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読売は来年のドラフト候補として、慶応義塾大のエース加藤幹典を上位候補として狙っているという。そのため、来年1月6日に行われる慶應大の練習始めには、担当スカウトが挨拶に赴く予定。 (スポーツニッポン)担当スカウトとは大森剛氏(高松商高-慶應義塾大-巨人-近鉄-巨人)のことだろうか。今年の年初には、苫小牧に行って田中将大に挨拶をしてたっけ。そのわりには、ドラフトで田中を指名しなかったところを見ると、加藤のこともどうなるかわからんけど・・・。加藤幹典。身長179cm、体重72kg、左投左打、投手。最速148kmの速球と、打者のタイミングを外す「変則モーション」が武器。神奈川・川和高出身。当時の投球フォームを画像で見たことがあるけれど、腕の振りが半端じゃなくスゴかった。法政大のエース・平野貴志(桐蔭学園高)とは小学生時代の同級生。いまでもメールのやり取りをする仲。東京6大学リーグでの通算成績は22勝18敗、防御率2.08。来年の目標は春5勝、秋5勝。この目標はそんなに難しくない数字に思う。なぜなら加藤以外に、これといった投手が慶應にはいない。ゆえに登板回数は、本人が望めば何度でも投げられる土壌があり、この数字は謙虚にさえ思えてしまう。逆に心配なのは「登板過多」。プロ入りを目前にしての故障だけは避けたい。来年以降のドラフト制度、まだその骨格さえ決まっていないけど、加藤が上位指名候補であることは間違いないようだ。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2006.12.31
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レッドソックスへの入団が決定した松坂大輔。その移籍をめぐる札束の話題が、年末の記事を飾った。あまりお金のことには興味がないけど、今日の日刊ゲンダイには高校時代の恩師、渡辺元智監督が松坂について語った記事が出ていた。松坂が高校2年の時、先輩選手たちが渡辺監督のもとに苦情をいいに来たことがあるという。いわく、「松坂は自分たちのことを完全にナメている。先輩をバカにしたような態度をとる。なんとかしてほしい」と。過剰な上下関係は嫌うものの、先輩後輩の「礼節」は必要と考える渡辺監督。すぐに松坂を呼び懇々と説教をしたそうだ。「先輩を敬え!」と。これまでの監督生活において、そんな類の説教をしたのは松坂ひとりだけだったという。だが松坂、平然として渡辺監督の話を聞いているだけだったという。「松坂、あのころから大物だった」とは監督の弁。××××××××××××××××××××××××××××ボクが初めて松坂大輔をナマ観戦したのは、98年の春季関東大会。その直前に行なわれたセンバツでは、久保康友(松下電器-ロッテ)を擁する関大一高を3-0で破り、優勝を決めていた。その関東大会(98年5月17日)、2回戦の横浜高vs埼玉栄高のカードは大宮市営球場で行なわれた。たしか試合開始の1時間半前には球場に到着したのだが、その時にはチケットを買い求めるファンが長蛇の列を作っていたことを憶えている。あんな多くの人の列を大宮市営球場で見たことなどなかった。もちろん、皆のお目当ては「松坂」。当日の朝刊、地方版には「松坂、大宮に現る」との見出しが躍っていた。試合が始まりさらに驚いた。一塁側スタンドで松坂を横から見ていたのだけど、とにかく球が速い。一球投げることに観客席では「ウォー」とか、「フッー」とかの歓声や嘆息が聞こえた。埼玉栄の打者たちは序盤、バットが空を切るだけ。松坂の凄さを実感した。当時、埼玉栄の4番は2年生の大島裕行(現・西武)。その後、夏の甲子園に出場し沖縄水産高・新垣渚(現・ホークス)からバックスクリーンに特大本塁打を放つなどの活躍をし、高校通算の本塁打記録を持っている。86本という数字は未だに破られていない。××××××××××××××××××××××××××××松坂を見た後、次にナマ観戦をして「速い!」と思った高校生投手は、長い月日を経るが東北高のダルビッシュ有(現・日本ハム)。04年の埼玉国体。6~7割ぐらいの力で軽く投げるだけなのに、とにかくボールが速く、そして伸びていた。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2006.12.29
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中村、自由契約の可能性も=1億2000万減で交渉難航オリックスの中村紀洋内野手(33)が、難航している来季の契約交渉をめぐり、自由契約の可能性にも触れていることが28日、分かった。代理人の茂木立仁弁護士が同日、4度目の交渉に臨んだが、条件提示にも至らなかった。下交渉では限度幅を大きく上回る1億2000万円減の8000万円を提示されており、茂木立氏は「自由契約の話が出ているのは確か。(トレードなど)いろいろな方向性があるのは認識している」と語った。中村は今季、左手首の故障などが影響し、出場85試合で打率2割3分2厘、12本塁打に終わったが、「痛くても試合に出続けてきた」と当初から公傷扱いを要求。「それを考慮することにはならない」(機谷俊夫球団代表)とする球団側との溝が深まっている。金額は推定。 (時事通信)中村紀洋。近鉄ファンだったボクは当然、ノリのファンでもあった。いや、それ以前に高校時代から彼を知っていた。91年の夏、2年生ながら4番打者として甲子園に出場していた。高校は大阪・渋谷高。「大阪でなぜシブヤなんだろう?」と不思議に思ったのがキッカケ。その後、シブタニと読むことを知った。92年、ドラフト4位で近鉄に入団。「伝説の10.19」から4年を経過していた。4位といいながらも、球団の中村に対する期待は大きかったように記憶している。当時、近鉄の三塁手には金村義明(報徳学園高)がおり、レギュラー獲りは難しかったが、95年に金村の故障を機に三塁のポジションをゲット。中村ノリの華やかな(はずの)プロ野球人生がスタートした。以降、ノリの選手生活は順風満帆だった。ファンからすれば打って欲しい時に打ってくれる4番打者であり、身体つきにはそぐわない俊敏な動きで守備も上手かった。まさに近鉄の将来を背負って立つはずの有望株だった。当時、幼かった息子にせがまれてノリのサインボールを球場で買い、そのボールは我が家の居間の特等席に、貴重なものとして偉そうに鎮座していた。それがどうしたことか、パ・リーグを制覇した’00年ごろにはノリはチーム内で孤立していたようだ。ローズ(近鉄-読売)とは仲がよかったようだが、あまりに「お山の対象」になり過ぎていた。そして'02年のオフ、近鉄を飛び出しメッツと契約寸前に破棄。結局近鉄に残留したものの、'05年1月には、3Aのラスベガス・フィフティワンズ(ドジャース)と契約。わずかな期間をメジャーで過ごすものの、実績を残すことなく同年末にはさっさと日本に帰国してしまう。お山の大将が、その立場を守りたいがためのわがまま放題。これではだれでもが傍から離れていく。いったいどうしちゃったんだ?今回あらたに火種になった「公傷扱い」、実際のところ問題はそんなことではなく、傲慢な態度になってしまった、もっと根深いこと(ノリ自身)にあると思う。もし自由契約になったら、その後拾ってくれる球団はあるの?さて、わが家にあったノリのサインボール。居間の特等席にあったものが次第に格落ちし、息子とのキャッチボール用になり、たった一年で帰国した頃にはノック用のボールに再び降格。いまではボロボロになり、ノリのサインなど全く見えなくなりただのドス黒いボールになってしまった。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2006.12.28
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「天国と地獄を経験した」。先日、駒大苫小牧高の田中将大が楽天入団の記者会見で話していた言葉。田中がいうとおり、不祥事と栄光が入れ替わりに現れジェットコースターのごとく駒大苫小牧高を襲った。でも、もしこの一連の動きをドラマとするなら、その主人公は監督の香田誉士史だと思う。この香田監督、見ていると企業社会における「中間管理職の悲哀」にも見えるのだ。勝っているときは褒めちぎられるが、いったん不祥事が起きると地元も学校も選手も香田監督と距離を置き、叱責し、マスコミは手のひら返しで叩きはじめる。孤独感やら人間不信やらに陥り、眠れぬ夜も多かったかもしれない。中間管理職ゆえに上司をコントロールできないし、部下(選手)のすべてをコントロールできるわけではない。責任はもちろん監督にあり、逃げ場なんかないのは当然だけど、その境遇は中間管理職そのものではないか。香田誉士史、道産子ではなく九州男児。佐賀商業高-駒沢大。高校時代は背番号「8」をつけて88年夏、89年春・夏の計3回、甲子園に出場している。88年夏は一回戦で浦和市立高に2-5で敗れ、初戦敗退。この甲子園、福岡第一高の前田幸長(読売)、津久見高の川崎憲次郎(元中日)、江の川高の谷繁元信(中日)らが出場していた。89年春、やはり一回戦で松江東高に2-10で敗戦。同年夏は一回戦で県岐阜商高に勝利するものの、二回戦で神戸弘陵高に2-6で敗退。この大会、現・楽天の吉岡雄二(帝京高-読売-近鉄)が、大越基(元ホークス)を擁する仙台育英高を破って優勝した、あの大会である。この甲子園には上宮高の元木大介(現タレント)、常総学院高の仁志敏久(早稲田大-日本生命-読売-横浜)、そして尽誠学園高の宮地克彦(西武-ホークス)などがいた。大学時代。93年の東都秋季リーグでの優勝、そして明治神宮大会の優勝にも貢献している。が、4年生になったとき母校・佐賀商業高の板谷英隆氏が病に伏し、懇意にしていた関係で駒沢大前監督の太田誠氏のもとにコーチ派遣の要請があった。太田氏、迷わず送り出したのが香田。「人間的に間違いのない男」、理由はそれだけだった。母校で学生臨時コーチになった香田、チームはあれよあれよという間に夏の甲子園を勝ち進み、最後は鹿児島・樟南高を8-4で下して、なんと優勝を勝ち取ってしまう。だから、香田はよく甲子園優勝経験2回といわれるが、本当は3回だ。大学卒業後は、太田監督の推薦によりいきなり「北の大地」へ。駒大苫小牧高の監督に就任した。でもいまでこそ強豪だが、当時はどうしようもないチーム。太田監督に相談に赴いた香田、「放下着」という言葉を戴き、監督としての意欲を呼び戻す。※長くなったので、続きはまたいつか~いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2006.12.27
