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今年もブログ納めになりました。 本年も当ブログにお越しくださったみなさん、ありがとうございました。 途中に中断もありましたが、なんとか960日近く続けることができました。 来年もよろしくお願いいたします。
2007年12月31日
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朝ズバッ!」で嘲笑…みのさん提訴 「事件と関係あるような発言」も タレントのみのもんたさん(63)とTBSが、情報番組「みのもんたの朝ズバッ!」での発言や取材方法などをめぐり、都内の男性から1100万円の損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こされていたことが29日、分かった。事件現場からの生中継に居合わせた男性は、みのさんの発言によって「周囲に事件と関係あるような印象を与えられ、名誉を傷つけられた」と主張。原告側は「発言に影響力のある人だからこそ、軽率な発言は慎んでほしい」と訴えている。-------------------------------------------------------------------------------- Yahooニュースより。 しかし懲りないねTBS!!「そのうちくるな」と思いつつ朝見ていましたが、見事的中でしたね。 TBSは確かオウム事件のときにさんざん批判されて、当時のアナウンサーが涙ながらに謝罪したり、筑紫哲也がニュース降板を放送中に訴えてまわりにとめられるというドタバタを演じて笑われてもらった記憶があります。 それからワイドショーがなくなったりしてかなり変わったのですが、さすが視聴率を取れないのか今ではしっかり復活し、しかもこんな訴えまで起こされています。 まぁ、よっぽど視聴率が取れないので、みのもんたに頼りたい気持ちもわかりますが、このような訴えは前にもあったしこれからも続くのでしょうね。 TBSといえば看板番組がなくなると「水戸黄門」か「金八先生」か「わたる世間は鬼ばかり」に頼るパターンにはもうなれましたがね。それぐらいにしといて欲しいもんです。
2007年12月30日
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その中村屋のカレー、私は今回始めて食べました。うん、うわさに聞いていたように美味しいですね。味がちょっと酸っぱく独特の感じがしました。 ちょっとルーのかけ方が下手で、写真の見た目が汚くなってしまいしまたが美味しいです。「骨付き肉」のビーフカレーも特長ですね。 この中村屋は本当に目の前はよく通るのになかなかたどり着けませんでしたがやっ今回入店しました。いつもコストの関係で店頭で悩んだすえ近くの吉野家に駆け込んでいました。 本当にたまにですが、1400円ほどするカレーもいいものです。次の日は駅そばのカレー(400円)になっていましたが。
2007年12月30日
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新宿に「中村屋」というカレーやお菓子で有名なお店があります。中村屋は相馬愛蔵という人が営んでいたお店が大きくなったもので、新宿がまだ今のように大きな町になる前からありました。 この中村屋、やはり「カレーライスのお店」として認知されることが多いようです。ここのカレーはかつてインドがイギリスの植民地から独立しようとしていたとき、日本に亡命していたインド人の独立運動家を中村屋の相馬氏がかくまったことからはじまります。 当時、日本はイギリスと同盟を結んでいたのでおおっぴろげに歩けなかったようです。そこで、彼は、当時まだ美味しくなかったカレーを本場の味に改良、さらに日本人向けにアレンジして大好評を得て今に至っています。 上の写真は戦前のホール係が着ていた制服、インド調ですね。 そんな中村屋のカレー、今でも結構値がしますが、このたび食べてみました。次回は久々にカレーの画像を!!
