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「人間関係がうまくいかない」というのは、見方を変えると、「相手から認められてない状態」といえるはずです。 でも、ほとんどの場合、自分の方も相手を認めていない、受け容れていないのです。 どちらが先と言うこともないんです。どちらが先でも同じなんです。 お互いが『相手が拒むから、自分のほうから折れないぞ、相手を負かして、自分を認めさせてやる』という思いを持ってしまって、磁石の同じ極のように反発しあっている状態なんですね。 これがコントロールドラマです。 コミュニケーションを改善したいなら、一番の早道は、自分の方が先に相手を認めること、受け容れること。 自分からラブラブ光線を送ること。 ここで勘違いしやすいのは、ヒカリズムを知らない人が愛を思い浮かべるとき、それは相手の自由を奪う条件付の愛なんです。 ストーカーの愛もそうですね。 こんな条件付の愛光線を送ったら、逆に嫌われてしまいます。 また、認める、受け容れるというのは、相手の主張を正しいとすることとも違います。 「相手の価値観に相対的に相手の主張が正しい」とわかるということです。でも、自分は違う価値観を持っているから、自分はその選択をしないというのは自分の自由です。 たいていの場合、自分の価値観に照らすと相手の主張は間違っているから、相手そのものを否定してしまっているんですね。 そのために相手も敵対意識を抱き、コントロールドラマに勝って自分を認められようとして、あなたのことを否定するんです。 だから、まずあなたが相手を受け容れてあげる。 テレビドラマの熱血先生や不良を更正させようとする人が相手とのコミュニケーションが取れるようになるのは、まず自分が相手を受け容れているから。 そういう視点で見てみると確かにそうだとわかるはず。 ヒカリズムの基本的な考えのひとつ、「すべての人は、存在意義不安症になる」から考えると、すぐわかること。 相手のありのままの存在意義、存在価値を認めてあげること。 たとえば、『不良なんか、生きている価値が無い』なんていう拒否光線を発していたら、相手が反発するのは当然ですよね。 子供とうまくいかない親は自分が子供に対して自分の価値観を押し付けて、相手の価値観を否定していないか確かめてみてください。 あなたが周りを否定するをやめたとき、あなたの世界は見た目にも、そして、実際の動きとして変わり始めます。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Dec 23, 2006
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「ありがとう」って本当に不思議な力があると思います。 人間関係がうまくいっていない相手に「ありがとう」というのは、なかなか難しいものです。でも、「ありがとう」の言葉は相手の凍った心をとかす力があるんです。 そのことを知っていても、その理由がわからないと「魔法の言葉」と表現するしかないですよね。 なぜ、「ありがとう」にそのような力があるかというと、ありがとうは、「受容」と「相手の価値を認める」という二つの要素を持っているからです。 つまり、「ありがとう」でなくても、この二つの要素が入っていればいい、ということがわかれば、応用が利きますよね。 いわゆる不良といわれる子供を更生させようとした時、子供の信頼を得られる人というのは、子供のあるがままを受け容れる(無条件の受容)をまずしている人のはずです。 その上で、相手の価値(良いところ)を見つけてあげる、そんな流れがあるはずです。 「ありがとう」は短い言葉ですが、相手にその二つを同時に伝えることができるのでまるで魔法のように、相手の心を開いてくれるのです。 でも、そのためには、まず、自分が相手に対して心を開かなくちゃ心のこもった「ありがとう」は言えないですよね。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Dec 19, 2006
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ある有名な恋愛メルマガで、女性にとっての愛情の理想型の1つということで『無条件の愛』を取り上げていました。 その説明の中では、「自分のモテるエネルギーを振り絞って、相手のために尽くすのが『無条件の愛』」という定義になっていました。 さらにその内容を詳しく見ると、相手から認められるために相手のために尽くしているということがわかるので、これはヒカリズム的にみたら、共依存の状態ですから、まったく逆の『条件付の愛』の状態となります。 『無条件の愛』という言葉は、かっこいいのか、何に対して無条件なのかはっきりしないまま、使われていることが多いような気がします。 上記の例なら、相手の男性の欲望、要求を満たすことに対し女性が無条件で尽くすという意味です。 