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今日は雨。夜に通じなかった電話も繋がるようになり、親戚や知人宅の被害状況が増えるたびに重い気持ちになってきた。昨夜は正直辛い気持ちになってしまった。地震から1週間。町役場は精一杯の対応をし対策を講じているのだが、災害情報や復旧状態は新聞とテレビでしか分からないから細かい部分が伝わってこない。災害対策や情報は屋外の防災無線で放送されているが雨の日や窓を閉め切っていると内容が聞き取れないのだ。せめてプリントの一枚でも配布して欲しいものだと思うが・・・今はムリをいえない。深夜のテレビ、地方の放送局くらいは文字放送でも良いから状況を流してくれても良いように思えるのだが。統一地方選の県議選が告示され、役場職員の多くが選挙の為に3日間ほど動員される。石川県には特例として災害地域の選挙を延期するなどという柔軟なことはできないしするつもりもない。選挙が大切だというのは分かるが、本来、選挙は住民の為の代表者を選ぶもので、住民の生活の為にあるもの。多数の住民の生命財産が危機の状態のとき、緊急を要する災害地などに対しては、その地方選挙を延期する例外というのがあっても良いと思う。でも、今は文句を言うパワーを、遅れている仕事やお見舞いなどにまわすしかない。
Mar 31, 2007
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被災程度の大きさによって家屋に赤、黄色、緑色の判定用紙が貼られてる。染め工房は赤紙。『危険』左側の電柱に対して右に大きく傾いている。ガラス戸のアルミサッシで支えられているかもしれない。町の災害放送で・・・防災放送スピーカーが聞こえにくいのだが、「金属泥棒が被災家屋に入りますので注意してください」という内容の放送があった。県外ナンバーの不審な車も来ているようだった。この赤紙が貼られた家屋に進入するには、何らかの指示に従わなければいけないようなのだが、取り急ぎ短時間で残っていた額縁や机を運び出した。街中の全壊の家屋は、順番に撤去作業が進められている。情緒のあった木造家屋が次々に姿を消していく。跡地に再び家が建てられるかどうか?老人家庭では子供が住んでいる金沢などへ引っ越すという話も聞いた。過疎地の震災・・・復興は、どんな形になるのだろうか?今は想像も付かない。
Mar 29, 2007
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夕方になり風が出てきて雨になった。穴水の街中の事務所兼アンテナショップ『染め工房』は外壁に亀裂が入り弓なりに傾いて半壊状態だから、多分雨が漏っていると思う。地震当日に書類や作品などを運び出した。残っている机やエアコンなどを運び出したいのだが、余震が多くて決心が付かない。もう少し様子をみることにする。写真は昨年の冬~春。古くから町の中心部にあってゲタ屋さん、本屋さん(私が小学生の頃)、花屋さん、ごみステーションと変遷。閉鎖されていたのをクロスを張替え、戸や棚には数日かけて私がペンキを塗り直した。作品展示や染色材料の販売、仲間との打ち合わせやイベントに役に立っていたが、実質2年間の活動だった。知人からは『アジト』などと呼ばれていた(--;「もう壊すしかないね~」と大家さんも諦めて、そういう時期が来たのだと納得する。『染め工房』 街中での2年間の役割を終了。
Mar 27, 2007
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今日も朝の7時から震度4の余震。我が家は震源地から数十キロ離れているので家の被害は目立っていないが、母と妻が掃除をして柱の根元に土粉が多くあるというので、よく見ると柱と壁に5ミリ程度の隙間があった。家中を見てみるとかなりの多さだ。倒壊した家屋の多くが築数十年経た木造建築だが、当時の家屋は今のようなコンクリートの基礎ではなく、平たい石の上に柱を立てたものだった。増築改修などで補強してある家とそうでない場合の強度に大きな違いがあるような気がした。被害の大きい輪島市門前地区では埋立地なども含めて、地盤の弱いところもあったようだ。震源地に一番近い輪島市門前地区は老人比率が高く避難場所の映像も老人の姿が殆どだった。トイレの問題が大きいようだが、避難場所での狭い空間で長時間同じ体勢でいる弊害も『エコノミークラスシンドローム』といわれ問題視されている。復旧が長引くほど辛い現実が待っているような気がする。それにしても、余震が多い。その1回1回が、凄く長く感じる。
