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今日から3月2日まで、外出および旅に出ますので、日記更新ができないかもしれません。一応、携帯で書き込む準備はしておきますが、きっと無理でしょう。訪問してくださる方、ごめんなさい。
2005年02月25日
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私は天皇・皇后両陛下と皇太子ご夫妻のファンである。だから、この方々の会見などがあると、つい見てしまう。私のこの感情は、この方々の人格に素晴らしいものを感じるからであって単に皇族だからというわけではない。皇族の中にも、何となく好きになれない人ももちろんいるからだ。さて、皇太子殿下の会見と、その後のメディアの取り上げられ方などを見ていると、やはりこの方々は日本にとって大きな役割を果たされていると思った。特に、会見の中で紹介されたドロシー・ロー・ノルトの詩は、これで一躍脚光を集めたようだ。この詩については、私も以前から知っていたし、彼女の著書「子どもが育つ魔法の言葉」は随分多くの人に読まれているようなので、子育て中の人はよく知っている詩ではないだろうか。ちなみに私は、この本は読んではいない。天邪鬼な私は「魔法の言葉」というフレーズに違和感を覚え、書店でパラパラと立ち読みしただけであった。この詩については、何かに引用されていたのを読んだように思うし、その時に「とても大切な指針だ」と思ったものである。宮内庁のHPから、この詩を引用する。批判ばかりされた 子どもは非難することを おぼえる殴られて大きくなった 子どもは力にたよることを おぼえる笑いものにされた 子どもはものを言わずにいることを おぼえる皮肉にさらされた 子どもは鈍い良心の もちぬしとなるしかし,激励をうけた 子どもは自信を おぼえる寛容にであった 子どもは忍耐を おぼえる賞賛をうけた 子どもは評価することを おぼえるフェアプレーを経験した 子どもは公正を おぼえる友情を知る 子どもは親切を おぼえる安心を経験した 子どもは信頼を おぼえる可愛がられ 抱きしめられた 子どもは世界中の愛情を 感じとることを おぼえる引用元は「あなた自身の社会 スウェーデンの中学教科書」(アーネ・リンドクウィスト,ヤン・ウェステル著,川上邦夫訳:新評論から出版:155頁)に収録されているものこの詩に感動し、「その通りだ!」と思う人は多いだろう。しかし、その思いを正しく実践できる人はどのくらいいるだろう。子どもが本当に安心することはどのようなことか、フェアプレーとは何か、寛容とは具体的にどのようなことなのか、子どもと共にそれを探りながら、子どもの個性に合わせて向き合うには、大人の言動に、忍耐と寛容と愛情が貫かれていなくては意味をなさない。今の日本の現状を見ていると、それが甚だしく欠けていると思うことが多い。そのような日本において、天皇・皇后ご夫妻や、皇太子ご夫妻の姿は、それを必死になって実行しようとしているように感じる。だからこそ私は、この方たちを尊敬し、応援したい気持ちになるのだ。そう感じられるからこそ、「天皇制」は日本にとって、とても大切なものかもしれないと思っている。だが、もしもイギリスの王室のような状況だったら、私は「こんな皇室いらない」と思うだろう。今のところ天皇制を否定する気はないが、この皇室ご一家の苦悩や努力の姿を垣間見ていると、あまりにも国(民)は、この方々の人徳や誠実さや努力に甘えているとも思う。天皇ご一家とて生身の人間である。皇太子殿下が昨年「人格否定」というような強いお言葉を使われたのは、一人の人間としての悲鳴のように私には思えたものだ。憲法で認められている「基本的人権」は、立場を問わず認められるべきだ。人間である天皇に対して「象徴」であれということに、私はずっと違和感を覚えてきた。だからといって、天皇制と皇族の基本的人権の保障がどのように両立するのかは、今の私にはわからない。可能な限り両者の整合性が図られることを、心から願っている。それにしても、皇太子殿下はすばらしい方だ。ご自分や家族のことを語りながらも、日本人にとってとても大切なことを、しっかりとお話されている。雅子妃殿下も、この方の愛情と誠実さに支えられて、必ず本来のご自分を取り戻されるに違いない。考えてもみてほしい。海外での生活が長く、普通の日本人よりもはるかに「自由と責任」を体得してきた方が、「籠の鳥状態」となったのだ。プライバシーを大切にする風土の中で育った人が、常に他人の目にさらされる状態になったのだ。さらに、「男子を産め」などという、一般人にはセクハラと非難されるべきことを、公然とされてきたのだ。どれほど忍耐強く適応力があろうと、これで心身を疲労させない人がいたら、それはロボットである。いや、ロボットですら反乱を起こすかもしれない。私は、10年近くもそれに耐えられた雅子妃殿下の底力は、賞賛に値すると思っている。だからこそ、このような状態のときには必要以上の詮索や追っかけは、天皇制を守りたいと思うならば控えるべきだと思っている。ファンとしては、心配しながらも雅子妃殿下の映像が長く見られなくたって、いくらでも我慢できますから。
2005年02月24日
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久しぶりに、実家と実家の周辺の光景の夢を見た。私の実家は田舎なので、周辺の光景は私の子ども時代とさほど変化はない。ただし、「家屋」は30年ほど前に新築したので、子どもの頃住んでいた家は今はない。時々、実家の夢を見ることはあるのだが、登場人物は現在の人たちであっても、家屋だけは昔の家である。昨夜の夢も、そうであった。そこにいる私は間違いなく「今の私」であり、夫も登場人物の一人。しかし、家や庭は昔のままなのだ。さらに、庭の池は今よりはとても大きく、裏山も小高い丘だ。裏山から見る家は、随分と距離があるように見える。多分、それは私が子ども時代に見ていた家や裏山や池の印象なのだろう。背丈も歩幅も小さい子どもにとっては、裏山は大きな山に見えていたのだろう。そして、さほど大きくもない池も、湖のように見えていたのかもしれない。裏山にある「倉庫」は、今は夫の「趣味小屋」になっているのだが、それもやけに大きく覆いかぶさるような建物に見えた。夢の中で私は、その前で何か作業をしている誰か(夫かもしれない)に「ここ、こんなに大きかったっけ?」と聞こうとしていた。意識は、今の私のようであり、夢の中の光景に若干の違和感を覚えているようなのである。久しぶりに見たリアリティーのある夢だったけれど、それだけに何だか不思議な気分である。
2005年02月23日
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「死亡」と判断、安置所に その後「生きている」 20日午前10時15分ごろ、北海道北見市豊地を流れる無加川の堤防で、北見市内の女性(27)が倒れているのが見つかった。現場に駆けつけた北見消防署の救急隊員は死亡と判断し、女性は北見署の遺体安置所に搬送された。ところが、北見署の刑事課員が「心臓が動いているのではないか」と不審を抱き、検視のため来署していた医師の診断で、約1時間半後、生きていることが分かった。 北見消防署によると、女性は死後硬直のような状態が見られ、意識や脈拍はなく、瞳孔が散大し、呼吸もしていなかったという。午前10時半現在の北見市の気温は零下2.2度。明け方までの最低気温は零下5.7度だった。一方、遺体安置所の気温は約5度。北見署は「低温では仮死状態になることもある。その後、息を吹き返したのではないか」とみている。 女性はその後、病院に搬送されたが意識不明の重体。遺書があったことから、北見署は川への投身自殺とみている。(朝日新聞) 20日 このニュースを聞いた時には、とても複雑な気持ちになった。息を吹き返した時の医師の驚き、それを知った救急隊員の衝撃、そして命を取り留めたあとのこの女性の人生。これが「運が良かった」となるか「運が悪かった」となるのかは、この女性のその後の人生にかかっているのだが・・。それにしても、自分の命は自分でどうにかなるものではないのだなと、つくづく思う。