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ベッドタウンの北松戸は、都心とは違って、とある酒場に行ってもまた同じ道を愚直に引き返さねばならないという心理的には非常にキツイ障壁が立ちはだかっています。これが都心ならば例え行きが大変でも次の駅とか別な路線に接続できたり、もしくは路線バスが従往に張り巡らされていたりして、つまりは同じ道を虚しく往復する必要などないことが多いのです。でも北松戸くらいまで来ると、線路に沿って歩かない限りは常にほぼ来た時と同じ経路を辿って引き返す事になるのです。ぼくにだって家があるから、大体において行き帰りは似たような道を辿って帰るのでありますから、それと同じ事ではないかと言われたらつい首肯してしまいそうになりますが、それは決定的に違っているのです。一言でいえば義務と権利の差に近いということになろうか。この意味を事細かに説明するだけの時間は残されておらぬので割愛しますが、北松戸で呑むということは常にそうした不自由な権利と背中合わせなのです。 とここまでが、電車の中で酔って書いた内容なので敢えて読み返すことはしまい。「我が家」は北松戸駅の西口を出て競輪場を通り過ぎ、さらに工場街を抜けたその先にあります。そこらには何軒かの存在こそ知れど行きそびれている酒場が数軒残されています。今夜はその一軒にお邪魔してかねてより携えていた胸の支えを解消しようと職場の知人を連れ立ってやって来たのでした。何のことはない、仕事で北松戸に来る事が多いのだから少し足を伸ばすくらいはどうという事もなかろうと言われても面倒は面倒なのだ。知らぬ町ならともかく、見知った町を行ったり来たりするのはゾッとしないのです。ともかくも店に着くと良かった、ちゃんと営業しています。こちらに限らずこの界隈のお店、定休日でもないのに休んでいたりする事があるから油断ならぬのです。こんな駅遠の店でも大概、常連たちが屯しており当然そうした人たちがいなくては商売として成り立たぬことは自明なのですが、それはともかくとして案外面白みに欠ける店内を見渡してみても営業カレンダーらしきものが見当たらぬのであります。さて、こちらのお店はお好み焼もやってるということで、カウンター席の背後には鉄板付の卓席も用意されていますが、この夜見た限りにおいては普段頻繁に使われている様子は感じられませんでした。もっぱら定番の居酒屋メニューでやっているようです。いや、客の何人かは夜勤前の夜食として丼物だかを注文していたから、食堂としての利用目当ての方も少なくないのかもしれません。これから出勤だというのに生ビールを呑んでいる方などもいて、なかなかに自由だなあ。酒はまあ値段相応ではありますが、肴が量と値段のバランスが取れていない、いや端的にお高めなのでした。この界隈の方はこの値段でも頻繁に足を運ばれているようだから、結構稼ぎがいいのかなあなんて下劣にも他人の財布が気になるのでした。 そして、次にお邪魔したのは駅前の「た古八」です。オオバコの駅前酒場として、特別感はないけれど安定の酒場としていつもそこそこに賑わっております。ぼくもたまに立ち寄らせてもらってますが、たまによるならこういうお店がいいのです。店の方と馴染みになることもないし、程よい距離感を保てるのが楽しく喋りながら呑むという趣旨の時には抜群に使い勝手が良いのです。お通しにお新香のサービスがあるのもポイントが高いです。ここでいつも摘む肴のことを書きます。それはネギちくわで、ご想像通り刻んだネギとちくわをマヨネーズで合えたというシロモノで価格は200円となっております。今週のサービス品とか書かれていることが多いのですが、常にあるような気がします。これが何でもなくて旨いのだなあ。こんなの家で作って肴にしてもちっとも気分は上がらないだろうに、不思議なものです。でもここは駅前だからついつい調子に乗って呑み過ぎてしまうのです。要注意。
2019/05/31
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亀有に浸り切った日々はもう数か月前のことでしょうか。ぼく向きの酒場などももはやなかろうと絶縁状態となりつつあった亀有ですが、一軒の酒場との出会いが突破口となり、立て続けに亀有に通うことになったことはすでに報告済みです。とはいえ亀有贔屓のモチベーションは長続きすることもなく、またも疎遠な関係となり果ててしまったわけですが、今回の一過性の亀有巡りの日々で得られたのは酒場の知識だけであったようです。 さて、亀有の酒場も大分経巡ってしまっているので、もはや残された酒場はそう多くなさそうです。ここはまだ知らぬはずだっただろうかと迷い迷いお邪魔する酒場では、大概の場合、やっぱりここは知ってるなあ、なんてことになりかねぬのです。しかし、「炭火焼鳥金たろう 亀有店」は、きっと来ているなあと分かってはいたけれど、余りにも客の入りが良いものだから、その人気の所以を知りたいがために入る事を決めたのでした。予め申し上げておくと、結局その目的は果たせず終いとなるのでありますが、ともかくも大変繁盛しています。たまたま二人客が帰るのを目にしたから、このタイミングなら通してもらえるだろうという予測が上手い具合に的中したまでで、運が悪ければ入れなかったかもという程度に混んでいるのです。いつも申し上げているけれど、ぼくは混んでいる酒場というのは基本的に敬遠したいと考える方だし、その傾向は以前よりも進行していると思うのですが、それならどうしてここを選んだのかと問われると、それは答えは簡単なことで、かなり歩いて疲弊しきっていたからだという事になります。疲れているから、駅近にしたいしだけどそれなりに間違いのない酒場を選びたい。あっ、そうか、案外多くの人もそのように考えて店選びをしているのかもなあ。というわけでこのお店の客層は千差万別、家族連れもいれば草野球だかの仲間たちやら独り客も少なくないなあ。さて、焼鳥をはじめとした肴は値段はお手頃とまではいかぬものの適正価格でそれなりの味とボリュームでまあ悪くないし、酒はややお高めの設定ですが、ごく普通ではあります。だから悪くはないのだけれど、好きかと言われるとぼくにとってはまあこんなものかという結論に至るわけで、どうしてここまで繁盛するのかは謎のままだったのでした。
2019/05/30
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金町に浸り切った日々はもう数か月前のことでしょうか。ぼく向きの酒場などもはやなかろうと絶縁状態となりつつあった金町ですが、一軒の酒場との出会いが突破口となり、立て続けに金町に通うことになったことはすでに報告済みです。とはいえ金町贔屓のモチベーションは長続きすることもなく、またも疎遠な関係となり果ててしまったわけですが、今回の一過性の金町巡りの日々で得られたのは酒場の知識だけではなかったのであります。 といったような無駄口で紙幅を埋めておくとして、この夜の目当ては実は「洋菓子の店 モガール」だったのです。実は、最近古風という言い方は似つかわしくないか、そうクラシカルな洋菓子がとても美味しく思えるのです。こんな酒場ブログを書いているから、ぼくが甘い物には興味がないとご想像の方もおられるかもしれませんが、実のところ甘い物は大好きなのです。目がないと言うと少しばかり過剰な物言いになりますが、今世紀初頭のパティシエブームの際にはそれこそ有名パティシエのみならず、各地の洋菓子屋を経巡ったものです。甘い物への関心は洋菓子に留まらず、和菓子にも至るのでありまして、これまた各地を食べ歩いたものです。そして辿り着いた結論は、シロウトの甘い物マニア程度で入手可能な和菓子としては、名古屋が最高で、がくんと落ちるけれど次が仙台ではなかろうかと思うのです。京都や金沢、大阪や福井、そして当然に東京もそうだけれど、あちこちご当地の菓子自慢をする人もいるけれどぼくの出した結論は名古屋なのです。喫茶巡りもそこそこに和菓子屋巡りをしたこともあるぼくが言うのだから同意してくれる方もおられると信じたい。とたらたと甘いものへの情熱ほとばしる発言をしてしまったけれど、今は甘いものではクラシカルな洋菓子が好みです。特により特化して言えばサヴァランがお気に入りなのです。ババと呼ばれたりもするようだけれどそれが言語の差なのかそういった仔細には通じておらぬのです。ともかくクラシックな洋菓子のサヴァランがあるのはクラシックなお店ということで、かねてから目を付けてはいたのだけれど、ようやく思い切って買いに行ったのです。そして無論、美味しかったのでした。 まあ、サヴァランを買ってそのまま帰っても良かったのだけれど、つい先般お邪魔した「居酒屋 又来家」に立ち寄ってしまいました。まあ普通に感じの良いお店で特段に特筆すべき特別な点などありはしないのだけれど、せっかく書き出したのだけれど、やはり書きたいことなどそれほどありはしないのであります。でも居酒屋なんてのは不満が出ないならそれで言うことなしなのであります。お店にはわれわれ以外にお客さんはおらず、店のご夫婦も時間を持て余し気味にぼんやりとしておられます。先般お邪魔した際にはそれなりのお客の入りだったのですが、この日は土曜日だったからなんでしょうか、めっきり入りが良くないのです。この間のお客たちを思い起こすと半分が労働者諸君、残りの半分が御隠居さんという見立てであります。前者は家庭の事情とかあり得ますが、後者はいつだって日曜日みたいなものな気がするからどうしたものだろう。揃いも揃って孫が遊びに来ているとも考えにくいしなあ。せっかくの土曜日に自宅からけして近くもない居酒屋で刺身やお好み焼を肴に過ごしているのもどうかと思うのですが。
2019/05/29
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先日、知人に車で柏方面に送ってもらった際に、ちょっと気になる酒場が目に留まりました。ぼくは一応運転免許は取得したものの、一度も有効に利用することなくその権利を放棄したのであります。と書くと車に乗るのが嫌いかと勘違いなさる方もおられると思うので、もう少し正確に記述すると、自動車そのものやそれを運転することには少しも興味はないけれど、誰かが運転してくれて車窓を眺めるという行為は非常に興味があるのです。興味があるというよりむしろ積極的に好む傾向にあります。何が楽しいかはもう言わずもがなでありますが、誰かの運転でどこかしらに送り届けてもらっている最中に視界に飛び込んできたどこかの酒場の有り様に惹かれて、すぐさまメモして訪れるということも少なくありません。だから常にドライブ好きで気のいい知人を探し求めているのですが、見返りも何もなしにその望みを叶えてくれるような人はそうはいないのでありました。この夜は日頃の親しい付き合いが功を奏して―誤解があってはならぬので、一応弁明しておきますが、けして見返りを求めて親しく付き合っているわけではないのです―、知人が所用で車を出すというのでそれに便乗させていただいたのであります。その際に見掛けたのが、新松戸駅からちょっと歩いたところにある一軒の居酒屋なのでした。 この界隈の酒場事情に通ずる方であれば知らぬ者のいないであろうもつ焼屋の良店「まこちゃん」のすぐそばにあるお店で、店名は「居酒屋 こぶた」と言います。改めて来てみるとまあ見た目には少し年季あるといった具合の普通の居酒屋でありました。まあ、車窓から瞬間に眺めただけでは過大評価、もしくは過小評価をしてしまうことはままあることなので、そう気にしてはいけないのです。車窓から目にしたり酔っ払って通り過ぎた、その時点ではすごい良さそうな酒場に出向こうとするときは、期待値を3割減程度ひ引き下げて臨むのが適当であろうと思うのです。とりあえずのビールにネギトロと穴子の柳川風というのを肴に早速開始します。カウンター席には常連らしい二人の客がおりますが、独りでやっている店主とも会話を交わすこともなく、沈黙が店内を支配します。小上りに通されたぼくら―相方は元獣医さん―は、そんな彼らの沈鬱な雰囲気など知らぬ風を装い久々に会ったので互いの動向をゆったりと語り合います。知らぬ町の初めての酒場で旧交を温めるというのは、一般的な振る舞いとはかけ離れていますが、今のわれわれにはこれが旅先で偶然出会ったかのような風情を加味してくれて近頃気に入っているのでした。ともあれこちらのお店は値段も手頃で静かにゆっくりと酒を呑ましてくれるちょっといい酒場でした。 わざわざ新松戸まで足を伸ばしたのだから一軒で〆るのも淋しいと、周辺を散策します。でもぼくにはすぐに目指すべき酒場は見通せていたのです。というのが案外、この辺まで来ると面白そうな酒場が点在する、というか丁度、流鉄の沿線近くに何軒かの居酒屋が軒を連ねていて、嬉々として接近を試みるのですが、それは惜しい事にカラオケのお店ばかりのようです。何度も書いていますが、ぼくは全面的にカラオケを拒否する者ではないけれど、それを知ってでもお邪魔するにはそれ相応の魅力を求めたいのです。しかし、ここらの酒場にはそれを押してでも入りたいというまでの魅力はなかったということです。でも大丈夫、踏切を渡った先にトンカツ屋があるのを確認済みです。トンカツ屋に限った話ではないけれど、とにかくストイックに看板商品というか一つ、ないしはそれに付随する商品のみで勝負する店がある一方で、それでは商売が成り立たぬという理由ばかりではないだろうけれど、客の要望に応じるなどで品数が増えて居酒屋化するタイプの店があるようです。前者の愚直さというか生真面目な徹底振りもいいけれど、ぼくにはなり振り構わぬ出鱈目さというかおおらかな後者のタイプが圧倒的に好みなのです。コチラも後者のタイプでありまして、心なしかこうした傾向の店の方が内観というか店内の風景が心地よく思えるのです。「とんかつ 串揚げ 福利」という夫婦お二人でやっておられるお店は名店とかそういった類の呼び名からは程遠い、あくまでも地元に密着したごくありきたりのお店ですが、トンカツ屋であると同時に酒場としても使えるという利便性で近隣の方に愛され続けてきたのではないかと思うのです。その証拠に混むことはないけれど、ほら一人帰るとまたすぐに次のお客さんを迎え入れています。串カツなんかもどうってことないけれど、言うまでもないけれどそこらのスーパーなんかで持ち帰ったものよりずっと旨いのですね。また行くかどうかというとそれはなかなかなさそうに思えるけれど、地元の方のためにゆるゆると頑張ってほしいものです。
