが直りますから、以前より健康になったと感じる人も大勢いますよ。 私もそのひとりです。(^^)健康っていいですよ。最近じゃ、風邪引かないというか、軽くかかったみたいと思っているうちにさっと治っちゃう。(^^)v かなりすごいです! ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 24, 2006
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「共依存」は、心の病気の名前としては、「共依存症」と呼ばれています。しかし、広義の共依存の概念で考えると現代のアメリカでは、人口の96%が共依存の概念に当てはまるといわれるほど一般的な状態であるため、日常生活に大きな問題が伴うものを病気とみなし「共依存症」、多少の苦を感じることがあっても、大きな問題がないものを「共依存」と呼んで区別したりしています。 現代社会というシステム自体が、人に道徳や常識などを基準にするように強いていますから、社会的に普通と言われる人は軽い共依存であるのは当然だといえます。参考◎嗜癖する社会◇A・W・シェフ 著◇斎藤学監訳◇誠信書房◇1993◇WHEN SOCIETY BECOMES AN ADDICT◇Anne Wilson Schaef ◇1987---- 引用開始 ----------------------------------------------もしあなたが自由であればあなたはもちろん自然でもあるティロパは「道徳的であれ」などとは言わない彼は「自然であれ」と言うこのふたつは完全に正反対の次元に属する道徳的人間は決して自然じゃないそうなり得ないのだもし怒りを感じても彼は怒ることができない道徳がそれを許さないから-もし愛を感じても彼は愛することができない-彼は常に道徳に従って行動する決して彼の自然に従ってじゃない(「存在の詩」P62)もしあなたが自然に育ったなら--「正常に」ではありません。正常に育つというのはきわめて不自然に育つということですから--、(『「死ぬ瞬間」と臨死体験』より )---- 引用終了 ---------------------------------------------- 私たちは、社会的に見て普通であることを絶対的に正しいと思いがちです。しかし、それはその社会を維持するという目的に対しては正しいのですが、穏やかな心、自然であること、という視点から見ると、間違っているのです。 ですから、たとえば資本主義社会と自由主義社会という違う社会では普通という基準自体が違いますよね。そのことをもっと分かりやすく書いたのが、◎◎パパラギ◇ 著◇岡崎輝男 訳◇立風(RIPPU)書房という本です。 南の島の酋長が始めて白人社会を訪れ、自然に暮らす人たちから見ると、現代社会で普通であることがいかに異常かということを私たちに教えてくれる本です。絵本も出ているようです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 24, 2006
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お寺のサイトを呼んでいたら「雲水に雑用はない」といわれたということが載っていました。 では「雑用はない」とは、いかなる意味か? 「(目的によって)雑用というものはあるけれど、(仏にとって)雑用というものはない」の略であり、これは、自分の外側に目的を据えると、その目的から外れたものは雑用となるが、自分の内側を目的とすると、すべてが目的の対象となる、ということだと私は解釈します。 人が何かの目的を絶対視したときに分別が生まれます。映画「Spirit」の中でも、お茶の優劣、という話がありましたが、雑用と本来の用事、と根は同じ話です。 禅では「悟りとは何か」「仏になることとは」というような問いに、「腹が減ったら飯を食い、眠くなったら寝る」とか、「もう、食事は済みましたか?では食器を洗いなさい」とか、一見、とんちんかんな答えが返ってくることがあります。 なぜ、とんちんかんに感じるかといえば、悟りや仏であることが特別なことであるかのように思っているからです。 悟りとは今ここに生きること、普通ではなく自然であること、分別を超え無分別であること、です。この3つは、すべて同じことを言っています。 これが同じであることが分かれば、もう穏やかな心ですね。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 23, 2006
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感情に振り回されず穏やかな心でいるためにどうしたらいいのか? その答えは簡単です。ただ、自然であればいい。 『なんだそんな簡単なこと?』と思った人もいるかもしれません。『そんなことわかっているよ』と思った人もいるかもしれません。 でも、【自然な状態】を説明できますか? 自然な状態とは、普通の状態とは違います。 では、【普通の状態】を説明できますか? ここで言う【自然】と【普通】を明確に概念化し、定義をしっかり説明できれば、原因がはっきりわかり(見え)、対策をしっかり立てられるということです。 つまり、感情に振り回される状態を脱し、穏やかな心を手にすることができるということです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 23, 2006
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精神的に疲れるってことは、何かに抵抗しているから。 自分以外の何かになろうとしているから。 誰かの期待に沿う人になろうとしてるから。 同じように今の自分と違う人になろうとするのでも、自分の理想に近づこうとしているときは、心は疲れません。 ここでも、自分ということの定義が大切です。自分を肉体だと思っていると、この違いが見えてきません。 誰かの期待に応えるために努力する人生は、それが無意識であっても、誰かの操り人形の生き方です。とっても疲れます。 人間関係に疲れる人は、そうやって相手の気持ちに振り回されてしまうから。 ドカンと自分を中心に据えて、怖がらず素直に自分を表現していけたらラクになるよ。(^^) ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 22, 2006
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緊張を表す言葉に「手に汗握る」というのがありますよね。 重いものを持つとき、手にペッペッとつばをつけて軽く濡らしてから持ち上げる、というようなシーンを見ることがあります。事務で紙をめくるときも指先を濡らしてやることがあります。皮膚は乾燥していると滑りやすくなるので、濡らすんですね。 私たち人間が四足で歩行していたとき、敵に襲われそうになるなど危険が迫ったら、ダッシュで逃げる必要があります。でもそんてとき、前足と後ろ足が乾燥していたら、滑って敵に捉まるかもしれません。 そこで、滑ったりすることを防ぐために敵に出会って緊張すると、自動的に汗をかくことで滑らずにダッシュして逃げやすくするために前足と後ろ足に汗をかいたのだそうです。 つまり、「手に汗握る」のは、そんな大昔の名残で、本能的なものなんですね。 でも「緊張して身構える」という言葉があるように、ある程度の緊張をすることで「対象に集中することができる」というメリットがありますよね。 ですから、緊張それ自体は必要な防衛本能なんですね。 問題は、必要以上に緊張してしまうことです。 感情に自然な感情と、偽りの感情があることはあまり知られていませんが、偽りの感情とは、感情のフリをした思考です。必要以上の緊張も「思考」が原因です。 どんな思考かというと「あるべき」なんですね。 目的によらない不自然な「あるべき」は、緊張という本能の働きも狂わせてしまうんですね。(目的に相対的に生じるあるべきは、論理的に正しいのです) 緊張して人と接するのがつらいとか、心の苦しさは、そのような不自然な思考が原因になっています。 ですから、論理的に不自然な思考を書き換えることで、穏やかな心を手にすることができるのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 21, 2006
