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”すばる望遠鏡の宇宙”(2007年7月 岩波書店刊 海部宣男著/宮下暁彦写真)を読みました。 1999年に400億円掛けて設置されたすばる望遠鏡について、当初の建設から実際の運用までの経過と結果が記述されています。 すばる望遠鏡によって明らかになってきた銀河の果てと太陽系外惑星の姿を、多数のカラー写真とともに描き出しています。 海部宣男さんは、1943年生まれ、1966年東京大学教養学部基礎科学科卒業、現在、放送大学教授、国立天文台名誉教授を務めています。 宮下曉彦さんは、1945年長野県生まれ、1975年東京理科大学卒業、現在、国立天文台主任研究技師を務めています。 国立天文台は日本全国の天文学者の研究を支援する大学共同利用機関で、第一級の研究、観測施設を建設、運用し、国際的な研究協力の拠点としても活動しています。 すばる望遠鏡は国立天文台が運営する10施設の一つで、光学赤外線天文学、観測システム研究系、岡山天体物理観測所、天文学データ解析計算センター、天文機器開発実験センター、天文情報公開センターなどと密接な関係があります。 広大な宇宙では、無数の恒星が生まれ、飛散し、渦巻く銀河は群れて衝突し、全体として急激な膨張を続け、果てしなく変化し続けています。 人類はいつの時代にも見えるかぎりの宇宙を観ようと、その時代の驚異ともなった新しい装置を作り出してきました。 現在の天文学は130 億光年の彼方を観測し、膨張開始から間もない宇宙のあけぼのの時代をとらえようとしています。 1980年代に能動工学によって巨大望遠鏡の時代が開かれ、すばる望遠鏡はこれまで分からなかった銀河の果てや太陽系外惑星の姿を明らかにしてきました。 すばる望遠鏡は、標高4,200mのハワイ島マウナケア山頂にあります。 主焦点、カセグレン焦点、2つのナスミス焦点という、4つの焦点を持っていて、高さ22.2m、最大幅 27.2m、重さ全回転部分555t、最大駆動速度0.5 度角/秒です。 主反射鏡は一枚鏡で、有効口径8.2m、厚さ20cm、重さ22.8tで、材質はULEガラス、研磨精度は平均誤差0.012mm、焦点距離は15mです。 山麓施設には、実験室、機械工作室、図書室、計算機室などがあり、120人程度のスタッフが望遠鏡の運用から天文学の研究や次世代の観測装置開発など広範囲の業務に携わっています。 本書では、機器製作、現地建設、運用後の天体などについて、多数のカラー写真を用いて詳しく説明されています。 写真はびっくりするほど綺麗なものが多く、宇宙の神秘を味わうことができます。第1章 未知への航海―宇宙へ船出したすばる望遠鏡― 第2章 宇宙に咲く花―すばるが観た宇宙の美しさ、不思議さ― 第3章 極限に挑む―技術の限界を追ったすばる望遠鏡― 第4章 マウナケアは星の天国である―ハワイ島の自然と人々と宇宙― 第5章 ビッグ・バンに迫る―この世界はどのようにして始まったか― 第6章 ひろがる太陽系―身近な宇宙にも新発見が満ちている― 第7章 太陽系外の惑星と生命―科学の夢はどこまで―
2014.01.27
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”ひとり歩き”(2013年3月 幻戯書房刊 マイク・モラスキー著)を読みました。 長年、日本で暮らす大学教授のガイジンの、アメリカ、中国、韓国、台湾、日本についての徒然なるエッセイ集です。 それぞれの国の人や町、脇道、酒場、電車、飛行機、バス、タクシーなど、身近すぎて気づかなかったきらめく光景に出会うことができます。 マイク・モラスキーさんは、1956年アメリカ・セントルイス生まれ、シカゴ大学大学院東アジア言語文明研究科博士課程修了、学術博士で、1970年代から十数年日本に滞在し、日本文化を研究し、ミネソタ大学、一橋大学教授を歴任し、2013年秋学期より早稲田大学国際学術院教授を務めています。 専攻は戦後日本文化史で、特に日本・沖縄戦後文学およびジャズ音楽の受容史を中心に研究し、2006年にサントリー学芸賞を受賞しました。 ほかに、エッセイスト、ジャズ・ピアニストという顔も持っています。 このエッセイ集は、自身の日常体験やひとり旅を中心とするエッセイ集で、数十年にわたる日米両国での生活や、韓国、台湾、中国でのひとり旅の体験がもとになっています。 どこかの町をぷらぷら、ひとりで歩きまわりながら、目にした光景や耳にした音、あるいは旅先で巻き込まれた事件などが中心になっています。 昔から間=ま、という微妙な位置が居心地よく感じられ、ひとり歩きやひとり旅も好きだったので、周囲の人びとや光景を注意深く観察することが知らず知らずの内に身についたそうです。 ひとり歩きは寂しいときもありますが、それよりも刺激に富んだ楽しい時間のほうがはるかに多いとのことです。 ひとりだからこそ周囲の人と会話を交わす機会が増え、いろいろな出会いに恵まれることもあります。 気ままに道を選び、そのときの気分や体調に合わせてコースやペースを調整し、予定変更はいつでも自由で、疲れたら休めばいいのです。 本書は、アメリカ、東アジア、日本の3部構成で、第1部はセントルイスの少年時代の思い出から半年ほど前までの長い年月にわたっています。 第1章は中西部、第2章は北東部、カリフォルニア州、南部が舞台となっています。 第2部は東アジアの3か国を旅した体験です。 第3章は1981年の韓国、第4章の台北、第5章の上海は2011年の話で、上海は東日本大震災の前夜でした。 第3部は日本で、第6章は全国放浪、第7章は東京周辺がもとになっています。 長年にわたり、アメリカと日本で暮らし、間=ま、をさすらってきたひとりの日常体験、旅先での出来事や雑考がまとめられています。1 北米 第1章 山も海もない土地 第2章 東海岸、西海岸、南部地方2 東アジア 第3章 戒厳令下の韓国 第4章 台北狂騒日記 第5章 上海ぷらぷら日記3 日本列島放浪記 第6章 島流し 第7章 東京周辺
