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承前 堀田善衛は「後鳥羽院・大遊戯人間」と題した項で、ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』を引き合いに出してくる。この『定家明月記私抄』を読んでいて、面白いと思い、ワクワクするというのは、こういう所である。 小生は残念ながら、『ホモ・ルーデンス』を読んではいない、しかし、存在は知っている、というより学生時代にロジェ・カイヨワの『遊びと人間』は読んだ。そこで、中公文庫の『ホモ・ルーデンス』も読むつもりで入手。しかし、あれから40年近く。未だに読めていない。さて、『定家明月記私抄』にもどろう、ところで宮廷に和歌所を設置するということ、このことの文化的意義、また世界史的な視野のなかにこれを置いてみるについて役立ち、かつ普遍的に詩作とは何かを考えるについても役に立つものは、ヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス(遊戯人間)』であろうと思う〈訳は高橋英夫氏〉「詩作(ポイエーシス)とは、一つの遊戯機能なのである。それは精神の遊戯空間の内で行われる。(中略)そこで物事は〈日常生活〉のなかにあった時とは異なった相貌を帯び、ものとものとは、論理や因果律とは別の絆によって結び合わされる。(中略)それは真面目を超越した彼岸に立っている。〈中略〉夢、魅惑、恍惚、笑いの領域の中にある。」「遊戯というのは何か独自の、固有のものなのだ。遊戯という概念そのものが、真面目よりも上の序列に位置している。真面目は遊戯を締め出そうとするのに、遊戯は真面目をも内包したところでいっこう差支えないからである。」「文化は、全体としてますます真面目なものになってゆき――法律、戦争、経済、技術、知識は遊戯との触れ合いを失ってゆくように見える。そればかりか、かつては神聖な行為として、遊戯的表現のために広い分野を残してくれていた祭祀までも、そういう成行を共にするように見える。しかし、そうなった時にも、依然としてかつての華かな、高貴な遊戯の砦として残っているもの、それが詩なのである。」「詩作(ポイエーシス)とは、一つの遊戯機能なのである。それは精神の遊戯空間の内で行われる。(中略)そこで物事は〈日常生活〉のなかにあった時とは異なった相貌を帯び、ものとものとは、論理や因果律とは別の絆によって結び合わされる。(中略)それは真面目を超越した彼岸に立っている。〈中略〉夢、魅惑、恍惚、笑いの領域の中にある。」「遊戯というのは何か独自の、固有のものなのだ。遊戯という概念そのものが、真面目よりも上の序列に位置している。真面目は遊戯を締め出そうとするのに、遊戯は真面目をも内包したところでいっこう差支えないからである。」「文化は、全体としてますます真面目なものになってゆき――法律、戦争、経済、技術、知識は遊戯との触れ合いを失ってゆくように見える。そればかりか、かつては神聖な行為として、遊戯的表現のために広い分野を残してくれていた祭祀までも、そういう成行を共にするように見える。しかし、そうなった時にも、依然としてかつての華かな、高貴な遊戯の砦として残っているもの、それが詩なのである。」 詩とは学識の夢のごときものであることなどは、平安末期鎌倉初期の後鳥羽院宮廷においてほとんど世界的典型であり、後鳥羽院その人もまた遊戯人間(ホモ・ルーデンス)の典型的存在である。/かくて、言うまでもなく「色好み」の恋愛もまた広義の遊戯のなかに含まれ、されば失恋をして「真面目に」、たとえば自殺をするなどというのは遊戯のルール違反である。しかもそのことは、鎌倉の権力志向の武士たちが「全体としてますます真面目なものに」なって行こうとし、殺伐さと真面目とがほとんど同義語になりかけ、云々・・・。遊戯と真面目との関係を見事に捉えていると思う。誤解なきように繰り返すが、遊戯のなかに真面目は含まれているのであることを念のため申し添えておく。【遊戯>真面目】である。それで、思い出したのが映画『上流社会』である。青文字=『定家明月記私抄(堀田善衛)』からの引用緑文字=『定家明月記私抄(堀田善衛)』からの「ホモ・ルーデンス」の引用、即ち孫引
2009.04.26