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私たちは、ついつい誰かを責めたりね悪口を言ったりしてしまうことがあります。でも、誰かを責めたり、悪く言うことで、自分自身を愛から引きずりおろし、自分を狭めているんです。「なまけ者のさとり方」◇タデウス・ゴラス著◇山川紘矢・亜希子訳◇地湧社というごく薄い本があります。でも、書かれている内容は深いものです。---- 引用開始 ----------------------------------------------------他人が肉欲の喜びにふけっているからといって、批判しないこともとても大切なことです。人がやっていることを否定すると、その行為を自分にも否定することになります。私達は自分を律する法律を常に自分で作っているのですから、あなたが発するすべての言葉や行動は、あなたがどんな世界に住むかを決めてゆくのです。(「なまけ者のさとり方」◇P44)---- 引用終了 ---------------------------------------------------- たとえば、「あなたはすぐ優位に立とうとしている」と誰かに向かって言う人は、自分の中に「誰かに勝ってはいけない」という禁止令を作ってしまいます。というより、親にそのような禁止令を刷り込まれ、自分がその禁止令に従って我慢して生きてきたから、その禁止令に従わず自由に生きている人に嫉妬して自分と同じように我慢させようとしている、ということのほうが多いかもしれません。 自分がしたいのに「してはいけない」と心の奥に押し込めたものは、シャドウとして、表面から消えます。でも、それは本当はしたいことなので、心の不安定を伴って、不自然な形で外側に現れてきます。 では、シャドウになった「したいこと」をしていないかというと、実はしているんですね。 そのときは、防衛機制を使ってしていることを自分で認識しないようにしているか、してもいい理由をつくっています。そのときも、心の不安定が伴います。 そのようなとき、自分の内にある原因は見えなくなっていますから、必ず自分の外側に原因があるように見えてしまうのです。 ですから、自分の外側(人にしろ、出来事、状況にしろ)を責めたり、悪く言う人は、見えない自分の内側も同時に責めてしまいます。 ところが、見えていないので、漠然と原因の分からない心の不安定として感じられるのです。 そして、「なまけ者のさとり方」でも言っているように、行動も制限されてしまうのです。 たとえば、他人がウソをつくことを許せない人は、そのことを極端に自分にも課してしまいます。たとえば、ウソを言うことで人の命が救われるときでも、ウソを言うことができない、というようなことにもなってしまうのです。 ですから、自分の外側を責めているとき、そのことが自分自身を蝕んでいることを知ってください。あなたの心の苦しさから解放されるヒントは、そこにあります。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 20, 2006
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ここでいう自分(自己)中心主義とは、ジコチューに似ていますが、まったく逆の概念です。 自分(自己)中心主義は、それぞれの人が自分を中心に決めるということ、それぞれの人の自由意志を認めるということです。 一方、ジコチューは自分だけに判断基準があり、他の人はその判断に従え、ということであり、言い換えると、他の人を自分の思い通りにしようという姿勢です。 共依存は、自己肯定感がなく、他者の評価で自分の価値を感じますから、コントロールドラマで他者を自分の思い通りにコントロールしようとします。また、その一方で自分で判断すべきところなのに他者の影響を受けてしまいがちです。他者を自分の思い通りにしようとするのは、そのような他者の振る舞い(他者の評価を含んでいる)によって、自分の価値を感じているということです。 一方、自分(自己)中心主義には、自分で決めて良いんだという自己肯定感が必要です。 スピリチュアルなとんでも本?「神との対話」という本にこうあります。--- 引用開始 ---------------------------------------------------------<マスター>は、相手が何者で、何をし、何をもち、何を言い、何を欲し、何を要求しているかはどうでもいいことを知っている。相手が何を考え、期待し、計画しているかはどうでもいい。大事なのは、その関係の中であなたが何者であるかだけである。最も愛情深い人間とは、最も自己中心的な人間だ。(「神との対話」P168)--- 引用終了 --------------------------------------------------------- また、カウンセラーが書いた「自己主張が楽にできる本」の第1章は 『「自分中心主義」のすすめ』です。 それぞれの人が自分をセンターに置く、それはとても大切なことなんですね。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 19, 2006
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同和問題というものがあります。これは今朝の夢に出てきたものです。同和問題を知らない方は、Googleで調べてください。 人種差別にしろ、貧富の差にしろ、人間が作った社会の仕組みが作り出した問題というものがたくさんあります。 このような問題は目的の違いによって生まれます。 私に今見えているものを説明するのは大変ですが、簡単に説明すると、たとえば、一部の人が物質的に裕福な生活をするための社会的な仕組みを作り、その結果として貧富の差が生まれても、その最初「一部の人が物質的に裕福な生活をするため」という目的には何にも反していないので、その目的に照らすと間違ってはいません。 ところが人の心の目的に照らして考えると、それは大きな問題になる、というわけです。 何を目的にするか、ということはその人を何者にするかというとても大きな問題なのですが、多くの人はそれに気づいていません。 目的は、選択の時の選択基準になります。心を病む人は、自分の目的というものを持っていません。選択の基準は、相手にお任せであることがほとんどです。 ですがそれは、自分の目的は相手の目的に合わせて嫌われないようにする、という目的を持っているということです。これが分かれば、目的を変えられます。 多くの人は、その結果として、複数の目的を並列に持っている、あるいはその場その場で目的を変えています。それは自分というものを持っていない、自分を生きていないということです。 目的には大きく1.身体の目的、2.心の目的、3.魂の目的があります。 目的の優先順位がはっきり決まると、生きるのがとても簡単になっていきます。 あなたの考え、目的があなたを創り、あなたの人生を創っていきます。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 18, 2006
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悟りについて語るとき、「悟りは言葉では伝えられない」ということが言われることがあります。 言葉というのは、「体験から作られた概念を指摘するもの」です。たとえば、新潟には「ぽっぽやき」というものがあるのですが、そういわれても、知らない人はイメージができないですよね。使用した体験も見た体験もないからです。 悟りや愛を理解するためには、見えていないものを見る必要があります。 見えないものの壁がたくさんあります。二人の自分シャドウ投影コントロールドラマ防衛機制二つの感情これらがあるのにあるように見えていないとしたら、かなりな情報不足ですよね。多くの人は、そのような情報不足の状態で判断し結論を出していますから、たいていは間違った結論に従って行動してしまうという繰り返しをしています。 気づいていないことがあるから、どうやったらいいかがわからないわけです。 メールレクチャーでよくある質問がこれなんですね。「今の苦しい状態を何とかしたいのだけれどどうしたらいいかかわらない」 それはそうですよね。分からないものに根本的な対策を立てることはできませんから。 たとえば、「感情に振り回されるのを止めたい」というとき、振り回される感情と振り回されるない自然な感情があるのがわからないから、「感情を持たないことにする」という不自然なことをしようとしますが、湧き上がる感情を意志の力で途中で止めることはできません。 でも、二種類の感情があることが分かり、その発生メカニズムがわかれば感情のような思考をやめ、感情に振り回させずに、自然な感情を楽しむことができるようになりますよね。 そのように見えていなかったものが見えるようになるにつれどんどん穏やかな心(悟り、愛)に近づいていくことができます。 そして、見えていないものを上記のように心理学的な言葉に表すことができるということはすでに心理学的に解明されているということなのですら、お釈迦様の時代より、はるかに簡単に悟ることができる時代なんですね。 ぜひ、そのメリットを活かしてほしいと思います。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 17, 2006