2007年12月29日
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私、今日で今年の会社業務が終りました。他の方は明日まで!皆さんがんばってください!!などと心にも思わないことをいいつつ、何して帰ろうか思っていたら直帰してしまっていました。寒いからね・・・・・
2007年12月28日
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上が今から700年ほど前の三嶋大社の様子です。 一遍上人が三島を訪れて大社の中でみんなにを集めて説法をしています。それを真剣に聞く人たちであふれています。 当時の三嶋大社は例の3つの建物が並んで建ってはいるのですが、それが全て繋がっていたことがわかります。右側が拝殿、一遍さんがいるところが幣殿、奥が御殿です。もちろん建物自体が全く違い桧皮葺で朱塗りのいかにも神社らしい形状だったことがわかります。 私は大社を訪れたとき、この絵を思い出し、全く違ってしまった現在の状況から一遍さんがいた当時を必死に想像していました。
2007年12月27日
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三嶋大社の池を渡ると、いかにも神社建築といった建物が縦に並んで立っています。前から拝殿、幣殿、御殿という具合ですね。ここでは珍しく「神殿」のことを「御殿」と読んでいるようです。 この建物群はとても立派なもので、重要文化財指定されていますが、実は江戸時代もほとんど明治に近い時代に造られたものでした。大きな地震で倒壊してしまい建て直したものです。ただ、彫刻群はとても立派で一見の価値があります。 この神様のいる「御殿」も先に出した一遍上人絵伝には描かれています。絵巻物は鎌倉期のものなので、ずっと前の三嶋大社の姿なわけですが、次回はそれを見てみたいと思います。
2007年12月26日
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今日、ちょっと駅の近くまで行ってきたのですが、クリスマスやら正月料理やら歳末に便乗する商売する店はごった返していましたね。 ほんとに不景気なんだろうか?私の住む町は低額所得者が多い下町ですが、この活気だと都心はもっとなんではないでしょうか? 不景気というより「今までが良すぎたのでは???」とふと思ったりしました。
2007年12月25日
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先に掲載した三嶋大社の「神池」は昔からあったと書きましたが、その様子が鎌倉時代に書かれた「一遍上人絵伝」の中に描かれています。 一遍さんは全国を行脚して「時宗」という宗教を広めたことで有名ですが、それを描いた絵巻物がとても有名で、私のブログでも何度か使わせていただいています。 上の絵が三嶋大社「神池」の700年ほど前の姿です。今は神殿に向かう橋は1つですが、当時は2つあったことがわかります。もちろん形状も今のものとは違いますし、池の形もおそらく違っているでしょう。参拝している人などなおさら違いますね。 私の友人はこの池で「魚釣りでもすっか」といっていたので、私がキツク叱っておきました。 ただ、何百年前の姿が今に残っていることは形変われどすごいことですね。
2007年12月24日
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三嶋大社に入るとまずあるのが社殿前に広がる池です。 このように寺社、とりわけ神社にはよく前に池があってそこを渡って社内に入るパターンが多いですね。これには必ずといっていいほど「いわれ」があるんですが、ここの池にもいわれがあります。 ここは「神池」という池で雨乞いしたら枯れた池が戻ったと平安時代の書物に書かれていたり、源頼朝も訪れたりしています。ということはこの池は千年以上前から在ったことになります。実際この池が書かれた絵が残っていますので、次回はそれをご覧ください。
2007年12月24日
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昨日始めてみた甥にあたる赤ちゃんを今日始めて「まじまじと」みてみました。 やはりかわいいもんです。
2007年12月23日
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先日(といっても相当前だが)、奄太郎はある神社を訪問していました。ここは静岡県の三嶋大社です。ちょうど巫女さんが通りがかったので撮ってみました。 ちょうど都から関東に下ってくると立ちはだかるのが足柄の山(箱根山)。その手前はかなり昔から宿場として町の機能がありそれがいまの三島市、その中心にあるのが三嶋大社です。新幹線に乗り小田原を過ぎて箱根をくぐって三島に出ると「なんか文化が違うな」と感じますが、新幹線もない昔ならなおさらのことでしょう。 このような実情から、相当創建は古く古代からありました。今回は、この神社について少し見てみたいと思います。
2007年12月23日
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発熱がやっと収まってきました。ただ、発熱後の倦怠感は未だおさまらず・・・・・辛いですが明日は会社、なんとか治めなければ。
2007年12月23日
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カゼ引いてしまいました。どうりで寒いはずです。ただいま38度。 明日までに治るよう励んでいます。
2007年12月22日
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今日の天気は想像していたとはいえなんだんね・・・この寒さ。 1月~2月ごろの気温が一番嫌いな私としてはたまらん季節になりました。「ホワイトクリスマス」なんて北欧じゃないんだからどうでもいい。とにかく気温が一度でも高いことがなによりの喜びとなる奄太郎です。 奄美なんか暖かいんだろうな~
2007年12月22日
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現在の永福寺は、建物はおろか前の池も跡形もなくなっています。 上の写真は復元図の裏の山の上から見た永福寺の全景。このススキの野原にお寺はありました。山に囲まれた中にあり大伽藍だったことがわかります。 現在、永福寺の復元計画があるようですが、こう見ると遅々として進んでいないようです。このススキに覆われた野原の中に、前の池にあったと思われる島の跡がかすかに残っています。この池だけでも復元したらいい観光地になるんですがね。 鎌倉観光に訪れた人もみんなここを通り過ぎています。
2007年12月22日
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鎌倉といえば八幡宮に行かない人はいないくらい有名ですし、今でもたくさんの寺社がありますが、昔はすごく繁栄していても今では無くなってしまったものもあります。 そんな代表格なのが「永福寺」というお寺です、「ようふくじ」とよびます。今の鎌倉宮の奥の山あいにありました。 このお寺は源頼朝が平泉にあったお寺をまねて鎌倉に創ったもので、発掘調査が進み、上のような全貌がわかっています。金堂という中心のお堂の周りを回廊が囲み、釣殿があったり、堂の前に大きな池があるあたりは平安時代の貴族の住む寝殿造の影響が残っています。 この美しい寺は室町時代にも存続していたようですが、いつしか廃絶してしまいました。このお寺の跡に行ってきました。今ではどうなっているのでしょうか?
