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今月の5月13日、真言宗総本山の「高野山」において、つい先日まで執行されていた「開創1200年記念大法会」に参詣するご縁をいただいた。ご承知のように高野山は、約1200年前に「弘法大師 空海」が開いた、日本を代表する真言密教の聖地である。まず最初の画像は、総本山 金剛峯寺の主殿(本坊)を、斜め横から撮影したものである。それはそれは沢山の人が現地を訪れていたが、押し寄せる人波が途絶えた一瞬を見計らって映したものだ。そういえば数年前、泊りがけで初めて高野山に参詣した折に、早朝に宿坊から浴衣一枚でフラフラと歩き出て、たまたま大きなお寺の前に来てしまったことがある。それが今回の参詣で、朝の爽やかな風を感じつつ暫らく一人で佇んでいたその場所が、この金剛峯寺の境内だったことを確認でき・・・そうか、ここだったんだ・・・と、感慨深くまた懐かしく思い出されたことを憶えている。次の画像は、同じ金剛峯寺の寺内にある中庭で、日本最大となる枯山水の庭「蟠龍庭(ばんりゅうてい)」の一部を撮影したものだ。この「蟠龍」とは、「地上にうずくまっていて、まだ天に昇らない龍」という意味合いとのこと。この2340平方メートルもの広い敷地に、雲海の中で向かい合う雌雄の龍が、金胎不二(こんたいふに)の相として表現されており、龍は大師の出生地である四国の青い花崗岩140個を使い、雲海には京都の白川砂が使われている。 そして以下に掲げる三つの画像は、金剛峯寺が管理する「壇場伽藍(真言密教の道場)」に建立された諸堂塔の中から、「中門」・「金堂」・「根本大塔」を撮影したものである。◎「中門」・・・開創1200年を記念する主要事業として、天保14(1843)年に焼失した壇上伽藍の中門が172年ぶりに再建された。新たな中門は、鎌倉時代の建築様式をもとに設計され、規模は東西25m、南北15m、高さ16m。今年の4月に落慶したこの中門には、四天王像が安置されている。◎「金堂」・・・この金堂は、高野山が開かれた当時は「講堂」と呼ばれていた。現本尊は薬師如来(阿閦如来)で、金堂再建時に新造された高村光雲の作である。平安時代の半ばから、高野山の総本堂として重要な役割のある建物である。現在の金堂は7度目の再建で、昭和7(1932)年に完成した。◎「根本大塔」・・・金堂の右後方にある多宝塔。空海入定1,100年を記念して再建したもので、中央に胎蔵大日如来像、その四方に金剛界四仏を安置する。本来別々の密教経典に説かれている「胎蔵曼荼羅」の仏像と「金剛界曼荼羅」の仏像を一緒に安置するが、これは、両者は根本的には一つだという、空海の思想を表したものといい、「根本大塔」という建物名もこれに由来するという。最後の画像は、奥の院にある「御廟橋(ごびょうばし)」の手前から、大師信仰の中心となる「弘法大師御廟」を展望したものだ。ちなみに大師御廟へ渡る最後の石橋は、36枚の橋板と橋全体を1枚として37枚と数え、金剛界37尊を表していると言われ、橋板の裏には仏様のシンボルの梵字が刻まれているとのことである。また、この「弘法大師御廟」に至る奥の院参道に沿って並ぶ墓所の数は10万基とも20万基とも言われ、皇族から名もない人々まで、あらゆる階層の人々が競ってここに墓碑を建立してきたそうだ。有名な戦国武将に絞ってみても、織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、徳川家康、石田三成、伊達政宗、武田信玄、上杉謙信など、戦国大名の6割以上の墓碑や供養塔があるとのことで、奥の院を案内・解説する弁士の名調子を聴きながら・・・なるほど、それで各地の武将が築城した名城を巡ってきたのかもしれない・・・などと、感慨に耽ける自分がいたことを思い出す。それにしても・・・である。世界遺産の高野山にて、時は「開創1200年 記念大法会」の執行期間でもあったわけだが、大変な人数の参詣者や観光客でごったがえす境内の雰囲気は、子供向けのテーマパーク「ディズニー」や「USJ」のような、言わば《年配者向けのテーマパーク》という様相を呈しており、今回の参詣については何とも複雑な心境になったことを憶えている。