2019/05/28
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さて、喫茶篇は先行していますが酒場巡りは、焼津が振り出しです。焼津では以前も呑み歩いているし、というか散々彷徨った挙げ句にこれといった店の無さそうなのも大体認識しています。実は焼津にはいつでも未練が付き纏っていて、それはどうしても行きたいと思っている酒場が3軒あるのです。いやそのうち一軒は行こう行こうと思う内に店を締めてしまったから、現存するのは、2軒ということになります。一軒は酒場放浪記で紹介されたお店で、基本的には宿屋とセットになった食事処で、食事のみでも構わないらしいけれど予算とメニューを見ると食事のみで6,000円のコースからと決まっているらしいのです。これはもうダメだ、とても食えぬと断念せざるを得ないのです。これでやっていけるのだから、不満を述べても仕方ないけれど何とかハーフコースを用意していただけぬものか。そしてもう一軒は港の近くにあるという狭小な構えの「あん梅」というお店。ネットにも余り情報がありませんが、かき集めた情報によるとこちらもアラカルトでオーダーという一般的な酒場のスタイルと違って、客は黙って席に着いて店主のペースで肴を振る舞うといったお店のようなのです。これは自ら確認した訳ではないから違っていたら誠にすまぬことでありますが、事の真偽はともかくとしてそういうものと思い込んでいるぼくには非常に敷居が高いのです。ストリートビューなどで片鱗のみ窺い知れる店の佇まいはとんでもなく魅力的なので非常に悔しく残念に思われるのです。 なので、駅前の枯れた雰囲気のお店ではある「居酒屋 日の出」に妥協という訳ではないけれどお邪魔することにしたのでした。駅前酒場というものには憧憬にも似た感情を持ち合わせており、こちらは駅前ではあるけれど、ロータリーの向こう側というのが風情を削いでいる気がします。駅前酒場というのは、ぼくのイメージにおいては改札を抜けてすぐにあったりとか、線路沿いの路地に軒を連ねていたりとかいった人々が慌ただしく往来するような雑然とした景色として想起されます。ぼくの記憶では昔の新潟駅前の呑み屋街なんかがそれに近いかもしれません。この焼津の酒場も路地に面して建っておりそれは悪くない風情ですが、いかんせん周囲に酒場が少なすぎるのです。例えば三島駅前の呑み屋街もロータリーの先にあるわけですが、営業しているかおらぬのか判然とせぬ酒場も多いけれど、その迷宮めいた路地の雰囲気が哀愁を伴い情感を揺るがすのでした。さて、まあ少しばかり惜しい環境ではあるけれど、このお店単体としてみればなかなかいいムードなのですが、店内は至って穏当な普通の構えでありました。特別な肴があるわけでもないけれど、その調理は丁寧で特に大ブリの椎茸を焼いたものは旨かったし、酒も無難に揃っており、値段もお手頃。ながらみなど近頃では都内でもたまに見られるけれど、やはり地のものといった感じでその味わいもひとしおで、とにかく普通にいやちょっといい感じのお店でありました。 さて、何軒かの酒場に混んでいたり閉まっていたりでフラれた後に人通りも少ない暗い夜道を彷徨っていると「よねいち」というこれまたちょっといい感じのお店がありました。先の店とは違って、周辺には酒場らしき店もなく、その孤立無援な様が感動的な気すらするのです。港町っていうのは呑み屋街が付き物という印象がありますが、ここ焼津は知らないだけかもしれないけれど、群れを成すように出来上がった呑み屋街と呼べるようなエリアは見られずそれは少し物足りないけれど、こちらのように諦めかけた時に救いの手を差し伸べてくれるような酒場が点在するというのも楽しいものです。さて、こういう哀愁漂う路地裏酒場ながら店内に入ると至って明朗な元気のいいお店でありました。こちらも至って普通の居酒屋メニューが並び、これじゃ都内の居酒屋で呑んでいるのとそう変わらぬではないかという意見もあるかと思うけれど、それでいいんだと思うのです。地産地消とか地方に行ったら地のもの地の酒を呑むべしという意見もあるし、ぼくにだってその土地の変わった食材や酒に接したいという気持ちはあります。でも、基本的にはマグロにしたって土地の野菜にしたって、同じ日本なのだからそうは違わないものです。それでも確かに地元で取れたらしいどこでだってあるような当たり前の野菜や魚介なんかが美味しいと思えたらそれでいいという気もします。といったわけで、地方の町の小体な普通の酒場できっちりと良い気分に浸れたのです。
2019/05/27
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さて、早くも旅は二日目に突入です。二日目ということはこの夜には、帰京しなくてはならぬのですが、宿泊した焼津からまた浜松方面に下る事になるのです。というか昨日乗車した大井川鐵道にまたも乗車して、今度は千頭駅で路線バスに乗り換えて寸又峡温泉に向かうのでした。参考までにその行程を記しておくことにします。 焼津駅から東海道本線5:41発に乗車、6:00に金谷駅着。大井川鐡道本線に乗り継ぎ6:14初の列車で千頭駅に7:27到着。千頭駅前バス停から寸又峡線バスに乗車8:00発でほぼ時刻表通りの8:40に寸又峡温泉に到着しました。 さて、目当ては夢の吊橋という気取ったネーミングの吊橋を渡ることにあるのですが、ぼくには美しい風景―ここだと山間の大井川の清流を俯瞰から眺めるということになろうか―には、幾らか不感症なところはある一方で、高所に対しては確実に恐怖を感じることができるので無論、強く望んで訪れた訳ではないのであります。それでもいざ来てみると存外に楽しめたとだけ書き留めておきましょう。年取ると多分、渡るのも難儀になるだろうし、渡り終わってからの急峻な階段を上るのも厳しいだろうから、今のうちに来ておいて良かったなあ。 見るというより経験すべき事を終えてしまうと後はもう自由気ままに行動したのだろうなとなるかと言うとそうもいかぬのでありました。早い時間にやって来たのが功を奏し、酷い時には一時間以上の待ち時間となる事もあるという夢の吊橋を待ち時間ほとんどなしで渡れた事がむしろ慌しい旅程を迫られたのです。というのは、急いで温泉入口のバス停に辿り着ければ千頭駅行きのバスを拾えるはずだし、大井川鐵道の金谷駅行きに時間のロスなく接続もできるようなのです。寸又峡温泉には、「山の茶屋」、「寸又苑」という喫茶店らしきものを見掛けましたが、幸か不幸か営業はしていませんでした。なので未練を引き摺らずに素通りしてバスを待つ列に並ぶ事ができました。彼らは前夜は寸又峡温泉に宿泊した方たちのようで狭い車内は満席となりました。奥に席を取るしかなかった我々は電車の乗り継ぎに一抹の不安を感じつつもバスは定刻より1分程遅れて発車しました。高所恐怖のぼくにはこのバスからの眺めこそがおっかなかったのです。対向車とのすれ違いも困難な山道をグイグイと走らす運転手の技はまさに職人のものです。それにしても他の乗客たちは少しも不安を感じないかのように表の景色を眺めていられるのがぼくには不思議でならなかったのです。そんな恐れおののくぼくのことなどお構いなしにバスはスピードを落とすこともなくひた走ります。乗り継ぎを想定して対向車の交通規制もされているのですね。万が一、バスが遅延しても多少なら乗り継ぎ列車も待ち受けているのかもしれません。しかし幸いにも時刻表通り列車の発車5分前には到着したのでした。 という訳で、後は帰京すれば良いという気軽な身になり、さて、とうしたものかと思ったのだけれどすぐに思い付くのが伊東のこと、先般立ち寄った際に一目惚れしたもつ焼き屋にお邪魔せずにはおられぬのです。だけれどもまだ時間は呑みには早いから喫茶に立ち寄ることにしたのです。でまあ、ありきたりで済まぬけれど、立ち寄ったのは熱海駅の目の前の「レストラン COFFEE フルヤ」だったのです。今更、ぼくのようなものが語らずとも済む定番のレストランですが、余りにも駅から至近に過ぎるので、立ち寄るというチャンスを逸してしまったのです。そして、散々ネットに流出した写真なんかでは受け止められないだけの感動を享受できたのです。ぼくなんかのような発見に至上の歓びを見出すタイプの方も少なからずおられると思うけれど、先人の切り開いてきた足跡を律儀に歩むのもやはりわるくないものです。 さて、伊東に到着しました。ここでも先人の歩みを工夫もなく辿ることになります。「軽食・喫茶 エリーゼ」は、かつての純喫茶の面影を濃密に留めながらも―特に近な伸びる階段に―、やはりお手頃にリサイクル品でリニューアルするという悪手で、好ましいはずの美徳を食い潰しているようなのです。リニューアルでもリノベーションでもまあどちらでも構わぬけれど。その手さばき加減ひとつで、その店舗の美徳を留めるか失するかを決定付けるのです。当たり前の事だし、実際問題として予算の多寡やら将来展望などを加味しておかねばならぬだろうから、一概に否定的な言説は避けなければならないのですが、でもやはり少しばかり残念な事であることは否めません。地下へと下る階段を眺めているとその暗闇の先を覗き込みたい誘惑に掻き立てられるのですが、やはりそこは見ない方が良いのだろうと思うのです。
2019/05/26
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御徒町で呑む機会がめっきり減っています。というのも駅界隈が再開発でかつての怪し気というよりは危な気なムードを失ったからというのも理由の一つにあります。一つと書くからは、他にも理由があるのでして、この界隈を散策もしくは徘徊を何度となく繰り返した方であればお分かりだろうと思うけれど、思ったよりも酒場が多くないのであります。またいつもの思い違いをしていたと反省したフリで報告を続けるのだろうと思った方がいたら、残念ながらこの事実は字義通り実際の事なのであります。とは言えさすがにどこか洗練を欠いているけれども都心の町だけあって、郊外のどこかの町なんかとは違って全容を知り尽くすには至っていないこともまた事実なのです。なのにどうして御徒町を悟り切ったかのように語るかというと、それは歩きながら視界に映り込む店舗なんかがどこかで目にしているであろうチェーン店などと照合されるようで、その場で排除するという操作が無意識のうちに取られているようなのです。だから、ぼくの視線に収まる酒場は数少ないということになるのです。以前は喧しい位に賑やかだった御徒町が、今では整然として感じられるのです。ゴチャついたアメ横などは観光目的の意図的にプランナーが誂えたエリアに過ぎないように思えるのです。そんな状況だからこそなぜか以前は取りこぼしてしまったお店にも出会えるのかもしれません。 ガード下の「鳥よし」には、気付いていたのかもしれませんが、当時のぼくには後送りすればいいという程度のお店と書くと失礼かもしれません。開店直後の店内はまだ薄暗く、お店の方もまだスタンバイの態勢に移行しきれていないようです。表通りを眺められる窓際の卓席に着くと取り急ぎドリンクのみオーダーします。取り急ぎ肴はホタルイカと砂肝炒めにしておこう。酒に口をつける頃に夫婦連れ立ってのお客さんが入店です。買い物帰りに立ち寄られたようで、結構な荷物を抱えています。勝手知ったように手早くオーダーを済ませます。続いての客も夫婦連れで全くの躊躇もなくいつものカウンター席に着きます。とりあえずと言いながらギクリとするような大量オーダーです。そして席に着くや出された中ジョッキを瞬く間に平らげます。あっ、それは奥さんの方ね。なる程、この日は土曜日だったので平日とは様子が違っているのでしょうが、コチラのお店は少なくとも土曜日の夜は買い物帰りに食事を兼ねて立ち寄るという使われ方が多いようにお見受けしました。ぼくが普段立ち寄るような酒場ではそうは見られぬ使われ方がここでは一般的なようです。確かに大手チェーンの居酒屋なら夫婦だけじゃなく、小さな子供を連れた家族にはとても重宝するのだろうなあ。そう考えるとぼくの好むような酒場というのはごく一部の酒場好きとかにしか寄与していないとも言えなくもなさそうで、汎用性という面では明らかに劣勢に立たされるのかもしれぬ。としたらチェーン店を一概にないがしろにするような言説はもう少し配慮をもってなすが正解かとも思うのだけれど、一応は私的なブログというメディアでそんな遠慮もどうかという気もしなくもない。ともかくとして酒場好きにも受け入れられそうで、子供連れにはどうか分からぬけれど、こうした活用範囲の広い酒場は好意的に接するべきだとは思うのです。
2019/05/25
