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私たちが日常的に目にする食材の多くや、世界各国の代表的な料理に使われている有名な食材も、大航海時代以降にようやく世界中に広まったものです。 たとえば、サツマイモは中央アメリカ、南メキシコ、ジャガイモは南米のペルー南部チチカカ湖周辺、トウガラシはメキシコ、ズッキーニは中米が原産で、 ピーマンは熱帯アメリカ、カボチャは南北アメリカ、トマトは中南米のアンデスの高原地帯、インゲン豆は中央米、ピーナッツは南米、ヒマワリは北米が原産です。 ”新大陸が生んだ食物 ”(2015年4月 中央公論新社刊 高野 潤著)を読みました。 いまの日々の献立に欠かせなくなった、いろいろな中南米原産の食物をカラー写真と文章でたどっています。 高野 潤さんは1947年新潟県生まれで、写真学校卒業後、1973年からペルーやボリビア、アルゼンチン、エクアドル、コロンビア、チリなどを歩いてきました。 アンデスやアマゾン地方の自然 、人間、遺跡などを撮り続けています。 山野を歩きつづける生活を通して、中南米原産植物の数の多さを知ったといいます。 高度差数千メートルを持つアンデス山脈の地形や気候気温の変化が、それぞれの地で植物を育み、原産種の宝庫といっていいほどの豊かさを生んできたに違いありません。 15世紀末から16世紀にかけてのコロンブスの新大陸到達や、スペイン人によってマヤ、アステカ、インカなどの文明か征服されました。 それから、中南米原産植物かヨーロッパへ伝わり、やがて、アフリカ、アジア、そして日本へと伝播しました。 中南米原産種の味覚はその発祥地や経由地を含めて、多くの人たちか何千年も受けついで育てつづけてきた努力の結実といっていいでしょう。 アンデスやアマゾンを歩きながら、植物の存在が不思議に思えてしかたかなかったそうです。 陸地上の大小無数の動物たちのほとんどか棲息していられるのも、植物が用意してくれる環境かあるからこそといってもいいでしょう。 そうした環境への動物たちの依存は、そのまま、そこで食べ物が得られるという依存に重なっているところか多いです。 人間を含めて、すべての生を応援している植物が、密接に人の生活に結びついてきた例もあります。 一つが日本の稲、一つがアマゾンのヤシ、もう一つがチチカカ湖内にあるウル族の浮島一帯に密生しているトトラです。 米は昔から日本人の食の中心を支えつづけてきただけではなく、神事に供えられ、日本の酒文化を育てた日本酒を生みました。 稲はしめ縄に使われるほか、縄、藁ぶき屋根、藁靴、草履、草鮭、雨具、畳の台、俵、燃料、家畜の飼料、畑の肥料など、たくさんの用途に使われてきました。 ヤシは、もしヤシがなかったら先住民か果たして生活してこられただろうかと疑問に思ったほど、昔から生活の基本に関わってきました。 固い樹皮は床、壁という建材に、吹き矢の筒、弓とその矢に取りつける鏃、投げ槍などの狩猟具に使われてきました。 葉は屋根、壁、寵材などに用いられ、葉の骨のような芯部は吹き矢、新芽は繊維になって袋やハンモックなどに利用されてきました。 食の面では多くの果実が果物として食べられたり、なかには酒に加工されたり油か採取されたりするものもあります。 また、新芽が生野菜として食べられる種類もあります。 トトラはウル族たちの住の根底ともなる居住地を確保するために敷きつめられ、住居は屋根や壁を含めてまるごと、そのなかに敷く寝床にも利用されてきました。 ほかに、大小の小舟や魚獲りのための簾状の網などをつくっていました。 また、近くの密生地に好んで棲む水鳥の卵や親鳥を採取狩猟し、茎の根本部分を生食用にしたり花部分を胃腸薬に用いたりしてきました。 この三つは、生きる、活かされるというところで、人間と植物が同盟しあったような関係にあります。 これら以外にも、日本の稲と類似しているものとして、アンデスのトウモロコシがあります。 薪の入手が難しい高地では、茎や穂軸を燃料としていました。 牛馬か飼われるようになってからは、収穫後の茎を飼料に使ってきました。 