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【本文】故中務の宮の、北の方うせたまひての後、ちひさき君たちをひきぐして、三条右大臣殿にすみたまひけり。【注】・故中務の宮=醍醐天皇の皇子、代明親王。中務卿を務めた。(生年不祥……937年)中務卿は、天皇の侍従として、詔勅の文案作成・国史の監修・女官の選考をはじめ、宮中の事務や皇居の警護などを掌った中務省の長官。・三条右大臣殿=藤原定方邸。【訳】故中務の宮が、奥様がお亡くなりになって後、小さいお子様たちをひき連れて、奥様の実家の三条右大臣殿のお屋敷にお住まいになったとさ。【本文】御いみなどすぐしては、つゐにひとりは過し給まじかりければ、かの北の方の御おとうと九君を、やがてえたまはむとなんおぼしけるを、「なにかは、さも」と親はらからもおぼしたりけるに、【訳】服喪期間などを過ごしたあとは、結局男親ひとりではお過ごしなされそうもなかったので、例の奥方の妹にあたる第九女を、すぐに妻となさろうとお考えになったのを、「どうして差し支えがありましょう、それもよろしいでしょう」と親兄弟もお思いになっていたが、【本文】いかがありけん、左兵衛の督の君、侍従に物したまひけるころ、その御文もて來となむきき給ける。【注】・左兵衛の督の君=藤原師尹(もろまさ・もろただ)。忠平の子。侍従・左兵衛佐・右中弁・参議などを務め、正二位、左大臣に至った。(920……969年)【訳】どうなさったのだろうか、左兵衛の督の君藤原師尹さまが、侍従でいらっしゃったころ、その御手紙を第九女のもとに持って来たりしているとお聞きになったとさ。【本文】さて心づきなしとやおぼしけむ、もとの宮になむわたりたまひにける。その時に宮すむ所の御もとより、なき人の巣守にだにもなるべきをいまはとかへる今日の悲しさ【注】・宮すむ所=藤原定方のむすめ、仁善子。三条御息所。【訳】ところで、気に入らないとお考えになったのだろうか、もとのご自宅にお帰りになってしまったとさ。その時に、三条御息所の所から、せめて亡き人の残していったヒナの面倒だけでもみるつもりでおりましたのに、いまはここにはもう住めないと、羽が抜け替わる鷹のように、あなたが自宅へ帰る今日の悲しさといったらありません。【本文】宮の御かへし、すもりにとおもふ心はとどむれどかひあるべくもなしとこそきけとなむありける。【訳】中務の宮の御返事に、小さい子供たちが取り残された巣を守っていただきたいと思う心は残りますが、第九女には、ほかに好きなお方がいらっしゃるようですし、お願いしても甲斐がありそうもないと聞いたからです。と歌を作ったとさ。
January 31, 2011
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【本文】これもおなじ中納言、斎宮のみこをとしごろよばひたてまつりたまうて、今日明日あひなむとしけるほどに、伊勢の斎宮の御占(みうら)にあひたまひにけり。【注】・おなじ中納言=藤原敦忠。・斎宮のみこ=醍醐天皇の皇女、雅子内親王。承元元年(931年)に斎宮となった。(910……954年)【訳】これも、同じ中納言が、斎宮のみこに何年も言い寄りもうしあげなさって、今日かあすにも逢って契りを結んでしまおうとしていたところ、伊勢の斎宮の占いにおいて、次期斎宮に決定なさってしまった。【本文】いふかひなく口をしと男おもひたまうけり。さてよみてたまうける、いせの海千尋の浜にひろふともいまはかひなくおもほゆるかなとなむありける。【注】・かひなく=「貝なく」と「甲斐なく」の掛詞。斎宮は未婚でなければならないので、求婚してもとうてい受け容れてもらえないので甲斐がない。・千尋の浜にひろふとも=千尋は、長い距離。どこまでもつづくような長い砂浜で拾ったとしても。【訳】言いようもないほど残念だと男はお思いになったとさ。そうして、お作りになった歌、たとい伊勢の海の千尋もある長い砂浜で拾ったとしても、いまはもう貝が無いように、あなたに求婚するのはその甲斐が無いように思われるなあ。と斎宮のみこの所へきた手紙に書いてあったとさ。
January 26, 2011
