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「広辞苑」は岩波書店が発行している中型の日本語国語辞典で、編著者は新村出、新村猛です。 昭和初期に出版された「辞苑」(博文館刊)の改訂作業を引継ぎ、第二次世界大戦後新たに発行元を岩波書店に変え、書名を広辞苑と改めて出版されました。 ”広辞苑はなぜ生まれたか-新村出の生きた軌跡”(2017年8月世界思想社刊新村恭著)を読みました。 1955年に初版が刊行され、60年以上をかけて改訂が重ねられてきて、いまや「国語+百科」辞典の最高峰と言われる「広辞苑」の、来歴と編者の新村出=しんむらいずるを紹介しています。 最新版は2018年1月発行の第七版です。 中型国語辞典として三省堂の「大辞林」と並ぶ両雄で、携帯機器に電子辞書の形で収録されることも多いです。 収録語数は第七版で約25万語で、日本国内から世界の社会情勢や約3,000点の図版、地図などを収録し、百科65501事典も兼ねる働きを持っています。 新村恭さんは1947年京都市生まれ、新村出は祖父にあたります。 名古屋で育ち、1965年に東京都立大学人文学部に入学、1973年に同大学院史学専攻修士課程を修了し、岩波書店に入社しました。 人間文化研究機構で本づくりの仕事に携わり、現在はフリーエディターで、新村出記念財団嘱託となっています。 新村出は1876年山口市生れ、旧幕臣で当時山口県令を務めていた関口隆吉の次男でした。 「出」という名は、父親が山口県と山形県の県令だったことから「山」という字を重ねて命名されたといいます。 1889年に父・隆吉が機関車事故により不慮の死を遂げた後、徳川慶喜家の家扶で、慶喜の側室・新村信の養父にあたり、元小姓頭取の新村猛雄の養子となりました。 静岡尋常中学、第一高等学校を経て、1899年に東京帝国大学文科大学博言学科を卒業しました。 在学中は上田萬年の指導を受け、この頃からの友人として亀田次郎がいて、のちに『音韻分布図』を共同して出版しました。 国語研究室助手を経て、1902年に東京高等師範学校教授となり、1904年に東京帝国大学助教授を兼任しました。 1906年から1909年までイギリス・ドイツ・フランスに留学し、言語学研究に従事しました、 1907年に京都帝国大学助教授、帰朝後に同教授となりました。 エスペランティストでもあり、1908年にドレスデンで行われた第4回世界エスペラント大会に日本政府代表としてJEA代表の黒板勝美とともに参加しました。 1936年に定年退官まで,同大学の言語学講座を28年間担当しました。 1910年に文学博士の称号を得,1928年に帝国学士院の会員に推され、退官後は京大名誉教授を務めました。 1933年に宮中の講書始の控えメンバーに選ばれた後、1935年に正メンバーに選ばれ、同年1月に昭和天皇に国書の進講を行いました。 1967年に90歳で亡くなり、没後にその業績は『全集』(筑摩書房)にまとめられました。 南蛮交易研究や吉利支丹文学、は平凡社東洋文庫などで再刊されています。 またその業績を記念し、1982年から優れた日本語学や言語学の研究者や団体に対し毎年「新村出賞」が授与されています。 終生京都に在住して辞書編纂に専念し、1955年に初版が発刊された「広辞苑」の編者として知られていますが、どんな人で何をしたかはほとんど知られていません。 長男は広島高等学校教授を務めた新村秀一さん、次男は名古屋大学教授を務めたフランス文学者の新村猛さんです。 孫には、大谷大学教授を務めた西洋史学者の新村祐一郎さん、桜美林大学教授を務めた中国文学者の新村徹さん、編集者(岩波書店等)の新村恭さんがいます。 著者は、祖父・出の伝記は、本来、兄・徹が書くはずでしたが、1984年に48歳で不慮の死をとげたため、自分が書くことになったといいます。 祖父・出については、伝記はもとより研究者がそのある面をとりあげた本も一冊としてありません。 変転も激しい長い年月を生き、突出した角がなく、茫洋としてとてつもなく広い事績をのこしたため、書くのが難しく書き手がいなかったのではないでしょうか。 自分は研究者でももの書きでもありませんが、祖父・出を見送ったのが20歳のときで、新村家の空気のなかで育ち生きてきました。 また長く出版のしごとをしてきて、辞書づくりについても肌で知っています。 幸いにして、まだ整理・公開するにいたっていないし、祖父・出の日記や書簡等をみることができる立場にあり、新村家の生の声を伝えながら、「広辞苑」の物語を書くことに挑戦しようと思い立ったとのことです。 「広辞苑」につながる辞書の刊行は、祖父・出の意図によるものではなかったそうです。 それは、信州出身の出版人、岡茂雄の企画でした。 あらためて、出版社の存在の大きさを考えさせられます。 とくに、辞典の場合は、単行本以上にその位置が重要でした。 岡は、小出版社・岡書院をたちあげ、大正後期から、人類学・民俗学・考古学を中心に活動を開始していました。 新村出のものは、1925年に『典籍叢談』を1930年に『東亜語源志』を出版しています。 岡は出に、中高校生あるいは家庭向きの国語辞典の「御著作」を願いでました。 岡の申し入れにたいして出は即座に、「そのようなものには興味をもたない」とことわりました。 しかし、岡は出の温厚な人柄に惚れ込み、父親のように慕っていたため、容易に引き下がらずに食い下がり、そしてついに条件付きの応諾を得ました。 その条件は、昔、東京高等師範で教えたことがあり、京都府立舞鶴高等女学校の教頭を退いて福井に隠棲している溝江八男太が手伝ってくれるなら引き受けてもよいということでした。 溝江は、大正後半期に『女子文化読本教授資料』などの編著書を刊行していて、出の蔵書のなかにもあります。 岡は出とは、かつての教え子というだけの関係でなく、国語教育・教材を通じて出と親しかったと思われます。 