2007年12月21日
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こちら、伊豆の名焼肉店「丑はる」のマスター原さんご夫妻。 修善寺でお店に立ち寄られてた方を暖かく出迎えてくれます。マスターは前述の通り「自称阪神タイガースファン」ですが、「野球好き」。阪神はもとより他球団のファンの方も、サッカーファンも大歓迎とのことです。 また、手が空くとお客さんと一緒に語らうのがこれまた楽しい!都会では下町以外では少なくなった「お客を大事にする姿勢」がとてもわかります。 静岡はもともと温かい場所なので、人は穏やかな人が多いといわれていますが、とりわけ伊豆は温かい場所ですから人も暖かい気がします。 伊豆の小さな焼肉屋は多くの人の大きな憩いの場になっています。
2007年12月21日
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先日、伊豆訪問の折、いつもの修善寺の「丑はる」で食事させていただきました。 修善寺に行く方、修善寺といえば温泉街と旅館、ありきたりのお皿が何枚もでる懐石料理を食べることが多いですが、東京ではなかなかお目にかかれない焼肉をいただいてはいかがでしょうか。 そんな方にお勧めなのが前にも紹介した「丑はる」という焼肉屋さんです。見てください、この焼き具合、これが東京に比べると格段に安く食べることができます。 とりわけ個人的にオススメなのが、ホルモンと豚トロでしょう。もちろん他のメニューも絶品です。しかも、不思議なことに個人的なことですが、ここの焼肉、私の個人的な体験なんですが食べでも太らないんです。 やはり良質なお肉を使うと太らないんでしょうか?ちなみにここのオーナーは阪神ファン、阪神タイガースファンの方、大歓迎です。もちろん他球団もOK(大の千葉ロッテファンの方もよく出入りしているようです。この前はジョニー黒木引退報道に涙を流しながら飲んでいたようです) お店にはたくさんのキープボトル、多くのお客さんに親しまれている証拠です。
2007年12月21日
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ただ今、妹出産につき、3歳の甥が家で寝泊りしているのですが、相手をするのが大変です。子供は好きなのですが長時間となるとまさに「仕事」ですね。 子育ての難しさと厳しさを学んでおります。
2007年12月20日
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先日、鎌倉に行った折、何を食べようか思案していたところ、鎌倉駅の海側(八幡宮の反対)に小さなカレー屋を発見、早速入ってみました。名前は「ゆうゆう庵」。 「黒船カレー」というものを見つけて注文、出てきたのがこちら。イカ墨で黒くしてあるみたいでご飯が山盛り(これで普通盛)。 食べてみると姿に似合わぬ食べやすさ。たった数分で完食してしまいました。 鎌倉散策に食べるにはかなりいいところ、お越しの際はぜひどうぞ。
2007年12月20日
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昨日の寒さの影響があってか、今日は体が動きません・・・・・最近めっきり冷え込んだ朝はたまらなく憂鬱です。 今から言うのもヘンですが、早く春になることを待つばかり。
2007年12月20日
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今まで語らせていただいたようにヤクルトスワローズは時代と共に大きく変わって今日に至っています。パリーグならまだしもセリーグでここまで波乱万丈な球団もないのでしょうか。 元は完全な企業チーム、最下位争いを毎年演じる、えらい球投げる投手が出てくる、30年近くたってやっと優勝する、再度最下位争いを演じるも再び優勝から「常勝チーム」になる。本拠地を明確にしようと「東京ヤクルト」になる。そして「強い」時代が今終ったところです。 最後に古田監督が目指した「東京ヤクルト」のチーム名変更と「ヤクルトタウン」の創設は、おそらく今後も何かしら動きがあることでしょう。 ただ、このスワローズというチームの魅力は、ほとんど「自前の選手」で戦って今日に至っていることです。また、セリーグにしてはファンと選手の間が近くアットホームな雰囲気が未だに漂っています。 このスワローズを創ったのは、国鉄の職員さんであり、選手であり、サンケイからヤクルトにいたっては、多くの「ニッチな」ファン達でした。 私の知る限り、武上監督が亡くなり、大杉勝男が亡くなり、岡田さんが亡くなり、船田コーチが亡くなり、スワローズを支えた多くの人が他界しました。しかし、スワローズの精神は国鉄も知らない若い子供達に、これからも引き継がれていくことでしょう。 おわり
2007年12月19日
