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2011年の貿易統計で、日本は輸入額が輸出額を上回り、貿易収支は2.5兆円の赤字となりました。 年間の貿易赤字は、第2次石油ショックの余波を受けた1980年以来、31年ぶりです。 これまで、貿易黒字といえば日本の代名詞でした。 日本の輸出大国という看板が揺らぎ、韓国では、日本の時代は終わったという論調が見られます。 今回の貿易赤字は、2011年に起きた東日本大震災に伴う自動車などの減産と、歴史的な円高によって輸出が減少し、一方で、原子力発電所の事故を受けて国内の原発が相次いで停止し、火力発電の燃料となる液化天然ガスなどの輸入が急増したことが響いたようです。 今回は特殊要因によるところが大きいですが、海外経済の悪化による輸出低迷が続き、貿易赤字が長引く懸念は拭えない状況です。 今のところは、貿易赤字となっても10兆円を超える海外からの利子・配当収入で、経常収支の黒字は確保しています。 しかし、これからの人口の高齢化を考えると、所得収支の黒字が貿易赤字を帳消しにするほど伸び続けるか定かでありません。 貿易赤字が長期化し経常赤字に転落すると、財政危機が深刻化する恐れがあるようです。 今のところは、国内の潤沢な資金が、国債の9割以上を支えています。 しかし、すでに主要国一の借金を抱えている上に経常赤字となると、近い将来はリスクに敏感な海外マネーに頼らざるをえないことになります。 そうすると、ふとしたことで国債が売られ、長期金利が急騰する可能性が高まります。 内需の縮小が見込まれ中で、今後は輸出競争力の回復と外需獲得に重点を置いた戦略がいっそう重みを増して来そうです。
2012.01.31
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ブータンはヒマラヤ東麓の九州ほどの大きさの小国で、人口は70万余です。 ワンチュク国王は、1980年生まれ、第5代ブータン国王で、オックスフォード大学モードリン・カレッジ政治学修士、2011年現在、世界最年少の元首です。 2011年5月20日に平民ながら遠縁の女性ジェツン・ペマと10月13日にプナカで結婚式を挙げ、最初の外遊で王妃とともに日本を訪問されました。 テレビでもよく紹介されたので、記憶に新しいです。 ブータンは、インドと中国にはさまれた世界唯一チベット仏教ドゥク・カギュ派を国教とする国家です。 民族は、チベット系8割、ネパール系2割です。 急速な近代化のなかで、近代化の速度をコントロールしつつ、内陸の農村部に強い影響を受けた政治的立場や、全体主義的な伝統を維持しようとする政治に注目が集まっています。 特に、前国王が提唱した国民総生産にかわる国民総幸福量 =GNHは最近富に有名になりました。 ”仏教への旅 ブータン編”(2007年6月 講談社刊 五木 寛之著)を読みました。 NHKの番組の取材に伴い訪れたチベット伝来の密教の国、ブータンの仏教の幸福と日々の祈りを伝えています。 五木寛之さんは、1932年に福岡県八女市に生まれ、生後まもなく朝鮮半島に渡り、両親は若くして亡くなり、1947年、第二次世界大戦・終戦を受け、平壌から福岡県に引き揚げ、1952年に早稲田大学第一文学部入学するも、1957年に学費滞納で抹籍されました。 1966年に第6回小説現代新人賞、1967年に第56回直木賞、1976年に第10回吉川英治文学賞、2002年菊池寛賞、2002年にブック・オブ・ザ・イヤースピリチュアル部門賞、2004年仏教伝道文化賞、2009年にNHK放送文化賞を受賞しまし「た。 新しい世界仏教の波を感じつつ、インドからはしまったNHKの番組の取材の旅のなかで、もっとも不思議な思いを抱いたのがブータンでの日々であり、ごく短い潜在でしたが、帰国するときに、立ち去りがたい感じを強く受けたといいます。 ブータンの地を踏んで最初に感じたのは、この風景はいちど前に見たことがあるというものでした。 しかし、ブータンは日本に似ているという印象は、やがて少しずつ変化していき、同じ仏教の姿がこれほどちがうものかと衝撃を受け、そのうち、日本とは似ても似つかぬ国だと、少しずつ感じはじめたそうです。 ブータンで出会ったのは、目に見えないけれども、はっきりと一つの世界が存在する実感でした。 ブータンには、テレビもあればインターネットカフェもありますが、いわゆる近代化とは一線を画した独自の文化が保たれています。 心にしみわたっていったのは、人間の幸福といものに関する物差しのちがいだったそうです。 至る所に経文を書いた幟がはためき、ブータンの人々はマニ車を回して祈り、皆のより良い生まれ変わりを願っています。 決して商売繁盛・家内安全などの現世利益ではありません。 今日を生きるということが明日を生きることであると、はっきり信じています。 全てがつながり、前世も来世も連続性の中にありますので、死後49日で次の生を受けるから墓は必要ないといいます。 これに対して、日本人はそれぞれがバラバラの見かたをして生きています。 服装や風景などの共通点をはるかに超えて大きなちがいを示していいて、超えることのできないへだたりがあるように思われてならないといいます。 第一章 風の国へ第二章 チベット密教の化身第三章 ブータン仏教の幸福第四章 日々の祈り