出が溝江を指名したのは、岡の「中学・高校生向け」との要請から当然ともいえます。 しかし、中高校生をこえて一般向けの辞書もふくめての協力者としても、研究者や研究者の卵よりも、一定の経験をもった中学・高校の国語の教師を中心に据えるほうが、実際的でよいとの考えが出にはありました。 出の意向を受けて、岡は溝江家を訪問し、溝江の百科項目を含めたいとの希望を容れて三者の合意がなりました。 溝江は、能勢朝次、三ヶ尻浩、久保寺逸彦、後藤興善、今井正視、竹内若子らの協力を仰ぎ、作業はスタートしました。 岡は、予定していたのよりもはるかに大部になるので、小出版社の岡書院では難しいと思い、他社との共同あるいは移譲を考えました。 まず、同郷の先達、岩波茂雄に伺いをたてましたが、岩波にはいったんことわられました。 岡・新村の辞書は、一方で移譲を申し出る出版社がありましたが、祈り合いがつかずしているうちに、渋沢敬三の仲介によって、博文館から刊行されることになりました。 アチックミューゼアム、常民文化研究所をつくった渋沢は、民俗学を出版の核においていた岡と親交がありました。 博文館は当時の大手出版社であり、取次大手の東京堂、共同印刷、広告店、製紙会社、教科書会社などを傘下に収めていました。 岡は、提示した条件を博文館がすべてのんだことで決断し、新村出の了解を得るべく、渋沢とともに京都に向かいました。 岡は実質的な共編者となり、分身となって尽力しました。 そして、順調な進行をみた『辞苑』は、1935年2月5日に発行され、A5判本文2286頁、約28万語収録、定価4円50銭(発売時特価3円20銭)、発行・博文館、組版・開明堂、印刷・共同印刷でした。 末尾には総画引きによる漢字の難訓音索引、常用漢字表、品詞の活用表などが付載され、表紙は博文館の希望で赤色で、当時は「赤本」とも呼ばれました。 『辞苑』は発売前に、注文が多いことから増刷が決まり、好評のうちに刊行されました。 岡は、博文館からの小型国語辞典刊行の希望を伝え、これは出と溝江の反対はありましたが、刊行の方向となりました。 この学習用に、よりウェイトをおいた小型の国語辞典は、1938年に『言苑』として刊行されました。 1941年の改訂が行われるよていでしたが、刊行できず、のびのびになって、完成に近くなった時は戦局が悪化し、博文館が確保していた用紙も空襲で灰燈に帰し、共同印刷の活字銅版も爆撃で失われる事態となりました。 改訂版の刊行は中止となりましたが、完成間近の校正刷(ゲラ)があり、後の「広辞苑」の基となりました。 敗戦によって事態は一変し、アメリカの軍事支配となりGHQは日本の民主化のために、財閥解体の方針をもっていました。 大事業体となっていた博文館は解体され、戦争協力出版の罪も問われる方向となりました。 新村猛は岩波書店で改訂を引き受けてもらうべく行動を開始しました。 猛は、岩波の幹部職員と相談、合意を得たうえで鎌倉で静養中の岩波茂雄を訪ね、友人の久野収の仲介もあって岩波の承諾を得ました。 1948年に、岩波書店のなかに新村出辞書編纂室ができました。 『辞苑』のときは出が溝江を指名しましたが、今回は出と岩波が協議しながら編者側のスタッフを決めました。 編纂主任には、冨山房で辞書づくりの経験のある国文学者の市村宏が就任しました。 出の日記には、岩波書店の人たちが折にふれて訪ねてきたことが記されています。 出が学士院の総会等で上京の折には、必ず岩波書店に立ち寄り、多くの岩波の人、関係者と語り合っています。 「広辞苑」は、当初は、新村出の「辞海」「辞洋」がよいとの希望で、仮に「辞海」とされていました。 しかし、1952年に、新たに金田一京助編「辞海」が三省堂から刊行されるに及んで、別の名称を考えなければならなくなりました。 岩波書店も本格的に検討を開始し、結局、「新辞苑」か「広辞苑」というところに収斂しました。 1954年に、「新辞苑」は博文館の後継社、博友社で登録してあると判明しました。 そこで、「新辞苑」の名を撤回して、「広辞苑」として登録することになりました。 戦後生じた大きな社会情勢の変化、特に仮名遣いの変更や新語の急増などにより、編集作業はさらに時間を要することになりました。 新村父子をはじめとする関係者の労苦が実り、1955年5月25日に岩波書店から「広辞苑」初版が刊行されました。 以後、1969年第二版発行、1976年第二版補訂版発行、1983年第三版発行、1991年第四版発行、1998年第五版発行、2008年第六版発行、2018年第七版発行という経過をたどっています。 著者の希望は三つ、あとに続く世代に新村出の生涯と人となりを知ってもらうこと、研究者の為した跡と生きざまを読んでもらいたいこと、日本社会の大きな変化の歴史を味わってもらいたいこと、であるといいます。1新村出の生涯(萩の乱のなかで生を享けるー父は山口県令/親元離れて漢学修業ー小学校は卒業してない/静岡は第一のふるさと/文学へのめざめ、そして言語学の高みへー高・東大時代/荒川豊子との恋愛、結婚/転機、欧州留学/水に合った京都大学ー言語学講座、図書館長、南蛮吉利支丹/戦争のなかでの想念/京都での暮らしー晩年・最晩年/新村出が京都に残したもの)/2真説「広辞苑」物語(『辞苑』の刊行と改訂作業/岩波書店から「広辞苑」刊行へ/「広辞苑」刊行のあとに)/3交友録(徳川慶喜の八女国子ー初恋の人/高峰秀子/佐佐木信綱/川田順/そのほかの人びと)広辞苑リブレポーチ 第七版 (岩波書店) 4426302広辞苑帆布トート 第七版 (岩波書店)4019403
2020.10.31