Mar 26, 2007
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午前9時42分ごろ、仕事場が波打つように揺れてパソコンの電源が切れた。非常に長い時間に感じた地震。家の方々がギシギシ鳴り、床が横に揺れて立っていられない。吊り下げた蛍光灯が激しく揺れて棚の上の書類が飛び出すように落ちてきた。これ以上揺れが強いと危ない。壁の本棚に体を近づけ地震の収まるのを待った。ようやく収まって窓の外に行きかう人の声。「おとろしかったね~」公民館の職員と近所の人が話して、私も窓から顔を出して「大丈夫かね?」と。落ちた書類を棚の上に戻し、仕事場を見ると器に6分目ほどの染料液が外に大量に飛び出していた。寝室へ行くと背の高い洋服ダンスの扉が開いて衣類があふれ出ていた。家の周囲を見回り異常の無いことを確認し、近くの神社へ行くと石灯篭が倒れていた。午後、街中は騒然として救急車が走り消防車が集まっていた。橋のつなぎ目や路面のそこここに凹凸や陥没があり既に崩壊した家屋は撤収作業に入っていた。知人の家屋は、殆ど全壊状態で旦那さんは憔悴していた。気丈なお婆さんと言葉を交わしたが今夜からは避難所生活に入るようだった。写真は傾いた家屋の撤収作業。その手前は全壊。こちらは入り口などの戸が割れて傾いている。我が街中の事務所も、かろうじて建っているが壁の亀裂も大きく建物自体が湾曲して入り口の戸が開かない。割れたガラスを更に広げて、そこからパソコンや染め作品、書類を持ち出した。半壊状態の建物の中で余震が来る・・・大きな揺れでなくても、思わず外に飛び出した。家主さんの家へ行くと「家のほうで手がいっぱいで事務所の方は、まだ見ていない」という。おそらく取り壊しになると思うので今月いっぱいで清算し内部を片付ける話に落ち着いた。家への帰り道。買い物にスーパーに寄ると、既に品薄状態。知り合いの奥さんが大きなマスクをしているので「花粉症ですか?」と問うと、「水が出ないので化粧できないから隠しているの」というので、少し気分が楽になった(^^;それにしても地震は怖い。能登は比較的災害の少ない地域だと思っていたが、どこに暮らしていても、いつ災害に襲われるか分からない。これから当分の間続くだろう避難生活の人々の心労が思いやられる。 帰宅して18時。震度5の余震。この余震は心理的に堪えた。
Mar 25, 2007
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春を告げる光景。「いさざ漁」の姿が、あちこちで見受けられる。『いさざ』は、白魚(ハゼ科のシロウオ)、体長5~7cmの小魚。薄肌色の透きとおった姿は、骨まで見えている。春の訪れとともに産卵のために能登の川を遡上してくるのを、河口で四つ手網を使ってとる。このオジさんは「朝、昼、夕方だいたい決まった時間に『いさざ』来るもんやわいね」と言って、河畔に坐って漁をしていた。『いさざ』の姿を見つけると白い布の付いた竿で網の中に追い込んでいる。「よおけ捕れたかいね?」と尋ねたら「見るかね?」と言って柄杓ですくった『いさざ』をバケツの中に入れてくれた。「寒なったさかい、こんで、しも~ぅぎ」という。10匹ほどの姿。すばしっこくて写真におさまらない。踊り食いや卵とじ、かきあげなどにして食べる。写真は2005年4月初旬。川面に輝く入日の中に二人で座る姿が印象的だった。町の「まいもんまつり」で食べられます。http://www.town.anamizu.ishikawa.jp/kanko/maimon/isaza.html
Mar 24, 2007
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絵の資料を写すために出かけたが、微妙な天気。目的地へ向かう。 どの町にもあるような、この町の城山に登る。 階段を上り、下る。 どっちが上ってる?下ってる? 足が笑ってる。この道は、「健康の道」という。嫌味だ(笑あじさい。落日。 春まで春まで、もう少し。
Mar 23, 2007