似た多面性は見られないものの、ジャガイモはアンデス高地で生きる人たちの生活の基本となる輪のなかに組みこまれていました。 アルパカやリャマの糞が、燃料以外にも肥料としてジャガイモの成長と結びつき、家畜に優れた獣毛を育ませている寒冷気候が、ジャガイモの保存食づくりに結びついていました。 このように高地ではジャガイモ、アルパカやリャマ、寒冷気候か、ここだけにしか生まれないというセットの形で連鎖しているのです。 何千年も前からつづけてきた人間の努力の積み重ねにも驚かされますが、その期待に応えて、人間がもっとも必要とする食べ物を産んでくれた栽培植物の偉大さにも驚かされます。 地球上に多くの人たちが生きてこられたのも、大昔に自分たちを見つけてくれた人間の側に寄り添って、芽を出して実ることを怠らなかったそれらの植物かあったからこそです。 そうした作物や果実類のなかに中南米の原産種か含まれているのです。 本書では、世界へと広まったもののなかから、日本人の生活に浸透したもの、あるいは浸透しつつあるものを、原産地の地形環境や気候、食利用などを含めて紹介しています。第1章 作物や果実との出会い 驚きだったジャガイモ食/自炊生活とともに知った現地の作物や料理/温暖な山間のトウモロコシ生産地/豊富な作物が実るバージェ地方/アマゾン域と海岸地帯第2章 トウモロコシ 栽培地の広がり方/時代とともに変化した川の流域とアンデネス栽培/寒冷気候対策のパンキイ栽培/文明の要所とトウモロコシ栽培地/昔のトウモロコシ食/インカ時代から飲まれていた濁り酒チッチャ/食材としてのトウモロコシ第3章 ジャガイモ 祖としての野生種/ワルワルやコチャ方式によるジャガイモ栽培/アンデス世界を変えたチューニョやモラヤ/ジャガイモ農地の今昔/自然が与えた困難と試練/古典種系ジャガイモと出会う/地中の芸術品を試食する/保存食用品種のクシ、ワニャ、ルキ/ジャガイモ利用の料理第4章トウガラシ アンデス側を代表するロコトの栽培地/南北に広がるロコト/「水棲亀の子亀」というトウガラシ/代表的な激辛トウガラシ/料理とトウガラシ利用/ロコトが支える食文化/幅広いトウガラシソースの素材第5章 豊富な原産作物と果実類 ` 奇跡の植物キヌア/サツマイモやカボチヤ、マカやヤコン/色も形も違うさまざまなアボカド/パパイヤとパイナップル/チョコレートの原料カカオ/カシューナッツとブラジルナッツおわりに 人と結びついてきた植物の不思議
2018.01.27
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世界中の都市に張り巡らされている地下鉄は、華麗かつ幻想的に空間が彩られています。 いくつかの地下鉄は、まるでアートギャラリーかと思うほど美しくインパクトがあります。 ”世界の地下鉄駅 ”(2017年11月 青幻舎刊 アフロ(写真)・水野久美(テキスト)著)を読みました。 インパクトあふれる魅力的な国内外の地下鉄駅を、華麗な写真を中心に厳選して紹介しています。 本書は、世界の36箇所の地下鉄駅の斬新で華麗なアーティスティックな空間をきれいな写真と簡潔なテキストで紹介しています。 テキストを担当した水野久美さんは、愛知県犬山市生まれ、大学卒業後、編集プロダクションに所属しました。 そして、旅行ガイドブックやグルメ情報誌などの制作に携わり、2004年4月に独立しました。 現在、フリーライターで、カルチャースクールの世界遺産講座講師を務める他、日本文化チャンネル桜の番組のキャスターを務めています。 著書には、”いつかは行きたいヨーロッパの世界でいちばん美しいお城””世界の廃船と廃墟””世界の国鳥”などがあります。 写真担当のアフロは、株式会社アフロ /Aflo Co.,Ltdで、東京都中央区築地に本社のある、資本金4,000万円、創業1980年、従業員数139名(2016年1月現在)の会社です。 地下鉄の歴史は、19世紀のイギリスのロンドンから始まりました。 1863年1月10日にメトロポリタン鉄道のパディントン駅からファリンドン駅の間、約6kmが開通しました。 