自殺という方法だけが、自分の命を自分の意志で決定できることだと思いがちだけれど、このようなことも多い。やはり「命」は何かから肉体と共に預けられたものであり、安易に個人の都合で左右してはいけないものと、私は思う。命がある間は、生きるのが最大の仕事。この女性が、どのような経緯の中で自殺を決意したのかわからないが、せっかくもう一度与えられた命を大切に生きて欲しいと願う。それにしても、日本人の自殺者数の多さにはいつもビックリする。確か、20年程前には「交通事故死の二倍」と聞いてビックリした記憶があるが、今では三倍近いと聞いた。【参考資料 】 H16年7月発表 警察統計資料より. 自殺者数の年度推移これを見ると、50代以上の男性が圧倒的に多い。(つまり、私と同世代もしくは以上の人たちだ)色々な分析がされているのだとは思うけれど、働き盛りで生命力旺盛であるべき人たちがこれほど死にたくなる社会というものは、やはりどこか歪んでいるのだろうと思う。私は、若い頃には何度も死の誘惑にかられた体験があり、それを抜けてからの人生は「お釣り」のような気がしてきた。誘惑に駆られていた頃に「死」がとても近いものだったせいか、死に対する恐怖感も人より薄いような気もする。(ちなみに、その当時一番良い死に方として考えたのは、「酷寒の季節にお酒(もしくは睡眠薬)を飲んで雪原で寝込む」方法。今回のニュースのようなパターンを目論んだ)その後は、福祉の世界で仕事をしたせいもあり、様々な死を考えることも多かった。退職してからは、先日の日記にも少し書いたけれど、祖母や叔母の「老いと死」を見つめる中で、自分なりに色々な「病老死」のバージョンを身近に考える機会が多く、どんなパターンになっても引き受けなくてはならないなと思うようになった。そんな今の私には、「自殺」という選択肢はない。もしも「うつ病」になって、その症状として「自殺念慮」が生じたとしても、きっと「ダメダメ、それだけはダメ」と自分に言い聞かせることだろう。今のNHKの朝ドラ「わかば」では、「人生生きてるだけで丸儲け」というセリフがよく言われている。私は「丸儲け」とまではなかなか思えないのだけれど、生きていなくてはそのように感じる瞬間もないとは思う。「生きていればこそだな」と思える瞬間をいっぱい心に刻んで、忘れないようにしたい。今、死にたいと思っている人にも、きっと楽しい瞬間はあったはずだ。死にたい気持ちになるのは「どん底」の証拠。どん底まできたのだから、後はきっと浮上するに違いない。それを信じて、何とか今日一日を生きて欲しい。疲れたならば、休めばよい。思いっきり休んだら、きっと自分の中の生命力が動き出すに違いないのだから。その時を待ちながら、生き生きした自然や動物達と触れ合ってほしい。私達は自然の一部として生まれ、生きているのだから。自然は、自然の死しか優しく受け入れてはくれないのだから。
2005年02月21日
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叔母が97歳で亡くなった。お元気な頃は、とてもしっかりした頭の良いおばさんだった。10年ほど前に骨折して入院したのを機に、一気に老化が始まった。「寝たきりになるとボケる」とはよく聞くが、叔母もそのような経過をたどったように思う。在宅での介護が家族の事情もあってままならず、特養老人ホームに入所し、体調に応じて入退院を繰り返していた。時々私がホームなどに顔を見に行くと、最初の頃はすぐに涙を流すので困ってしまったものだ。不自由になり、日常生活のすべてに介助が必要になった我が身が、とても気丈で「人のお世話をしても世話にはなりたくない」というような人だっただけに、悲しく情けなかったのだろうと思う。子ども達も遠く離れている人が多く、さほど頻繁に会えないという淋しさもあったのかもしれない。私の母などは、「すぐに泣くからお見舞いに行くのも辛い」などと言っていた。私は、わざわざ叔母に会いに行っていたわけではなく、別の用事でホームを訪問した時に顔を見せる程度だったが、涙を流しながらでも喜んでいるのがよくわかったし、何より身内と言っても叔母なので、心理的に楽だったのだと思う。それでも、行くたびに体力も気持ちも認知力も衰えていくのがよくわかり、祖母を見送った時にもそうであったが、「老いる」という姿を教えてもらったような気がする。数年前からは、いつもウトウトしているような状態になり、声をかけてもなかなか目をあけてくれなくなった。それでもせっかく来たのだからと、耳元で「おばさーん、○○だよ。わかるかい?」などと呼びかけると、うっすらと目を開けたり、時には口をモグモグさせて声を出そうとしてくれた。「聴覚」は最期まで機能していることが多いと聞いていたので、できるだけ声をかけるようにしていたのだ。一度、母と一緒に見舞いに行ったとき、私が耳元で声をかけてもあまり反応がなく、母は「だめだね。もう何もわからないんだろう」と言った。その時「反応できなくても聞こえているのかもしれないから」と言うと、母はそんなことは信じられないという顔をしていた。母に言わせると「こんなになってまで生きていたくない」ということになるのだが、いくら眠っているように見えても、枕元では決して言わないように注意したものだ。先日、交通事故の障害で20年も言葉のなかった女性が、突然話し始めたというニュースを聞いた時、私は叔母のことを思い出した。叔母もきっと、反応できなくても聞こえているのではないかと。そんなニュースから間もなく、叔母の容態が急変して亡くなったという知らせを受けた。病院から自宅に戻った叔母のお悔やみに行った時、集まっていた子や孫達の中に、本州に住んでいるいとこがいた。容態急変の知らせに飛んできて、幸いに最期の時に間に合ったのだと言う。「きっと、私のために頑張っていてくれたんだと思う」と言っていた。私も、きっとそうだろうなと思った。集まった家族の、「○○ちゃんがもうすぐ来るよ」「頑張って元気になって!」という呼びかけが、きっと叔母には聞こえていたのではないかと。そのことが、叔母の最後の命の灯火を燃やし続けたのではないかと・・。祖母が死んだ時もそうだった。容態急変の病院からの知らせに私が駆けつけるのを待っていたかのように、私が医師から説明を聞いている時に命が尽きた。確かに私が病室に入った時は、荒い呼吸で酸素マスクをつけていた。祖母の手を握り、「おばあちゃん、さっきまで元気だったのにどうしたの?」と声をかけ、祖母の手を握って医師の話を聞いていたのだ。きつと祖母は、見た目には意識がなかったけれど、私の声を聞いてホッとして、安心して逝ったのだと私は思っている。きっと、叔母もそうだったのだと思う。なかなか会えなくて案じていた子ども達への、最後の「子ども孝行」をしていったのだろう。叔母の顔は、本当に安らかだった。意識がうつらうつらしていた頃の悲しげな表情ではなかったことが、残された身内にとっては何よりもありがたいことだ。安らかな叔母の顔を見つめながら、私は心から思った。「おばさん、長い間本当にお疲れ様でした。そして、本当にありがとう」と。
2005年02月19日