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承前定家の時代は、和歌など芸術〈文化)が究極の洗練の域に達した時代であったようだ。そのようになれば、その反動は起こらざるを得ない。後白河法皇が、遊女でも白拍子でも、どうやら大陸経由で日本へまわって来たジプシーであるらしい傀儡師でも、一芸の者はすぐにも院へ入れて楽しんだ。なおこの法皇に関してもう一つのことを付け加えておこう。後白河は日本の代表的春画の絵巻物『小柴垣草紙』というものの、説明文章の筆者と伝えられている。和歌もまた鞠などと同じく宮廷の芸の一つである。/しかしそれだけの歴史的背景があるからといっても、宮廷が流行歌のパトロンとなるということは、下庶民の芸能を愛し、と解すれば聞こえもよかろうが、それは逆に言えば社会の上層部が精神的に貧しくなり、文化創造の力がなくなって来ていることを意味する(中略)定家の生きた時代は、そういう一つの文化危機の状況にあったのである。その極致の例として、後鳥羽がこの年(承元元年=1207年)にまたまた新造した白河新御堂御所は、実は御所そのものよりも、定家等が障子絵と歌を書こうとしている、付属の最勝四天王院御堂の方が重要なのである。定家もまたこの名所御障子和歌を四十六首詠んでいる。畿内だけならばともかくも、阿武隈川や塩竈ノ浦まで、見たこともないところを絵に描き歌をつくる--後の後鳥羽院の評に言う「ただ、ことばすがたの艶にやさしきを本体とせる間」ということになる--、言語のしらべだけで成立する芸術の極限であろう。現実の所見とか実情とかということは、後世の芭蕉など浮浪の徒にまかせておけばよいのである。 幾分この例とは違うとは思うが、只今のわが国の総理の漫画好きや、新聞記者などに若いモデルの名前を応えさせるという行為は、まさに【下庶民の芸能を愛し、と解すれば聞こえもよかろうが、それは逆に言えば社会の上層部が精神的に貧しくなり、文化創造の力がなくなって来ていることを意味する】では、なかろうか。ろくに漢字も読めないお方であるから、已むを得ないことと思うほかないのであろうか?
2009.04.25
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承前『定家明月記私抄』の南包抄です。文治二年、西行六十九歳、定家は二十五歳、この年定家は〈中略)二見浦百首なるものを詠んでいる(中略)が、このときに勧進―――すなわちすすめられて百首歌を伊勢神宮の神に手向けた者は、定家、家隆、寂蓮、隆信、祐盛、公衡等のほか、伊勢在住の蓮位以下の四法師と度会某なる人などであるが、いずれも京、伊勢の錚々たるメンバーであり、西行という人物の、いわば動員力を如実に物語っているものである。と同時に、伊勢神宮はそれまで神仏習合をきびしく拒絶し、僧徒の内外宮参詣をこれもきびしく拒否して来たものであったが、西行はその家集によって知られるように、それがあたかも何でもないようにして内外宮に参り、「さかきばに心をかけむゆふしでておもへば神もほとけなりけり」と詠んでいるのである。 このようなことを読むにつけ、西行が怪僧であるということが知れる。それが面白いと思うのである。いかにも自分が何も知らなかったかが、分かる。格好をつけて言えば、知的好奇心を満足させてくれるということになる。
2009.04.22
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『定家明月記私抄(堀田善衛)』です。3月20日の本欄に取り上げたのが読み始めであるから、途中に他のものがあったにしろ、読み終えるまでに約1ヶ月。これは、長い方である。 時間がかかったのは、それなりに難解であったこと、筆者堀田善衛が漢文を読み下し文にしているとは言え、言葉遣いが難しい。知らぬ言葉が如何に多いかが改めて分かる。しかし、これは滅茶苦茶面白い本だ。その面白さは、次の堀田の言葉でご想像戴きたい。曰く・・・、私は定家氏の身に添って、この私抄をこれまでに書き続けて来て、時には自分が平安末期から鎌倉時代へかけての、週刊誌の編集者になったか、とすら思ったことがあった。による。 まさに、当時のスキャンダルの連続の如きである。政治のスキャンダル、男と女のスキャンダル、それに、自らの出世〈地位の向上)への関心を示す定家・・・、本当に盛りだくさんの週刊誌的記事の連続が、明月記なのだろうか。その、それぞれは、順次書いてゆきたいと、思っている。まだ、これは前半であり、『定家明月記私抄 続篇』がある。
2009.04.21
