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16世紀後半以降に日本人は南方各地に進出し、最盛期の住人は、マニラに 3000人、アユタヤ (シャム) に山田長政以下1500人を数え、プノンペンにも町を構成しました。 ”南洋の日本人町”(2022年7月 平凡社刊 太田 尚樹著)wp読みました。 17世紀初頭の朱印船貿易に伴って船員、貿易商人、牢人、キリスト教信徒らが多数海外に進出し、東南アジア各地に集団部落を構成した、日本人町の歴史を探索しています。 同じ頃バタビアなどで現地民と雑居して町を形成している場合は、日本町と呼びません。 江戸幕府の鎖国政策後,次第に衰退しました。 明治の世が始まると、閉塞感を打ち破るかのように、多くの人々が海外へと飛び出していきました。 その中には、成功をおさめて現地にその名を残す者のほか、人知れず無縁墓地に眠る者たちも数多く存在しました。 日本の海外進出の先遣隊として南洋に渡った人々は、大戦に翻弄されながらいかに生きたのでしょうか。 太田尚樹さんは1941年東京生まれ、戦争のため神奈川県に疎開し、そこで育ちました。 1964年に東京海洋大学を卒業し、1965年に同大学専攻科を修了しました。 1967年にカリフォルニア州立サンフランシスコ大学に入学し、1970年に単位満了により卒業し、カリフォルニア大学バークレー校大学院に入学しました。 1972年に交換制度によりマドリッド大学に転学し、社会学diplomaを修得しました。 1977年に東海大学に奉職し、1983年に東海大学外国語教育センター助教授を経て、教授になり、2005年に定年退職しました。 現在、同大学名誉教授で、専門は南欧文明史でしたが、近年は昭和の日本史をテーマとするノンフィクションの分野における活動が続いています。 欧米から極東と言われていた東洋の一画にある日本は、狭い国土に多くの民を抱え、資源の乏しい島国でした。 それでも四方を海で囲まれていますので、当然ながら日本人は海の向こうを意識しました。 そこで視野に入ってきたのが、かつて南洋と呼ばれた現在の東南アジアの国々でした。 だがそこには日本よりも先に、大航海時代の大波と余波に乗って、スペイン、ポルトガル、オランダの南蛮諸国に加え、イギリスも進出を果たしていました。 その勢いをかって南蛮船が渡来するようになったことも、日本側には刺激になりました。 そこで日本でも、幕府の直轄領であった大阪・堺の商人に貿易させたり、九州のキリシタン大名か朱印船を送り込みました。 これが、本書で扱ったフィリピン・ルソンのマニラ、ベトナムのホイアン、タイのアユタヤ、そしてマレーシアのマラッカでした。 これらの地で交易がおこなわれた結果、必然的に日本人町が形成されました。 ですが鎖国によって船も人間の往来もなくなり、人員の補給もできなくなって日本人社会は消滅してしまいました。 時代が明治に入って開国されると、志ある者は個々に南洋へ雄飛していきました。 それは脱亜入欧思想の反動として起きた、日本と近隣アジア諸国との関係強化を命題にした興亜論の先兵たちでした。 時期を同じくして郷里の貧しさと「幸せは南洋にあり」の空気に後押しされて、長崎や熊本の「カラユキさん」と呼ばれた若い娘たちも海を渡っていきました。 住み着いたのはシンガポールとマレーシアのペナン、サンダカンであり、そしてフィリピンのマニラ、ダバオの日本人町でした。 明治初期以後に芽生えた南進論は、日清・日露戦争の勝利によって欧米との対立構造と国際的な孤立を生むことになりました。 さらにこの思想は昭和初期になると、孫文や犬養毅、頭山満らの主張する欧米の支配を排除し、「アジアはアジア人の手で」という大アジア主義によって鮮明度を増しました。 南洋への関与はいくつかの形で足跡を遺してきましたが、戦前の日本でいわれた「南進論」は、概念において二分されていたとみることかできます。 女性も含めた経済活動の先鋒をつとめた日本人の南方進出と、日米開戦前夜に熱い視線を集めた、武力を背景にして現地の豊富な天然資源を獲りにゆく南進論です。 後者の南進論については、結果的にこの国策は南洋の日本人町だけにとどまらず、現地の人にも悲劇をもたらすことになりました。 