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先日散歩した神宮球場は、今までと変わらなく佇んでいました。試合のある日のような人はおらず私を含め数人しか歩いていません。 一塁側にあるスワローズクラブハウスもダンボールが重ねてあって人の出入りは全くなし。ただ、マスコミ記者用と思われるテントが張ってあり数人の記者が暇そうにしているだけでした。 外から見ると今までと変わらないのですが、中は大きく変わります。バックスクリーンが大改修されるらしく、足場が組まれ全て覆われて工事されています。以前の白黒バックスクリーン、更にはそれ以前の人が動かす掲示板から大きく変わっていきますね。 また外野も広くなるらしくおそらく工事をしているのではないでしょうか。とにかく来シーズンの球場は大きく変わるんでしょうね。 つづく
2007年12月19日
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ついに赤ちゃんが産まれました。妹の。かなり大きかったようです。男と判っていたのですでに命名されているようです。 親と甥はすでに病院に行っております。私は明日が早いためルスバンしてます。私には甥が増えたわけで見るのが楽しみです。
2007年12月18日
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監督人事を行ったスワローズは新監督に日本ハムGMの高田繁を招請、監督に就任しました。高田監督は久しぶりのセントラルリーグではないでしょうか? しかし、投打の軸の選手や助っ人が離脱してしまい、戦力補強をどう行っていくのかが課題です。また、古田監督時代、監督の人気があってか神宮球場に広告をだしていた企業が相次いで撤退するなど不安感は否めません。 若手の成長株選手がいるのですが、おそらくお約束の「今期のペナントレース予想」でヤクルトを上位に上げる野球解説者はほとんどいないでしょう。 しかし、これはスワローズが今まで歩んできた軌跡と全く一緒。いつかは花が咲くときが必ず来るでしょう。 この連載を勝手に書くに当たって奄太郎は神宮球場をひさしぶりに訪れてみました。 つづく
2007年12月18日
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古田兼任監督のファイナルとなる神宮球場には前日以前にチケットが完売し立ち見客まで出ていました。最下位の球団の消化試合なんですが異様な感じですね。当日は古田と共に戦った楽天コーチの池山や関係者も多く来ていたそうです。 球場で配られた「27」の紙には本人の直筆メッセージが添えられ(古田は書道の有段者で達筆で有名)全員が広げていました。 ヤクルトが大きく変わる原動力になった選手がひとり去ることに号泣する人も多く、私は新聞でしか見てませんが改めて一つの時代の終わりを感じました。 つづく
2007年12月18日
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主力選手の放出やケガにシーズン中から泣かされた2007年のヤクルトは、後半戦、広島カープとの大激戦の末最下位に転落します。 シーズン中に「古田引退」が球団側からマスコミにリークされるという、近年みられるヤクルト球団「お約束」の選手軽視の態度も災いしたのでしょう。 シーズン中に古田兼任監督は明治記念館で選手引退、そして監督辞任の記者会見を行いました。涙ながらの会見は新聞やテレビでも大きく報道されました。最下位争いをする監督はスッといなくなるのが常ですが、古田人気を物語っているといえます。 そして、前述しましたように阪神、広島、横浜と各球団の相手方のファンからも大きな「古田コール」を受けて引退しました。 翌日には高津の一方的戦力外通告、球団社長がファンに詫びるなんてこともありました。 古田監督引退はスワローズの一つの時代が終わったことを意味するといえます。常にAクラス時代しかしらないファンにはスワローズの最下位はショックだったのではないでしょうか。(私は元に戻った気がします) つづく
2007年12月18日
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今日、オリックスの大西選手がベイスターズへトレードされることが決まったそうです。平野に続き、走れる選手が出て行くとは・・・・ 今年、大阪ドームに行ったとき、心斎橋からドーム前まで地下鉄で行ったのですが、大西のオリックス宣伝ポスターがたくさん貼ってあり「若いしこれからの青波(オリックス)の顔になるな~」なんて思ってたので驚きました。 変わりに古木選手が来るということで、濱中といい日本ハムから来た木元といい、えらい重量打線になってしまいますな。いいのか悪いのか、結果は来年ですが。
2007年12月17日
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2006年はペナントが始まる前から野村監督以来の兼任監督としてマスコミに脚光を浴びるなか、古田兼任監督は精力的にチームを統率していきました。 とりわけ若松監督時代から続いていた若手の育成には重点的に取り組んだのではないでしょうか?自らミットで球を受け、自ら打席に入って投手の球筋を見る姿は、今でもさまざまな写真から見ることができます。 この年は、スワローズの優勝時代以降にスワローズに入団した選手の底上げをしながら、なんとかAクラスをキープしました。しかし岩村のメジャー移籍など主力選手の離脱も手伝って翌年はかなり先のみえないスタートになりました。 つづく