当時のイギリスは鉄道の建設が盛んでしたが、ロンドン市内は建物が密集しており地上に鉄道を建設できなかったためです。 この路線を計画したのはロンドンの法務官であるチャールズ・ピアソンで、1834年に開通したテムズトンネルをヒントにしたとされています。 車両は開業当初から1905年に電化されるまでは、蒸気機関車を使用していました。 硫黄を含む煙が発生するため、駅構内は密閉された地下空間ではなく換気性を確保した吹き抜け構造となっていたほか、路線の一部も掘割でした。 イギリスでの開業後はしばらく間があき、30年近くたった19世紀末~20世紀初頭に欧米の各地で建設されていきました。 1875年にトルコのイスタンブールで、地下ケーブルカーが開業しました。 1896年にハンガリーのブダペストでも、本格的地下鉄が開業しました。 ブダペスト地下鉄は当初から電化されており、これは地下鉄としては世界で最初の電化路線でした。 さらに1898年にはアメリカ合衆国のボストン、そして1900年にはフランスのパリにおいて開通しました。 ドイツのベルリンでも1880年頃には地下鉄を通す計画が存在したものの反対勢力によって計画が遅れ、開通は1902年でした。 第一次世界大戦が開戦するまでには西ヨーロッパや北アメリカの大都市に、第一次世界大戦中から20世紀半ば頃まではヨーロッパ各地の中都市や日本を中心に建設されました。 1970年代以降は、アジアなどの発展途上国での建設が盛んになりました。 地下鉄は今や都市交通の基軸という機能美だけでなく、狭い、暗い、怖いといった圧迫感を払拭するユニークなパブリックアートが多数取り入れられています。 たとえば、剥ぎ出しの岩盤が迫るストックホルムのソルナ・セントラル駅には、約lkmにわたり炎のように燃える赤い空とスプルースの本の森が描かれています。 産業汚染で脅かされていた北欧のヘラジカや、清流で釣りをする親子など、迫りくる当時の危機と葛藤が表現されています。 一方で、ストックホルム中央駅のT-セントラーレン駅は、地下鉄全3路線が交わり混雑するブルーラインのフラットホームがあり、精神か落ち着くようにブルーが採用されています。 さらに、クングストラッドゴーダン駅もストックホルムにありますが、駅名の由来でもある隣接の王立公園の歴史を示す独創的なアートが特徴です。 このように、それぞれの駅には異なったアートがあり、アートに込められた背景を知ればその国や地域の特性が見えています。 アートギャラリーをめぐるように、心華やぐ幻想的な地下空間の魅力を楽しんでいただきたいということです。1.ヨーロッパ ソルナ・セントラム駅(スウェーデン/ストックホルム)T‐セントラーレン駅(スウェーデン/ストックホルム)、クングストラッドゴーダン駅(スウェーデン/ストックホルム)、アール・ゼ・メティエ駅(フランス/パリ)、ヴェストフリートホフ駅(ドイツ/ミュンヘン)、ハーフェンシティ大学駅(ドイツ/ハンブルグ)、ハイデルベルガー・プラッツ駅(ドイツ/ベルリン)、聖ゲッレールト広場駅(ハンガリー/ブタペスト)、カナリー・ワーフ駅(イギリス/ロンドン)、ベイカー・ストリート駅(イギリス/ロンドン)、サザーク駅(イギリス/ロンドン)、ダンテ駅(イタリア/ナポリ)、トレド駅(イタリア/ナポリ)、オライアス駅(ポルトガル/リスボン)、パコ・デ・ルシア駅(スペイン/マドリード)、コムソモーリスカヤ駅(ロシア/モスクワ)、スラブ大通り駅(ロシア/モスクワ)、マヤコフスカヤ駅(ロシア/モスクワ)、ルミャンツェヴォ駅(ロシア/モスクワ)、ゾロティボロタ駅(ウクライナ/キエフ)2.北・中央・南アメリカ 34丁目‐ハドソン・ヤード駅(アメリカ/ニューヨーク)、81丁目自然史博物館駅(アメリカ/ニューヨーク)、デュポンサークル駅(アメリカ/ワシントンD.C.)、ハリウッド/ハイランド駅(アメリカ/ロザンゼルス)、ハリウッド/バイン駅(アメリカ/ロザンゼルス)、ミュージアム駅(カナダ/トロント)、コピルコ駅(メキシコ/メキシコシティ)、カルデアル・アルコベルデ駅(ブラジル/リオデジャネイロ)3.アジア バールジュマン駅(アラブ首長国連邦/ドバイ)、アストラムライン新白島駅(日本/広島)、美麗島駅(台湾/高雄)、復興駅(北朝鮮/平壌)、北土城駅(中国/北京)、雍和宮駅(中国/北京)、国博中心駅(中国/重慶)、烈士墓駅(中国/重慶)