それはもう、相手の言いなりの操り人形のような状態でまったく自分を生きていないということと同じなのです。 この関係は共依存ですから、女性本人は、相手に尽くすことで相手から認められる見返りがあるうちは、自分のしたいようにやっていて、自分を生きているような気持ちになっています。しかし、無条件に尽くしても男性が自分を振り向いてくれない、認めてくれなくなると『私がこんなに尽くしているのにひどい!』と思うようになります。 お気づきになりましたか? つまり、条件ということで言うとこの女性は、相手から認められる見返りを求めています。男性に尽くす代わりに「自分を認めること」という相手に対する条件がちゃんとあるんですね。 だから、これを『無条件の愛』と呼ぶのは変ですよね。『無条件の愛』は、『無償の愛』と呼ばれることもあります。 ですから、これは『条件付の愛』と呼ぶほうがふさわしいと思いませんか? 相手に条件をつけるから、相手が条件を満たしてくれるかどうかによって自分の気持ち、感情が揺れてしまうことになります。 このとき、自分の感情がどうなるかの主導権は相手にあることがわかります。 そうなると自分を生きられなくなるんですね。 『ヒカリズム』での『無条件の愛』にも、見方によっては条件や見返りがあります。無条件の愛の人は、自分がしたいことをするのです。つまり、自分がしたいかどうかが条件であり、自分がしたいことをする充実感が見返りです。 しかし、どちらも自分に基準があるので、感情の主導権は自分がもっていています。ですから、他者の選択や行動に感情が振り回されることがなく、穏やかな心でいられるのです。 もちろん、自分のしたいことをするのですから、自分を生きているといえますよね。(^^) ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Dec 15, 2006
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ヒカリズムという考え方にはたった一つの大原則があります。 それは、「すべては相対的である」ということです。 これは、幸せを感じる生き方を求め続けた末に見つけ出した原則です。この場合の「原則」とは、1.〔論〕他の諸命題が導き出される基本の命題(真偽が定まっているような思考活動の出発点となる最小の単位)という意味です。(広辞苑より) ある考えが、論理的に正しくあるためには、「すべては相対的である」ということを踏まえる必要があります。 上記の「この場合の」という言い回しも、基準となる相対的な対象を明確にするためのものです。 たとえば、ヒカリズムでは、正しいということは、目的に対して相対的に成立している、と考えます。というより、論理的に正しいということは、そういうことです。 これも、大原則を踏まえて、説明したものです。 つまり、この大原則を自分で応用できれば、ヒカリズムをマスターしたことになります。 しかし、最初はそれが難しいので、応用したケースでの大原則の応用された形を原則や法則として紹介することで理解しやすくしたものがヒカリズムという考え方なのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Dec 14, 2006
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仕事で佐渡へ行きました。ご存知のように佐渡が島は島なので、佐渡汽船の船で行きました。フェリーもあるのですが、仕事のときは、佐渡までを一時間で結ぶジェットフォイルという高速船です。 ジェットフォイルは、航空機で有名なボーイング社の設計で、水中翼で浮力を得て船体を完全に水面より浮上させ、波の影響をほとんど受けずに安定した高速走行を可能にしています。 佐渡汽船のジェットフォイルは、以前にクジラとぶつかったことがあるそうで、シートベルトがあります。でも、クジラがいそうな場所での減速走行など、ちゃんと安全には細心の注意を払っているそうなので安心してご利用ください。 これは、つまり、逆からみるとラッキーなときには、クジラやイルカを見ることもできるとのことです。イルカは、よく見られるようですよ。 これからの季節は、新鮮なお刺身はもちろん、おいしい牡蠣とカニ料理!(^^) っという観光案内は、このくらいにして、本題へ。(^^; ジェットフォイルは、安全のためか、冬場の佐渡発の最終便の時間は、3時半なので、早めに仕事を切り上げ、佐渡営業所の杉○君に両津港まで送ってもらいました。 でも、杉○君も仕事中ですから、営業所を出発したのは、ギリギリの時間。 しかも、いつも通る道は、お定まりの冬場の道路工事のためにちょっと渋滞していたので、裏道を通ることに。 いつもならガラガラの裏道も、師走であること、同じように迂回している車などでけっこう交通量があり、しかも、遅い車がいると杉○君は、『もしかしたら、間に合わないかも』とイライラしていました。 半分以上過ぎたあたりで残り時間15分、ついに杉○君の口から「もしかしたら、間に合わないかもしれません!」