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【本文】兵衛の尉はなれてのち、臨時の祭の舞人にさされていきけり。この女ども物見にいでたりけり。さて、かへりてよみてやりける、むかしきて なれしをすれる 衣手を あなめづらしと よそに見しかな【注】・兵衛の尉=兵衛府の三等官。ここでは第百十二話に見える、左兵衛の尉をつとめた藤原庶正(もろただ)。・臨時の祭=例祭以外に行われる祭り。賀茂神社では平安時代初期の宇多天皇のときに始まり、明治三年まで、陰暦十一月の第三の酉の日に行われた。【訳】兵衛の尉が役職を離れてのちに、賀茂の臨時の祭りの舞楽を奉納する舞人に指名されて行ったとさ。この別れた女たちが祭り見物に出かけたとさ。そうして、帰宅して作って贈った歌、昔あなたが訪ねてきて馴れ親しんだ時の、昔着てこなれた衣を摺り模様に仕立て直した衣の袖を、ああ目新しいと、遠くから見たことですよ。【本文】かくて兵衛の尉、山吹につけておこせたりける、もろともに ゐでの里こそ こひしけれ ひとりをりうき 山ぶきの花となむ、かへしは知らず。【注】・ゐで=京都府綴喜郡井出町。木津川に流入する玉川の扇状地で、京都から奈良へ向かう交通の要所であった。『古今和歌集』に「かはず鳴くゐでの山吹散りにけり花の盛りにあはましものを」と詠まれており、蛙と山吹の名所。【訳】こういうことがあって、兵衛の尉が、山吹の枝に結びつけてよこした手紙の歌、二人でいっしょにいた井出の里が恋しいですよ。一人でいるのがつらい、折るのが惜しい山吹きの花。と作ってあったとさ。この歌への返歌は不明。【本文】かくてこれは女、かよひける時に、おほぞらもただならぬかな十月(かみなづき)我のみしたにしぐるとおもへばこれもおなじ人、あふことの なのみしたくさ 水(み)隠(がく)れて しづ心なく ねこそなかるれ【注】・なのみしたくさ=「なのみす」(名目だけが立つ)と(下草)の掛詞。「なみのしたくさ」とする異文もある。その場合は「逢ふことの無み」(逢うことが無いので)と(波の下草)で、「なみ」が掛詞。・水隠れて=水の下に隠れて。「身隠れて」との掛詞であろう。「下草」の縁語。・ねこそなかるれ=「音こそ泣かるれ」と「根こそ流るれ」の掛詞。【訳】こうして、これは女が、兵衛の尉がまだ夫として通ってきていた時に、大空の空模様も尋常ではないなあ、十月は。私だけが空の下で時雨が降るように涙の雨を流していると思うから。これも、同じ女が作った歌、あなたとお逢いすることが名目上ばかりで、深い仲になることもなく、丈の低い下草が水中に隠れるようにして、落ちつきなくゆらめいて根っこのほうから流れるのと同様に、私は浮かばれずにあなたに翻弄されるばかりで思わず声をあげて泣いてしまうことだ。
February 27, 2011
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【本文】同じ女、のちに兵衞の尉(ぜう)庶正(もろただ)にあひて、よせてをこせける日のことになむ、こちかぜは けふひくらしに 吹くめれど 雨もよにはた よにもあらじなとよみたりける。【注】・同じ女=橘公平(公彦?)のむすめ。・兵衞の尉庶正=蔵人、左兵衛の尉をつとめた藤原庶正。堤中納言兼輔の子。(生年不祥……947年没)。【訳】同じ女が、のちに兵衛の尉藤原庶正と結婚して、翌朝に、手紙をよこして送ってきた日の言葉に、雨をもたらすという東風は、今日は日暮れまで吹くように見えるが、今夜はまさか雨は降らないでしょうねえ。雨ならぬ私の涙雨も降らないですみように、今夜もきっとお訪ねくださいね。と歌に作ってあったとさ。
February 26, 2011
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【本文】大膳(だいぜん)の大夫(かみ)公平(きむひら)のむすめども、県(あがた)の井戸といふ所に住みけり。【注】・大膳の大夫=宮中の食事のことを司る大膳職の長官。・公平=「きむひら」は、きむひこ」の誤写で、従五位上、大膳の大夫をつとめた橘公彦のことかという。文章博士、広相(ひろみ)の子。・県の井戸=一条の北東、洞院の西角の地。【訳】大膳の大夫公平(橘公彦?)のむすめ達が、県の井戸という所に住んでいたとさ。【本文】おほいごは、后の宮に、少將の御といひてさぶらひけり。【注】・おほいご=長女。・后の宮=醍醐天皇の皇后で、藤原基経の娘。(885……954年)。【訳】長女は、穏子皇后に、少将の御という名でお仕えしていたとさ。【本文】三にあたりけるは、備後守さねあきら、まだ若男なりける時になむ、初の男にしたりける。すまざりければ、よみてやりける、この世には かくてもやみぬ 別れ路の 淵瀬に誰を とひてわたらむとなむありける。【注】・備後守さねあきら=源信明。公忠の子。(947……970年)まで備後の守をつとめた。【訳】三女に当たっていた娘は、備後守さねあきらが、まだ若者であった時に、初めての夫としていたとさ。その夫が、通って来なくなったので、作って贈った歌、はなないこの世においては、こんなふうに一方的に相手が来なくなっても、夫婦関係が終わってしまうものなのですねえ。女は死後、最初に関係した男に手を引いてもらって三途の川を渡ると俗に言いますが、わたしは川の淵や浅瀬を誰にたずねて渡ればいいのかしら。
February 26, 2011
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【本文】おなじ女、人に、大空は くもらずながら 十月(かみなづき) としのふるにも 袖はぬれけり【注】・大空はくもらずながら=大空が曇れば当然雨が降ることになる。雨はふらないけれども、の意。・十月=旧暦十月。時雨月の別名もあり、「かむなづき時雨のつねか我がせこが宿のもみち葉散りぬべく見ゆ」「神な月時雨ふり置ける楢の葉の名におふ宮のふることぞこれ」「かむなづき降りみ降らずみ定めなき時雨ぞ冬の初めまりける」「かみなづき曇らでふるや槙のやの時雨にたぐふ木の葉なるらん」 のように、時雨が降る時季とされる。【訳】同じ女(源宗于の娘)が、ある人に大空は、曇らないけれども、神無月は、今年もまた冬が来て一年が経過するにつけても、時雨が降らないから地面は濡れないけれども私の袖は涙で濡れることだなあ。