2015年05月31日

今年に入って各地を巡る中で、3月は「江戸城」(皇居東御苑内)、4月は国宝「姫路城」、そして5月は「熊本城」と、結果として日本を代表する三つのお城を巡ることになった。今回の日記では、それぞれのお城の風情を、三枚づつ撮影した画像で披露していこう。まず最初の画像は、(旧)江戸城本丸の一番北側に位置し、かつては五層からなる天守閣を支えていた「天守台」を映したものだ。ちなみに天守台の高さは13m、この御影石でできた石垣は、日本最大の規模なのだそうである。上の画像は、その江戸城天守台の上から見て、北側にある「北桔橋(はねばし)門」を撮影したもの。この画像の左上に見える尖んがり屋根は、あの有名な「日本武道館」である。江戸城を映した最後の画像は、大手門から入って「百人番所」の手前にある石積みを映したものだ。その美しい石組みの職人技に、思わず見惚れたことを憶えている。さて次のお城は、兵庫県にある世界文化遺産にして国宝の「姫路城」、上の画像は大手門にかかる橋の手前から、天守閣を遠望したものである。撮影中にお堀に遊ぶ手漕ぎの高瀬舟に遭遇・・・なかなかの風情であった。「白鷺城」とも詠われ、今まさに羽ばたかんとする白亜の大天守を映した画像が上。七層構造の天守閣は想像以上に大きく、なかなかカメラの枠に収まらないため、撮影できる場所の最後部で映したことを憶えている。姫路城を映した最後の画像は、表玄関の「菱の門」を入ってすぐの「三国掘」の手前から、天守閣の全体像を展望したものである。お堀の水面に映るお城の影も実に美しく、この姫路城に気品あふれる女性性を感じた次第。そして三つ目のお城は、熊本県にあって燻し銀に輝く「熊本城」・・・まず上の画像は、城内にある数々の石垣の中でも一際目を引く「二様の石垣」を映したものである。画像のように、左右二様の石垣の傾斜の違いが一目瞭然とのことで、右側の傾斜の緩い方は築城初期のものと思われ、左側の傾斜が急な石垣は、より急な角度を出すことができる「算木積み(さんぎづみ)」という工法が開発された後に、積み足されたものだそうだ。次の画像は、「本丸御殿」の中でも一番格式の高い部屋「昭君之間」で、藩主の居間を映したものだ。対面所(接客の場)としても使用されたと考えられ、室内は床の間や違い棚、付書院などを持つ書院造りとなっている。画像の壁や襖などには中国の前漢の時代の話で、匈奴(現在のモンゴル)に嫁がされた悲劇の美女、王昭君の物語が描かれているそうだ。熊本城を映した最後の画像は、威厳溢れる熊本城の天守閣を後ろ側から撮影したものだ。その威風堂々とした佇まいに、豪壮な男性性を感じた次第である。以上、日本を代表する三名城を駆け足で紹介したが、私的感覚では上記のように「姫路城」には「女性性」、「熊本城」には「男性性」を感じた。そして「江戸城」の全体となれば、これはやはり江戸時代を担ってきた中核のお城ということもあってであろう、陰陽を超えた「中性性」が素直に感じられたところである。・・・ということで、今の私の心に浮かぶ「日本三名城」は、「江戸城」・「姫路城」・「熊本城」となっている。そして本日の日記の最後を飾る画像は、この5月中旬に訪れた全国屈指の山上遺構にして、最近では「天空の城」や「日本のマチュピチュ」とも呼ばれて脚光を浴びてきた「竹田城跡」(兵庫県朝来市)の石垣を撮影したものである。