だって(^^; 以前の私なら、あせっていたかもしれませんが、今は、『そうなったときは、そうなったとき』と思えるので、まったく心が乱れることがないのがうれしいですね。(^^) 一方、杉○君は、けっこうあせっていたみたい。(^^; 実は、出発前に、ギリギリの時間なのに、杉○君は「ちょっとこれ売り上げさせてください」と売り上げ処理をしたために、さらに5分くらい出発が遅れたんですね。 人によっては、「あのとき、売り上げ処理は別の人に任せてすぐに出発すればよかったのに」とか、杉○君を責めることもあるかもしれません。 こういうときは、現状を受け入れられていないってことなのです。 受けられない現状を他人のせいにすることで、責任回避をして、心を負担を減らそうとしているのです。 そうやって、他人を責めることに注力しても現状を改善する役にはまったく立ちません。 それよりも、現状を受け入れ、今できることに注力することが一番良いということは、冷静であれば、誰にでもわかることです。 でも、それができないのは、感情的(感情優先)になっているからです。 この場合で言うと、「予約した最終の船に間に合わない」ということが起きたときに生じるデメリットは、高速船は最終でも、帰りは遅くなるけれどフェリーはあるので、それで帰る。仮にフェリーが欠航でも、宿泊すればいいだけなので、なんとでもなるわけです。 また、長い人生から見たら、あるいっときの些細なことなのです。 ところが、『予約した船に間に合うかどうか』にあまりにもフォーカスしてしまうとその瞬間のその人のすべてであるかのように感じられるのです。 部分を全体のように感じているんですね。 そのために、必要以上に感情優先になり、感情に振り回されることになってしまうのです。 集中するということ自体は、たとえば、すもうの取組みで、入念な仕切りを繰り返し、気合いが充実したところで勝負に入りますよね。そういう集中は、役に立ちますから、活用すればいい。 でも、トラブルに集中しすぎて、視野が狭くなりパニックになるようなら、一度、引いて全体を眺め直して見るほうが役に立ちますよね。 怖れを動機に動いている(共依存)人は、ついつい、無意識のうちに感情が優先されてしまい、コントロールを失ってしまいます。 愛(無条件の受容)を動機に動いている人は、集中でも、引くことでも、そのときの最善を選べるのです。 ちなみに、五分前に両津港に到着してジェットフォイルには、飛び乗りで間に合いました。 こんなふうに、うまくいくかもしれないのに、事前に心配するなんて無駄ですよね。(笑) 受け容れて、今を生きたら、こういうスリルも大いに楽しめちゃうんですよ。(^^)v ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Dec 8, 2006
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簡単に言ってしまうと、苦とか、否定的なことはすべて「間違った考え」から生じています。 間違った考えのいちばん大きなものは、相対的、縁起を基本的な考えにしていないことです。 たとえば、りんごを手に持っていて、その手を離すとどうなると思いますか? 下に落ちる? たとえば、無重力の宇宙船の中であれば、違う結果だということは、みなさんも理解できることでしょう。 たしかに、私たちが生活している中では、それは、ほぼ100%正しいと言えます。「下に落ちる」というのは、地球上など重力がある場所にいることが前提となっていて、その前提に相対的に、正しいのです。 ところが、日常では、その前提を意識する必要はないので、あたかもそんな前提なしに、「手を離すと下に落ちる」という結果が成立してるような思い込みをしているのです。 マジック(手品)が成立するのは、私たちが多くの思い込みを持っているからですよね。 そのような思い込みは、絶対視であったり、部分を全体と捉えたりすることから成り立っています。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Dec 7, 2006
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悟った状態の感情について多くの人が誤解しています。「私は悟りたくない、感情がなくなったら人生がつまらなくなるから」「悟ったら、 苦しいと感じたり、 さびしいと感じたり することはないのでしょう?」「悟っても、悩みってあるんですか?」というようなイメージでいる人が大勢います。 私は、螺旋階段のたとえをよく使うのですが、螺旋階段って、上っていくと、半分で正反対に行き、一階上がったときには、高さだけ変わって、同じ位置に戻ってきますよね。 それと同じで、悟る過程で感情があまりない状態を経験します。この状態は、周りから見るとほかの人と明らかに違って、穏やかで感情に振り回されていないように見えるので悟っているように見えます。 