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【本文】故権中納言、左の大殿の君をよばひたまうける年の師走のつごもりに、物おもふと月日のゆくもしらぬまに今年は今日にはてぬとかきくとなむありける。【注】・故権中納言=藤原敦忠。時平の子。三十六歌仙の一人。枇杷の中納言と呼ばれた。(906……943年)・左の大殿の君=藤原忠平(時平の弟)のむすめ、貴子。・よばふ=求婚する。言い寄る。・物おもふ=もの思いをする。思いにふける。【訳】故権中納言藤原敦忠さまが、左の大殿の君藤原貴子さまに、求婚なさっていた年の十二月末日に、恋をしてあなたのことばかり思っていると、月日が過ぎゆくのも気づかない、そのうちに今年は今日でおわってしまうとか聞きましたと歌を作ってお贈りになったとさ。【本文】又かくなむ、いかにしてかくおもふてふことをだに人づてならで君に語らむ【注】・人づて=ほかの人を通じて、言葉を伝えたり聞いたりすること。【訳】また、こんなふうに歌を作ったとさ。どうやって、このように深くあなたを愛しているということだけでも、他人を介することなく直接あなたにお話しようか。【本文】かくいひいひてつひにあひにけるあしたに、けふそへにくれざらめやはとおもへども堪えぬは人のこころなりけり【注】・そへに=副助詞「さえ(さへ)」の語源とされる「添へ」に助詞「に」の付いたもの添加の意を表す。…もまた。「に」については格助詞・間投助詞その他の説もある【訳】このように、恋心を歌に作って訴えて、とうとう逢って夫婦の契りを結んだその翌朝に、今日もまた、日が暮れないことがあろうかと思うけれども、夜になったら逢えるのはわかっていながら、その待ち遠しさに堪えられないのは、人間の気持ちなのだなあ。
January 24, 2011
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【本文】三条の右のおとど、中将にいますかりける時、祭の使にさされていでたまうけり。【注】・三条の右のおとど=藤原定方。内大臣藤原高藤の子。平安中期の歌人。官は従二位、右大臣に至り、三条の右大臣と呼ばれる。(873……932年)・中将=藤原定方は、(906……911年)右近衛権中将をつとめた。・祭の使=。京都の賀茂神社で旧暦四月の中の酉の日に行われた祭りの際に、朝廷からヌサをたてまつるために派遣された使者。近衛の中将などが、この任にあたった。【訳】三条の大臣こと藤原定方様が、中将でいらっしゃった時に、賀茂の祭りの奉幣の勅使に指名されて出かけなさったとさ。【本文】かよひたまひける女の、絶えてひさしくなりにけるに、「かかることなむいでたつ。扇もたるべかりける、ひとつたまへ」といひやりたまへりけり。【訳】夫として通っておられた女が、定方様の訪問が途絶えてひさしくなってしまった時に、定方様が「このたびこのような事態が起きて出発する。扇を持っておられたはずだから、一つください」と言っておやりになったとさ。【本文】よしある女なりければ、よくておこせてむとおもふたまひけるに、色などもいときよらなる扇の、香などもいとかうばしうておこせたり。ひきかへしたる裏の端の方にかきたりける。ゆゆしとていむとも今はかひもあらじうきをばこれにおもひよせてむとあるをみていとあはれとおぼして、返し、ゆゆしとて忌みけるものをわが為になしといはぬは誰がつらきなり【注】・よしあり=由緒がある。また、奥ゆかしく風情がある。・きよげなり=綺麗だ。・ゆゆし=不吉だ。賀茂の祭りは夏に行われるが、それに必要ということは、祭りが済めば不要になるということ。もともと扇は秋には不要になる。秋は和歌では男が女に飽きる「飽き」と掛けて用いられるため、秋になって捨てられる点が、男が飽きて捨てられる女を連想させるので不吉だということ。【訳】由緒ある家柄のしっかりした女だったので、きっとうまく用意して寄越すだろうと思っておられたところ、色彩なども非常に綺麗な扇で、香などをたきしめて香りなども非常によい状態にして寄越した。その扇の裏返した端のほうに書きつけてあった歌、祭りが終わればすぐ用済みになるのが不吉だからといって、贈るのを避けたとしても、結婚してすぐ用済みになったようにあなたに捨てられた私には、いまさらなんの甲斐もないでしょう。せめてこの扇に恨みつらみの思いをこめた歌を書いてあなたに贈りましょう。と書いてあるのを見て、ひじょうに済まなかったとお感じになって、そこで作った返歌不吉だといって避けていた扇を、わたしのために「そんなもの無いわ」と言わないで、わたしのところにその不吉なものを贈って寄越すのは、いったい誰が冷淡なのだろう。(あなたのほうこそ、私に対して冷たいのじゃありませんか?)
