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皇帝アレクサンデルの弱腰に不満を抑えかねていた将兵たちが、 それを倒した後担ぎ出したのが、彼等の間で人気の高かったマクシミヌス。 軍団長や属州総督の経験もなく、元老院の議席も持たない男を 影で「半蛮族」と呼びながら、元老院は承認するしかなかった。 新皇帝は、ゲルマン民族相手の戦闘に積極戦法で3年間勝利し続ける。 しかし、北アフリカの属州で、大農園主たちが徴税に対して反発し、 その地の総督・ゴルディアヌスに、皇帝に推挙するので受諾するよう要請、 マクシミヌスを嫌悪しきっていた元老院も、これを容認する事態となる。が、ゴルディアヌスはマクシミヌスとの戦闘に敗れ、帝位就任1か月足らずでこの世を去る。彼の息子ゴルディアヌスも共同皇帝の地位にあったが、同じ戦闘中、父より先に戦死した。そこで、元老院は新たにパピエヌスとバルビヌスを皇帝に擁立し、マクシミヌスを迎え撃つことに。だが、決戦を前に、マクシミヌスは自らの側の兵士たちに寝所を襲われ、この世を去ったのだった。ところが、今度はパピエヌスとバルビヌスとの間に亀裂が走り、混乱し始める。この状況に愛想を尽かした元マクシミヌスの将兵たちは、二人の皇帝を殺害する。このように、紀元238年は、5人の皇帝が表れては消える一年となった。そして、その後を受け継ぐことになったのは、13歳のゴルディアヌス3世であった。しかし、彼も天幕に侵入した9人の兵士たちに命を奪われ、6年の統治を終える。その兵士たちを買収したと言われる近衛軍団長官・フィリップスが皇帝に推挙される。 推挙とは言っても、兵士たちの唱和、つまり何人かが声をあげて それに多数が賛同するやり方、で決まるのである。 一種の直接民主制だが、直接民主制度には、 扇動者(アジテーター)に左右されやすいという欠点があった。(p.78)アラブ人・フィリップスは、ローマ建国一千年祭を主催する皇帝となった。だが即位して5年、ドナウ前線に自ら出向くことをせず、首都長官デキウスを派遣した際、その活躍ぶりに、将兵たちがデキウスに皇帝就任を要請する事態となる。そして、追いつめられフィリップスは、内戦を前に自ら命を絶つに至ったのだった。紀元250年、ゴート族とヴァンダル族が、大挙してドナウの下流を渡りローマ領に来襲。皇帝デキウスは、共同皇帝の長男と共に出陣するが、そこで討ち死にすることになる。その後、この戦闘に参加していた遠モエシア属州総督・トレポニアヌスが、将兵たちの推挙を受け、帝位に就くことになった。トレポニアヌスは、ゴート族と講和、遠モエシア属州総督にエミリアヌスを任命した。しかしその後、このエミリアヌスが、将兵たちに皇帝の地位を推挙され、さらに、総督ヴァレリアヌスまでもが、将兵たちに皇帝の地位を推挙される。そして、蛮族の侵入が続く中、三人の皇帝による内乱を勝ち抜いたのは、ヴァレリアヌスだった。この皇帝が総指揮を執ったペルシア戦役で、ペルシア王・シャプールの捕虜にされてしまう。もう一人の皇帝であった息子のガリエヌヌスは、父を奪還すべく東へと動けなかった。それは、西方でゲルマン人たちの来襲が、一層激しくなると予想されたから。彼は、父親を見捨てることしか、選択肢がなかったのである。 ***皇帝が、コロコロと入れ替わり立ち替わりして、何とも落ち着かない状況。読んでいても、切なくなってしまうようなお話しばかりが続くのだが、そんな中でも、心に残る一文は存在する。例えば、次のようなもの。 強敵と常に向かい合っている兵士が、最強で最精鋭の戦士になる。(p.67) 名将の名将たる由縁は、自軍の兵士たちに、 彼等が慣れ親しんできたやり方で闘わせることにある。(p.115)一筋縄ではいかない、手強い相手と継続して渡り合わねばならないとき、そして、今まで経験したことがないようなビッグ・プロジェクトを完遂させねばならないとき、自分を励ますために、チームを成功に導くために、心に留めておきたい言葉である。
2012.11.23