2007年12月17日
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若松監督は2005年に勇退、終わってみれば「3年監督が出来るか」といわれていたものの7年も監督をしていました。 そして、若松監督から古田監督へ政権移譲がなされます。これはヤクルト球団史の中では「生え抜き監督同士の始めての交代」でした。それほど外様の監督が多いチームだったんですすね。球団やファンにとっては悲願の出来事でした。 ただ、古田監督は現役を続行しての監督なので「プレーイングマネージャー」と、今ではなくなりつつある言葉が復活して使われるようになります。 大きな期待を受けた「古田ヤクルト」はどうなっていくのでしょう。 つづく
2007年12月17日
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球界再編問題が落ち着いた後、東奔西走していた古田は、2000本安打を達成します。捕手は守備でのウェイトが高いので打撃成績はあまり高くないことが多いので、2000本はすごいこと。例の名球界に入ることになります。 ミスター名球界ことカネヤンは地方球場で達成した古田に名球界ブレザーを手渡すべく神宮球場に訪れました。 カネヤンは国鉄スワローズが消滅してからは、巨人OBやロッテOBとして振舞うことはあってもスワローズに関しては、ほとんど「無関係状態」を貫いていました。国鉄が無くなった時点で「自分のふる里はなくなった」という思いだったのでしょう。 しかし、この時、スワローズ本拠地に公式に訪れたのは実に40年ぶり。上の写真はまさに国鉄スワローズのヒーローとヤクルトスワローズのヒーローが並んでいるもので、国鉄時代を知るオールドファンには涙物でしょう。 この年をもって若松監督が辞任、ついに古田自身が監督に就任します。 つづく
2007年12月17日
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いつも休んではかりいるような私ですが、今日は正真正銘のオフ(そのかわり正月前後が忙しい)なので、史跡めぐりにでも行こうと思ったらエライ風が・・・・・ これは家にいるほうが正解です。寒さだけだったらまだしも風がある日は特にキビシイですね。所用を済ませて帰って寝てました。 東京より大変な地域はいくらでもあるんですが、やはり冬は辛いもです。
2007年12月16日
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女子高校生は1日2時間=携帯電話でネットやメール-内閣府調査 携帯電話でインターネットの情報サイトを見たり、メールを作成したりと、通話以外に携帯電話を使う時間が最も長いのは女子高校生で、1日平均2時間4分に達する-。内閣府が16日付で発表した「情報化社会と青少年に関する意識調査」の詳細な分析結果で、こうした実態が初めて分かった。 調査は10~30歳の青少年男女5000人と保護者2000人を対象に今年3月実施。回収率はそれぞれ49.4%、57.3%。----------------------------------------------------------YAHOOニュースより 私が言う分際でないですが、若年化するほど長くなるのでしょうか?。確かにネットがないとビジネスも不自由する時代になりましたが、楽になった分、その後に苦しいことが起こったり失ったりするものがあるような気がします。 ネットも知っている人とするならまだいいですが、2時間パソコンと向かい合うことになるとその分人と向かい合う時間は減るわけですから、それが凶と出ることもこれから多発する気がします。
2007年12月16日
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スワローズがAクラスの常連を続けていた2004年、例の「球団合併騒動」が起こります。 私は、このとき体を壊していて入院中でした。6月頃、テレビでパリーグのオリックス、近鉄合併の報道がなされ食事の箸がとまって3分くらい硬直したのを覚えています。看護婦さん(今は看護士さん)に「奄太郎さん体調悪いんですか?」と3人くらいに声をかけられたのを覚えていますから、よほど顔に出ていたのでしょう。 ここからマスコミはこの騒動を拡散し、アホな老人オーナーの暴言とやらで全国を巻き込んで混乱していきます。 たまたまこのときプロ野球選手会長をしていた古田はご承知の通り全選手の矢面に立ち経営者側と交渉を続けていきます。上は有名な経営者代表千葉ロッテ瀬戸山代表との握手拒否をする古田。 午前は粘り強い交渉、試合では活躍と「戦う選手会長」に同意したファンは多く、チームを超えて各球団が署名活動を開始、ヤクルトでも若松監督自ら署名していました。「僕が書く立場じゃないんだけど選手やファンの方の気持ちを考えたらね・・・・・」 次第に広島カープのようにオーナー自ら合併に待ったをかける声も出始め、結局ストライキに入ったときの涙ながらにファンに詫びる古田に多くのファンが共感、合併は了承するも新球団設立で12球団制は維持されました。 つづく