January 22, 2011
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【本文】同じ女、故兵部卿の宮、御消息などしたまひけり。「おはしまさん」とのたまひければきこえける、たかくとも何にかはせん呉竹のひとよふたよのあだのふしをば【注】・同じ女=修理の君という女房。・故兵部卿の宮=陽成天皇の皇子、元良親王。《百人一首》の「わびぬれば今はたおなじ……」の歌で知られる。(890……943年)・消息=たより。文脈により、手紙・伝言・来意を告げること、などの意になる。・呉竹=淡竹(はちく)。竹の一種で葉が細く節が多い。宮中の清涼殿の御溝水(みかわみず)のほとりにも植えられていた。中国で梁の孝王が御苑に竹を植え修竹園と名づけた故事にちなみ、往々にして「竹」は、皇族のたとえに用いられる。・ひとよふたよ=竹の節と節との間を指す「よ」と、一晩二晩の「夜」の掛詞。・あだ=「無益だ」と「移り気であてにならない」意を兼ねさせている。【訳】おなじ女に、故兵部卿の宮さまが、お手紙のやりとりなどなさっていたとさ。兵部卿の宮さまが手紙で「行きますよ」と、おっしゃったので、返事に申し上げた歌丈が高くても何になるでしょう、呉竹の一節二節といったちょっとした役にも立たない節なんか。(あなた様の身分がいくら高くっても何になるでしょう。一夜二夜しかいらしてくださらない、不誠実なお泊まりなんて)
January 19, 2011
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【本文】修理(すり)の君に右馬(むま)の頭(かみ)すみける時、「かたのふたがりければ、方違(かたたがへ)にまかるとてなむえ参りこぬ」といへりければ、これならぬことをもおほくたがふればうらみむ方もなきぞわびしき【注】・修理の君=父兄が修理職(皇居の修理・造営をつかさどる役所)の役人だった女房。・右馬の頭=右馬寮(御所の厩や諸国の朝廷用牧場を管理する役所)の長官。・ふたがる=陰陽道で大将軍や天一神(なかがみ)のいる方角にあたる。大将軍は、八将軍の一。その神のいる方角は三年ごとに変わり、その方角は塞がるといい、忌むべき方角とされた。天一神は、吉凶禍福を支配する神。天上に十六日間いて、そののち東北・東・東南・南・南西・西・西北・北と時計回りに巡行し、四十四日後に再び天上にもどるという。この間、東・西・南・北に各五日ずつ、その中間に六日ずつ滞在する。この神のいる方角を「ふさがり」といい、その方角に向かって何かをすることを嫌う。・方違へ=陰陽道で「ふさがり」の方向に外出するとき、前夜に他の方角の所で一泊して、方角を変えてから翌日あらためて出かけること。【訳】修理の君の所に、右馬の頭が夫として通って暮らしていた時分、「そちちらは不吉な方角になったので、よそに方たがえに行くので今日は行けないよ」と言ったところ、「かたふたがりでなくったって、あなたはしょっちゅう約束をやぶるから、恨もうという方角も無い(今さらもう誰を恨もうなんていう相手もいない)のがつらい」という歌を修理の君が作ったとさ。【本文】かくて右馬の頭行かずなりにけるころ、よみてをこせたりける、いかでなほ網代の氷魚(ひを)にこととはむ何によりてか我をとはぬとといへりければ、かへし、網代よりほかには氷魚のよるものか知らずはうぢの人にとへかし【注】・網代=冬に氷魚などを捕るために川の瀬などに仕掛ける、竹や木を編んで連ね、端に簀を付けた漁具。・氷魚=アユの幼魚。【訳】こうして、右馬の頭が修理の君の所へ結局いかずじまいになってしまったころ、作った歌、そうはいうものの、なんとかして網代にひっかかった氷魚に聞いてみよう「なにが原因でわたしの所を訪ねないのか」と。と歌を作ったので、その返歌に、網代以外に氷魚が寄りついたりするものか、知らないのなら宇治の里人に聞いてごらんなさいよ。と右馬の頭が作ったとさ。【本文】又同じ女にかよひける時、つとめてよみたりける、あけぬとていそぎもぞする逢坂の霧たちぬとも人にきかすな【注】・逢坂=山城(京都)と近江(滋賀)の境の逢坂山。歌枕として恋人に「逢ふ」意に掛けて用いられることが多かった。【訳】また、同じ女の家に通っていた時分に、早朝に作った歌夜が明けてしまうといって、帰りを急ぐと困る、たとい逢坂山の霧か立ちこめたとしても、あの人に聞かせないで。