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最近は心痛むニュースが多いので、何かホッとするニュースはないかと探していたら、こんなニュースをみつけた。119番 声が出せない急患「受話器たたいて答えて」 東京消防庁ナイスプレー記録のために、コピーしておく。機転を利かせセーフ東京都内のアパートで突然、脳梗塞(こうそく)を発症し、声がでなくなった男性(57)から119番通報を受けた東京消防庁の職員(39)が、機転を利かせてアパートを割り出して、男性を救出した。男性の命をつないだのは、モールス信号ならぬ、受話器をたたく「トン、トン、トン」という音だった。東京消防庁には救急車を求める119番通報が1日約1900件あるが、職員は「無言の叫び」を聞き逃さなかった。 一一九番を受信する総合指令室に男性から通報があったのは十三日午後七時二十分過ぎ。「救急…」と、かすかな声が聞こえたが、荒い息とともに、まもなく言葉が途絶えた。 固定電話だと、発信元を逆探知して救助に向かえるが、男性の通報は携帯電話。「これは緊急事態だ」と察知した職員は「合っていれば、受話器をたたいて」と男性に呼びかけて二十三区名を順に読み上げたところ、十三番目の練馬区で「トン、トン」と応答があった。職員はこの手順で町名や番地、アパートの部屋番号までを特定し、救急車を向かわせた。 駆け付けた救急隊員が、玄関先で携帯を握ったまま倒れていた男性を発見。男性は一命を取り留めた。 京都市では平成十二年、脳梗塞で倒れた男性が二十回も一一九番通報したのに、意識が混濁し声を出せなかったことから、消防局が「いたずら電話」と判断。男性を二日間放置した。男性はその後、慰謝料を求める訴えを起こし、京都地裁が「いたずらを前提とした消防局の対応は不法行為にあたる」と、市に慰謝料の支払いを命じた。 東京消防庁によると、救急車を求める一一九番通報は昨年一年間で七十万二千三百件。一日あたり約千九百件の計算になる。火災を知らせる一一九番通報やいたずらもあり、総合指令室は忙しいが、同庁は「通報者のかすかな異変にとことんまで確認するよう指導しているのが功を奏した」としている。 ◇≪脳血管疾患救急出動 年間2万2623件≫ 脳内の血管が詰まる脳梗塞などの脳血管疾患(脳卒中)は、日本人の3大死因のひとつ。東京消防庁では一昨年、脳血管疾患で2万2623件の救急車の出動があり、うち脳梗塞は1万2766件あったという。 厚生労働省の人口動態統計(平成15年)によると、脳血管疾患による死者は13万2067人で、がん、心疾患に次いで3番目に多い。脳血管疾患は昭和26年から30年間、日本人の死因トップだったが、近年は治療薬の進歩などで大きな後遺症の心配もなくなった。 医療関係者によると、カギを握るのは発症初期の治療。脳神経外科学が専門の東大名誉教授、佐野圭司さんは「後遺症を軽減できる目安は3時間以内といわれる。実際には発症から3時間以内に治療できるケースはそう多くないので、東京消防庁が機転を利かした今回のケースは珍しく、非常にいい対応だった」と話す。 発症初期の症状は、言葉が話せなくなる▽顔や手足など半身が動かない-など。「疑わしい症状が出たら救急車を呼び、早期に適切な治療を受けることが必要だ」と医療関係者。佐野さんも「脳梗塞では声が出なくなったり、言葉にならないケースは少なくない。今回のような合図を救急の通報の際、システム化できれば、より多くの人が助かるだろう」と指摘している。(産経新聞) - 2月18日3時6分更新記事を読んでいるだけでドキドキしてきて、助かったところを読んだら本当にホッとした。私の父も、脳梗塞の発作に何度か襲われている。若い頃から高血圧体質で、祖父も曽祖父も多分脳梗塞で体や言葉が不自由になって死んだという血統。幸いに間一髪で一命は取り留め、失語症という後遺症は残ったが、今も何とか(気持ちだけは)元気に暮らしている。最初の発作の時には、母と一緒にいたのだけれど、言葉のろれつが回らなくなり、手をバタバタさせて母に異常を伝えようとしたという。母はその時、脳梗塞ということが連想できず、何をふざけているのかと勘違いし「お父さん、何やってるの?」ととぼけた反応をして、父を焦らせたそうである。身内でさえそうなのだから、無言電話をいたずら電話と勘違いするのもある程度は同情できる。(それでも、20回も同じ人から119番がかかってきて、それを放置したのはやはりいただけない)そんなことを考えると、今回の対応は本当に素晴らしいと思う。それにしても、彼の意識が住所特定まではっきりしていて、本当に良かった。後遺症が残らず、元気になられることを願っている。
2005年02月18日
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某団体の例会終了後、仲間のAさんとランチをしながらおしゃべりをした。彼女は、関西に本校のある大学の通信課程で学んでいる。彼女はそちらの勉強のこともあって、しばらく役員としての活動を休止したいとのこと。(実は、私も役員なので、別の役員の人からそう聞いた)彼女が通信で勉強していることは、以前から別の人に聞いて知っていた。私は、自分が通信で大学を卒業したことをこの会の仲間には話していないのだが、Aさんが勉強と活動の両立に悩んでいるようなことを他の人から聞き、少し気になって声をかけたのだ。例会で次年度の役員は別の人に変わることになったので、そのことでまたプレッシャーを感じることがないようにとも思ったのだ。通信で大学の勉強をしていると聞いたら、多くの人が「偉いねー、あの人勉強家なんだ」などと言う事が多い。Aさんは、私なんぞより数倍真面目なタイプなので、一層そのように言われてしまう。彼女は会議などで「勉強が大変だから」なんて、一言も言っていない。多分、仲間の誰かにその話をしたことが、私の耳にまで伝わる結果となったのだろう。きっと彼女の本意ではないだろうと思いつつも、なかなか大学の勉強している意図が正しく伝わらないもどかしさを感じているのではないかと想像していた。そんなこともあり、会議終了後にランチに誘ったのだ。一緒に遅い昼食を取りながら、「通信で勉強しているんだって?」と切り出した。「えっ、知ってたんですか?」しばらく、彼女の勉強している内容のことなどを聞いた後、「実はね、私も通信で卒業したんだよ」と言うと、「エーッ!」と目を丸くして驚いていた。それまで多少硬かった話し方が、その時からリラックスしたように思う。大学は違えども、通信で学ぶ苦労と喜びは共通している。彼女もまた、いつか大学の勉強をしたいと思っていたようだ。しかし、お子さんがまだ学齢期と言うこともあり、自分のためにあまりお金をかけられないと、「短大」にしたのだそうだ。いつか、子ども達が育ち終わったら、大学に編入して勉強したいと言っていた。子育て中の時は、子どもが巣立つのは随分先のことのように感じるが、過ぎてしまえばあっという間だ。話を聞くと、彼女は資格や学歴欲しさというわけではないようなので、「焦ることないよ。ゆっくり勉強を楽しんだらいいよ」と話した。それでも、子ども達が高校や大学で学費がかかる前にケリをつけなくてはと、やはり少し焦っているようである。その気持ちは勉強に力を入れる動機にもなるので、決して悪いことではない。彼女の大学には、慶應における「慶友会」のような組織はないのか、あまり大学仲間とのつきあいはないようだ。そんなこともあり、大学の話を思う存分にできる相手(私)がいたことを、とても喜んでくれた。通信で学ぶことの楽しさや苦労は、やはりやった人でなくてはわからないところがある。学生気分で色々話せる相手がいるかどうかで、元気もやる気も違ってくる。慶應に「慶友会」という組織があったことを、あらためてありがたく思った。
2005年02月17日
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ヤンキー先生こと義家弘介(ひろゆき)北星余市高校教諭が、三月で退職するという下記のニュースを見た。<北星余市高>「ヤンキー先生」こと義家教諭が3月末で退職「ヤンキー先生」として有名な北海道余市町の北星余市高(佐々木成行校長)教諭、義家弘介(ひろゆき)さん(33)が3月末で同校を退職することが15日分かった。自身のホームページ(HP)で明らかにした。 HPによると義家さんは、14日朝の全校集会で、3月末で同校を去ることを生徒に告げたという。さらに、著書の執筆や講演などの活動を巡り一部から見解の相違がみられ、気持ちが揺れ苦悩したことなどが書かれている。4月以降の活動については白紙、生涯「教育現場」にこだわりたいという。 同校は「昨秋ぐらいから彼自身が揺れ始め、いろんな角度から話し合った末、本人が出した結論。今後も学校として応援していきたい」と話している。 義家さんは暴力事件を起こし長野県内の高校を退学後、88年に全国から退学した生徒を受け入れている北星余市高に編入学し、99年に教員として着任した。03年に著作がドラマ化され話題になった。【仲田力行】HPアドレスは、http://blog.goo.ne.jp/yankee-yoshiie-kokoro/ (毎日新聞) - 2月16日2時13分更新今朝の新聞でこの記事を見た時には、少しばかり驚いた。彼の講演も聞いたことがあるし、「ヤンキー母校に帰る」(かな?)というドキュメンタリーも見たことがある。その時の印象から、「北星余市高校の教師」ということにこだわっていくのだろうと、勝手に思っていたのだ。