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「私たちが見ている世界は、その人の心を映し出した鏡だ」ということが言われます。 これは、野に咲く花が実は存在せず、その人が心に花があると思ったから花があるように見えるということではありません。(自分の定義を変えるとそういう鏡もあるかもしれませんが今は話が複雑になるので扱いません) たとえば、その花を見て詩を作るときAさんは「花たちが風にのって楽しそうにダンスしている」という詩を書きBさんは「花たちが風に小突かれていじめられて悲しんでいる」という詩を書くかもしれません。 花自体は、楽しく感じたり悲しんだりしていませんから、この違いは、それぞれの人の心が投影されものですよね。(サボテンに感情があるかも、という話はここではおいておきます)Bさんが> Wさんは反論めいたことを書かれると> 相手を否定し自分が優位に立っている> という発言をしますね。> 悲しき人間の性でしょうか。と言ったとします。ここで、「相手を否定し」とありますが、相手の意見が間違っていたら、これを間違っているからと反論しそれに従わないことは、「相手(の存在)を否定していること」ではありませんよね。たとえば、梅の花を見て「桜が咲いている」と言ったら、それに反論して「あれは梅だよ」ということは、相手の間違いを指摘していますが、別に相手(の存在)を否定しているわけではありませんよね。ところが、自分の評価を他者に依存している人は、自分の意見が通らないことは、『自分に価値がないという相手の評価』に感じられ、傷つくわけです。 梅と桜の間違いのように明らかに自分の間違いが分かり、正しいと反論できないものの場合なら、その間違いを認めないわけにいかないので、『同じ注意するにしても、他の人がいないところでこっそり注意すべきだ』という合理化や逃避で傷つくことから逃れます。また、「優位に立とうとする態度」が悲しいことだとBさんは評価していますが、これは優位に立とうとする姿勢が、人が成長する力になっているという見方もできますから、それ自体は良いことでも悪いことでもありません。 そもそも、梅の花を見て「桜だ」という間違いを「あれは梅だ」と指摘することが優位に立とうとしているかどうかではないの同じように、Wさんの発言が「優位に立っている発言」とは無関係かもしれないわけで、Wさんの発言が「優位に立っている発言だ」というのが、劣勢になって評価が落ちるのを恐れているBさんの心の投影です。 つまり、Bさんが受け入れたくない「悲しき人間の性」がWさんの行動にそれが見えるということは、Bさんの中にあるから投影されて見えているということです。 これは、花が風に揺れることを楽しんでいるか悲しんでいるかにかかわらず、見ている人の心が投影されて見ている人にはそれが見えるように、Wさんが「悲しき人間の性」に支配されてそれをやっているかどうかは関係ありません。(自分の心の投影ということや他の客観的な事実も加えて判断すれば推測は可能です) 実際はそのようにBさんの心の中が投影されているのですが、Bさんは、それを認めようとしませんから、それは、ユングのいうシャドウ(影)として存在せざるを得なくなっています。 このために「悲しき人間の性」は、Bさんにとっては、自分はそんなものを持っていないと感じられています。そしてそのようなシャドウとなった自分が認められないものが他者に見えたとき(相手がもっているかどうかではなく、投影されて見えたとき)心の穏やかさが乱され、感情的にそれを否定しないではいられなくなります。 そうやって影(シャドウ)が湧き上がってくることと戦っているのですが、真の影(シャドウ)と戦いとは、影を自分に統合することなのです。(ジブリの「ゲド戦記」楽しみですね。(^^)) つまり、自分が否定せずにいられないことを受け容れることです。それは、すべてを受け容れる作業になります。その結果、無条件の愛を身につけることができます。 ここで、定義が重要になります。自分が否定せずにいられないことを受け容れることは、自分が否定したいことを受け入れて自分がすることではないということです。 「うそをついてはならない」という考えに囚われている人は、うそをついている人を責めますし、本人もうそをつくことができません。「うそをつくこと」という自分をそれまで否定してることを受け容れるということは、「うそをついてはならない」という考えに囚われないということです。(禁止令から解放されるということです) このようにその人が見ている世界は、その人の意識と心が投影されているのです。 心は、意識のステージですから、意識を変えることで、心が変わり、見える世界が変わり、結果として、実際に世界側の対応が変わってきます。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 16, 2006
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誰かを真剣に愛するって、とってもステキなことですよね。(*^.^*) 「愛」って、とても素晴らしいものだと思います。でも、そんな愛ですが、「愛するがゆえに、殺人まで犯してしまった」というような悲しい事件が起きたりしますよね。 なぜ一見そんな矛盾したことが起きるかというと、それはひとつの言葉で愛と呼んでいるものがまったく同じではないからです。その分け方は視点の取り方で変わるものです。今は、心の穏やかさ、人間的成長、霊的成長という面から分けてみます。 それは簡単に言えば、すべてのものを平等に愛する「神の愛」と誰かひとりを世界で一番愛する「恋愛の愛」です。 別の言葉で表現すると、それは「神の愛」は、「無条件の愛」で「恋愛の愛」は、「条件付の愛」の愛です。 私は無条件の愛を本当の愛と定義しています。そして、条件付の愛というのは、その本質は取引でその中に、本当の愛の要素が入っているんですね。 恋愛の愛は、自分が相手に期待する理想像があって、それに愛は当てはまる人に出会ったときに、その人のすべてを受け入れたいと感じている状態でといえます。 そして、受け入れたいその人というのは、今現在自分が認識しているその人、なんですね。 ですから、まだ知らないこともあるでしょうし、間違って認識している部分もあるでしょう。時間が経ってそのような部分が新たに分かって、それが相手に期待する理想と外れていたときに、恋愛の愛にかげりが出ます。「えー、こんなギャンブル好きだとは思わなかった」「こんな変な趣味があるとは知らなかった」とか、分かったときにそれが恋であれば恋が醒め、愛していれば、愛が冷めたりするわけです。「愛するがゆえに、殺人まで犯してしまった」というのは、理想状態の相手に依存してしまっているので、その依存対象が崩れることを恐れてのことなのです。 ところで、条件付の愛とは言え、「今自分が相手に対し知り得ていること」に於いてという前提(限定)の中では、その相手を(擬似的に)無条件に愛している(受け入れている)とも言えます。 つまり、ある前提(条件)下においては、無条件の愛を(擬似的ですが)体験しているんですね。 本当の無条件の愛には、条件がありませんから、自分の外側がどのように変わっても愛に変化はありませんが、条件付の愛には、条件がありますから、自分の外側が変わるとその愛が終わるという違いはあります。 そして、多くの人が間違えやすいこと(体験していないと見えないこと)ですが、意識が無条件の愛になると、初めて体験したそのときはともかくすべてを平等に愛することが当たり前になると恋愛の愛のような興奮はなくなります。 そして、その状態の意識の上で、好みを使って、恋愛の愛も体験できるようになります。 その状態だと、子供が生まれたことも子供が亡くなったことも同じように愛する(受け容れる)ことができ、感謝できます。その上で、子供が生まれたことを喜び、子供が亡くなったことを悲しむ、そのぞれぞれの感情を味わうことができるようになります。つまり、無条件の愛の状態を体験することで、ひとつの体験の中にある「無条件の愛」と「条件付の愛」の区別を明確につけられるようになるんですね。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 15, 2006
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私は、意識を観ることができます。・・・なんていうとすごそうですが(^^;、超能力とかではありませんよ。 同様に、精神世界や心理なら、多く場合、本のタイトルを見るだけで、良い本かどうか見分けがつきます。 どういうことか説明しましょう。 たとえば、先日このブログでご紹介して、良い評価をもらった 石原 加受子 著『自己主張が楽にできる本』実務教育出版 (1997-09-20出版)ISBN:4788917246という本の場合を例に説明しますね。このタイトルから、この著者は「自分が言いたいことを言葉にできない人がいる」ということが見えている人だと分かります。さらに、サブタイトルとして「相手を恐れず言いたいことを言うために」とついていますから、「言いたいことが言えないのは、相手(の評価)を恐れているからだ」ということが見えていると分かります。もう、これだけで充分この人の意識が見えますが、判断がつきにくい場合は、さらに目次を見るとよりはっきりします。第1章 「自分中心主義」のすすめ第2章 「我慢」の先にあるもの第3章 恐怖心の原因とその克服第4章 意志と責任の領域第5章 自己主張することの意義第6章 最も楽な主張の仕方第7章 表現することの快感 「自分中心主義」というのは『神との対話』(サンマーク出版)にも書いてありますよね。こんな常識からしたら、一見悪いことを敢えて勧めていることからも、この人の意識が高いレベルにあることがわかります。それはいわゆる「ジコチュー」と「自分中心主義」の区別がついているということだからです。「意志と責任の領域」から「自分の問題」「相手の問題」の区別がついてることもわかります。そして、「表現することの快感」ということから、これが単に知識ではなく、この人も体験していることだとわかるから、この人が書いた本は何であれ、すばらしい本だと推測できます。