【本文】男はじめのころよんだりける歌いかにして我は消えなむ白露のかへりて後のものはおもはじかへし、かきほなる君が朝顏みてしがな返て後はものや思ふと【訳】男が付き合いはじめて初期のころに作った歌どうやって私はこの世から白露のように消えてしまおうかしら。どうせ、冷たいあなたは帰宅したら私のことなんかつゆほども考えないのでしょう。女の返歌、垣根にある朝顔ならぬあなたの朝の顔を見たいものだわ。帰宅したあとは、私のことを考えながら物思いにふけっているかしらと。【本文】おなじ女にけぢかく物などいひて、かへりてのちによみてやりける、心をし君にとどめて来にしかば物思ふことは我にやあるらん【注】・けぢかし=近い。(岩波日本古典文学大系)に「けぢかく物などいひて」を「契りを交わして」とするのは、男女は結婚するまでは、几帳や屏風といった家具などの物越しに話をするのが普通だったから。【訳】同じ女に、間近で話などして、帰ってのちに作って贈った歌、私の心をあなたの所に置いて来てしまったので、物思いにふけるのは私だろうか、いや、あなたのほうですよ。【本文】かへし、たましひはをかしきこともなかりけりよろづの物はからにぞありける【注】・から=肉体。「たましひ(魂)」の縁語。「空(から)」との掛詞。【訳】女の返歌、あなたが私の所に置いてきたという魂は、面白味も無かったですわ。どれもこれも中身のない誠実さのないものばかりでしたわ。
January 16, 2011
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【本文】おなじ男、紀の国にくだるに、「寒し」とて、衣をとりにおこせたりければ、女、紀の国のむろの郡にゆく人は風の寒さもおもひしられじかへし、男、きのくにのむろの郡にゆきながら君とふすまのなきぞわびしき【注】・むろの郡=三重県の北・南牟婁郡と、和歌山県の東・西牟婁郡の地域。・おもひしられじ=「十分実感する」意の「思ひ知る」と、女の「気持ちを察する」意を掛ける。・ゆきながら=赴任するの「行き」と「雪」の掛詞。・ふすま=「臥す間」と「衾」(夜ねるときに上から掛ける布で仕立てた夜具)の掛詞。【訳】おなじ男が、京のみやこから紀国に下るにあたり、「寒いから」というので、着物をとりに家来をよこしたところ、女が、紀伊国のむろの郡に行く(南方の温暖な家に行く)あなたは、風の冷たさも感じないでしょうし、行かないでほしいという私の思いをそうぞうできないでしょうね。と歌を作って男に贈ったそれに対する返歌として、男が、紀伊国のむろの郡に向かって行く道は雪がふっているが、あなたと一緒に寝て別れを惜しむ時間も、防寒の夜着のふすまも無いのがつらいよ。と作ったとさ。
January 15, 2011
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【本文】但馬の国にかよひける兵庫の允なりける、女を置きて京へのぼりければ、雪の降りけるにいひおこせたりける、やまざとに我をとゞめて別れ路のゆきのまにまに深くなるらむといひたりければ、返し、やまざとにかよふ心もたえぬべしゆくもとまるも心ぼそさにとなむかへしたりける。【注】・但馬の国=山陰道八か国の一つ。いまの兵庫県北部。・兵庫の允=兵庫寮(兵部省に属し、武器庫や武器の出納・虫干し・修理などをつかさどる役所)の三等官。【訳】但馬の国の女の所に、夫として通っていた兵庫の允だった男が、女を置いたまま単身京へのぼったので、雪が降った日に男の元へ作ってよこした歌、人けの少ない山奥の村里に私ひとりだけあとに残して別れてゆく道に降る雪が深くなっていくのにつれて、あなたの私に対する冷たさも深まっていくのでしょう。と歌ってあったので、それに対する男の返歌、あなたの住む人けの少ない山奥の村里に通う気持ちも無くなってしまいそうだ。雪深い道を進んで行く私も、とどまるあなたも心細いわけだから。と歌を作って返したとさ。
January 12, 2011