2018.01.20
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現在のUAEの首都はアブダビで、東部ではオマーンと、南部および西部ではサウジアラビアと隣接しています。 商圏として中東・アフリカという将来性豊かな広大な後背地を擁し、欧米のビジネスマンはイスラム世界、アフリカ大陸へのアウトリーチの準備に余念がありません。 GDPの約40%が石油と天然ガスで占められ、日本がその最大の輸出先です。 ”日本人だけが知らない砂漠のグローバル大国UAE ”(2017年2月 講談社刊 加茂 佳彦著)を読みました。 日本以上に進んだ社会を築いたアラブ首長国連邦=UAEは、夢とおカネが湧き出る国だったということです。 領域はかつて、メソポタミア文明とインダス文明との海上交易の中継地点として栄えました。 その後、ペルシアの支配、イスラム帝国の支配、オスマン帝国の支配を受けました。 16世紀にはポルトガルが来航し、オスマン帝国との戦いに勝利し、その後150年間、ペルシア湾沿いの海岸地区を支配しました。 原油のほとんどはアブダビ首長国で採掘され、ドバイやシャールジャでの採掘量はわずかです。 アブダビは石油の富を蓄積しており、石油を産しない国内の他首長国への支援も積極的におこなっています。 UAEは石油の国ですが世界一が目白押しです-世界一高いビル、世界一大きいモール、世界一長い自動制御都市鉄道、世界一高い懸賞金の競馬レースなどです。 海外就労地として米国人に最も人気の国で、外国人居住者の比率が最も高く、世界最大級を誇る政府系投資ファンドがあります。 また、ドバイはペルシャ湾岸地域最大の海上輸送ハブであり、中東一円へのゲートウェーでもあります。 加茂佳彦さんは1952年生まれ、東京大学工学部卒業後外務省に入省し、さらにアマースト大学を卒業しました。 その後、内外で勤務し、在ヒューストン総領事、在ホノルル総領事、在アラブ首長国連邦特命全権大使を歴任し、2015年に外務省を退官、国立海洋研究開発機構審議役になりました。 2016年に同志社大学グローバル・コミュニケーション学部、同志社女子大学大学院国際社会システム研究科で非常勤講師を務めています。 アラブ首長国連邦は、アラビア半島のペルシア湾に面した地域に位置する7つの首長国からなる連邦国家です。 首長国とは、 アブダビの旗のアブダビ首長国、ドバイの旗のドバイ首長国、シャールジャの旗のシャールジャ首長国、アジュマーンの旗のアジュマーン首長国、ウンム・アル=カイワインの旗のウンム・アル=カイワイン首長国、フジャイラの旗のフジャイラ首長国、ラアス・アル=ハイマの旗のラアス・アル=ハイマ首長国です。 各首長国の国名はそれぞれの首都となる都市の名前に由来しており、最大の国であるアブダビ首長国の首都のアブダビが、連邦全体の首都として機能しています。 ただ近年は、外国資本の流入によるドバイの急激な発展によって、政治のアブダビ、経済のドバイと言われるようになってきています。 アブダビとドバイ以外は国際社会ではあまり著名ではありません。 しかし、筆者は、2012年から2015年までの様々な体験は、今までの中東のイメージをまったく塗りかえるような新鮮なものであったと言います。 中東といえば、紛争続きの不穏な政情に揺れ、テロ事件が各地で頻発し、難民が流出する地城でしかないと刷り込まれてきました。 このイメージ自体は一概に的外れだと言えませんが、日本人の常識に囚われていては見えてこないもう一つの中東の顔があります。 ここがあの中東の国かと疑いたくなるほど超近代的都市が築かれ、治安も良く緑もあって世界中の商品が手に入ります。 さらに、世界中からやってきた外国人があたかも自分の国に居るかの如く社会の隅々にまで進出し、皆で協力し合ってUAEという国を動かしています。 