この石積みの構造は「野面積み」といって、自然石をほとんど加工せずに積み上げる工法によるもので、築城から400年を経ても、一部の復元箇所を除き当時のままの姿を残しているとのことだ。この石垣の石積みを目の前にして直感したのは・・石垣全体の構造安定化を徹底的に考慮して構築してある・・・ということだった。この「穴太(あのう)積み」とも呼ばれる石積みの構築法は、一見すると隙間が多く粗雑にさえ見えるが、水はけがよく崩壊を防ぐ構造になっているとのことだ。手前味噌だが、このブログで公開してきた自作の「透き通った造形」の数々は、この画像の石垣のように一見すると頼りなく不安定にも思える。けれども私には、この竹田城の「野面積み」という石垣の構築法に、常に構造の安定化と全体のバランスを念頭に造形表現を心がけてきた自身の構成法と相通じるものが感じられ、静かな感動に包まれたことを憶えている。
2015年05月30日

ゴールデンウィークの四国~淡路島の旅路を終えてすぐの5月9日、熊本県に行く機会を得た。上の画像は、一度は訪れてみたかった熊本市西区の「金峰山(標高665m)」の山頂から、有明海の島原湾に沈む夕日を映したものである。次の画像は、その山頂部に鎮座する金峰山神社の由来が記された立て看板を撮影したものだ。読んでみると、西暦832年に淳和天皇が奈良県の金峰山蔵王権現を勧請と記してあり、そういえば淳和天皇は弘法大師 空海が活躍していた時代に在位していた天皇であること、そして同天皇の第四妃として迎えられ空海とも深い関係にあったと伝わる真井御前(まないごぜん)のことが思い出された。実は四国~淡路島行脚が終わる頃に参詣したのが、その真井御前が開基したと伝わる「神呪寺(かんのうじ)」(兵庫県西宮市)だった。上の画像はその境内の入口を撮影したもので、「淳和天皇勅願寺」と記された石碑をはじめとして、境内各所に設置された由来書き等を読むと、空海と真井御前を含む三人の関係をうかがうことができたことを覚えている。最後の画像は、金峰山に登る前に訪れた熊本城の天守閣から、西方の金峰山(中央のピーク)のある山並を撮影したものである。意識はしていなかったが、折しも熊本を訪ねた当日の旧暦は3月21日で、空海の命日だった。そして同日の5月9日に発売された「学研 ムー」の総力特集は、主題は「弘法大師 空海と古代丹波王国の錬金術」とあり、その副題は「知られざる真井御前の玉手箱には[賢者の石]が入っていた!」とあったのには驚いた。読んでみると実に興味深く、同月の13日に予定していた真言宗の総本山である高野山 金剛峯寺で執行中の「高野山開創1200年記念大法会」(4月2日~5月21日)に参詣するための、その事前の予備知識として相応しい内容と感じた次第である。
2015年05月26日

今回の旅路について当初の計画では、四国の歴史探訪を兼ねた周遊が主目的で、実は淡路島を経由して本州に戻るかどうかも曖昧であった。それが出発の直前になって、既に何度か訪ねている淡路島を意識した時に、なぜか「ゆづるは」という言葉が何度か浮かんできたので調べてみることに・・・。すると、淡路島の南方にあって同島では最高峰の諭鶴羽山(ゆづるはさん・標高608m)の存在に気づいたのだった。さらに調べていくと、この諭鶴羽山は、九州は英彦山系の修験道の御山と分かり、これはお導きをいただいたと感じて、今回の淡路島で行くべき場所があるとすれば、その筆頭に据えることになったのである。そこで冒頭の画像は、訪れていた「沼島」から帰港して、諭鶴羽山の山頂部に向かう山道を車で登り、その八合目に鎮座する「諭鶴羽神社」を撮影したものだ。