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藤原彰子は998年に生まれた才色兼備の誉れ高い女性で、第66代一条天皇の皇后中宮になりました。 父は藤原道長、母は左大臣・源雅信の娘の源倫子で、藤原氏の土御門邸にて誕生しました。 ”藤原彰子”(2019年6月 吉川弘文館刊 服藤 早苗著)を読みました。 藤原道長の長女として生まれ一条天皇の中宮となり2人の天皇の生母として政務を後見した藤原彰子の生涯を紹介している。 誕生の日は不明ですが、道長と倫子の結婚は前年の12月16日ですので、9月から12月の誕生と推定されます。 990年12月に3歳で袴着が行われました。 995年に彰子8歳の時、父・道長が内覧の宣旨を受けました。 999年2月9日に裳着を終えた後、同11日に一条天皇から従三位に叙せられました。 同年11月1日に一条天皇の後宮に入り、同月7日に女御宣下をうけました。 この時、一条天皇にはすでに藤原道隆の長女の中宮・藤原定子、女御・藤原義子、藤原元子、藤原尊子が入内していました。 1000年に藤原彰子が新たに皇后となり、先に中宮を号していた藤沢定子は皇后宮を号しました。 朝廷史上はじめて一帝二后になりました。 藤原定子は第二皇女・媄子内親王の出産が難産となり崩御しました。 服藤早苗さんは1947年愛媛県生まれ、1971年横浜国立大学教育学部を卒業し、小学校教諭となりました。 1977年東京教育大学文学部を卒業し、1980年お茶の水女子大学大学院人文科学研究科修士課程を修了しました。 1986年に東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程を単位取得退学しました。 1991年に第6回女性史青山なを賞を受賞しました。 1992年に家成立史の研究で東京都立大学文学博士となりました。 2001年に新設された埼玉学園大学教授に就任し、2009年に埼玉学園大学人間学部学部長となり、2015年に定年退職し名誉教授となりました。 専門は、日本史、家族史、女性史、ジェンダー論です。 藤原定子と藤原彰子はいとこであり、ともに一条天皇の妻でしたが、定子は皇后、彰子は中宮という肩書きでした。 定子は24歳で亡くなり、彰子は87歳まで生きました。 定子は一条天皇との間に二人の皇子を産みましたがどちらも天皇にはなれませんでした。 彰子は一条天皇との間に三人の皇子を産み、うち二人は天皇になりました。 藤原定子が生んだ一条天皇の第一皇子・敦康親王の養母を、13歳の藤原彰子が担うことになりました。 母の源倫子も育児に協力したとされます。 1006年頃からは、藤原彰子の家庭教師は『源氏物語』作者の紫式部でした。 王朝有数の歌人として知られた和泉式部、歌人で『栄花物語』正編の作者と伝えられる赤染衛門、続編の作者と伝えられる出羽弁もいました。 また、紫式部の娘で歌人の越後弁、ほかに歌人の伊勢大輔などを従え、華麗な文芸界を形成しました。 藤原彰子は008年に30時間の難産で土御門殿にて一条天皇の第二皇子・敦成親王、後の一条天皇を出産しました。 1009年に今度は安産で第三皇子・敦良親王、後の朱雀天皇を生みました。 これにより、父・藤原道長の権力が強まることとなりました。 1010年に妹・藤原妍子が冷泉天皇の第二皇子・居貞親王に入内しました。 1011年に病になった一条天皇は居貞親王に譲位し崩御しました。 居貞親王は三条天皇となりましたが、24歳の藤原彰子は三条天皇の即位に反発したとされます。 ただ三条天皇の皇太子は、中宮・藤原彰子が産んだ敦成親王、後の一条天皇に決まっていました。 1012年頃、紫式部が退任した模様ですが、藤原彰子は皇太后となりました。 1016年に敦成親王が即位し、後一条天皇となり、道長は念願の摂政に就任しました。 1017年に道長は摂政・氏長者をともに嫡子・頼通にゆずり、出家して政界から身を引きました。 道長の出家後、彰子は指導力に乏しい弟たちに代えて一門を統率し、頼通らと協力して摂関政治を支えました。 しかしこの後摂関家一族の姫は、入内すれども男児には恵まれないという不運が続きました。 1017年に三条天皇が崩御し、中宮彰子の子・敦成親王が後一条天皇となり、幼帝のため父・藤原道長が摂政となり権勢を振るいました。 1018年に、藤原彰子は太皇太后になりました。 1026年に藤原彰子は出家し、院号の宣下があり上東門院となりました。 1030年に、父道長が建立した法成寺の内に東北院を建てて、晩年ここを在所としたため、別称を東北院といいます。 