世界最先端のグローバル社会が息づいていて、仕事を求める外国人だけではなく、ビジネスチャンスを探して世界中の企業がUAEに注目しています。 ドバイ、アブダビはアフリカ情報がどこよりも多く、早く出回る情報ハブであることと関係しています。 これは、両都市がアフリカヘの航空ハブであることの帰結です。 また、ドバイはペルシャ湾岸地域最大の海上輸送ハブでもあります。 UAEに軸足をおいて、今後躍進が期待されるアラブ世界、イスラム世界、アフリカ大陸にアウトリーチすることも大いに有望です。 戦乱に明け暮れ停滞に沈む不幸な地域の一角に、UAEのようにまったく違う中東もあることを承知してもらいたいのです。 現在世界の人々は、このまったく違う中東に大きな関心を寄せ、積極的に関与して、そこから最大の利得を引き出そうとしています。 この常識破りの国UAEが全世界に提供している様々な好機や便益を、ひとり日本人だけが知らないままでいいわけはありません。 我が国におけるUAEについての情報不足は相当深刻であり、特に一般読者向けの啓蒙書がほとんど見当たりません。 外国との関係強化の第一歩は、相手のことをよく知ることです。 UAEには我々が注目すべき中身があるのに、情報不足のため日本での関心も十分に掘り起こされているとは言い難いのです。 UAEについてもっと多くの人に知ってもらいたいとの思いに突き動かされ、また、自分が書かなければ誰が書くのかと自らを奮いたたせて本書を執筆したといいます。 紛争や政治不安が続く中東にあって、政治的安定を保ち、経済的繁栄を続けるUAEは異彩を放っています。 今や世界を代表するグローバル国家となり、人類の未来の可能性を感じるほどです。 ただし、民主制をとっていないことや、若者のモラールの阻喪、居住者間の貧富の格差などは国の統治や社会の在り方に根差した容易ならざる問題があります。 克服すべき問題はあるにせよ、また石油の富に恵まれた幸運はあるにせよ、UAEはやはり刮目すべき国です。 本書では、実際に体験したUAEの魅力と強さを、ひとつひとつ明らかにしていきたいと思います。。第一章 これだけは知っておきたいUAE/第二章 伝統と超近代が融合するUA/第三章 UAEの面白さがわかるレア体験/第四章 海賊が支配したこともあった歴史/第五章 中東・アラブ情勢の中で/第六章 UAEの繁栄は盤石か/第七章 実は深い日本との縁/第八章 グローバル社会UAEで働く/巻末付録 こだわりのUAE特選ガイド
2018.01.13
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名城とは、すぐれた城、りっぱな城、名高い城です。 日本における城は、古代の環濠集落から石垣と天守を持つ近世の城まで多様なものが含まれます。 幕末の台場や砲台も、城に含めることがあります。 ”列島縦断「幻の名城」を訪ねて ”(2017年4月 集英社刊 山名 美和子著)を読みました。 全国の城を旅して、歴史の中で朽ち果て今は遺構だけを残すかつての名城の中から48の城を紹介しています。 城の造営は、堀や土塁を築く普請と、門や塀を造る作事からなります。 屋敷や櫓・天守も作事に含まれます。 中世の城では、戦闘員である武士がおもに駐在し、その武士たちを抱える主君の武家や豪族は、城のある山とは別の場所に館を構えて居住していました。 戦国時代には、主君も城内に居住するスタイルが現れ、おもな家臣たちも城内に屋敷を与えられ、その家族や日常の世話をする女性も居住しました。 戦国末期から近世の城郭では、外郭を築き、城下町も取り込む城も現れました。 江戸時代の1615年に一国一城令が発布されるまでは、城は各地に多数存在し、砦のような小さなものも含めると数万城あったといわれています。 本書が扱うのは、何層もの天守閣がそびえる国宝の名城ではなく、見事な構造を備えながらも朽ちていき、今は遺構を残すのみの場所です。 山名美和子さんは1944年東京都生まれ、早稲田大学第一文学部卒業後、東京・埼玉の公立学校教員を経て作家になり、今日まで主に歴史ものを執筆しています。 