February 23, 2011
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【本文】同じ女、巨城が牛を借りて、又のちに借りたりければ、「たてまつりたりし牛は死ににき」といひたりける返事に、わがのりし ことをうしとや きえにけむ 草にかかれる 露の命は【注】・同じ女=南院のいま君。右京の大夫、源宗于のむすめ。・巨城=源巨城。宇多天皇の王孫。『後撰和歌集』に「わすらるる身をうつせみのから衣かへすはつらき心なりけり」の歌を収める。・「のり」には「乗り」と「告り」、「こと」には「事」と「言」、「うし」には「憂し」と「牛」、「かかれる」には「降りかかる」と「たよる」意を掛ける。「乗る」と「牛」、「牛」と「草」、「草」と「露」、「消え」と「露」「命」、「かかる」と「露」は縁が深い。【訳】同じ女、すなわち南院のいま君が、源巨城の牛を借りて、再び後に借りたところ、「先日そちらにお貸ししておいた牛は死んでしまった」と言ってきた返事として、私が牛車に乗ったことを、つらいと感じて、この世から消えてしまったのだろうか、草にかかっていた露のように、食べる草で命をつないでいた、はかない牛の命は(私がまた牛を貸せと告げたことを、いやだなとあなたは思っているのでしょうか、牛が死んじゃったなどというのは)
February 23, 2011
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【本文】南院のいま君といふは、右京の大夫(かみ)宗于(むねゆき)のきみのむすめなり。【注】・南院=南側の御殿。・右京の大夫宗于=光孝天皇の孫で、是忠親王の子にあたる。官は従四位下、右京大夫に至った。三十六歌仙の一人。《百人一首》の「山里は冬ぞさびしさまさりける人目も草もかれぬと思へば」の歌で知られる。(生年不祥……939年没)【訳】南院のいま君というのは、右京の大夫源宗于さまの娘である。【本文】それ太政大臣内侍の君の御方にさぶらひけり。それを兵衛の督(かみ)の君、あや君と聞えける時、曹司にしばしばおはしけり。【注】・太政大臣内侍の君=太政大臣藤原忠平のむすめ貴子。・兵衛の督の君=宮中警護や行幸の際のお供をする武官の役所である兵衛府の長官。・曹司=女房に与えられた個室。【訳】その女性が太政大臣の娘で内侍の君というおかたの所にお仕えしていたとさ。それを兵衛の督の君が、まだ、あや君と申しあげていた時分に、南院のいま君に割り当てられた個室に、頻繁にいらっしゃっていたとさ。【本文】おはし絶えにければ、常夏の枯れたるにつけてかくなむ、かりそめに君がふしみしとこなつのねもかれにしをいかでさきけむとなむありける。【注】・常夏=ナデシコの別名。山野に自生する草花で、高さ約五十センチ。葉は線形でやや白っぽく、対生。夏から秋にかけて花びらの先が細く裂けた紅色の花をつける。秋の七草の一。・ふしみしとこなつ=「寝転がって見た庭のナデシコ」と「臥して契りを結んだ寝床」を言い掛ける。「ふし(臥し)」に対して「み(見る)」「とこ(床)」「ね(寝)」は縁語。・ねもかれ=「根も枯れ」と「寝も離れ」「音も嗄れ」を言い掛ける。【訳】そののち、南院のいま君の部屋へのご来訪が絶えてしまったので、常夏(ナデシコ)で枯れている花に手紙を結びつけて、こんなふうに歌を作った、ほんのちょっと貴方が私と臥してみた寝床ではありませんが、共寝することもほとんど無くなってしまい、私の泣き声もすっかりかれてしまい、常夏の根も枯れてしまったのに、どうして咲いたのでしょうか。と書いてあったとさ。
February 20, 2011
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【本文】おなじ宮に、こと女、あふことの 願ふばかりに なりぬれば ただにかへしし ときぞこひしき【注】・おなじ宮=陽成天皇の皇子、元良親王。官位が三品、兵部卿の宮に至った。《百人一首》の「わびぬれば今はた同じ難波なるみをつくしも逢はむとぞ思ふ」の歌で知られる。(890……943年)【訳】同じ兵部卿の宮に、別の女が、お逢いする機会が、ひたすらこちらが一方的に願うばかりで、いっこうに逢えなくなってしまいましたので、何事もなく貴方さまをお帰ししてしまった時のことが、恋しく、悔やまれます。
February 19, 2011
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【本文】故兵部卿の宮、この女のかかることまだしかりける時、よばひたまひけり。みこ、荻のはの そよぐごとにぞ うらみつる 風にうつりて つらき心を【注】・故兵部卿の宮=陽成天皇の皇子、元良親王。(890……943年)。第九十話に既出。・この女=平中興のむすめ。・うらみ=「恨み」「裏見」の掛詞。【訳】故兵部卿の宮が、この女すなわち平中興のむすめが、浄蔵大徳との一件がなかった時分に、求婚なさっていたとさ。そこで兵部卿の宮が作って贈った歌、荻の葉がそよぐたびに裏を見るように貴女を恨んだことです、風が吹くたびになびく方向が変わるように、色々な男の誘いを受けるたびに気が変わる貴女の冷たい心を。【本文】これも、おなじ宮、あさくこそ人はみるらめ関川の絶ゆる心はあらじとぞ思ふ女かへし、関川の いはまをくぐる 水浅み 絶えぬべくのみ 見ゆる心を【注】・関川=近江の国、逢坂の関のそばを流れる清流。歌枕。この歌では「水がせき止められるように岩が複雑に点在している」という意を連想させようとしているのであろう。【訳】これも、同じ故兵部卿の宮が作って贈った歌、私の思いが浅いと貴女はみているのでしょうが、関川の流れのように、私の貴女への愛はとぎれさせるつもりは無いと思っていますよ。それに対する女の返歌、関川の岩と岩の間をくぐりぬけて流れる水のように、あなたのお顔を見ずに過ごす日が多いことにあきれて、あなたの思いが浅いことがわかっているから、わたしの目にはあなたの愛は今にも途絶えそうだとだけ見えますよ。