そして上の画像は、よく整備された諭鶴羽山の山頂にある標識を映したものである。八合目の諭鶴羽神社の祭神は「イザナミ尊」を主祭神とする三柱神で、この山頂からほぼ真北に鎮座する淡路国一宮 伊弉諾神宮の主祭神「イザナギ尊」と、南北で夫婦神よろしく対の関係になっていることが興味深く、私には意図的な配祀と感じられた。ここで、上記の英彦山との関係を紐解くと、海上交通が主体であった昔、九州・英彦山から四国・石鎚山、淡路・諭鶴羽山、紀伊・熊野へと続いた海の道で、修験道の伝播する道が結ばれていたということである。今回の旅路では、予め「石鎚山」に登る予定を立てていたので、それなら御縁の深い「諭鶴羽山」にも登るようにとのお達しが、聴こえてきた「ゆづるは」という言葉の浮かびだったのだろう。加えて、世界遺産に登録された「熊野古道」。この熊野との関係は平安修験にさかのぼり・・・紀伊・熊野の神は、淡路・諭鶴羽山から渡っていかれた・・・と伝えられているとのことだ。さて上の画像は、「諭鶴羽山」の八合目辺りから南方の海に浮かぶ「沼島」を撮影したものである。この「諭鶴羽山」と「沼島」の関係も南北であり、伊弉諾神宮の主祭神「イザナギ尊」と諭鶴羽神社の主祭神「イザナミ尊」が結ばれて生まれたオノコロ島が「沼島」と読み取れて、実に感慨深いものがあった。この諭鶴羽山に登るには、神社の鎮座する八合目まで車道があるのだが、これがかなり急峻な山ということに加えて道幅も狭く運転が難しかった。日頃の運転技術が問われることにもなったわけだが、帰りの車道では何度か車から降りて、小石を退けては前進するという作業を繰り返したお陰で、今回の旅路を象徴する「立て看板」に出会うことができた。その看板に描かれた日本地図の部分を撮影したものが上の画像である。その日本の地質構造区分図には、四国を東西に横断する大断層の「中央構造線」から、東方に繋がって日本海に抜ける「フォッサマグナ」の大断層が描かれており、よく見るとその淡路島のすぐ南方にある大断層は、ここ「諭鶴羽山」と「沼島」の間を通っていた・・・。・・・と、この描かれた大断層を確認したと同時に、今回の旅路における四国と淡路島での動向が、私の心中に走馬灯のように蘇ってくるのだった。そうか・・・四国全域を俯瞰した場合、西方の山の「石鎚山」と海側の「足摺岬」、そして東方の山の「剣山」と海側の「室戸岬」と、中央構造線を跨ぐようにして淡路島に渡り、この淡路島でも同じ大断層をまるで跨ぐかのように、山の「諭鶴羽山」と海側の「沼島」を訪れることになっていたとは・・・。驚いたことに今回の旅路は、どうやら自分でも無意識のうちに、四国~淡路島を横断する「中央構造線」を巡る旅だった模様である。そして淡路島の最高峰「諭鶴羽山」を下山した後は、高速道に乗って北方に向かって走り、あの美しい明石海峡大橋を渡って、明石市にある天文科学館へ行った。その天文科学館の北側にあって、東経135度の子午線を示す「トンボの標識」を映したものが最後の画像である。およそ東西の緯度を示す中央構造線に纏わる主要地点を巡り、最後は東経135度にて旅路を締め括ることで、今回の[GW・四国~淡路島への旅]は終了とし、有り難き幸せを噛み締めつつ帰路に就いた次第である。
2015年05月22日