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藤原冬嗣は右大臣・藤原内麻呂の二男で、平安時代の藤原北家隆盛の素地をつくったと評されます。 ”藤原冬嗣”(2020年8月 吉川弘文館刊 虎尾 達哉著)を読みました。 平安前期の藤原北家の貴族で嵯峨天皇の信任厚く、初代蔵人頭を務め側近として政界の頂点に立ち、摂関家興隆の基礎を築いた藤原冬嗣の生涯を紹介しています。 後の嵯峨天皇が皇太弟となったとき、東宮大進=とうぐうだいしん東宮亮となり、皇太弟の信任厚く、天皇即位後の昇進には著しいものがありました。 810年3月に初めて蔵人を置いたとき蔵人頭を兼ね、同年9月の薬子の変後式部大輔=しきぶたいふ、ついで翌年参議に昇進し、以後右大臣となりました。 そして、淳和天皇即位後、左大臣に昇進し、嵯峨朝および淳和朝初期の重要政務に関与しました。 虎尾達哉さんは1955年青森県生まれ、1979年に京都大学文学部史学科卒業、1983年に同大学院文学研究科博士課程中退し、1997年に京都大学博士(文学)となりました。 1999年にロンドン大学東洋アフリカ学院客員研究員となり、現在は鹿児島大学法文学部教授を務めています。 藤原冬嗣は775年生まれ、平安時代初期の公卿・歌人で、母は飛鳥部奈止麻呂の娘,百済永継、官位は正二位・左大臣、贈正一位・太政大臣でした。 桓武朝では大判事・左衛士大尉を歴任し、806年に桓武天皇が崩御し皇太子・安殿親王(平城天皇)が即位し、平城天皇は弟の神野親王を皇太弟としました。 平城天皇が即位すると従五位下・春宮大進に叙任され、翌年に東宮亮に昇進しました。 平城朝では皇太子・賀美能親王に仕える一方、侍従・右少弁も務めました。 809年4月に平城天皇は発病し、病を叔父早良親王や伊予親王の祟りによるものと考え、禍を避けるために譲位を決意しました。 天皇の寵愛を受けて専横を極めていた尚侍・藤原薬子とその兄の参議・藤原仲成は極力反対しましたが、天皇の意思は強く同年4月に神野親王が即位し嵯峨天皇となりました。 809年の即位に伴い、冬嗣は四階昇進して従四位下・左衛士督に叙任されました。 810年正月に平城上皇は旧都の平城京へ移りましたが、観察使の制度を嵯峨天皇が改めようとしたことから平城上皇が怒り、二所朝廷といわれる対立が起こりました。 平城上皇の復位をもくろむ薬子と仲成は、この対立を大いに助長しました。 当時の太上天皇には天皇と同様に国政に関与できるという考えがあり、場合によっては上皇が薬子の職権で内侍宣を出して太政官を動かす事態も考えられました。 平城上皇と嵯峨天皇とが対立し、810年9月に薬師の変が起こりましたが、嵯峨天皇側が迅速に兵を動かしたことによって、平城上皇が出家して決着しました。 平城上皇の愛妾の尚侍・藤原薬子や、その兄である参議・藤原仲成らが処罰されました。 薬子の変に際し嵯峨天皇が秘書機関として蔵人所を設置すると、冬嗣は巨勢野足と共に初代の蔵人頭に任ぜられました。 乱後の11月に従四位上に叙せられ、翌年に参議に任ぜられて公卿に列しました。 その後も、812年正四位下、814年従三位、816年権中納言、817年中納言と、嵯峨天皇の下で急速に昇進しました。 そして、冬嗣より10年近く早く参議となっていた藤原式家の緒嗣を追い越し、819年には右大臣・藤原園人の薨去により、大納言として台閣の首班に立ち、さらに821年に右大臣に昇りました。 823年4月10日に嵯峨天皇は突如として、宮中から京内の冷然院に遷りました。 右大臣の冬嗣が召喚され、嵯峨天皇から詔が下されました。 冬嗣は嵯峨天皇の東宮時代に東宮坊宮人として仕え、即位後の薬子の変の際には新設の蔵人頭として嵯峨天皇を助け、嵯峨朝後半期の長期に及ぶ深刻な被災期も筆頭公卿として嵯峨天皇を支え続けました。 まさしく側近中の側近であり、嵯峨天皇の長年の宿志を知らなかったはずはありません。 その冬嗣でも、いざ嵯峨天皇の口から譲位の意志を伝えられたとき、当惑の色を隠せなかったといいます。 意志を尊重しつつも、もし一人の天皇と二人の上皇がいることになれば、天下が持ちこたえられなくなると諫めました。 嵯峨朝後半期以降、連年のように列島を襲った自然災害に対処し、冬嗣は悪化の一途を辿る国家財政の建て直しに筆頭公卿として心を砕きました。 一天皇とは大伴親王、ほかの二上皇とは平城上皇と嵯峨新上皇ですが、平城上皇はすでに政治の世界から身を退いて久くなっていました。 嵯峨新上皇もかつての当事者として、冬嗣同様、あるいはそれ以上にかつての二所朝廷を苦い経験として胸に刻んでいました。 長期の災害による国家の窮地から脱しきれていない状況の下、財源の逼迫に加え王権分裂の危機まで招来するような種子は播きたくありません。 国政を預かる政府の最高責任者として、万に一つの危険であっても摘み取っておきたかったのでした。 しかしながら、結局嵯峨天皇は譲位の宿志を貫いたため、もはや翻意を諦めるほかありませんでした。 冬嗣は嵯峨天皇の側近中の側近であり、平安初期においてその積極性と唐風文化への傾斜から、ひときわ光彩を放った嵯峨天皇の政治は、この冬嗣の存在なしにはありえませんでした。 淳和朝に入り、825年に淳和天皇の外叔父の藤原緒嗣が大納言から右大臣に昇進すると、冬嗣は左大臣に昇進しましたが、翌年7月24日に享年52歳で薨去しました。 最終官位は左大臣正二位兼行左近衛大将で、没後まもなく正一位を贈られました。 平安左京三条二坊にあった私邸が閑院邸と称された事から、閑院大臣と言われます。 冬嗣は人としての器量が温かくかつ広く、見識も豊かで文武の才を兼備し、対応も柔軟で物事に寛容に接し、よく人々の歓心を得たといいます。 嵯峨天皇は東宮時代からこのような逸材に日々接し、やがてこれを重用して厚い信頼を寄せました。 それゆえ、ことに冬嗣が筆頭公卿となった嵯峨朝後半の政治は、嵯峨天皇の政治であると同時に冬嗣の政治でもありました。 政治家冬嗣が冬嗣のすべてではなく、藤原氏の族長でもありました。 藤原氏といえば、ともすれば権力の中枢にあって栄華や富貴を誇った人々を思い浮かべがちですが、それはごく一部です。 すでに平安初期においても、同族中に貧しく生活に困難を来すような人々が多く存在しました。 冬嗣は族長としてそのような人々を救済する策を進んで講じたほか、藤原氏一族に多大の貢献を行いました。 