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仕事をする道具には適度に扱いやすさが必要だ。用途と使う人によって、その内容が決まってくる。例えば包丁は、野菜を切る包丁と大きな魚や肉を切るものは別仕立てのものを使い分ける。絵を描く筆にも、手に持って適度な重さと長さがある。筆の使い道も色々あるが染色の場合はタヌキやイタチの毛の筆を使う。ナイロン筆は、下から火を当てるため熱に溶けて使えないのだった。さて、昨日の写真で筆の長さに注目。実は色を何種類も使い、色毎に筆を入れてあるので竹の部分が長いと急いだときに柄を跳ねあげて色を飛ばしまうことがある。これを白生地に飛ばすと失敗!!!(--;というわけで、私は筆の竹の部分を短く切り落とす(^^上からナイロン平筆、書道用の筆、3本目の筆は「鹿 骨書 大」、その下が切った筆2本。ちなみに「鹿 骨書 大」は既製品なのに一本2400円もする・・・しかし、最も描き易く使い勝手がある。柄を切ると筆の重さは変わるけれど、この筆ばかりを使っていると、手のほうが、この重さが正しいと記憶する(笑
Mar 22, 2007
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世の中は祝日でも急ぎの納品は待ってくれない(笑本日の仕事場。・・・どうということもない、毎日同じようなものだが(^^写真は模様にローを置いた白生地・・・まだ途中。身頃、袖など部分ごとに切り分け両端を引っ張って吊るしてある。今日は、その前でイスに座って素描き。台の上に生地を張り、下からガスで加熱して染料で描いた色を、思い通りの状態で乾燥させる。追加注文の模様なので写真を見て同じように描く。下の写真は、この模様のために使っている絹用の染料。透明インクと同じようなもの。染料を置いた台にはキャスターがつけてあり、描く場所へ移動する。夕方、完成した品を送りに宅配便まで片道20分の往復。本日、久しぶりの外出だった(笑
Mar 21, 2007
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「いしる」好評につき第2弾(^^大豆から作る醤油が庶民の生活に普及する以前は、全国の海に面した地域で魚醤油(うおしょうゆ=魚醤ぎょしょう)が作られていたようだ。醤油の「醤」は「ひしお」。醤油の原型といわれる「醤」は、今から2000~3000年も前からあったと言われている。野菜類の塩漬けを「草醤:くさびしお」穀物を塩漬けしたものを「穀醤:こくびしお」、肉類を塩漬けしたものを「肉醤:ししびしお」魚類の塩漬けが「魚醤:うおびしお」。イカの塩辛も魚醤の一つだが、魚醤油は醗酵した液に対する呼び方。左は「いしる鍋」右は「いしるおにぎり」普通のおにぎりに、いしるを塗ってこんがり焼いたもの。子供のころ父親らが、いしるに焼いたトウガラシを添えて刺身につけて食べていたが、私には臭くて食べられなかった(^^;料理の隠し味としてカレーやチャーハンにも少量入れるようだが、多くは鍋や魚の干物に使っている。焼きおにぎりなどは、香ばしくて子供が小さいときでも喜んで食べていた。・・・が、最近の我が家の鍋は子供のリクエストによって「鳥味噌鍋」ばかりになってしまっているのが残念なのだ(^^;こちら参考魚醤 ウィキペデア
Mar 19, 2007
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能登の暮らしの中で受け継がれてきた食品の一つに、魚醤「いしる」がある。輪島市、珠洲市、能登町の海と共に暮らした人々が、長い歴史の中で培った奥能登独自の魚醤油は、新鮮なイワシ、サバ、イカ等を原材料として自然熟成させた調味料。鰯の身の部分を米ぬかに漬け込み「糠鰯(ヌカイワシ)」を作り、その残である骨や内臓を塩漬けにし醗酵した汁を調味料として使ってきた。捨てる骨や内臓を使う生活の知恵から生まれたものが「魚汁」。「いしる」「いしり」「よしる」「えしる」とも呼ばれている。その味と旨み、香りには1種独特の風味がある。・・・臭くてキライという人も居るが熱を加えると臭みが消える。一般家庭では「いしる」自体は作らないが、市販のものを使って我家独自の「焼きお結び」を作る。鉄板で焼くときに、タコ(左)、ヌカイワシ(上)、イカ(右)を、お結びの表面にトッピング。これをコロッケにしたものを作って欲しいと熱望しているのだが、妻は忙しくて作ってくれない・・・非常に残念だ(ーー;