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【本文】む月のついたちごろ、大納言殿に兼盛参りたりけるに、物などのたまはせて、すずろに「うたよめ」とのたまひければ、ふとよみたりける、今日よりは荻の焼け原かきわけて若菜つみにと誰をさそはむとよみたりければ、になくめでたまひて、御返し、片岡にわらび萌えずはたづねつつ心やりにやわかな摘まましとなむよみたりける。【注】・大納言殿=ここでは、藤原顕忠の屋敷。藤原顕忠は、藤原時平の子で、(948……959年まで)大納言をつとめた。・兼盛=平兼盛。官は従五位上、駿河の守に至った。三十六歌仙の一人。・焼け原=焼け野。野焼きを終えた野原。・若菜摘み=春先に食用の野草を摘む。陰暦正月七日には、邪気を払い万病を除くという七種の野草を摘むこと宮中の行事が行われた。もとは神事として若い女性が摘んだが、のちには春の行楽として民間でも行われた。・片岡=歌枕としては、「奈良県北葛城郡王子町。王子町から香芝町にかけての丘陵地帯」が有名だが、ここでは、都から近い「京都市北区、上賀茂神社の東にある山。片岡の杜」を指すか。(岩波日本古典文学大系)は、一般名詞ととり、「一方が急傾斜になっている丘」としている。【訳】陰暦一月の一日ごろ、大納言藤原顕忠さまのお宅に、兼盛がうかがったところ、世間話などをなさって、それから特にこれといった理由もなく「和歌を作れ」とおっしゃったので、その場でさっと作った歌、今日からはオギの焼き原をかき分けて、若菜を摘みにと誰を誘おうかしら。(顕忠さま、わたくしと一緒に行かれませんか?)と作ったところ、これ以上ないほど、おほめになって、作られた返歌片岡に、もしも、わらびが芽をだしていなければ、あちこち探しながら気晴らしに若菜でも摘もうかしら。とお作りになったとさ。
January 12, 2011
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【本文】おなじ右近、「桃園の宰相の君なむすみ給」などいひののしりけれど、そらごとなりければ、かの君によみてたてまつりける、よしおもへあまのひろはぬうつせ貝むなしき名をば立つべしや君となむありける。【注】・右近=藤原季縄のむすめ。醍醐天皇の中宮穏子に仕えた。・桃園の宰相の君=藤原師氏。関白藤原忠平の子。官は正三位、大納言に至った。邸宅名にちなみ、桃園大納言・枇杷大納言と呼ばれた。(913……970年)・ののしる=くちぐちに、ああだ、こうだと言う。・そらごと=うそ。・よし=どうなろうとも。ままよ。・うつせ貝=中身がない貝。・むなしき名=ありもしないことのうわさ。【訳】同じ右近が、「桃園の宰相の君(藤原師氏)が彼女のところにお通いになっている」などと世間の人があれこれ噂したが、事実無根だったので、桃園の宰相の君に作って差し上げた歌、えい、もう、世間の人なんて好き勝手に想像するがいいわ。それにしても、このまま海女が拾わない空っぽの貝のように、事実無根のむなしい浮き名を立てるおつもりなのですか、あなた。(そのおつもりが無いのなら、私の所へ通ってきて私と結婚なさってくださいな)と書かれていたとさ。
January 9, 2011
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【本文】おなじ女、おとこの「わすれじ」とよろづのことをかけてちかひけれど、わすれにけるのちにいひやりける、わすらるる身をば思はずちかひてし人の命の惜しくもあるかなかへしはきかず。【注】・おなじ女=右近。藤原季縄のむすめ。第八十一話に見える。・おとこ=藤原敦忠。第八十一話に見える。【訳】おなじ女が、男が「あなたを忘れまい」と様々な言葉をかけて誓ったが、自分のことをすっかり忘れてしまったのちに、作って贈った歌、あなたに忘れられてしまう我が身のことを、あのころは想像もしなかった。それにしても神にかけて愛を誓ったあなたが、誓いを破った報いの神罰で命を落とすことになるあなたの命が惜しいですこと。
January 8, 2011
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【本文】おなじ女、内裏の曹司にすみける時、忍びてかよひ給人ありけり。頭なりければ殿上につねにありけり。雨のふる夜曹司の蔀のつらにたちよりたまへりけるもしらで、雨の漏りければ、むしろをひきかへすとて、おもふ人雨とふりくるものならばわがもる床はかへさざらましとなむうちいひければ、あはれとききて、ふとはひいりたまひにけり。【注】・おなじ女=右近。・曹司=つぼね。私室。・蔀=日差しや風雨をよけるために、片面に板を張った格子戸。【訳】同じ女性が、宮中の個室に暮らしていた時、こっそりと人目をさけて彼女の所にお通いになる人がいたとさ。役所の長官だったので、殿上の間にいつも居たとさ。ある雨が降る夜、彼女の部屋のしとみ戸の正面に立っておられたのにも気づかずに、雨が漏ってきたので、むしろを裏返しに敷くというので、もしも、愛する人が、今夜の雨が急に降り出したように、とつぜんやって来てくれていたなら、私の部屋の雨漏りして、また、彼が来ないので流した涙に濡れた寝床の敷物は、ひっくり返さないですんだのになあ。と口に出して歌ったので、外にいた彼がしみじみと聞いて、さっと彼女の部屋におはいりになったとさ。
