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宅急便はヤマト運輸の登録商標です。さて、アニメ映画「魔女の宅急便」 はどうしてその名称を使えたのでしょうか。 事実確認はともかく、こうした小ネタならウィキペディアを探せば掃いて捨てるほどあります。ウィキペディアの情報を頭から信じるのは大変危険ですが、ブログに書くぐらいなら充分に使えます。 だから「ブログのネタがない」というのはアリエンティ。 つづけられない人に共通する特徴から、その対処法を紹介しています。 そしてもっとも肝心なことは「評論家になるな」 詳しくは本稿へ。■心得其の201「魔女の宅急便とクロネコ。書き続けるための心得 Ver.201」http://web-tan.forum.impressrd.jp/e/2011/01/26/9592
Jan 26, 2011
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テレビの公共性をどうたらこうたら。ネットで言う「マスゴミ」を完全否定できないのはその「自浄能力」のなさです。 分かりやすいところでは自社社員の痴漢やセクハラなどの報道は戒厳令がひかれ必要最小限しか報じず、他社のネタなら嬉々として報じます。 また、自分がフジテレビのアナウンサーであることをちらつかせセクハラ、不倫をしたケースなどは、いまではすっかりなかったことになったようで、地上波に出演している社員がおりますが、「セクハラ、不倫、パワハラ」 と、これが一流商社の事件なら「由々しき問題です」 と小倉智昭さんあたりが、したり顔で苦言を呈するのでしょう。 そして「内容」に関してもそうです。 利益と比較して、べらぼーに安い「電波使用料」しか払っていないテレビ局は限られた電波を独占する担保として「公共性」を謳います。 そこが単純な営利企業と違うのだという言い訳になっているのですが昨日、フジテレビ系列で報じられた「世界おもしろ珍メダルバカデミーUSA」 の番組紹介にはこうあります。「家族そろって笑えるおバカ映像番組決定版!」 番組の終盤に流されたのは、パンツをお尻に食い込ませて、そこにカスタネットをはさみ、ブルーハーツの「リンダ・リンダ」を歌いながら、尻の肉の収縮と解放を繰り返し音をならすというものです。 演奏者は知り丸出しの半裸。 の、どこに「公共性」があるのでしょうか。 だいいち、家族揃っては笑えません。 もともとはネットの動画投稿サイトにあった映像で、それなら問題にはしません。ネット全体には公益性は求められますが、個別のコンテンツは利用者の意思で選択されるもので、そこで超馬鹿、くだらない、下劣、低俗な映像を流したとしても、視聴者の趣味嗜好による選択に過ぎないからです。 テレビもチャンネルを替えれば同じだろう。という意見にはノーです。テレビは野放図に電波に乗せて流されているのではありません。国家管理された電波を独占的に使用する権利を得ており、そこに流して良い「映像」というのは自ずと制限されなければならないと考えるからです。つまり、放送免許という「特権」を得ている以上、社会的責任が生じるということです。 100歩譲って、これがシンデレラが帰宅した「深夜」ならばありかも知れません。この時間帯は「よい子」は寝ているはずですから。 よしんば1億歩ゆずって、番組スタッフや出演者が一丸となって「馬鹿」をやっているなら認めましょう。無駄なことこそ文化という主張に一理ありますし、そうした無駄なら私は大好きです。 そのばあい、子供と見たとしても、こうした馬鹿な映像をとるためにADが体をはって実験し、出演者も交えて何時間も議論をし、受けなければ反省会をするという裏側を語るのも、社会勉強につながることでしょう。 ところがこれは「ネット映像」。それもすでにネット界では著名なお馬鹿映像で、スタッフがしたことといえば、ネットで検索して関係者に使用許諾をとっただけ。 どこに「公共性」があるのでしょうか。 ゴミのような放送を撒き散らかしている以上、「マスゴミ」と罵倒されても反論できません。 そして、ひさかたぶりに本業がらみのネタを。 まぁ「マスゴミ」の相似形が「Web業界」です。 頭に「日本の」といれるべきでしょうね。 双子のようですが、キャリアからみれば「一卵性親子」といったところでしょうか。あるいは「一子相伝」。 Webにはゴミのような情報が散乱しています。 