そして連休最終日は5月6日の午前中、淡路島の南約5Kmに浮かぶ小島にして、国生み神話の伝わる「沼島(ぬしま)」に渡った。この沼島を訪れるのは二度目となるが、今回のメインは前回の渡海の際に叶わなかった「上立神岩」を体感することにあった。ちなみに、前回の沼島に関する記事は⇒ 沼島(1)・沼島(2)・沼島(3)沼島の船着場から歩くこと約30分、高さ約30mの「上立神岩」が海上にそそり立つ姿を映したものが冒頭の画像である。この上の画像は、かなり足場の悪い岩礁を注意深く乗り越えて、さらにこの「矛先」のような巨岩に近づいて映したものだ。そして下の画像は、この「上立神岩」を単独で拡大したものである。今まで数々の磐座を見てきたが、その群を抜く存在感に圧倒された私は、しばらく神魂が奪われたかの如く立ち尽くしていたことを憶えている。さて、この日記を書く直前に入手した興味深い情報があったので、以下に掻い摘んで紹介したい。それは今から約2700年前のこと・・・ユダヤ王朝が滅亡する時に、預言者のイザヤ夫妻が日本に渡来してきた。その「イザヤ夫婦」こそ、日本神話が伝える「イザナギ」と「イザナミ」の夫婦神ではないか・・・。その昔、古代ユダヤ人を乗せた葦船の船団が、黒潮に乗って初めて日本に到着した場所が、この「沼島」だったとのことである。今から1万年以上前に沈んだとされるムー大陸・・・そのムーの生き残りが日本列島(ムー大陸の一部)に移り住み、その後に日本から世界各地に移住していき、それからまた日本に戻ってきた一部種族が約2700年前に渡来したユダヤ人だった・・・。・・・とするなら、この沼島の東南の海岸に存在する「上立神岩」は、その歴史の一部始終を見守っていたのかもしれない・・・。
2015年05月21日

さて、いよいよ淡路島である。五月五日の夕刻に淡路国一宮の「伊弉諾(イザナギ)神宮」に参拝。私にとっては今回で五回目の参拝になろうか・・・。冒頭の画像は、境内にある石碑に刻まれた日本列島の図を映したもので、「古事記」や「日本書紀」に記された「国生み神話」において最初に生まれた国を「淡路島」と見立て、その「国生み神話」を元に当神宮を中心として列島各地の有力神社を、太陽運行を示す軸線で結び描いたものと思われる。一宮参拝の後に向かったのは淡路島西岸の「五色浜」という海岸・・・キャンプ場のある砂浜で夕日が沈んだ後の黄昏を撮影した画像が上である。ちなみに、画像上部の中央に輝く一番星は「金星」だ。そういえば、淡路島を訪れるたびに思い出すのは、あの阪神大震災の起きる直前に見た「夢」だ。その「夢」の内容と私なりの解読は、過去の日記でも書いているので、以下に紹介しておきたい。◎2006年01月16日の日記・タイトル『 阪神大震災の「夢」』⇒ リンクさて、翌六日の早朝に向かったのは、上記の一宮からも近い「岩上神社」の境内にある磐座だった。高台にあって神仏混淆の佇まいを今に残す広い境内の見晴らしのよい場所に、その大きな磐座は鎮座していた。上の画像は、社殿とその左奥に存在する雄々しき磐座を撮影したものである。次の画像は、社殿の裏手に廻って、磐座群の全体像を撮影したものだ。私的直感としては・・・古代人が複数の岩石を意図的に配置して組み上げた磐座・・・と読み取れた。この画像は、この磐座群の中心に屹立する大岩を、その真下から見上げるようにして撮影したものだ。その綺麗に削られ研磨されたような岩面は東方を向いており、太陽光を反射させる装置だと私には感じられた。また、屹立する大岩の真下に立つと近くに海が望めるので、この磐座群は古代において、その近海を航行する船舶の「灯台」の役割を担っていたのではなかろうか・・・。この岩上神社の磐座については、今回が初めての視察となったが、なかなかの醍醐味であった。
2015年05月20日