それとはまったく別に、マニラやアユタヤ、ホイアンにみられたように、鎖国以前から、交易基地としての日本人町が形成されていた事実もありました。 なかでも朱印船の活動による南蛮貿易は、戦国大名たちや徳川幕府による積極的経済活動を担ってきましたが、渡来品にむけた諸大名の熱い視線をうけて、藩の財政を潤してきました。 ですが鎖国が解けて明治の世が明けると、それまで各藩に分かれていた縦割りの組織が崩れ、曲がりなりにも新国家日本がスタートすると、民の姿勢も変わってきました。 かけがえのない人生を、南洋各地に「夢」という、ときに実体感をともなわない玉虫色の未来に駆けだしていった人々が、次々と出現しました。 200年もの間、鎖国で閉塞していた日本には、外に向けたとてつもないエネルギーが溜まり、熱いマグマとなって流れでる現象か起きました。 近代に向かう変革の胎動は、志ある人々を着実に突き動かしたのです。 海外雄飛、それはいずれも外向きの好奇心と夢をもった人間たちでした。 そのなかに、禄を失い刀をそろばんにもち替えた侍、南方の資源を商った一獲千金を夢みる商人、伝統の技を新天地で生かそうとする職人だちがいました。 明治政府にとっても、それは資源保有と貿易拡大の先遣部隊であり、情報収集の協力者でもありました。 その一方で、貧しさから家族を救うために、異国に出ていく娘たちもいました。 娘子軍または、カラユキさんといわれた娘たちです。 南洋に渡ったカラユキさんたちは、もとはといえば「幸せは南の島に宿る」と信じ、冒険心、一旗揚げたい野望に抗しきれなくなり、南に漕ぎ出した人々です。 男たちの出身地がまちまちなのに比べ、女性たちは長崎、熊本の人が多いです。 長崎、熊本には港町があるだけでなく、南蛮渡来の切支丹を受け入れたように、南洋的精神風土があったということなのでしょうか。 そして日本は、「アジア人の手で」がいつのまにか「アジアの盟主として」に変わってしまい、勢いに乗った軍閥の指導で大東亜共栄圏構想となってしまいました。 日米開戦が近づいた1940年7月の第二次近衛内閣で決定された「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」で、武力行使を含む南進政策という国策となりました。 興亜論に端を発した南進論は、南方資源の獲得を柱にした南進論となって、ついに武力進出まできてしまい、太平洋戦争となりました。 現在、東南アジアと呼ばれている地域は、戦前は南洋といういい方をしました。 現在のいい方は、主として戦後になってからの連合軍の借りものです。 戦後は東南アジア諸国への賠償からはじまり、高度経済成長の波に乗って日本企業の現地進出となりましたが、日本人町はできませんでしたし、今後もないでしょう。 世界に広くみられる中国人街の場合は、祖国を捨てた移住型であり、長い歴史のなかで現地に中国人独自のコミュニティーを作ってきたことにあります。 日本が貧しかった時代と違い、日本人には中国人のような祖国の変貌には目も向けない小国の建設という思考はありません。 中国人とは土着性への感性も精神構造も違っていますので、かつての日本人町のような社会を形成することはないでしょうし、またその必要もありません。 それでも東南アジアヘの企業進出はますますつづき、さらなる東南アジアから日本へ来る労働者の受け入れもつづくでしょう。 そんな時代であるからこそ、かつて先人が造った日本人町の歴史に関心を持っていただければ幸いだ、といいます。序章 南洋進出の先兵たち/第1章 シンガポールの日本人町/第2章 マレー半島に足跡を刻んだ日本人たち/第3章 コスモポリタンの街ペナン/第4章 日本を魅了したボルネオ島/第5章 ルソン貿易の基地マニラーマニラ日本人町の先駆者たち/第6章 マニラ麻で栄えたダバオの光と影/第7章 鎖国以前からあったベトナムの日本人町/第8章 山田長政がいたタイ・アユタヤ [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]南洋の日本人町(1007;1007) (平凡社新書) [ 太田 尚樹 ]【中古】 アジアの日本人町歩き旅 / 下川 裕治 / KADOKAWA/中経出版 [文庫]【メール便送料無料】【あす楽対応】
2023.03.04
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