あ、ここで「ゴミじゃない、リサイクルすれば資源だ」というオチを思いついたのですが、あまりにもくだらなすぎるのでここで浪費しておきます。 根拠なく、なんでも騒ぎ立てて本質をスルーします。 公共性などそこにありません。分かりやすく言えば「これからは●●の時代!」 と囃し立てて、それが外れても反省も謝罪もしないどころか言及すらしません。ケツでカスタネットを叩く映像のほうがまだマシです。ケツカスタネットは「コンテンツ」を作りますがWebのゴミ情報とは、流行を無理矢理作ろうとするあまり、脅迫、恫喝、恐喝まがいの発言を繰り返す連中の発言です。 ことしは「Facebook(フェイスブック)」。 フェイスブックとは平たく言えばアメリカ版のミクシィで、世界中に6億人の利用者がいると喧伝されています。 Web担当者Forumの原稿でも書きましたが、このネットサービスを否定するモノではありません。海外向け、とりわけ英語圏の人間と商売をしたいのなら、フェイスブックが果たす役割は大きく期待してもよいでしょう。 しかし、これが「インフラ」になるという主張のくだらなさには鼻水が垂れてしまいます。ブログの時もセカンドライフも最近ではツイッターでも同じことをいわれていたことです。 そして脅迫とは「やらなければ××」、恫喝とは「取り残される」、恐喝とは「今すぐ!」。はっきり言いましょう。 やらんでもOK。やりたければどうぞ。 ここは日本です。グーグルが世界制覇したと喧伝されて久しく時が過ぎても、「ヤフー日本城」を攻めきることができず「万年2位」 だったことをWeb業界人は口にしたがりません。 結局、検索エンジンの提供という「同盟」のような形で、「日本制覇」 となった訳ですが、グーグル礼賛派の多くが、グーグルのテクノロジーや開発者魂、マッドサイエンティスト的な要素を喧伝していたのに、その手法は「大人の取引」でした。そして日本のWEB業界人は口にしませんが、グーグルの世界制覇の大半が「大人の取引」で、純粋にネットサービスの利用者を増やして世界制覇したわけではありません。グーグルのそれはビジネス戦略として見事で賞賛に値します。しかし、その本質に触れずに礼賛を繰り返すのが日本のWEB業界人の言論の特徴です。 いま、フェイスブックを礼賛する連中はその「実名性」を喧伝します。たしかにフェイスブックの規約上は「実名」となっています。 しかし、かつての「ミクシィ」が実名と謳われたことが幻と消えたように、フェイスブックがならないわけがありません・・・というかすでになりつつあります。 偽名や変名、ペンネームで登録している人は数知れず、・・・・と、いうより、Web業界人の少なくない人間が匿名でアカウントを取得していないと信じるほど、私はウブなねんねじゃありません。 かつてのミクシィ。さいきんのツイッター。 どちらも「実名推奨」とされるなかで、数々の著名人が偽名アカウントを取得していたのは公然の秘密です。あるWeb著名人は著書でどうどうと複数のアカウントを取得していることを記しています。 ここからみても「6億人の利用者」が「ふかし」にみえて仕方がありません。 それは、チュニジアやイランなど国情が不安定な国でフェイスブックが政権交代に役だったという声からもです。 まず、他に連絡手段があれば、そちらを採用したことでしょうし、セカンドベストの選択肢としてフェイスブックやツイッターが利用されたと見るべきでしょう。それに、そうした「命がけの政治活動」をするものが、ひとつのアカウントだけを利用するのは現実的ではありません。 本当に実名でひとつのアカウントだけで「つながる」としたら、当局がひとりを拉致してしまえば、あとは芋づる式に逮捕できるからです。命がけの反政府活動をしている方々がそんなマヌケだとしたら、転覆した政府は相当のお人好しです。 そこからみれば利用者数の水増しは世界規模と考えるのがリアルです。 もちろん、これはフェイスブックの責任を問うのではなくネットのリアルをしっていれば、誰もが気づき、そして気づいていてもクチしないところが「マスゴミ」とそっくりなWeb業界という指摘です。 自分たちに都合の良い結論のために「公共性」を弄ぶように「実名性」をもてはやしています。ケツカスタネットに公共性はなく、日本のWEBに実名性は馴染まないのです。 実名性についても少し補足しておきます。 