【本文】かくて、この女いでて物きこえなどはすれど、あはでのみありければ、みこおはしましたりけるに、月いとあかかりければ、よみたまひける、よなよなに出づとみしかどはかなくて入りにし月といひてやみなむとのたまひけり。【訳】こうして、この女は、部屋から出て兵部卿の宮に言葉を申し上げなどはするけれども、まったく契りを結ぶことなく過ごしていたので、ある夜、兵部卿の宮がいらっしゃったときに、月が非常に明るかったので、お作りになった歌、毎晩毎晩出るのは見ていたが、じゅうぶん観賞しないうちに沈んでしまった月のように、貴女は毎晩部屋から出るものの、直接近くで会って契りを結ぶこともなく、また、むなしく部屋に入ってしまうので、もう手の届かない女性だと思ってあきらめてしまおう。とおっしゃったとさ。【本文】かくて扇おとしたまへりけるをとりてみれば、しらぬ女の手にてかく書けり。わすらるる 身は我からの あやまちに なしてだにこそ 君をうらみめと書けりけるをみて、傍にかきつけてたてまつりける、ゆゆしくも おもほゆるかな人ごとにうとまれにけるよにこそありけれとなむ。【訳】こうして、兵部卿の宮が扇を落とされたのを平中興のむすめが拾いあげて見てみると、みたこともない女の筆跡で次のように書いてあったとさ。この身が忘れ去られるのは、せめてみずから犯した過ちのせいだと見なしてから、あなたを恨みましょう。と書いてあったのを見て、その脇に平中興のむすめが書いて差し上げた歌、不吉にも思われますねえ、それぞれの女性から嫌われてしまった男と女の世界ですねえ。と作ったとさ。【本文】また、この女、わすらるる ときはの山も ねをぞなく 秋野の虫の 声にみだれてかへし、なくなれど おぼつかなくぞ おもほゆる 声聞くことの 今はなければ【注】・ときはの山=京都市右京区にある山。また、常緑樹で青々している山。「ときは」は、「常盤」と「時は」の掛詞。「秋」は「飽き」の掛詞。【訳】また、この女が、忘れ去られる時には、女だけではなく、ときわの山でさえも声をあげて泣くのです、男性の心に女性に対する飽きがくるように「秋がきた」と鳴く野原の虫の悲しげな声にいっそう心乱れて。と歌を作った。それに対する兵部卿宮の返歌、なくという話ですが、声を聞くのが待ち遠しく思われますよ、あなたは私と会話もしてくださらないから現在はあなたの声さえ聞く機会が私には無いのですから。【本文】又おなじ宮、雲井にて よをふるころは 五月雨の あめのしたにぞ 生けるかなしき返し、ふればこそ 声も雲居にきこえけめ いとどはるけき 心ちのみして【注】・雲井=宮中。「雲」に対し、「雨」は縁語。・「ふる」は、「経る」と「降る」の掛詞。「降る」に対し「五月雨」は縁語。【訳】また、同じ兵部卿宮の作った歌宮中で夜を過ごすころには、五月雨のように乱れ降る空の下にいるように、あなたに逢えずに涙が沢山流れるので、この世に生きているのがつらくなります。それに対する平中興のむすめの返歌、あなたが宮中で夜を過ごしたからこそ、私の声も宮中まで聞こえたのでしょう。あなたとの距離がいっそう遠い気持ちばかりがして、いつもより大声で泣きましたから。
February 17, 2011
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【本文】中興の近江の介がむすめ、物のけにわづらひて、上ざうだいとくを験者にしけるほどに、人とかくいひけり。【注】・中興の近江の介=右大弁平季長の子、平中興。平安中期の人。近江の国の国府の次官を務めた。(生年不祥……930年没)。・上ざうだいとく=浄蔵大徳。諌議太夫殿中監、三善清行(きよつら)の子。比叡山で密教を学び、不動明王の眷族である護法童子を自在にあやつったり、死の直後の父を祈祷で蘇生させたり、平将門の乱を調伏したりして、霊験あらたかだったという伝説が残っている。・験者=祈祷師。【訳】近江の介、中興の娘が、モノノケに苦しんで、浄蔵大徳を験者にしとところ、人々があれこれとうわさしたとさ。【本文】猶しもはたあらざりけり。しのびてあり経て、人の物いひなどもうたてあり、なほ世に経じとおもひ言ひて失せにけり。鞍馬といふところにこもりていみじう行ひをり。【注】・鞍馬=京都市左京区。毘沙門天を本尊として祭る天台宗の鞍馬寺があり、修験道の霊地としても知られる。【訳】やはり、また、二人の関係は普通ではなかった。人目をしのんだまま関係を続けて、人のうわさなども、不快であった。やはり、俗世間では過ごすまいと考えを告げて姿を消してしまったとさ。それから浄蔵大徳は鞍馬というところにこもって修行していたとさ。【本文】さすがにいとこひしうおぼえけり。京を思ひやりつつ、よろづのこといとあはれにおぼえて行ひけり。なくなくうちふして、かたはらをみければ文なむみえける。なぞの文ぞとおもひてとりてみれば、このわが思ふ人の文なり。書けることは、すみぞめのくらまのやまにいる人はたどるたどるもかへり来(き)ななむと書けり。【訳】それでもやはり、中興の娘のことが恋しく思われたとさ。京にいる娘のことを想像しながら、さまざまなことを非常にしみじみと感じながら修行していたとさ。泣く泣く臥して、わきを見ると、手紙が目にはいった。なんの手紙だろうと思って、手にとって見てみたところ、この、いつも自分が思っている娘の手紙であった。その手紙に書いてあったことは、墨染めのように暗い鞍馬の山に入っていった人は、足元も暗くてよく見えないでしょうが、それでも入っていった道をたどって引き返しながら京の私の所へやって来てほしい。と書いてあったとさ。【本文】いとあやしく誰してをこせつらんとおもひをり。もて来(く)べきたよりもおぼえず、いとあやしかりければ、またひとりまどひ来にけり。かくて又山にいりにけり。さてをこせたりける。からくして おもひわするる 恋しさを うたてなきつる 鴬の声【訳】非常に不思議で、中興の娘は誰を使いにして手紙をよこしたのだろうか、と浄蔵は考えていた。こんな山奥に持ってくることができる手段も考えつかず、非常に不思議だったので、再び独りで心を乱して京に来てしまったとさ。こうして、また山に入ってしまったとさ。そうして、中興の娘の所に手紙をよこしたとさ。やっとのことで、忘れた恋しい思いを、いやなことに、また鳴いて恋しさを思い出させるウグイスの声だよ。