この5月17日は、私にとっては「真理探究の道」を歩み始めて34年目となる、記念すべき月日だった。その丸33年を経た節目となる日に、縁あって伊都国(現在の福岡県糸島市近辺)の高祖山(たかすやま・福岡県福岡市と糸島市の境に位置する標高416mの山)に登る機会を得た。この冒頭の画像は、手前の黄金色の麦畑の向こうに控えた「高祖山連峰」を映したものである。実は、その高祖山(画像の連峰のピ-ク)の南側(向かって右側)にもう一つの峰があり、これを「くしふる山」と呼んでいたという伝承がある。その「くしふる山」こそ、「古事記」の天孫降臨の段において、ニニギ命の降臨地が「筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(クシフルタケ)」と記された、その「クシフルタケ」ではないかと推考する古代九州の歴史研究家がいるが、今回で二度目となる高祖山登山を経て、私もその推考に賛同の意を添えるものである。ちなみに、「高千穂」の「千穂」とは〃山並み〃という意味なので、「高千穂」とは「高祖山連峰」と解釈できるとのことだ。約20年ぶりとなる高祖山登山は天候にも恵まれ、午前9時頃に高祖山の西麓に鎮座する高祖神社の裏手から登り始めて、清々しい新緑の中を約1時間で山頂に到着。その際に山頂の標識を撮影したものが上の画像である。道中では年配の男性と言葉を交わしたが、なんと御年87歳のお爺さんで、その矍鑠とした口調と若々しい足運びに驚かされた。そのまるで仙人のような方は、なんでも毎日のように高祖山登山を楽しんでいるとのことである。当日の空は少し霞んでいたが、上の画像は高祖山の山頂から西北西の「糸島冨士」とも呼ばれる秀麗な山容の「可也山(かやさん・標高365m)」を映したものだ。そして下の画像は、同じ山頂から南南東に眺望できる背振山系の山並みを映したもので、中央のピークは金山(標高967m)である。この高祖山登山については、「古事記」の神話物語を編纂するうえで土台となる、日本列島に描かれた図形があったとする研究書籍を参考に、その綿密な測量によって計測された最西端のポイント地点たる「高祖山」を体感する意図があった。その古事記編纂の土台と思しき三角形を基本とする図形とは、以下に紹介する書籍を参考にしたもので、東方の三角形は「諏訪大社」を頂点として「香取神宮」と「伊勢神宮」を結ぶ二等辺三角形、西方の三角形は「出雲大社」を頂点として「三輪山(大神神社)」と「高祖山」を結ぶ二等辺三角形、そして東西を結ぶ中央の三角形は「伊吹山」を頂点として「伊勢神宮」と「三輪山」を結ぶ二等辺三角形である。◎参考書籍 「実在した幻の三角形」 大谷幸市 著・卑弥呼の金印発掘研究会 刊(1987年)この書籍が刊行された年に入手して以来、上記の三つの三角形を繋いだ・・・まるで羽を広げた鳥のような図形・・・が私の中で息づいており、私にとって節目の月日に標準を合わせるかのように浮上してきたという感じだ。※関連記事⇒リンク上記の七つのポイント地点のなかで、なぜか「高祖山」だけ影が薄いというか、他に比べて注目度が低いわけだが、ここでは上記の「高千穂の久士布流多気(クシフルタケ)」の件を含めて、意図的に封印されてきた可能性を指摘しておきたい。それを示唆するかのように、ようやく近年の1965年になって、高祖山の西方で発掘された「平原遺跡」では、代表的な出土物として直径約46.5cmという日本で最大の御鏡(大型内行花文鏡)が5枚も発見され、2006年には国宝に指定されている。さて冒頭でも記した、自身が真理探究の道を歩み始めた(1982年)5月17日は、未明の覚醒夢で「3と7」の啓示を受けた。※関連記事⇒リンク気学では「3」は方位の「東」、「7」は「西」を意味することからか・・・今回の高祖山登山の過程において、上記の東方の三角形が東を意味する「3」に、そして西方の三角形が西を意味する「7」に観えてきたのは不思議だった。そして東西の三角形を繋いでいる中央の二等辺三角形の頂点たる「伊吹山」こそ、古事記編纂の土台と思しき図形の中心となる基点だと、改めて認識できたのだった。最後の画像は、当日の最後に訪れた神社の鎮座する高台から、まさしく黄金色に輝く夕日を映したものだ。これまでの33年という年月を寿ぎ、今後の後押しもいただける有り難き光と感じた次第である。