古代から近世まで、長い歴史を歩んで残る城跡は4万とも5万とも言われています。 近ごろは城郭ファンの幅が広がり、建物跡もなく、石垣さえない戦国期の城跡にも関心が持たれるようになりました。 敗将に心を寄せ、ゆかりの城を訪ねる人もふえたといいます。 天守や櫓のそびえる近世の城も、もちろん人気が高いです。 城址めぐりのタイムトラベルは、地図を片手の第一歩から始まります。 道を折れ、ふいに石垣や土塁示姿をあらわすと、出合えたよろこびが込みあげます。 まずは虎口=こぐちと土塁があれば城は成り立ちます。 堀は、石垣は、土橋はと、過去への旅に夢中になります。 城は命や財産を守ろうという目的をもって設けられた構造物ですが、それだけではありません。 動乱をかいくぐった城跡には、たくさんの栄光や激闘のドラマが刻まれています。 城址に残る質朴な美、あるいは豪壮なたたずまいに魅了されながらも、哀愁が込みあげてきます。 武将たちの足音が響いた曲輪、勝どきをあげ勝利の美酒に酔った館、無念を噛みしめて散った砦、女たちがたたずんだ望楼、敵に負けじと若武者が矢をつがえた城門などなど。 城をめぐれば、生と死を懸けた人びとのいとなみが、熱く追ってきます。 城は攻防の砦です。 戦国動乱の時代、城を舞台に幾多の戦いがくりひろげられ、勝者と敗者を生み、次第に姿を変えていきました。 やがて数百年の歳月が過ぎ、たくさんのドラマを秘めたまま、草木に埋もれ、土に覆われ、開発の波にさらされ、城址は朽ち果てていきました。 しかし、たとえ戦の炎で焼き尽くされたとしても、城跡にたたずめば、そこに存在した城郭がありありと浮かびあがります。 古城をたどって戦国武将や中世豪族の軌跡を追い、埋もれた秘話を探訪し、悠久の時の流れに刻まれた歴史の断片に迫っていきたい。 城をイメージするとき、堀や石垣があり、御殿が莞を連ね、大守がそびえる、そんな姿を描くのがふつうです。 しかし、中世から江戸時代までに築かれた城の多くは、いまはありません。 戦乱や災害で失われ、江戸初期の一国一城令では、全国で3000あった城が170に激減しました。 さらに、明治を迎え不要になった城は、廃城令によって破却され、あるいは売却されて姿を消し、吹き渡る風に石組や堀跡をさらすのみとなりました。 ですが、建物はなくても、爛漫の杏、緑陰や紅葉、雪景色と、城址は季節によりさまざまな情景を映しだし、栄華を誇った威容を偲ばせます。 苔むした石垣、草木に覆われた土塁の高まり、樹木に埋もれた堀跡、屹立するし岩の城門跡、これらに出合うと、まるで発見者になったような興奮を覚えます。 国宝や世界遺産の城、御殿や櫓がみごとに再興された城への旅もいい。 ですが、戦や風雨にさらされながらも遺構を残す城跡は、かぎりない夢想をかきたてます。 いまは幻と潰えた城を、北は北海道から南は沖縄へと訪ね、そこに生き、戦い、生を終えた人びとの息吹きを探して歩いたとのことです。 遺構の数々は、生と死を懸けた戦国の英知や勇気、そして悲哀さえも多弁に語りかけ、現代に生きる者を魅了し、圧倒し、やがて郷愁に誘いこみます。 今日見られる天守の最初のものは、織田信長が建造した安土城の天守といわれています。 最初に、2年で幻となった天下人・信長の巨大城址の安土城を紹介しています。 この城は炎上のあと長い眠りについた城跡であり、かつては信長がこの豪華華麗な天守に起居しました。 続く名城として、琵琶湖の汀に残る明智の夢の跡の近江・坂本城を紹介しています。 以下、ほかの46の名城が紹介されています。「幻の名城」地図第一章 これぞ幻の名城i石垣と土塁が語る戦いと栄華の址[西目本編]安土城/近江 坂本城/小谷城/一乗谷館/信貴山城/大和郡山城/竹田城[東日本編]春日山城/躑躅ヶ崎館/新府城/興国寺城/石垣山城/小田原城/金山城/箕輪城/高遠城/九戸城第二章 大東京で探す「幻の名城」 江戸城/武蔵国から東京への大変貌のなかで/平塚城(豊島城)/石神井城/練馬城/渋谷城と金王八幡宮/世田谷城と豪徳寺/奥沢城と九品仏浄真寺/深大寺城と深大寺/滝山城/八王子城第三章 櫓や石垣、堀の向こうに在りし日の雄姿が浮かぶ 金沢城/上田城/福岡城/津和野城/女城主 井伊直虎ゆかりの城/井伊谷城/松岡城第四章 再建、再興された天守や館に往時を偲ぶ 五稜郭/会津若松城/松前城/伏見城/忍城第五章 古城の風格をいまに伝える名城 弘前城/丸岡城/備中松山城第六章 北の砦チャシ、南の城グスクの歴史 アイヌにとっての砦チャシ/シベチャリチャシ/ヲンネモトチャシ/首里城/今帰仁城/中城城/座喜味城/勝連城巻末資料 日本の「城」とは何か