多国籍な移民国家のアメリカと、そこから繋がる経済圏において「自分(アイデンティティ)」を証明するのは生き残るために当然の作業で、ネットにおいてもそれは同じです。そのため「実名」を隠す労力と、公開することで減る労力(自分の存在証明)を天秤にかけて、得だと思うから実名を公開できるのです。 翻って日本はどうでしょうか。語弊を怖れずに言えば単一民族の村社会です。リアルの世界でどこの誰かを証明することは出身学校でも語れば充分で、ついでに世界に冠たる戸籍制度もあり、素性を「洗う」のは簡単です。 そして村社会故に、放り投げた発言が一生を縛るレッテルとなることもあります。 最後に新聞のゴミっぷりにも言及しておきましょう。 日経新聞の厚顔ぶりは先日紹介しましたが、今回はナベツネ新聞。もとい「読売新聞」社会面より<就活「3年終了後から」 国立、私立大側 初の見解> いわずとしれた大学生の就職活動の時期について、国立大学協会と私立大学団体連合会で就職問題を担当するふたりの学長への取材結果で、それぞれこう述べている、同じ紙面の右下にはこうあります。<読売新聞社 技術総合職を募集中> 要件のひとつはこうです。<4年生大学を2012年3月までに卒業見込み> ま、「募集」や「告知」ならありかも知れないと読み進めると<応募締め切り 2月22日(火)必着> つまり、現役なら大学3年生までが対象と言うこと。 これも「舌の根の乾かぬうちに」というのでしょうか。それとも「まだ決まっていない」、あるいは「法律で禁止されていない」とでもいうのでしょうか。 なんだか懐かしい、あの人のこんな台詞が脳裏をよぎります。「お金儲けしちゃいけないんですか」 ケツカスタネットに盲目的な礼賛。取材結果を無視した自己利益の追求。そこにモラルや道徳という言葉は見つかりません。
Jan 26, 2011
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論点モノが流行っているようなので便乗しました。 日本のWeb業界の病巣といってもよいでしょう。 本稿執筆に当たり5年前の資料を引っ張り出したのですが、まぁ実名を挙げたくなるほど、いまツイッターやフェイスブック関連で「ソーシャルの時代」 といっている連中が「Web2.0」を騒ぎ、祭りの後始末をしないまま馬鹿騒ぎをしているのが現状です。 こんなのもありました。「SNS酒場」 Web業界にどっぷり使っている人なら、これだけで誰のことかピンと来るでしょうが、ミクシィを使って創りあげた紹介制を採用したBarということですが、平たく言えば「会員制」で、それはなにも珍しいモノではないという突っ込みは辞めておきましょう。 なぜなら、彼らはリアルのモノをネットに置き換えただけで、「新しい」「革新」と呼ぶのですから溜息が止まりません。ならばメールでの愛の告白をこう呼ぶのでしょうか。「eコクリ」 馬鹿にしているのでフォローはしません。で、まぁこの酒場はすでに「終了」していますが、その時期はこの酒場を自著で紹介してから半年後です。 邪推をするなら、本で紹介したものの大ブレイクしなかったので潮時を見た・・・というところでしょうか。 これらが何を語るかと言えば本稿から落とした部分です。「商売を知らない人間がWEBを語る」 ・・・さらに述べてよろしいでしょうか。「技術を知らない人間もWEBを語っている」 後者については絶句しますが実在します。それも多数。はぁ。 あ、ゴメンなさい。200回、ありがとうございます。 読者の皆様のお陰様です。■心得其の200「これまでのWebの話をしよう。日本のWebの論点2011」http://web-tan.forum.impressrd.jp/e/2011/01/19/9548
Jan 19, 2011
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優しい嘘。残酷な沈黙、おしゃべりなつぶやき。2011年のベストセラー(予定)。筆者は松本徹。本名だったので気づかなかったパターンは、今後の出版界のトレンドに・・・なるわきゃないですね。水嶋ヒロさんを揶揄するのならこうでしょうか。「おばあちゃんがいっていた。世界は自分を中心に回っている」仮面ライダーストロンガー・・・もとい、カブトでの台詞です。でも、どちらも洒落としてネタにしていますが、結局はエンタメの世界で、裏側を楽しむより、その「表現」を受け入れるかどうかで、モラリストのシド・ヴィシャスが伝説になったわけはなく、ボランティア活動を売りにしている音楽プロデューサーが結果的におんなのをとっかえひっかえしたとしても、本人の問題にすぎません。