テレビドラマ化され、何冊かの著書も出し、全国から講演に引っ張りだこになり、なかなか「現場の教師」としての仕事ができないというジレンマがあったことは、容易に想像がつく。彼のホームページがあるということで読んでみた。そこには、「告白」というタイトルで、このような結論になった彼の心境が書かれていた。それを読んで、「ああ、彼は若いんだな」と思った。実は、彼の講演を聞いた時にも、似たような感想を持ったことを思い出した。脚光を浴び、素晴らしい教育実践をしているとは言っても、まだまだ発展途上の人なのだから、あまり彼に重荷を負わせないほうがいいような気がしたのだ。早い話が、「つぶされないように・・」という老婆心といえよう。しかし、彼を育てた北星余市高校なのだから、まさかこれほど早く退職することになるとは想像していなかったのだ。ともあれ、彼なりに精一杯考えつくした結論であったと思う。様々な苦悩や体験を通して、彼はまだまだ成長してゆくのだろう。そのことを願いながらも、あまりにも有名になってしまった彼が、不必要に気負ったり天狗になったり焦ったりして、その結果必要以上に傷つくことがないようにと、またまた老婆心ながら心配している。【追記】北星余市高校のサイトから、義家さんの別サイトを見つけました。(こちらが本来のもの?)義家弘介 Official site
2005年02月16日
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急にしなくてはならないことが押し寄せてきて、ゆっくり日記を書くこともできない気配。色々な事件やニュースが新聞やテレビに飛び交い、その都度色々な思いが心の中を走り回るけれど、まずはやるべきことをやらなくてはという気持ちでいる。今、時間があったらゆっくり考えて書きたいことは・・。●イラクの選挙結果…イラクの人たち、ガンバレ!●老人虐待…やっと見えてきた(`Δ´)●学校内での殺傷事件…防ぐ手はあるのか?●堀江貴文氏(ライブドア)のこと…彼の真意は?●小樽「雪あかりの路」…素敵だったよ( ^ー゜)b
2005年02月15日
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この本は、1977年(昭和52年)に東京都で起きた「開成高校生殺人事件」と、1979年の「祖母殺し高校生自殺事件」のルポルタージュである。公判の傍聴記録や、当事者・関係者へのインタビュー、座談会など通して、殺人事件の背景にあるものを検証したものである。「開成高校生殺人事件」は、一人息子の家庭内暴力に耐えかねた父親が、息子の将来を悲観して自宅で絞殺し、心中しようとしたけれども果たせずに自首した事件。裁判の途中で母親は自殺している。「祖母殺し高校生自殺事件」は、有名私立高校生が祖母を殺したあと、飛び降り自殺をした事件。彼の祖父・父親は大学教授、母親は脚本家ということで、当時は話題になった事件のようだ。二つの事件は25年も前のことである。この事件の頃、私は子育ての真っ最中であったが、まだ息子達が幼かったこともあり、事件の背景にあると思われる「受験戦争」や親の過干渉などについて、さほど身近には感じなかったような気がする。しかし、いずれも東京の有名進学高の少年事件ということで、息子を育てている身としては、他人事というわけでもなかった。(「いい子」が必ずしも安心できないのだと思ったような気がする)この本を読む気になったのは、某サイトで「エリートから落ちこぼれた人間の持つルサンチマン(恨み)を的確に描いたもの」と紹介されていたからである。そんなに古い本とは思わずに図書館から借りてきて、25年も前のものと知って驚いた。そして、読み終わった時に思ったのは、すでにこの時には、子ども達は「親の過干渉や過保護」「学校の受験一本道教育と管理教育」に悲鳴を上げ始め、大人への復讐が始まっていたというのに、私たち大人は真剣にそれへの反省もせずにきたのではないかということである。そして、この現状から、私達は何をしたらよいのか、何が出来るのかと、暗澹たる思いに捉われてしまった。この事件の頃に高校生だった子ども達は、今子育ての真っ最中である。昨今の様々な子どもを巡る問題は、この頃からジワジワと増え始め、今では「エリートになれなかった若者のルサンチンマン」どころか、「世間並みになれない若者のルサンチンマン」になってきているのではないか。「世間並」というのもいい加減な概念であるが、そこからの「落ちこぼれになる」という不安感は、かなり大多数の子ども達に覆いかぶさっているようにも思う。子供たちの復讐は、このままでは決して減ることはないだろう。それに加えて、「あの時代には何とか暴発せずに過ぎたかつての子ども達」の復讐問題もクロスしたり重なったりで、問題はいよいよ複雑になっているのだろう。
2005年02月14日
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このニュースを聞いた時、「とうとう、そうなったか・・」と思った。あえて日記に取り上げることでもないかもしれないが、何となく心がスッキリしないので、そんな自分の気持ちの理由について書いておこう。この二人の喜びの映像を見て、私はとても悲しくなってしまった。二人にとっては、色々なことがあったにせよ、苦難を乗り越えて愛を成就させたことになるのだろうけれど、その顔を見るととても「嫌な感じ」を受けるのである。そう見えるのは、ダイアナ妃のことや長年の不倫関係というイメージが、私に偏見を抱かせているのかと思い、何度か二人の顔を見直してしまった。そして、やっぱりこの二人の顔は「いい顔」ではないと思っている。多分、この二人はとても「似たもの同士」で相性も良いのだろう。最初からこの二人が結婚し、祝福された形で人生の時間を共に歩めたら、きっと素晴らしい「皇太子ご夫妻」であったのだろうと思うし、もっと良い顔になっていただろう。愛の成就と言えば聞こえは良いが、そのために多くの人の心を乱し、苦しめてきたことは、どのような形であれ自分達の責任として引き受けなくてはならない。ここまできたら、これが一番良い形なのかもしれないが、彼等の顔に見える嫌な影は、隠しおおせるものではない。生きている限り、誰かを傷つけずに生きることはとても難しいが、人の心の痛みを踏みつけにしている人たちは、そのような顔になってゆく。人間の顔というものは、実に正直なものだと思う。記録のために、ニュースをコピーしておく。チャールズ英皇太子再婚へ 愛人カミラさんと2005年02月10日(木) 【ロンドン10日共同】 故ダイアナ元妃と1996年に離婚したチャールズ英皇太子(56)は10日、長年交際を続けてきたカミラ・パーカーボールズさん(57)と再婚すると発表した。エリザベス女王は結婚を祝福する声明を出した。結婚式は4月8日、ロンドン郊外のウィンザー城で行われる。カミラさんも離婚歴のある2児の母。カミラさんと皇太子の不倫関係は、国民的人気があったダイアナ元妃が皇太子と離婚した原因となり、英国国教会の中にも再婚に慎重な意見もあった。しかし97年のダイアナ元妃の事故死から時間が経過し、エリザベス女王は2人の交際を容認。世論では2人の再婚支持が多数派となっていた。皇太子は「非常に喜んでいる。当日はわたしたちにとって本当に特別な日になるだろう」との声明を発表。ブレア英首相も「喜ばしい」と再婚を祝福した。
2005年02月11日