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著者の中村計さん、木村修一さん、2回も取り上げてごめんなさい。昨日に続き『早実vs.駒大苫小牧』(朝日新書)から。青字は引用部分。(最初の)決勝戦、延長14回。駒大苫小牧高のベンチ---。部長の打田は香田(監督)にこんな声をかけている。「翌日再試合だって」と。というのもその前に香田が部長にこんな声をかけていたのだ。「これさ、引き分けに終わったら同時優勝になんの?誰かに聞いてきてよ」。打田は「何言ってんだ?」と思った。「でも香田の性格上、ちゃんと動いてやらないと納得できないと思ったから裏に行き関係者に聞いてきたんだよ。でもさすがに『同時優勝ですか』とは聞けないから、『再試合は明日やるんですか』って聞き方をしたけど。なんだ? 香田監督は延長15回で引き分けだったら、その後はどうなるか知らなかったんだ...。ボクは驚いてしまった香田さん、ちょいと素人ぽい。そして15回表、駒大苫小牧高の攻撃。すでにニ死、走者なしで打席には、この試合ノーヒットの本間篤史。本間は、2-3と追い込まれたところでスタンドから手拍子がわき起こったシーンを改めて映像で眺めながらこうつぶやいていた。「この雰囲気ですよ、普通、真っ直ぐでしょ」そして斉藤のフォークに空振り三振した自分の姿を観て、さらにこうぼやいた。「何で真っ直ぐじゃねぇのよ、って。悔しかったというか、腹立ちますよね」××××××××××××××××××××××××××××××昨日と同様、決勝のその場面をビデオで再生してみた。早実の斉藤佑樹、本間に立ち向かう。1球目、外角直球(ボール)、147km。スタンド「ウォー」と歓声。2球目、直球がすっぽ抜け(ボール)143km。3球目、外角低めへ直球(ボール)、147km。4球目、真ん中直球(ストライク)、146km。5球目、低めいっぱいの直球(ストライク)、146km。これでフルカウント、5球すべて直球だった。スタンドの歓声は最高潮に! そして球場内に手拍子が起きる。6球目、フォーク(空振り三振)、133km「スタンド全体が斉藤の投球に酔いました!!!」NHKの実況アナがそう叫んだ。延長15回まできても平気で140km台後半のボールを投げる斉藤に皆が拍手を送っていた。××××××××××××××××××××××××××××××結局この試合、延長15回で引き分け、試合後に整列し挨拶をした。ベンチへ戻る時、投手の田中将大は笑顔だった。そして二塁手の山口は軽く体をよじりながら空に向かって叫んだ。「もう1試合かぁーっ!」選手たちをベンチで迎える香田が応えた。「もう1試合できちゃうな。幸せじゃねえか、おまえら」いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2006.12.26
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最初の決勝戦。延長15回引き分けになった試合。『早実vs.駒大苫小牧』(朝日新書刊)は、その決勝戦の選手たち一人ひとりを克明に追っていて、裏舞台を覗けて面白い。(以下、青字が引用部分)「延長11回表、笑えるプレーが起きた。駒大苫小牧高、一死満塁のチャンスを迎えるが途中出場の岡川直樹がスクイズを失敗、三塁走者が刺されニ死一・二塁となり駒大のチャンスが潰えたかに見えた直後のこと」スクイズを失敗した岡川、気をとり直して再び打席に入り、直後の一球目を叩き、打球は三遊間を抜けた。「レフトの船橋が前進してこのゴロを止め、懸命にバックホームをした。教科書通りなら、斎藤はバックアップのために走り、捕手の後方に回っているはずだ。ところが、斎藤はこの時なぜかマウンドとホームの間、しかも(捕手の)白川の前で仁王立ちし、船橋からの返球を捕ってしまった。こんな草野球をやるチームが甲子園に出てきて、しかも勝っていいのか」誤解のないように補足をしておくと、決して著者は早実を悪く言っているのではない。断片的にボクが抜書きしたら、こうなっただけなのでご容赦を。とまれ、「投手のカバーリング」は高校野球では基本の「キ」。というより、リトルリーグだって一定のレベル以上のチームであれば当たり前にやっていること。スクイズ失敗のシーンはボクも憶えている。でも斎藤のミスは気づかなかった。で、ボクが永久保存版にしている、その決勝戦のビデオを再生してみた。打者は岡川、スクイズ失敗の後、カウント2-1。スライダーだろうか、外角低めに斉藤が投げた4球目を泳ぎながら打球を捕らえ、ゴロが三遊間の真ん中を抜けていった。すると、あろうことか斎藤は、バックホームに備える捕手の前に立ち、ショートバウンドの返球を捕ってしまった。あっ、ホントだ! もし走者が本塁を狙っていたらどうすんの?そうボクは思ったあとからこのプレーについて「なにやってんの?」とチームメイトに突かれたらしい。斎藤佑樹の後日談。「斎藤も首をかしげた。『へんでしたね。なんで自分、ここにいるんだろうって』」早実・和泉監督はあっけらかんと言った。「考えて集中してやった末にポカが出た。でも、それはいいんじゃない。一番大事なのは、うまくなりたい、野球が好きだって気持ちでしょ。それがあればいいじゃない」著者はビバ!「早実草野球」と締めくくっている。まさにその通り。そういうポカが人間臭くていい。完成していない、意外に幼稚なプレーもたまに飛び出すから、高校野球って面白いいつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2006.12.25
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西武の捕手、炭谷銀仁朗が献血キャンペーン(川越市)に参加し「来年は投手陣が大変だけど、ボクのリードで引っ張ります」と宣言した。 松坂が抜け、投手陣の軸は若い涌井や希望枠入団の岸らに期待がかかる。「特に岸さんには自分からどんどん話しかけて、特徴を把握していいリードをしたい」と話した。 (デイリースポーツ)入団一年目の今季、炭谷銀仁朗(平安高)は高卒の新人捕手でありながら、開幕戦に先発で出場した。が、その後は守備・リード面でのミスが重なり、二軍降格も経験した。涌井秀章(横浜高)と10代コンビでバッテリーを組むことが多い。《今季の成績》出場試合数 54、 打率 .181、 本塁打 3開幕当初の期待と比較すると寂しい数字だ。松坂大輔(横浜高)がいなくなる来季、より捕手に高い精度のリードを求められるだろう。その期待の一番手はやはり炭谷なんだろうな。××××××××××××××××××××××××××××××××話は変わる。松坂大輔、レッドソックスへの入団会見の際、「夢は見るものであって叶えられないもの。だからメジャーに行くことは、夢ではなく目標だった」と、夢と目標の定義を自分なりに考えて語っていた。素晴らしい青年だ、そう思った。そういえば、プロ入り初勝利の時は「自信が確信に変わった」と松坂は語った。自信と確信という言葉を明確に区分けしていた。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2006.12.24
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見ていて、まさか!だった。関東学院大に勝利しリーグ戦2位の法政大、混戦の関西大学リーグで2位だった京産大の対決。フツーに予想すれば法政の勝利だったろう。だが終わってみれば京産大が36-28で勝利。京産大のFWのスクラムやモールが勝っていたことが勝因。法政、地力では勝っていたのだろう、きっと。でもコンバージョン、5回キックして一度も決まらないようではどうしようもない。正月、国立に行けないのはいったい何年ぶりだろう?京産大、1月2日に国立に出場し早稲田と慶応義塾大の勝者と戦うことになった。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2006.12.24