冬嗣は摂政良房・関白基経の父・祖父であり、自身天皇家との姻戚関係を積極的にとり結ぶことによって、のちの摂関家隆盛の基礎を築きました。 初代の蔵人頭、勧学院の創設者、興福寺南円堂の創建者としても名高いです。 冬嗣がどのようにして嵯峨天皇の側近となり、どのようにして支え、やがてともにどのような政治を進めていったのでしょうか。 嵯峨朝ひいては平安初期の政治を正しくまた豊かに理解するためには、人格・才能ともに秀でたこの冬嗣という政治家の実像に何としても迫らねばならないといいます。 また、冬嗣の生きた時代はいわゆる文章経国思想の隆盛期でした。 冬嗣も嵯峨天皇や他の多くの貴族・宮人同様、詩歌をよくする当代一流の文人でした。 文人冬嗣は、実は薫物=たきもの合香家でもありました。 薫物とは各種の香料を調合して作る練香のことで、平安時代の香といえばこの薫物でした。 冬嗣は後世、その薫物の調合を考案する合香家の嚆矢と目され、薫物の歴史は冬嗣に始まるといいます。 さらに、冬嗣は自身仏教に深く帰依しましたが、平安仏教の二大祖師、天台宗の最澄と真言宗の空海にとって、特に有力な支援者の一人でした。 本書は、薬子の変や頻発する自然災害に大きく左右された時代に生きた、非凡な政治家の生涯に迫っています。第1 父・内麻呂の時代/第2 官僚としての冬嗣/第3 冬嗣政権への道/第4 嵯峨朝後半期の冬嗣政権/第5 淳和朝初期の冬嗣政権/第6 さまざまな冬嗣ー族長・文人・合香家・仏教外護/第7 冬嗣の死とその後【中古】 藤原冬嗣 人物叢書 新装版/虎尾達哉(著者) 【中古】afb【新品】【本】嵯峨天皇と文人官僚 井上辰雄/著
2020.10.24
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祇園の名はインドにあった祇樹給孤独園=ぎじゅぎっこどくえんと呼ばれた僧園の名前を略したものです。 ”祇園、うっとこの話 「みの家」女将、ひとり語り”(2018年10月 平凡社刊 谷口 桂子著)を読みました。 祇園のお茶屋「みの家」の女将の一日、「みの家」の歴史、祇園の今昔、しきたり、母である先代のことなど祇園の四季や京都の四季を語っています。 祇樹給孤独園は、古代、中インドの舎衛国=しやえこくにあった、祇陀=ぎだ太子の庭園の祇陀林=ぎだりんを、須達=しゆだつ長者が買って、寺院=祇園精舎を建てて釈迦に寄進したものです。 今の八坂神社は、元の祭神であった牛頭天王=ごずてんのうが祇園精舎の守護神であるとされ、元々「祇園神社」「祇園社」「祇園感神院」などと呼ばれましたが、1868年の神仏分離令により改名されました。 牛頭天王は平安京の祇園社の祭神であるところから祇園天神とも称され、平安時代から行疫神として崇め信じられてきました。 御霊信仰の影響から当初は御霊を鎮めるために祭り、やがて平安末期には疫病神を鎮め退散させるために花笠や山鉾を出して市中を練り歩いて鎮祭するようになりました。 これが京都の祇園祭の起源であるとされます。 八坂神社は西門前、四条通を中軸とした鴨川以東一帯の地をいいますが、その称は一定していません。 清水寺・祇園社への参詣路にあたるという立地によって、早くから辺りに茶屋が存在していました。 谷口桂子さんは1961年三重県四日市市生まれ、東京外国語大学外国語学部イタリア語学科を卒業しました。 小説、エッセイ、人物ルポ、俳句を雑誌などに発表しており、人物ルポは元首相、ノーベル賞受賞者から、山谷の日雇い労働者まで幅広くインタビューを手がけてきました。 24歳で鈴木真砂女に出会って作句を始め、のちに加藤楸邨「寒雷」へ所属しましたが、現在は無所属です。 八坂神社は明治以前は鴨川一帯までの広大な境内地を保有していたため、この界隈のことを祇園と称します。 鳥居前町は元々は四条通に面していましたが、明治以降に鴨川から東大路通・八坂神社までの四条通の南北に発展しました。 舞妓がいることでも有名な京都有数の花街であり、地区内には南座(歌舞伎劇場)、祇園甲部歌舞練場、祇園会館などがあります。 現在は茶屋、料亭のほかにバーも多く、昔のおもかげは薄らぎましたが、格子戸の続く家並みには往時の風雅と格調がしのばれます。 北部の新橋通から白川沿いの地区は国の重要伝統的建造物群保存地区として選定され、南部の花見小路を挟む一帯は京都市の歴史的景観保全修景地区に指定され、伝統ある町並みの保護と活用が進んでいます。 お茶屋とは今日では、京都などにおいて花街で芸妓を呼んで客に飲食をさせる店のことで、東京のかつての待合に相当する業態です。 芸妓を呼ぶ店で風俗営業に該当し、営業できるのは祇園、先斗町など一定の区域に限られます。 料亭(料理屋)との違いは、厨房がなく店で調理した料理を提供せず、仕出し屋などから取り寄せることです。 かつては、宴のあと、客と芸妓、仲居が雑魚寝をするというのが一つの風情ある花街情緒でしたが、今日では見られません。 歴史的には、花街の茶屋は人気の遊女の予約管理など、遊興の案内所や関係業者の手配所としての機能があり、客は茶屋の座敷で遊興し、茶屋に料金を払いました。 料理代や酒代をはじめ、芸者や娼妓の抱え主など各方面への支払いは、茶屋から間接的に行われました。 客が遊興費を踏み倒した場合でも、茶屋は翌日に関係先に支払いをしなくてはならず、客からの回収は自己責任でした。 茶屋が指名された遊女を呼ぶ場合は、抱え主に対し「差し紙」という客の身元保証書を差し出す規則がありました。 客の素性や支払を保証する責任上、茶屋は原則一見さんお断りで、なじみ客の紹介がなければ客になれませんでした。 今でも京都ではこのルールが残っていて、料亭に芸妓を招く場合でも、いったんお茶屋を通すことになっています。 料理代は料亭に支払い、花代は後日お茶屋に支払うことになります。 「みの家」は京都市東山区八坂新地末吉町にあり、最寄駅は祇園四条駅です。 