【本文】かへし、さても君 わすれけりかし 鴬の なく折のみや おもひいづべきとなむいへりける。【訳】それに対する娘の返歌、それにしてもあなたは、忘れてしまっていたのですねえ、ウグイスが鳴く時にだけ、思い出すものでしょうか。【本文】又、上ざうだいとく、わがために つらき人をば おきながら 何の罪なき 世をやうらみむともいひけり。この女はになくかしづきて、皇子達上達部よばひたまへど、帝にたてまつらむとてあはせざりけれど、このこといできにければ親も見ずなりにけり。【注】・「おき」(沖)に対して「うら」(浦)は縁語。【訳】再び浄蔵大徳が、わたくしにとって、冷たい人を、海の沖のように遠くはなれた京に置きながら、沖から浦を見るように、どうして罪のない世間を恨んだりできましょうか。とも作って贈ったとさ。この女は、親がこのうえなく大事に養育して、皇子や上達部たちが求婚なさったが、天皇に妃として差し上げようと親が考えて、結婚させなかったけれども、この浄蔵大徳との一件が起きてから、親も面倒を見なくなってしまったとさ。
February 16, 2011
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【本文】しげもとの少将に、女、こひしさに 死ぬる命を おもひいでて とふ人あらば なしとこたへよ少将かへしからにだに 我きたりてへ 露の身の 消えばともにと ちぎりおきてき【注】・しげもとの少将=大納言藤原国経の子で、左近衛少将となった藤原滋幹。・「露」に対し「消え」「おき」は縁語。・きたりてへ=「来たりといへ」の縮約。【訳】藤原滋幹少将に対して、ある女が、恋しさゆえに私はもう死んでしまう命ですのに、もし、そんな私を思い出して、訪ねる人がいたら、もうすでに此の世には生きていないと答えよ。という歌を作って贈ったとさ。それに対する少将の返答の歌、亡き骸にさえ恋しくて私は逢いにやってきたと告げよ。露のようにはかない我が身が、もし消えるのなら一緒にと約束して置いた通りに。
February 16, 2011
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【本文】つかふ人あつまりて泣きけれどいふかひもなし。「いと心うき身なれば死なむと思ふにもしなれず。かくだになりて行ひをだにせむ。かしがましく、かくな人々いひさはぎそ」となむいひける。【訳】武蔵の守の娘が尼になってしまわれたので、使用人たちは集まって泣いたけれども、いまさら何を言ってもしかたがない。「大変つらい身のうえなので、死のうと思ったが、死ぬことも出来なかった。せめて、このように尼にでもなって、来世の極楽往生を願って修行だけでもしよう。あまりやかましく、私がこんなふうに尼になったこと言って騒ぎなさるな」と言ったとさ。【本文】かかりけるやうは、平中そのあひけるつとめて、人をこせむとおもひけるに、司のかみ、俄に物へいますとて、よりいまして、よりふしたりけるをおひ起こして、「いままでねたりける」とて、逍遥しに、とほき所へ率ていまして、酒のみののしりて、さらにかへしたまはず。【訳】こんなことになった事情は、平中が、武蔵の守の娘と契りを結んだ翌朝、使者を女の所に行かせようと考えていたところ、役所の長官が、急にどこかへ行かれるというので、お立ち寄りになって、平中が物に寄りかかって臥していたのを、たたき起こして、「こんなに遅くまで寝ているやつがあるか」といって、ぶらぶらと散策しに、遠い所へ連れてお行きになって、酒をのんであれこれ話しこんで、平中をいっこうにお帰しにならなかった。【本文】からうして帰るままに、亭子の帝の御ともに大井に率ておはしましぬ。そこに又二夜さぶらふに、いみじう酔ひにけり。夜ふけてかへりたまふに、この女のがり行かむとするに、方塞りければ、おほ方みなたがふ方へ、院の人々類していにけり。【訳】やっとのことで帰るやいなや、宇多天皇のお供として平中を大井に一緒に連れて行かれた。そこでまた二晩おそばでお仕えしたところ、ひどく酒に酔ってしまったとさ。夜がふけてお帰りになるので、この女の所に行こうとしたところ、陰陽道の不吉な方角を避ける方塞りに該当してしまったので、ほとんど全員、不吉な方角とは違う方角へ、院の人々がまとまって行ったとさ。【本文】この女いかにおぼつかなくあやしとおもふらむと、恋しきに、今日だに日もとく暮れなん、いきて有樣も身づからいはむ、かつ文もやらんと、酔ひさめておもひけるに、人なむきてうち叩く。「誰ぞ」と問へば、なほ「尉の君に物きこえむ」といふ。さしのぞきてみればこの家の女なり。胸つぶれて「こち来」といひて文をとりてみれば、いとかうばしき紙に切れたる髪をすこしかいわがねてつつみたり。いとあやしくおぼえて、書いたることをみれば、あまのがは そらなるものと ききしかど わがめの前の 涙なりけりとかきたり。【訳】この武蔵の守の娘が、どんなに待ち遠しく、また、訪ねないことを不審に思っているだろうかと、恋しかったが、せめて今日だけでも日も早く暮れてほしい、女の所に行って、今までのいきさつを自分で説明しよう、また、手紙も送ろうと、酔いも醒めて考えていたところ、人がやってきて門をたたいた。「誰だ?」と問うと、「左兵衛の尉さまに申し上げることがございます」という。すきまから覗いてみたところ、武蔵の守の娘の家の女だった。胸がつぶれそうな思いで「こちらへ来い」といって、女の届にきた手紙を取って見てみると、とても香りのよい紙に切れた紙を少し掻きたばねて包んであった。非常に不思議に思われて、書いてある文字を見たところ、天の河は、空にあるものだと聞いていたが、なんとその正体は、こんなに身近な、わたくしの目の前の、沢山流れる涙だったのだなあ(尼になるなんて、空にある天の河のように、自分には無関係の遠い世界のことだと思ってきましたが、あなたの冷たい仕打ちに、河になるほど涙をながし、とうとう尼になりました)と書いてあった。【本文】尼になりたるなるべしと見るに目もくれぬ。心もまどはして、この使にとへば、「はやう御ぐしおろしたまうてき。かかれば御達も昨日今日いみじく泣きまどひたまふ。げすの心ちにもいとむねいたくなむ。