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もっと詳しく書くと、後藤孝志、木田勇、金森栄治、鈴木康友。実は、先日のブログでも少し触れた北越BC(ベースボール・チャレンジ)リーグという来年4月に開幕する独立リーグ4チームの監督たち。ある意味、名の通った選手たちを監督に据えることができ、まずまずのスタートと言えそう。■新潟アルビレックス監督・・・後藤孝志氏中京高-読売。ガッツ溢れるプレーと「自打球」の多い左打者。引退後には1Aタンパヤンキースでコーチ業の修行に勤しんでいた。Wikipediaによると、読売の選手ではあるが、名古屋出身だけに大がつくほどの「中日」ファン。応援歌『燃えよドラゴンズ』は最新版まですべて歌えるのに、読売の応援歌『闘魂こめて』はまったく歌えない。小学生時代は、捕手として近藤真市(享栄高-元・中日)とバッテリーを組んでいたらしい。■信濃グランセローズ監督・・・木田勇氏横浜一商高(現・横浜商大高)-日本鋼管-日本ハム-大洋-中日。ルーキーイヤーの1980年は22勝8敗4セーブ、防御率2.28の驚異的な成績で、新人王やMVPなどのタイトルを総なめしたが、以降はどちらかというと尻すぼみだった。Wikipediaによると、日ハム時代のチームメイト、江夏豊氏は木田をこう評したという。「愛すべき男だったが、自分の型に固執しすぎた。それが二年目以降伸び悩んだ原因だろう」。引退後にサラリーマンを経験するが、評論家などでプロ野球界に戻っていた。■石川ミリオンスターズ監督・・・金森栄治氏PL学園高-早稲田大-プリンスホテル-西武-阪神-ヤクルト。 この金森、「死球」の多さで有名だった選手。「西の達川、東の金森」と呼ばれていた。Wikipediaによると、早稲田時代は捕手、一学年上の山倉和博氏(元・読売)の控えにまわることが多かった。4年生になってからは正捕手。現阪神監督・岡田彰布氏の後の5番を打ち、78年春季リーグでは首位打者を獲得した。現役引退後はヤクルト、西武、阪神、ソフトバンクなどのコーチを歴任した。もって生まれた謙虚な性格は、広岡達朗氏や野村克也氏などの「クセモノおじさん殺し」の武器でもあり、2人には非常にかわいがられているそうだ。 ■富山サンダーバーズ監督・・・鈴木康友氏天理高-読売-西武-中日-西武。この鈴木康友、ボクは彼の高校時代から知っている。というより、ずば抜けたセンスをもった選手で当時から注目されていた。現役引退後は西武、巨人、オリックスでコーチ、そしてここ2年間は、茨城ゴールデンゴールズのコーチを務めていた。今夏の埼玉高校野球。鈴木氏は息子さんが捕手を勤める立教新座高の応援のため、よく球場にも足を運んでいた。先日このブログに書いた宮地克彦。ソフトバンクから2度目の戦力外通告を受け新たな道を探していたが、鈴木康友氏が監督の富山サンダーバーズのコーチに就任することが決まった。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2006.12.23
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横浜から社会人・大学生ドラフト3巡目の指名を受けた木村雄太。ロッテと相思相愛だっただけに、横浜の強行指名には納得がいかないようだ。横浜の大矢監督が挨拶に出向いてさえも、現在のところ色よい返事をしていない。なぜ木村にとってロッテなのか?「日刊ゲンダイ」(今日付け)がいくつかの理由を解説している。が、その理由のひとつは「西武憎し!」だという。高校時代、西武が指名を約束してくれていたが土壇場で裏切られ、木村は東京ガス入りを決めた。今から3年前のことだ。ロッテに入団を希望する理由、それは同じパ・リーグの球団に入り西武を倒すこと。だから横浜ではなく、もう一年社会人でやってもパ・リーグのロッテに入りたい。どうせ大学に進学したと思えば、ドラフトは来年だし。真偽のほどはわからない。いまネットでいろいろ調べてみたけど同様のことはどこにも書かれていない。そもそも3年前に西武とそんな関係にあったという事実も確認できなかった。でも。もしその話が本当なら、ボクは木村を応援したい。そういった過去の苦い思い出が動機付けなら、プロで活躍できる(かもしれない)。木村雄太(秋田経法大付高-東京ガス)身長189cm、体重85kg、左投左打、投手。140km前後の直球とスライダー・カーブが武器。カーブは社会人になってから、元ロッテ監督の八木沢壮六氏に指導された。「和製ランディ・ジョンソン」とも呼ばれている。そういえば、横浜には那須野巧(駒場学園高-日本大)もいる。彼も「和製ランディ」と、たしか呼ばれていた。横浜が木村と交渉できるのは1月末まで。それまでに新しい動きが起きるのだろうか?いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2006.12.22
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高校生ドラフトの1巡目で楽天入りした駒大苫小牧高の田中将大が昨日記者会見。1年目の目標をこう言った。「初勝利を挙げたい」甲子園の優勝も、そして辞退も経験。「天国から地獄まで見たが、ほかでは味わえない経験ができた。これからの野球人生に生かしていきたい」。なんと記者会見には120人の報道陣が詰め掛けたそう。田中将大(駒大苫小牧高)。身長185cm、体重73kg、右投右打、投手。最速150kmの直球とスライダー、フォークが武器。田中、bluestar1719さんのブログによると「志望届けを出した時点で、どこにでもいくつもりだった」ので、楽天に決まったときは「よし!!(行き先が)決まった!って思った」と、地元テレビ局のインタビューに応えていたそうだ。ドラフトの模様をビデオで何度か見たけど、田中の表情は「よし!!」というより「・・・?」にボクは見えたから、実は心配していた。そういう言葉を聞けるのは、一応楽天ファンのボクとしては何より嬉しい。田中、高校球界No.1右腕の実績を引っさげて、来春プロのマウンドに立つ! 背負う番号はエースナンバー「18」。チームメイトの本間篤史は亜細亜大、三谷忠央は明治大に進学する。この2人にも注目したい。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。《あま野球日記の過去ブログ ~駒大苫小牧高関連~ 》06年9月25日高校生ドラフト ・駒大苫小牧高の田中は楽天へ06年8月21日【甲子園・決勝再試合】夏3連覇以上の「記憶」を残してくれた駒大苫小牧 06年8月20日【甲子園・決勝】互いに譲らず引き分け再試合へ。駒大苫小牧vs早稲田実06年8月19日06年8月19日【甲子園・準決勝】智弁和歌山に7-4で勝利06年8月17日【甲子園・準々決勝】「逆転の駒苫」本領発揮し、東洋大姫路を下す06年8月10日【甲子園】南陽工大善戦だ(対駒大苫小牧戦)! 06年7月20日南北海道大会・駒大苫小牧高が優勝! 06年2月10日 駒大苫小牧・本間君と田中君、そして読売の大森スカウト(元近鉄)
2006.12.20
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「もう一度奇跡を起こすところを見せたい」。10月15日、ソフトバンクホークスから自身2度目の戦力外通告を受けた後に、宮地克彦が口にしたのが冒頭の言葉。そして12月7日、北信越BCリーグ・富山サンダーバーズの選手兼任コーチに就任することが発表された。89年、投手として西武にドラフト4位で入団。以後、野手に転向し「伊原西武」のリーグ優勝(02年)にも貢献したが、翌03年末に西武から一度目の戦力外通告を受ける。入団テストや合同トライアウトを受けるものの不合格。最後の最後にソフトバンクホークス(当時・ダイエー)の入団テストを受け合格した。以降06年までの3年間在籍したが、この10月に二度目の戦力外通告を受けた。------------------------------西武を去り、ホークスの入団テストで合格するまでの期間。宮地とその家族を追った、ドキュメンタリー番組をテレビで見たことがある。合否の電話がホークス球団からかかってくるのを、愛娘も交えた家族3人でソワソワしながら待っていた姿を憶えている。そして「合格」の知らせに、家族で大喜びしていたっけ。------------------------------宮地克彦(尽誠学園高)。甲子園には89年春と夏の2回出場している。春は投手・4番・主将での出場だったが、広島工高に0-1の敗戦。夏は投手・3番・主将で出場しベスト4入り。準決勝では仙台育英高と対戦し、延長10回の末に2-3で敗れた。仙台育英のエースは大越基(non_non7492さんのブログをどうぞ、早稲田大中退-1Aサリナス-ダイエー)。宮地と大越、両エースの意地の戦い。最後は大越にタイムリーを打たれ勝負は決した。当時、尽誠学園の1番打者は谷佳知(2年・オリックス)だった。宮地克彦《通算成績》出場試合457、打数1151、安打数316、本塁打12、打率 .275 ※投手としての公式記録はない。ぜひ新天地の北信越リーグで、もう一花咲かせて欲しい※北信越BCリーグとは、新潟・富山・石川・長野の4県に、それぞれ1チームずつ本拠を置いてリーグ戦を行う独立リーグのこと。来年4月に開幕を予定している。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2006.12.19
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慶応義塾大、野球であれば話題は加藤幹典(3年・川和高)が人気、実力ともにNo.1。来年の上位ドラフト候補生だろう。ではラグビーは?間違いなく山田章仁(3年・小倉高)だろう。昨日行なわれた大学選手権の1回戦。対同志社大戦の結果はもちろん知っている。でも山田が見たくて録画ビデオをいま再生中。山田章仁。身長181cm、体重88kg。ポジションWTB。先日行なわれたアジア大会、ラグビー7人制では韓国との決勝戦で、後半のロスタイムに相手タックルによろけながらも決勝の逆転トライを決めた、あの選手だ。帰国後、休むまもなく大学選手権に出場をしている。先ごろ創刊された『ラグビー魂』(白夜書房刊)では、山田をこう評している。「野性的なランニング」「奔放なステップ」で「スピードに加えて当たり負けない強さ」。「ボールを持ったとき最も危険な選手」。そのコメントそのままに、山田は奔放なステップと当たり負けない強さで、前半に2トライを決めた。この選手、見ているだけで爽快だ!■慶應義塾大 48-19 同志社大■慶應、24日の2回戦は早稲田大と対戦する。敗れた同志社、4大会ぶりの初戦敗退となった。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2006.12.18