ところがそれはまだ螺旋階段の半分なんですね。 悟ったときには、周りから見ると、悟っていない人と同じように悩んだり、怒ったり、泣いたりしているので、ほとんど区別がつきません。 でも、実際は、その感情を楽しんでいるんですね。(^^) どこが変わったのかというと、ひとつの説明として主導権が自分に戻ってきた、と言えます。 共依存の特徴に「○○しないではいられず、してしまう」というのがあります。恐れからの強迫観念でそうしないではいられない状態です。 つまり、主導権は外側にあり、自分で選択もできないし、自分で感情を止めることもできません。 ところが、自分を基準に置くと、自分の選択次第で、感情を自由にコントロールできるようになります。 この状態はいろいろな説明の仕方ができますが、要するに、共依存からの回復が悟りなのです。 ただし、心理学的やカウンセリングな回復程度と悟りの回復程度は、別物です。 カウンセリング的には、社会生活に支障がない程度の共依存が回復の基準となっています。それは、社会自体が社会の構成員にある程度の共依存を強いているからです。 恐れがない状態、それが愛です。これが、「恐れから愛へ」です。 愛とは、無条件の受容ですから、怒りの対象、悲しみの対象、悩みの対象など、すべてありのままに受け容れています。そして、怒り、悲しみ、悩みなどもすべて受け容れています。 だから、楽しめるのです。(^^) 本当は、ここで「うけいれる」の概念の違いから、疑問を抱いている人がいると思うのですが、終わりがないので、とりあえずここまで。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Dec 6, 2006
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誰もが幸せになりたいと思っています。 幸せになる方法はたった一つ、それが愛です。 この場合の愛とは、無条件の受容と言い換えられます。無条件に受け容れることです。 受け容れるものは、ふたつにわけて考えられます。1.自分の周りに起きてくること2.自分の内から湧いてくる創造の思い 自分の周りに起きてしまったことを否定せずに受け容れ、それを受けて、自分のしたいことをする、それが愛です。 人は、自分がしたいことをすれば幸せです。だから、毎瞬の選択のときに自分が幸せを幸せを感じることを選択する。ただそれだけです。 幸せでいたかったら、幸せを選べばいいだけなんです。 でも、自分起きてくることを否定している状態で、自分がしたいことをしても幸せになれません。 それは、単に嫌なことからの逃げでしかないからです。 本当にしたいこととは、自分の表現であり、自分の創造です。 幸せとは、受容と創造の歓びです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Dec 4, 2006
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最近、ある方からメールでこんなご質問をいただきました。 私が例えば寝たきりで人の役に立てなくて、身寄りもなくて誰かの心に触れることもないとしても、それでも、私は宇宙にとっては存在価値があるのでしょう?だとしたら、宇宙にとって私はどんな存在価値があるのでしょうか? 検索してみたら、「生きる意味を教えてください」という質問に、多くの方が答えているページがありました。 どちらも言い方は違っても同じものだと私は思います。 私が提唱している幸せを感じる生き方「ヒカリズム」の根本的な考えは、すべての人は「存在意義不安症」である。というものです。 「存在意義不安症」という病気があるのではなく、すべての人は、社会に適応するように生きて過程で、程度の差はあっても、誰もが「共依存」の傾向を身につけていきます。 病的なほど程度が強く、日常生活に支障が出るものを「共依存症」と呼ぶことで私は区別しています。 では、「共依存」とは何かというと、ヒカリズム的には「自分の存在価値を他者の評価で決めてしまう状態」のことです。 ですから、別の言い方をすると「他者に良く評価されたいと、自分がしたいことより、他者が望むことに従うことを優先化させてしまう状態」ということもできます。 私の生きる意味、存在価値を問うたとき、よくあるのが、「人は存在するだけで意味がある」というわかったようなわからないようなものです。 実は、論理的に考えると意味、価値、意義、理由というのは、すべて目的に対して相対的に生じるものです。目的に役立つもの、ことを意味がある、価値がある、意義がある、存在する理由があるというように言っているのです。 ということは、意味、価値、意義、理由などを問うときは、まず、目的をはっきりさせる必要があります。 目的というのは、意志のあるところにしか存在しません。 私も昔、挫折したときに深く人生を考えたことがあって「人は、何のために生まれてくるのだろうか?」ということをずーと考えていました。 