先代の女将、千万子は、瀬戸内寂聴が瀬戸内晴美の筆名時代の1972年に、祇園に取材して著した小説『京まんだら』のモデルとして知られています。 この小説は、「みの家」の女将で吉村千万子という、京都生まれでも無いのに祇園に店を立ち上げた実在の人物です。 小説中、「竹乃家」として書かれるお茶屋は「みの家」、千万子は「芙佐」、その子の薫は「稚子」として登しています。 京都祇園に生きる女性達の表と裏の素顔,その恋愛や生き方を描いた興味深い話で、京都の歴史や風物も織り交ぜられて華やかな作品になっています。 「みの家」には美空ひばり、イサムーノグチら、著名な客が多くいましたが、作家の瀬戸内寂聴もその一人です。 寂聴は祇王寺の智照尼のことを『女徳』に書き、智照尼の紹介で祇園に詳しい中島六兵衛を知り、「みの家」を訪れるようになったそうです。 何百年と続く老舗のお茶屋が、代々一族に受け継がれて栄える中で、当代の「みの家」女将の吉村薫の母親で、先代の女将の吉村千万子は、十代で祇園のお茶屋に奉公し、23歳で自分の店を持ちました。 ほかに、旅館「吉むら」などお茶屋以外の事業も成功させて、女実業家といわれた伝説の人物です。 千万子の母親は離婚して女の子を連れて故郷の山口に帰り、帰ってからおなかに子供がいることに気づいたといいます。 その子供が千万子であり、1919年に山口県で生まれましたが、訳あって母親は子供二人を連れて大阪に出て、駅前でくらわんか餅を売って生計を立てたそうです。 千万子は子供ながら母親の仕事をよく手伝って、その姿を見ていた京阪電鉄の人の紹介で、尋常高等小学校を出てすぐ、祇園のお茶屋「みの家」に養女に来ました。 しかし養母は病気がちで、千万子が16歳のときに亡くなってしまい、実家の母親はすでに亡くなっていたため、18歳年上の姉夫婦の家に厄介になっていました。 その後、仲居の修業を希望して、紹介してもらって「よし松」というお茶屋にやってきました。 その店で甘粕大尉に出会い、甘粕には贔屓にしてもらったといいます。 にもかかわらず、千万子は店の上等でない客の呉服屋の番頭と恋仲になり、大八車で夜逃げ同然に飛び出しました。 そして、途絶えた「みの家」を1942年に二人で再興し、子供も二人できましたが、その後、店に客できていた薫の父親と出会って、慰謝料をつけて追い出したそうです。 千万子は一時、旅館「吉むら」の他に、鉄板焼きの店「楼蘭亭」、スナック「チマ子」と手広く店を経営しました。 愛嬌のある可愛いい人で、頭もよく、愚痴は言わず、笑い上戸で泣き上戸の、情の濃い、情け深い人だったといいます。 そして、奔放な恋愛を繰り返す一方で、千万子は義理を欠かさない人でした。 「みの家」の先代の墓参りを忘れたことはなく、月命日に京都にいないときは、従業員を代理で行かせました。 薫は贅沢三昧に育ち、「あば」と呼ばれる乳母がつき、千万子は自分ができなかったことを子供たちにさせようと、薫は琴、兄はバイオリン、姉はピアノの習い事をさせました。 薫には中学生のときから家庭教師がつき、アメリカのハイスクールを出た先生に英会話の個人レッスンを受けました。 新し物好きの千万子はテレビもいち早く購入しました。 夕食後は近所の人が見に集まるため、座布団を並べるのは薫の役目でした。 お茶屋の娘は「家娘」とよばれ、よそから来た「奉公」と区別されます。 京都には祇園甲部、祇園東、先斗町、宮川町、上七軒の五花街がありますが、「みの家」がある祇園町の家娘は舞妓に出しません。 薫は公立高校の試験に落ちて、私立の二次試験を受けて女子高に入学しましたが、その後、再入試を受けて公立に入り直しました。 その公立高校を落第しそうになり、かつて英会話を習っていた先生のいるアメリカに1969年に渡りました。 半年後に帰国してから男の人に出会い、その相手と駆け落ちして結婚しました。 親同士が話し合い、千万子が以前経営していたスナック「チマ子」を、薫が祇園で新たに始めました。 薫が「みの家」の若女将となるのはそれから21年後に、千万子が亡くなってからです。 21歳で結婚して、別れたのは27歳のときでした。 著者は四半世紀ほど前、編集者に連れられて「みの家」を訪れて、女将の薫と出会ったそうです。 薫はたおやかな京言葉を操り、繕わないかわいらしさの一方で、筋の通らないことには京おんなの芯の強さと誇りで対処していました。 出会いと縁に感謝しつつ、客層もお茶屋も変わっていく時代に、この先も「みの家」が末永く栄えていくことを心より願っているといいます。第一章 女将の一日/第二章 『みの家』の歴史/第三章 お座敷という表舞台/第四章 おかあちゃんのこと/第五章 祇園の四季/京都の四季/第六章 『みの家』のご縁/第七章 祇園今昔/第八章 お茶屋の暮らし/第九章 身近な神仏/第十章 『みの家』のこれから京都西院 料理好きの家変なホテル京都 八条口駅前京都キムチのほし山 キムチカタログ お届けいたします 【価格1円となっておりますが無料です】
2020.10.17
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水野家宗家は徳川家康の母・於大の方(伝通院)の実家にあたり、江戸時代には徳川氏の外戚家として遇されました。 ”名門水野家の復活 御曹司と婿養子が紡いだ100年”(2018年3月 新潮社刊 福留 真紀著)を読みました。 江戸時代に忠重流、忠分流、忠守流、諸流があった水野家で、忠重-忠清流の松本藩主時代に第6代隼人正忠恒が江戸城中で刃傷事件を起こしました。 そのため改易となるも復活を果たした、忠友=ただともと忠成=ただあきらの奮闘を紹介しています。 江戸時代前の宗家は、緒川城主・刈谷城主でした。 織田信長の時代に武田勝頼への内通を疑われ、水野信元と跡継ぎの信政が殺害され断絶となりましたが、その後、難を逃れた一族は信長に再興を許されました。 江戸時代には忠重流、忠分流、忠守流、諸流に分岐し、忠重流は宗家で結城藩主家でしたが、沼津藩主家・鶴牧藩主家・諸分家に分かれました。 