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合併後の市の名前が「南セントレア市」とニュースで聞いた時は、「何? それ!」という感じで、ばかばかしいというのが第一印象。自分の町のことならば必死になって反対運動に走ると思うけど、ずーっと離れた町のこととなると、やはり他人事。でも、きっとこれは反対運動が起きるだろうなとは思っていた。今朝、ネット上で「南セントレア市、白紙撤回」のような記事を見て、「やっぱりね・・」と思った。住民の皆さん方は、協議会委員よりは賢かったのだろう(?)この新市名を決めたのは「美浜町・南知多町法定合併協議会」のようで、行政にとって大切なことを決めたり方針を定めるためには、必ずこのような「○○協議会」が組織される。一般的には行政も含めた市民の有識者や団体・組織長によって編成されるが、委嘱するのはたいてい「首長」なので、どちらかといえば行政方針に添った考え方をする人が選ばれやすい。つまり、日頃から政府や行政批判の旗振りをしている人は、間違っても委嘱されることはない。ただ、時々は、仮面をかぶって体制協力者のように振舞いながら、実は強烈な批判精神の持ち主などが「公募」の形で紛れ込むから、最近の行政マンも気が抜けないところだ。このようなタイプの人は、このあたりでは「新住民」に多いような気がする。そして、この「○○協議会」の協議内容について詳細に住民に知らされることはほとんどなく、全てが決定し答申としてのキチンとした体裁が整ってから、やっと公開されることが多いと思う。それが無用な混乱を避けるには必要だというのも一面においては正しいが、今回のように全国に恥をさらすことにもなる。話がそれたが、私が想像するに、多分、何度もの協議を重ねるうちに、「あちらを立てればこちらが立たず」のジレンマが渦巻き、さらに合併となれば市の名前などよりはもっとシビアな行政的課題が山積し、そちらにも話し合いの時間が膨大に費やされ、委員の人達も平常心や冷静さを失ってしまったのではないだろうか。同時に、多くの○○協議会委員の方たちは中高年(というよりも高齢者)が多く、『カタカナ語コンプレックス』があるんじゃないかと思う。何となくカタカナ語の方がカッコいいような錯覚に捉われやすく、(同世代の)他人が知らないことを自分が知っていることに優越感を抱きやすく、行政マンの(一見)もっともらしい説明に納得しなければ、自分が「古臭い頑固オヤジ」と思われることを避けたい傾向を持つ。ひどいことを書いてしまったが、当たらずとも遠からじではないだろうか。以前の日記にも書いた気がするけれど、そのような人たちを上手に利用するために、行政はあえて「カタカナ語」を多用するのではないかと、私はひそかに訝かしんでいる。どうしても日本語に変換できない「概念」などの言葉には、いくつかやむを得ないこともあろうが、時にはカタカナ語の後の( )内に日本語を併記していたりする。それをするくらいなら、まず日本語表記をしてからカツコ内にカタカナ語を入れたらいいのに。ちなみに私は、何度かこの手の指摘をしたことがあるが、残念ながらそれが通ったことがない。そのような言葉を使うのが現代の趨勢だというような説明である。もう、十数年もまえのことだが、私が所属していた「福祉業界」も、「ノーマライゼーション、ケア、ホームヘルパー、デイサービス」などなどと、カタカナ語が満載だった。海外の福祉システムを導入する時には、その分野で働くものはまず知らなくてはならないことだが、日本にシステムとして導入する時には、そのまま工夫もなく使うことに私は違和感を覚えていた。一番そのシステムを使うお年寄り達がピンと来なくて、どうしてよい運営が出来るかと思ったのだ。そして、世の中には福祉関係の学者さん達がいっぱいいるだろうに、どうして「適切な日本語訳」を研究しないのかと苛立っていた。明治時代の人たちは、その点では本当に偉かったなと思う。日本人はカタカナ語をありがたく勉強することに優越感を抱き、どんどん愚かになってきたような気がする。ともあれ、「南セントレア市」というばかばかしい名前は、住民の真っ当な感覚で回避できるようだ。町長をはじめ合併協議会の皆さん達には、これを契機にぜひとも我に返っていただきたい。【補記】ひょっとすると、月曜日まで日記を更新できないかもしれません。今、天木直人氏の「マスメディアの裏を読む」を読んでいて、私が最近、何となく釈然としていなかったことについて書かれていたのでご紹介します。 イスラエルとパレスチナの首脳会談に思う
2005年02月10日
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一週間ほど前に、このHPを読んだ方から、ギリシャ時代の教育についての質問をいただいた。それをきっかけに、「教育思想史」のテキストやノートを見直したので、フリーページに追加することにした。このテキストは昭和54年初版(西村晧著)だから、まだ使われているのだろうな。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ふと窓の外を見ると・・、えー、また雪が降ってる!また雪かきしなくちゃならないの?!もう、雪、いらないっ (゜ヘ゜)
2005年02月09日
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10時半頃から、5月に計画している行事のことについて、今後の日程や計画原案について仲間と話し合いをする。まずは、核となる私たちのモチベーションを高めることが大切だ。具体的な計画案を検討することを通して、やる気が出てくる。私はもともと「不精で非活動的」なタイプだと思う。そんな私でも、「これはやらなくちゃ」と思うことができたら、モゾモゾと動き出すことが出来る。さらに、上手にお尻を叩いたりおだてたりしてくれる人がいると、「頑張っちゃおうかな」なんて思ったりする。私は「おだてられて木に登ろうとする豚」なので、そのような相棒がとても大切なのだ。今日話し合った人は、その点で私には最高の相棒である。目標が定まり、具体的にやることがハッキリしてきたら、あとはそれを行動に移すこと。それを一つ一つこなしていったら、いつか目標に近づいていくものだ。これは、何ごとにおいても同様だと思う。「これがやりたい」と自分が思うことが一番大切なことで、他からの強制ではやる気は出ないし効果も上がらない。自分の目標に一歩ずつでも近づいていくという喜びなくして、誰がお金にもならない努力や苦労をするものかと思う。午後からは、○○推進計画検討会議。行政がらみの委員会である。喧々諤々の話し合いがいよいよ形になってきた。最近は行政のやり方も少しずつ変化していると感じている。今日の会議も、市民の立場からの具体的な意見が出されて、お互いにとても勉強になった。この会議は、自分の意見がきちんと受け止められていると感じて、たとえその意見が通らなくても何だか気持ちがよい。市民の要望は多岐にわたって限りがないが、予算には厳しい限りがある。そのところを埋めてゆくのが、市民同士の知恵と行動である。知恵と行動を出し合っていこうという気になること、つまり「モチベーション」を高めるために大切なのは、自分がどのようにしたいのかというビジョンを持つことだ。それがはっきりしていたら、自ずと自分に何が出来るのかと考えるようになる。そのような気持ちになってゆくためには、まず自分の考えや願いを誰かがきちんと受け止めてくれることから始まる。逆に言えば、誰かの思いをキチンと受け止めるということだ。お互いの願いの中に共通するものが見出せれば、立場の違いを超えて協力し合えるはずである。これもまた、色々なことに共通することだろう。
2005年02月08日
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萩原健一が恐喝未遂ということで逮捕されたそうな。彼は今までにも何度かお騒がせなことをしているような記憶があったので、「またかいな」とニュースを見ていたら・・。へー、留守電に脅しメッセージを入れただけで逮捕できるんだと、ちょっとビックリ。桶川ストーカー殺人事件の時のことと比較すると、雲泥の差じゃないか。彼の味方をするわけではないが、何だか変な気分。曽我ひとみさんのお父さんが亡くなった。拉致被害者の家族は、みんな高齢になっている。いや、被害者本人も曽我さんの母親などのことを考えたら、充分に高齢だ。被害者家族の人たちの心境を思うと、とても切ない。同じ日、北朝鮮のサッカーチームが来日。大変厳重な警備がされているようだ。これもまた、複雑な気分。札幌雪祭が始まった。今年で「自衛隊真駒内駐屯地会場」はおしまいだとか。自衛隊の部隊再編や自衛隊の本来業務との関係で、今まで同様の協力は得られなくなるようだ。今の雪祭は自衛隊に依存しすぎていると感じていたのでそれには異論はないのだが、真駒内会場の大すべり台がなくなるのは、子ども達には寂しいことだろう。自衛隊駐屯地のある町では、「自衛隊縮減反対運動」が起きているようだ。小さな町にとっては、自衛隊員とその家族が少なくなるのはとっても困るのだろう。それはわかるけれど・・、これも複雑な気分。最近は犯罪も増加しているし、色々と厳重警備が必要なことも起きるし、留守電への脅迫メッセージでも捜査や逮捕が必要なら、ドーンと警察官を増やすべきではないのか?でも、裏金の仕事だけはやめておいてね。