出た答えは、「人は、幸せになるために生まれてきた」というものでした。 その後、いろいろと考えを重ね、今の「幸せを感じる生き方『ヒカリズム』」があるんですね。 今だとよくわかるのですが、「人は、何のために生まれてくるのだろうか?」には、人の生(せい)というものに対して二つの当事者がいるんですね。 ひとりはもちろん、本人であり、もう一人といっていいかどうかは別にして創造主、神の意志(最初の質問だと宇宙と表現されています)です。「人は、何のために生まれてくるのだろうか?」という質問は、実は無意識のうちに神に問いかけていたのですね。だから、けっして答えは出ない。この質問を言い換えて「自分は何のために生まれてきたのか?」「自分は何のために生きようか?」と自分の問題にすると「私は、幸せになることを目的に生きよう」「人は、幸せになるために生まれてきた」となるんです。 この類の質問に答えが出ないのは、ついつい、共依存的な傾向で他者の目的に従おうとするから、自分の外側に絶対的な意味、価値、意義、理由があると思えてしまうからなんですね。 そして、この場合、関係する他者というが神なので、答えが決まらないのです。 このことに気づいたのがナチスの強制収容所に収監されてから解放されるまでの様子を描いた「夜と霧」で有名なV.E.フランクルです。 このことについてフランクルは人は「生きる意味」を問うけれど、実際は逆であって、人生が私たちに「生きる意味」を問うているのだ、と言っています。そして、フランクルの答えは、同名の本もあるように「それでも人生にイエスと言う」なのです。そして、これが「愛」であることなんですね。 人生が問うというのは、擬人化でしょう。フランクルが言いたいことは、「自分の人生において、自分の存在価値は『自分がどう生きたいのか、どういう自分でありたいのか』という目的を自分で決めることで、自分で創り出しなさい」ということなのです。 そして、愛(すべての受容、無条件の受容)でありたいと決めたから、「どんなつらい人生であっても、それでも人生にイエス(受け容れます)と言う」ということなのですね。 それは、決して、運命のされるがままになることとは違います。現状を受け入れ、この時点で最善の選択をして、自分の思うような人生を創り上げていくことです。 たとえば、障害をもって生まれ、そのことを嘆き運命を恨んで暮らすこともできます。それは人生にノーということです。「五体不満足」で有名な乙武さんのお母さんは、乙武さんが生まれたときに、それを受け入れ最初に出た言葉は「かわいい」だったそうです。(「五体不満足」まえがきより) ですから、乙武さんも当然のように、人生にイエスと答えてあのようなすばらしい生き方をされているわけですよね。 ずいぶん長くなりました。ヒカリズムとは、私が選んだ「幸せをかんじる生き方」そのものであり、私の基本的なパラダイム、考えかたそのものです。 ですから、何時間でもお話できるし、どんな質問にもお答えできるのです。 前に行っていた講演会、お話会、勉強会などもまた、ご要望があれば、行っていこうと思います。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Dec 2, 2006
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今年のベストドレッサー賞をとった男優さんが、娘さんに「ベストドレッサー賞をとったよ」と言ったそうです。 この娘さんもある雑誌の賞をとっていたそうです。あなたがこの娘さんならなんとこたえるでしょう? この娘さんは「私も○○の賞をもらったのよ」と言ったそうです。 実は、こんな日常の何気ない言葉からでもその人のコントロールドラマが見えるんですね。たとえば、「おめでとう、私も賞をいただいたわ」という言い方もできますよね。 それなのにこの娘さんの言い方は、ちよっと張り合うような、負けまいとするような言い方のようにも思えます。そもそも「ベストドレッサー賞をとったよ」というのは、報告でしょうか?それとも自慢でしょうか? 実は、相手がどういう気持ちで言っているかではなく、自分がどういう気持ちで受け取るかなんですね。 自分が自慢して、周りから認めたいという思いが根底にある人は、たとえ、相手が自慢するつもりが無い単なる報告でも自慢に聞こえてしまうのです。 相手の自慢を認めると相手の価値を認めことになり、相対的に自分の価値が下がるので、自分がダメに思えてしまい、相手の喜びを素直に喜べないというむ屈折した気持ちになってしまうことになります。 正確な判断は、全体的、経過的にみないとわかないのですが、こんな日常の言葉からもその人のコントロールドラマ、共依存パターンがわかるんですね。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Dec 1, 2006
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