ま、わたしは嫌いですが、それも主観に過ぎませんし、強制はしません。しかし、まぁそれが「実用書」にまで派生しているのが日本の出版業界の現実で、これにはいささか嘆息しますが、それも客が望んでいるのですから致し方ありません。そして「WEB業界」は・・・見事なエンタメです。■マイコミジャーナル麻木久仁子が教えてくれた「嘘だらけのツイッター0.2」http://journal.mycom.co.jp/column/itshacho/096/index.html
Jan 19, 2011
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日本全国に伊達直人に矢吹丈、ほかには坂本龍馬などなど、歴史からフィクションまで様々な「善意」が溢れかえっています。 何度も述べているように偽善でもやらんより、やった方がマシ。 というのが私のスタンスですから悪いことではありません。 ただし、同時に、これも繰り返しになりますが、「愛のない100万円より愛のある1円」 というどこからのテレビ局のしっかりギャラを受けとっていると噂される、あのバラエティとは一線を画すものです。視聴者から小銭を集めるより、CMのスポンサーフィーから支払えば、桁違いになるなどという野暮はいうまい。きっとこういうでしょうから。「みんなの善意を集めることが大切」 ふーん。 でもそうなるとやっぱり、スポンサーから報酬を得ている、テレビ局にいわれたくないなぁと、もう10年以上(多分、もっと)あの番組は見ていませんし、出演したタレント(を、知ればですが)は向こう1年色眼鏡で見ることにしています。 それに比べれば「タイガーマスク募金」は、罪がないというよりはるかにマシです。 ただ、今週になって沈静化しましたが、こうした「ブーム」は手のひらを返した時に、恐ろしく、また、愛情は失った時の方が悲しいものだということを知っていると切なくなります。 まず、議論を単純にするために「児童養護施設」で統一します。 児童養護施設の運営は様々な団体が行っていますが、いわゆる役所の出先機関ではなく、それぞれの自助努力が求められます。 補助は出ますが、基本カツカツです。それを助けるのは伊達直人ではなく、日常的寄付をしたり面倒を見る篤志家です。なかには駐車場経営といった事業での収益で賄っている施設もあります。 だから伊達直人・・・と、いうのは勿論。しかし、ランドセルはこの時期、施設によっても異なるでしょうが、すでに用意していることもあり、だぶつくこともあります。また、親もなく、ものもない子供でも、好き嫌い、好みはあり、これを「贅沢」といわれれば、それまでですが、善意という美名の前に率直な欲望を口にできない子供の心を妄想して涙がにじみます。 あのね。子供だって遠慮もすれば気も遣うのです。 ランドセルをあげるぐらいは・・・そうですね。 それはそうでしょう。やらないよりやった方が遙かにマシ。 なにより善意を腐そうものなら人非人あつかいを受けるので得か損かで語れば褒めそやす方が得です。 しかし、施設でサイズの合っていない洋服は珍しくありません。なぜなら、お古を「シェア」しているからです。 いやいや、それでも施設に入れる子供はまだ幸せだという論もその通りです。「入居待ち」している児童は少ない数ではありません。 多少でも行き先があれば、それが本人の望む形でなくともいかざろうえません。いや、行くところがあるのならそれもまた「贅沢」だという主張を否定しきれません。ソマリアやハイチを想像するまでもないでしょう。 そして私の知っている施設にいる子供にとって、唯一の楽しみは日曜日の「ご馳走」だったといいます。一番嬉しかったのは「ラーメン」だと。 よくよく聞くと「サッポ●一番」のようなインスタントですが、それでも嬉しかったと言います。 施設にいる子供の境遇は様々です。親に殴られた子供などざらです。ある中学生は親に鎖で縛られて、軟禁されていたといいます。また「弱い」子供だけでなく、「荒れた」がために親が引き取りを拒否することもあります。 こうした「色んな子供」を一緒に育ててくれているのが施設です。 さて、伊達直人のプレゼントとして、何が喜ばれるでしょうか。 ツイッターで、児童施設にパソコンを送ろうと呼びかける声を見ました。