さばかりに侍し御ぐしを」といひてなく時に、男の心ちいといみじ。【訳】武蔵の守の娘は、尼になってしまったのにちがいない、と手紙の和歌を見るにつけても、目の前も真っ暗になってしまった。心もうろたえて、この使者に問いただしたところ、「なんと髪を剃って尼になってしまわれた。こんなことになってしまったので、お仕えしていた女房たちも昨日も今日もひどく泣いて動揺しておられる。わたくしめのような身分の低い者の心にも、非常に胸が痛みます。あんなにも長くて美しい髪でございましたのに」と言って泣いたときに、平中の心境も非常に悲痛であった。【本文】なでうかかるすきありきをして、かくわびしきめをみるらむとおもへどもかひなし。なくなく返事かく。よをわぶる 涙ながれて 早くとも あまの川には さやはなるべき「いとあさましきに、さらに物もきこえず。身づからたゞいま参りて」となむいひたりける。かくてすなはち来にけり。そのかみ塗籠にいりにけり。ことのあるやう、さはりを、つかふ人々にいひて泣くことかぎりなし。「物をだにきこえむ。御声だにしたまへ」といひけれど、さらにいらへをだにせず。かかる障りをばしらで、なほただいとをしさにいふとやおもひけむとて、男はよにいみじきことにしける。【訳】どうして、このような風流な方々の散策をして、こんなつらいめに遭うのだろうと思ったが、その甲斐もない。泣く泣く返事を書いた。男女の仲をつらく思う涙が流れて、たとえその流れが早くなっても、そんなに簡単に天の河になったりするものだろうか(簡単に尼になってほしくなかったよ)「自分でも非常にあきれたことに、まったく連絡も申し上げませんでした。わたくし自身いますぐ参上して事情を説明します」と使者を通じて言ったとさ。こうして、即座に女の所に平中がやってきたとさ。その折り、尼は納戸に入ってしまったとさ。平中は、ことのいきさつ、支障を、使用人の女房たちに言って泣くこと、このうえない。「せめてお話だけでも申し上げよう。お声だけでも聞かせてください」と言ったが、まったく返答さえなさらない。このような支障があったことを知らずに、やはり、ただ恋しい未練だけで言うのだと尼君は思っているのだろうかと言って、平中はひどく辛く感じたとさ。
February 15, 2011
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【本文】土左の守にありけるさかゐの人真(ひとざね)といひける人、病して弱くなりて、鳥羽なりける家に行くとてよみける、ゆく人はそのかみ来むといふものを心ぼそしなけふのわかれは【注】・さかゐの人真=延喜十四年(914)、従五位下、土佐の守となった。(生年不祥……917年没)『古今和歌集』に「大空は恋しき人の形見かは物思ふごとにながめらるらん」の歌が収められている。・鳥羽=京都市伏見区の地名。【訳】土左の守であった酒井人真といった方が、病気をして体が弱って、鳥羽にあった家に行くというので、作った歌、ふつう、出かける人は、その折り、「またここに帰ってこよう」と言うのに、心細いなあ、生きてかえれるかどうかわからない今日の別れは。
February 14, 2011
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【本文】おなじ季縄の少将、病にいといたうわづらひて、すこしをこたりて内にまゐりたりけり。【注】・季縄の少将=藤原季縄(すえただ)。【訳】同じ季縄の少将が、病に非常に苦しんで、そののち、すこし症状がやわらいで、宮中に参内なさっていたとさ。【本文】近江の守公忠の君、掃部の助にて蔵人なりけるころなりけり。【注】・近江の守公忠の君=源公忠(きんただ)。三十六歌仙の一人。延喜十三年(913)に掃部助、同十八年に六位の蔵人、天慶四年(941)には近江守として任国へ下った。官は従四位下、右大弁に至った。【訳】ちょうど近江の守公忠様が、掃部の助で蔵人だった時分のことだったとさ。【本文】その掃部の助にあひていひけるやう、「みだり心ちはまだおこたりはてねど、いとむつかしう心もとなく侍ればなむ参りつる。のちはしらねど、かくまで侍こと。まかりいでて明後日ばかり参りこむ。よきに奏したまへ」などいひ置きてまかでぬ。【訳】その掃部の助に向かって言ったことには、「悪い気分はまだ完全には良くなっていないが、家でいるのもうっとうしくて気がかりでしたので参上しました。あとはどうなるかわかりませんが、このような状態でございますよ。今日はこれで退出いたしまして、明後日ぐらいにまた参上いたしましょう。よろしく帝にお伝えくださいませ」などと言い置いて退出してしまった。【本文】三日ばかりありて、少将のもとより文をなんおこせたりければ、くやしくぞのちにあはむと契りける今日を限りといはまし物をとのみかきたり。【訳】それから三日ばかり経って、少将の所から手紙をよこしてきたところ、無念なことに、先日、また後日会おうと約束したことです。今日が最後の対面だと言っておけばよかったのに。という歌だけが書いてあった。【本文】いとあさましくて、涙をこぼして使にとふ。「いかがものし給ふ」と問へば、つかひも、「いと弱くなりたまひにたり」といひて泣くをきくに、さらにえきこえず。【訳】とても驚きあきれて、涙をこぼしながら使者に尋ねた。「少将はどうなさったのだ?」と質問したところ、「とても体がお弱りになってしまっています」と言って泣くのを聞くが、いっこうに聞こえない。【本文】「みづからただいま参りて」といひて、里に車とりにやりてまつほどいと心もとなし。近衛の御門にいでたちて、まちつけてのりてはせゆく。【訳】「自分でいますぐ少将のお屋敷へ参上して、見舞いに行ってまいります」と言って、部下に自宅に牛車を取りに行かせて牛車の到着を待つあいだも、ひじょうにじれったい。近衛府の御門のところまで出て、立って、牛車を待ち受けて乗り込んで駆けつける。【本文】五条にぞ少将の家あるに行きつきてみれば、いといみじうさはぎののしりて門さしつ。死ぬるなりけり。【訳】京の五条に少将の屋敷はあるが、そこに行き着いて見ると、人々が非常に騒いで口々にあれやこれやと言い、門を閉ざしてしまった。少将は死んでしまったのであった。【本文】消息いひいるれどなにのかひなし。いみじう悲しくて、なくなくかへりにけり。かくてありけることを、かむのくだり奏しければ、帝もかぎりなくなむあはれがりたまひける。【注】・帝=醍醐天皇。【訳】来意を少将の家の者に言い入れたが、何の甲斐もない。非常に悲しくて、泣く泣く帰ってしまったとさ。こうして、少将の家であった通りの出来事を、上に述べたように帝に申し上げたところ、帝もこのうえなく気の毒がられたとさ。