忠分流は安中藩主家・紀伊新宮藩主家・諸分家となり、忠守流は山形藩主家・諸分家となりました。 忠重-勝成流は第5代・勝岑が2歳で夭折すると跡目を失い断絶となったことがありましたが、名門の家柄が惜しまれ勝成の孫である勝長が跡目を継ぎ家名の存続が許されました。 忠重-忠胤流は遠江浜松藩主・松平忠頼を招いた茶会において忠胤家臣と忠頼家臣が口論を起こし、仲裁に入った忠頼を忠胤家臣が殺害してしまい、忠胤は切腹を命じられ廃藩となりました。 忠重-忠清流は第6代隼人正忠恒が江戸城中で刃傷事件を起こしたため改易となりましたが、叔父出羽守忠穀に家名存続のみが許され、その子出羽守忠友が家治の側近として活躍して大名に復帰しました。 そして、後に、駿河沼津城を与えられ城持ち大名となりました。 大名復帰後、当主が側用人や老中といった幕府要職に就任する機会が多くなりました。 忠守-忠元流は代々監物を名乗り帝鑑間に詰め、唐津藩時代を除いて幕府の要職に付くことが多かったです。 忠分-分長流は第3代信濃守元知が乱心して妻女である出羽山形藩水野氏水野監物忠善の娘を殺害したため改易となり、その後子孫は旗本として存続しました。 忠分-重央流は重央のとき徳川頼宣の附家老となり、その後子孫は江戸詰め家老の役にあり、基本的に江戸で政務を取りました。 名門水野家の忠重-忠清流は、当主の乱心による江戸城松之廊下での刃傷事件で、譜代大名から旗本へ転落しましたが、本書は忠友と忠成の二代にわたる水野家復活の道程を史料を基に紹介しています。 福留真紀さんは1973年東京都生まれ、東京女子大学文理学部を卒業し、お茶の水女子大学大学院博士後期課程修了し、2003年に博士(お茶の水女子大学・人文科学)となりました。 東京大学史料編纂所特任研究員、長崎大学准教授などを経て、現在、東京工業大学准教授を務めています。 水野氏は清和源氏を称する日本の氏族で、戦国時代には緒川城、刈谷城を中心に、尾張国南部の知多半島と三河国西部に領地を広げ、織田氏や徳川氏と同盟を結び、最盛期には24万石と称される勢力となりました。 宗家のほか大高水野氏、常滑水野氏などの諸氏がありました。 水野家は近世大名家を輩出した一族の一つで、江戸時代中期から後期には幕府の老中に人物を輩出し続けました。 享保の改革や天保の改革に関与するなど、幕政を主導する立場に立つこともありました。 幕末期においては、下総結城藩、駿河沼津藩、上総鶴牧藩、出羽山形藩の各藩の藩主が水野氏でした。 その他、改易となった上野安中藩の藩主や、紀州藩の附家老であった紀伊新宮城主もこの一族でした。 そして、維新後は、大名の水野家はすべて子爵に列しました。 徳川幕府初代将軍家康の生母の於大の方は、刈谷城主水野忠政の娘に生まれ、岡崎城主松平広忠に嫁ぎ、1542年12月26日に嫡男竹千代、のちの家康を産みましだ。 竹千代誕生の翌年、於大の方の父忠政が死去し、兄信元が水野家当主となると、水野家は今川家と手を切り、織田家との同盟関係を強めたため、今川家の傘下にあった松平家は於大の方を離縁しました。 その後於大の方は、阿久比城主久松俊勝と再婚しました。 於大の方が竹千代と再会するのは、1560年に桶狭間の戦いの先鋒として出陣し、久松の館に立ち寄った際のことでした。 1587年に二人目の夫久松俊勝が亡くなると、翌年、於大の方は髪をおろし伝通院と号しました。 その後、母華陽院と自分の位牌と肖像画を水野家の菩提寺に奉納しました。 忠友は於大の方の弟忠重の四男忠清の家系で、忠清を初代とすると8代目の当主にあたります。 忠清は家康・秀忠・家光に仕え、信濃国松本藩7万石の藩主となりました。 2代目忠職は大坂城代、3代目忠直は帝鑑之間席、4代目忠周は奥詰、小姓を務め帝鑑之間席と、代々、古来御譜代としてそれなりの地位を得ていました。 ところが、名君と期待された5代目忠幹が、25歳という若さで死去しました。 その弟である6代目忠恒が、1725年にある事件を起こした科により、水野家は松本藩七万石を改易、信濃国佐久郡7000石の旗本となりました。 家康の生母の実家のまさかの転落でした。 復活の期待を背負った7代目忠穀は、3代目忠直の9男で書院番頭、大番頭を務めましたが、36歳で病死してしまいました。 御家再興の望みを託されたのは、忠穀の嫡男で8目代の忠友でした。 本書は、水野家再興の宿命を負い、老中まで上り詰めた御曹司忠友と、その婿養子で9代目当主となり、やはり老中となる忠成の奮闘の道をたどっています。 忠友は1731年に大身旗本水野忠穀の長男として生まれ、父死去に伴い12歳で家督を相続し、1739年徳川家治小姓、1758年小姓組番頭格、1760年御側衆を経て、若年寄となりました。 1765年に三河で6000石の加増を受け都合1万3000石になり、三河大浜に城地を与えられ再び大名に復活しました。 さらに駿河沼津2万石に移り、2度の加増を経て最終的に3万石となりました。 幕府では一貫して田沼意次の重商主義政策を支え、若年寄、側用人、勝手掛老中格を経て、正式な老中になりました。 1786年に意次失脚と同時に忠徳と名乗らせ養嗣子としていた意次の息子を廃嫡とし、代わりに分家旗本の水野忠成を養嗣子としました。 遅きに失した感は否めず、天明の打ち壊しを期に失脚し、松平定信の指令で免職の憂き目にあいました。 10年後に再び老中(西丸付)に返り咲き、在職中の1802年に死去し跡を養嗣子の忠成が継ぎましだ。 忠成は1762年に旗本岡野知暁の次男として生まれ、1778年に2000石取りの分家旗本水野忠隣の末期養子となり、忠隣の養女を娶って家督を相続しました。 10代将軍徳川家治に仕え、小納戸役・小姓を歴任、1785年に従五位下大和守に任官しました。 翌年、沼津藩主水野忠友の養子となり、その娘八重と再婚しました。 1802年に忠友の死により沼津藩主を継ぎ、奏者番に任命されました。 翌年には寺社奉行を兼務、以後、若年寄・側用人を歴任し、11代将軍徳川家斉の側近として擡頭しました。 