もちろん、施設に問い合わせてパソコンが欲しいと望みそれをプレゼントするなら素晴らしいことです。 ちょうどパソコンが古くなっており、渡りに船なら運命的な幸福を感じることでしょう。 しかし、それを望まない施設ならばどうでしょう。 こうしてメルマガやブログを呼んでいる人にとってパソコンは筆記用具レベルかも知れませんが、いまだに覚束ない人は多く、そこに「機械」だけを持ち込んでも負担になるだけです。 色んな子ども達がいます。そして今般の報道であまり触れていないのですが先生と呼ばれる親代わりの「職員」は激務で、そこにパソコンを覚えろと私は口が裂けても言えません。 パソコンを寄付するのであれば、セットアップから「指導」まで含めるほうが実状に沿っていると私は考えます。 また、先ほど述べたように、「色んな子供」がいます。 彼らのなかには「ネット」に触れる環境が好ましくない子供もいます。 例えば施設に入る前に「保護所」という、児童相談所の管轄下の公的施設があり、ここに入居した子供は互いの素性を明かすことや連絡先を交換することを禁じられています。しかし、子供の口にも戸は立てられず、「出所後」にネットができるようになったら「××で検索して、俺のブログあるから、遊ぼうぜ」 という誘惑もあるのです。完全無菌にはできませんが、こうしたリスクをネット孕んでおり、タイガーマスクからパソコンが届けられたことに職員が「余計な仕事が増えた」と考えたとしても、私は責める気持ちにはなれません。 つまり、与える側の「希望」が必ずしも施設の需要とマッチするわけではないのです。 そして皆さんの善意を疑うわけではありませんが、私には大手新聞社も含めた手放しの礼賛にこう思うのです。「ものだけ与えても子供は幸せになれない」 モノがなければ困るのは当然ですし、愛がなくても100万円のほうが大切です。しかし、人はパンのみに生きるに非ず、子供はランドセルだけで育つわけではありません。 ついでにいえば施設の職員が持て余すような「もの」よりキャッシュのほうが実情に即しています。こんな場面を想像してください。 ある施設の運営はやはり厳しく、そこから公立小学校に通う直子ちゃんは、自分のお洋服がお古であることが不満でした。両親の虐待により施設に預けられたのですが、まだ夫婦仲が良かった頃は、お出かけする度にお洋服を買って貰っており、子供といえども「楽しい記憶」にすがるのは人間の自然な防衛本能です。 戯れに新しい服が欲しいといっても、お金がないと施設の先生は相手にしてくれません。興が過ぎてしつこくなるのも子供ですから仕方がありませんが、わがままはきつく戒められます。 先生としても我が子同然の子ども達に新しい洋服の一枚ぐらい買ってあげたいのですが、預かっている子供のひとりだけとはいかず、全員となればポケットマネーでは足りません。 現実の生活は子ども達が想像するより厳しいのですが、現実の全てを伝えるには幼く、しかし、現実との接点から逃れる術はありません。 直子ちゃんの前にタイガーマスクが現れました。 タイガーマスクは洋服をおいて去っていきました。 洋服は先生が分配してくれましたが、一緒に暮らす友達のほうを直子ちゃんは欲しくて仕方がなく、先生にこう求めます。「私が貰ったものジャン」 ・・・架空のストーリーです。 そしてしつこいようですが善意は尊重した上ですが、私は体験からこう懸念するのです。 職員の日頃の苦労を見ずに、モノを与えた満足感と喜ぶ子供の笑顔という上前をはねる行為。 私事についてはミクシィの非公開版で書くつもりですが、豊かな側、恵まれている側からだけ見る「善意」というものに懐疑的です。 もちろん「偽善」でもやらんよりはマシ、なのですがね。 ただキャッシュなら「先生」が分配できますし、あるいは施設に相談した上で望むものを「提供」したのなら、そこにも「親」の意思を繁栄できるのでより望ましいのではないでしょうか。 あのね。人間の残酷な真実としても「ものをくれる人」には従うモノで、それを家庭教育では活用するもの・・・ということを誰も語らないのが不思議です。 ちなみに「子供手当」を受け取れない施設の子供はいます。
Jan 19, 2011