February 13, 2011
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【本文】大井に季縄(すゑただ)の少将すみけるころ、帝の宣(のたま)ひける、「花おもしろくなりなば、かならず御らむぜん」とありけるを、おぼし忘れて、おはしまさざりけり。されば、少将、ちりぬれば くやしきものを 大井川 岸の山吹 けふさかりなりとありければ、いたうあはれがりたまうて、いそぎおはしましてなむ御らんじける。【注】・大井=いまの京都市右京区の地名。・季縄少将=左中弁藤原千乗の子、藤原季縄。官は従五位上、右近衛の少将に至った。(生年不祥……919年)。・帝=ここでは醍醐天皇。・宣ふ=「言ふ」の尊敬語。・大井川=京都府嵐山付近を流れる桂川上流の名称。【訳】大井に藤原季縄少将が住んでいた時分、醍醐天皇がおっしゃったことに「花が、もし見頃になったら、きっと見に行こう」とおっしゃっていたのに、ご記憶をお忘れになって、大井にいらっしゃらなかったとさ。それで、少将が、もしも天皇がご覧あそばされないうちに散ってしまうと残念だなあ、大井川の岸の山吹が今日まっさかりだ。と歌を作って天皇にお贈りしたところ、たいへん称賛なさって、さっそく準備されて大井に出向かれてご覧になったとさ。
February 12, 2011
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【本文】亭子の帝の御ともに、太政大臣大井につかうまつりたまへるに、もみぢ小倉の山にいろいろいとおもしろかりけるをかぎりなくめで給て、【注】・亭子の帝=宇多天皇。・太政大臣=藤原忠平。・大井=京都市右京区嵯峨のあたりを流れる大井川の流域。延喜七(907)年九月十日に、宇多院の大井への行幸があった。・小倉山=京都市右京区嵯峨にある。【訳】宇多院のお供として、太政大臣が大井の里にお仕え申しあげておられた時に、紅葉が小倉山に色とりどりに美しかったのを、このうえなく絶賛なさって、【本文】「行幸もあらむにいと興ある所になむありける。かならず奏してせさせたてまつらん」など申給て、ついに、おぐらやま峯の紅葉し心あらばいまひとたびのみゆきまたなむとなんありける。【注】・奏す=天皇に申し上げる。・せさせたてまつらん=行幸・あるいは紅葉の観賞を、おさせいたそう。・みゆき=天皇のおでまし。院政時代以後は、天皇の外出は「行幸」の字をあて音読して、「ぎょうこう」、上皇・法皇・女院など天皇以外の皇室の外出は「御幸」の字をあて「ごこう」とよむ。【訳】「醍醐帝が行幸なさるとしたら、ここは非常に風情のある場所だなあ。きっと帝にご報告して行幸させて差し上げよう」などと申されて、しまいには小倉山の峰の紅葉よ、もし人の心を解するならば、もう一度みかどがおいでになるまで散らずに待っていてほしい。と歌をお作りになったとさ。【本文】かくて、かへりたまうて、奏したまひければ、「いと興あることなり」とてなむ、大井の行幸といふことはじめたまひける。【注】・興あり=魅力がある。心がひかれる。【訳】こうして、宮中にお帰りになって、帝に小倉山に行かれて、ぜひ紅葉を楽しまれるよう申し上げたところ、「非常に魅力的なことだ」とおっしゃって、大井への行幸ということをおはじめになったとさ。
February 11, 2011
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【本文】同じ太政大臣、左の大臣の御母の菅原の君かくれたまひにけるとき、御服はてたまひにけるころ、亭子の帝なむ、うちに御消息きこえ給て、いろゆるされたまひける。【注】・同じ太政大臣=藤原忠平。・左の大臣=藤原実頼。忠平の子。・菅原の君=宇多天皇の皇女、順子内親王。菅原道真の外孫で、忠平の妻、実頼の母。・かくる=皇室など高貴な方が亡くなる。・服=喪にこもる期間。服喪が終わると「ぶくなおし」といって、喪服を通常の服にあらためる。・亭子の帝=宇多天皇。・うち=ここでは醍醐天皇。・いろゆるす=皇族などの服色と紛らわしいために臣下に着用を禁じた梔子(くちなし)色・黄丹(きあか)・赤色・青色・深紫色・深緋色・深蘇芳(すおう)色の七色の使用を特別に許可する。【訳】同じ太政大臣が、ご自身の妻で、ご子息の左大臣さまの御生母にあたる菅原の君がお亡くなりになってしまったとき、その服喪期間を終えられたころ、宇多天皇が醍醐天皇に手紙をさしあげて、禁色の使用をお許しになったとさ。【本文】さりければ、大臣いときよらに蘇芳襲などきたまうて、后の宮にまゐりたまうて、「院の御消息のいとうれしく侍りて、かくいろゆるされて侍こと」などきこえ給。さてよみたまひける、ぬぐをのみかなしとおもひし亡き人のかたみの色はまたもありけりとてなむ泣きたまひける。そのほどは中弁になむものしたまひける。【注】・后の宮=宇多天皇の妃。藤原基経のむすめで、醍醐天皇の母、藤原温子。・中弁=太政官の中位の弁官。参議と少納言の間の位。正五位にあたる。【訳】そういうわけで、大臣がとても上品で美しく、すおうがさねなどをお召しになって、后の宮の所へおうかがいなさって、「宇多天皇さまのお手紙が大変うれしうございまして、このように禁色の使用を許されましたこと」など申し上げなさった。そうして、お作りになった歌、喪服を脱ぐのをばかり悲しいと考えていたが、亡き妻の形見の着物の色は、再び宇多院のおかげで着られることになりよ。といってお泣きになったとさ。その当時の役職は中弁でいらっしゃいましたとさ。
February 6, 2011