2018.01.08
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北大路魯山人は1883年に京都市上賀茂北大路町で、上賀茂神社の社家・北大路清操、社家・西池家出身の登女の次男として生まれました。 魯山人の本名は北大路房次郎で、家系は士族の家柄でした。 魯山人は生涯を懸けて美食を追求し、・料理も芸術である、・天然の味に優る美味なし、・もともと美味いものはどうしても材料による、・食器は料理の着物である、・良い料理を作ることは人生を明るくするなど、その本質をつく名言の数々を残した。 ”魯山人 美食の名言”(2017年9月 平凡社刊 山田 和著)を読みました。 晩年まで篆刻家・画家・陶芸家・書道家・漆芸家・料理家・美食家など様々な顔を持っていた魯山人について、その美食観を浮びあがらせようとしています。 ポイントは、素材選び、料理の秘訣、美食の周辺、美食にふさわしい器などです 山田 和さんは1946年富山県砺波市生まれ、1973年より福音館書店に勤務し、1993年に退社しノンフィクション作家となりました。 1996年に講談社ノンフィクション賞、2008年に大宅壮一ノンフィクション賞を受賞しました。 地元の新聞記者だった父親が魯山人と親しかったということです。 魯山人は母の不貞によりできた子で、それを忌んだ父は生まれる4ヶ月前に自殺し、母親は魯山人を大津市坂本の農家に預け失踪しました。 しかし、家では放置状態だったため、預けた1週間後に紹介した巡査の妻が再び連れて帰りました。 そして、出生から5ヶ月後に巡査の服部家の戸籍に入りましたが、すでに服部巡査は行方不明で、秋には巡査の妻が病死しました。 そこで、この2人の養子の夫婦が、義理の弟である幼い魯山人の面倒を見ることになりました。 3歳のとき義兄に精神異常が出てその後死亡し、4、5歳のときに義姉は房次郎と息子を連れて実家に身を寄せました。 幼い魯山人はこの家で義姉の母から激しい虐待を受け、2、3ヶ月後に見かねた近所の人の紹介で、竹屋町の木版師・福田武造、フサ夫人の養子となりました。 魯山人は、以後33歳までの約27年間福田姓を名乗ることとなりました。 福田家では、6歳の頃から炊事を買って出て、炊事の中で味覚と料理の基本を学びました。 10歳の時に梅屋尋常小学校を卒業し、春には京都・烏丸二条の千坂和薬屋に丁稚奉公へ住み込みで出されました。 13歳の前に奉公を辞め、養父母に画学校の進学を頼み込みましたが、家計的な問題もあり断念しました。 養父の木版の手伝いを始め、扁額や篆刻などの分野の基礎的な感覚を身に着けました。 一字書の書道コンクールでは、天の位1枚・地の位1枚・佳作1枚を受賞しました。 以後も応募を続けて次々と受賞し、14、5歳のとき、賞金で絵筆を買い我流の絵を描き、また、西洋看板描きとしても活躍しました。 20歳のとき母の所在を知り東京に会いに行ったものの受け入れられず、そのまま東京に残り書家になることを志しました。 21歳のとき、日本美術協会主催の美術展覧会に出品し、褒状一等二席を受賞し頭角を現しました。 その後住み込みで版下書きの仕事を始め、22歳のとき、町書家・岡本可亭の内弟子となり、その後3年間住み込みました。 やがて帝国生命保険会社に文書掛として出向し、24歳のとき、福田鴨亭を名乗って可亭の門から独立しました。 25歳のときに結婚し、夏に長男が誕生しました。 仕事は繁盛し稼いだ収入を書道具・骨董品・外食に注ぎ込み、合間に畫帖や拓本などの典籍を求め、夜は読書と研究に没頭しました。 