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優しい嘘。残酷な沈黙、おしゃべりなつぶやき。2011年のベストセラー(予定)。筆者は松本徹。本名だったので気づかなかったパターンは、今後の出版界のトレンドに・・・なるわきゃないですね。水嶋ヒロさんを揶揄するのならこうでしょうか。「おばあちゃんがいっていた。世界は自分を中心に回っている」仮面ライダーストロンガー・・・もとい、カブトでの台詞です。でも、どちらも洒落としてネタにしていますが、結局はエンタメの世界で、裏側を楽しむより、その「表現」を受け入れるかどうかで、モラリストのシド・ヴィシャスが伝説になったわけはなく、ボランティア活動を売りにしている音楽プロデューサーが結果的におんなのをとっかえひっかえしたとしても、本人の問題にすぎません。ま、わたしは嫌いですが、それも主観に過ぎませんし、強制はしません。しかし、まぁそれが「実用書」にまで派生しているのが日本の出版業界の現実で、これにはいささか嘆息しますが、それも客が望んでいるのですから致し方ありません。そして「WEB業界」は・・・見事なエンタメです。麻木久仁子が教えてくれた「嘘だらけのツイッター0.2」http://journal.mycom.co.jp/column/itshacho/096/index.html
Jan 18, 2011
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全国に広がるタイガーマスク現象。 私がもっとも懸念しているのは「掌かえし」です。 例えば届いたランドセルが余ってしまった。 あるいはピンクのランドセルが10個届いたが、女児は7人しかおらず余った、また男児に背負わせた。 コンピュータの場合は、職員が使った、転売した、使いこなせずに放置されていた。 食品の場合は食べてしまえば良いので、ある意味、こうした心配は少ないのですが、それでも残した、腐らせたとなったときに、マスコミや世論(せろん)の針が逆に振れてしまうことです。 誰も損をしないから良いだろう。そういう意見もあるでしょうし、否定はしません。しかし、受けとる子供も単純に嬉しいと思うばかりでなく、この「ブーム」が去った後に「消えていく愛情」を知り、どう思うか。 そしてこういうフワフワした善意の前にこういうことを述べれば「KY」と呼ばれるのでしょうが、児童養護施設から一般の小学校に通う子供の中にはこうした言葉をぶつけられることもあるでしょう。「おまえのランドセル、タイガーマスクから貰ったんだろ」 これにたいして「そうだよ。うらやましい?」 と、強くなれと施設で小さな戦いを繰り返す児童をけしかけるデリカシーは私にはありません。 そこで報道にもひとこと。「●●の児童施設」 とまで報じずに、都道府県レベルで留めて下さいと。
Jan 12, 2011
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今回で199回。いま、200回の原稿を校正中。 で、本当は200回記念にと考えていたとっておき。 Web屋で独立を考えている方は必見です。 そして字数が足りなかったのでここで補足。「セレブ」とはマリエさんや、鳩山由紀夫さんだけではありません。 業界において影響力のある人のことで、マーケティング用語では「スピーカー」 と呼ばれる人です。WEB屋の言葉で近いところでは「インフルエンサー」 他人に影響を与えるという意味です。 こう絞るとですね。地元にも身近でも、結構いるんです。セレブ。■心得其の199「Webで簡単に結果をだす方法。客を選べば格差社会が味方となる」http://web-tan.forum.impressrd.jp/e/2011/01/12/9497
Jan 12, 2011
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毎週火曜日公開の原稿が水曜日になりましたことお詫び申し上げます。 理由は担当さんの手違いですが、私の名前で公開されているものです。 私が頭を下げるのは当然です。 ところが、これができない社長が多いのです。 部下の失敗を辿った究極は社長に帰結します。もちろん、売れる売れないも同じです。 ところがこれを認めません。それどころか、悲しいことに、こちらの方が多いのです。「売れないのは社員がわるい」 そして「コンサルタント」に依頼します。 そしてその「コンサルタント」は、社員も気づいていることをなぞります。 はぁ。迷走する会社はいつも同じ軌跡描き地平の彼方へ。■マイコミジャーナル潰れる中小企業の共通項「迷走するアドバイス0.2」http://journal.mycom.co.jp/column/itshacho/095/index.html