2014.01.21
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”ドラッカー 20世紀を生きて”(2005年8月 日本経済新聞社刊 ピーター・ドラッカー著/牧野 洋訳)を読みました。 20世紀を代表する知の巨人ドラッカー初の自伝で、日本経済新聞の私の履歴書をベースにまとめたものです。 多くの著名人と身近に接した少年時代、ナチス政権下の記者稼業、人生を決定づけたGMとの運命的な出合いなど、波乱に満ちた人生を振り返っています。 ピーター・ドラッカーさんは、1909年にウィーンで生まれ、1931年にフランクフルト大学にて法学博士号を取得、その後、ナチスドイツに追われ、1939年に米国に移住し、GMのコンサルタントを引き受けるなど、現代経営学あるいはマネジメントの発明者と評価されています。 1949年から22年間ニューヨーク大学教授、1971年から2005年に死去するまでクレアモント大学院ドラッカースクール教授を務めました。 牧野洋さんは、1960年に東京で生まれ、1983年に慶応義塾大学経済学部を卒業し、日本経済新聞社に入社し、英文日経記者を務め、1988年にコロンビア大学大学院を卒業し、証券部記者などを経て、チューリヒ、ニューヨークに駐在し、1999年に帰国し、日経ビジネス編集委員、2003年に日本経済新聞編集委員を務め、2007年に独立してフリーランスになりました。 ドラッカー自伝には”わが軌跡”(旧”傍観者の時代”)がありますが、本書は2005年2月に日本経済新聞の紙面上で27回連載した”私の履歴書”をベースにしたもう1つの自伝です。 記事の掲載を前に、訳者が2004年8月から9月まで5回、2005年1月に1回、ドラッカー宅で実際にインタビューを行い、その間、数十通の手紙を出し、記事の事実確認などを行いました。 著者は、文筆家の人生が意味あることとして注目されることはめったにない、注目されるのは著作だけである、といいます。 生まれ故郷のオーストリアを1927年に離れ、続いてドイツ、英国、米国へ移り住みました。 その過程で、生活費を得るために、1927年から貿易商社の見習い事務員、1929年から証券会社の社員、1930年から経済・海外ニュース担当の新聞記者、1934年からファンドマネジャー、1937年から複数の英国日刊紙に寄稿する米国駐在記者、1939年から大学教授を経験しました。 それぞれの職場では、解雇されない程度に最低限の実績を上げることができましたが、社会人として最初に職を得た時から、就職するということについては、主に自分の著作活動を支えるための手段と位置づけてきた、といいます。 マネジメントの分野で、GE、GM、IBM、インテル、マッキンゼー、ソニー、松下、セブン&アイ、NECなどの一流企業にいたるまで、直接・間接的に経営変革に多くの功績を残しました。 また、鋭い洞察力で、経済・社会・文明の潮流を読み取り、ソ連崩壊や、知識社会、高齢化社会到来の予言し、当時の日本の可能性を見抜きました。 そのため、未来学者と呼ばれたこともありましたが、自分では社会生態学者を名乗りました。1 基本は文筆家――95歳でも現役2 生まれは帝都ウィーン――4歳の夏に第1次世界大戦3 世界で最も優しい父――シュンペーターに救いの手4 フロイトと握手する――顔広い両親5 最高の教師との出会い――8歳で学ぶ喜び知る6 赤旗デモに誘われ先頭に――「場違い」と感じる7 退屈なウィーンを脱出――図書館で「大学教育」8 大恐慌で記者の道――初日から編集長に怒鳴られる9 ヒトラーに直接取材――ファシズムの本質見る10 ナチス突撃隊――心臓が止まる思い11 ドリスとの再会――人生最高の瞬間12 大盛況だったケインズの講義――経済学に興味なし13 “大戦前夜”の新婚旅行――新生活はニューヨーク14 ワシントン・ポスト紙と契約――フリーランスとして第1歩15 処女作にチャーチルの評価――独ソ結託を見通す16 雑誌王に学んだ60日――IBM創業者とやり合う17 青天の霹靂――GMからの誘い18 戦時下の工場現場も取材――「GMの頭脳」と懇意に19 特異な経営者スローン――秘密兵器は補聴器20 『会社という概念』に集中砲火――スローンに救われる21 分権制ブーム――フォードとGEが採用22 「知識労働者」を生涯のテーマに――トヨタに協力23 「経営コンサルタント」を考案――マッキンゼーに持ち込む24 またしても幸運の女神――NY大の初代経営学部長に25 デミングと授業を担当――教室はプール26 日本画見たさに初来日――「経済大国になる」と確信27 NPOに傾注――わが人生に「引退」なし付録 ドラッカーの人生年表/ドラッカーの著作一覧/ドラッカーの米新聞・雑誌への主な寄稿記事・論文一覧
2014.01.14
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