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城東工高出身と表現することもあるけど、実際には城東工・城東工科という府立高の、かつ統合高の出身。両親は野球に興味がなかった。息子がヤクルトに高校生ドラフト4巡目で指名を受けたが、ヤクルトで知っている選手は古田監督だけ。その影響なのか、息子の弘喜もプロ野球などあまり見ない子供で、「将来、野球でメシを喰うことなど考えもしないこと」だった。 (参考:「日刊ゲンダイ」)中学時代はフツーに軟式野球部で、一応投手はやっていた。城東工高に入学した時、野球をやろうとは思っていない。たまたま野球部があることを知り、たまたま入部した。甲子園がどうのこうのといった、特別な思い入れも全くなかった。山田弘喜。城東工・城東工科身長180cm、体重75kg、右投右打、投手。50m走6秒4、遠投120m。世間にちょっとだけ名が知れたのは、昨夏。2年生の時に府大会4回戦でPL学園に4-5と善戦したこと。ただ性格は「お山の大将」(最近この表記が多い!)。味方のエラーやミスに苛立つことが多かった。その欠点を克服するべく見戸健一監督が山田に課したのは、名言録の書き写しやトイレ掃除といった精神修行。それが功を奏したのか、この夏の府大会で8回完全試合を達成(参考記録)してしまい、プロ野球スカウト陣の目に止まった。山田クン、「あまりプロ野球を見ない子供だった」と先ほど書いたが、それで思い出したことがある。最近の野球をやっている子供たちの中には、プロ野球を見ない子が少なくない。昔であれば、あの選手の打撃の構えとか、この選手のスローイングとかいえば、誰でもが共通のイメージ(共通言語)をもつことができた。でも、今の子供たちはあまり野球を見ないものだから、プロ野球選手Aの投球フォームを真似てみろ!といっても通用しないことがままある。決して野球の能力が低い子ではないのに。これから10年後、20年後には子供の頃にあまりプロ野球を見なかった選手たちが、プロの門を叩くことが多くなるのかもしれない。山田がその子たちの先駆けだと思えば面白い。プロでぜひ結果を残して欲しいものだ。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2006.12.18
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ソフトバンク・ホークスに希望枠で入団。「江夏二世」との呼び声が高い。大隣憲司。身長175cm、体重85kg、左投左打、投手。京都ボーイズ-京都学園高-近畿大。最速152kmの速球と、外角での球の出し入れができる制球力に定評がある。高校時代、決して速球派の投手ではなかった。どちらかというと変化球投手。スピードが速くなったのは、大学入学後。それは、こういったことを覚えたから。先輩投手を見て知った「足が着いたときのタメ」。ステップした足が着地した時に、体重が後ろに残っていることの大切さ。そして「ボールをできるだけ前で離すこと」の重要さ。今年の入団組でNO.1左腕であることは間違いないのだろう。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2006.12.17
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意外な結末が待っていた。全国大学選手権1回戦が今日から行なわれ、実力が伯仲したカードのひとつ、京都産業大vs帝京大戦の模様をビデオで見た。スコア3-7、京産大が4点のビハインドで迎えた後半35分過ぎ。帝京大のゴール手前まで何度も攻め込む京産大。帝京大の「赤い壁」が必死に防御するが、耐え切れずにぺナルティを繰り返す。二度、三度...。そして最後はスクラムでのペナルティが認定トライに。その時点で8-7と逆転、コンバージョンも決め、結局10-7で京産大が勝利した。認定トライを宣告するため、レフェリーは帝京バックス陣の間を縫ってポール下に駆け寄った。レフェリーを「なんともいえない」表情でみつめる帝京の選手たち。怒りをぶつける場所がないといった風に立ち尽くしていた。そしてノーサイド。京産大フィフティーンの笑顔が弾け、喜びを爆発させていた。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2006.12.17
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昨日はわが家の大掃除。書棚を整理したところ、古い野球雑誌に目が止まった。記事のタイトルは「グエン・トラン・フォク・アン」。そう、03年のセンバツ。準々決勝で花咲徳栄高と延長15回引き分け再試合を演じたアン投手のこと。ベトナムからやってきた「ボートピープル」という話題と、再試合を演じた実力で、このセンバツのヒーローはアン投手だった。高校時代のアン、性格は「お山の投手」。チームメイトの証言が雑誌に綴られている。だが、延長再試合のころから何かが変わり始めた。花咲徳栄の岩井隆監督は「アン君、精神的にもっと幼いと思って戦ったのが誤算だった」と試合後に語った。03年秋のドラフト、結局プロからの指名はなく、社会人野球の名門・東芝に進んだ。登板は極めて少ない。ただ、アジア大会に出場した日本代表の壮行試合を戦った東芝。アン投手も1イニング登板し、無難に抑えたという。来年のドラフトは期待できるだろうか?03年のセンバツ、アン投手以外にも話題の選手が多かった。遊学館高・小嶋達也(大阪ガス-阪神・希望枠)広陵高・西村健太朗(現・読売)浦和学院高・須永英輝(現・日本ハム)横浜高・涌井秀章(2年、現・西武)東北高・ダルビッシュ有(2年、現・日本ハム)花咲徳栄高の福本真史投手、現在は明治大3年生。投手でなく外野手として登録している。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2006.12.17
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オリックスに希望枠で入団するJR九州の小松聖。ある雑誌で、小松投手のピッチングフォームの写真を見たことがあった。そのフォームの美しさにボクは驚いた。小松聖(こまつ さとし)、25歳。福島・勿来工高-国士館大-JR九州。身長180cm、80kg、右投右打、投手。最速150kmの直球、そしてスライダーとフォークが持ち味。昨年までスライダーを多投していたが、フォークを覚え投球の幅が広がった。国士館大時代は東都2部リーグ。一学年下には、本格派の小島紳次郎(国士舘高-国士舘大-現・広島)がいた。JR九州では1年目から登板。当時のエースは樋口龍美(日田林工-九州国際大)で、樋口が中日にプロ入りするのを間近に見て、初めて自分も「プロ」を意識した。翌年、都市対抗でベスト4に進出。小松は優秀選手に選ばれたものの、「プロ」から招待状が届いたのは後輩の藤岡好明(宮崎日大高-JR九州-ソフトバンク)。そして今年、やっとつかんだ「プロ」の切符。なんだか、昨日このブログに書いた上野弘文に似ている。「プロの世界は野球を始めたころからの夢。二けた勝利を挙げたい」。小松はそう抱負を語った。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2006.12.16
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「長寿世界一」の奄美大島に生まれ、島の出身者では初めてのプロ野球選手でもある。広島から、大学・社会人ドラフトの3巡目で指名された。投球術はもちろんだが、その「度胸」への評価も高かった。今月1日の仮契約の際には、用意された色紙に「自信」と書いた。上野弘文(樟南高-トヨタ自動車)苦労人ではある。高校時代にもプロから注目されたが、指名はなし。今回の指名、気がついたら高校を卒業して7年も経ち、年齢も25歳になっていた。トヨタでは、一年後輩の中日・吉見一起(金光大阪高)やオリックス・金子千尋(長野商高)にプロ入りを追い越されもした。身長176cm、83kg、右投右打、投手。武器は最速151kmの直球。そして、プロから評価された変化球の制球(スライダー・フォーク)。この変化球が今までの課題だったが社会人野球で痛打を経験したことで、逆に磨きをかけることができた。また昨年から抑えにまわり「強心臓」ぶりを、いかんなく発揮した。高校時代は2回、甲子園に出場している。98年春、一回戦でPL学園高に1-5で敗退。当時、PLの打順は、1番 田中一徳(現・横浜)2番 平石洋介(現・楽天)3番 大西宏明(現・オリックス)と豪華版。当時、上野は2年生で背番号「11」をつけていた。99年夏は、エースとして甲子園に。女房役の捕手は鶴岡慎也(現・日本ハム)、ほかに青野毅(現・ロッテ)もいた。準決勝まで勝ち進み、この大会で優勝した正田樹(現・日本ハム)を擁する桐生一高に0-2で敗れた。今回のドラフト。広島は神戸拓光(流経大)と、ロッテは上野弘文とそれぞれ相思相愛だった。だが、広島が上野を強行指名したため、その報復としてロッテは神戸を指名したという噂もある。真偽はわからない。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2006.12.15