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『「品格バカ」が多すぎる(島村洋子)』です。 このタイトルに惹かれて読みました。最近の品格ブームに辟易していたので、ついつい読んでしまいました。特別に目新しいことはないのですが、タイトルに負けました。「品格」はブームだと言っていいと思います。 2005年12月16日のブログです。早くも、3年4ヶ月前のものです。この『国家の品格』は、2005年11月20日発行で、まさに「品格」ブームの魁です。しかし、この本が出た時、これほど品格品格と姦しいことになるとは思いもよりませんでした。端的に言えば、この「品格」流行は、出版社およびその編集者・営業と、著者の責任でしょう。折角の言葉=品格に、品格がなくなったように思えてなりません。まさに、このブームに関わった人たちは、出版社に限らず、敢えて申し上げれば、言葉の戦犯です。 だから、こう言う本が出ます。しかし、読んでみて思うのは、この本も「品格」からは逃れられていない、ということである。残念・・・! 引用・・・、以前、ある女優が大先輩の杉村春子に、/「杉村先生はいつもきりっとお着物で素敵ですね」/と言ったところ、/「他人に素敵と思われるってことは、本人はしんどいってことなのよ」/と答えが返ってきたという。/誰かの見本になろうとするのはしんどいことなのだ。「身なりにかまう」ということは「私は自分をこう扱っていますので、あなたも私をこのように扱ってください」という「自己申告書」と同じなのである。(中略)ある程度の年齢以上の人は少なからず経験があると思う。/何もかもいやで希望も見いだせなかったとき、それでも身なりを美しくかまっていることがどれほど難しいことか。/そしてそれを続けてきた人のことを私たちは美しい、と思うのである。/その美しさは若い娘さんの天然の美貌をもしのぐものだと私は信じている。 著者、島村洋子は・・・、ただ基準は「美しいか・みっともないか」である。最近、生活のテクニックですらない「手紙はすぐに返事を書こう」とか「下着は良いものを着よう」とか、どうでもいいことを取り上げて「品格」どうこう言う下品な人が多すぎないか。/はっきり言う。/そいつらは「品格バカ」である。 と、言い切る。この潔さがいい。例えば、両手がふさがっていれば、足でふすまを明けることがある、それが悪いかと、啖呵を切る。品格はテクニックではない。マニュアル本のごとき品格本の氾濫は、怖気がたつ。そういうことだ。「品格バカ」が多すぎる島村洋子ヴィレッジブックス2008年12月26日初版第1刷発行
2009.04.13
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『青い空、白い雲、しゅーーっという落語(堀井憲一郎)』です。この本も、中日新聞夕刊のコラム「大波小波」で知りました。図書館の新刊書の棚にあり借りてきました。3~4日で読めると思っていましたが、1週間以上かかりました。高を括っていました。著者堀井憲一郎は、この本を落語の本ではないといっていますが、これは明らかに落語のことを書いた本です。というより、落語のことを少しは知っているほうが、きっとこれは面白く読めるということです。だから、落語の本と思うわけです。この人、堀井憲一郎は落語が大好きです。それがひしひしと伝わります。 引用・・・、です。扇子で扇がれるのを嫌う談志・・・ たとえば立川談志。談志は、客があおぎだすと、必ず止める。止めるパターンがある。/「暑いですか。もっと冷やさせましょうか」/たいていはマクラの最中だ。まあ談志だったら、落語をやっている最中だって落語を中断して声を掛けるけど。談志の姿が目に浮かびます。私は談志が好きなので、こんなエピソードを読むだけで嬉しくなるのです。 立川志の輔インタヴュー・・・、このところ『芝浜』はずっとやってません。といって、別にはっきりした理由はないんです。三遊亭圓朝の"素晴らしい夫婦像"なわけですが、この夫婦像が少し重くて、自分の新作『はんどたおる』や『ディア・ファミリー』に出てくるぐらいの軽い夫婦がいいなあと思っている時期なんだろうなって。男には男の理屈、女には女の理屈があって、互いに譲れないものなんだけど、それでも時に喧嘩したり、時に譲歩しあったりしながら暮らしている、そんな平凡な日常の中の笑いが、今はすごく好きなんですね・・・。4月10日今上天皇ご夫妻が金婚式。我が家はそれには程遠いのですが、「男には男の理屈、女には女の理屈」のところがしみじみと分かるのです。 