これらは、心のメカニズムを理解してれば考えて分かることですし、さらにそれを腑に落として自分のものとしていたらその基本的な考えの結果として、自然に出てくるものです。 これは、日常の会話でも、ブログのコメントでも同様です。 ですから、私がコメントにレスするときは、そうやって相手の意識レベルを観ながらレスをつけています。 もちろん、短いコメントだけでは、判断がつきかねることもありますが、だいたいは観えています。 たとえば、>「完璧主義」の人は「共依存」になりやすいんですね。というコメントから、この方は、共依存のメカニズムが見えていないということが分かります。(まだ共依存をよく理解していないということ)ということは、このことを書くと低い評価をされたと感じて傷つく可能性が高いので、そのことを考えて長い説明ができないコメントのレスでは、そのことを指摘しませんでした。 ここでは詳しく説明できますから、あえて書きましたが、まず、多くの人は広い意味での共依存ですが、そのことに気づいている人はごくわずかです。ですから、穏やかな心を目的としたら、まず、このブログを読んでいることで一歩を踏み出しています。さらに、共依存という言葉を知っているだけで、さらに一歩を踏み出していることになります。この方が次にすることは、共依存の大まかな内容を理解することですね。 心理学者やカウンセラーになるわけじゃないですから、概要だけ理解すればいいんです。そうすると共依存だから、相手から確実に良い評価をもらうために、事前にちょとでも悪いところを指摘されることのないようにしておこうとしてしまうので、完璧主義になる。というようなことが分かって(観えて)きます。すると、だんだん日常の相手や自分の心の動きや理由が見えてきます。見えたらしめたもの。見えるものはコントロールできるからです。> 本当の感謝とは何でしょう?> 心の底から感謝する時って> 頭で考えるよりも> 何かしらの体験を通じて、> 気づき、実感することが多いような気がします。「(心の底から)感謝する時って」という言葉から、このことの人の意識の中では、歴然と「感謝できること」と「感謝できないこと」がはっきり分かれていることがわかります。 この人も含めて、多くの人は、「感謝できること」と「感謝できないこと」があるのが当たり前という常識を持っています(そういう意識でいる)。ですから、この人もそういう意識レベルなので、この言葉で自分の意識を表現してしまっているのですが、そのことは自分にとっては当たり前だからまったく観えていないのです。 今回レスをつけるときに、 > 心の底から感謝する時って > 頭で考えるよりも > 何かしらの体験を通じて、 > 気づき、実感することが多いような気がします。 そのとおりですね。心のそこから感謝できるときとは、その瞬間、そのことを無条件に受け容れて愛になっているということですからね。としようか迷ったのですが、その前の感謝できる対象をはっきりと区別していたら、条件付の愛なので、その部分を確認のために「具体的に考えると分かりますが、「心の底から感謝する時」はたとえば何に感謝しているのかな?その対象が正反対になったらどうなるかな?」と取り上げてみました。でも、「それは、まだ愛に達していない状態のようですね」という言葉で、自分が低く評価されたと感じてコントロールドラマを仕掛けてきたようですね。 実は、今回のブログは、冒険ですよね。こんなことを書いたら、冷たい人だ、エゴの人だというよに私の評価が下がるだろうからです。(笑) でも、観えていないものを観えるように指摘するためには、他者の例を出すのが有効なんですね。ですから、敢えて書いてみました。 例として取り上げた方、気に障ったらごめんなさいね。でも、そのような自分の評価の問題は、それを受け容れるかどうかという自分の問題になります。ロス博士は、こういっています。---- 引用開始 ---------------------------------------------------------人が人生で直面するありとあらゆる困難、試練、苦難、悪夢、喪失などを、多くの人はいまだに呪いだとか神の下した罰だとか、何か否定的なものと考えています。でも、ほんとうは自分の身に起こることで否定的なことはひとつもありません。どうしてみんなはそれに気がつかないのでしょう。あなたが経験する試練、苦難、喪失など、あなたが「もしこれほどの苦しみだと知っていたら、とても生きる気になれなかっただろう」と言うようなことはすべて、あなたへの贈り物なのです。すべての苦難は、あなたにあたえられた成長のための機会です。成長こそ、地球というこの惑星に生きることの唯一の目的です。あなたが美しい庭にすわっているだけで、銀の皿にのった豪華な食事を誰かが運んできてくれるのだとしたら、あなたは成長しないでしょう。でも、もし病気だったり、どこかが痛かったり、喪失を体験したときに、それに立ち向かえば、あなたはかならず成長するでしょう。痛みを、呪いとか罰としてではなく、とても特別な目的をもった贈り物として受け入れることが大切です。『「死ぬ瞬間」と臨死体験』より ---- 引用終了 --------------------------------------------------------- この人が感謝できないこととは、この人が否定的な意味づけをつけたものです。ロス博士は、そんなことでも良い面を見ることができる、ということを紹介し、勧めています。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 14, 2006
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霊的成長のために感謝をすることの大切さが説かれることがあります。心の穏やかさのためにも、感謝する気持ちを持つことは有効です。 でも、それがうまくいかない人もいます。 それは心から感謝していないから。感謝しているフリをしているだけだから。 顕在意識でいくら感謝しているポーズをとっても、心の奥、潜在意識でまったく前と変わらず嫌っていたり、憎んでいたらその本当の気持ちの方が現れてきます。 たとえば、犬が大好きな人は、かわいい犬を前にしたら、うれしくてかわいがろうと近づいていきます。ムツゴロウさんこと、畑正憲さんなんか、ライオンだって抱きついちゃってましたよね。(^^) ところが、犬が大嫌いな人は、どんなに表面的に犬好きのフリをしても犬に近づいただけで心が乱れてしまうはず。表面的に顔で笑っていても、心の中は前と同じ。心の穏やかさを目的とした場合、心の中が前と変わらなかったら、意味がありません。そんな状態では、とても無条件に受け容れることなどできません。 感謝もそれとまったく同じで潜在意識から変わっていくことが必要なのです。 徐々にでもいい、最初は『イヤなやつだけど、けっこういい面もあるじゃない』でもいい、少しずつでも心の奥の気持ちや考えを書き換えていくことで、大きく変化していくことができるんです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 13, 2006
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心を病む人は、完璧主義の部分があるはず。もしどちらでもいいと思えるなら、悩みは解決しちゃいますからね。(^^) 完璧主義になってしまうのは、自分に自信がないこと他者の評価で自分の価値を判断していることによります。 たとえば、料理を作り、自分ではちょうどいいと思った塩加減を食べた人が「足りない」という場合もあります。また、上手に作ったつもりでも、思いもしなかった指摘をされることもあります。 それは、人により、体験が違い、視点が違い、好みも違うからですね。 その理解を基礎に二通りに考えることができます。1.人はさまざまだから、すべての人に満点をもらうことは不可能だ2.人はさまざまだから、すべての人から良い評価をもらうためにできるだけ完璧に近づけなければならない ゲストが作った料理を審査員たちに食べてもらって点数をつけるというテレビ番組がありますが、審査を受けるほうは、上手に作ったつもりでも審査員に「うん、うまい」という評価をもらうまではドキドキ心配したりしています。自分では完璧に作ったつもりでも自信がもてないわけです。 なぜかというと、自分の作った料理はおいしい(価値がある)と自分で信じている、ということが自信ということなのですが、それが、自分が作った料理をおいしい(価値がある)と相手が評価することを信じる、にすり替わっているからです。自分で価値があると思っていることが自信なのに、相手が価値があると思ってくれることを自信だと勘違いしているのです。 仮に相手が良い評価をしてくれて、そのときに自信がもてても、いつ評価が下がるか心配ですから、結局そんな自信は長続きしません。 先に述べたように、人はそれぞれ違いますから、すべての人が同じ評価をすることはあり得ないのです。 その「良い評価をすべての人からもらう」というあり得ないことを、期待しているのですから、そんなことは信じられるはずがありません。 論理的に考えてなぜ、できるだけ完璧にしようと思ったかというと人はそれぞれ違うから、完璧に作ったつもりでも思いもしない悪い評価を受けることがある、ということを知っているからですよね。つまり、人によっては悪い評価をする可能性があるということを信じている、言い換えるとすべての人が良い評価をするということはあり得ないと信じている、つまり、すべての人が良い評価をするということを信じられない、ということですからね。前提からして、どんなに完璧にしたつもりでもそんな他者を中心にした自信を持つことは不可能なのです。 でも実際には『完璧を期せば、自信がもてる』ということはありますよね。 それはなぜでしょうか? 「人事を尽くして、天命を待つ」という言葉があるように、実は『自分は、できるだけのことをした』ということを信じているのです。つまり、最善をつくしたから、今はこれ以上の努力のしようがない、ということですから、『やり残したことはないか?』という不安が消え去り、「天命を待つ」「相手の評価が何であれ、これ以上どうしようもないから受け入れるしかない」という気持ちになれるんですね。 あなたの自信、間違っていませんか? ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 12, 2006