Mar 18, 2007
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そろそろ春の花が出ていないかと、いつもの丘へ行く。マンサクの花が咲いて、ヤシャブシの雄花の蕾。去年の実がシルエットのように残り、葉の新芽が覗いていた。少し入り込んだ草むらの中にシュンランの葉が伸びており、落葉をかき分けてみると蕾が出てきた。その隣にヤブコウジの実が一個だけ紅くあって、とても鮮烈な印象だった(^^ちなみにシュンランは、この辺では「ジジババ」という。この花が咲くころになると爺婆さんが野山に出て元気になるからかな~?・・・嘘です(笑)しかし、小雪の舞う一日。今年は3月になってからのほうが寒いから、まだまだ身を縮めて家に篭って仕事をしていよう~(^^
Mar 17, 2007
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毎日毎日迷惑メールの多いこと。削除するのもウンザリ(--;最近は「送信者の禁止」や「サーバーから削除する」という処置の効果が無いものも多く、外国からのメールと思われるが、スパム処理を免れるために文字を画像にして送って来るものが多くなった。相変わらずアダルトメールも多いが、以前に若い女性の写真が添付されてきたことがあった。いつもなら即削除なのだが、何か挑発的な写真だったので、その挑発に乗ってみた(^^写真の本人が送ってきたものとは限らないので一応目線を描いてアップ。・・・加工が足りないかも?(笑で、当時CGを描いて画像ソフトを使いこなそうとした私、この写真を基にして描きあげたものがこれ。 明らかに年齢が違う(笑) タイトルは「逢魔が淵」。以前の日記に「化粧の匂い」などを描きたいと思ったと書いたが、この女性から化粧の粉っぽさ等など、感じられるようにと努力したのだった(^^しかし、ネット上に写真を出す場合は年齢や表現など勝手に変えられるので、出す人が、どんな使い方をされてもかまわないという覚悟の上で出すしかない。それは、とても危険なことだと思う。最近マジメな世界にはまり込んでいたので、今日は、その反動かも?(^^年齢を20歳以上加えられても良いと思う人は、画像を送ってもらって構いません(笑
Mar 16, 2007
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私の住む町にAGO「穴水町行政改革を応援する会」というのがあり、今年の3月5日で3年目に入った。AGOは町の合併が破綻し単独町政をせざるを得なくなったとき町民が自主的に集まって作った会。私は、その会の事務局をしているが、以下は3年目に入って打ち出した「夢と願い」で、そのHPに書いたコメント。ずーっと、能登では政治に関して一町民が名前を出して発言する事はタブーのような感じを持っていました。穴水町にも、そういう雰囲気が漂っていたと思います。余計な事を言うな、睨まれるだけだ。言っても変わらない、言うだけ損をする。それが私の周りの多くの声でした。 応援する会が発足し、会員と雑談して何人もの人が同じような思いを持っていた事が分かって笑えてきました。 そして、応援する会の多くの人が、穴水町の政治に関した活動をする事は初めてでした。経験も無いし方法論も知らない。けれど目的とする事だけは分かっていました。この町を少しでも良くしたい。この町で生まれ育った事を、誇りを持って言える町であって欲しい。 合併が破綻したとき「どことも合併が出来なかった町。石川県で金銭的に一番貧しい町」・・・。そんな言葉が悔しくて情けない思いをしたのは、もちろん私だけではなかったと思います。 私は穴水・門前合併協議会の委員の一人でした。合併に必ずしも賛成ではありませんでしたが、町が決めたのならば、その中で町の端っこに暮らす者の立場から発言しようと思いました。考えて悩んで学んで精一杯の発言をしたつもりでしたが、合併が破綻して結局何もできなかったような虚しさがありました。そして、中途半端な思いだけが苦く残り、まだやり残した事があるという気持がくすぶっていました。 自分にできる事は何だろう?この町に暮らす者の一人として、できる事をしておきたい。 一人一人が声を出す事によって、この町が少しでも良い方向に動くならば、 ・・・動いて欲しいと思っています。一人一人の声で1センチでも1ミリでも動くのであれば・・・。 そんな思いで仲間と学び考えてきたことの一つが「シルバーランド構想」です。能登、穴水に暮らす者として、実現するかどうかは分かりませんが、こんな夢を見ても良いのだと思います。「シルバーランド構想」とは、能登の高齢化する過疎地で悪化する医療環境の改善と介護福祉関係などを充実させる案です。◆こちら、AGOのHP ◆そして「能登・穴水に暮らす人の夢と願い」