2007年12月16日
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近鉄との日本シリーズいに突入したスワローズは、激戦のうえ近鉄を制し、日本一を成し遂げました。 戦力は野村政権時と大きく入れ替わっていましたが、神宮球場での日本一達成に多くのスワローズファンはうれしさに酔いしれました。 上の新聞記事のように、優勝が決まった瞬間の胴上げ時に、勢いあまって回転してしまったのは若松監督くらいでしょう。動画はこちらを。 この後もスワローズは優勝はならずともAクラス入りを連続させ「強いスワローズ」は続いていきます。 つづく
2007年12月16日
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若松監督になってからBクラス(といっての4位)が続いていましたが、ついに2001年、野村政権以来の優勝を成し遂げます。 この時もとりいって大きな補強はなし、選手が堅実に守って、攻撃ではとにかくつないで自分の役割をこなしての優勝でした。東京や大阪とか、どこかの人気チームにみならってもらいたいもんです。 若松監督は身長170センチない「小さな大打者」胴上げも普通にやると広岡監督よりも野村監督よりもこんなに浮き上がってしまいます。 「ファンの皆様、あの、あの、おめでとうございます!」という「名言」を生み出したことでもお馴染みです。確か流行語大賞かなんかはいんなかったっけかな?うる覚えです・・・・ 当時パリーグの優勝チームは近鉄バファローズ、悲願の日本一を目標にしているチームだけあってシリーズも見ものになりました。 つづく
2007年12月15日
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野村監督勇退の後、監督に就任したのが、若松勉監督でした。 三原監督、中西コーチとかつての西鉄ライオンズの面々に指導された若松は今で言うイチローのようなバッティングで快打を連発、首位打者2回とスワローズの主力選手として40過ぎまで活躍しました。晩年、代打若松が告げられると神宮は大騒ぎになるくらいの人気で、野村監督も後任が若松監督になると「生え抜きはいいわな」とお約束のボヤキを飛ばしていたとか。 しかし、若松監督はまじめな性格ゆえかえらい緊張して不安いっぱいだったと述懐しています。引退会見をするとき家族を取り上げ「大泣き」した生真面目さは若松監督を象徴するものでファンはよく知っていましたが、あの「名将」野村監督の後任というのも大きなプレッシャーだったでしょう。 ヤクルトはどうなるのか?? つづく
2007年12月15日
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野村監督時代、優勝から日本一へ、更には95年、97年と優勝するという成績で、連覇はならなかったものの、確実に「強いヤクルト」が出来上がっていました。 どこかの球団の様にFAで選手を集めたわけでなく、大金を払って助っ人を呼んだわけでなく、この時期を支えていたのは自由契約になったり、他球団から戦力外を言われたり、すでに峠を越えた年齢の選手たちでした。いわゆる「野村再生工場」というやつです。 特別選手がすばらしいというより、打線が綺麗につながって少ないチャンスをものにして1点で勝つ試合を体現していた気がします。 重ねて言うようですが、FAで選手集めて強くなったんじゃないんですよ。ヤクルトは。 しかし、98年、4位に転落し、野村監督は勇退しました。そして、三顧の礼で阪神タイガースに迎えられ、やらなきゃいいのに監督になるわけですが、これでヤクルトの一つの時代が終わったと思った人は多かったと思います。 しかし、スワローズは終わらなかった・・・・・・ つづく
2007年12月14日
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日本一を目標にはじまった93年のペナントレース、ついにセリーグを制したヤクルトは日本シリーズで西武ライオンズを倒し日本一になりました。 スワローズのまさに絶頂期の始まりでした。「ノムさんを囲む面々」としてマスコミへの露出度は異様に高まり、CMなんかにも出てましたね。古田、池山、広沢の人気三人組はCDまで出す始末、「悪ノリ」という感じがしなくもない状態でした。 翌年、古田の故障などもありBクラス落ちしますが、この後はAクラスの常連、まさに1990年代は「スワローズの黄金期」となっていきます。 つづく
2007年12月14日
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久しぶりの日本シリーズを戦ったヤクルトですが、相手はパリーグで今の栄華を極める西武ライオンズでした。 ご承知の方も多いように、西武ライオンズの森監督はかつてヤクルト優勝時のヘッドコーチ、しかもセリーグを代表する捕手、一方スワローズの野村監督の現役最後の所属球団は西武ライオンズ、しかもパリーグを代表する捕手と、お互いが入れ替わっての戦いにマスコミの注目も集まりました。 ヤクルトスワローズはこのシリーズで大接戦を演じ、4勝3敗で日本一にはなることはできませんでした。上の写真は相次ぐ西武の攻勢に立ち尽くす捕手古田。 この後、リーグ優勝すら出来なかったスワローズは日本一を目指すチームへと更に変貌していきます。 つづく