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その人が共依存であるということは、「自分では自分の存在価値を認められない」ということと言えます。 だから、他者の評価に自分の価値を求めるのです。 「自分では自分の存在価値を認められない、感じられない」から、自分に自分の価値を感じさせてくれる相手に引かれて、その相手に依存することになり、相手も同様にその人に依存するので、共にその人間関係に依存しあうから、その視点から共依存と呼ばれています。(最初は、アルコール依存症に共に依存しあう、というところが名前の由来) 共依存の人が自分に価値を感じるのは、他者が自分に価値を認めてくれたときです。 それは、自分が価値があると思っていることと関係なく、相手の価値観で決まってしまいますから、他者の価値観に自分を合わせようとすることになってしまいます。 それを宮崎駿さんは、映画「千と千尋の神隠し」の中で、カオナシというキャラクターで見事に象徴していました。 その相手の価値観が自分の価値観と一致しているときは、充実感が感じられますが、一致していないときは、どこかに空虚感が漂います。自分の顔がないのですから、当然です。 本来、どんなものも価値は決まっていません。 受け取る人が決めているのです。 自分の価値を一番に受け取るべきなのは自分自身です。 自分が受け取る価値は、自分で決めるべきなのです。そうすることで、自分を生きているという実感を感じることができます。 自分の価値がまだ分からなくてもいいんです。「自分には価値がある」そう決めてください。 あなたには存在する価値があるから、神様(宇宙)は、あなたの存在させてているのです。 そう思って(決めて)ください。 反面教師ということがあるよに、どんなものにも、良い面と悪い面の両方から見ることができます。そのことが分かれば、「自分には価値がある」というのが、口先だけのものでないことがわかるはずです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 11, 2006
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ありきたりに思えますが、幸せを感じるためには感謝することが大切です。 気づきにくいことですが、感謝とは、喜びの表現のひとつです。礼儀ではダメなんです。 プラス思考で、感謝できることを探すということが言われますが、もし、それが「こう考えれば感謝できる」という思考で止まっていたら、幸せには届かないということです。 「こう考えれば感謝できる」→その考えを採用する→喜べる→幸せに感じる 心から喜んだときに幸せを感じるんですね。感謝できる考え方を採用するから、喜べること、幸せに感じることが増えていきます。「うわー、うれしい!ありがとう」 だから、幸せ(^^) ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 10, 2006
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ダニオン・ブリンクリー(ポール・ペリー共著)の「続 未来からの生還」の中にこんな文があります。--- 引用開始 ----------------------------------------------- 彼ら(光の存在)は私に、私たちが自分たちの精神を取り戻さなければ未来には対処できないことを、はっきりと伝えた。 彼らは、人々がストレスを減少させ、その過程で精神としての自分を見出すことになるセンターの設立方法を教えてくれた。(「続 未来からの生還」P21、括弧内はwing-spaceの補足)--- 引用終了 ----------------------------------------------- つまり、ここから、私たちは【精神としての自分】を見出すことが必要だということがわかります。 『なるほど』と思う方もいると思いますが、では、「精神を取り戻す」って、具体的にどういうことで、どうすればいいか、説明できますか?そう聞かれると、頭の中が真っ白になるか、質問がぐるぐると堂々巡りをするだけとかになってしまうものです。 なぜなら、ふつうの人は、肉体としての自分、心としての自分、という概念は使っていますが、【精神としての自分】という概念を使って生きていないからです。 このことは、「神との対話2」の中で同様のことが述べられています。--- 引用開始 ----------------------------------------------- あなた方の一部は---少数だが---肉体と精神の両方があることを理解している。そんなひとたちは、精神もていねいに扱う。だが、精神と精神的なことがらを大切にしているひとでさえ、精神の能力の一割も活用していない。精神にどれほど大きな能力があるかがわかったら、精神の脅威のお相伴にあずからないではいられないだろうに。肉体と精神のバランスをとっている者が少数だとしたら、肉体と精神と魂という三つの部分を生きている人はさらに少ない。だが、あなたがたは三つの部分からなっている。肉体以上の存在であり、精神をもった肉体以上の存在なのだよ。(「神との対話2」P138)--- 引用終了 ----------------------------------------------- さて、こちらの引用にも「精神」という言葉がありますが、ダニオン・ブリンクリーが「続 未来からの生還」の中で【精神の自分】と言っているものは、こちらでは、【魂】と呼ばれています。 翻訳の過程で、別な概念を【精神】という同じ言葉で表現し、しかも同じ概念を【精神】と【魂】という別の言葉で表現しているのですから、とても、ややこしいことになっています。 私は、英語版の「神との対話」を持っている人に、原語を確認したところ、肉体 → body精神 → mind魂 → soulでした。mind (思考・判断・知覚・感情・意思などの働きをする)心、精神や知性,頭,頭脳のことですから、つまり、こちらの精神とは、【心】や【思考の主体】のことなんですね。実際、「神との対話」では、【心】と訳されている部分があります。--- 引用開始 ----------------------------------------------- 死にゆく者への最大の贈り物は、安らかに死なせてやることだ。「がんばれ」とか、苦しみつづけろだの、本人にとっての人生最大の転機に、周りのことを心配しろだのと要求しないほうがいい。まだ生きると言い、まだ生きられると信じていると言う人、生きたいと祈ってるひとでさえ、魂のレベルでは「気が変わっている」ことがしばしばある。魂が身体を捨てて自由になり、別の探求の旅に出る時がきた、と決意したら、身体が何をしても決意をひるがえすことはできない。精神が何を考えても、変えることはできない。死ぬときに、身体と心と魂のうちのどれがものごとを動かしているのかがわかる。一生を通じて、あなたは身体が自分だと思っている。ときには、精神が自分だと思うこともある。ほんとうの自分は何者かを知るのは、死ぬときだ。(「神との対話」P110)魂はしばしば、身体から去るべきだと決意する。身体と精神---魂のしもべ---がこれを聞き入れて、脱出のプロセスが始まる。ところが、精神(自我)が嫌がることがある。要するに死は自我の終わりなのだから。(「神との対話」P110P111)--- 引用終了 ----------------------------------------------- ですから、ダニオン・ブリンクリーが「続 未来からの生還」の中で【精神の自分】と言っているものは、「神との対話」では【魂】と呼ばれているものです。(ちなみに、神対の方の精神とは、自我とその反映としての心のことですね) そのことは、「続 未来からの生還」のこんな文からもわかります。--- 引用開始 ----------------------------------------------- 何百万人もの人々が、臨死体験で味わうこのような経験を語っている。それが落雷による場合でも、心臓発作、あるいは交通事故で瀕死の重傷を負ったときの体験でも、臨死体験を経て生還した何百万もの人々は、精神の王国を訪れたことを語る。(「続 未来からの生還」P21)--- 引用終了 ----------------------------------------------- 人が亡くなったときに行く「魂の世界」のことを「精神の王国」と言っていますね。 このように、本から知識をスピリチュアルな知識を得ようとするとき、その概念はまだ使っていないものであることが多いので、表面的な言葉に惑わされないで、その概念をしっかり掴むことが大切です。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 9, 2006