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北千住については、もはや語るべき事はほとんど残されてはいないようです。まあ、これまでにしたところで北千住について語ってみせるよう振る舞ってはいたけれど、その実、相も変わらぬ個人的な雑感などを呟いていただけなのだから、結局は北千住という町と向き合ったことなど皆無なのかもしれません。ともかくも言えることは北千住という町をぼく自身余り好んでいないという事なのです。何故に巷間では北千住を斯様に持て囃すのかがぼくには常に不可解なのです。ならば行かねば良いではないかという最もな意見もあるけれど、それには聞く耳持たぬのであります。好むと好まざるに関わらず行かねばならぬ時というものが人生には付き纏うものであります。この道理は、きっとご理解頂けると信じたいのであります。いやまあ、今時の若者というのは呑みの誘いも平気で断るらしいし、そもそも呑まぬ事を自然とするを信条とかそういう重苦しい意思とは無縁に自明の事と弁えているらしいのだから、お話にならぬのです。まあ、そうした人達がこのブログを目に止めることなどありえぬだろうし、ぼくの身近にそうした人物はおらぬのだから気にすることなどではないのです。さて、ともかくも好きでもない北千住で呑む事になった以上は不愉快な気持ちに陥らぬよう無欲無心にて臨む事にするのでした。 ということで、とりあえず会合の前に「手作り居酒屋 甘太郎 北千住店」に立ち寄ることになっても何の不満もないのであります。会合の場所からも近いし、何よりまだ開けていない酒場も多いのだから選り好みなどせずにここを即決した上司の決断力にまずは驚かされるのです。しかし、店に入って驚かされる事になるのです。それはこのお店、店内が恐ろしくオオバコでしかも内装がチェーン店の居酒屋とは隔世の観があります。写真だといまひとつ伝わりにくいかもしれぬけれど、案外ユニークな内装が施されていて、もしかすると別な業態のお店を射抜いたのではないかと想像しました。「甘太郎」なんて10年以上来たことはなかったけれど、こんな雰囲気ではなかったと思うのです。まあ、これはあくまでも想像に過ぎず、どこの「甘太郎」でも似たような内装なのかもしれません。ここは焼肉屋仕様の店舗らしくて、本来であればそれを食べずに感想を述べるのもどうかと思うのですが、面白い店内だったのであえて報告しておきます。 さて、会合の会場は「イタリアンバル 2538(ニコミヤ)」でした。ここもまた実はさほど語るべきことはないのでありました。店名がニコミヤと読ませるのですが、別に煮込み料理のお店という訳でなく、極めてオーソドックなイタリアン風料理を呑み放題込みで3,000円というそこそこお手頃な価格で提供してくれます。料理は至って普通で、ぼくが手作りした方がゴージャスな味わいになるに違いありませんが、まあ普通にいただけるので文句はありません。呑み放題にはスパークリングワインも含まれていて、まあ近頃は安価で販売されているから格別ありがたがる必要もないのですが、ぼくはスパークリングワインも大好きなのでガブガブ呑めるのは非常にありがたいのです。でもけち臭い根性が災いして、やはり呑み過ぎでヘロヘロになってしまったのでした。
2019/05/24
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東十条にめっきり疎遠になってしまいましたが、東十条は今でも好きな町です。好きな理由はあれこれと理屈を捏ねられそうだけれども、的確な答えを提示するだけの準備はできていないし、いかにももっともらしい言葉を綴ってみたとしてもそれが正解とは思えぬだろうなあ。好きとか嫌いとは分析の対象とはなし得ぬ素材なのかもしれません。例えばぼくが酒を好きなのはまあ間違いなさそうだけれど、じゃあどの酒が好きなんだとか、どういうシチュエーションが好みかなどと具体的な事を聞かれても口淀んでしまうはずです。酒そのものもまあ旨いけれど、酒を呑むという行為を巡る諸々が好きなのですね。だから仮にある酒場で作為もしくは不作為でも構わぬけれど、アルコールなしのドリンクを提供されたとしても何だか薄いなあ程度の事は感じても知らずに呑んでしまう可能性すらありそうです。プラシーボ効果のようなもので、知らずに健康体へと移行するんなら騙されるのも悪い事ばかりではなさそうです。話が逸れて何の話をしているのか分からなくなりました。そう、ぼくは東十条が好きという話をしていたのでした。近頃めっきり足を運ばなくなったのには未訪の酒場が思い当たらぬというばかりでなく、再訪したいと思える酒場も減っているのです。例えば「三兼酒場」もそんな一軒で、田端の立ち呑み屋で遭遇するご夫婦には遠く及ばぬライトユーザーではありましたが、ここの事は大いに気に入っていたのです。そこの空き店舗にいつの間にやら居抜きで焼鳥屋が出来ています。ならば試してみたくもなるのです。果たしてかつての開放感は留めておられるだろうか。 どちらが頭でどちらがお尻かはともかくとして、出入口の両側にある造りは以前を踏襲しています。ご夫婦二人のお店ではこれは不用心な気もするけれどこの入口を多くしてこの酒場はあらゆる客に遍く開かれているよと語りかけるようなとかろを活かしたのは、誠に正しい選択なのです。煙避けのアクリル板が店の方と店内の見晴らしを阻害しているのは至極残念なことでありますが、煙臭い身なりで帰宅できない方も居られるだろうからそれはそれで仕方ない気もするけれどやはり、ぼくには残念に思えるのであります。「炭火串焼 まるよし」の第一印象はそんな感じだったので必ずしも積極的に肯定したくなるという事はありませんでした。しかし、結局、こちらの手頃ながら丁寧に焼かれる鶏の処理などを眺めていると、こちらの店主が手をぬかぬ実直な方であることが感じ取れます。そのせいか随分遅い時刻になってからの女性一人客が少なくないのです。これからご出勤風の方もいるけれど、わざわざ予約して訪れる仕事帰りの方も少なくないのです。そして、ここは客が独り好きなように時間を過ごせるよう店の方もほとんど干渉してこないという方針を徹底して貫いているようで、そこもまた女性達の支持を獲得している由縁なのかもしれません。ぼくのような酒呑みは、今時は時代遅れなのかもしれません。焼鳥をある程度腹に入れると後はもう塩辛とかで良い。温めに付けてもらった燗酒を何度もお代りして結局終電まで呑んでしまうのだから案外ぼくもここを気に入ったのかもしれません。
2019/05/23
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日暮里から酒場マニアにはよく知られた酒場が姿を消して以来、ぼくが日暮里に下車する機会はパッタリと減りました。そりゃまあ好きな酒場もないし、古い酒場が突如として出没するなんてこともありえぬ以上、ぼくがニューオープンの酒場を射程に据える方向に宗旨替えでもせぬ限りは、日暮里との関係を深めるということなどあり得そうもないのでありました。だけれどもぼくにだって浮世の義理やよんどころなかったりのっぴきならぬ事情などで日暮里で呑まねばらなぬ事もあるのであります。「日暮里 串まる」は、まあ悪くはないんですけどねえ、悪くはないけれどけして手放しに誉められたお店でもない気がするのです。駅から割合近いし、気楽な雰囲気も入り易くはありますが、この店らしさってのが微塵も感じられぬのです。二度づけ厳禁のソースを見るのにももう飽き飽きであります。ここは表の立呑みで呑むと2割引きというサービスをずっとやっているけれど、その表通りにて衆目に晒すという態度がいかにも貧乏客を下に見ている気にさせられるのです。この人たちは金がないから表で立たされたまま呑んでるんですよ、と言っている気がするのです。人目に晒されるのがお好きらしい目立ちたがり屋さんたちがたまに呑んでいるのを目撃するけれど、彼らを見る視線は店内で呑めない可哀想な人たちだなあというのが本音であろうと思うのです。貧乏の酒呑みという自虐的な振る舞いを幸福と思える人にしかここに立って呑むことはできないんではないか。ぼくも立呑みは全然苦にならぬ方なので、本音からするとここで呑みたいのでありますが、なかなかそうはできぬのです。せめてもう少し立呑みエリアの範囲が広ければ視線を分散できるので利用価値もあるのに。今時分は表で呑むのも悪くないけれど、冬場はともかくとして夏場の暑い日にここで呑むのはご遠慮したいところです。という訳で、系列店を少しづつ増やしてはいるようですが、爆発的な増殖を図るにはさらなる工夫が必要と思われるのです。 一方で、お向かいにある「太平山酒蔵 日暮里店」は、安定感というその一点において圧倒的に勝っているように思えるのです。前々から思っていたけれど、この居酒屋らしい居酒屋の調理人はかなりハイレベルなのではないだろうか。そもそも「太平山酒蔵」はその名の通り清酒 太平山の醸造会社たる小玉醸造株式会社の直営店、いわゆる宣伝酒場の類であると思われるのでありますが、その真偽は保証の限りではありません。ということは秋田の酒と肴を売りにしたお店ということになるだろうけれど、四ツ谷の本店では秋田料理をメインに据えていることを声高らかに謳っているけれど、他店は知る限りはそうでもないように思われるのです。実は今回このお店に入る前には太平山ってどこの酒だったかなあなどと思って、品書きにセリのお浸しがあるのを見て、ああそうか太平山は秋田の酒だったなあと思うに至ったのであります。セリのお浸しで秋田に辿り着くのは嘘くさかろうと思われても仕方がないけれど、事実そうなのだから仕方がない。だってぼくは秋田に半年ほどだけどいたことがあるから自信を持って語るのだ。それにしてもここの肴は程よい量で味がいいものだからついつい頼み過ぎて、お勘定書きがえらいことになってしまうのが玉に傷なのであります。あと、フロアーのお調子者のオヤジさんが注文取りの鬼でありまして、ついつい注文が増えてしまうのです。そうそうここにはジャン酎がありまして、これを頼むとオヤジさんが近寄ってきて嬉しそうに通だねえなどと煽てながらまた追加の一品を頼んだりしてしまうから注意が必要なのです。
2019/05/22
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松戸駅での呑みについては、これまでも散々書き散らしてきました。行きたいと思う酒場など皆無だなんて大口を叩いて気もしました。では実はまだ行きたいと思いつつ行けていないお店が残されている訳です。だったら愚図愚図言わずに勝手に行ったら良いじゃないかというご意見はごもっともであります。さてはそこのお店、値段が張るんじゃないかという推測をされた方も少なくなかろうけれどそれも当たっていて、グウの音も出ぬのであります。さらば一日二日外呑みを控えて行ったらどうだいというアドバイスも拝聴させて頂きはするけれど、それを受け入れて実行する意思など毛頭あらぬのです。つまりはハナから聞く耳など持ち合わせておらぬのであり、ならばそう告げれば不毛な意見を語らせる労を厭わせずに済むのだろう事は分かっているけれど、相手の言う事に聞き入り、丁重に断る程度の小者の礼儀を兼ね備えているのだからますます質が悪いのです。なんて事を書いてみたけれど、実は行ったのは以前呑んだことあるお店なのですね。 松戸ではそれなりの年季を誇ると聞く「軍次家」は、その店の構えからは微塵たりとも老舗である事を体現せぬのであって、つまりはぼくのような雰囲気重視の者には誠に退屈なのであります。松戸には他にも「関宿」という蕎麦屋を始めとして、天ぷらや寿司なんかも扱う老舗店がありますが、そこが伝統的な日本家屋を店舗として有するのとは営業姿勢が大いに異なるのです。後者では多分に雰囲気料としての金銭を請求しているのだと思われます。実は行きたくて行けぬ店というのがここのことで、とはいえ傍系に当たる寿司屋と閉店して久しいけれど居酒屋もかつてあったりして、それらにはお邪魔しているという事を申し添えておくことにする。しかしやはり本流の蕎麦屋とそれに準じる天ぷら屋にも行っておきたいのでありますが、どうも気後れして行けずにいるのです。それはともかくとして、既に行ってもいて余り気に入ってもおらぬ「軍次家」に再訪するのはどうしてかという疑問には、やむを得ぬお付き合いがあったからだと答えるのが最も近いかもしれぬのです。しかも自腹で来るにはここは些かぼくの財布には荷が重いのです。しかし、この日はランチということなので、然程は懐も傷まぬだろうと観念して訪れるのです。ランチはここの定番の鰻以外に三種類あって、天ぷら、刺身、煮魚の組合せということになるのですが、ぼくは天ぷらと煮魚の組み合わせをセレクトです。ここは生ビールも強気だなあ。ランチの一口ビールにしては利用は多いけれど値段もそこらの店の中ジョッキレベルです。それにしてもなる程、ご老人達で賑わう訳です。小鉢を始めとにかく何を食べても間違いがないのです。特にサバの味噌煮は久々にこんなに絶妙に仕上げられたものを食べた気がします。味噌の風味がきっちり効いているのに鯖の風味をちゃんと活かしきっているのです。って何言ってんのか分からんねえ。旨いものは旨いのだ。かき揚げは立派な海老がゴロゴロ入っていてそれはいいのだけれど少しばかり油がキツイのが残念です。ご老体達がこぞって残している理由が分かる気がします。これは二人でシェアして食べるのがいい加減だと思うのです。だとしたら始めからそれを想定して分け合いっこするのが正解かもしれない、などと考えますが、果たして再びコチラの暖簾をくぐる日が訪れるのやら。
2019/05/21