26歳のとき、母と共に朝鮮に旅立ち、母を京城の兄のところへ送り、3ヶ月ほど旅したあと、朝鮮総督府京龍印刷局に書記として勤め3年ほど生活しました。 京城滞在1年弱で上海に向かい、当時、書家・画家・篆刻家として名高かった呉昌碩に会いました。 29歳の夏に帰国して書道教室を開き、半年後、長浜の素封家・河路豊吉に食客として招かれ、書や篆刻の制作に打ち込む環境を提供されました。 ここでは福田大観の号で、天井画、襖絵、篆刻など数々の傑作を残しました。 30歳のとき長男の兄が他界して、33歳のとき母から家督相続を請われ、北大路姓を継いで北大路魯卿と名乗りました。 北大路魯山人の号を使いはじめ、魯卿と数年併用しました。 その後も、長浜をはじめ京都・金沢の素封家の食客として転々と生活し、食器と美食に対する見識を深めました。 また、内貴清兵衛とその別荘の松ヶ崎山荘で交流も深め、料理に目覚めていきました。 34歳のとき、便利堂の中村竹四郎と知り合い交友を深め、その後、古美術店の大雅堂を共同経営しました。 大雅堂では、古美術品の陶器に高級食材を使った料理を常連客に出しました。 38歳のとき、会員制食堂・美食倶楽部を発足させ、自ら厨房に立ち料理を振舞う一方、使用する食器を自ら創作しました。 42歳のとき、東京・永田町に星岡茶寮を中村とともに借り受け、中村が社長、魯山人が顧問となり、会員制高級料亭を始めました。 44歳のとき、宮永東山窯から荒川豊蔵を鎌倉山崎に招き、魯山人窯芸研究所・星岡窯を設立して、本格的な作陶活動を開始しました。 星岡茶寮は、昭和20年の空襲により焼失しました。 戦後は経済的に困窮し不遇な生活を過ごしましたが、昭和21年に銀座に自作の直売店・火土火土美房=かどかどびぼうを開店し、在日欧米人からも好評を博しました。 昭和29年にロックフェラー財団の招聘で、欧米各地で展覧会と講演会が開催され、その際にパブロ・ピカソ、マルク・シャガールを訪問しました。 昭和30年に、織部焼の重要無形文化財保持者に指定されましたが、これは辞退しました。 昭和34年に肝吸虫による肝硬変のため、横浜医科大学病院で死去しました。 日本料理を根本から変えたと言われる魯山人の料理の実力は、料理全般に関する幅広い知識や、鶴や蝦蟇や山椒魚まで調理した希有な食体験からだけではなく、 鋭敏な味覚と大自然に対する理解、どんな妥協をも許さない本物志向、美術鑑賞眼、演出力、そして何よりも相手を感動させたいという一心から生まれたものである、ということです。 そして重要なのは、魯山人の人生にとって食は美味以前に、幸福そのものでなくてはならなかったことです。 幼いときにおさんどんを通じて味わい続けた幸福の記憶は、のちの魯山人を支配し、食の巨人・北大路魯山人の誕生に繋がっていきました。プロローグ 魯山人の人生観──断固として生きる いろいろな生き方もあろうが第一章 素材選びと料理の秘訣 もともと美味いものは、どうしても材料によるので/天然の味に優る美味なし/新鮮に勝る美味なし /真の美味はシュンにあり/昔の料理は至極簡単なものであった。(中略)(それで充分だったのは)材料がしっかりしたものであったからだ /吸い物、清し汁は一切濃口(?油)ではいけない/総じて魚の大きいのをよろこぶ人は、味覚の発達しない、味の上でのしろうとと言えよう/そもそも米の飯を、日本料理中、もっとも大切な料理のひとつだと心得ている者があるだろうか 第二章 美食の周辺 (私のように)裕福ならざる者が料理道楽をやり出しますと /(星岡茶寮の経営者として)我々が他と少し違うところは/お料理は即刻即用が大切であります/うまいものを食うと人間誰でも機嫌がよくなる/家にまだたくさんございますから、帰ったらお送りしましょう/米一粒でさえ用を完うしないで、捨て去ってしまうのはもったいない 第三章 美食にふさわしい器とは 食器は料理の着物である/私の作品は大抵、食物である限り、盛り方さえ上手であれば調和する自信があります/坐辺師友(中略)努めて身辺を古作の優れた雅品で満すべきである
2018.01.06
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