Mar 15, 2007
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下絵を描いた白生地の上にローを置く作業。左のローを電熱で加熱し液体にして筆で描く。右は模様をローで伏せた状態。花や葉の模様の部分に『防染』(ぼうせん:色に染まらないようにすること)のためローを置く。友禅では米を蒸し、糊状(伏せ糊)にして同じように防染用に使う。ローの部分は染色後に有機溶剤(シンナーの類)で洗い落とすと白いままで残っており、後に花の模様などを着色していく。広い面積を伏せるときは気楽なのだが、長く細い線を描くのは難しい。緊張しすぎても気楽でも上手くいかない。加熱されたローの状態が一番描きやすいときに集中力を高めて慣れてきた気持ちと腕の感覚が一番良い時に、息を止めて、ゆったりとした気持ちで描く。・・・往々にして、そういうときに限って電話が鳴ったりお客さんが来るものだ(^^;
Mar 14, 2007
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我が家には家庭配置薬箱が4箱あるのは書いたことが、今日は、その営業(富山の薬売り)さんが来た。風邪薬や咳止め、胃薬など合計13000円のところを11000円におまけしてくれて、「付き合いの長い家庭では40年ほどになります。福井滋賀から東北まで回ります」という。年に数回やってくるが、その土地の各地の旅館に連泊して家々を廻る。ずいぶん高齢だと思ったら、なんと76歳だった。「お宅は、ウチの薬箱だけですか?」「いえ、4箱、あります」「そうですか、たくさん使ってもらっているのでウチだけかと思いました」この箱は母親一人が使っているのだが・・・使用量多いな(^^;「よく使ってもらっているので、風邪薬とサロンパス一箱ずつサービスします」「あぁ、どうも」等々話して、おじいさんは薬箱を車に積み込んで「有難うございます」と言い、玄関の戸を閉めた。私も昼食中だったので部屋に戻ろうとしたが、代金を払っていないのに気付いた。おじいさん、クルマのエンジンをかけて発進になっている。・・・払わないでも良いのかな~と思った(^^
Mar 13, 2007
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3月になってからの方が冬のような日々。今日も積もることの無い雪が降っていた。朝から4月の総選挙がらみの電話が数本。選挙関係は私に聞いても無駄だよ~(笑)親戚がパソコンの話に来たり、なにやかやと雑用の多い一日ではあるが自営業に休日は無い(^^;写真は以前にCG図案をアップした振袖の作業。白生地の上に下絵「青花」で、線描きの図案を写していく。白生地は依頼者の寸法で仮絵羽(寸法どおりに仮に縫い合わせた状態)にして、その上に模様を描くと完成したときに模様がぴったり合う。この先、模様の部分を白く残す(後で彩色をする)ためにローを置き地色を染める。完成までの道のりは、まだまだ遥かに遠いのだった・・・(^^;
Mar 11, 2007
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我が家の周辺の生活環境を書くと、きっと驚く(^^;家の目の前の小学校が、あと1年、平成19年度で廃校になる。私の通った中学校も高等学校も既になくなっている。小学校の写真は2006年1月過疎地の子供たちの教育環境が小中学校の統廃合によって悪化していく。そして、町に唯一の公立高校も存続の危機にある。60年~70年ほど前、私たちの親の世代のは高等教育を受けるのが七尾、輪島、飯田の市にあり、郡部の生徒は下宿が多かったという。