January 7, 2011
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【本文】おなじ女のもとに、又さらに音もせで、雉をなむをこせたまへりける。かへりごとに、くりこまの山に朝たつきじよりもかりにはあはじとおもひし物をとなむいひやりける。【注】・「さらに……で」=「ちっとも……しないで」。・くりこまの山=栗駒山。秋田・宮城・岩手県にまたがる標高千六百二十七メートルの山。【訳】また、同じ女性のところに、また前と同じように、ちっとも連絡もしないで、キジをお寄越しになったとさ。その返事として女が作った歌、栗駒山に朝飛び立つキジ以上に、狩りには出くわすまい(かりそめにはあなたに逢うまい)と思っていたのに。
January 7, 2011
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【本文】季縄の少将のむすめ右近、故后の宮にさぶらひけるころ、故権中納言の君おはしける、たのめたまふことなどありけるを、宮にまゐること絶えて、里にありけるに、さらにとひたまはざりけり。【注】・季縄の少将=藤原季縄(すえただ。一説に、すえなわ)。平安中期の官吏。左中弁藤原千乗の子。官は従五位下、右近少将に至った。鷹狩りの名手として知られ、交野の少将と呼ばれた。(生年不祥……919年)・右近=藤原季縄のむすめ(一説に妹)で、『百人一首』の「忘らるる身をは思はず……」の歌で知られる。・故后の宮=醍醐天皇の中宮、藤原穏子。・故権中納言の君=藤原敦忠。左大臣藤原時平の子。三十六歌仙の一人。『百人一首』の「あひ見てののちの心に……」の歌で知られる。(906……943年)【訳】季縄の少将のむすめ右近が、故后の宮(穏子)にお仕え申し上げていたころ、故権中納言の君(藤原敦忠)がいらっしゃって、頼みに思わせるようなことをおっしゃったことがあったが、右近が宮に参上することが途絶え、実家にいたところ、いっこうに中納言が訪問なさらなかったとさ。【本文】内わたりの人きたりけるに、「いかにぞ、まいり給や」と問ひければ、「つねにさぶらひ給」といひければ、御文たてまつりける。わすれじとたのめし人はありときく言ひし言の葉いづちいにけむとなむありける。【訳】宮中の人がやって来たときに、「どうですか、中納言さまは最近、宮中へ参上なさっていますか」と質問したところ、「いつもいらっしゃっておいでです」と言ったので、御手紙を差し上げたとさ。その手紙にはあなたのことは決して忘れるまいと、甘い言葉で私にあてにさせた人は、いつもそちらにいると聞きましたが、あのとき言った言葉は、どこへいってしまったんでしょうねえ。という歌が書いてあったとさ。
January 6, 2011
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【本文】宇多院の花おもしろかりけるころ、南院のきみたちと、これかれあつまりて歌よみなどしけり。右京の大夫(かみ)宗于(むねゆき)、きてみれど心もゆかずふるさとのむかしながらの花はちれども異人のもありけらし。【注】・宇多院=宇多天皇が退位後にお住みになった場所。・南院のきみたち=是忠親王のご子息たち。南院は源是忠(四条の北、壬生の西にあった彼の邸宅のことだが、彼自身もこう呼ばれた)。・右京の大夫宗于=是忠親王の子。三十六歌仙の一人。第三十話にも見える。【訳】宇多院の桜の花が美しかった時分に、是忠親王の御子息達と、ほかにも、この人やらあの人やらが集まって、歌を作りなどしたとさ。そのときに右京の大夫宗于様が作った歌、きてみれど心もゆかずふるさとのむかしながらの花はちれども異人のもありけらし。やって来て桜を見てみたが、じゅうぶん満足もいかない、昔住んでいた場所に昔通りの桜の花がひらひらと美しく散るけれども。(それというのも亡き父君といっしょに見られないからだなあ)ほかの方たちの歌もあったらしい。