2005年02月07日
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昨夜、この番組を見て、怒りが込み上げてきた。まずNHKのサイトから、この番組の紹介文を下記にコピーする。今、モノ作り大国・日本の製造現場は、フリーターによって支えられている。ヒット商品が出れば一挙に大量生産、売れなければラインはすぐに閉鎖される。生産変動に対応できる企業だけが、厳しい国際競争を生き抜くことができる。コストダウンのため、企業が積極的に活用しているのがフリーターだ。正社員と比べて容易に雇用を調整することができ、人件費も安く抑えられる。バブル崩壊以降、多くの企業が、モノ作りの担い手として若者たちを使っている。現在、全国の製造現場で働くフリーターは、100万人にのぼると言われている。 番組の舞台は、栃木県にある通信機器メーカー。携帯電話の増産のために、急きょ労働力が必要になった。北海道や九州などから集められたのは、20代から30代半ばのフリーターたちだ。仕事に耐えきれずに工場を去る者。より良い待遇を求めて全国を転々とする者。さらに、フリーターから正社員への昇格を目指す者など、一人一人の価値観は様々だ。 先の見えない中、全国各地の工場を漂流するフリーターたち。今、製造業の現場で何が起きているのか。フリーターたちの半年を見つめる。私はいつも、「ニート」「フリーター」などの若者達を、「今の若い者達には困ったものだ」というような論調の報道などを目にすると、「そうさせているのは、あんたたちだろう!」という怒りを感じていた。働きたいと思ってもちゃんとした就職口がない現状、しかたなくてアルバイトをしようとしたら、そこにはリストラされたおじさんたちや、家計のために働きたいおばさんたちがひしめいている。社会経験のない若者達は、そこでも弾き飛ばされがちだ。それなのに、大人たちは「夢を持て」だの「辛抱しろ」などと建前だけで説教する。若者達が失敗しながらも社会経験を重ねて、希望を持てるような環境をつくろうともせずに何をかいわんやという感じだ。そんなところにこの番組を見て、「あー、ここまできているのか」と、あらためて自分の認識が甘いことに愕然とした。ここまで人間を使い捨ての機械部品のように扱って、それが「社会の厳しさ」として当然のように推移していることに、本当にゾーッとしている。話は少しそれるが、最近は自治体も財政再建の名目で、正職員数が減らされている。その分を「臨時職員」でカバーすることが多い。そのほとんどが、若者か「主婦or女性」である。本当に臨時的な仕事ならまだしも、正職員同様、あるいは正職員以上の働きをしている人だっている。どうも人間というのは、毎月の給料に不満がなくなると堕落しやすくなるようで、その分、「いつクビにされるかわからない」人達の方が、必死に良い仕事をしていることだってある。あるいは、「いくら働いても正職員にはなれない」と諦めた人は、そこそこの仕事で流そうとしたりする方向にいく人もいる。(これは、主婦や若い人達に多いように感じるが、人による)いずれにしても、一度良いルートに入れた者はどんどん上昇気流に乗り、入りそびれたものは割の合わないルートをぐるぐる回る。やっぱり、この世の中、どこか間違っている。若者の夢を踏み潰すような社会には、明るい希望は持てない。そして、合理化してうまくやっているつもりが、いつしか自分の首をしめることになるのだ。
2005年02月06日
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☆除雪に自衛隊が出動さきほどのテレビニュースで、中越地震の被災者が暮らす小仮設住宅で、自衛隊員が出動して除雪作業をしている光景を見た。「やっと・・」という感じである。この数日、仮設住宅はもとより、地震で住宅に補強をしながら住んでいる人たちが、屋根にのぼってスノーダンプで雪下ろしをしている様子などを見ながら、このような時こそ機動力のある組織的ボランティアや、自衛隊が協力したらよいのにと歯がゆく思っていた。もちろん、自衛隊は自治体などからの要請がなければ出動できないが、このところの大雪は完全に「自然災害」と言える。もっとすばやい対応が出来ないのかと思うが・・。雪国の人たちは(私も含めてだが)、冬に雪と格闘することが当然になっているので、「参ったなー」と思いながらも自分で何とかしなくてはならないと思っている。だから、高齢者が雪下ろしをして転落したり、落雪による事故などが絶えない。(時には死亡事故につながるのだ)普通の状況での大雪でも十分にお気の毒だけれど、新潟中越地方の、特に地震被害に遭った人たちは、二度被災したと同じようなものである。屋根に雪が積もり、家が軋み、窓も雪でふさがり、すが漏りが始まる心細さを想像してみてほしい。そのような状況の人たちにとって、自衛隊員の人たちの力強い排雪作業は、どんなに心強いことか。どちらにしても、もう雪はいらない。ちなみに私の住む町も、充分雪に埋もれている。
2005年02月05日
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といっても、昨日に続き他の人のHPの紹介。「お気に入り」にしている「天木直人・マスメディアの裏を読む」の「『武士道』をありがたがる風潮」を読んで、とても共感した。私は「武士道」の単行本を持っている。この本を買ったのは、多分5~6年前。それ以前にもこの本を読んだことはあったが、この本が最初は英語で書かれていてそれを和訳したものだったとは、恥ずかしながらその頃まで知らなかった。あの当時、日本を理解してもらおうと英文でこの本を書いた新渡戸稲造を、心から尊敬せずにはいられない以前にこの本を流し読みしたのは随分若い頃で、私の中の問題意識とマッチしていなかったためか、あまり感動した記憶はない。しかし、何年か前にこの本を再度読んだ時、私自身の「武士道」のイメージとは違うことに驚いた。そして、ここで主張されていることは、その頃からエライ人たちが「武士道」「道徳」などを主張する言葉への、批判に近いような感じを受けた。それは、キリスト教徒としての新渡戸稲造が解釈した「武士道」だからで、その分だけ視野も広く普遍性を持っているからだろうと思っていた。だから、その後も政治家達が「武士道」なんて言葉を引用したりすると、そこはかとない「違和感」を覚えていた。そんなこともあり、2月3日の天木氏の文章に共感したので、下記にコピーしておく。 「武士道」をありがたがる風潮 2月3日 05年第24号サマワに行った自衛隊の隊長が、正確な表現は忘れたが、日出ずる国から来たサムライが暗闇のイラクを照らしに来ました、などという意味のセリフを吐いたことが報じられていた事があった。この例を持ち出すまでもなく、最近の日本の風潮は、日本人の心のよりどころとして、「武士道」の教えがもてはやされている。そして巷の書店には、新渡戸稲造著の「武士道」の解説本が積まれている。私もそれを手にしてあらためて読んでみた。「武士道」が教えるところ、すなわち「勇」、「仁」、「礼」、「誠」、「名誉」、「忠義」などの価値を掲げそれに向かって自己抑制や克己心を説くことは、一見すればもっともな様に見える。混迷の中で無信仰に生きる今の日本人の多くにとっては、心のよりどころになるかもしれない。私自身もどちらかというと、物心がついたころからそのようなストイックな生き方に惹かれて、自らを鍛えようと考えたりもした。しかしである。「武士道」なるものが本当に日本人の総意としての価値になって定着しているのであろうか。いくら武家に育ったといえども武士でもない新渡戸稲造の書いた「武士道」とはなにか。(この点については、新渡戸自身が、ベルギーの法学者ラブレーに聞かれて、「日本人には宗教が無い」と即答した自分に愕然とし、それにかわる日本人の倫を、家庭内で交わした会話の中から整理したに過ぎないと認めている)。