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朱大ヱ。西武から高校生ドラフト3巡目の指名を受けた。国籍は中国、日本に国籍を移す予定はまるでない。「将来、上海そして中国に貢献できる人材になってほしい」と母親は願っている。中国人夫婦の間に、中国で生まれたれっきとした中国人。両親の都合により帰国と来日を二度三度と繰り返すうち、気がつけば朱は小学生になっていた。定まらない生活のため、日本語がろくに話せない朱。不憫に思った母親は、仲間とスポーツをやることで日本語を覚えさせることを思い立つ。スポーツなら何でもよかった。たまたまリトルリーグに入れると、みるみる日本語が上達した。ついでに野球まで頭角を現したのは「予想外!」だったに違いない。 (参考:いつもの「日刊ゲンダイ」)----------------------------朱大ヱ。愛知・中部大一高、投手身長184cm、体重80kg、右投右打。投手としては140kmを超える速球、打者としては長距離砲としての素質もあわせもつ。ひょっとしたら1巡目で指名された木村文和(埼玉栄高)と同じタイプの選手かもしれない。今年夏、愛知県大会で5回戦までコマを進めたが、豊田西高に2-3で敗れ甲子園出場はならなかった。----------------------------さて、お母さん。名古屋市内でパートをして家計を支えている。平日5日間はみっちり働き、土日は息子の試合をいつも応援していた。来年からプロで野球をする息子。曜日を決めて登板するわけではない。休日のシフトはどうするのだろう? つまらないことが心配になった。ま、同じ悩みでもこれは贅沢な悩みだけど。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2006.12.14
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アマチュア野球界で長年にわたり活躍された、審判員の郷司裕氏が12日亡くなった。74歳。 郷司さんといえば、ボクにも忘れられない「事件」がある。69年(昭和44年)夏の甲子園決勝、松山商高vs三沢高戦。延長15回裏、一死満塁カウント1-3の場面。次に松山商・井上明投手が投じた5球目が、今風にいうと「疑惑の一球」だった。 山なりの軌道を描いた球が低めに外れたように見えたが、主審の郷司さんは迷わず「スットライク!」と宣告した。もし「ボール」といえば、その瞬間に押し出しで三沢の優勝が確定。優勝旗は白河の関を越えていたはずだった。 当時、ボクは生まれ育った故郷の岩手でテレビ観戦していた。甲子園で1勝をすることさえ東北のチームに珍しかったあの頃、太田幸司投手(元近鉄)を擁する青森・三沢高の躍進に、隣県であるボクの町では大人も子供も一緒になって高校野球に熱狂していた。 そしてあの「一球」。三沢を応援するあまり、試合終了直後から近所の大人も子供も揃って大騒ぎ。「あれはボールだった」と皆が言い合った。 今日付けの朝日新聞では、亡くなった郷司さんを通して、その「一球」の記事が書かれている。記事を書いたのは、その一球を投げた当事者の松山商エースだった井上さん。大学を卒業後に朝日新聞の記者をされている。今日の記事は本人が書いているだけに、短いけど読み応えのある記事だった。 郷司さんについて触れたその記事の最後に、こんなくだりがある。 ----------------------------時を経てある時、郷司さんが私に尋ねた。「あの一球、どうだったかな?」報道陣に「あの球は低かった」と質問されることが多く、当人である私に一度聞いてみたかったそうだ。「低めのストライクです」と私が答えると、郷司さんは照れたようなほっとした表情を浮かべていた。---------------------------- 郷司さんがそれを聞いた時、いまさらストライクかボールかなんて、どうでもいい過去のことになっていたはずだ。事実がどうであれ、そう聞かれれば、井上さんは「ストライクでした」と答えるしかないことぐらいわかっていて、あえてそれを聞いた郷司さん。でも、その言葉を聞いて、少しは胸のつかえが降りたのかなぁ。 真実は、審判の判定のみにある。そして「スットライク!」と判定したお蔭で、翌日は決勝再試合となり、以後「昭和の名勝負」として語り継がれるようになった。 ※その時のこと、郷司さん自身が語ったコメントがこちらにあります。よろしければどうぞ。 いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2006.12.14
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99年、ドラフト1位で近鉄バファローズに入団した宮崎・延岡学園高出身の投手。この宮本大輔(延岡学園高-近鉄-オリックス)、来季からはオリックスの「育成選手」となり、支配下選手枠から外されることになった。つい先ほど、ボクはそのことを偶然に知り愕然とした。宮本がドラ1で指名された頃、甲子園出場こそなかったものの、「速球派のすごい投手」と評価されマスコミでも話題になっていた。その噂を聞くたび、近鉄ファンだったボクの期待は膨らんだ。2位に甲子園で話題を呼んだ高木康成(静岡高-近鉄-オリックス)。3位は前田忠節(PL学園高-東洋大-近鉄-楽天-阪神)。そして5位には岩隈久志(堀越高-近鉄-楽天)もいた。ことに宮本、同期の岩隈にライバル心を強く抱いていたようだが、肘の故障に悩まされ、03年の手術以降の一軍登板数は、たったの「1」。通算成績 41試合、2勝3敗1S、防御率4.31これが本当の実力ではないだろう。ぜひ、岩隈との対決を目指して再起してほしい。《育成選手とは》■一軍の試合には出場できないが、二軍では可能■年俸の下限は年俸240万円(支配下選手は440万円)■背番号は3ケタ■6月末までなら育成登録から支配下登録への変更(昇格)可能。-------------------------------※高木康成(静岡高)。99年の春と夏、甲子園に出場している。特に夏、3回戦に勝ち進んだものの、桐生一高に3-4でサヨナラ負けを喫した。桐生一のエースは正田樹(現・日本ハム)、控え投手は背番号「11」をつけた一場靖弘(2年・現楽天)がいた。-------------------------------いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2006.12.13
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一昨日、アジア大会から帰国した長野久義(福岡・筑陽学園高-日本大)を、4巡目で強行指名した日本ハムの山田SDが挨拶のため訪ねた。後見人としてだろうか、日大の鈴木博識監督も同席した。一時は「日ハムが一番嫌いなチーム」などと鈴木監督の一人芝居が先行し、事態はとんでもない方向に傾いた。が、次第に長野の態度が軟化したと言われ、ひょっとしたらこの場で一気に「合意か?」という憶測も流れていた。ところが---。結論は、もう修復しがたい関係に陥ったようだ。最初に山田SDは長野に問うた。「あなたはプロ野球で野球をやりたいのか、巨人で野球をやりたいのか」。この質問をぶつける以上、返答は前者との手応えが日ハム側にあったのだろう。でも、長野が即座に返した答えは逆だった。「巨人で野球をやりたいです」これじゃ、日ハムにとっては話を進めようがない。読みが大ハズレだ。それ以降は、山田さんが怒鳴ったり鈴木監督が涙を流したり。ついでに長野が会談場所を出て自室に待機する動きなどもあり、慌ただしい一時間が過ぎた。ま、いろいろ驚くことはあるけれど。一番驚いたのは、このご時世に「読売を信奉する」若者がまだ現存していること。最近は、読売から勧誘があっても断る選手が増えている。たぶん、それは「もっと自分を育ててくれるチーム」だとは思えないからだろう。長野、読売に行けるのであれば、社会人でやる2年間は決して長くないと、質問に答えたそうだ。だったら、日ハム入りは可能性がないのだろう。2年後、長野の希望どおりに読売が指名し、立派に育ててもらえることを祈るのみ...。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2006.12.12
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広島が高校生ドラフトで、1巡目指名をした前田健太。祖父も父も、2代続くトラックの運転手。健太の父親は小学生の頃に見た菅原文太主演の映画『トラック野郎』に魅了され、トラックの運転手になろうと心に決める。それから時を経ずして父親(健太の祖父)が大事故に巻き込まれ急逝。健太の父は家計を支えるため、中学卒業後すぐにトラック運転手となり、ずっと一家を支え続けた。今も大好きなのは「キャロル」や「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」。ロックンロールをガンガンに響かせ、深夜の高速で愛車の「デコトラ」をかっ飛ばしている。 (参考:今日も「日刊ゲンダイ」) 前田健太(投手・PL学園) 身長182cm、72kg、右投右打。最速148の直球と制球力に自信あり。そして昔風にいうと「ドロップ」(=カーブ)も持ち味。中学時代はボーイズリーグ日本代表に選出され優勝、MVPを獲得。PL学園高では背番号「11」をつけ、一年生ながら04年夏の甲子園で登板。以来、「桑田二世」と呼ばれるようになった。そして06年、センバツではベスト4進出の原動力となった。この大会、いまだに語り草になっているのは準々決勝の秋田商戦。相手投手がサインを覗き込んでいる時、三塁走者の前田はいきなり本盗を試み成功させた。実はこれ、ノーサイン。ベンチも選手たちも誰もが仰天するプレーだったが、前田の才能は万能であることを見せつけた。ボクはこの「あま野球日記」のイメージフォトに、この本盗シーンをいまだに使わせてもらっている。さて前田のお父さん。来年からは、全国どこかの星の下「デコトラ」をかっ飛ばしながらガンガンにならすキャロルの曲とともに、ラジオを通して聞こえる息子の活躍に耳を傾けるのだろうか。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2006.12.12