2012.01.25
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市場経済はいかにして驚異的な経済成長を可能にするのでしょうか。 社会が豊かになっても貧富の格差が拡大するのはなぜでしょうか。 資本主義が不可避的にバブルや不況を繰り返す原因はどこにあるのでしょうか。 などなど。 古典は、それぞれの時代の経済問題に真っ直ぐ対峙することで生まれたものですが、直面する現下の危機を考えるうえで参考になる知見に満ちています。 ”経済学の名著30 ”(2009年10月 筑摩書房刊 松原 隆一郎著)を読みました。 スミスから、マルクス、ケインズ、センまで、厳選30冊の核心を解説し経済学が本質的にどのようなものなのかを教えてくれるガイドブックです。 松原隆一郎さんは、1956年神戸市生まれ、東京大学工学部卒業、同大学大学院経済学研究科博士課程修了、東京大学大学院総合文化研究科教授、専攻は社会経済学、相関社会科学です。 古典的著作のうち、現在の主流派経済学に受け継がれた部分のみを切り離して紹介するのではなく、その経済学者が生きていた具体的な時代状況の中で何を意図して書かれた著作なのかを辿りながら思考の本質を探っています。 経済学の古典全体を休系づけるような枠組みを示すことはできませんが、ブローデルが書いた市場経済と資本主義という対比は便利です。 経済とは貨幣と商品の交換の連鎖ですが、その連鎖を商品が商品と交換されるように見るのが市場経済であり、貨幣がより多くの貨幣を心たらすように見るのが資本生義です。 市場経済という見方においては、商品やそれとかかかる技術や欲望が主役であって貨幣はあまり強調されず、資本生義という見方では貨幣や資産が中心に据えられて商品は背後に退いていきます。 市場経済はヒューム、スミス、リカードから新占典派々ハイエクによって論じられました。 技術や欲望の革新を扱ったシュンペーターやヴェブレン、ボードリヤール、個人ではなく集団に注目したリストやマーシャルもこの系列に置くことができます。 このグループは、多くの場合、金融市場を実物経済と両立しうるものとみなしてきました。 資本主義は、スチュアートからマルクス、ケインズのように、貨幣そのものを蓄積しようとする人間の性向を重視した人々によって論じられました。 貨幣を使うに際しての個人の自己決定が不可能になってしまうような不確実性や不安に注目したという点では、ナイトやポラニーもこの一団に含められるかもしれません。 この一団は、資本主義と市場社会の間に矛盾が横たわっており、資本主義を、ときに市場経済に襲いかかるものとしてとらえてきました。 実物経済をも侵す今次の金融危機は、20世紀前半の大恐慌に続く資本主義の市場経済に対する逆襲です。 混沌として見える経済の現在を少しでもよく理解し、闇としか思えぬ未来に一歩踏み出すために、古典は考えるヒントを与えてくれるに違いありません。1 ロック「統治論」、ヒューム「経済論集」、スミス「道徳感情論」、スチュアート「経済の原理」、スミス「国富論」、リカード「経済学および課税の原理」、リスト「経済学の国民的体系」、JSミル「経済学原理」2 マルクス「資本論」、ワルラス「純粋経済学要論」、ヴェブレン「有閑階級の理論」、ゾンバルト「ユダヤ人と経済生活」、シュンペーター「経済発展の理論」、マーシャル「産業と商業」、ナイト「リスク・不確実性および利潤」、メンガー「一般理論経済学」、ロビンズ「経済学の本質と意義」3 バーリ=ミーンズ「近代株式会社と私有財産」、ケインズ「雇用・利子および貨幣の一般理論」、ポラニー「大転換」、サムエルソン「経済分析の基礎」、ケインズ「若き日の信条」、ハイエク「科学による反革命」、ガルブレイズ「ゆたかな社会」、ハイエク「自由の条件」、フリードマン「資本主義と自由」、ドラッカー「断絶の時代」、ボードリヤール「消費社会の神話と構造」、ロールズ「正義論」、セン「不平等の再検討」
2012.01.17