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発売された日は知っていたものの、 即、購入&読書には至らず、やっと今日読み終えた。 自分自身の、この作品に対する思い入れが、 この程度になってしまったのだと、よく分かった。 前シリーズが、イマイチだったので、 このシリーズには大いに期待していたのだが、 期待していた程には、盛り上がりきってないのが現状。 もちろん、前シリーズよりは随分マシだが……その原因の一つは、折角スモーカーやタシギが登場しているのに、今のところ、その存在感を充分に発揮しきれていないと言うこと。また、麦わらの一味の活躍振りも、何だか今一つパッとせず、特にルフィーは中途半端、ワクワク感に欠ける。それに比べれば、新キャラ・狐火の錦えもんは、その身体が元に戻った後の展開において、今巻一の見所を作り出している。さらに、トラファルガー・ローも、本巻後半になって実力の片鱗を見せ始め、次巻での活躍に期待したいところだ。もちろん、今巻は大いに盛り上がるはずのクライマックス前段、スパートに向けて、抑えに抑えた助走部のはずだから、きっと次巻あたりから、ルフィーたちも大暴れして、読む者全てを、スッキリ爽快にしてくれるはず……と信じたい。
2012.11.23
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今巻から「迷走する帝国」シリーズ3巻の始まり。 絶頂期を過ぎ、後は崩壊への下降線を辿る一方のローマ帝国だが、 このシリーズで描かれる「危機の三世紀」と呼ばれた時代は、 次から次へと皇帝が入れ代わり、まさに迷走と呼ぶしかない状況。 軍人皇帝・セヴェルスの後を継いだ息子のカラカラは、 共同皇帝の一人であった弟のゲタと、以前から折り合いが悪く、 結局、母の面前で、自ら弟を斬殺する。 父の死から一年にして、彼は望み通り単独皇帝となった。浴場建設で現在にも名を残すカラカラだが、歴史的に見て、後世により影響が大きいのは「アントニヌス勅令」の発令である。この法は、ローマ帝国内に住む自由な人々全員に、もれなくローマ市民権を与えるもので、ローマ市民権は「取得権」から「既得権」となり、結果そのブランドと魅力を失うことになった。また、「アントニヌス勅令」は、ローマ市民と属州民との差別を撤廃することによって、それまでローマ市民権者にしか開かれていなかった、軍主戦力であるところの軍団兵と属州民でも志願できた補助兵の間の境界を取り払い、全員が軍団兵となることになった。結果、元補助兵にも軍団兵と同等の給与と満期除隊時の退職金を払わねばならなくなったのだ。 戦闘で忙しい兵士よりも、 冬営中とて暇をもてあましている兵士を統御するほうがむずかしい。 紀元二一六年から十七年にかけての冬も終わりに近づこうとしていた頃、 何かの不祥事を起こした兵士の一団を、皇帝カラカラが厳しく叱ったことがあった。 叱り方も対人関係ではむずかしいことの一つだが、 相手を屈辱感で打ちのめすような叱り方は、上手な叱り方とはいえない。 さらに、カラカラの与えた罰が、兵士たちにすれば不当に重かった。(p.84)このことが切っ掛けで、近衛軍団長官二人のうちの一人だった53歳のマクリヌスは、謀殺された29歳のカラカラに代わって皇帝に就任する。しかし、パルティアとの講和のため、属州メソポタミアを放棄してしまった新皇帝を、カラカラの叔母ユリア・メサと第三ガリア軍団の兵士たちは見過ごさなかった。ユリア・メサは、孫のヘラガパルスの実の父はカラカラだと偽り、第三ガリア軍団の将兵たちは、それを事実として受け入れ、打倒マクリヌスに動き出す。そして、マクリヌスは、首都ローマに皇帝として一度も足を踏み入れないまま、逃避行の後、街道警備の兵士たちに殺され、1年でその統治を終えることになる。ヘラガパルスが帝国で初めて東方出身の皇帝となった2年後、17歳の時、ユリア・メサの進言で、4歳下のいとこ・アレクサンデルを後継者に指名する。が、ヘルガパルスは暫くしてこのことを後悔、ライヴァル殺害ばかりを考えるようになる。彼は衛兵軍団長官にアレクサンデル殺害を命じるが、結局殺されたのは彼のほうだった。ユリア・メサが、アレクサンデルの相談役に登用したのは法学者ウルピアヌス。彼の指導と、アレクサンデル自身の性格を反映して、その統治は公正で穏健に進む。即位から4年後にユリア・メサが逝去、後見人はメサの娘であり皇帝の母でもあるユリア・マメアに。ユリア・メサという後ろだてを失った忠臣ウルピアヌスは、反対派の煽動により殺害された。その頃、帝国の外の状況が激変。東方で、ササン朝ペルシアが、ローマ帝国の宿敵・パルティア王国を滅ぼしたのだった。その創始者アルダシルは、ペルシア帝国の再興を旗印に掲げ、軍を北西に向ける。治世10年にして、24歳の皇帝アレクサンデルは、ペルシアと戦うべくドナウ河へと向かった。紀元233年に始まったペルシア戦役において、ローマは負けはしなかったものの、誇れるほどの勝利を得ることも出来なかった。次いで、ゲルマン人と対すべくライン河前線へと向かったアレクサンデルだったが、蛮族たちとの交渉しか頭にない皇帝に不満をもった兵士たちにより、殺害されることになる。