あとがき・・・、から落語ブームと言われているが、落語と聞けば必ず金を出す人間なんて、1万人いるかいないかだろう。1万人しか動かないものは、本来、ブームとは呼べない。具体的には、いままで40人しか来なかった落語会に、いきなり200人の客が来るようになったばかりである。主催者や落語家から見れば、ブームだ。でもマスコミで取り上げるほどのものではない。社会に経済効果を与えるほどの経済効果はない。言葉が一人歩きしているだけだ。たとえて言えば、100m走でいままで14秒9で走っていた男がいきなり11秒0を出した感じ。本人やまわりにとってはものすごいことだけど、日本陸上界にとっても、オリンピック代表を選ぶ人たちにとっても、何の意味もない。そういうことだ。この著者、堀井憲一のスタンスが颯爽としていて格好いいと、思う。そうなのだ・・・、でもそれが大事と堀井も言っている。落語に関してのみ言えば堀井は落語が大好きなのだ。 こんなのを読んだので、Netで名古屋で聞ける落語を調べた。少し前に、先日(4/8)の小三治は聞いたときには完売。今回聞いたのは、談春、志の輔、談志の3つ。談志は完売。志の輔は、夜は完売。そんな訳で、談春と志の輔を聞きに行くことに。それと、知人の世話で、梅團次を聞きに行きます。 突然のマイブームです。青い空、白い雲、しゅーーっという落語堀井憲一郎双葉社2009年1月25日第一刷発行
2009.04.11
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『ホルテンさんのはじめての冒険(ベント・ハーメル)』を見ました。2008年アカデミー賞外国語映画賞のノルウェー代表作品と、チラシにあります。ということは、『おくりびと(滝田洋二郎)』の対抗馬の一つだったということ。 監督ベント・ハーメルは『卵の番人(1995)』『キッチン・ストーリー(2003)』『酔いどれ詩人になるまえに(2005)』があります。残念なことにその一本も見ていません。『卵の番人』については、その存在すら知りませんでした。しかも、ノルウェーのことも、ノルウェーの映画についても殆ど、何も知りません。だから映画は面白い。 これで、少しノルウェーについて調べる気になったのだから・・・。 ノルウェーのことはさて置き、映画『ホルテンさんのはじめての冒険』は、奇妙な味の映画です。話は、定年退職前日に自分の退職祝いのパーティーの二次会にさそわれ、そこで仲間とはぐれて、家に帰れず、今までのリズムと違う生活〈一時的にも)をし、寝過ごし、最後の勤めの日に色々なことを経験する(色々な目に会う)というお話。その色々な目というのがおかしいし、妙であるが、主人公のホルテン氏が淡々としているところが、味わい深い魅力である。 ホルテン氏は仕事中も他でもいつでもパイプを吸っている。パイプという喫煙道具は、そういう淡々と静かな時間とともにある道具であると、今更ながら気づかされる。葉巻も、それなりにゆっくりと喫むものなのだが、葉巻のような傲慢さはなく、煙管のようなせっかちさとはもっとも遠い存在のパイプ。その時間と空間がこの映画である。ホルテン氏に関わる10人余の人たちもそれぞれに興味深い。いい味である。 はじめに出会う子ども。その子どもの為に遅刻する羽目に成るのだが、その子どもがホルテン氏のように淡々と物静かなのだ。仲間とはぐれたホルテン氏はその子どもの住む家(部屋)に迷い込んでしまう。だがその子は見知らぬ人〈ホルテン氏〉が来ても騒ぎ立てることなく、彼を迎え入れる。朝が来ても親にも兄弟にも何も言わない。そういうことがこの映画を見ていて不思議でないと思わせるのもこの映画の力。そういう、不思議な出来事の積み重ねがこのホルテン氏の冒険ということである。 献辞、母と女性ジャンパー〈スキーのジャンプ〉に捧げる。ホルテン氏の母は女性スキージャンパーだったが、競技としては認められず、母にジャンプをするように言われるが恐怖で出来なかったと、思いを語るが・・・。 雪の多いノルウェー、雪原を走る列車。その風景も美しい。そういう映画であった。 蛇足:4月10日は淀川長治、生誕100年でした。
2009.04.11