1036年4月17日に後一条天皇、1045年正月18日に後朱雀天皇が崩御し10年の間に2人の子を失いました。 その後は孫の後冷泉天皇が即位しました。 1052年に重篤な病に陥りましたが、その後体調は回復しました。 そして、1074年10月3日に法成寺阿弥陀堂内にて、87歳で崩御しました。 東山鳥辺野の北辺にある大谷口にて荼毘に付され、遺骨は宇治木幡の地にある藤原北家累代の墓所のうち、宇治陵に埋葬されました。 藤原彰子には日記などはなく、唯一30余首の和歌がのこされているだけです。 しかし、父の日記や貴族男性の日記などが遺っており、彰子の行動を追うことができます。 本書では、天皇の母として政務を後見し、天皇家の家長として、また摂関家の尊長としての発言力があったことを明らかにしたといいます。第1 誕生から入内まで/第2 立后と敦康親王養育/第3 二人の親王の誕生/第4 皇太后として/第5 幼帝を支えてー国母の自覚/第6 後一条天皇の見守り/第7 天皇家と摂関家を支えて/第8 後朱雀天皇の後見/第9 大女院として/第10 彰子の人間像 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]藤原彰子(294) [ 服藤 早苗 ]藤原彰子 天下第一の母 (ミネルヴァ日本評伝選) [ 朧谷寿 ]
2023.12.22
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南方熊楠は1867年現在の和歌山市生まれの民俗学者、生物学者で、日本民俗学の創始者の一人です。 ”未完の天才 南方熊楠”(2023年6月 講談社刊 志村 真幸著)を読みました。 驚くべき天才的才能を多方面に発揮しながら、仕事のほとんどが未完に終わった南方熊楠の生涯を紹介しています。 大学予備門を中退してアメリカ、イギリスに渡り、ほとんど独学で動植物学を研究しました。 イギリスでは大英博物館で考古学、人類学、宗教学を自学しながら、同館の図書目録編集などの職につきました。 帰国後、和歌山県田辺で変形菌類などの採集・研究と民俗学の研究を行ないました。 民俗学の草創期に柳田国男とも深く交流して影響を与えました。 熊楠の学問は博物学、民俗学、人類学、植物学、生態学など様々な分野に及んでいました。 学風は、一つの分野に関連性のある全ての学問を知ろうとする膨大なものでした。 書斎や那智山中に籠っていそしんだ研究からは、曼荼羅にもなぞらえられる知識の網が生まれました。 多くの論文を著し、国内外で大学者として名を知られましたが、生涯を在野で過ごしました。 志村真幸さんは1977年神奈川県小田原市生まれ、2000年に慶應義塾大学文学部を卒業しました。 2007年に京都大学大学院人間・環境学研究科文化・地域環境学専攻博士後期課程を単位取得退学しました。 専門は比較文化研究で、2008年に博士(人間・環境学)の学位を取得しました。 2020年にサントリー学芸賞(社会・風俗部門)、2021年に井筒俊彦学術賞を受賞しました。 南方熊楠顕彰館および南方熊楠顕彰会外部協力研究者として、資料調査、展覧会、出張展、公開講座などを担当しています。 2019年より南方熊楠顕彰会理事、慶應義塾大学非常勤 講師、京都外国語大学非常勤講師を務めています。 南方熊楠は生物学者として粘菌の研究で知られていますが、キノコ、藻類、コケ、シダなどの研究もしていました。 さらに、高等植物、昆虫、小動物の採集も行なって、調査に基づいてエコロジーを早くから日本に導入しました。 1887年1月8日に米国サンフランシスコでパシフィック・ビジネス・カレッジに入学しました。 8月にミシガン州農業大学、現・ミシガン州立大学に入学しました。 当初は商業を学ぶ予定でしたが次第に商買の事から離れていきました。 ミシガン州立大学は一流大学でしたが熊楠は大学に入らず、自分で書籍を買い標本を集めもっぱら図書館に行く生活を送ったといいます。 1888年に自主退学し、ミシガン州アナーバー市に移り動植物の観察と読書にいそしみました。 1892年9月に渡英し、1893年のイギリス滞在時に、科学雑誌『ネイチャー』誌上での星座に関する質問に答えた「東洋の星座」を発表しました。 また大英博物館の閲覧室において「ロンドン抜書」と呼ばれる9言語の書籍の筆写からなるノートを作成し、人類学や考古学、宗教学、セクソロジーなどを独学しました。 さらに世界各地で発見、採集した地衣・菌類や、科学史、民俗学、人類学に関する英文論考を、『ネイチャー』と『ノーツ・アンド・クエリーズ』に次々と寄稿しました。 