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【本文】かくて世にも労ある物におぼえ、つかうまつる帝かぎりなくおぼされてあるほどに、この帝うせ給ひぬ。【訳】こうして、世間でも気の利いた男だと評判し、お仕え申し上げる帝もこの少将をこのうえなく目をおかけになっていたところが、この帝がお亡くなりになってしまったとさ。【本文】御葬の夜、御供にみな人つかうまつりける中に、その夜よりこの良少將うせにけり。ともだち・妻も「いかならむ」とて、しばしはこゝかしこ求むれども、音耳にもきこえず。【訳】ご葬儀の夜、おともに皆ご参列もうしていた中で、その夜から、この良岑少将が姿を消してしまったとさ。友人や妻も「どうしたのだろう」といって、行方不明になってからしばらくは、あちらこちら探したが、うわさも耳にはいらなかった。【本文】「法師にやなりにけむ、身をや投げてけむ。法師になりたらば、さてあるともきこえなむ、身をなげたるなるべし」とおもふに、世中にもいみじうあはれがり、妻子どもはさらにもいはず、夜晝精進潔齋して、世間の仏神に願をたてまどへど音にもきこえず。【訳】「法師になってしまったのだろうか?投身自殺してしまったのだろうか?もし法師になっているのなら、たぶん、そうしているとうわさが耳にはいるだろう。うわさがきこえてこないのは、きっと投身自殺してしまったのにちがいない」と思うので、世間の人々も大変気の毒がり、妻子たちは言うまでもなく昼夜精進潔斎して、あらゆる神仏に「どうか少将が生きておりますように。生きているなら所在がわかりますように」と願を掛けなさったが、うわさにも聞こえてこない。【本文】妻は三人なむありけるを、「よろしくおもひけるには、なを世に經じとなむ思」と二人にはいひけり。【訳】少将には妻が三人いたが、「つくづく考えたことには、やはりこのまま俗世間にはいるまいと思う」と、二人の妻には告げたとさ。【本文】かぎりなく思て子どもなどある妻には、塵ばかりもさるけしきもみせざりけり。このことをかけてもいはば、女もいみじとおもふべし、我もえかくなるまじき心ちしければ、よりだに來で、にはかになむ失せにける。【訳】このうえなく愛して、子供などももうけていた妻に対しては、ちっともそんなそぶりも見せなかったとさ。この本心を、もし少しでも口にしたら、女もとても辛く悲しいと思うにちがいない。自分も出家する心が揺らいでしまう気がしたので、子のいる妻の所には近寄りもしないで、突然姿を消してしまったのだとさ。【本文】ともかくもなれ、「かくなむおもふ」ともいはざりけることのいみじきことを思ひつゝ泣きいられて、初瀬の御寺にこの妻まうでにけり。【訳】夫がどうなるにせよ、この妻は少将が「こんなふうに考えている」とも自分に告げてくれなかったことが、とても悲しくつらいことだと思いながら、自然と泣かずにいられない状態におなりになって、長谷寺にこの妻が参詣したとさ。【本文】この少將は法師になりて、蓑ひとつをうちきて、世間世界を行ひありきて、初瀬の御寺に行ふほどになむありける。【訳】この少将は、法師になって、蓑ひとつを身につけ、日本中を修行して歩き回って、ちょうど長谷寺で修行している時分であった。【本文】ある局ちかう居て行へば、この女、導師にいふやう、「この人かくなりにたるを、生きて世にある物ならば、今一度あひみせたまへ。身をなげ死にたる物ならば、その道成し給へ。さてなむ死にたるとも、この人のあらむやうを夢にてもうつゝにても聞き見せたまへ」といひて、わが裝束、上下・帶・太刀までみな誦經しにけり。身づからも申しもやらず泣きけり。【訳】本堂の、衝立で仕切られた、とある一角に近いところで少将が修行していたところ、この女が、導師にむかって言うことには、「この人(夫)がこんなふう(行方不明)になっているが、もし生きてこの世にいるものなら、もう一度お引き合わせください。もし投身自殺したものなら、成仏させてください。そうして、たとえ死んでいるとしても、この人が現在あの世でどうしているか、その様子を、夢の中ででも現実にでも聞かせたり見せたりしてください。」といって、自分(少将)の装束・上下・帯・太刀にいたるまで、全部供えて導師に経文を唱えさせていた。そうして自身(妻)も経文を唱えることもうまできないほど泣いたとさ。【本文】はじめは何人の詣でたるならむと聞きゐたるに、わが上をかく申つゝ、わが裝束などをかく誦經にするをみるに、心も肝もなく悲しきこと物に似ず。【訳】はじめのうちは、どんなひとが参詣しているのだろうと、聞いていたところ、自分の身の上をこのように導師に申し上げながら、私の装束などをこんなふうに供えて経文を唱えるのを見ると、どうしようもなく悲しいことといったら、似る物もないほどだった。【本文】走りやいでなましと千度思けれど、おもひかへしかへし居て夜一夜なきあかしけり。【訳】いっそ、私はここにいるぞと妻の前に走って出てしまおうか、やめようかと何度も考えたが、考え直し考え直しして、とうとう一晩泣き明かしてしまったとさ。【本文】わが妻子どもの、なを申す聲どももきこゆ。いみじき心ちしけり。【訳】自分の妻子たちの、昨晩から引き続き経文を唱える声などが聞こえた。とてもつらい気がしたとさ。【本文】されど念じて泣きあかして朝にみれば、蓑も何も涙のかゝりたるところは、血の涙にてなむありける。「【訳】けれども、逢いたい気持をぐっと我慢して、泣き明かして翌朝に見てみたら、蓑も何もかも、涙がかかった所は、血の涙で赤く染まっていたとさ。【本文】いみじうなれば、血の涙といふものはあるものになんありける」とぞいひける。「その折なむ走りもいでぬべき心ちせし」とぞ後にいひける。【訳】大変な心痛だったので、血の涙というものは本当に存在するものだったのだなあ」と言ったとさ。「よっぽど、その折りに、妻子の前に走り出てしまいそうな気がした」と、少将がのちに語ったとさ。
February 6, 2011