1817年に松平信明の死を受けて、老中首座に就任しました。 義父・忠友は松平定信と対立した田沼意次派の人間であり、忠成もその人脈に連なりました。 世の風潮が、吉宗政権期では質素、家重政権期では華美な雰囲気となり、田沼意次の時代である家治政権期ではそれが極まりました。 家斉政権期に松平定信が将軍補佐を務めるようになると、再び質朴に戻りました。 忠成は家斉から政治を委任されて幕政の責任者となり、文政小判の改鋳によって通貨発行益をもたらしデフレ不況から好景気へと引き上げました。 当時、庶民には、「水の出て 元の田沼となりにけり」と皮肉られました。 1834年に73歳で死去し、三男の忠義が跡を継ぎました。 本書では、水野家再興の宿命を負い、奮闘し続けた御曹司忠友と、その婿養子忠成の真の姿に迫っていこうとしています。 資料として本人の手による私的な書状や日記などが見出されていません。 しかし、公務日記や公的記録などの史料に加え、家臣たち以外の周囲の人々、後世の人々がどのように恨えていったのかがわかる史料を含め、多くの人々の視線を積み重ねて多角的に分析しています。第1章 「松之廊下刃傷事件」ふたたび/第2章 名門水野家、復活す/第3章 水野忠友、その出世と苦悩/第4章 悪徳政治家としての忠成/第5章 有能な官僚としての忠成車用 3連 USBポート シガーソケット 分配器 増設 ソケット USBポート スマホ タブレット 充電 車載充電器 カーチャージャー 車載ソケット シガーライター分配器 増設 急速充電ドライブレコーダー本体と同時注文限定 お一人様1個限定! 170°超広角 リアカメラ 1080P SONYセンサー 後カメラ バックカメラ 高画質録画 6m接続ケーブル ノイズ対策済 1年保証 送料無料
2020.10.10
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インターネットの普及によって、さまざまな情報をパソコンやスマートフォンで管理する人が増えています。 ”スマホの中身も「遺品」です デジタル相続入門”(2020年1月 中央公論新社刊 古田 雄介著)を読みました。 他人では詳細が把握しづらく金銭的な価値を持つものが増えたため相続の場で問題化し始めている、故人のスマホやパソコンそしてインターネット上に遺されるデジタル遺品について問題点を整理しています。 パソコン、スマートフォン、クラウドなどには個人情報が記録されていますが、情報の持ち主が死亡し遺品となったものをデジタル遺品といいます。 持ち主が亡くなり遺品となったデジタル機器に保存された、データ、インターネット上の登録情報などの種類は多岐にわたります。 SNSのアカウント、知人や友人の連絡先、日記や予定表、ネットショッピングの利用履歴、クレジットカード情報、ネットバンクの情報、IDやパスワードなどです。 故人のデジタル機器を引き継いだ遺族が、データを消去しないまま機器類を売却したり、リサイクルショップに引き取ってもらったりすると、思いもよらぬトラブルに遭遇するリスクがあります。 古田雄介さんは1977年愛知県生まれ、2000年に名古屋工業大学工学部社会開発工学科を卒業し、大豊建設株式会社に入社しました。 2001年に同社を退職し、葬儀社の株式会社聖禮社に入社しました。 2002年に同社を退職し、編集プロダクションの株式会社アバンギャルドに入社しました。 2007年に同社を退職し、フリーランス記者として活動を始めました。 2016年に記者活動と並行して一般社団法人デジタル遺品研究会ルクシーを共同設立し、代表理事に就任しました。 2019年にデジタル遺品研究会ルクシーを解散し、現在に至ります。 主なデジタル機器は、パソコン、スマートフォン、タブレット、モバイルルーター、USB、NAS、SDカードなどです。 モバイルルーターにSIMカードが挿入されている場合は、SIMカードの解約と返却が必要になります。 デジタルカメラやレコーダーなどは情報端末以外ですので、デジタル遺品の範疇外とされることもありますが、重要な情報などが記録されている場合、知らずに第三者に売り払い、情報が漏洩してしまう危険性もあります。 デジタルの中に保存されている情報は、大きく分けるとテキスト、写真、アプリですが、さらに細かく見るといろいろなものがあります。 クレジットカート情報、ネットバンキング、SNS、ブログ、知人が写っている写真、メール、ブラウザなどです。 いずれにしても、デジタルの中に残っている個人情報は、流出すると悪用される危険がありますので、取り扱いに注意する必要があります。 遺族は故人のデジタル遺品の中身を確認せずに、安易にオークションやリサイクルショップに売り払ってはなりません。 著者が相談を受けた60代の女性は、長年連れ添った夫が亡くなりスマホのパスワードが分からずに困っているとのことでした。 故人は1年前にガラケーからスマホに乗り換えたのをきっかけに、旅行先にもデジタルカメラを持って行かなくなり、もっぱらスマホで家族や仲間との写真を撮るようになったそうです。 不慮の事故死だったため、亡くなる直前までの元気な様子の写真がスマホに残されているはずですが、端末にロックがかかっているため中身が見られません。 指紋認証はもう使えませんが、パスワード入力でロックを解除できることが分かっていましたので、夫の生年月日や孫の誕生日など思いつく限りのパスワードを人力しましたが、一向にロックが解除できませんでした。 スマホを契約している会社に相談にいっても、中身についてはノータッチで、どうにも打つ手がなくなりました。 機種によっては、連続でパスコード入力をミスしたら工場出荷時の状態にする設定が選べる端末もあります。 残念ながらこの状態になったら、スマホを元どおりに復旧することは不可能です。 