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僧良寛は、僧侶でありながら寺に住まず、経をよまず、弟子をとらず、野山で庶民の子らと手毬つきやかくれんぼをして、妻子もなく孤独な詩作三昧の暮らしぶりであったといいます。 ”良寛を歩く ”(1990年12月 集英社刊 水上 勉著)を読みました。 子どもらと戯れ、詩作三昧に暮らし、一所不在行雲流水を生きた良寛の足跡を歩く文学紀行です。 水上 勉さんは、1919年に福井県大飯郡本郷村で生まれ、旧制花園中学校を卒業し、1937年に立命館大学文学部国文科を中退しました。 9歳の時に京都の臨済宗寺院相国寺塔頭、瑞春院に小僧として修行に出され厳しさのため出奔しましたが、その後、連れ戻されて等持院に移り、10代で禅寺を出たのち、様々な職業を遍歴しながら小説を書いたり会社経営をしたりしました。 会社の倒産、数回にわたる結婚と離婚など、家庭的にも恵まれないことが多かったようです。 2004年に肺炎の為、長野県東御市で亡くなりました。 本書は、禅僧として雲水を生きた良寛ゆかりの地、木崎、分水町、出雲崎、備中玉島、京都、寺泊、郷本、野積、和島村に良寛和尚の足跡をたずねて歩いたときの記録ですが、最初は、群馬県新田町の木崎宿から始まっています。 新田町は、新田義貞が鎌倉幕府倒幕のために挙兵した生品神社のある町で、木崎は中山道の宿場町です。 そこの宿屋に飯盛女として売られてきて客をとらされ短く苦しい生涯をおくった人の中に、良寛に近しい地蔵堂町出身の娘たちがかなりいたことが、大通寺という寺に残された墓石から確認されるということです。 その没年から数えると、娘たちは幼いときに良寛様とまりつきをして遊んだ童女たちであった可能性があると考えられるそうです。 娘たちの平均死亡年齢は数え年20歳そこそこで、一番若い娘は12歳でした。 幼いころ、越後で良寛と手毬唄を歌い、遊んだ娘もいたかもしれません。 遥かな故郷を思い、良寛と遊んだ日々を思い、涙してこの地で果てていったのはないでしょうか。 そこで、娘たちの里である地蔵堂町、いまの分水町を訪ねます。 そして、良寛のひととなりを知ろうと、生まれてから22歳まで育った出雲崎を訪ね、次に、得度剃髪して良寛と称し修行した備中玉島円通寺を訪ね、次に、諸国行脚ののち、父以南が桂川で入水し77日法要を行った京都を訪ね、次に、38歳で越後に戻り糸魚川の円明院で病臥したあと、39歳で仮住まいした郷本を訪ね、次に、40歳から住んだ国上山五合庵を訪ね、次に、59歳から住んだ杉木立の乙子神社庵を訪ね、46歳のとき一時住んだ詩人たちの里、野積村の西生寺を訪ね、次に、墨書で乞食した分水町に戻り、次に、遷化の地である和島村島崎の木村元右衛門家を訪ね、最後に、74歳で亡くなり埋葬された隆泉寺木村家の墓を訪ねています。 うらを見せおもてをみせてちるもみぢ
2012.01.11
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新年おめでとうございます。 今年もよろしくお願いいたします。 昨年は、3月の東日本大震災と大津波、9月の台風12号の記録的豪雨、そして、政治では野田政権が始動し、経済では記録的な円高になるなど大きな出来事がありました。 東日本大震災からもう少しで10か月ですが、まだ復興にはほど遠い状況のようです。 国際的にも、ギリシャの財政破綻、リビアのカダフィ失脚、金成日の死去など、例年にも増して激動の年でした。 日本については、スイスに本部を置く世界経済フォーラムが毎年行っている、世界各国の国際競争力に関する調査で、日本は高い技術力が評価される一方、巨額の国の借金が最下位と評価され総合評価で前年から順位を3つ下げ9位となりました。 財政の関係では、社会保障と税の一体改革が検討されています。 社会保障の分野では、近く年金の減額が実施されそうです。 来年度は今年の物価下落分0.3%を4月分から、10月分から、本来よりも2.5%高くなっている特例分の是正のためさらに0.9%分を減額するとのことです。 さらに2013、14年度も0.8%ずつ引き下げるそうです。 また別に、2007年から発動の予定だったマクロ経済スライドも同様に未実施だそうです。 この分が本来よりも年0.9%高くなっているとのことです。 社会保障と税の一体改革案では、現在65歳の年金支給開始年齢を68~70歳へ引き上げることが盛り込まれていました。 厚生労働省の労働政策審議会の部会は、企業に対し希望者全員を原則65歳まで再雇用するよう義務付ける報告書をまとめたそうです。 こうしないと、無収入の不安定な期間が生じてしまい、いろいろな問題の発生する懸念があるためのようです。 問題は、やはり財政赤字ではないでしょうか。 民主党は、税制調査会、社会保障と税の一体改革調査会の合同総会で、消費増税の時期を2014年4月に8%、15年10月に10%とすることで了承しました。 そうなると、増税によって景気の先行きが懸念されます。 今年は古来縁起の良い動物が象徴する辰年ですので、景気の先行きを明るくしてもらいたいと思います。 明けない夜はないので、希望を持ち続けましょう。
2012.01.03
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