生涯で『ネイチャー』誌に51本の論文が掲載されており、これは現在に至るまで単著での掲載本数の歴代最高記録となっています。 帰国後は、和歌山県田辺町に居住し、柳田國男らと交流しながら、卓抜な知識と独創的な思考によって、日本の民俗、伝説、宗教を広範な世界の事例と比較して論じました。 当時としては早い段階での比較文化学(民俗学)を展開しました。 菌類の研究では新しい種70種を発見し、また自宅の柿の木では新しい属となった粘菌を発見しました。 民俗学研究では、『人類雑誌』『郷土研究』『太陽』『日本及日本人』などの雑誌に数多くの論文を発表しました。 1929年には昭和天皇に進講し、粘菌標品110種類を進献しました。 民俗学研究上の主著として『十二支考』『南方随筆』などがあり、他にも、投稿論文、ノート、日記のかたちで学問的成果が残されています。 フランス語、イタリア語、ドイツ語、ラテン語、英語、スペイン語に長けていた他、漢文の読解力も高く、古今東西の文献を渉猟しました。 言動や性格が奇抜で人並み外れたものであるため、後世に数々の逸話を残しました。 熊楠という天才の魅力は未完の天才という点にあります。 驚くほど多方面で才能を発揮し、生物研究ではキノコ、変形菌(粘菌)、シダ植物、淡水藻、貝類、昆虫、水棲腿虫類と幅広く扱い、熊楠の名が学名に付いた新種も少なくありません。 人類学、民俗学、比較文化、江戸文芸、説話学、語源学といった人文科学系の分野でも業績が多いです。 国際的な活躍もめざましく、世界最高峰の科学誌である「ネイチャー」には51篇、同じくイギリスの「ノーツーアンドークェリーズ」には324篇もの英文論考が掲載されました。 キノコを巧みにスケッチしたかと思えば、十数カ国語を解し、また環境保護にとりくんだことで「エコロジーの先駆者」とも呼ばれます。 とてつもない記憶力を誇り、十数年前にとったノートの内容をそらで思いだすことができたそうです。 ロンドン抜書や田辺抜書といったノートに数万ページにおよぶ筆写をおこない、「人類史上、もっとも字を書いた」といわれることもあります。 思想家とか科学者とか政治運動家とかいった、個別の分類にはあてはまらない人物が熊楠なのです。 しかし、熊楠の仕事はほとんどが未完に終わっています。 睡眠中に見る夢のもつ意味を一生をかけて追い求めましたが、最終的な結論は出ていません。 柳田国男とともに目本の民俗学の礎を築いたものの、途中で喧嘩別れしてしまいました。 キノコの新種をいくつも発見していたのに、ほとんど発表していません。 英語でも日本語でも多数の論考を書きましたが、集大成となるような本はついに出版されずに終わっています。 神社林を保護するために、日本で最初期にエコロジーの語を導入しましたが、もっとも大切な神社については守れませんでした。 なぜか熊楠は完成を嫌っていて、未完性は熊楠をめぐる最大の謎なのです。 熊楠が手を付けたのがいずれも難しい分野だったことが指摘できます。 そして、そもそも結論を出すために学問をしているわけではありません。 学問をすること自体が楽しく、充足した時間なのでしょう。 そして未完であるのも、案外、悪くありません。 むしろ怖いのは、終わってしまうことなのです。 やることがなくなり、追究すべき「謎」がなくなってしまったら、どうしたらいいのでしょうか。 著者は、もっと別にやりたいことがあれば、熊楠研究から離れてもいいけれど、これほどおもしろいテーマ/人物もなかなかいないです。 さいわいにして、熊楠の資料はまだ山のようにある。当分、熊楠研究が「終わる」心配はなさそうだといいます。 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]第1章 記憶力ー百科事典を暗記する/第2章 退学と留学ー独学の始まり/第3章 ロンドンでの「転身」-大博物学者への道/第4章 語学の天才と、その学習方法/第5章 神社合祀反対運動と「エコロジーの先駆者」/第6章 田辺抜書の世界ー人類史上もっとも文字を書いた男/第7章 英文論考と熊楠のプライドー佐藤彦四郎というライバル/第8章 妖怪研究ーリアリスト熊楠とロマンチスト柳田国男/第9章 変形菌(粘菌)とキノコー新種を発見する方法/終章 熊楠の夢の終わりー仕事の完成と引退とは何か?未完の天才 南方熊楠 (講談社現代新書) [ 志村 真幸 ]南方民俗学新装版 南方熊楠コレクション (河出文庫) [ 南方熊楠 ]
2023.12.09
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