2015年05月18日

四国の最南端である足摺岬から各地を経由しつつ、同じく太平洋に突き出たもうひとつの大きな「室戸岬」に到着したのは、有り難いことに今まさに夕日が没もうとする直前であった。近くの駐車場に車を停め、撮影できる場所まで小走りして、日没間近の夕日を撮影したものが冒頭の画像である。そこでもし、この日没の時が[冬至]だった場合には、霊峰「富士山」を背にして「室戸岬」から望む夕日の方角は、「足摺岬」を貫いて南九州の「野間岬(笠沙岬)」方面を指し示すことになる・・・。※関連記事(1)⇒リンク※関連記事(2)⇒リンクそして「室戸岬」は、言わずと知れた若き「弘法大師 空海 」の修行の地と伝わり、上の画像は空海が難行した「御厨人窟(みくろど)」いわれる洞窟の中から海側方面を撮影したものだ。この「御厨人窟」は平安時代初期、当時19歳の青年であった弘法大師がこの洞窟に居住したと伝えられ、この洞窟から見える風景は空と海のみで、ここから「空海」の法名を得たとされている。また、その難行の最中に『明星口ニ入リ虚空蔵光明照ラシ来テ菩薩ノ威ヲ顕ス(金星の光が口の中に飛び込み、虚空蔵菩薩が一帯を明るく照らしながらやってきた)』という不思議な体験をして、この時に悟りが開いたと伝えられている。当日の5月4日は折しも「満月」であり、その室戸岬に近いお遍路さん相手の古びた民宿の部屋には、窓から煌々と月明かりが入ってきて、お陰さまで月光浴を楽しみながら気持ちよく眠りに就くことができた。さて翌5日は、3日の石鎚山・登拝に続いて、西日本および四国第二の高峰「剣山(標高1,955m)」への登拝が待っていた。午前5時頃に室戸の民宿を出発して、登山客で賑わう剣山の登山リフト乗り場に到着したのは、午前10時前だったと思う。ゴールデンウィークの最中にして、快晴の「子供の日」である。今回の旅路では初めて、行楽地における人出の凄さを実感しつつ、ようやく駐車場を確保でき、ホ~!と一息つけたのを憶えている。早速リフトに乗って山上へ・・・。山上のリフト駅から山頂までは標高差が約200mなので、雨模様で厳しい登山だった石鎚山とは打って変わり、快晴の剣山登山の足取りは、実に軽快であった。そこで上の画像は、山頂部に鎮座する「剣山本宮 宝蔵石神社」の裏手にある大きな磐座を映したものである。そしてこの画像は、剣山の山頂にある一等三角点を撮影したものだ。実に多くの登山者がこの場所で、入れ替り立ち替りしながら楽しそうに記念撮影をしていた。※関連記事(3)⇒リンクそして最後の下の画像は、石鎚山に次ぐ西日本第二の高峰「剣山(つるぎさん)」から望む「次郎笈(じろうぎゅう・標高1,929m)」を撮影したものである。別名を「太郎笈(たろうぎゅう)」と呼ばれる「剣山」は、南西側の「次郎笈」と対峙する関係にあって、この二峰は太郎・次郎の兄弟峰とされている。
2015年05月16日

5月4日の早朝、四国最南端となる足摺岬の縄文系巨石群として聞こえた「唐人石」に到着。昨夜の雨は上がり、濃霧の幻想的な巨石群に踏み入るのは、今回で4度目となろうか・・・。※関連記事⇒リンク今回の散策で特に印象深かったのは、その巨石群の最上部にある磐座に両手を触れた時に、自身の心に「だいおうい ほうかん」と浮かんだこと・・・。上の画像は、その黒潮渦巻く大海に向かって突き出た烏帽子のような磐座を映したものだ。その聴こえてきた言霊を漢字に置き換えると「大皇位 奉冠」となることも、瞬時に認識することができたのは不思議だった。そして面白かったのは、その「浮かび」を私に強く印象付けるがごとく、唐人駄馬遺跡から南方にあって、足摺半島の西の岬・臼碆(うすばえ)海岸に向かう道中で出会った雄鶏がいた。