町の公立高校がなくなるのは、その時代と同じ教育環境になるということかもしれない。だが小学校は分校の制度などもあって歩いて通える環境だった。当時は4~5km歩くのも普通の時代だった。今は離島や一部の山間部などは別として分校というのはなくしているようだ。そう思うと、今の車社会の移動は便利になったように見えるのだが、逆に不審者などの存在も気がかりだから日中も夜間も人家の無い道の長距離の一人歩きは怖いし、病気のときや行事のとき、自然災害や交通事情によっては親が送迎する必要がある。スクールバスが充実していれば良いのだが、共働きが多い能登では同居の祖父母が運転できる家庭が子供たちの送迎に関しては恵まれた条件だといえる。過疎地では、60年以上も前に戻った教育環境と思っていたが、実際はそれ以上に悪化しているかもしれない。医療環境も20~30年前は少し大きな集落単位(学区程度)に診療所など個人の小さな医院があったけれど、今は個人病院も町の中心部に集まっている。老人は比較的時間に余裕があるのでバスで通院するが、老人も子供も緊急を要する場合は家族の送迎が必要になる。結局、ここでも車を運転する人がいない家庭は苦しい。信じられない話だろうけど、我が家で急病人が出たばあい病院まで片道20分の距離を走る。雪道ならば電話をしてから病院へ入るのに1時間必要になる。更に町の病院で対処できない場合は七尾市や金沢市の病院へ搬送することになる。これが過疎地、僻地の医療環境。廃校になった学校周辺の個人商店など、生活雑貨を扱う商店も営業が成立しなくなり廃業してしまった。こうした生活環境の悪化が限界集落への進み方を加速させる一面でもある。移動弱者の老人子どもにとって「歩いて行ける距離」の範囲で生活に必要な品を揃えられるということが、とても恵まれた環境なのだと、つくづく思う。今日は暗い話・・・過疎地に暮らす能登の手の独り言だった(--;
Mar 10, 2007
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記録マニアの私?としては、暖冬の記録や雪に菜の花なども良い被写体ではあるが、予定していた雪景色が記録できないのも寂しい。冬には冬の風情があるのだから、しっかりと雪の日の記録を残したいものだ(^^雪の日に港で船の写真を撮ったのだが・・・船や雪よりも、酔っ払いが歩いたような足跡が、変だと思う(笑
Mar 9, 2007
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春の雪は儚くて、日差しの中で潔く溶ける。インフルエンザは、しつこく我が家に居座っている。・・・。長女が罹り、ようやく治って卒業式に出た。そして長男が罹り、ようやく治って入試を受けた。そして本日、妻が罹り、病院へ行った・・・(--;熱が出た話を聞いただけで、寒気がして風邪薬を飲んだのは、・・・私だ。なんだか、ボ~っとしているのは・・・風邪のせいか?薬のせいか?いつものことだろうか?(~_~;)我が家への訪問者は、ご注意ください!ネット上の訪問は大丈夫?・・・です(^^ゞ
Mar 8, 2007
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久しぶりの吹雪だった。さすがに寒い。団塊の世代の定年退職時期が来て都市生活者の田舎暮らし誘致合戦のような計画が都道府県体位でも市町村単位でも計画されている。能登でも空き家状況を提出したり受け入れているところがある。そうした中で、能登島に5組の夫婦が来ていたのだが、そのうち二組が出て行ってしまったという話を聞いた。その最大の理由は「こんなに不便な田舎だとは思わなかった」だそうだ。「田舎は良いなぁ~、自然がいっぱいで」と「ふるさとの懐かしい原風景」等とも言う。言葉にすれば、そうなんだけど。実際の田舎はノスタルジックな話だけではない(^^;)けっこうシビアなのだ。人によっては場合によっては、ものすごくハードなのだ(笑色々なアンケートやインタビューでも、男性には希望があるが女性は拒否が多い。現実を良くわかっているようだ(^^そして、私の住んでいる「ど田舎」で、近所の団塊の世代の人が帰ってくるという話は一例も聞いたことがない!いや、もともと家があり別荘のように年に数回だけ帰って来る人は居る。それを「ときどき田舎暮らし」とも言うらしい。マスコミが騒いでいるほど、団塊の世代の移動があるのか?シミュレーションされているほど経済効果があるのか疑問だと思えてきた。暮らすには、不利不便不都合。それでも「田舎暮らし」をしたいという「勇気のある人」、「物好きな人」、どのくらいいるのか分かるのは、まだ数年の期間が必要のようだ。ん~、ど田舎に暮らし続けている私ら自身のことを、どう表現したら良いのかわからない(^^;