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SL待ちの千頭駅では、しばしのインターバルがあります。アプトラインは終着の井川駅まで行けなかったのにはほんの少しの未練を残してしまいましたが、これで井川駅まで行っていたらSLに乗れぬどころか、金谷駅に戻ると6時近くなり、それだけの時間を費やす気にはなれませんでした。廃線後を辿る趣味も今のところはないので、閑蔵駅から路線バスで折り返すのはなかなかファインプレーだと自負したのですが、今考えるとこのバスとの絶妙な接続はぼくと同様のプランを辿る者のために配慮されているのかもしれないです。列車も好きだけれど、バスも劣らず好きなのでこれがぼくにはベストと思うことにします。さて千頭の駅前散策もすぐにひと巡りを終えてしまったので、昼食がてらに駅前の食堂を物色します。 非常に限定された選択肢の中から「手打そば 丹味」に決めました。どこも古びた風情を求めるというにはいかにも観光チックな装いの食堂でここぞと決めるに足るだけのポイントがなく、それなら蕎麦屋が一番安定していると判断したのでした。店内は至って端正な構えでまあ面白味はないけれど、座敷は手足を伸ばせて気持ちがいいのです。寿司や料理という記載もあるけれど、メニューを見る限りはそばかうどんかに絞られるようです。天ぷらを揚げる香ばしい香りにも惹かれますが、ここは潔くもりにしておきます。質素な方が蕎麦の風味を存分に楽しめるのであると己に言い聞かせる。けれど、後はSLに乗るだけという安心感とちょっとした昂揚感でビールだけは頂くことにします。揚げ蕎麦を肴に含んだビールの旨いこと。この1杯のためにビールという酒は残しておきたいと心の底から思うのです。さて、蕎麦はというと、これが抜群に香り高い蕎麦で驚かされると同時に少し感動するほどでした。この美味しさなら他の料理もきっとレベルが高いのだろうなあ。夜の営業はどうなっているのだろうか。なんてことを思ったりもしたけれどさすがに千頭の町で一夜を過ごすのも冴えない気がするというと失礼でしょうか。 話は編集の都合上、一気に翌日の最後の居酒屋報告へと飛ばすことにします。というのもあえて書くほどのお店ではないけれど、でも日記的な意味合いがあるこのブログの性質上、記録しておくのが正道だろうと思ったまでです。翌日の最後に立ち寄ったのが、熱海でした。しばらく熱海を散策して呑めるお店を求めたのですが、早々と店を閉じてしまっていたり、だからだろうかとんでもなく混雑していたりでなかなか店が決まらぬのでした。なので、駅ビルのラスカ熱海の飲食店街に立ち寄る羽目になるのです。「伊豆太郎 ラスカ熱海店」にお邪魔しました。お向かいの店も人気店で待たされるようですが、こちらも待ちのお客さんが数名列をなしています。ならばどうしてこちらを選んだのか。順番が早い方を選んだかというとさにあらず、店の方の親切な方を選んだのです。親切というかこちらの対応は極めて普通ですが、お向かいの応対が酷過ぎるというのが正確です。さて、駅ビルの飲食店街のお店らしく面白味は少しもありません。しかし、寿司を初めとした食事はなかなか美味しいし、利便性も抜群だから旅の最後に休息を兼ねて立ち寄るにはとても良いと思います。昔の熱海の駅前は夜になるとどこもかしこもシャッターを下ろしていたことを思うと、随分便利になったなあと熱海の回復ぶりにはぼくも素直に嬉しくなるのです。
2019/05/20
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つい先だってのGWも過ぎ去ってみれば、誠に呆気のないもので既にして記憶の奥深くに埋没してしまいそうです。長期の休みを活かすべく、遠隔地へと足を伸ばしたいという衝動をぐっと飲み込んで、一泊二日の小さな旅を三度というプランをもって臨むことにしたのです。予算の都合が欲望を圧倒したという事です。でも普段なら日帰りにせざるを得ないところを一泊する事で随分行動範囲を広げられるから、きっとそれなりに充実した旅となると期待する間もなくGWに突入したのです。ところで、この三度の旅では喫茶や酒場巡りは極力控え目にして、観光の要素を散りばめました。無論多くの未知なる喫茶や酒場を見てみたいという欲望はまだそんなに衰えてはおらぬけれど、ここのところ、飲み過ぎ、呑み過ぎで旅の道程に差し障りが生じる事もしばしあったので、無理のない程度に愉しむ事をモットーにしたいのです。特に三度の旅を満喫するためにもいきなり飛ばすのは危険です。ともあれ、旅の記録かつ参考になればととりあえずプランを残しますが、極力手短にします。なんと言ってもこのブログは、酒場とたまに喫茶を愉しんだ記録のためにあるのだから。 GW初日の土曜日、品川駅5:10発の東海道本線に乗車し、金谷駅に8:38着。既に疲労を感じますが、危惧していた列車の混雑はほとんどなく、むしろ座り疲れしたくらいに順調でありました。ここで大井川鐡道本線9:01発に乗り継ぎました。この大井川鐡道に乗ることこそが今回の旅の目玉企画なのであります。というかこの列車の乗車時間や待ち時間がこの旅の大部分を占めるのであります。なので、欲張りなぼくはなかなか旅の予定を決定しかねていたのですが、たまたまテレビで大井川鐡道を特集しているのを見ていると、こういう旅もたまにはいいんじゃないかと思うに至ったのです。しかもふるさと納税の返礼品で大井川鐡道のフリー切符を入手していたから早めに使わないといけないという現実的な理由もありました。 10:14に千頭駅到着。ここでお目当ての大井川鐡道南アルプスあぷとラインにさらに乗り継ぎます。終点の井川駅まで乗車したいところですが、見所はもう通り過ぎたと自らに言い聞かせ、閑蔵駅にて下車。路線バスの閑蔵線12:20発にて千頭駅前まで引き返します。14:10の本線上り列車がSLでそれを予約してあったからです。 まだ投宿するには早い時間だったので、東海道本線にて藤枝駅に移動、下車してみることにします。藤枝駅ではこれまで下車した覚えがありません。適当に駅を出るとロータリーを見渡すだけでも3軒の喫茶店があるから嬉しいではないですか。近頃チェーン系コーヒーショップではないお店がこれ程揃っているのは珍しいことではないか。取り急ぎ「喫茶 サモワール」に入ってみることにします。駅に隣接したビルの2階に繋がる階段には、飾り棚が置かれ中には古時計が詰まっています。同じロータリーに「タイム」という喫茶店もありますが、むしろそちらにこそ相応しい飾りではないか。対抗意識からこうしたのかなあ。などと思いながら店内に入ってみると、パーラー風のカジュアルな雰囲気。まあ無難と言えば無難だけれど、それでも一日歩いてこれが初の喫茶ということになればちゃんと熱いコーヒーが飲めるというだけでも有り難いのです。窓からの見晴らしも良くて、GWだというのに人通りの疎らではありますが、これから旅立とうとする人を家族の方が送り届けるという光景なども見られて楽しいものです。駅前はやっぱりこういう窓の大きな喫茶があるのがいいですね。この日は余り時間がなかったけれど、列車待ちの時間潰しにはもってこいです。ああ、そういう意味では駅前どころか近くにほとんど商店もない金谷駅にこういうのがあると再硬なのにねえ。 続いては、「Cafe de MOCHA(モカ)」にお邪魔しました。オーソドックスな構えの品の良いお店です。内装も外観を少しも裏切らぬ正統的な端正なお店でとにかく安心してくつろぐことができます。近所の住民は買い物のついでや夜の食事だか呑みの前のひと時を過ごしておいでのようですし、店のママさん風の方たちも何名かいらっしゃいました。こちらでは卓席よりもカウンター席を好むお客さんが多いようで、卓席に着いたものの空いたとなるとすぐさまに移動なさっているご夫婦もいらっしゃいました。それはきっとこちらの優しそうなママとのお喋りが嬉しくて仕方ないからのようです。 駅前の「COFFEE TIME(タイム)」は次回のお愉しみにとっておくことにしました。一方で、駅から5分ほどの場所にある「珈路」はすっきりした外観がたまらなく魅力的で店内には明かりが付いていて、営業を終えたところか、もしくは始めるところなのか。後ろ髪を引かれますがこちらも次回の機会に譲ることにします。 さて、今夜はホテルを予約している焼津に早めに移動してゆっくりと呑みに行くことにしよう。
2019/05/19
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そろそろ北松戸とは縁を切りたいところですが、なかなか思うようにならぬのが世の常ということなのでしょうか。でも仕事で来る事がなければ知らぬままとなるに違いない酒場も少なくない筈です。それを思うとここに来るのも悪い事ばかりでないと思うようにしようか、その方がきっと精神衛生上よろしいに違いないのです。そう思えるようになった事を記念して折角だから北松戸に初めてやって来て、その時立ち寄って以来ご無沙汰したり、稀に仕事での付き合いだったり仕事が遅くなったり、つまりは仕事の都合なんかで面倒なときに寄り道するような薄情な関係しか持てなかった酒場を訪れる事にしたのでした。 当時はボロゾロだった側面のテント看板も真紅のまっさらなものへと取り替えられて、かつての妖しさを失った「居酒屋 めだか」には十年くらいの無沙汰をしてしまっただろうか。それを悔いる程に肩入れするような店ではなかったと思うのだけれど、久々にお邪魔するとなるとこれはもう初訪の際のトキメキなんかも思い出すのであります。卓席が三つとその記憶は間違いなかったけれどカウンター席や奥に座敷らしき席があるのは覚えていなかったなあ。オヤジさんが寡黙なのは変わらないけれどかつてより随分柔和になった気がします。以前は思いがけず若者の集団に気圧されるような感じで肩身を狭くして呑んだ記憶がありますが、この夜は我々以外は沈黙に包まれています。その寂しさもまた酒場の醍醐味なのです。知人を連れ立って来てしまったけれど、これは当時と同じく独りで来るべきだったかもしれぬ、などと思いつつ早速呑みをスタート。チューハイはこういう町外れの呑み屋としては種類が豊富です。ビールで軽く喉を潤した後には、コーヒーサワーを注文です。単なる焼酎のコーヒー割ではなさそうだから、焼酎に豆を入れて熟成させているのかもしれん。タン塩焼きやらニラ玉などなど、定番ながら確かな美味しさ。ポーションがやや多めで独りだとちょいと厳しいかもと思いながらここを黄昏酒場などにせず、北松戸の定番の店にすればいいんじゃないかと思えてくるのです。良い気分で飲んでいると女将さんが買い出しに出かけてしまいました。酒が切れてオヤジさんが応対してくれるのですが、なるほどそうかあ。オヤジさんは声帯を悪くなさったらしいのです。でも彼の柔和な表情は言葉以上に気持ちがこもっているように感じられるのです。きっとまた来ようと思うのです。 お次は定番の「あみ焼元祖 しちりん 北松戸店」であります。コチラについては特に語るべきこともない。安い肴もあるし、気が向いたらホルモン焼にするも気の向くままという気分屋のぼくには至極便利なシステムでチェーン店ながら悪くないのです。そうそうこう書いていて思い出したけれど、この夜のお勧めに筍の肉巻きというのがあって、非常に分かりやすいメニューだったのですがこれが美味しかったなあ。こうしてブログを書くことをやめて、酒場巡りも程々ということになった時にはこうした酒場こそが重宝するのかもしれないなあ、なんて弱気な発言を漏らしてみせたりするのでした。
2019/05/18
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西日暮里にもまだ入っておらぬ居酒屋があるにはあるのです。入っておらぬと確信を持てるということは、ぼくのような記憶力のままならぬような者にとっては実はかなりの自信を擁しての発言なのでありまして、詰まりはそれだけ立ち寄っているという事でもあります。それが好んで通っているわけではない事は、このブログをお読み頂けている方になら言わずもがなでお見通しかと思います。さて、入った事のない酒場を放置してなお入らずに済ませているのには、余りにも単純で切実な理由があるのです。それもまた言わずもがなである訳で、見るからにお手頃っぽく思えぬからであって、さてさてぼくは一体いつまでこんないじましくも情けない事を書き続けねばならぬのか。それはともかくとしてこの夜、他所の酒場で呑んでいたぼくですが、唐突に西日暮里で呑まぬかという誘いを受け、そのお方はどこから湧いて出るのか無尽蔵に札束を算出する財布をお持ちなのであります。ならばガッチリと値の張るであろう酒場にご案内するという考えもあるけれど、そこはケチな根性のぼくとしては、程々の価格と思われる居酒屋なんかで収めてしまうのであります。ぼくにも彼との先々の付き合いを慮る程度の打算があるのです。 ということで駅からすぐの「大将」という居酒屋の上のフロアーにある「もてなしや 将」で彼の到着を待つ事にしたのです。入口に伸びる真っ直ぐな長い階段というのは、こうした余り個性のないお店にとっても彩りを添えるもののようで、少しばかりワクワクすると同時に思ったより高いかなとやはりどこまでもセコいのです。それにしても大将の上に将というのは果たしてアリなんでしょうかなんてつまらぬことを思いつつ、ちょっぴり気取った内装のお店に足を踏み入れるのでした。店内は、明朗な勤め人ばかりに見えます。無論、彼らが揃いも揃って明朗なはずもなく、よくよく観察すると男女混淆のグループが目立ってきます。明るい表情の裏側では幾重もの欲望が交錯し合ってとてつもなくドロドロとした攻防が繰り広げられているのだろうなあと感じてしまうのは、こうした居酒屋に日頃通えぬ者にやっかみでありましょうか。待ち合わせの相手もやって来ていよいよ本格的な呑みの時間が始まります。肴はちょっと高級風だけれど、隣席の片付けの際に除菌のスプレーのアルコールが飛び散ってぼくの柔肌をすっと冷やすのでありますが、落ち合った彼の元上司が「大将」の方でやはり異国の従業員にアルコールを振り掛けられて激高した話を聞くと怒る気にもなれず、思わず吹き出してしまうのでした。あまり気乗りしない店でも楽しい会話があればそれなりに楽しめるものだと感じたひと時でした。
2019/05/17