「武士道」にいう教えは何も日本に限ったものではなく普遍的なものではないのか。そして何よりもその「武士道」が、昨今の軍事を重視する風潮の再来の中で指導者が国民を誘導する道具に使われる恐れは無いのか。そう思っていた矢先に、2月2日付の朝日新聞夕刊に、わが意を得たり、という記事があった。「武士の逆襲」(講談社現代新書)を書いた東京大学教授(倫理学・日本倫理思想)の菅野覚明氏(49)が次のように述べているのである。「新渡戸稲造の語る武士道精神なるものは、武士の思想とは本質的に何の関係も無い」、「当事者としての武士を全く無視」、「新渡戸は近代を生きたキリスト者。明治維新によって武士の時代は終わり、武士は既にいない・・・キリスト教思想と同一である西欧の普遍的思想と日本をつなぐものとして、新渡戸は『武士道』の名を借りたのです・・・」。では、本当の武士道とはどのようなものか。菅野さんは、「私」、「戦闘者」、「共同体」の三つのキーワードで説明する。古代律令国家による国家の軍事力の時代が終わり、10世紀に私的な戦闘者集団として組織されたのが武士の源流。明治維新まで続いた私兵らを支えた思想が武士道である。「近代国家のなかでの市民という考えに親しんでいる私たちには、ほとんど理解不能な思想だと思いますよ」ではその武士道がなぜ今も私たちの心をとらえるのか。それは国民道徳思想の一つとして言い立てられた経緯があるからだ。明治15年(1882年)に発布された「軍人勅諭」の成立の検証で、菅野さんは、武士道が巧みに換骨奪胎される過程を見て取る。すなわち帝国軍隊の指導者たちは、本来の武士道の精神をたくみに排除し、国家の軍隊の統制を図る為、「本来の武士道」に代わる「大和心」を生み出したというのだ。「・・・もし旧日本軍に武士道が正しく伝承されていたら、先の大戦のような壊滅的敗北は無かったと思う。武士道には戦争を終わらせる知恵も含まれていましたから・・・」我々は本来の「武士道」の教えを今一度自らの手で考えてみるべきなのだ。
2005年02月04日
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昨年、4月にイラクで拘束されて「自己責任論」でバッシングされた高遠さんは、現在もイラク復興のボランティア活動をしている。もちろん、イラクに直接入国はできないけれど、ヨルダンなどで現地の仲間達と連絡を取り合いながら活動をしているのだ。日本にいる間は、その報告会に全国を駆け回っている。彼女の「イラク・ホープ・ダイアリー」は、右下の「お気に入り」の中に入れてあるので、関心のある方はご覧になっていただきたい。今日は、2月2日の日記「情報はフェアか?」をコピーしておきたい。「情報はフェアか?」現在、行っている報告会は『命に国境はない』というタイトルで、写真と映像を使って主にファルージャのことをやっています。後半部分で、ファルージャの緊急支援、ファルージャ再建プロジェクト、バグダッドの子ども自立支援プロジェクトの進捗状況をお伝えしています。イラクの選挙が終わった。どこも、「選挙、よかったね!」という雰囲気。でも、その直前まで「自爆テロ」のニュースしか見せられていなくて、私はかなりイライラしていた。報道が不公平すぎる。片方の報道だけを聞いて、イラクの現状を把握できるはずなんてない。そんな状態で、いきなり「選挙成功!」というニュースを見せられても、私は信じられない。みんなが信じても、私には信じることはできない。なぜなら、私はニュースではなくてイラク人を見ているから。選挙は終わったけど、占拠は終わっていない。選挙報道の陰で、新たな場所が次々に「占拠」されていっている。そのことを知ってほしい。報道の壁が築かれている時、もっとも凄惨で、陰湿なことが行われているのだということを知ってほしい。でも、選挙の翌日から突然、電気がいつもよりたくさん来たり、飲める水が出るようになったらしい。よかったね。このまま、ハリウッド映画みたいにハッピーエンドにならないかな。報告会で流している映像は正視に耐えないものもあります。でも、それが現実。そして、この殺戮に私たちは黙って生活をしているだけで、「賛成」していることになっています。だからきっと私たちには、その恐ろしい映像を見る責任があるのかもしれません。私は、感情的になって「映像を見てくれ!」と言うつもりはありません。これは、情報のひとつです。戦場にあるもう一方を見てください。情報量をフェアにしたい、そう強く思っています。その後で、みなさんに冷静に判断していただければと思います。あるニュース番組で、解説者の方が、人口3万人のファルージャの人が8000人も投票したということはすばらしい結果だ、というようなことを発言していたと聞きました。ファルージャの人口は3万人ではなく、30万人です。 これからの報告会の予定は下記の通り。1月27日 静岡県 産業経済会館 18:301月29日 東京都 文京区民センター 14:002月1日 北海道 (札幌カトリック社会委員会) 18:302月3日 北海道 池田町 18:002月4日 北海道 江別市民会館 18:302月5日 北海道 札幌 しんきん健保会館 13:002月14日 ピースボート乗船(報告会、ワークショップなどをする予定)3月3日 帰国3月5日 北海道 釧路 生涯学習センターまなぼっと多目的ホール 13:303月6日 北海道 札幌サンプラザ 12:303月8日 北海道 稚内文化センター 18:303月10日 北海道 室蘭 3月11日 北海道 旭川 18:30 旭川文化会館3月12日 北海道 千歳(一般入場不可) 3月13日 北海道 恵庭3月14日 北海道 士別市中央公民館 19:003月16日 北海道 北見市民会館 18:303月19日 愛知県 守山 14:003月20日 群馬県 前橋3月26日 奈良県 大和郡山市 13:00 奈良県 奈良市3月27日 奈良県 生駒市3月30日 神奈川県 4月2日 大阪府4月3日 埼玉県 ミューズ 18:304月9日 東京都4月17日 北海道 札幌 13:005月3日 長野県 諏訪市文化センター 12:305月14日 東京都
2005年02月03日
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さきほど所用のために外出した時、本を読みながら歩いてくる小学生を発見!それも、二人並んでである。下校途中のようで、背にはランドセルを背負っている。最近このような光景を見たことがなかったので、思わず注目。交差点の信号機が赤になり、道路をはさんで私は二人を見ていた。二人は、信号が青になるのを待ちながら、手に持った本に目をやっている。マンガかな? とも思ったが、どうもそうではなさそうだ。信号が青になり、私は道路上ですれ違いざまに彼等の持っている本に目をやった。マンガではなく、子供向けのハードカバーの本のようだ。もちろん内容まではわからないが、文字ばかりが垣間見えた。多分、学校図書館で借りてきたものだろう。帰宅するのを待ちきれず、ついついページをめくってしまっているのだろう。本を読みながら歩くなんて危ないではないかと思うかもしれないが、彼らもそれなりに周囲に注意しながら歩いていることが見て取れた。本当は「危ないから家に帰ってから読みなさい」と言うのが、正しい大人の態度なのかもしれないけれど、私は歩きながらまで読みたいと思っている少年の姿に嬉しくなって、その背中に「本を読むのって楽しいよねえ」と呟いているだけだった。私も、本を読むのが大好きな子どもだった。学校の図書室で本を借りて読むことが、何よりの楽しみだった。昔は、本を読んでいても今ほどには誉められず、どちらかというと「本ばっかり読んで!」と親には叱責されていた。だから、親に隠れて本を読む習慣がついてしまったくらいだ。本の中には、見知らぬ人との出会いや未知の世界が広がっていた。その世界に入り込んでいたら、現実の嫌なことも忘れることが出来た。勉強は好きではなくてほとんどしなかったけれど、読書量の多さが幸いしたのか、小学生の頃まではそこそこの成績。中学生後半から高校生にかけては、数学など理科系の科目は坂を転げるように落ちる一方だったが、国語など文系科目は何も勉強していなくてもそこそこの成績が取れた。そのせいもあって、「やればできるのに」と親にも教師にも叱られたものだ。