Mar 6, 2007
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桃の節句は終わったけれど・・・カメラを持って桃の花が咲いている場所の記憶を下に、探してみたが花を見つけることができなかった。・・・記憶の退化!(^^;桃の花のスケッチ。バラ科の小花は花だけでは描き分けることが難しい。花の付き方や枝の違いを探していた若い頃の私。底冷えのする京都の二月。仕事を終え西京区、六畳一間のアパートに帰った私は、毎夜、独り黙々と花のスケッチをしていたのだった。孤独で暗い青春期を過ごしていたのが、このスケッチから読み取れるだろうか?(笑)・・・こういう記憶だけは鮮明だ!(爆
Mar 4, 2007
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本日は長女の高校卒業式であった。しかし一週間前インフルエンザB型に罹り、ようやく卒業式ギリギリ間に合うという状態だった。ともかく一安心。あと2年間は学校へ行くけど一区切りだ。・・・そして3日前から・・・7日が高校入試であるにも関わらず、長男が見事インフルエンザを貰ってしまった。姉と同じくB型(--;)よりによってタミフルが騒がれている、このときに。B型には効果が薄いらしいが一日でも早く直したいので服用して2日間、監視が義務付けられたような感じがする。息子の様子を心配し訪問してくれた担任の先生いわく「別室でも受験できますので」と。思わず私も「名前だけでも良いから書いてこい」と言ってしまった(^^;)絵は妻が描いたパステル画。生まれて数ヶ月~1歳ごろの長女(上)長男(下)
Mar 3, 2007
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「人と鉄道のスナップ」能登線の写真を撮ったのは実質2~3年、ただやみくもに撮っていた感じだった。線路の入れ替え列車が通る雪の中恋路海岸中学生と黄色い車両夏の校庭子供相撲廃止になって、もう二度と写せなくなった今、振り返ると沿線の人の暮らしにとって能登線(のと鉄道)が如何に重要だったかを思い知らされている。朝の通学、夜の子供達の迎え、路線バスと鉄道の移動距離の違いは、子供達への負担も大きいが親の負担がずいぶん大きくなった。鉄道と人の暮らしの感じられる写真をもっと撮っておけばよかった。これも、無くなってみて、年数を重ねてみて初めて分かることなのかもしれない。
Mar 2, 2007
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能登半島の富山湾に面した内浦(内海)地域から見る立山連邦の姿は人気がある。3000mを越える山々が雪を戴いて海に浮かぶ光景は雄大で清々しく気高い感じさえする。残念ながら山に関しては無知なので、それぞれの名称を詳しく説明できないところが私らしい(笑対岸の向こうなので、いつも見えるか?というと障害物は雨雪であり雲であり空気の層。見えるのはせいぜい月に数回。スッキリと晴れた日に見えるけれど、空の色次第で見え方が違う。写真に撮ってもなかなかクッキリ現れなくてガッカリすることも多い。2007年2月26日の立山全景そのクローズアップ。真冬ならではの雪だけの陰影。暖冬の今年でも水平線の近くまで雪が見える。私の撮った中ではこれが最もハッキリしているが、空は晴れわたっているわけではない。立山連邦と能登線前波駅。そして「間島の鉄橋」という鉄道マニアに人気があった撮影ポイント。写真好きな友人を連れてきたら嬉々として撮り続け、その場を離れないのを見て初めて自覚した屋根の上の海。鉄橋の上を走る列車。そのまた上の立山連峰。この組み合わせ、何度も挑戦したけれど上手く撮れなかったことが今でも悔しい(^^;
Mar 1, 2007
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