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JRの御徒町駅は、ここ数年ですっかり明るい町となり、多慶屋周辺の雑然としやさぐれた町並みは辛うじて留めてはいるけれど、そこからの無機質な単調な風景を歩くのが嫌で、長年懸案としているお店にも行かぬままに時が経過してしまいました。日本で2番目に古い商店街を名乗る佐竹商店街の人通りも疎らでシャッターを下ろしっぱなしとする店舗も見られるけれど、利便性の良さもあってか今でも現役の店が勝っているのは嬉しいことです。以前は良くこの商店街を歩いたものです。しかし、この商店街を目当てに訪れていたわけではありません。実にささやかな理由ですが、この近くのおかず横丁の「いわた」というお店の大学芋を真の目当てにして立ち寄っていたのであります。その大学芋屋も店をやめてしまい、後継ぎも家業を継ぐのを嫌ったのかその絶品大学芋も幻となり果てたかに思っていたのですが、どうやら川越に店を移転して再オープンしたとも風の噂に聞きますが、果たして当時の味わいを留めておられるのか気にはなるものの不安が勝って未だに行けず仕舞いとなっています。 されど、佐竹商店街にもずっと気になるお店があります。「甘味・軽食 白根屋」がそこなのですが、その存在はずっと認知していて、土曜日も営業しているので意向という決意さえ固まればそれこそいつだって行けてしまうという気楽さがこれまで足を遠ざけていました。しかし、そんな気持ちではいつまで経っても行けるはずがない。思い立ったら万難排して出向くべきなのです。そして例のカレーライスを口にすべきなのです。昔の甘味処そのものを体現したような店内も素敵ではありますが、そのリラックスできる環境以上にカレーライスが気になるのであります。今、リラックスと書きましたが実は四人掛け卓席は、身体の小さな昔の人仕様となっていて少しく窮屈なのですが、長居するつもりはないのだからそれもまた良しなのです。店のおばちゃんが仕切りに大きな卓を勧めてくれるけれど丁重に辞退します。さて運ばれてきたカレーライスは期待に違わぬ見事に鮮明な色彩を放っています。こうしたカレーライスにはソースが良く合います。たまにブルドッグなんかの中濃ソースが置かれている場合がありますが、ドロッにドロッを重ねる事をぼくは好みません。ここはやはりウスターソースが良いと思うのです。ドロッにサラッが混じって実に良い塩梅です。しかしまあ中濃もお絵描きできたりしてそれはそれで楽しいのですけどね。次にこういう鮮やかなカレーライスを食べるのはいつになるだろうと大切に頂きましたが、実はその翌週にさらに色鮮やかな逸品に遭遇することになるのでした。さて、帰りに商店街の福引ができるとレシートを受け取りますが、ここでおばちゃんからまさかの有難いサービスを頂けました。お陰でお土産ができました。 続いてお邪魔するは、「大村庵」でありました。普通といえばそうかもしれないけれと、その時のぼくにはとても懐かしさを感じさせてくれる佇まいに思えたのです。飾り気のない店内もとても爽快で気持ちが良いのです。蕎麦屋っていうのは、蕎麦を食うにしろ食わぬにしろ清涼感があるのが好ましいと思うのです。と書くと蕎麦を食っておらぬように終えるかもしれぬけれど、ちゃんと食べたのです。まあそばそのものの味はまあこんなのかという程度であるけれどそれで十分なのです。ここは古臭いタイプの店だけれど、酒の肴もそれなりに揃い呑みに使うにも適していそうです。たけれどもう店仕舞したそうなお母さんを見るとそれも無粋に思われ、ついアッサリと席を立つことになるのです。でもこの位のちょっと渋いくらいの店が居心地いいんですね。軽い肴でちょいと呑んで、軽く食事して引き上げる。実際、そういう振る舞いのできるのが粋というものなのでしょうが、どうやらそれを実践するにはまだぼくは幼すぎるみたいです。コチラには串カツなどの簡単な品も実にちゃんとしているのだからそれも仕方ないことなのです。ここもまたおばちゃんがとても優しいのです。さて、独り黙々と漫画に読み耽りつつカレーライスを食べるおっちゃんの皿を覗く見るとそれは有り触れた茶色のルー式カレーのようでした。 いやあ、どういうものか「コーヒー 長谷川」の存在はすっかり見逃していました。特にどうということもない雑居ビルの二階の世間から少しだけ身を引いたような控えめな姿勢が良いではないですか。店内もオーソドックスに過不足ない構えで申し分がないのです。いっそのこと、世間の喫茶のどこかしこもがこんなふうなら喫茶巡りに時間や予算を費やさずとも満足できるのだろうけど、なんて思っているのは情熱が衰えたと誤解を招きかねぬので止しておくことにします。
2019/05/16
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荒川と隅田川に挟まれて地図上から想像するとトンデモなく窮屈で息苦しい気持ちにさせられたりもする新田をご存知であろうか。などとぶきっちょな語りでもっともらしく話を切り出したのは良いけれど、が実際にこの地に行ってみるとすっかり真新しくなった団地街が広がっていたりするのです。橋を渡る手前で一望してみるとこれはわざわざ足を運ぶのも酔狂でしかないとすら思えてくるのです。北千住から何度かに分けてだけれど、一応この中洲になりそこねたような地図上では魅力的な土地をほぼ歩き通したつもりだけれど、実際には川の存在など余り感じられぬ地続きのようにすら感じられるのです。時折渡された橋にのみここが川に寄り添う町だという印象を感じ取ることができるのでした。そもそも島になりそこねたという―というか気になってウイキペディアで少し調べてみたのですが、ここがこのような宙吊りのような土地として形成された所以がどうも判然としないのです―来歴のお粗末さで、先般火災により焼失の危機を経験したノートルダム寺院のあるパリのシテ島のような高級住宅地にはなりえぬといえば無礼がすぎるかもしれません。ともあれ、少しも異形の土地らしからぬ平々凡々たる町並みは、散策に値せぬとは言いませんが、過度な期待は禁物なのです。しかし、ニューファミリーが移り住むキレイな団地のできるずっと前から地元に根付いていたであろう廃れゆく商店のある景色には時折胸が締め付けられるような感情をもたらされるのでした。 そんな寂しい商店街の端の方に「定食居酒屋 あこがれ」はありました。それにしてもあこがれとは何とも思い切った店名にしたものです。しかもあこがれという単語にはどう想像力を逞しくしても結びつけるのが困難な定食居酒屋という冠を乗っけるのだから、相当なぶっ飛んだ完成の持ち主が店主を努めておられるのだろうなあ。店内に入るとまず目に飛び込むのがお客さんなのであります。今さっきまで気にしていた店主など眼中から逸らされて、大いに賑わしい女性グループを奪われるのでした。地元のマダム達にとってここはカフェみたいな存在なのだろうか。他に飲食店が少ない事もあるけれど、夜な夜な定食居酒屋に集うというのもどうかと思わぬではないのです。まあその一方で主婦にだって自由を謳歌する時間があっても構わないと思う程度の寛容さはあるつもりです。ってこういう言い方が傲慢なのは分かっているけれど時々あからさまな有閑マダムを目撃するとイラっとしてしまうのを抑えることができぬのです。さて、こちらのご主人、どうやら沖縄の方らしくて、同行したO氏が近々沖縄に旅行することを告げるとそりゃまあなんともうれしそうに沖縄の事を矢継ぎ早に語って聞かせてくれるのでした。無論料理も沖縄のものが揃っていて、フーイリチーを注文しました。都内の他の沖縄料理店ではフーチャンプルーとか書かれていて、クーブイリチーとかは良く目にしてイリチーとは煮物に近い料理かなと思っていたのですが、ここでは炒め物であってもイリチーとして提供しているようです。まあ大らかな沖縄だからそんなことはどっちでも構わぬのかもしれません。水で戻した麩を軽く絞って卵をくぐらせるのが秘密ならざる秘訣のようです。すごい美味しいし、きっとヘルシーに違いないから今度自宅で試そうと思ったのですが、未だ実現に至っていません。忘れぬようメモしておくことにしよう。お通しの牛スジの煮込みもたっぷりでしかも味がとってもよろしいのです。さっきマダムたちをディスってしまいましたが、彼女たちが通いたくなる訳も分かるというものです。でも、しかし遠路はるばるここまで訪れるかというと、沖縄に行くよりも厄介に思えるのでした。
2019/05/15
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北千住という町への懸念は赤羽に対するものとは違っているように思います。赤羽には、朝からやっていたりピンクな酒場とは違う比較的純粋な酒場好みが蒸れるという印象があるのに対して、北千住では酒場ゾーンと助平ゾーンとの区別が曖昧なのであります。だったらお前は助平ゾーンも酒場ゾーンも嫌いなのかと問われれば消してそんなことはなくて、予算さえ折り合いが付けばどちらにだって喜んで出向くつもりはあるので、もし、もしですよ、こんなぼくに資金を提供してくれる方がいたとしたなら断る理由などないのです。とかいかにも酔っ払いペースで文章を綴り出すのでありますが、その酔っ払いモードは今に至っても少しも変わらぬからその辺は寛容な気持ちで見過ごして頂きたいのであります。 そんな訳で訪れたは「もつ焼き つみき」であります。随分長い事、こことはご無沙汰していたものです。って、その当時は初めて訪れた酒場のつもりだったのだけれど実は大分前に訪れていたようなのですね。でもまあ覚えていないからその時は新鮮な気持ちでこの酒場に臨めたのであります。でもねえまあ、振り返ってみると店の印象としてはいかにも下町のもつ焼酒場らしい、ワサワサした雰囲気の店だったわけです。それは一向に構わぬ、どころか歓迎すべきことなのだけれど、つい北千住の他所の酒場を模倣しているかに思えてしまうのです。模倣することそれ自体を否定するつもりは毛頭ない。でもどうもぼくには模倣先を意識する余りに退屈なのです。退屈という割にはしつこく呑んだのは同伴者がいたからに過ぎぬのです。そして確かにこちらのお店はとても美味しいのです。けして凄く安いわけじゃないけれど、値段と味のバランスが取れているからそれでもう文句はないのであります。近頃、やけに文句はないという言い方をするのは、日頃文句ばかり述べているという指摘があるやもしれぬけれど、それはきっと正解なのであります。しかし、こうして改めて店を眺めてみると、若い女性客がホントに増えたなあ、とつくづく感じるのです。ひと昔前ではこんな光景はあり得なかったものです。それはいかにも歓迎すべき事ではありますが、以前のオヤジだらけの酒場がやけに恋しくなるのは感傷に過ぎぬだろうか。しかし、ここなどで呑む女性客達は、呑まなきゃやってられんという気持ちで訪れる事も少なくないだろうと思うと、ウッカリちょっかいを出すと酷い目を見そうだなと遠目に眺めるに留めるが宜しいと思うのです。 さて、日を別にして訪れたのは「スタンド 豚とん」です。店頭でぶきっちょに呼び込みする若者にほだされての入店です。店内はそれなりに広めのカウンター席が主体のお店です。カウンターの造りが高目なので店の人と距離感が生じて、独りゆっくり呑みたかったぼくには塩梅が宜しいのです。逆に店の方とのコミュニケーション重視の方には物足りなく感じられるかも。もつ焼は近頃飽き気味だし、先般三郷の美味しい店を知って以来、下手なもつ焼は敬遠する傾向にあります。なんて、毎晩だったのが一日おきになった程度には定番の肴であるという意味ではさほど変わってはいないのですが。ここの肴は定番が一通り揃っていて、幾品かを味見程度に頂いた限りにおいても実にちゃんとしているようです。ちゃんとしているなんて随分高い視線からの発言であるけれどそうなのであります。大抵の肴は自分で拵えた方が美味しいという自負があるから揚げ物などの自宅では敬遠する品をどうしても選んでしまうのです。スーパーなんかの惣菜とそう素材は変わらぬはずなのに、しかも揚げたてを買ってみてもこうした酒場で食べる揚げ物が圧倒的に旨いのはどうしてだろう。表のお兄さんは相変わらず愚図愚図していて役目を果たせていません。店内の従業員たちはそんな彼を眺めては手におえないという表情を浮かべて文句を並べるのですが、その言い方は案外愛情に溢れていて嫌な気持ちにはならずに済んだのでした。
2019/05/14
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さて、最後のお楽しみはやはり静岡呑みです。町の規模ではもしかすると浜松が勝っているのかもしれないけれど、ぼくは静岡の呑み屋の方がどうやら好みのようです。こんな感想はいずれ浜松でとんでもなく素晴らしい風情の酒場と遭遇することで消し飛んでしまいかねぬのでありますが、とりあえずは今のところはそうなのであります。その静岡酒場の根本にあるのが静岡おでんであるというと、何を下らぬ意見を曰わっておるのだと言われても仕方がないくらいに退屈な言い分なのでありますが、戦後の頃であろうか、駅前にズラリと軒を連ねた屋台がやがてGHQだか政府だかどちらでも構わぬけれど乱暴な手続きで町の隅に追いやられながらも逞しく命脈を保ち今の2つのおでん街として現役に営業している、そこにドラマを見出してしまうのはそう感傷的な想像ではないと思うのです。 最初のお邪魔したのは、そのおでん横丁のひとつ、青葉横丁にある「いすゝ゛」でありました。これはもうなんというのか他にはない独特のムードをもった呑み屋横丁ですね。ケバケバしくてキッチュなところは愉快な反面、明朗快活なところがちょっとばかり物足りなさを感じさせなくもない、でも他に余り見ない個性の際立ったこの2本の通りはまだ行ったことのない方には是非とも立ち寄っていただきたいのです。なんて静岡ガイドのような振る舞いをするのは厚かましいにも程があり、どこも似たようなものだから気が向いた店に入ればよろしいなどと語るのは片腹痛いと思われても仕方のないことなのだ。でもこの日は日曜日だからやってる店に入るしかないということで、お邪魔したのがここだったわけです。他のお客さんも観光の方で、店の方はそれがどうも嫌で嫌でたまらないらしいのであります。が嫌ではあるけれど、それで店がやっていけているという思いもあるらしく、不機嫌そうながらも丁寧に受け答えしています。ぼくは馴染みぶるのも逆に観光客らしく振る舞うのもどうも性に合わぬのでニュートラルなたまにおでん横丁を訪れる客を演じるのでした。さすがに昨夜の浜松のおでんとはひと味もふた味も違っています。出汁粉をバンバン振るのを若い女将が横目でちらりと見遣って、地元の人は出汁粉はほとんど使わないんですよねとチクリと耳が痛いことを仰るのです。静岡割も知ったかぶりっぽいけどあえてその呼び名で注文したらこちらはすんなりと受け入れられます。なかなかにツンデレのようです。連れもなんだかんだ楽しんでいるようで結構なことです。 一転して格式高い雰囲気の「味の店 乃だや」にお邪魔することにします。おでん屋というよりは、割烹風の構えであります。それに引け目を感じることのないのは旅で気が大きくなっているからか。混雑していることを予測していたので実際に行ってみると案外閑散としていて拍子抜けです。ここのおでんは静岡風といえども味噌が掛かっていて、一般にイメージする静岡おでんとは違っていますが、これがなかなか旨いのであります。というかここの肴はどれもとてもちゃんとしていて良いのであります。雰囲気はちょっと和風モダンという感じで好みとは違っているけれど、静岡らしい肴を美味しく頂けるという意味では、また静岡に来た際には立ち寄りたいかも、と思えるようなお店でした。