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【本文】深草の帝(仁明天皇)とまうしける御時、良少將といふ人いみじき時にてありけり。【注】・深草の帝=仁明天皇。・良少将=良岑宗貞。のちの僧正遍昭。【訳】時の天皇を深草の帝と申し上げた御代に、良岑宗貞少将という人がおり、人生の全盛期だったとさ。【本文】いと色好みになむありける。【訳】非常に恋の道に長けた男だったとさ。【本文】しのびて時々あひける女、おなじ内裏にありけり。【訳】人目をしのんで時々デートしていた女が、同じ宮中にいたとさ。【本文】「こよひかならずあはむ」とちぎりたる夜ありけり。【訳】「今夜必ずデートしよう」と約束していた夜があったとさ。【本文】女いたう化粧して待つに音もせず。【訳】女が、念入りに身なりを整えて待っていたが、音沙汰もなかった。【本文】目をさまして、「夜やふけぬらん」と思ふほどに、時申音のしければきくに、「丑三つ」と申しけるを聞きて、男のもとにいひやりける、人心うしみつ今は頼まじよといひやりたりけるにおどろきて、夢にみゆやとねぞ過ぎにけるとぞつけてやりける。【訳】目を覚まして、「夜が更けてしまったかしら」と思っていると、時を知らせる声がしたので、聴いていると、「丑三つ」と言ったのを聞いて、男の所に作って贈った歌あなたの心が冷たくてつらい目に遭いました、もう丑三つ時にもなりましたから、あなたなんかあてにしませんよ。と作って贈ったところ、男がそれを読んで、寝ぼけまなこもパッチリ覚めてあなたが私を恋しく思ってくださるなら、あなたが夢に見えるかなと思って寝過ごすうちに子の刻も過ぎて丑の刻になってしまったなあ。と、女が贈ってきた和歌に七七の下の句を付けて返信したとさ。【本文】しばしとおもひてうちやすみけるほどに、寢過ぎにたるになむありける。【訳】逢いに行くまでちょっとの間だけ、と思って、ちょっと休んでいるうちに寝過ごしてしまったのだったとさ。
February 6, 2011
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【本文】太政大臣の北の方うせたまひて、御はての月になりて、御わざのことなどいそがせ給ころ、月のおもしろかりけるに、はしにいでゐたまて、物のいとあはれにおぼされければ、かくれにし月はめぐりていでくれどかげにも人はみえずぞありける【注】・太政大臣=藤原忠平。藤原基経の第四子。摂政・関白・太政大臣を務めた。(880……949年)。・はて=四十九日が終わる日。または、一周忌。・わざ=法事。【訳】太政大臣藤原忠平さまの奥方さまが、お亡くなりになって、服喪期間の終わりの月になって、御法要のことなどを御準備なさっていたころ、月が美しかった晩に、座敷の端に出てお座りになって、亡き人のことなどが非常にしみじみと感じられたので、かくれてしまった月は、再びめぐって空に出てくるけれども、幻影にも私の愛するあの人は姿を見せないなあ。
February 5, 2011
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【本文】かくて、九の君、侍従の君にあはせたてまつり給ひてけり。【注】・九の君=三条の右大臣、藤原定方のむすめ。・侍従の君=藤原師尹(もろまさ)。侍従を務めたのは(935……937年)。【訳】このようにして、九の君を、侍従の君と夫婦にしてさしあげられたとさ。【本文】同じ頃宮すむ所を、宮おましまさずなりにければ、左の大臣、右衛門の督(かみ)におはしける頃、御文たてまつりたまひけり。【注】・宮すむ所=御息所。藤原定方のむすめ仁善子。醍醐帝の后で、九の君の姉。・宮=式部卿の宮、敦実親王。醍醐帝亡き後、仁善子と夫婦関係にあった。・左の大臣=藤原実頼。師尹の兄。(933……935年)に右衛門の督、(947……967年)に左大臣を務めた。(900……970年)。【訳】同じころに、御息所に対し、式部の卿の宮が訪問なさらなくなって(夫婦関係が途絶えて)しまったので、左大臣実頼さまが、右衛門の督でいらっしゃったころ、お手紙をさしあげなさったとさ。【本文】かの君むこどられたまひぬときき給て、大臣、宮すむどころに、なみのたつかたもしらねどわたつみのうらやましくも思ほゆるかな【注】・なみのたつかたもしらねどわたつみのうらやましくも思ほゆるかな=かた」は「方」と「潟」の掛詞、「うらやまし」には「浦」を言い掛ける。「なみ」に対し「たつ」「潟」「わたつみ」「うら」は縁語。【訳】侍従の君師尹さまが、定方さまの娘むこ(九の君の夫)に迎えられなさったとお聞きになって、左大臣実頼さまが、御息所にあてて(岩波日本古典文学大系)に、この歌を「あなたのお気持ちはどなたの方に向いているのか、私にはわかりませんが、弟があなたと義理の姉弟となったのが、羨ましく思われてなりません」と解する。存疑。
February 5, 2011
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【本文】おなじ右のおほい殿の宮すむ所、帝おはしまさずなりてのち、式部卿の宮なむすみたてまつりたまうけるを、いかがありけむ、おはしまさざりけるころ、斎宮の御もとより、御文たてまつりたまへりけるに、宮すんどころの、おはしまさぬことなどきこえたまうて、おくに、しら山にふりにし雪のあとたえていまはこしぢの人もかよはずとなむありける。御返あれど、本になしとあり。【注】・右のおほい殿の宮すむ所=藤原定方のむすめ仁善子。・帝おはしまさずなりてのち=醍醐天皇が崩御されて以後。・式部卿の宮=宇多天皇の皇子、敦実(あつみ)親王。(893……967年)・斎宮=宇多天皇のむすめ柔子内親王。敦実親王の妹。・しら山にふりにし雪のあとたえていまはこしぢの人もかよはず=「ふり」は「降り」と「古り」、「雪」と「行き」、「こし」に「越」と「来し」を言い掛けた。【訳】同じ右大臣殿の御息所に、帝がお亡くなりになってのち、式部卿の宮が夫として通っておられたのに、どうしたのであろうか、おいでにならなくなっていた時分、斎宮のところから、お手紙をさしあげなさっていたが、御息所が、式部の卿の宮のおいでにならないことなどを申し上げられて、手紙の最後に、白山に降ってしまった雪のように、足跡もぱったり途絶えて、今となっては、越路の人も通行しません。(よくお越しになっていた式部卿の宮も、最近こちらには、ぱったり通ってこなくなりました)と書いてあったとさ。斎宮の御返事の歌もあったが、原本に書かれていないと書いてある。
February 2, 2011
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