2012.11.18
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コモドゥス暗殺後、共に執政官の地位にあったペルティナクスが、 元老院の賛同を得て皇帝に即位した。時に66歳。 その即位に際し、最大の功労者となったのが近衛軍団長官レトー。 ところが、新皇帝はレトーの功に報いることを後回しにしてしまった。 レトーに煽動された近衛軍団の兵士達が皇宮を襲う。 そして、ペルティナクスは、わずか87日間の在位で、この世を去る。 その後、皇位に就いたのは、 レトーが推す前アフリカ属州総督ディディウス・ユリアヌス。ところが、近パンノニア属州総督セプティミウス・セヴェルスとブリタニア属州総督クロディウス・アルビヌス、さらに、シリア属州総督ペシェンニウス・ニゲルの三人が、次々に皇帝に名乗りを上げる。中でも、セヴェルスはいち早くアルビヌスに共闘を申し出て、その懐柔に成功する。セヴェルスがローマに進軍する中、ユリアヌスは近衛兵に殺害されてしまう。ローマに入城したセヴェルスは、アルビヌスと共同皇帝に就任することを求め、それが承認されると、ニゲル討伐のため東方へ出発、イッソス平原でニゲルに勝利する。さらに、リヨン近郊でのアルビヌスと対決にも勝利して、単独皇帝になったのであった。軍人皇帝・セヴェルスは、治世18年目のブリタニア戦役遂行中、ヨークに集まった息子や妻に見守られながら、次の言葉を残し64歳の静かな死を迎えた。 わたしは、すべてをやった。 元老院議員でもあった。弁護士でもあった。執政官も務めた。 大隊長もやった。将軍でもあった。そして、皇帝もやったのだ。 つまりは、国家の要職はすべて経験し、 しかも充分に勤めあげたという自信ならばある。 だが、今になってみると、そのすべてが無駄であったようだ(p.135) ***さて、今巻で心に残ったところを書き留めておく。 「小事」まで批判を受けてはならぬという想いで進めると、 「大事」が実現できなくなる。 大胆な改革を進める者には、 小さなことには今のところは眼をつむるぐらいの度量は必要であったのだが。(p.29)この辺りのさじ加減、バランス感覚がとても難しい。 実力主義にはプラス面も多いが、人間社会の他のすべての事柄と同じでマイナス面もある。 実力主義とは、結局は実力でカタをつけるしかない解決法なのであった。(p.42)ここで言う「実力」とは、どんな「実力」を指し示しているのかが問題だ。 自分たちと似ている指導者には親近感を持つが、 似ていない指導者のほうに魅かれるものなのだ。 この傾向はとくに、危機の到来を感じたときに顕著になるのだった。(p.63)似ていない者を指導者として選択するということは、自分とは似ていない彼・彼女がとる行動や、その行動がもたらす結果が予測不能ということ。窮地に追い込まれたときや、危機に瀕したとき、人は、予測できないものに夢や希望を見出そうとしてしまうものなのか。 いや、もしかしたら人類の歴史は、悪意とも言える冷徹さで実行した場合の成功例と、 善意あふれる動機ではじめられたことの失敗例で、 おおかた埋まっているといってもよいのかもしれない。 善意が有効であるのは、即座に効果の表れる、 例えば慈善、のようなことに限るのではないか、と。 歴史に親しめば親しむほどメランコリーになるのも、 人間性の現実から眼をそむけないかぎりはやむをえないと思ったりもする。(p.108)世の中って、なかなかうまくいかないもの、らしい。
2012.11.17
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とある説明会で、来春大学生になる高校生達に推薦された一冊。 170ページほどの本だから、ボリューム的にはコンパクトな方だが、 1949年(昭和24年)に発行されたものなので、かなり年季の入った文体。 普段、現代文を読むような調子でページを捲ることは、とても出来ない。 書かれている内容も、日本ではなくイギリスの学校生活についてで、 さらに、現在のイギリスではなく、もう随分昔のイギリスについてである。 しかも、パブリックスクールという、ある意味特殊環境について描いたもので、 現在の高校生が読むとすれば、それは相当骨が折れる作業になるだろう。 *** その行為自体の善悪が問題なのではない。 ある特定の条件にある特定の人間が、ある行為をして善いか悪いかはすでに決まっていて、 好む好まないを問わずその人間をしてこの決定に服せしめる力が規律である。 