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の平成生まれだ。誕生日は平成元年2月10日。平成になったのはつい最近じゃなかったかな?と思うのはオッサンになった証拠かもしれない。とにかく驚いた。いや、それだけで驚いていてはいけない。小さい頃から水泳を始め、9歳の時には背泳ぎでジュニアオリンピックにも出場するなど、将来を期待されるスイマーだった。だが、併行して少年野球もやっており、どちらかを選択する必要に迫られた。「水泳じゃ喰えないから、野球をやる!」福田少年はそう言い放ったという。11歳のときだ。 (参考:再び「日刊ゲンダイ」)福田秀平。ホークスから高校生ドラフト1巡目で指名された。身長180cm、体重72kg、右投両打、内野手。世田谷ボーイズ-多摩大聖ヶ丘高。50m走6秒フラットの俊足と高校通算38本の本塁打から垣間見えるパワー。多摩大聖ヶ丘高。初めて聞いた高校名で、高校生ドラフトを中継していたスカイAの解説者も「聞いたことない」と言っていた。一般的には全く無名高の無名選手だったようだ。野球部の部員数もわずか16名だし。でも、調べてみて驚いた。今夏の西東京大会では準決勝まで進出している。準決勝の相手は日大三高、2-10で大敗したものの福田はこのゲームで高校通算38本目の本塁打を放った。---------------------------2006年7月28日西東京大会<準決勝・第1試合>日大三 002 023 003 =10 多摩大 000 001 010 = 2 ---------------------------余談だけど。この第一試合終了後に、神宮球場に現れたのは早稲田実。準決勝第二試合を日大鶴ヶ丘高と戦い、5-4のスコアでサヨナラ勝ちした。そして一日おいた7月30日。多摩大聖ヶ丘高を破った日大三高と早稲田実の決勝戦。延長11回の末に、早稲田実がサヨナラ勝ちし甲子園出場を決め、甲子園では「ハンカチ王子フィーバー」が巻き起こった。「もし」とか「たら」とかを言ってもしかたないが、もし福田の多摩大聖ヶ丘が勝ち抜いていたら?福田が甲子園のヒーローとなって、甲子園の歴史も違ったものになっていたかもしれない。そして「ハンカチ王子」が甲子園に出ていなければ、来季から東京6大学リーグを日本テレビが中継するという話も、そもそもなかったのかもしれない。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2006.12.11
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昨日行なわれたラグビー・トップリーグ。サントリーvsトヨタのゲーム、録画ビデオを再生中。これは単にトップリーグの一ゲームというだけではなく、清宮克幸監督に対して、トヨタの雪辱戦という意味合いもあった。昨年の日本選手権。このトヨタ、清宮監督率いる早稲田大に敗れた。近年、社会人チームが大学チームに敗れることはあまり例がないため、「早稲田憎し」は「清宮憎し」だったとボクは勝手に想像し、興味をもってこのゲームを見た。序盤から、ゲームは見応えのある一進一退の攻防が続いた。そしてゲームが決まったのは、後半ロスタイムに入ってから。サントリーが10-6のリードで迎えた後半42分。トヨタが自軍22mライン付近からボールをまわして攻め込もうとした時、SO廣瀬佳司(島本高-京都産業大)が放ったボールが逸れ、そのボールを拾ったサントリー・WTB小野澤宏時(静岡聖光学院高-中央大)がそのままトライし、勝利を確定させた。※廣瀬、昨年の対早稲田大戦でもパスをミスして早稲田にトライを許している。清宮監督、勝利の瞬間はいつもの「不敵な笑い」ではなく、嬉しさを素直に表した笑顔がこぼれていた。それにしても。FB有賀剛(日川高-関東学院大-サントリー)のお姉さんたちをJ-SPORTSのカメラが執拗に追っていた。ま、美人姉妹ということらしいが、ちょいと執拗に過ぎたそしてWTB栗原徹(清真学園高-慶應義塾大)。リスタートのキックを2度も失敗し、見ていて全く精彩がなかった。学生時代は輝いていたのになぁいつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2006.12.11
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今年、このブログを書いている関係もあって、土日は高校野球や大学野球を観戦する機会が多かった。その観戦中、ある光景をよく目にして不思議に感じたことがある。例えばこんな場面。打者が送りバントを試みる。一塁線上ギリギリにボールが転がるが結局ファール。すでに一塁ベースを駆け抜けた打者は、再びバッターボックスに戻ってくる。その時、ネクストサークルにいた次打者は、バッターボックス付近に近づいて、バントを試みた打者のバットを拾い上げて渡す。こういったシーン、皆さんもよくご覧になると思う。不思議に思うのは、その次打者の片手が、しっかりと自分のバットを握っていること。ネクストサークルからバッターボックスまでわずか数歩ではあるけれど、自分のバットを置いて行けば両手が空いて楽だし、なぜ持っている必要があるのだろう?高校も大学も結構こういうシーンが多い。プロはあまり見ないので知らないけれど。数年前、少年野球のコーチをやっていたことがある(ただの父兄コーチにすぎない程度)。子供たちも実にそういうシーンが多かった。フリー打撃の最中、ファールボールがとんでもない方向に飛んだとき、拾いに行くのは、打撃の順番待ちをしている子と決まっていたが、その子たちはほぼ必ず自分のバットを片手に持ってボールを拾いに行っていた。高校・大学の選手達が手からバットを離さないのは、子供たちと同じ理由かどうかは分からない。バットを下に置くと、土がついてイヤなのかもしれない。でも、それにしても不思議な光景だ。「どうだっていいじゃない、そんなこと」といわれれば、そのとおり大したことではないが。もし興味のあるかたは、ぜひ来年注目してください。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2006.12.11
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中日が7巡目で指名。意外に指名順位が低かった。同じく中日が6巡目で指名した清水昭信(名城大)とは、リトルリーグ時代からの友達だったようだ。西川明。松阪リトル→伊勢ボーイズ→三重高→法政大。法政時代、数試合で西川をみたことがある。ポジションはたいてい三塁だった。が、4年の秋季リーグで見たときは二塁を守っていたので、守備がうまい選手であることを初めて知った。---------------------------※全然関係ないけれど。最近は高校も大学もプロも、そしてリトルまでもが三塁手の守備力を軽視しているように思う。打撃を重視するあまり守備が下手くそな三塁手が多い。ボクの少年時代は「長嶋茂雄」氏の影響があり、人気の高いポジション。打つだけでなく守備も上手くなければ三塁手にはなれなかった。---------------------------さて西川。身長175cm、73kg、右投左打。遠投120m、50m走6秒3。高校時代までは投手。肩も足も、そしてパンチ力も定評がある。守備も内外野どこでも守れるセンス溢れる選手。二遊間をはじめレベルの高い中日。西川の器用さが「吉」と出ればいいけど、逆に「器用貧乏」ということもある。まずは、バッティングを磨くことが必要か... いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2006.12.10
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衣川篤史、ヤクルトから大学・社会人ドラフトの4巡目で指名を受けた。年齢は25歳、若くはない。プロ入りにあたり本人も悩んだようだ。「すでに女房もいるし幼い子もいるので」。所帯を持っている以上、実力主義の頂点にあるプロ野球界に身を投じることは、勇気も必要だった。悩んだ末にプロ入りを決心した。決めた以上、直近の明確な目標を自身に課した。「開幕一軍、正捕手奪取!」。大阪・大商学園高-岐阜聖徳学園大学-昭和コンクリート-住友金属鹿島 (※昭和コンクリーは1年目で廃部のため、住金に移籍した。今年が2年目)プロ野球選手に進むべき王道があるとすれば、衣川が歩んだ経歴は相当に地味な感がある。高校時代の戦績を調べてみたが、結局わからなかった。身長 178cm、体重 90kg、右投右打。強肩とスローイングの安定感も併せ持った即戦力捕手。今夏の都市対抗野球では、1試合あたり4個の盗塁を阻止。相手が機動力に定評のある日本生命。衣川の名を、プロ球界に知らしめた。 いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2006.12.09
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下窪の鹿児島にある実家は、広く製茶業を営んでいるそうだ。もともとは野菜など多品種を扱う普通の農家だった。その後、鹿児島県は農業活性化策の一環として「製茶」に注力する政策を導入。いまでは鹿児島県、静岡に次ぐ「製茶」生産量が全国2位に。当時、下窪のお父さんも「これは行ける!」と判断。真っ先に県の政策に乗って、今では大成功を収めている。 (参考:日刊ゲンダイ) 下窪陽介。(鹿児島実高-日本大-日本通運)横浜が大学・社会人ドラフト5巡目で指名。175cm、78kg 右投右打 俊足、強肩の外野手高校当時は投手、大学生の時に外野手に転向した。年齢は27歳と決して若くない。日通では、4番打者として都市対抗野球大会6年連続出場。先の大会では打率4割1分2厘で首位打者を獲得した。高校は鹿児島実高。96年センバツの優勝投手である。決勝は、2年生エース高塚信幸がいる智弁和歌山高を6-3で破った。その智弁、ベンチにいたのは広島に希望枠で入団を決めている宮崎充登。3年生ながら背番号「10」をつけ、ベンチでゲームを見守っていた。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2006.12.09