2019/05/13
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浜松で過ごした翌朝は、早朝に静岡駅に向かうことにしたのでした。伊勢神宮、豊川稲荷に続いて久能山東照宮に行こうというのだからどうかしています。いやどうかしているというと誤解を招くかもしれぬので、ここは穏当に節操なしと自らを貶めるのが適当です。静岡駅からの路線バスはちんたらとした走りで日本平に向かいます。想像していた以上に山深い奥地へと進むので、一度は歩いて向かう方法を検討しなくて良かったと感じたものです。風光明媚な眺めを堪能できる日本平ロープウェイに揺られ、到着するとすぐそばに久能山東照宮がありました。日光とは比較にもならぬこぢんまりとした規模ですが、細部にまで意匠の凝らされた社殿などの造作は見ていて実に楽しい。連れとはこの朝、いざこざがあったのですが、帰りのロープ‐ウェイに運ばれる頃にはすっかり晴れやかな気持ちになったものでした。 さて、振出しの静岡駅に戻ってきました。この夜は帰京するだけなので時間はたっぷりあります。伊東方面に行くなどの展開も幾通りか考えられましたが、ちょっと疲れていたし、それに前夜肩透かしされた静岡おでんをリベンジするのもいいかと思い、夕方まで市街地をぶらつくことにしました。これまで静岡でいざ喫茶巡りをしようとすると空振りばかりでどうもこの土地の喫茶店とは相性が良くないと思い込んでいました。でも、そんな欲望を封印した途端に入れる店が多いというのは不思議なものですね。今回はえり好みせずにブラブラしたのが功を奏したのかすいすいと喫茶巡りが叶ったのでした。 静岡の中心街の裏通りにひっそりとお忍び風でもなくあっけらかんと営業している「珈琲 ソワレ」は、いかにもどんな町にでも必ずありそうなごく平凡な構えをしています。内装だってそう、少しの衒いもなくハナっから内装の充実でお客さんに楽しんでもらおうとは思ってもいないようです。でも近隣の勤め人にとって、日常使いをする人にとってはこれで何の過不足もないのだろうなあ。喫茶店に萌えと言われるような何かしらのトキメキを感じたい者には何と質実一辺倒なのだろうと思われる内観が、日常ではむしろ過ごし良いのかもしれない。そんな普段使いの喜びにようやく至りつつあるようです。 実は一番気になっていた「TEA ROOM パンドラ」、「喫茶 礼門(レモン)」には今回もまた見放されたようですが、単に巡り合わせが悪かったと思えるだけの余裕が珍しくあったのも少しだけ己の成長を認める事ができるのです。 町外れにはかなり敷居の高い、というのもボロなのは一向に気にならぬけれどどことなくスナック風の雰囲気がムンムンと匂い立っていたからです。のような喫茶に入るのはいつもなら相当な煩悶に立ち止まらされる事になるのだけれど、この日はアッサリと扉を開いてしまいました。「ニューサマンサ」、その奥には薄暗い中にズラリとスツールの並ぶカウンター席があるのですが、やはりこれは明らかにスナックなのでしょう。それを知っても怯まなくなったのだから、ぼくの喫茶趣味はこれから先、一体どこに向かうのだろうかといくらかの不安を感じなくもないのです。奥はラウンジ風の団体席になっていて、そこに腰を下ろします。コーヒーを頼んでも特に変な顔はされないから、喫茶とスナックを二毛作ではなく同時進行させているようです。やがてカウンター席にいた爺さんがカラオケを始めてしまいます。普段ならげんなりして席を立つところですが旅の終わりも迫っているという少しだけ感傷的な気分だったせいか聞き覚えのないさして上手くない歌声に聞き入り、モニターに流れる映像の思いがけぬ演出力の高さに見入るのでした。 静岡の喫茶の締めくくりは。「喫茶 リッチ」と「珈琲館 シーズン」という隣り合ったビルのそれぞれの2階にある喫茶店は、一方はカジュアル、もう一方はカウンター席のみの本格派とテイストは違えど、どちらも買い物途中、もしくはわれわれと同様に夕食や呑みの前の空き時間をゆったりと過ごすにとても適った良いお店でありました。静岡の人と一般化する程には静岡の人の事や静岡喫茶を知っている訳じゃないけれど、どうもあまり過激になり過ぎぬよう落ち着いた空間を好むようです。
2019/05/12
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田端のお馴染みの立呑みで呑んでいると、以前はまず目にすることはなかったけれど、最近は時折見掛けることもある若い女性客がこの夜もいて、大概はカップルなのであまりまじまじと眺めることは遠慮差し上げるけれど、この夜にお見掛けした方は独りで現れたものだから、はじめは常連たちの好奇のこもった視線を一身に浴びることになったのでした。最初は若干おどついていた彼女ですが、常連のお一人が声を掛けると堰を切ったように猛烈なトークを繰り広げ、われわれを鼻白ませるに十分な程であったのですが、その話題の中に田端新町に立ち呑み店がオープンしているという話があって、勢いに辟易しつつあったぼくですがそれだけは聞き逃さなかったのでした。 正直言うともう今後は「タバタバー」にお邪魔することはないだろうということを告白しておくべきだろうか。こう書くととてもひどい店であるかのような印象をこれを読む方に与えかねぬけれど、けしてそうではないらしい。実際この酒場のご近所に住むお二方がこちらで遭遇し、意気投合している現場に行き合わせたのだし、それぞれこれまですれ違いを続けながらも通い続けていたこの二人が出会い頭にこの夜に対面を遂げるのはなかなか羨むべき事態であるといってもよいかもしれません。でもそれにしても、酒場に来て金の話をするのは無粋と言われることもあるけれど、酒呑みなどという人種は概ねけち臭い根性の持ち主がほとんどなのであって、なるべき手頃にたくさんの量を呑みたいと思っているものなのです。そうじゃない希少人種が行けばいい店なのであります。大体、店を客観的に評価するなんて酒場が人で成り立っていることを考えるまでもなく、人それぞれに好みは違うのであって、ここがたまたまぼくの嗜好に合わなかったからといって文句を言うのは筋違いなのである。とはいえ、北区の田端が経済的に恵まれた町であるかというとどうもそうは思えぬのであります。だからということではないけれど価格の見直しを検討するが急務と愚考するのです。なんて事を書いてみたけれど、実はコチラにはとてもキレイな看板娘さんがおられるらしい事を漏れ聞いてしまった以上は見過ごす訳には参るまいなあ。
2019/05/11
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志茂といっても地元の方でなければ知る由もないかもしれません。だから地元でもないほくもやはり知らぬわけなのだけれど、それでも何度かは訪れているのであります。というのもこの界隈は歩く気にさえなれば案外とアクセスは悪くないし、休日の散歩コースとしても至極適当であると思うのです。でも日中であればともかく休日に歩こうという気持ちにはなりにくいのです。半分抜け殻のようになった商店街も陽の出ている時間なら興趣もあろうものですが、暗くなるとそれを拝む事すらままならぬ程に見通しができぬのです。ならば陽の長くなった今時分こそこの町に出向くに適した季節ではなかろうか。 といったような事を思ったわけではないけれど、久々に志茂にやって来ました。一緒に訪れたのは京浜東北線住民でもあるT氏なのでありますが、この男、日本各地を呑み歩いており、特に大阪や名古屋などは東京人―生まれも育ちも地方都市のぼくが東京人を称するのはちゃんちゃらおかしいのではありますが―などが足を伸ばす事のまずなさそうな場所にも出向く癖に自分の足元の事にはやけに冷淡なところがあるのです。志茂にいこうと誘いを掛けても余り良い顔はしなかったものだ。いや、実際に顔を突き合わせて話した訳ではなくてSNS経由で相談したのでありますが、とにかく不信そうな気持ちを隠しもしないのです。でも現地に行くと案外と楽しんでいた事をぼくは確信しています。おや「大衆割烹 茶釜 赤羽店」があります。堀切菖蒲園などにも同系列のお店があったと思うけれど、その記憶は定かではありません。入ってみるとこれがびっくりする程に広いのであります。手前がカウンター席がズラリと伸びていて、うんこれなら独り散歩の後に立ち寄るのも他人の肩との衝突に気にせずゆったりと過ごせそうです。奥は広い座敷になっています。フェリーの二等船室程の広さがありそうです。そのゆったりと出来るところを気に入ってか、地元の隠居老人達が群れをなして自分ちのように気ままに過ごしています。その様子は呑み屋のそれというよりは、村の集会場とか公民館のようです。呑んでる時間よりしゃべくってる時間がずっと長い、そんな優雅な時間をぼくも過ごしてみたいと思わなくもありません。立派なお通しを出してくれるのですが、彼らはそれだけで十分粘れるのだろうなあ。まあ我々にしたところで似たり寄ったりの控えめ注文でありますが、それでも居酒屋の肴を存分に楽しめました。 この界隈には洋食店も魅力的なお店が多いのですが、「レストラン ワールド」もそんな一軒。店内に入ると思ったよりはワビサビとは縁遠い感じではありますが、こういうごちゃごちゃとした感じは嫌いではない。というかむしろぼくは自分の家ではモノの少ないガランとした殺風景な方を好むのでありまして、散らかっているお店を好むのはその反動に近いのかもしれません。お隣の男性グループは肉に次ぐ肉のコースメニューを頼んでいるようで、肉、ビール、肉…と無限ループのようにオーダーし続け、それを眺めているだけで満腹になりそうです。女性グループも負けていないようで、食事風景を見ていなければ淑女風にお澄ましなさっているけれど、いやはやトンデモない喰いっぷりであります。食に自信のない方や慢性膨満感の持ち主は、目の毒に違いないので注意して訪れていただきたいのです。我々の頼んだソーセージ盛合せやオニオンフライにしても安価でボリューミーという喜ばしいけれど、しかし調子に乗って食べると後から激しい胃もたれに苦しみそうな品にも警戒心が求められるのであります。
2019/05/10
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赤羽はもういいかと思うのは早過ぎるようです。ぼくはけしてにわか酒場ファンを否定する者ではない。たまの休日に、雑誌の酒場特集なんかで目にした、そう赤羽特集の記事を見て、あすことかあちらとか、まあともかくそうしたメジャー級の酒場を訪ね歩くとしても文句など言うつもりはサラサラない。確かにかつてはそうした酒場を主戦場に夜な夜な、赤羽だと朝方に呑み歩く人達がいたとて仕方のないことです。かつての常連たちにとっては甚だ迷惑極まりなかった事とその心中をお察しはするけれど、その取材を受け入れたのだから仕方ないことなのです。何て事を連休前には書いていたようですが、すっかり休みボケしてしまって少しも気合が出てこないのです。まあ、このブログのどこを探しても気迫や根性とかいうものとは縁遠いのだから、このボケっぷりを存分に発揮してみせれば良いのです。とか言いながら徹底してボケるにはぼくは真面目に過ぎるし羞恥の感情も相変わらずなのです。やはり元号が変わった程度では何ら劇的な変化が及ぶはずもないのです。これから向かうのは、いや通りがかりにたまたま目に止まった一軒の酒場は、昭和の時代に店の歴史を始めたのだろうけれど、平成もそして今度の令和なら時代もどこ吹く風とばかりにしゃあしゃあと乗り越えていくのだと思うのです。 さて、かつての呑み屋街では普通に目にしたおにぎり屋さんがここ赤羽にも残っていたのですね。駅前なんかは観光名所のようになってしまってぼくのような酒場に立ち寄るのに少なからずの後ろめたい感情を伴わねばちょっと違うんじゃないかと思うような少々面倒な性格の持ち主には「おにぎり割烹 ひろ美」のような闇夜にポツンと身を潜めるような酒場こそが安心感をもたらすのです。いつか赤羽駅前の酒場たちも飽きられて見向きされなくなった頃に足を向けてみたいと思うけれど、それは当分先のことになりそうで、むしろそれまで自らの身体が保つかどうかを心配せねばならないのです。さて、期待通りの店内は結構な数のお客さんが入っていて、といってももともとが定員十名程度のお店だからほぼ我々が腰を下ろすと一杯になるのであります。皆さん揃ってコチラのベテラン勢のようで、まるで我が家のようにリラックス仕切った表情でだらしなくも楽しげに酒を呑みます。さて、こちらはおにぎり屋を標榜していますが、肴の種類がとても豊富でしかも余所ではあまり目にしないユニークな品も多数品書きに忍び込んでいます。アボカドの料理などはぼくなんぞの想像をまったく裏切るようなシロモノで、しかし味もいいししかも濃厚なので酒の肴にもぴったりでした。それがどういうものなのかという詳述は避けますが、気になる方はぜひ実地に体験してみてください。酒が止まらなくなること必至です。ここにはいつものT氏と訪れたのですが、居酒屋に関しては相当に辛口な批評を放つ彼でありますが、近くまた来ると語っていました。その言葉を信用するかしないかはこれをお読みになる方の自己判断に委ねますが、ぼくもいずれまた訪れる気がしています。
2019/05/09