2007年12月14日
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そして、ついに1992年のペナンとレース、ヤクルトスワローズは優勝を成し遂げます。ここ数年、最下位に低迷していた阪神タイガースとの優勝争いをしており、圧倒的な数が集まっている阪神甲子園球場での優勝でした。 当時、球場に集まったヤクルトファンはレフトスタンド上方に陣取って優勝を見届けました。 広岡監督時代から14年たっていました。 私はテレビでこの中継を見ていましたが、感慨無量でした。 つづく
2007年12月14日
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この頃(1991年ころ)から少しずつチームやそれを取り巻くファンが変わり始めました。 今まで読売ジャイアンツにはめっぽう弱く「巨人のお得意様」とまでいわれていたチームがたとえ3連敗しても全て接戦で手に汗にぎる試合を展開したり、あまりセリーグでみられないフェイントをついた試合をするようになりました。 それと同時にファンの層がガラリと変わり、女性ファンが異様に増え始めました。今まではオヤジファンが中心だったのですが。私の周りでも「神宮球場に行きたい」と言い出す女の子がいました。今まで目もくれなかったのですが・・・・「ヤクルトが好き」と言ってバカにされなくなったのもこの頃でしたね。 上は91年の古田敦也。まさにヤクルトが上昇気流に乗ったようにわかり始めたころです。 つづく
2007年12月13日
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最近、若くして亡くなられたお相撲さんのことでマスコミが騒いでいます。稽古の中身が問題だとか。今回はこのことについての持論を。 先に断らせていただきたいのは、私は相撲を殆ど知りません。また、亡くなられたお相撲さんには残念でなりません。 しかし、最近スポーツ自体が「かわいがり」でなく「甘やかし」になっているのではないでしょうか?昔の練習なり稽古は今のようなスポーツ医学も発達していないわけですから、血ヘドを吐くくらいの練習をしたのではないでしょうか。中にはお亡くなりになる方もいたのではと思います。 効率よく練習することは大事ですが、「死に至らない」ことを中心に考えたらプロスポーツは面白くなくなります。みんな命がけでやってるから面白いのです。永くやっているプロ選手は職業業の1つや2つはもっているでしょう。それにより寿命を縮めることだってあるでしょう。 私事ですが、私も病気で命がかかってしまったときがあります。それ以来「死はすぐそこにあるもの」という理念があり、いつ死んでも覚悟が出来てしまいました。もちろん生きる努力をしての覚悟ですが。 今回のニュースを見ていると、戦後生まれが増えて、寿命が延びて、お気楽社会で生きる人が増えていることが垣間みえる気がします。
2007年12月12日
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ヤクルト監督に就任した野村監督は、まず正捕手作りからはじめることになりました。 当時、スワローズの正捕手は秦が勤めていましたが、ボールを捕球する時にミットを下げるクセがあったそうです。このクセがあるとワンバウンドの捕球に対応できない。そこで、野村監督は打撃のいい秦を正捕手から野手にコンバート、更に捕手の飯田を外野へコンバートし、新入団した古田を正捕手にします。 野村監督いわく、古田は異常ともいえるくらい肩が強かったそうでチームでも抜きん出ていたそうです。そこで「8番キャッチャーのレギュラーにする。打つのは2割5分でいいから後は捕手の勉強をしろ」と指示。いつも自分の近くに置き、細かいことまで勉強する環境を作っていきました。 これも野村監督いわく「古田という人間は自信家、いや過信家といってもいいほどやや自己中心的な性格をしているが、ことリードという点では探究心、向上心があった。そして何より野球に対する感性がよく頭脳明晰である。」 教えることはいっぱいあったとのころで、古田や若手の技術向上とベテランの活躍でスワローズは徐々に栄光期に向かっていくことになります。 つづく
2007年12月12日
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野村監督が就任した後のドラフトは今でも語り草になってる(89年ドラフト)というやつで、野茂英雄をはじめロッテ小宮山、横浜佐々木、広島佐々岡、西武潮崎など後の球界を支える選手がたくさん出た「あたり年」でしたが、その時、ヤクルトにドラフト1位で入団した西村の後、2位で入団したのがトヨタ自動車で野球をしていた古田敦也でした。 上は野村監督を囲む当時の新人選手達、監督の右のメガネかけているのが古田ですね。その前からプロチームに入団する可能性もあったのですが、1年だけですが社会人を経てからの入団ですから、かなり遅かったわけですね。 野球有名高校、大学出身の選手が多い中で、無名の高校出身の古田がこの後球界に多大な影響を与える選手になるとは、おそらく誰も想像できなかったのではないでしょうか。 つづく