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共依存は、「自己肯定感がない」ということに起因して作られる人間関係です。 自己【肯定】というと分かりにくいですが、言い換えると、自分に【価値があると認める】ということですね。 つまり、共依存とは、自己肯定感がないから、他者から認められることで自分に価値を見出し、間接的に自己肯定する関係ですね。 コントロールドラマとは、「自分(の価値)を認めてよ」ドラマということです。 精神科医で心理学者でロゴセラピー創始者のヴィクトール・エミール・フランクルは、3つの価値を上げています。1・創造価値: 創造行為を通して得られる意味=仕事・子育て・芸術を創造する2・体験価値: 体験を通して得られる価値・意味=自然にふれあう・芸術にふれる・愛する3・態度価値: 状況・運命に対し【自分としての態度】を取ることで得られる価値・意味 この中で、創造価値と体験価値は一般的にも普及していて分かりやすいものです。仕事をして社会に貢献したことに価値がある、こんな自然(芸術)にふれ、感動できて、(生きる)価値がある、というようなものです。 そのフランクルは、ナチスの強制収容所に送還され、人間の尊厳を奪われるような、筆舌に尽くしがたい体験をしました。そのときには、創造価値と体験価値の両方を奪われてしまったのです。でも、そんな極限的な状況でも、態度価値だけは奪われることはありません、いえ、そんなときこそ、態度価値が光るのです。 態度価値、それは、言い換えると『愛を選択した態度をとること』です。 人によっては、状況・運命に対し【模範的態度】を取ること、と解釈する人もいるようですが、模範的ということが常識を前提としていますよね。 たとえば、武士として、潔く切腹することが模範的な態度だとしても、『切腹などバカらしい』という信念を持った人にとっては、まったく価値を感じることはないでしょう。 それは、自分が切腹に納得していないから、自分が切腹に価値を見出していないからです。 ですから、私は、態度価値とは、自分が納得できる態度、自分が価値を見出せる態度、つまり、【自分としての態度】と解釈しています。 フランクルの本や解説本を読んでも、もしかしたら、分かりにくいと思いますが、「態度価値とは、自分が納得できる態度、自分が価値を見出せる態度」というポイントを押さえて読めば、きっと分かりやすくなると思います。 創造価値や体験価値には、条件や時間が必要です。しかし、態度価値は、誰でも毎瞬創造できるのです。 死ぬ前日、いえ、死ぬ直前ですら、態度価値は生み出せるのです。 毎瞬毎瞬、自分が納得できる態度をとり続けたら、その人の人生は充実した価値のあるものなるはずです。 そして、よく考えたら分かることですが、創造価値や体験価値も態度価値の延長にあるのです。つまり、価値とは、態度価値であり、愛を選択すること、なのです。 ただ、毎瞬(本当の)自分であること、それこそが、価値を創造するのです。 フランクルの著書「それでも人生にイエスと言う」の中で使われる言葉を私流に説明すれば「人生にイエスと言う」とは、自分に起きたことを無条件の愛で受け容れる、ということです。また、「人間が『人生の意味は何か?』と問う前に、人生のほうが人間に問いを発してきている。人間は、人生からその意味(価値)を問われている存在である」というのは、「自分の価値観(本当の自分自身)を生きなさい」ということなのですね。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 8, 2006
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共依存という概念を別の視点から表現すると、「自己肯定感の欠如」と言えます。 自分に価値を感じると自分を肯定できますよね。 では、価値はどのようにして生まれるかというと、1.自分でこれに価値があると決め(自分の価値観)2.その価値基準を元に人生、自分自身を創り上げていくことによって価値がうまれるのです。 なぜ、多くの人が共依存になるかというと、自分の価値観を自分で決めずに、社会の常識などを無批判に流用してしまうために、無意識に自分が獲得した価値観とずれが生じ、そのために自分が創り上げてきた自分に価値を見出せなくなるのです。 自分にとって価値があるものとは、自分が価値を感じるものです。 他人にとってなんの価値も感じられないものであっても自分にとっては大切なものって、みなさんも持っているのではないですか? あなたにとって価値があるもの、あなたの価値観ってなんですか? そのことに意識的になってみましょう。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 8, 2006
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怒りというのもひとつの自己主張ですね。 実は怒りの感情は、第二の感情であり、その前に、別の第一の感情があったはずなんです。 怒りの感情は、その第一の感情の処理に失敗した結果なんですね。 詳しいお話は、をご覧ください。 簡単に言えば、たとえば、『あなたの態度が気に入らない』とか『そんなこと言わなくてもいいじゃないの』と不満に思うことがあります。実は『あなたの態度が気に入らない』の前に→「あなたの態度で傷ついた」『そんなこと言わなくてもいいじゃないの』の前に→「あなたの言葉が悲しい」という相手に向かう前の自分のための感情があります。(これが第一の感情) でも、それを相手にいうと嫌われるのでは、とか、相手を傷つけるのではないか、とかその感情を自己主張することがためらわれることがあります。 そして第一の感情を我慢していると、いつかそれが爆発してしまうのです。それが怒りなんですね。 第一の感情の真の意味は『私のことを認めて』なんですね。 ですから、つい相手に期待してしまいます。 ですから、うまくやるポイントは、第一の自己主張をするときに、自分の思い通りになることを相手に期待しないことです。 結果を期待せず自分の気持ちを相手に伝えることが自然にできるようになると、自分を生きているという実感を感じられるようになり、怒りに振り回されることがなくなっていきます。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 7, 2006
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ある方から「母親の役目は、何だと思う?」と聞かれました。 私は特に母親とか父親とかの区別ってないと思います。 でも、まあ母親ならではということも含めて答えました。それがこれ。 まず親として一番大切なのは、無条件の愛で子供を受け容れること 子供に接しているときに、心の不安定に気づいてあげること 自分で決められるように、自信をつけてあげること 家事一般ができるようにしてあげること 女性ならではの細やかな気遣いをしてあげること ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 7, 2006
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それは昨日のこと、春休みももうすぐ終わるということで、宿題のことをきっさかけに中学生の息子と母親の会話が始まりました。 はたでみていると、子供を自分の思い通りにしたい母親とそれに反発する子供のコントロールドラマがはっきりと見えます。 二人ともお互いに相手に対し、不満があり、感情的になっているのがわかります。 お互い、その不満を相手を自分の思い通りにすることで解決しようとしているのがよく見えるのです。 空手の達人は、あんなに速い相手の手や足の動きを見て、それをかわしますが、コントロールドラマもそれと同じです。 相手の仕掛けてくるコントロールドラマが見えると、それをかわすことができます。受け流すことができます。 それができれば、自分がコントロールドラマを仕掛けようとすると、それに気づくことができ、止めることができるのです。 そのためには、コントロールドラマということをよく知ることが有効になります。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 6, 2006