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アジア大会《決勝戦》■台湾 8-7 日本■日本 120 001 120 =7台湾 002 000 402X=8(日)磯村、服部、高崎―鈴木健、中野9回裏、スコアは7-6で日本が1点リードしている場面。一死二・三塁で、マウンドには三番手投手の高崎健太郎(鎮西高-日産自動車)。5番打者・林智勝が高崎の落ちるボールを左前に弾き返し、走者二人が迎え入れ台湾がサヨナラ勝ち。その瞬間、リードを守りきれなかった高崎、ガクッとマウンドでヒザをつき涙を流した。逆転に次ぐ逆転のシーソーゲーム、全員プロの台湾に善戦したという評価が一般的なよう。韓国に勝利したし。結果、金=台湾・銀=日本・銅=韓国となった。高崎健太郎。希望枠で横浜に入団が決まっている。身長175cm、体重80kg、右投右打。最速150kmの直球と高速スライダー(タテスラ)が武器。高校は熊本・鎮西高。「九州のドクターK」との異名をとり、当時からプロも関心を示した。だが、3年夏の準決勝で九州学院高に敗れて甲子園に手が届かず、プロから指名を受けることもなかった。高校卒業後、昨年はアジア選手権、9月のW杯(オランダ)で日本代表に。その後に肘を痛めたが、今年の都市対抗野球では2年連続の準優勝に貢献した。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2006.12.07
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日本テレビが東京6大学野球の放映権を獲得し、来春から中継を行なうそうだ。(スポーツ報知)連盟の担当者は「早稲田大だけでなく、6大学すべてを万遍なく放送して欲しい」と日本テレビに依頼したそうだ。でもどうだろう?日本テレビには地上波だけでなく、BS・CS・ネットなどの媒体がある。どうせどうでもいい組み合わせは傍流にまわして地上波は斎藤佑樹(早稲田実)中心で行くんだろう。東大vs立大あたりのカードはBSデジタルででも放送するんだろうか。【疑問1】「東京6大学野球」だけ盛り上がってどうすんの?この記事を見て、まずそう思った。東京6大学連盟は偶然ながら、せっかく「ハンカチ王子」というゴールドカードをもったんだから、もっと日本テレビに要求をすればよかったんだよ。6大学は自他ともに認める「大学野球界の盟主」。こんないい機会はあまりないのだから、せめて「東都大学リーグ」もセットにして売ればよかった。大学野球全体を盛り上げる絶好の契機を自ら断ち切った感じだ。【疑問2】「契約期間5年」というのが、ちょいといやらしい。「王子」が目当てなら4年でしょ、ふつう。それを5年にしたのは、「お目当ては王子だけではありません」と言いたい日テレのポーズなのか。さもなければ、6大学連盟が交渉の末に勝ち取ったということなのだろうか。(だったらセコイ話だ!)【疑問3】どの報道を見ても「王子」は来春からマウンドに立つことを前提に話が進んでいることへの疑問。本当にマウンドに立つのか? 早稲田の戦力は年々充実度を増している。これだけ層が厚い以上、東京6大学リーグでは断トツで優勝するのが当たり前の時代になる。そういったチーム事情の中で、「王子」がマウンドに立てる保証はどこにもない。東大OBであり読売グループ総帥のナベツネさんが「王子を出せ」と、いつもの調子で連盟や早稲田大に圧力でもかけるんだろうか。監督の應武篤良氏にとっては、ほとんどセミプロ化した戦力をもつ以上、特定の選手に肩入れすることはできまい。さて最後に、東都大学リーグのテレビ中継について、ぜひ再考をお願いしたい。ここには「王子」並みのキャラクターがいます。亜細亜大の中田亮二(1年・明徳義塾高)が。実力的にも、テレビ的にも実にいいキャラクターです。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2006.12.06
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ほんとかよ。今日のトレード記事を見てそう思った。横浜・多村仁とホークス・寺原隼人の1対1のトレードのこと。多村仁(横浜高)。身長179cm、体重72kg、右投右打 1994年ドラフト4位。通算打率.284、通算本塁打 111本。 今春行なわれたWBCでも、その長距離砲としての存在感を見ているファンに十分に印象づけた。このトレードへのコメントは「驚いています。今は頭の中を1回整理したいと思います」横浜は本当にこのトレード、よかったの?高校時代、94年春と夏の2回甲子園に出場している。春は1回戦で、現・阪神の赤星憲広がいた愛知・大府高に10-3の快勝。だが2回戦で、この大会に優勝した智弁和歌山高に2-10で大敗した。そして夏、初戦で那覇商高に2-4と「予想外」の敗戦を喫した。夏の甲子園出場時、横浜高は結果こそ残せなかったが、メンバーはスター揃いだった。3番打者 斉藤宜之(3年)現・読売4番打者 紀田彰一(3年)元・西武5番打者 多村 仁(3年)現・横浜-ホークス予定投手 矢野英司(3年)法政大-横浜-近鉄-現・楽天控え投手 横山道哉(2年)横浜-現・日本ハム控え野手 阿部真宏(1年)法政大-近鉄-現・オリックス一方の寺原隼人(日南学園高)。身長179cm、体重83kg、右投右打 2001年ドラフト1巡目。5年間で通算56試合登板、16勝14敗1S、防御率4.75 高校時代、01年夏に甲子園に出場している。というか、寺原は松坂大輔(横浜高-西武-レッドソックス?)の151kmを抜く155kmを記録し、甲子園は「寺原フィーバー」で沸いた。この大会、準々決勝まで進出したものの、横浜高に2-4で敗退した。当時の横浜高、円谷英俊(青学大-読売予定)や畠山太(日本大-富士重工)などがいた。寺原という男、何かと横浜(高)に縁がある。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2006.12.05
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先ほどの日記の続き。吉田拓郎とかぐや姫が「つま恋コンサート」を行なったのは1975年。いまから31年前のことだ。いまから31年前に、プロ野球に入団した選手って誰だろう?ふとそう思った。まったく想像がつかないので調べてみた。《75年ドラフト》【読売】1位 篠塚利夫(銚子商高) 3位 中畑 清(安積商高-駒沢大) 【中日】1位 田尾安志(泉尾高-同志社大)【ヤクルト】1位 杉村 繁(高知高) 【広島】1位 北別府 学(都城農高)【阪急】2位 蓑田浩二(広島・大竹高-三菱重工三原)【ロッテ】3位 水上善雄(桐蔭学園高)これらの選手の中で、高校時代の姿を一番憶えているのは杉村繁。それは75年、甲子園での決勝戦。■高知高 10-5 東海大相模高■(延長13回)高知高 012 010 100 000 5 =10 東相模 310 000 010 000 0 =5ボクが生まれて初めて、テレビを見ながらスコアをつけたのがこのゲーム。東海大相模には、原辰徳、村中秀人、津末英明などがいた。そして高知の注目選手は杉村だった。その杉村、延長13回に決勝の三塁打を放ち、三塁ベース上に「仁王立ち」した。 三塁手だった原が杉村に一言二言、声をかけ会話していたシーンを、なぜか鮮明に憶えている。話は変わるけど、一年後の76年、近鉄が3位で指名したのは現・早稲田大監督の應武篤良氏(崇徳高)。入団せず早稲田大に進学した。ちなみに同期のおもな指名選手。1位 久保康生(福岡・柳川商高)5位 山本和範(福岡・戸畑商高) いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2006.12.04
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このブログを書くのは、だいたい夜中1時から2時ごろ。最近、BGM代わりにいつも再生しているビデオがある。それは、「今日までそして明日から。吉田拓郎・35000人の同窓会」。今年行なわれたコンサートをNHKが放送し、その番組をビデオ録画したのだ。途中で中島みゆきが現れるサプライズのシーンは、何度も見ていて知っているのに涙腺がゆるむ。 観客の平均年齢は49歳だったという。コア層は団塊世代だったろうか。これだけのオッサンやオバサンが一堂に会して、大騒ぎするなんてこと、ふつうじゃ考えられない。テレビに映る観客一人一人の表情も、これまでの人生を物語っているんだろうな、きっと。そして吉田拓郎も、若い頃のイメージからかけ離れ、ずいぶん円くなったし。よくぞ、こんなイベントをやったもんだ。最初に開催されたのが1975年で今回は31年ぶり。あーぁ、またやってくれないかな。今度はぜひ見に行くのに。なんて書いていたら、今夜は「わが愛しのキャンディーズ」がNHKで放送されている。ボクが中学・高校時代のアイドルだった。たまたま隣で見ていた中学生の息子に「このキャンディーズ、昔はアイドルだったんだぞ」と言うと、「え~、なんで~???」「かわいくないよ」だと。その息子、上戸彩のファン。「え~。なんで???」。今度はそういってやろういつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2006.12.04