本をワクワクしながら読むことができれば、それだけ心が耕されているのではないかと思う。昨日の日記で、「若い頃に戻りたくない」と書いたけれど、あの暗黒の時代を乗り切ることが出来たのは、本があったからだ。今の若者達がネットにはまるように、私は本の世界にはまっていた。というより、逃げ込んでいたともいえる。それでも、本の中にはその作者のメッセージがあり、作者と自分自身との対話の中で、自分の心を保ち、導かれていたと思う。そんな理屈はどうでもよい。とにかく、子どもが楽しく本を読むのはいいことだ。その小学校は、ボランティアが学校図書館に関わり、司書の人とも協力しながら、子どもが本と親しむように努力している。ボランティアによる「読み聞かせの会」も開かれている。そのおかげで、数年前までは殺風景で寒々とした感じの図書室が、明るくて子ども達が集まる場になってきている。一昨年、閲覧室に「畳のスペース」を作り、子ども達が座ったり腹ばいになったりして本を読めるようになった。その頃学校を訪問した時、教頭先生が得意そうに「見てください! 良くなったでしょう?」と言った表情が忘れられない。教頭先生も、このような図書室にしたかったんだなと、妙に嬉しくなったものだ。そのような取り組みが、歩きながらでも本を読みたい子どもを育てているのだと思う。みんなが「二宮金次郎」にならなくてもいいけれど、二宮金次郎姿が「マジメ!」なんて馬鹿にされない状況のようで嬉しい。
2005年02月02日
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日記リンクしているmsk222さんの「青春、ですか?」や、ポンボさんの「時の流れ」を読んで、色々なことを思い巡らせてしまった。「青春」という単語で、楽しくキラキラしたことを思い出し、「青春時代に戻りたい」と思う人は、きっと素敵な青春時代だったんだろう。私は残念ながら、青春時代に戻りたいなどとは、一度も思ったことがない。他人から見たら、それなりにキラキラと見えていたのかもしれないが、私の内部ではいつもどす黒い思いが渦巻いていて、最後には強烈な挫折感で青春時代にピリオドを打ったような感じだ。あの日々は、毎日が永遠に思えるほどに長かった。このように毎日を過ごし、老年期まで生きなくてはならないのかと思うと、本当にうんざりする気持ちだった。できることなら、サッサと適当にこの世からおさらばしたいと本当に思っていた。長く生きることをとても恐怖に感じた原因の一つが、大多数の大人たちが「若いってすばらしい」とか、「青春時代が一番」のように言っていたからだろう。当時の私は中年期も老年期も体験していないから、きっとそうなのだろうと思うと同時に、「これからドンドン人生が暗くなるんだ」と思うと、大人が「いい時代だ」というその時に既にシンドイ私は、未来に希望なんて持てるはずがないと感じていた。しかし、「それでも、命がある限りは生きなくてはならない」というところから、私は大人としての人生を歩き始めた。だから結婚した時も、必要以上の夢や憧れはなかったと思う。「こんな私でも結婚できたぞ、頑張ろう」という気持ちはあったが、「これからどんな苦労が待ち受けているのか」という気持ちも同時にあった。まだ、日々の生活の中にささやかな喜びを見出そうなんてゆとりもなかった。そんなこんなでやがて30代に入り、私はある時「おや?」と思った。若い頃よりも、ずっと楽しいではないかと。共働きで子育てをしていたら、そりゃ悩みや苦労だってある。だけど、気付けば自分の場所がちゃんとあって、私を必要としている人(特に子ども達)がいて、失敗したって結構何とか取り返しも付いて、私は青春時代よりずっと楽しく生きていた。そして40代。仕事に対する挫折もあったし、自分の能力の限界も感じていた。体力だってもちろん低下していただろう。それでも、青春時代には見えていなかった「やりたいこと」が、私には見え始めていた。そして、何と40代で大学の通信課程に入学し、思いがけず卒業まで出来た。若い頃にはほとんど味わうことのなかった「達成感」を、初めて味わうことが出来た。その上に、40代から今までの間に、かけがえのない友達も得ることが出来た。実はこれも、大人たちに脅されていた。「若い頃の友達は格別」「大人になってからは、なかなか友達はできない」と。友達を作らなくちゃと無理していた頃には、自分の本音も出せなかった。だから、いつもどこかで無理して友人関係を保っていた。しかしこれも、真っ赤な嘘だった。中年期になって出会った人が、今はとても大切な友だ。あの「あれ? 若い頃より楽しいぞ」と思ったときから、私は「今が一番幸せだなあ」と思うことがよくある。今が一番幸せだから、過去に戻りたいなんてサラサラ思わない。もちろん、年相応の悩みや苦労は次々と生じてはくる。祖母の介護から看取りの時まで、あるいは親たちや親戚などとの関係、そして自分の子ども達との関係。そうそう、共に老いの道を歩いている夫との関係など、若い頃にはないであろう悩み事だってもちろんある。だけど、それでも私はやっぱり思う。「青春の頃より、よっぽどマシだ」と。自分なりにイメージしていたのよりは、50代はとても若い。これからどんなことが起きてくるのか、自分の体の変化も含めて、私は結構面白がっている。もともとさほど「物質欲、金銭欲」には淡白だったようで、あまり欲しいものもない。異性にワクワクしなくては生きてる楽しみがないという人もいるが、私はそちらもさほど欲求が強くはないようだ。以前にそんな話をしていた時、「あなたは何が楽しみで生きているの?」と、あきれたように聞かれたことがある。そのような人には理解してもらえないかもしれないが、私はこれで結構楽しく毎日を送っている。家族や地域の中で自分が果たせる役割があり、誰かが喜んでもらえることにつながったらとても嬉しい。新聞や本、ビデオや映画、そしてインターネットなどでは、私は一生かかってもこの世界を知ることはできないと、未知なる世界に好奇心をくすぐられる。また、見知らぬ人との交流だって、結構スリリングで面白い。自分の内部に次々と湧き上がる思いを、このように書き連ねることも楽しい。「青春」や「若さ」には素晴らしいことももちろんある。でも、年を重ねることも捨てたものではない。少なくてもこの私は、今の方がよっぽど楽しいし幸せだ。若い人で、とても辛い思いをしている人に言いたい。「今が一番良い時期のはずなのに」と、今を絶望しないで欲しいと。今がとっても苦しかったなら、これから良くなる可能性が高いのだと。人生なんて、生きてみなきゃわからないところがある。社会を見るとあまり希望的な観測はできにくいけれど、「個人の人生の質」は、環境に支配されるばかりではない。最後にもう一度、若い人には「大人の脅しに怯えるな!」。大人たちには「若い人達を脅しで思い通りにしようとするな!」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【追記】秀さんのコメントで、下記の詩を思い出したので添付しておきます。訳者によって、多少雰囲気が違うと思います。 青 春 サミュエル・ウルマン(作山宗久訳)青春とは人生のある期間ではなく、心の持ちかたを言う。薔薇の面差し、紅の唇、しなやかな手足ではなく、たくましい意思、ゆたかな想像力、炎える情熱をさす。青春とは人生の深い泉の清新さをいう。青春とは臆病さを退ける勇気、安きにつく気持ちを振り捨てる冒険心を意味する。ときには、20歳の成年より60歳の人に青春がある。年を重ねただけで人は老いない。理想を失うとき初めて老いる。歳月は皮膚にしわを増すが、情熱を失えば心はしぼむ。苦痛・恐怖・失望により気力は地に這い精神は芥にある。60歳であろうと16歳であろうと人の胸には、驚異に魅かれる心、おさな児のような未知への探求心、人生への興味の歓喜がある。君にも吾にも見えざる駅逓が心にある。人から神から美・希望・よろこび・勇気・力の霊感を受ける限り君は若い。霊感が絶え、精神が皮肉の雪におおわれ、悲歎の氷にとざされるとき、20歳であろうと人は老いる。頭を高く上げ希望の波をとらえる限り、80歳であろうと人は青春にして已む。
2005年02月01日
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