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大塚という町は、田舎臭い癖に変化の激しい町です。かつての変化は変化に敏感な者にしか感受し得ない程度の小規模な変わり方でしかなかったけれど、ここ数年の変化は大塚の町を行き交う人々の顔触れすら変えてしまったかに思えるのです。無論そんなものは全くのまやかしでありまして、駅舎を抜け出てみれば大塚はどうしたって大塚でしかありえぬのでありまして、やはり町ぐるみで急激に変化を遂げるには、その町に起爆剤となりうるだけの何らかの魅力が備わっていることが不可欠なのであろうと思うのです。で、それが大塚にあるかと言えば、う~ん、難しいかもなあ。でも極端な変化というのは往々にして退屈なものです。奇想をもって町を構築し得るだけの才能はきっと巷間にも身を潜めているに違いない。また、そうした人物に町を変えられるだけの財力を投資できるパトロンに成り得る成り上がり者もいるに違いない。しかしそうした二人が遭遇できる可能性は極端に少ないのであります。「吾朗の中華」ねえ。手前の名をそのままに店名にしてしまえる感性、あるのは否めません。分からぬではないけれど、どうもガッカリ感が強いのは間違いないのです。店名の話になるとキリがないのでここではそれは止しておくことにしますけれど最初に得る情報の最も目立つ所だからそれを否定するわけにいかぬし、自己顕示欲をそこに示したいという気持ちもよくわかる。何が良くないって、どうもコチラのお店は兄弟二人でやっているらしいのだ。ならば「四郎と吾朗の中華」もしくは「吾朗と六郎の中華」、それとも「何某兄弟の中華」とするのが筋ではなかろうかと思うのでありますが、そう考えるのはおかしなことでしょうか。さて、店内は今風なしかしポップな所のほとんどないカフェみたいで、ポップだろうとそう感想は変わらぬだろうけれど、とにかく少しも中華料理店ぽくなくて、少しく違和感があります。まあ、そんな違和感などすぐに慣れてしまうから構わぬのですが、構われない内装というのはやはり詰まらぬのです。さて、ちょい呑みセットみたいなのがあるので早速注文。料理自慢というけれどお通しを摘む限りはまあこんなもんかなという感想しか出ません。でも餃子はそこそこの線はいってるんじゃないかな。おっと、料理について語る言葉というのはどうもエラソーでいかんです。味覚などという主観の最たるものをさも普遍的な意見に回収してしまうような乱暴さが料理を語る言葉には漲っているように思うのです。素直に感想を述べると、うん料理も応接も丁寧だし好感は持てるけれど、パンチが決定的に欠けているように思えます。あと、いつもセコくて恥ずかしいけれど呑みに使うにはちょっと値頃感もイマイチかと。食事だけの利用なら悪くないのかも。 さて、お次は「のみ食処 かあちゃんち」に立ち寄ることにします。この都電の線路沿いにあるお店の事はずっと認識していたのだけれど、これまで入った事はなかったようです。それは如何なる理由によるのだろうか。それは良く分かっています。この酒場には既視感が常に付きまとっていて、以前にきっと訪れているであろうけれど店に入ってからの記憶がまるでないからにはそれは大したお店ではなかったなだろうというような思考に絡み取られて、じゃあ止めておこうという判断に繋がったた考えられるのです。この夜は少しくびっくりな景色を目撃したから入ることを決めたのであります。それはわれわれとは言語を異にするアジア系の旅行者たちが大勢で店を出てきたからであります。それは後で聞いた話しでは、ここを贔屓にする旅行者の添乗員が近くのホテルに宿泊する客に日本風の居酒屋に連れて行ってくれと頼まれてお連れしたらしいのです。ぼくはこの添乗員抜きの外国人に評判の店だと思い違いしたという事です。さて、こちらは店名通りにかあちゃんと呼ばれる元気なかあちゃんが一人でやっておられまして、どうも昼間からぶっ通しでやっているらしいから凄いパワーであります。お通しも少しも気取らぬ田舎のかあちゃん風でしょっぱくて酒がススム系であります。ホッピーも最初は中を注ぎ足してくれたのが、面倒になったのかデッカイグラスに焼酎を並々に注いで持ってきて好きにやってだってさ。やがて他の客も帰ると、急にかあちゃんは少ししんみりとした表情を浮かべて、教師だらけの子供達の話に及ぶのです。この表情にこそ真のかあちゃんが露呈したのかもしれません。さて勘定はというとなかなかにガッチリしていたのであります。
2019/05/08
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王子神谷駅の界隈に行くには、東京メトロ南北線を利用するのが一般的です。でもこの駅の日常的な利用者ならざるぼくにとっては、いちいち南北線に乗り継ぐのはかったるいことなので、少々歩きはするけれど東十条駅や王子駅を利用するのが常でありました。それにしてもこの界隈は東京メトロのこの駅ができるまでは、鉄道利用者には不便極まりない町だったのでしょうね。どこかに行くにはバスを利用するしかなさそうだし。って実際行って歩いてみると、池袋行きや北千住行きなど多くの経路があって、案外便利なのです。というか老後の事を想定して、多方面に路線を有するバス停の側に住むのもいいものかもしれぬと思うのです。無論、バスの路線にしたところで住民の数や動線次第でいかようにも変化するのだろうから、いずれにせよ将来を見通す予見力を培う必要がありそうです。 でもバス頼みの町が鉄道の駅が中心に据えられた町へと変貌した余波を受けたからだろうか、頑なに戸を閉ざす「やきとん やなぎ」、漫画喫茶の看板のみ留める閉業喫茶が多く見られ、定食屋の「ミヨシ」こそ営業しているものの覗き込んだ店内からは、店の女将さんの深い井戸の底から送られるようなどんよりした視線が放たれているのでした。それに怖気をなした訳ではないけれど、この日は、ここをスルーしてしまったのでありました。 行くならより不便な方に立ち寄りたくなるのは人情であります。「キッチン カワセ」は、人通りの少ない商店街のそのまたかなり裏手の通りでひっそりと営業していました。くすみ切ったオレンジの店内はセピア色ともまた異なるどんよりとしたノスタルジーが沈殿し切ったようで、それが気分をも重くさせるのであります。82歳になりますます矍鑠たる様子の客の老女に倣ってカラシ焼にビールを注文します。しばらくは店主は黙って調理の手を振るっておりますが、中華鍋に刻んだ豆腐を放り込み煮込みに入ると俄然助平話に花を咲かせ始めるのです。いやいや、別にハナから猥談に耽るなんてことはなくて、パチンコなんかのギャンブル話や封筒包みを配った頃の選挙の話など話題は多方面に及んではいたけれど、老女が私はギャンブルはやらないね、お金もないからというとオ×××見せればいいじゃないとか、とにかくそっちの単語が好きで好きだ堪らないらしい。GWはどうするのと老女が尋ねれば、日曜日以外は毎日やってるよ、旅行に行く相手もいないし、いてもオ×××させてくれるわけじゃないからね。子供がチ×チ×を連呼するかのごとくにオ×××を連呼するのでした。嫌いな人は嫌いだろうけど、うん、ぼくは楽しかったです。それにしても独りでカラシ焼を食べきるのは難儀に思えるほどの量でしたが、老女はペロリと召し上がっていました。
2019/05/07
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豊川で泊まることも考えましたが止しておいてまずは正解だったようです。やってる店が少ないので夜を持て余すかもしれません。次に思い至るのは豊橋ですが先般宿泊した際に酒場巡りにとても難儀して、夜の豊橋を散々っぱら彷徨った虚しさは記憶に鮮明です。と前日と同じような事を書きましたが、結局浜松を宿泊先に決めました。静岡駅の近辺にはここ数年でも何度か泊まっているけれど、浜松は長距離列車に揺られるのにウンザリしてフラリと立ち寄ることはあっても宿泊するには及ばないと判断したようです。浜松は駅前は無機質な巨大ビルが立ち並び散策するには気分を無理矢理に引き上げておく必要があります。取り敢えず余り歩いた事もない駅の南側のホテルを目指したのですが、途中、突如巨大クレーンに切り出されて移設されたように孤立したアーケード付きの商店街があって、これを見て今晩は駅南で呑もうなんて思ってしまったのです。 駅から5分程のホテルを出たのは良いけれど、これが虚しい事に彷徨えどどんどんと酒場過疎地帯に踏み込んでいるように感じられ、急速に疲労が身体を覆うのです。見ると「居酒屋 55ラーメン」という何でもないお店では、静岡の人気グルメの大定番である静岡おでんと浜松餃子が同時に頂けるようなのであります。酒呑みに肴は不要説を日頃提唱するぼくとしては、余り食い物につられて酒場を選んだとなるとそれはそれで極まりが悪いのでありますが、でもまあ連れもあることだし、我を通すばかりでは円満な関係を維持できぬことも知らぬ齢ではないのであります。まずは静岡おでんでありますが、これは残念ながら静岡おでんとは名ばかりのどちらかというとかなり普通の関東風でありました。まあ普通に美味しいのですけどね。餃子も悪くはないけれどやはり円盤状に並んでおらずもやしもないというのはどうも浜松風というイメージとは縁遠く思えるのです。そしてこちらのお勧めという麻婆豆腐でありますが、こちらはちっともいただけぬのです。量もちょっぴりだし、味わいも自慢にするのはどうかと思えるものだったのです。旨いものを期待して店に入っただけに少しくがっかりとしたのが本音であります。 ということで、駅南は諦めて賑わいのある北に移動しようと歩いていると「のみ処 あづまや」という古びた酒場がありました。無論、躊躇いなく入ることにします。こちらのおでんはしっかりと関東風を謳った真っ当なおでんであります。店内の造作もまさに酒場のど真ん中をいくものでありました。肝心の写真が見当たらぬけれど、リンゴ入りのポテサラなんかもなんだかじんわりと美味しいなあ。肴との相性については異論もあろうことと思うけれど、やはり暖かめの燗酒をつい所望してしまうのであります。店頭にはオヤジさんが独りで立っているけれど、2階には奥さんだか娘さんだかがおられるらしく料理はそちらから運ばれてくるスタイルであります。手が空いた時のオヤジさんは実に気さくで、店の歴史や町の変遷などとても饒舌に語ってくれるので、ここで呑む時にはしっかり時間に余裕をもってお出掛けになることをお勧めします。
2019/05/06
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桑名を発つと一気に豊川まで向かいます。豊川もつい先頃立ち寄っていますが、この旅ではとうしたものか神社仏閣を巡る事に楽しみを見出だせました。日本の建築物を眺めるのは言うまでもなく楽しいのですが、どちらかと言えば明治期以降の和洋の折衷した平たくいえば出鱈目でいいとこ取りなものの方に惹かれていました。でもこれを年のせいにはしたくはないのですが、近頃は伝統的な神社仏閣なんかにも心惹かれる瞬間が少なくないのです。でも詳しいことはウィキペディアでもご覧いただきたいのですが、豊川稲荷って結構変わった来歴をもって建立されているようなのですね。伊勢神宮にしても純粋に建築としての興味は持てぬものの、出典たる神話に則していると考えると別な感慨も湧こうというものです。というような事を語るといかにも無理をしているようでありますが、まあ以前よりはこうしたメジャーな建物にも多少なりと興味を抱けるようになったということです。そんなこんなで、豊川稲荷を参拝―と記すのが適当なのか悩ましいところではありますが―し、先般行きそびれた豊川の喫茶店を2軒程ハシゴすることにしたのでした。 長々書くほどの情報があるわけでもなし、さっさと話を進めます。実は豊川稲荷より先に「珈琲 パピ」に立ち寄ったのは、単に本当に休息したかったからなのであります。さすがにこの間来たばかりだから迷わず到着。どことなくノスタルジーを喚起する、だけれども無理するにはどうかなと思う程度の微妙な外観のお店に寄ることにしたのです。中に入ってもその印象は変わることもなく、まあ普通の喫茶店だなあという感想を漏らすしかない、そんなお店でした。でも喫茶マニアの方向性とはどんどんズレて、泉麻人の普通の喫茶店趣味に陥りそうな自分を自覚せざるを得ないのだけれど、こういう普通の店って良いんですよね。外観は期待感を抱かされるし、店名にも喫茶好きの感性を揺さぶるような想像力を掻き立てる所があると思うのです。しかし、こちらは入ってみると非常にノーマルでかたてのぼくなら肩透かしされたと落胆を隠しもしなかったかもしれません。無論、予想を遥かに凌駕するトンデモ空間が待ち受けていたとしたらそれは言うまでもなく喝采を上げたに違いないけれど、それが普通だったからといちいち落胆する事はなくなりました。いかにも無理している感じが滲み出ているという気配を読み取る方もおられるだろうし、それも100%違っているかと追求されるとそうかもしれぬかもと思わぬでもないけれど、でもやっぱりここでの時間は悪くなかったと断言します。 さて、豊川稲荷を堪能した後、甘酒でも飲もうかと立ち寄っのたのが「純喫茶 富士」でした。大観光地の目の前にある土産物屋の片手間でやってるお店と見立ててしまい前回もスルーしましたが、今回は甘酒を飲むという明瞭な目的があるので悩みなどないのです。細長い淡白な雰囲気のお店で開店以来きっと度々の改修を重ねてきたのでありましょうか、当初の面影はほぼ感受できぬのですが、この頃それは逆に店主の店への愛情と解釈もし得ると思うようにしています。より快適に気分良く休息を取って貰いたいという心意気、お喋りで社交的な高齢の女性店主からは確かにその意志が感じ取れました。束の間の滞在でじっくりというまではお喋りできなかったけれど、その思い出だけは今でも記憶に鮮明です―ってわざとらしいか―。
2019/05/05