January 5, 2011
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【本文】又おなじみこに、おなじ女、こりずまの浦にかづかむうきみるはなみさはがしくありこそはせめ【注】・おなじみこ=弾正のみこ章明親王。・おなじ女=監の命婦。・こりずまの浦=「前の失敗にもこりないで」という意の「こりずまに」という副詞と「須磨の浦」を合わせた言い方。「浦」に対し「かづく」「うき」「みる」「なみ」は縁語。・うきみる=根が切れて水面に浮いている海松(みる)という海藻。【訳】また同じ親王に、おなじ女が作って贈った歌、しょうこりもなく甘い言葉にだまされてあなたと逢ってしまったわたしは、もういっそのこと須磨の海岸で入水して死んでしまいましょう。根の切れた海松が海面に浮かんでいるように、私が憂き目を見ることで身投げして海に遺体が浮くのは、あなたのせいで世間の噂がさわがしいからですよ)
January 4, 2011
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【本文】監の命婦、朝拝の威儀の命婦にていでたりけるを、弾正のみこ見たまうて、にはかにまどひ懸想したまひけり。御文ありける御かへり事に、うちつけにまどふ心ときくからに慰めやすくおもほゆるかなみこの御歌はいかがありけむ、わすれにけり【注】・監の命婦=父兄が近衛府の将監だった女房。・朝拝=元日の辰の刻に百官が大極殿にあつまり、帝に年頭の祝いの言葉を申し上げる儀式。・威儀の命婦=元日の朝賀や即位式の時に天皇が大極殿の高御座(たかみくら)にお座りになるのに先立って高御座の左右に座り、威儀を添える女房。左右とも四位・五位各一人の計四人がつとめ、礼服を着用した。・弾正のみこ=章明親王。醍醐天皇の子。上総の守・大宰の帥・兵部卿・弾正尹などをつとめた。(924……990年)・懸想=思いをかける。恋い慕うこと。【訳】監の命婦が朝廷の朝拝の儀式のときに、威儀の命婦の役として姿を見せたのを、弾正のみこ章明親王がご覧になって、とつぜん心が乱れて恋慕なさったとさ。親王さまから命婦に御手紙があったが、その返事のなかに、うちつけにまどふ心ときくからに慰めやすくおもほゆるかな急に恋に落ちたと聞きましたから、きっとわたしをからかいやすい女だとお思いになっているんでしょうねえ、またあなたの気持ちも遊びのつもりだから冷めやすいのだと思われますよ。という歌が書かれていたとさ。親王の歌はどんな内容だったかしら、もう、わすれてしまったとさ。
January 3, 2011
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【本文】これも同じみこにおなじ男、ながきよをあかしのうらにやくしほの煙は空にたちやのぼらぬ【注】・同じみこ=宇多天皇の皇女、孚子内親王。・おなじ男=源嘉種。・あかし=「明かし」と「明石」の掛詞。・うら=「浦」と女に会えずに独りで夜を明かす「うら(み)」を掛ける。・やく=恋の思いに身を「焼く」と塩を「焼く」の両意をもたせる。【訳】これも同じ皇女に同じ男が作った歌、あなたを恋しく思いながら長い夜を泣き明かし、明石の浦で塩を焼く煙のように、私の恋の炎は空に立ちのぼらないことがあろうか。(あなたも空に立ちのぼった煙を見て私の情熱がわかったでしょう)【本文】かくてしのびつつあひたまひけるほどに、院に八月十五夜せられけるに、「参りたまへ」とありければまゐり給に、院にてはあふまじければ、「せめて今宵はな参り給ひそ」と留めけり。されど召なりければ、えとどまらでいそぎまゐり給ひければ、嘉種、竹取のよよになきつつとどめけむ君は君にとこよひしもゆく【注】・な参り給ひそ=「な……そ」は禁止表現。・えとどまらで=「え……(否定)」で不可能表現。・よよ=鳴き声を表す「ヨヨ」と「夜夜」を掛ける。また、「よ」は「竹の節と節の間」の意があり、竹の縁語。・君=「かぐや姫」と「あなた(桂の皇女)」。・君=月に桂の木があるという中国古代伝説から、「あなた(桂の皇女)」つまり「桂」自体が月の意になる。また「君」は、天皇の意をも持たせてある。また、竹の別名に「此君(このきみ)」があるので、竹の縁語。【訳】こうしてこっそりデートを重ねていたが、宇多院において八月十五夜の月見の宴をなさったさいに、「こちらへ参上さない。」と連絡があったので、参上なさったが、院では女とデートするわけにもいかなかったので、男は皇女に「けっして今晩は参上なさってはいけません」と連絡して皇女が来るのをとめたとさ。けれども、天皇のお呼びなので、思いとどまることができないで、皇女が急いで参上なさったさいに、嘉種が作った歌、竹取の翁が、毎夜のようにワアワアと泣きながら月に帰るのを引き留めたという姫君は、月にと今夜なにがなんでも行くのですね。(私がいくらあなたを引き留めても、あなたは宇多天皇にお会いに出かけなさるのですね)