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家庭などで虐待を受けたとおもわれる子供たちが、全国の肢体不自由児施設や、重症心身障害施設、肢体不自由児療養施設にいることが、社会福祉法人・日本肢体不自由児協会の(東京都)の調査で分かったそうです。 どんな虐待がなされていたというと、養育放棄、身体的虐待、心理的虐待、性的虐待などさまざまあるそうです。 ある4男児は、生後3ヶ月のとき、母親が故意にガラス戸にぶつけ、頭に大けがをし、重い知的障害と半身まひが残ったという例もあるそうです。 感情的になって心のつらさをどうにもできなくなったとき、コントロールドラマの矛先を自分より弱いものに向けがちです。 それは多くの場合、子供ということになってしまいます。 ほとんどの人は、ある程度の共依存ですから、ふつうの人も日常の生活の中で、軽い虐待をしているともいえますが、この調査のように重い障害になることもあるのです。 そして、その重さにかかわらず、共依存の連鎖を止めることで、このような悲劇を無くすことができるのです。 まず自分が共依存から回復すれば、連鎖はとまります。そして、その愛は周りにも伝わっていきます。 「共依存の連鎖を止める、共依存から回復する」と決め、共依存を理解することで、それはできます。 ぜひ、あなたから共依存できなく、愛を広げていってください。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 6, 2006
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スタジオジブリの次回作に選ばれた「ゲド戦記」。ル=グウィン作の岩波の本の第一巻のタイトルは、「影との戦い」です。 以下、ネタバレに繋がる恐れあり。 最初は気づかなかったのですが、この影とは、ユングのシャドウのことかもしれませんね。 シャドウ(影)(shadow)は、元々、ユングが提唱した元型の一つです。 シャドウとは、人格の中で、表面に現れた自我(光の領域)に対して、無意識下に抑圧されて意識されない二面性の裏側の部分、暗闇の領域のことです。 ユングの直接的な定義によると、「そうなりたいという願望を抱くことのないもの」とされています。 すなわち、個人の意識が認めたくないこと否定したいことです。 受け容れられないことがあると、自分の中のその部分は、否定され押し込められてしまいます。 それは無いようで実は、影のように常に自分とともにあります。 たとえば、『女らしくあるべき』(実は偽りの自分だったりする)と思っている女性に活発な部分があると、その部分は表面化しないように押し込められてしまいます。 でも、実は、どちらも持ってるのだけれど強調された女らしい部分に偽りがあり、隠された影の活発な部分に本当の自分がある、その逆転の中で生きていることは、本当の生を生きていないということです。 「本当の自分探し」という言葉がありますが、本当の自分を取り戻すためには、否定しているものを受け容れ、本当の自分である影を表面化させ、一体化される作業が必要なのです。 影を認めたとき、偽りの自分(この場合なら、過剰な女らしくあるべき)は、自然に過剰さが取れ、影と融合し、完全な自分を取り戻すことができるのです。 宮崎監督は「千と千尋の神隠し」でも、「カオナシ」というキャラクターで共依存を表現していたと思います。覚えていますか?カオナシは、相手が望むものを差し出し、相手を飲み込み、相手(の価値観)になってしまいましたよね。 今度の映画「ゲド戦記」の中では、どのくらい心の世界を描いてくれるのか、今から楽しみですね。(^^) ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 5, 2006
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寒天ダイエットに、コンニャクダイエット、その他ノンカロリー、テイカロリーダイエットで痩せようとしているそこのあなた! あなたです、あなた(^^) カロリー減らせば確かに痩せます・・・・・が、でも、それだとたぶん、リバウンドしちゃいますよ。 そして、リバウンドした後は、前より痩せにくくなっているはず。 そんなダイエットをしていると、貧血、栄養失調、骨粗しょう症、お肌カサカサ、だるい、いろいろ健康損ねちゃいます。 痩せるためには、カロリー計算だけじゃうまくいかないんです。 どうせなら健康的にナイスバディになりましょう(^^)
Apr 4, 2006
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共依存は連鎖します。遺伝するということではありません。別々に育った双子での調査もあります。 では共依存の連鎖とはどういうことか・・・、楽しいブログがあったので、ご紹介します。(^^) トラとウマのお話。 共依存の連鎖、それは自分が決めることで自分の代で止めることができます。 穏やかな心を手にし、共依存の連鎖を止めたいですね。(^^)
Apr 4, 2006
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『親があんなアル中でひどい家庭だったから、私はこうなったんだ』『もっと普通の家庭に生まれたらよかったのに』 そんなふうに今の心の苦しさを(神様も含め)誰かのせいにすることがあります。『自分がミスったのは、あいつがちゃんと説明してくれなかったからだ』『となりでうるさく言うから失敗しちゃったじゃない』『私が悲しいのは、あなたがひどいことを言ったからよ』などなど 人は、自分が被害者だと主張することがあります。 心の苦しさから解放されたいというとき(という目的のためには)、自分が被害者だと主張することは、苦しさから解放されることを止めてしまうことにしかなりません。 感情は 出来事・相手 + 自分の考え → 感情という関係性において生じるのですから、感情を変えるためには1.出来事・相手(外側、自分以外)2.自分の考え(内側、自分)のどちらかを変えることが必要です。 自分が被害者だと主張することは「自分に原因はなく、自分以外の出来事・相手が原因だ」と言っているのと同じです。言い換えると、「自分の心の苦しさから解放される主導権は自分にない」と言ってるのと同じです。 ということは、自分、自分の考えを変えることを放棄するという宣言に等しいのです。 これは、自分以外のあれが悪い、これが悪い、と思っているうちは、「この心の苦しさから解放されるために自分を変えたい」といくら言っても、潜在意識では、『自分が変わるより、あいつが変わるべきだ』と信じているということです。 人は思っている(信じている)ようになります。多くの人は、「この心の苦しさから解放されるために自分を変えたい」と(健在意識で)思っているのになぜ変われないのだ、と不思議がりますが、加害者を許せないうちは、『自分には変えるべきことはない』と信じているのと同じですから、変われないのです。 「許す」ということ、それはあなたが思っているより、はるかに大きな意味を持っているのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 4, 2006
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仏の教えに「三毒の追放(怒らない・愚痴を言わない・妬まない)」がありますね。実践しようと思い頑張っても、なかなか出来ない、ということがあります。 私もDVで怒りの感情に振り回されていたとき、怒らなかった日は、カレンダーに○をつけて、これで連続何日怒らないですんだ、とやっていました。 でも、でも、実は、これは表面的なことだったんですね。 つまり、腹の中で『ムッ!』と怒りの感情が湧いても、それを相手にぶつけない、ということでしかなかったのです。 相手に怒りをぶつけないようにしてるから、噴火直前の火山のようにおなかの中では怒りがムカムカと渦巻いていることもありました。とても苦しかったです。そして、結局そのマグマはいつかは爆発してしまうんですよね。 もちろん、我慢することにも とても大きな価値がありますが、自分の心の穏やかさという目的からすると腹の中で『ムッ!』と怒りの感情が湧いた時点で穏やかさを失っています。(正確にいえば、自然な感情であれば問題ない、それを思考が増幅させることが問題) 感情は、 出来事 + 基本的な考え → 感情という関係性で生じますから、基本的な考えが変わっていなければ、同じような出来事が起こるたびに同じ感情が湧いてしまうのです。 一度生じた感情を表現するか抑えるかということは意志の力でできますが、感情が湧き上がることを意志の力で抑えることはできません。 つまり、頑張って怒らないようにしてもなかなかできないというのは、対策を間違っているからです。 怒ってしまった後、その感情を相手にぶつけるか、抑えるかの努力をしているのだけれど、「基本的な考え方を変える」という努力をしていないのです。努力の方向性が間違っているということです。 細かい部分は省きますが、「すべては相対的である(縁によって生じている)」ということを腑に落としたところから、自分の考えを作り上げ直していくと基本的な考えが変わっていきます。 たとえば、『高校生が髪の毛を染めるのはけしからん!』という考えを持っていたら、髪を染めた高校生に会うたび『ムッ』としていなければなりません。努力して相手に小言を言わないことはできますが、心の中で『ムッ』としてしまうことは止められません。でも、『髪の毛を染めたっていいじゃないか』という考えを手にできたら髪を染めた高校生に会っても穏やかな心でいられます。 自分の中の正しさというのは、自分だけの正しさなのだ、ということをしっかりと認めること。 すべての人が自分の正しさを生きていることを認めること。 そのとき、人は自然になることができます。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 3, 2006