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最近落語に少しだけ嵌っています。その昔、今から40年以上前の、中学、高校の時にラジオで聴いて以来落語は大好きです。 私の町には寄席はありませんでしたから、もっぱらラジオが主でした。TVでも時々見ることが出来ました。そして、その昔劇場で、落語を聞きました。その時は、黒門町の桂文楽と今回取り上げた六代目三遊亭円生を聴きました。 さて、今日、車で出た時『文七元結(6代目三遊亭円生)』のCDを聴きました。往復で小一時間、その間に終りまで聞くことができました。 最後の親子の対面では目頭が熱くなりました。人情噺の醍醐味です。満足満足。 なお、このCDは、NHKのテープをCD化したもの。 今の落語ブームは聞く側には有り難いことです。わが町でも聞く機会が増えそうです。
2009.04.05
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2009年4月4日の中日新聞夕刊のコラム「大波小波」に、『おくりびと』異論と、題されたコラム。そこには、米アカデミー賞の『おくりびと』が、日本ではワーストワンに選ばれているとの指摘。「メディアはこの認識のズレをもう少し真剣に問題にしてもいいのではないか。」と・・・。『おくりびと』は日本アカデミー賞も、キネマ旬報賞も受賞しているが、唯一つ 『映画芸術』426号の恒例日本映画ベスト10ワースト10で、ワースト1に選ばれたわけである。 だが、このコラムの指摘は今更ながらの感がある。『映画芸術』のベスト10ワースト10は、恒例であり、映画ジャーナリズムの日本におけるアンチの立場を取っている。だから『三丁目の夕日』も支持しないし、今回の『おくりびと』もワースト1に選んだ。因みに、『おくりびと』ベストの得点のみでは12位である。1位は『ノン子36歳〈家事手伝い〉』。また、付け加えれば、『映画芸術』のベスト10の選び方は、ベスト10での得点から、ワースト10の点数を引いたもので決まる。2008年映画芸術の1位は『ノン子・・・』だが、『ノン子・・・』にはワーストのマイナスがなかったこともベスト10の1位の理由。ベスト10での得点のみ(即ちワースト10のマイナスがなければ)では、1位は『トウキョウソナタ』であった。 再度メディアのこと(映画についてノミ)を言えば・・・、勉強不足としか言えないだろう。それと、伝えなくてはならないものを伝えていないのではないか?今回の『おくりびと』の滝田洋二郎のフィロムグラフィーの紹介も『コミック雑誌なんかいらない!(1986)』からのものが殆どで、それ以前の20本以上あるピンクの経歴を無視してしまっている。それでいいの?(この指摘は多くの人がしているが)である。 マスコミの勉強不足は今更ではない・・・ね。 先日書いた、週刊文春についてのものも同じことです。
2009.04.04
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『家族力×相談力(団士郎)』です。風呂の中で読み続け、完了。引用を・・・、標準モデル(例えば、核家族 夫婦と子ども二人)を掲げて家族を語るのは、根拠薄弱な価値観の押しつけにならざるを得ないのです。それが共働きだろうと、専業主婦がいようと、三世代同居であろうとです。良い、悪いの問題ではなく、社会の影響を受けずに成り立つ家族はないのですから、流動的にならざるを得ない。極論を言えば、標準モデルは永久に存在しない。ステレオタイプで物事を捉えることは危険である以上に、進歩がない。別の言い方をすれば、それはつまらない。エキサイティングではない等々・・・。団さんの指摘とは違う視点ですが、そう思います。引用(その2)・・・。親は誰でも、子どものことを心配します。(中略)数限りなく心配します。そしてその中には、子どもの問題ではなくてお母さんの問題だということになりそうなこともあります。思わず「何が不安で、そんなに心配なのですか?ご自分の問題を、お子さんに重ねて心配をしておられるだけじゃありませんか」、なんて言ってしまいそうになります。確かにそう言っても間違いではなさそうなのです。 しかし、相談として受けたときの助言はそれではダメでしょう。指摘は助言ではありません、助けになっていないのですから。役に立たない正しい指摘、世の中にはこれが結構多いような気がしますが、・・・。 これは、私も頭が痛い。えらそうに指摘をする。それも正しい指摘、だから余計に始末が悪い。それを気づかせてくれた・・・、団さんです。家族力×相談力団士郎文春新書2008年11月20日 第1刷発行
2009.04.01
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