2007年12月12日
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採用市場激化、新卒採用年間コストは1322万円 ソフトバンク・ヒューマンキャピタルが運営する転職サイト「イーキャリアプラス」は、採用担当者への採用活動の実態調査を実施した。 発表された資料によると、採用にかかる年間の平均コストは、新卒では1,322万円、第2新卒では882万円、中途採用では1,094万円。過去1年と比較した年間採用コストの増加については、コスト全体の平均が「増えた」と感じている採用担当者は24.0%で、「減った」は8.7%にとどまっている。また、「大きく増えた」「増えた」の割合が最も多いのは、中途採用で合計で29.6%に達している。 職種別・年次別の平均給与提示額で最も多いのは、「大卒5年目・営業職」の「300万円~400万円未満」で22.1%、続いて「大卒5年目・営業職」の「400万円~500万円未満」が20.1%と続いた。また、年収1千万円以上の提示が最も多いのは「大卒10年目・クリエイティブ職」で「1千万円~1千200万円未満」が0.9%となった。 また、中途採用についてのデータを見ると、応募者1人あたりの選考期間としては、「1か月未満」が52.7%と最も多く、「1か月程度」の27.7%とあわせると、約8割が1か月を目安に採用を決定していることがわかる。採用担当者1人あたりの年間面談人数は「10~30人未満」22.4%、「6~10人未満」18.3%、「30~50人未満」14.0%となっており、300人以上と面接する担当者も4.4%いる。また、中途採用者の募集方法としては「ハローワークの利用」が58.4%で最も多く、「自社のホームページでの募集」は54.4%で2位。以下、「転職サイトの利用」40.2%、「人材紹介会社の利用」は36.7%となった。---------------------------------------------------------Yahooニュースより 経営者も採用担当者も頭痛いですね。高齢化が進む中若い社員の囲い込みに必死になっているわけですね。 でも最近思うんですが、ムリに若い人間雇用する必要もないのではないかな?と思ったりとします。出来の悪い若い人間採用するなら、人生経験の豊富が中高年を採用するもの大きな手だと思うんですがね。 いや~。採用の仕事かじっているだけあって頭痛いです・・・・・
2007年12月11日
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関根監督の後監督に就任したのがあの野村監督でした。確か私が高校生くらいの時で、野村監督のことは知っていましたが、今ほどプロ野球の歴史を知らない時代、どんな人なんだろう?といった感じでした。 関根監督時代から培われてきた、高い能力を持つ選手が大きく開花するということはまだ考えられなかったですね。 つづく
2007年12月11日
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この年、ヤクルトにはドラフトで「大物ルーキー」が入団します。あの長嶋一茂でした。確か大洋と競合のすえ入団が決まったんでしたね。 この時、マスコミ、ミーハーな女性ファン、熱烈なミスター長嶋信者らからヤクルトがえらく注目されました。滅多にスポーツ紙の一面を飾らない球団でしたがここでの扱いはすごかったですね。 そういえばスワローズには酒井からはじまって荒木、そして長嶋と学生野球のスターが入団した年が数年おきにあって、その時の周りの反応も似たようなもんでしたね。 特に長嶋一茂は未だに「長嶋」でなく「一茂」と普通にいわれるくらいですから、後に本人も入団当時から現役時代はものすごい重圧があったと言っていましたが想像できないくらいなんでしょうね。 ただ、ヤクルトファンはえらく盛り上がっていましたね。 つづく
2007年12月11日
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先日、たまたま家内を掃除していたら、上の写真が出てきました。 これは1987年、今からちょうど20年前の神宮球場で行われたファン感謝デーの写真です。巨人のと違って外野に人は入らず内野のみ開放していました。 並んでいる選手をみると一番手前がベテラン若松、この直後亡くなった船田コーチもいますね。更には杉浦、荒井、広沢、桜井なんていうレギュラー選手も見えます。また、当時は青島健太とか栗山なんていう後にキャスターになる選手もいました。 当時の神宮の外野にフェンスが無いことが、また電光掲示板が白黒なのも写真からわかります。 当時の監督は関根監督、挨拶した後、途中で帰ってしまったボブ・ホーナーが、画面を通して挨拶してましたね。なつかしい時代です。 つづく
2007年12月11日
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