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最近思っていたことだけど、さらにジェット・リーの映画「SPRIT」を観て、実感を深めたことがあります。 それは、「穏やかな心とは、満たされた心でもある」ということです。 満たされた心というと、自分の外側を変える必要があるように感じてしまいがちですので、より正確にいうと、「欠落のない心」「不足感のない心」ということです。 お釈迦さまは、「渇愛」という言葉でそれを表現しましたが、実に的確な言葉だと思います。「渇愛」とは、砂漠でのどが渇き、水を求めるように、愛を求める状態のことです。それは共依存の状態のことですよね。 お釈迦さまは、「欲をなくす」ということを言いましたが、それを実現するために「縁起の法」を説きました。 これは、どういうことかというと、単純に「欲を無くそう」と努力してもダメだということです。縁起、つまり、相対性を腑に落とすことで欲を消すことが可能になるということです。 キサー・ゴータミーの話でも、お釈迦さまは、「死んだ子供を生き返させることは不可能だから、そんな欲望を持つことはやめなさい」などとは言いませんでした。その欲を生じさせているゴータミーの意識を変えさせました。 欲という炎を消すためには、根本を変えるのが一番良いのです。 満たされた心は、意識を変容されることでできることなのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 2, 2006
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ジェット・リーと中村獅童が演じている映画「SPIRIT」を観てきました。期待していなかったんだけど、すっごく良かったーーーーー!(^O^) 格闘アクション映画として観るのではなく、武道を極めた先に観えるスピリチュアルなものが語られています。 このブログで伝えたいことが詰まった映画でした。 格闘アクション映画を期待していくと物足りなさを感じるでしょうが、アクションとスピリチュアルが好きな私としては、満点の映画でした。 8歳のときから武術の道を進み、中国全国武術大会チャンピオンにもなったジェット・リーがこう語っています。「この映画には、わたしが今まで生きてきた中で学んだこと、悟ったこと、人生に対する考え方をたくさん詰め込みました」 映画の前半は、ナンバーワンになることしか考えられない意識、ナンバーワンの果てに得たものは?ボロボロになって戦いから離れても意識はまだ変わっていないから、田植えでさえナンバーワンになろうする。 そんなジェット・リー演じる武道家の霍元甲(フォ・ユァンジャ)が身体と技だけでなく、心も兼ね備えた真の武道に目覚めていくところがすばらしかったです。敵は自分自身尊敬される人物になりなさい相手を尊敬した人間関係を恨みからは恨みしかうまれないなどなど 若いとき母親や父親から真の武道の心を伝えられていたのにそのことに気づかずただ強いだけの武道家になって、結果的に大切なものを失ってしまう。 失って初めて気づくこともあるけれど、求めていれば失う前に気づくこともできます。 まだ観ていない人のために詳しくは書かないけれど、このブログを好きな人にはお勧めかも。(^^) そんなジェット・リーですが、今後はもう武術映画は撮らないとも語っています。 人間の身体の能力を超えたところに心の傲慢さと闘うことがあり、それがこの映画のテーマだそうです。 そして次は無我の境地…そこには愛しかありません。今回心の傲慢さと闘うことを達成できましたが、アクション映画で愛を描くのはとても難しい、ということが理由らしいです。『SPIRIT』ジェット・リー、中村獅童 単独インタビュー ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 1, 2006
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心の問題を考えるとき、「私とは意識だ」と捉えるとシンプルになっていきます。(昨日の「私ということ」の続きです) 「身体とは、その意識がまとう服のようなものだ」という感覚ですね。臨死体験研究で有名なエリザベス・キューブラー・ロス博士もそのよう意味のことを言っていますよね。 では、「意識としての私」とは何か?広辞苑によればい‐しき【意識】1.〔仏〕(梵語 mano-vij・na) 認識し、思考する心の働き。感覚的知覚に対して、純粋に内面的な精神活動。第六識。2.(consciousness) 今していることが自分で分っている状態。われわれの知識・感情・意志のあらゆる働きを含み、それらの根底にあるもの。唯物論哲学では、意識の生理的基礎は脳髄の活動で、個人の意識は環境の主観的反映として時間的・空間的に限定されている、と考える。また、観念論哲学では、経験的意識の根底にその本質ないしは可能の条件として経験に制約されぬ純粋意識・先験的意識・意識一般などの先天的存在を論定し、それが認識・道徳・芸術などの妥当性の根拠をなすと考えている。 私の解釈は、「意識としての私」とは『好みとしての違い』です。 経験(環境と自由意志の結果)から好みが生まれ、その好みに従って思考、行動を繰り返し、思考、行動のパターン(くせ)が生まれ、それがその人の人格を形成します。 人の性質がそうやって決まるなら、好みをかえて、これを行えば、人格が変わるはずです。だから、スイスの哲学者ミハエルは、こんな詩を作ったのですね。 心が変われば 態度が変わる 態度が変われば 習慣が変わる 習慣が変われば 人格が変わる 人格が変われば 人生が変わる 私は上で「経験」を(環境と自由意志の結果)と簡単に説明をつけました。 多くの人は、自分が見ているものを誰もが見ている絶対的なものだと無意識に信じて、というか、違うはずだという意識を持たずに生きています。だから、たとえば、自分が『すごくおいしい』と思っているものを「とてもまずい」と言う人がいると、驚いたりします。驚くというのは、想定外ということなんですね。 人により、好みが違うということを頭では理解していても腑に落としていないのです。 悟った人というのは、「すべてが相対的だ」ということを腑に落としている人です。タデウス・ゴラス著「なまけ者のさとり方」山川紘矢・亜希子訳◇地湧社という本のあとがきで、訳者の山川さんはこう書いています。---- 引用開始 ------------- そもそも「さとる」とはどういうことなのでしょうか?本文中にも説明がありますが、このことは人によって、それぞれ定義、解釈が異なることでしょう。私が学んだことは、「枠をはずす」あるいは「限界を設けない」そして「すべてを愛する」ということだと思うのです。「こうあるべきだ」「何々でなければならない」「これは正しくて、あれは誤りだ」「この方が上だ」「この方が得をする」「勝つ方がいい」というような自分の体の中に深く根をはっている判断基準に一つひとつ気がついて、「この世には何でもあり得る」「良いも悪いもない」「さとってもさとらなくてもいい」「今の自分が最高」「この世はこのままで素晴らしい」ということが体の中から湧き上がってくることではないでしょうか。つまり、すべてを受け入れ、愛する、ということです。そうすると、地獄のような状況にいると思っていたのが、実は天国にいたことを発見するのです。(P120 あとがきより)---- 引用終了 ------------- 「すべてが相対的だ」という考えを、自由意志で選択するとこの山川さんの言葉の後半の考え方ができるようになります。同じ出来事にであっても、経験が変わってくるのです。たとえば、「こうあるべきだ」「何々でなければならない」「これは正しくて、あれは誤りだ」と考えを自由意志で選択している人が、その基準に当てはまらない出来事に出会うと怒りや悲しみという否定的な感情が湧きます。(ここでつかっている否定的な感情の意味は、ものごとを否定しているときに湧く感情のことで否定すべき感情という意味ではありません)ところが、「この世には何でもあり得る」「良いも悪いもない」という相対的ということを理解した考えを自由意志で選択したとき、そこに否定的感情が湧く余地はありませんよね。 そのときの意識は愛になっているのです。(^^)自分の好みを絶対視し、すべての人の正しさとなっていたものが消えているのです。(好みはあります)ポイントはここです。本来、単に自分の好みでしかないものを絶対的な正しさとして誰かに押し付けようとすること、それに従わなくていけないと思ってしまうことがつまり、好み(価値観)の絶対視が心を病ませるのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 1, 2006
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