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駒込駅を出てすぐの駒込銀座通りには、多様な呑み屋さんが揃っています。それをつらつらと並べ立てて前書きとして終わらせてもいいけれど、それはあまりにも詰まらない。ってのは、言うまでもないけれど駒込には飽きたという発言をこれまで何度も繰り返してきたからでありまして、それはまあ実際にそうなのです。でも飽きるっていうのはどういう事なんだろうなんて思わぬでもない。実際今しがたまで呑んでいた酒場など、ぼくにとっては例外的に週一以上のペースで通っていて、色んな意味で飽きているけれどそれでも通わずに済まされぬ魅力があるのです。ここまで来ると酒の豊富さとか肴の充実などとは無縁な出来事ではなかろうか。そこで呑むことがぼくにとってのベースとなりつつあるという事ではないのか、時々思うのです。美味いとか不味いとかもしかすると居心地が良いいとかいうことすら、馴染みの酒場という場所にとっては不可欠な要因ではないのではなかろうか。有るべき場所にいつだって変わらずあってくれるという安堵感、それこそが唯一絶対の酒場の存在意義であり、原理なんじゃあないか。と酔っ払いつつこんな事を書いていたらしいけれど、ならば駒込など老舗酒場もちょくちょく変貌を遂げるし、ぼくなどが通うのは相応しくないのかもしれぬ。昨夜のぼくは一体何事かを語りたかったのかは霧の向こう側に仕舞われてもう引き出し難いのです。 さて、つい先頃、テイクアウトの惣菜屋が出した定食屋だったはずの店舗がいつの間にか「れんげ食堂 Toshu 駒込店」なるお店へと変貌しています。前の店と似通った現代風のツルリとした感触の少しもそそられぬお店ですが、良く見ると“Toshu”とある。どうやら都内西部に見掛けることの多い「東秀」の系列らしい。それを確認した訳ではないけれも恐らくは間違いなかろうと思うのです。何が言いたいかというとこのチェーンのお店、見る割には入った事がないのであります。わざわざそこに出向いて呑むつもりなどはないけれど、たまたま通り掛かってこれといった店などない事を知る駒込にあるなら話しは別です。いやあ、それにしても味も素っ気もない店内だなあ。ニラ玉や餃子なんかの定番に、ふうんホッピーもあるのね。ホッピーに関しては値段の手頃さのみでつい頼んでしまうのです。周りは夫婦連れ立っての方かサラリーマン男性が多く、この境遇の大いに異なって思われる人達がバランス良く入っているのは興味深くもあります。料理は案外と美味しいな、下手な他のチェーン中華などより好ましい気もします。だからといってまた行くつもりにはまあならないだろうなあ。今度ここを通ったらもう別な店舗に変わっているなんてことのないことを期待します。 知らぬ店はないと豪語してみたけれど存在のみ知っているものの立ち入って見たことのない店は少なくないのでした。焼肉店なんかも唆る店構えであっても素通りしてしまうことがほとんどで、この「もんもん(monmon)」なるスナック風の店名を持つ酒場もどうも近寄りがたい気配を匂わさています。実際に入ってみるとスナックというよりは明らかに無愛想な喫茶店ぽくて、どうにも喫茶店で酒を呑むという行為に違和感を感じるぼくには、腰を下ろした椅子が座り悪く感じられるのです。酒はまあ手頃ではあるけれど食事処も兼ねているのか、盛りのごつい品が多いようです。単品にすると酒の肴にはちょっとお高い気がして、お通しのあるのをいい事にポテサラのみ頼んでみたけれど、これがいかにもちょっぴりで何か物悲しくなるのです。客は常連ばかりで、それも序列があったりするみたいでそんな所が地元に根付いていると見做せなくもないけれど、酒場に来てまで親分子分ごっこをするのは適わぬなあなんて思ってしまうのです。やがて、イジられてばかりのおぢさんを眺めているのがいたたまれなくなり、席を立ちますが、ここの店の夫婦はとても良い方だったので名誉のために補足しておきます。
2019/05/04
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志茂と書いても知ってる方は少ないかもしれません。いや、地元の方や鉄道マニアなどなどぼくがかつて知らなかったからといって他の人々も知らぬと決め付けるのはあらぬ反感を招く事にもなりかねぬので、可能な限り正確に言うと、ぼくは数年前までは志茂という土地があることや鉄道の駅があることすらすらずにいたのです。正直、普通に生活している限りは知らずとも全く支障なく生活を送ることが出来るだろうし、普通に生きていなくても敢えて足を運ぶような所ではなさそうです。無論そうは言っても独立国家でもないのだから、この町の学校や企業、役所に通う人達もいるようだから、都内と隔絶などしていない事も分かるけれど、そうした役割や用事を与えられぬ者が好き好んで訪れるような場所ではなさそうに思えるのです。しかし、こうした土地に敢えて好んで赴く人達がいるようです。それは例えば映画などのロケハンを担当する助監督とかだったりするのであって、彼らもまた役目を背負って訪れるのであるのは先の人々と同様ではあるけれど、それは目的地として訪れているのではなく、結果としてここに目当ての場所があったという原因と結果が逆転しているという事が重要なのです。そうした意味ではロケハン担当者の仕事は、ぼくが酒場を訪ね歩くというのを趣味として行っているのを職業となし得た幸運な人達かもしれぬと思ってみたりもするのです。それが誤解に過ぎぬ事は分かってはいるのですが、でも時々、彼らと同じ様な場所に遭遇する事があるのです。 志茂駅からすぐの「幸楽」は、他の町ではなかなか目にすることの叶わなくなった絶妙な孤独感を放っています。いや、この店はずっとこの町で地域に馴染んで地元の方たちの食欲を満たしてきたのでありましょうが、余所者の目には明かりが灯っていないともはや営業しているとは思えないだろうし、やっていたとしても明日にも二度と店の暖簾が下げられることがなくても不思議でなく思えるのであります。外観もそうだけれど、狭くてゴチャついた店内はもう何年も片付けという作業とは無縁でいるかに見えます。しかし、壁に貼られた一枚の映画チラシを見ると確実に外界と接続している事が分かり安堵するのです。この店をロケ地として使いたいと感じた人達に共感してしまいそうになります。おや、アド街なんかも取材に来ているようですね。ここは時が止まっているかのような見掛けであるけれど、案外と世の中と深く結び付いているみたいなのです。酒の品書はなさそうですが、先客がビールを呑んでいます。それに倣い玉子焼きや野菜の旨煮などを頼みます。世代に開きのある女性ばかり3名でやっておられますが、かつてはご高齢の女性の旦那さんも一緒にやっておられたのだろうか。すっごく美味しいわけじゃない。でもそんなことはこの際どうだっていいのであります。東京メトロの南北線が通らぬ、所謂ところの陸の孤島と呼ばれた頃からずっと変わらず、一つ所に留まって地元の方たちのためだけに安くて普通に美味しい中華料理を提供し続けてきたその姿勢にこそ感動するのです。そして、その優しさは余所者にも向けてもらえて本当に感激なのです。
2019/05/03
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ようやくこの頃は蕎麦屋で独り呑むことにも慣れてきました。若い頃にはたまに職場の上司やらに連れられ、例えば淡路町なんかのあの老舗蕎麦屋にランチなんて行ったこともありますが、混み合うランチ時である事を意にも介さず堂々たる、いや違うなあむしろ彼は他人の迷惑とか嫉妬心などハナから視界に入らぬかのように泰然自若たる態度で蕎麦味噌など舐めつつ熱燗を小さな盃に注いでは、やはりこちらも舐めるようにゆるゆると干すのでありました。その表情からは彼が一体何を物思うのかなど全く汲み取れぬのであります。何も考えてなどいないのではないかをいやいや、それも相当なる修行を要する所業であります。昼間から酒を呑むようなジイさんがそんなに高潔で立派な人物とは考え難い。案外、どうだ昼間から悠々自適に過ごせる俺のこと羨ましいだろうと弛緩しきった表情筋の裏で思っていたのかもしれないし、蕎麦味噌と清酒の併走に、あら今は味噌を舐めすぎたとかつい勢いで酒を含み過ぎたとか思っていたのかも知れぬ。中身は違っても大方そんなようなことであったように思うのです。土台、酒呑みが呑みながら思う事などいくら深刻ぶった様子でも大概大したものではありえぬのだと思うのです。どんどん話しが逸れていくので話しの軌道を引き戻すと、つまり、蕎麦屋で呑むのは己が馴染んできたと思う一方で様になって見えるにはさらに遥かに経験を積まねばならぬという事です。 見目ままならず生を授かったのは仕方無しとして、せめて仕草振舞いだけでもカッコよくキメたいところでありますが、それもなかなかに難儀な事であります。というか、蕎麦好きよりも蕎麦屋呑みを好んでしまうだらしなさをなんとかせぬ限りいつ迄経ってもナイスミドルには達し得ないのであります。この夜も蕎麦屋にわざわざ足を運びながら結局は呑みに徹して蕎麦を食わず終いとは何ともはや情けのないことであります。それがために師匠として還暦をとうに過ぎた熟年オヤジを伴って出向いたのですが、少しも効果はなかったようです。お邪魔したのは「田端 玄庵 昌」で、蕎麦屋で蕎麦も食わぬのに感想を述べるというのもどうかと思うのですが、比較的お手頃に蕎麦前―われわれには蕎麦無となってしまいましたが―を頂けてまあ便利です。小奇麗で蕎麦屋らしくない店内はぼくの好みではないけれど、大家族連れをはじめとしてすごい賑わっています。地元の人気店のようですね。田端にはこうしたモダン和風な内装の蕎麦屋が多い気がします。 蕎麦は食わねど鰻は食らうのです。無論鰻は本身は当然に旨いけれど、タレの染み込んだ白飯の旨さは殊更に強調するまでもなかろうと思うのです。という事でいつもの立呑店に御案内、ひと仕切り呑んだ後にさり気なく鰻屋へ連れを誘ったのであります。蕎麦屋を出た後に後で〆に鰻でも何でも腹に溜まるものを食べようと漏らした事を忘れるはずもないのでした。まさかすぐ近所に鰻屋があろうとは思ってもみなかったに違いないのです。「うなぎ 登喜川 田端店」は、町のありふれた気取らぬ構えのお店で、日頃は縁の薄い鰻屋を記憶に留めることは稀有なことなのですが、さすがにこの辺は幾度となく通っているし、他に記憶に留めるべき何かがあることもないので、鰻の言葉が出た際は、瞬時にここを想起し得たのです。たまの鰻を逃す程にボケてはいませんよ、ぼくは。てなことで店に足を踏み入れると何たる事か大盛況ではないか。二人席は空いているけれど、果たしてわれわれが口に入れる分が残っているか不安になります。が、高齢の女将さんが奥に確認すると大丈夫だとの事。ホッとしたらまた酒が呑みたくなりました。お新香で酒をちびりちびりとやりつつ、鰻を待つ時の多幸感たるや筆舌に尽くせぬのです。そのお待ちかねの鰻でありますが、名店じゃないかもしれないけれどたしかに重箱まで舐め尽くしたい味わいなのでした。すっかりご馳走になったのに、お連れの人から、酒間さんともっと早く知り合えていたらなあ、などという有り難い言葉を頂戴したのです。こちらこそであります、なんて書くとこれまでもずっとご馳走になりたかつたなんて思われかねないかしら。
2019/05/02
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さて、数日前に京成高砂の酒場放浪記のお店を訪れたものの入らなかった件について報告差し上げておりますが、今度こそ番組登場店であります。普通なら駅からの道案内などで前置きを引き延ばしたくなるところですが、駅の改札を抜けて階段を降りるとすぐ目の前にあったりするものだからそれでは全く引き伸ばしになどならぬのです。はてさて困った。というのも実はこれからお邪魔する酒場について語るべきはほとんどないからなのですね。この店の先をちょっと行ったところの道の向こう側にちょっとばかり良さそうな酒場があって、ついよそ見をして店頭をチェックするとそこは寿司屋らしいのでスルーしましたが、悪くない感じです。引き返した脇道にもかつてお邪魔している良い酒場があります。目当ての酒場の先のビルには数軒の立呑み店などが入っていますが、通りに面した「やきそば 和」という店ですね。かつては、別な店だった気もするので後で気が向いたら寄ることにしようか。などと肝心の目当ての店よりもほかが気になってしまうのでありました。 やはり「鳥ひろ」は、この酒場かぁというのが率直かつ実際の感想でした。当然駅前の好立地でもあるし、通り過ぎることも少くないので勿論見覚えがあるのでした。酒場なら軒並みに虱潰しに立ち寄らずにおられぬ性分のぼくが、それでも敬遠してきたのはどうしてか。それは外観写真を見て頂くまでもなく一目瞭然かと思うのです。いや、こうしたお店を好きだという方も一方で少なからず存在するのは分からなくもないし、むしろそちらが主流なのだろうとも思うのです。だからこそ、店内は多くのお客さんで賑わっているのでしょう。カウンター席の一番奥には、予約席の札まで置かれているのだから、独りでもここで呑みたいというお客もいるという事なのでしょう。ぼくはその手前の席に案内されました。やがて埋まることが予め約束されているその隣席に促されるのにはどうも慣れることがないのです。敢えて予約までして訪れる客というのがトンデモなく面倒で鬱陶しく思えるのは想像を飛躍させ過ぎなのでしょうか。実際にはその方はとても物静かでちっとも目障りでないどころか、むしろうっかりその存在を見失いそうになるのです。お通しのスパサラを摘みつつオススメの焼鳥盛合せを待ちます。反対隣の席にはおばさまがた三人がまあよく食いよく喋ること、ほとんどが職場の同僚らの噂話ばかりで、酒場で3人以上が寄り合う場合は、それが男性だろうが女性だろうがロクな話が聞けぬ事が多いようです。3名以上で呑む時には異性を加えるかそもそも一人または二人で呑むのが正解らしい。それはかつての自分を思い出しても結構当たっている気がします。さて、スパサラは期待外れでありましたが、焼鳥はなる程、女性客が好むのが良く分かる。高級店と大衆店の中くらいの味と値段という曖昧な立ち位置というのもちょっと美味しいものを自分の小遣いで済ませる事ができるいい線なんではないか。ただし、毎晩呑み歩くぼくとしては、味は落ちても仕方がないけれど大衆レベルの価格の方が有り難いという、店に入るずっと前から抱くだろうと予想した以上の感想は漏れ出る事はないのでした。
2019/05/01
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