そしてすべての規律には、これを作る人間と守る人間とがあり、 規律を守るべき人間がその是非を論ずることは許されないのである。(p.61)今、ここ日本で読むと、時代というものを感じざるを得ない一文としか思えないのだが、イギリスのパブリックスクールでは、このような規律が今もなお受け継がれているのだろうか。 彼らは一つ一つのプレーの結果よりも、その結果に到達した過程に重点をおく。 幸運なまぐれのゴールで味方が勝つよりも、 たとい結果は失敗したとしても真面目な地道な努力を尊しとする。 慣習の喝采を当てこんだスタンド・プレーをするもの、 己の功名焦って渡すべき球を渡さないラグビー選手、 相手を弱しと見て調子を下すもの、敵わじと見て試合を投げ出してしまうもの、 これを彼等は蛇蝎の如く憎む。その間、敵味方に微塵の容赦もない。(p.154)これも、成果主義が声高に叫ばれる今の日本社会では、古き良き時代の姿勢としか思えない。それは、学校教育の場においても同様で、何より結果が優先されがちになってしまっている。 有り難いことには、現実が如何に苦悩に満ちたものであっても、時の経つにつれて、 人はそれに馴れたり、それを忘れたりする習性をもっている。 無限の苦悩という言葉はあるにしても、実際は果たして如何なるものか。 そう数多くあるものとは思われない。 世が終わるかと思われる嵐でさえもいつかは必ず雲が薄れる。 雲の彼方には常に陽が輝いているのである。(p.87)これは、パブリックスクールの耐乏生活について述べた部分に出てくる一文だが、現在苦境に立っているあらゆる人たちにとって、励ましの言葉となるものだろう。本著の中で、私が最も気に入ったところである。
2012.11.05
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本作は、ライトノベルといいう体裁をとりながらも、 明らかに普通のラノベとは一線を画する作品。 やはり正真正銘、筒井康隆の手による、筒井康隆の作品である。 ラノベ好きの人は、そのつもりで読んだ方が、よろしいかと。 イラストは、確かに、いとういのぢさんの手によるものである。 しかし、『ハルヒ』の世界とはかけ離れている。 例え、そこに未来人が登場しようが、宇宙人が登場しようが、 これは、『ハルヒ』に見られる、ラノベのジャンルに属するものではない。性描写も過激である。こんなの青少年が読んでイイのかと、心配になるほどである。「R指定」にしなきゃならんのではないかと、真剣に考えてしまうほどである。もちろん、渡辺 淳一ほどのことはないが。オチも筒井作品である。七瀬三部作や『時をかける少女』を読んだ、遠い過去の日を追想する。あれから、読者である私も年齢を重ね、著者である筒井さんも年齢を重ねた。そしてあの頃、ラノベなんて言葉はなかった。
2012.11.04
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海堂さんの手による「桜宮サーガ」の一連の作品群の中で、 文庫化されたものは、全て読んでいると私は思っていたのに、 先日『アリアドネの弾丸』を読んだ際、本著が未読だったことに気付き、 早速発注して読んでみた。 本著は『ブラックペアン1998』の続編で、 世良や若き日の高階たちが活躍するお話し(何と桐生まで登場!)。 『ブラックペアン』が、『バチスタ』を遙かに凌ぐ作品だったのと同様、 『ブレイズメス』も、田口・白鳥ペアシリーズを凌ぐ程の痛快な作品である。何と言っても、天城幸彦のキャラ設定が絶妙。天才外科医とは言いながら、カネに対する考え方はかなり常識を逸脱したものであり、その姿勢には、高階ですら反感を持つような、一見ヒール・キャラ。にもかかわらず、読み進むにつれ、次第に引きこまれてしまう彼の魅力は並大抵ではない。そのとどめは、世良とのやりとりにおける、天城の次の言葉。 「ジュノ、さくらにも寿命があることを知っているか?」 「ソメイヨシノの寿命は七十年。樹木だから樹命、だけどな。 この長さ、何かに似ていると思わないか?」 「人の一生だ。私も、七十年で生涯を閉じる。 さくら並木が続くのは、そこに次々とさくらが植え続けられるからだ。 スリジエ・ハートセンター、それは母なる桜宮のさくら並木だ。 完成すれば、寿命七十年のさくらたちが集い、 春になれば毎年、見事な花を咲かせるだろう」 「ジュノは見たくないか?その見事なさくら並木を」(p.370)そして、このスリジエ・ハートセンターの顛末は、『スリジエセンター1991』へと続いていくが、文庫化され、私が読むのは、まだ随分先のこと(やっと単行本が出たところだから当然だ)。