遺品は持ち主が亡くなったときに生まれ、家の中を見渡せば、仕事道具や趣味のコレクション、普段使っているマグカップ、書斎の椅子、玄関を開けたら愛車に自宅などがあふれています。 今では、遺品は目に見えているものだけではなくなっています。 たとえば、スマホやパソコンの中に保存されている写真やメール、各種のデータ、インターネット上にあるフェイスブックやツイッターといった自分のSNSページなどもれっきとした遺品候補です。 いまや老若男女を問わず、デジタルの機器やサービスを使わない生活はほとんど考えられなくなりました。 デジタルが私たちの生活に本格的に浸透し始めたのは1990年代であり、1995年にはWindows95が発売され、インターネットが流行語大賞にノミネートされました。 民生機としてのデジタルカメラで初のヒット作となった、カシオ計算機のQV-10が売り出されたのもこの年です。 1999年にはNTTドコモが携帯電話向けにiモードをスタートさせ、2000年には一般家庭でのパソコン普及率が過半数に達しました。 ADSL等の常時接続環境も広まり、数年後にはインターネット普及率も5割を突破しました。 2008年にはアップルのiphone3Gの国内販売がスタートし、スマートフォンが流行する嗜矢となりました。 社会の枠組みとしても、デジタルやインターネットを活用するのが当たり前となり、2009年から株式等振替制度により上場会社の株券がすべてペーパーレス化しました。 2010年には銀行以外の企業でも送金業務を認める資金決済法が施行され、電子決済サービスが生まれる基礎となりました。 現在、国を挙げて推し進めているキャッシュレス化も、デジタル環境なくしては成り立ちません。 それだけ重要な存在となったデジタルの資産ですが、遺品となったあとの流れがピンと来ない人のほうが多いのではないでしょうか。 いざというときに頼りにできる道筋が、デジタル遺品に関してはほとんど存在していません。 デジタルは市井の道具としてまだ30年程度しか経っておらず、人類が遺品として対峙した歴史はさらに浅いのです。 それだけに整備が不十分で粗が目立つところも多々あり、想定していないような事態が発生して、提供する側が右往左往することも珍しくありません。 所有者の死後、遺された側ではどうすることもできないようなことも普通にあるようです。 しかし、備えることはできますので元気なときからとれる対策はたくさんあり、その経験や知識は遺される側に立ったときにも大いに役立つでしょう。 所有者が亡くなったあとに発生するデジタル遺品特有の問題は、大きく二つに分けられます。 一つはデジタルだから起きる問題であり、もう一つは業界の未成熟さが招く問題です。 この二つを区別して捉えることが、デジタル遺品を過度に怖がらない第一歩だと確信しているといいます。 2005年にティム・オライリーが提唱したWeb2.0にちなんで、遺品2.0を提唱しています。 デジタル遺品といっても遺品の一ジャンルにすぎませんが、表面的なところでこれまでの遺品と随分違うところがあります。 多くの人が避けては通れないほど生活に浸透していますので、従来の遺品観にデジタル要素も混ぜ合わせ、少し本腰を入れてバージョンアップして向き合わないと厄介な存在になるのではないでしょうか。 おりしも、相続法が約40年ぶりに大幅改正され、この激変のなかで相続対象としてのデジタル遺品への向き合い方も深まっていくでしょう。 以前からある遺品もデジタルの遺品も、フラットに扱える遺品2.0の時代を迎えるのに絶好の機会ではないかと思うとのことです。 逆にこの機を逃すと、相続の枠組みが現実のはるか後手に回ってしまい、余計な手間やストレスに晒される可能性が高まるかもしれません。 デジタルの遺品に落ち着いて向き合い相続や整理を滞りなく済ませ、心ゆくまで故人を偲ぶのことが普通にできる手助けとなれば幸いです。 紙のぬくもり、手書きのニュアンス、デジタルの無機質感、インターネットの仮想感、これらは本質の表面に色を加える程度のものという気がします。 デジタルの持ち物が遺品になっても、デジタルの包みさえ剥がしてしまえば、あとは従来の遺品と同じように扱えます。 ただ、その包みがちょっと見慣れないものであるうえ、剥がすのを手伝ってくれる人がまわりにおらず、下手をしたら包んだ側も剥がす方法を考えていなかったりします。 ところが、例外はどんなジャンルにもあるようで、従来の遺品と置き換えにくいものもあります。 それが故人が残したSNSやブログ、ホームページなどであり、従来の遺品と比較するととても特殊な存在ではないでしょうか。 誰かの思惑があって誕生したわけではなく、サービスが提供され続けるなかでその辺縁に自然発生した、奇跡の形見といえますが、それはまるで海の漂流物のようです。 デジタル遺品回りの環境は、これから数年でどんどん整っていくはずですが、先行するのは財産関連であり、思い出関連は遺族からの働きかけがなければなかなか先に進まないでしょう。 今の時代だからこそ残りうる故人の縁というものがありますが、それに気づくにはデジタルの遺品と等身大で向き合わなければなりません。 正体不明なベールを取り除けば、デジタルという表層も剥がしやすくなりますし、デジタルならではの故人の縁と出合う可能性は高くなるでしょう。 それはきっと良いことだと思いますし、今後も多くの人との力を合わせて、デジタル遺品をフラットな存在にしていければと考えているといいます。第1章 「遺品2.0」の時代 なぜデジタル遺品は厄介なのか/第2章 インターネット資産ー頼るべきは「法」よりも「個」/第3章 遺族としてのデジタル遺品整理術/第4章 遺す立場としての今日から始めるデジタル終活術/第5章 「5年先」「10年先」を見据えるデジタル遺品のこれからカリフォルニアスタイルの宿 West stays春夏秋雪 京の宿 ギオン福住
2020.10.03
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