January 2, 2011
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【本文】桂のみこの御もとに嘉種がきたりけるを、母宮すむ所ききつけて門をささせたまうければ、夜一夜たちわづらひてかへるとて、「かくきこへたまへ」とて、門のはざまよりいひいれける、こよひこそ涙のかはにいりちどりなきてかへると君はしらずや【注】・桂のみこ=宇多天皇の皇女、孚子内親王。・嘉種=源嘉種。清和天皇の孫、源長猷(ながかず)の子。官は正五位下、美作の守。・たちわづらふ=立ち続けてくたびれる。・いひいる=外から内にいる者に向かっていう。取り次ぎの者に内へ伝えさせる。【訳】桂の皇女のおところに、源嘉種がやって来たのを、母宮さまがお住まいのお部屋のかたが聞きつけて、門を閉めさせなさったので、一晩中屋敷の外に立って開けてくれるのを待つのにも疲れて帰るというので、「このように申し上げてくだされ」と言って、門の隙間から伝言させた歌、今夜は、自分が流した涙の川にはいってしまった千鳥のような我が身ですよ。私が閉め出されて泣きながら帰るとあなたはご存知ないのだろうか。
January 1, 2011
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【本文】又おなじ中納言、蔵人にてありける人の加賀の守にてくだりけるに、わかれ惜しみける夜、中納言、きみのゆく越(こし)の白山(しらやま)しらずともゆきのまにまにあとはたづねんとなむよみたまひける。【注】・おなじ中納言=藤原兼輔。平安前期の官吏・歌人。・蔵人=天皇の日常生活に奉仕し、勅旨の伝達や天皇への奏上、公文書の書写、諸事務を行う役人。五位および六位。・『古今和歌集』と『兼輔集』では、大江千古(おおえのちふる)に贈った歌とする。大江千古は、平安時代前期の官吏・学者。大江音人(おとんど)の子。官は従四位上、式部大輔(しきぶのたいふ)に至る。醍醐天皇の侍読をつとめた。(866……924年)・越の白山=石川県白山市と岐阜県白川村にまたがる標高二千七百メートルの山。【訳】また、同じ中納言が、蔵人だった人が加賀の国守として下向するときに、別れを惜しんだ夜、中納言が、あなたが行く越(北陸道)の白山がどんな所かをたとえ知らなくても、あなたが任地に行くにしたがって、雪のやみ間に足跡を探すような苦労をしてでもお便りを差し上げましょう。と歌をお作りになったとさ。
January 1, 2011
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【本文】同じ中納言、かの殿の寝殿の前にすこし遠くたてりける桜を、ちかくほり植へたまひけるが、かれざまにみえければ、やどちかく移してうへしかひもなくまちどほにのみ見ゆる花かなとよみたりける。【注】・同じ中納言=藤原兼輔。閑院左大臣藤原冬嗣(ふゆつぐ)の曽孫、利基(としもと)の子。平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。『百人一首』の「みかの原わきて流るるいづみ川……」の歌で知られる。従三位中納言となり、賀茂川の堤近くに邸宅を構えていたため、堤中納言と呼ばれた。(877……933年) ・寝殿=貴族の屋敷である寝殿造りの南面中央に位置する正殿。【訳】同じ中納言が、例のお屋敷の母屋の前に、すこし離れて立っていた桜を、ちかくに地面を掘ってお植えになったが、枯れそうな様子に見えたので、屋敷の近くに移植した甲斐もなく、花が咲くのが待ち遠しく思われるほど、すぐには咲きそうにもない様子にばかり見える桜だなあ。と歌を作ったとさ。
January 1, 2011
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