その私を映せと言わんばかりの雄鶏を撮影したものが上の画像で、その赤く立派な鶏冠(トサカ)を見たとき、あの巨石群の最上部にあった磐座と重なって観えてきて、思わず唸ったのを憶えている。それにしても・・・心中に浮かんできた「だいおうい ほうかん(大皇位 奉冠)」とは、果たして如何なる意味合いなのだろうか・・・興味津々である。さて上の画像は、日本列島で黒潮の本流が一番最初にぶつかる唯一の海岸とされる「臼碆(うすばえ)海岸」の方面を、少し遠方の高台より撮影したものだ。その臼碆海岸に鎮座する龍宮神社より、さらに岸壁に近づいたところを撮影した画像が上である。ちなみに、画像の遠方に見える陸地は、九州の大隅半島である。最後に、この上下の画像は、足摺岬より少し西方にある「竜串海岸」の奇岩群を撮影したものだ。この大きな竹筒のような細長い岩の背を大人が跨ぐと、まるで龍神の背中に乗った神人のように観えてくる。午前中を足摺岬の近辺で遊び、その足で「室戸岬」方面へ・・・。今回の旅路も、なかなかの移動距離である。
2015年05月13日

5月に入ってからのゴールデン・ウィークは、四国から淡路島を行脚することに・・・。まず2日に「瀬戸内しまなみ海道」を経由して四国に渡り、西条市で一泊して翌3日に登拝予定の「石鎚山(標高1,982m)」への登山に備えた。 西日本最高峰の石鎚山登山は、私にとって今回が初めてとなる。上の画像は、ロープウェイで登った標高約1,300mにある展望台から、登拝前にワクワクしながら撮影した山並みだ。そしてリフトを乗り継ぎ、標高約1,450mに鎮座する石鎚神社 中宮成就社の遥拝殿を映したものが次の画像である。当日の天気は夕方から雨模様の予報だったが、当社参拝時の午前10時頃から雲行きが怪しくなっていた。この画像の路程図のように、左端の成就社から始まる山道は、一旦下ってから登るという珍しいコースになっていたが、空気の薄い高山地帯で呼吸を整えるには、ほど良い道程と思われた。上の画像のように、7合目辺りから連なる山肌を展望すると谷間等に雪が残っており、その後の道中にも残雪を踏みしめて湿地帯を渡る場面があり、高山地帯の醍醐味を実感することができた。いよいよ小雨のぱらつき始めた9合目辺りで、広い範囲の残雪を撮影した画像が上だ。ところで、四国には今まで何度か訪れているが、特に急峻な山々が多いという印象がある。この石鎚山も山頂に近づけば近づくほどに、断崖に沿う山道の傾きが厳しくなり、四国を縦断する「中央構造線」の造山運動の凄まじさを、身を持って体感したところである。そして最後の画像は、石鎚山(弥山)の山頂に鎮座する頂上社の裏手にある祠を撮影したものだ。その山頂部は濃霧のため、残念ながら景色は拝めなかったが、もし前日のように快晴で暑かった場合に、果たして山頂まで登れたかどうかは定かではなく、逆に肌寒い悪天候が幸いして登拝が実現したと感じたところである。実は「石鎚山」は、弥山、天狗岳、南尖鋒を合わせた山体の総称とのことで、上記の石鎚神社の頂上社は、弥山(標高1974m)の山頂部に鎮座しているとのこと。つまり、標高1,982mの西日本最高峰の石鎚山とは、この「弥山」より約200mほど離れた「天狗岳」なのだが、そこまでの道中はかなりの断崖絶壁であり、また濃霧による視界不良ということもあって、今回は断念することにした。さて本降りになった雨に濡れながら下山を急ぎ、ロープウェイ駐車場の近くにある温泉に入り体を温めて、四国の西方は宇和島方面に向かう高速を経由、その後は四万十川沿いに車を南方に走らせ、宿泊地だった同川の河口を目指した。
2015年05月12日
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