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中日に希望枠で入団。「ポスト谷繁」とあちこちで言われている。てことは、小山良男(横浜高-亜細亜大-JR東日本-中日。04年ドラフト8巡目で入団)は何なんだ?なんて思ってしまうが。身長174cmと小柄ながら、二塁送球は最速で1.8秒を記録するほどの強肩。そしてインサイドワークにも自信をもつ右投右打の捕手。楽天から大学・社会人ドラフト1巡目で指名を受けた永井怜(東京農大二高-東洋大)とバッテリーを組んでいた。「守るだけの捕手はイヤ」と打撃も鍛え、先の秋季リーグでは東洋大の4番打者に座った。通算成績は73試合、打率.288、3本塁打、36打点。いま開催中のアジア大会にも出場中。この田中、若いが苦労人だ。生まれたとき、すでに父親がいなかった。母親の再婚により年齢の離れた弟と妹ができ、ずって面倒を見てきた。高校卒業とともに就職して家計を支えようとも考えた。が、家族が大学まで行かせてくれ、しかも野球を続けさせてくれたことに感謝の気持ちを忘れない。 高校は広島・如水館高。02年夏、2年生のときに甲子園に出場した。一回戦で秋田・金足農高を8-4で下すが、二回戦では東洋大姫路高に3-4で惜敗した。プロでは「存在感のある捕手」を目指す!(※参考:『アマチュア野球 Vol9』(日刊スポーツ出版社)) いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2006.12.04
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意外なゲームの展開になった。「関西の雄」同志社大が大阪体育大に後半逆転を許し、そのままあっけなく敗退した。■大阪体育大 26-14 同志社大■この勝利により、大体大は今季のリーグ戦を無傷の7連勝で優勝を決めた。リーグ優勝も同志社への勝利も実に15年ぶり。ノーサイドの瞬間、「ふっー」と大きな息を吐いたのは大体大・坂田好弘監督(洛北高-同志社大-近鉄)。「15年は長いですからねぇ。いまの選手にとっては初めてみたいなものです。みんなの力で勝ち取ることができました」。勝利監督インタビュー、喜びをかみしめつつ言葉少なにコメントした。坂田好弘氏。中学時代までは柔道の選手だった。洛北高入学後、ラグビーと出会う。50m走6秒フラットの速さに、当時の池田部長はポジションを「ウイング」と即断した。入部1週間後には初試合。ろくにルールを知らない坂田、池田部長に「何をすればいいんですか?」と、そう聞いた。「ボールを持ったらコーナーフラッグ目指してまっすぐ走れ。ボールを持ってる奴がいたら捕まえろ」。部長からの答えは、ただそれだけだった。柔道の間合いに似たタックルを決め、ついでに人生初のトライもこの試合で決めた。現役引退するまで700以上のトライを記録するが、記念すべき第1号である。その後、同志社大-近鉄とラグビー界のエリートコースを突っ走る。1968年、オールブラックス・ジュニア戦で坂田自身が4トライを挙げるなどで大金星を挙げる。そして単身ニュージーランドに渡り、「オールブラックス」入りも濃厚になるほどの大活躍を見せた。日本ラグビー史上、もっとも世界の頂点に近づいたウイング。それは坂田好弘だと言われている。(参考:『空飛ぶウイング』村上晃一著、洋泉社刊)いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2006.12.03
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たまたまチャンネルを合わせたNHK「サンデースポーツ」。雑誌『野球小僧』(白夜書房)の連載企画「炎のブルペンキャッチャー」こと安倍昌彦氏が紹介されていた。雑誌の企画で、これまで多くのアマチュア野球・投手のボールを受けてきた。なんと、その9割以上がプロ入りしている。安倍氏は言っていた。「ボールを受けるとその投手のことがわかるんです。『どうです? すごいでしょ!』と自慢げな投球もあるし、『ふだん強そうにしているんだけど、ホントは弱いんです』そう呟くボールもあります」。プロ注目の日本福祉大の浅尾拓也。この選手も安倍氏がボールを受けた投手のひとり。大学・社会人ドラフトの前にグラウンドで再会した。「中日以外の入団は考えられない。ドラフトのことを考えると夜も眠れないし、食事もノドを通らない...」。そんな心情を安倍氏に吐露していた。そう何度も会ったわけでもないだろうに、ここまで内心をオープンにするのはどうしてだろう? 一線級の投手にとって、自分が放るボールを受けてくれる捕手との関係は、通常のコミュニケーションで作られる関係よりも、ずっと深い関係ことなのかもしれない。番組を見て、そのことに一番興味をもてた。後日談。その浅尾投手。ドラフトでは、本人の希望通り中日から3巡目で指名を受けた。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2006.12.03
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ひょっとして、ひょっとしたら...!?そんな期待をもってテレビ観戦をした早明戦。先日の早慶戦での慶應義塾大の大健闘、慶應がやれるなら明治だって。ボクの明治大への期待は否が応でもが高まった。でも、やはり早稲田大が相手となると、明治には荷が重かったのかも知れない。「前へ!」をスローガンに重戦車を復活させた明治だったが。「明治はFWが爆発すれば、絶対どこにも負けません」と『ラグビー魂』創刊号(白夜書房刊)のインタビューで主将・日和佐豊(大阪工大高)が応えていたが、早稲田の速い展開に、明治の重戦車がしてやられた。そんな感じに見えた。ラインアウトが安定せず、スクラムでも優位に立てず!では「前評判倒れ」気味、ガッカリだ。後半終盤、明治はどうにか2トライを挙げたがそこまで。前半、計2人がシンビンで退場時に、1つでもトライを決めておきたかった...やはり早稲田の壁は厚かった■早稲田大 43-21 明治大■いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2006.12.03
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「息子は読売という会社に就職したけど、それでも阪神ファン。この前も阪神のスカウトに、小嶋(大阪ガス)かなんか知らん投手獲るなら、なんで息子を獲らんかったんやと言ってやったんよ」 (ZAKZAK 2006/11/22)と、読売へ希望枠で入団が決まった金刃憲人の父親にいわれた小嶋達也(石川・遊学館高-大阪ガス)。高校時代から阪神とのパイプは太かった。180cm、左投左打。最速148kmの直球と多彩な変化球が持ち味。先のドラフト、希望枠で阪神に入団が決まった。高校は遊学館高。中学時代は東淀川ボーイズに所属したが、故障で断念。「新しく野球部ができる」ことが魅力に映り、遊学館に進学した。02年夏、創部2年目の2年生時に甲子園出場、ベスト8に導く原動力となった(ほかに03年センバツも出場)。1回戦は桐生市商に8-3で勝利、15三振を奪い一気に「小嶋」の名をファンに印象づけた。2回戦は瀬間仲ノルベルトのいる日章学園を破った静岡・興誠高に8-4で勝利しベスト8。準々決勝は現・日本ハムの鎌倉健を擁する川之江高に2-3で敗戦した。高校卒業時、当然ドラフト候補であり阪神入りを熱望。だが小嶋に興味をもつ他の球団も現れたため、3年後「阪神・小嶋」を目指して大阪ガスに進んだ。大阪ガス入りの面倒を見たのも阪神と言われている。金刃の父に何を言われようと、阪神と小嶋は3年前に「婚約」をしていた。今年の希望枠は既定路線だった。伝統の巨人-阪神戦、金刃と小嶋の投げあいは、けだし見ものではある。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2006.12.02
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9月28日のブログで、ボクは永野スカウトに勝手に同情した。大嶺の指名は球団首脳が勝手に決めたもの。。「大嶺はすでにホークスとガチガチの関係」であり、平野さんは「獲得はムリ」だと主張しているにもかかわらず、それを押し切られ、一方では八重山商工高の伊志嶺監督に電話しても「着信拒否!」されるわで、それはそれは可哀想だと、つまらぬ同情をしていた。ところがどっこい、今日の日刊ゲンダイを読んでそれは間違いだったことを知った。なんと、ロッテは指名前から獲得できる確信があった、というのだ。どうやら「ガチガチ」だったホークスが、大嶺に提示するはずの条件を上回る材料を持っていたようだ。以前書いたように「千葉は田舎」戦法も含まれていたのかはわからないけど。ということで永野さん、ごめんなさい。勝手な推測を書きました。で、そのホークスに勝る条件って何だったんでしょうねさて大嶺祐太(沖縄・八重山商工高)。184cm、右投左打。140km後半の直球と、130km台の高速スライダーが武器。技術よりも精神面への不安を指摘する声が多い。先月27日、ロッテと正式契約を交わした。バレンタイン監督も沖縄に出向き、大嶺と記念写真に収まった。そして「じっちゃん」もちゃっかり一緒に写っていた。「じっちゃん」というから、ほんとにじっちゃんぽい人を想像していたけど、若々しいカクシャクとした大嶺似(?)のダンディ。溢れんばかりの笑顔でVサインのポーズをとっていた。大嶺、じっちゃんのためにも頑張れ!いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2006.12.01
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