2012.11.04
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昨シーズン、TVドラマで放映されていたものを何度か見た。 視聴率はあまり芳しくなかったようだが、私は結構お気に入りだった。 それは、主演の多部未華子さんが話す大阪弁が、極めて自然だったから。 逆に言うと、多くのドラマで、聞くに堪えない珍妙な関西弁が飛び交っている。 多部さん自身は東京出身である。 しかし両親は関西出身で、彼女自身も関西弁と接する機会があったとのこと。 そのことが、今回のドラマにおいて、良い結果をもたらしたと思われる。 もちろん、小池徹平さんやまえだまえだの二人は、大阪出身だから鉄板。さて、このお話しの中に「しょうむない」という言葉が、何度か登場する(p.85など)。それに対して「しょーもない」という言葉はp.311に一度登場するだけである。東野さんは、「しょうむない」「しょーむない」という言葉を普通に使用する。しかし、私はそれに対し、かなり違和感を感じるのである。東野さんは大阪市生野区の生まれ、本籍は東区(現・中央区)の玉造という、生粋の浪花っ子であり、小中高校はもちろん、大学時代も大阪で過ごしている。そして、私はと言えば、生まれてから社会人になる前まで、ずっと京阪沿線で過ごしていた。大阪市民ではないものの、れっきとした大阪府民だった。調べてみると、「しょうむない」という言葉は、ちゃんと存在している。しかし、私の過ごした環境下では「しょうむない」という言葉を聞いたことがなかった。TVで活躍するタレントさんのトークや、漫才、新喜劇等でも「しょーもない」はあっても、「しょうむない」「しょーむない」は覚えがない。単に私が「しょうむない」「しょーむない」を「しょーもない」と聞き違えているだけで、結構使っている人は多いのだろうか?それとも、やはり「しょーもない」が一般的で、「しょうむない」「しょーむない」は、大阪でも地域限定の言葉なのだろうか?
2012.11.04
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昔々、NHKで『新八犬伝』という番組を放映していた。 坂本九さんの口上や挿入歌「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」が印象的だったが、 お話は結構長く複雑・難解だったため、1年過ぎた辺りから飛び飛びの視聴に。 そのため、当時の私は全貌をよく掴めず、そのまま最終回を迎えてしまった。 それでも、このお話には、どこか強く惹かれる部分があったようで、 後に、原作の抄訳本も読んでみたりしたのだが、それでは不十分。 かと言って、馬琴の原作に挑もういう気持にまでは至ることもなく、 結局、モヤッとっした気分を残したまま、私の中で『八犬伝』は放置されていた。そして、桜庭さんの手による『伏 贋作・里見八犬伝』が発行された。文庫版でなく単行本で発行されたときから、実はかなり気になっていた。それでも、結局、文庫版が発行されてから、今回やっと手にすることになった。私の『八犬伝』に対するスタンスが、よく表れた経過である。もちろんこのお話は『新八犬伝』とは別物であり、さらに『贋作』と銘打っているように、馬琴の『南総里見八犬伝』とも別物である。それでも、信乃に現八、親兵衛、毛野、玉梓、舟虫、伏姫、道節、浜路等々、馴染みの登場人物が、次々に登場してくるので、私には懐かしく楽しいものだった。しかし、このお話しの主人公は、八犬士たちではない。彼らは「伏」と呼ばれ、人間達に危害を加える犬人間として描かれている。彼らに代わって主人公を務めているのは、『新八犬伝』で、信乃の許嫁として、彼とラブストーリーを展開した浜路。彼女は、このお話しでは、兄を頼って江戸に出てきた猟師の少女として描かれ、すこぶる活発で、兄思いの女性として描かれている。さらに、伏姫も『新八犬伝』の印象とはかなり異なるキャラクターとして描かれており、これはこれで、現代女性の感性を取り込んで、なかなかイイ感じになっている。加えて、馬琴の息子・滝沢冥土や、伏姫の弟・鈍色(にびいろ)、吉原の花魁・凍鶴(いてづる)等のキャラクターたちも、それぞれに魅力的だ。『八犬伝』をベースにしながらも、随所に現代的な感覚を取り込み、桜庭ワールドというものを、見事に展開してみせる作品に仕上がっている。
2012.11.04
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