Jan 12, 2011
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私にはじめて10円ハゲができたのは小学校6年生の頃。 きっかけは「宇宙はどこまであるのか」。 ビッグバンにより生まれた宇宙は極限まで達した時に、収縮へと転じると当時は考えられており、極みに達した時、人もチョロQも点に帰ってしまう・・・というのは論理的に理解しました。 すると次に湧き上がった疑問は「死後の世界とは? 輪廻とは? 神とは?」 一神教の方に投げかけると激怒されそうですが、神道と仏教のゴーヤチャンプル状態の日本人的宗教観から、漠然と死後の世界があり、輪廻もあり、神も仏も悪魔もゲゲゲの鬼太郎もいるだろうと信じていた小学生にとって、ふたつの理論は噛み合いませんでした。 つまり、ビッグバン以前、そして大収縮以後の世界に「人」が存在しないのであれば「死」とは永遠の停止を意味し、すべては無に帰する存在でしかない・・・てなことを考えいるウチに不眠症になり10円ハゲとなり、ハゲを見つけて女子にもてないと反省して、ハゲは改善へと向かうわけですが、また、ハゲができそうな本を手に取ってしまいました。「宇宙は何でできているのか」 平易な文体で、高度で複雑な箇所は「知らなくていい」と言い切るところが素敵です。そう、学者の書籍の問題点は、本論に微少な影響しか与えない各論であっても、すべてを論じようとする真面目さにあります。 まぁいい加減。良い加減という表記が正しいでしょう。 宇宙には暗黒物質があり、4次元も存在する。そして素粒子をつきつめることで宇宙の果てを知ろうとする試みは、手塚治虫先生の「火の鳥」 で、極ミクロの世界と極マクロの世界を主人公に見せるシーンと重なります。 そして永遠の定義に考えが及ぶと10円ハゲの出番です。 本書に永遠の定義はでてきませんし、宇宙は収縮しないという発見もあったそうですが、私たちの銀河がアンドロメダ銀河とぶつかる日・・・と、考えると、ねぇ。■宇宙は何でできているのかhttp://www.as-mode.com/check.cgi?Code=434498188X
Jan 12, 2011
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ハッピーと感じたことのないハッピーマンデーも終わり、人によっては成人の日とも呼ぶようですが、とにかく、お屠蘇気分に冷水をかけて酔いを覚ましたように、連休明けの昨日あたりから街の秩序が取り戻されている気がします。 それはわが家においても感じます。同居する甥が学校に通い始め、朝から学校に出掛けることにより、我々も「仕事モード」に切り替えることができるからです。しかし、学校の送り出してからのほうが不安になるのが本日のテーマです。 中学3年生ですから仕事の慣用句的な意味での、手が止まるほど手間がかかるわけではありませんが、受験生のくせして居眠りの常習者で、それはイコール進学をあきらめるレベルの学力しか装備していない彼にとっては、目を閉じることは未来の光を失うに等しく、「本人の問題」と突き放すほど我々は達観もできず、彼が自宅にいる時の私と専務の最大の仕事は「寝かさないこと」 です。30分、1時間と予告なくチェックし、「ものおと」がしなくなれば「威嚇」して睡魔を追い払います。他にも大胆というか、本来は存在していない「勉強の空き時間」を彼は勝手に創り出し、彼の勉強部屋にあてがった弊社応接室兼会議室兼図書室の書棚にあった「尾崎豊全曲集」から、歌詞を書き写したり、半纏のポケットにハンドグリップを忍ばせて、英単語も覚えずに握力を鍛えます。もちろんすべて未来を閉ざす行為です。 自覚のないものの脳みそに学力を詰め込むことは、電極でも埋め込まない限り難しく(埋め込んでも無理です。念のため)、諸事情から一切の折檻、体罰を禁じられているので、「本人次第」によるものしかなく、我々には彼を襲う睡魔と、彼を誘う怠惰を追い払うことしかできないのです。ちなみに、費用はかかりますが、テレビCMをばんばん流す某塾へいれることも検討したのですが、入塾テストを受けたところ、丁重に辞退されたことを添えておきます。そしてその後、「セールス」の電話が鳴ったことがないといえば実力は想像できるでしょうか。 ずっとそばについて勉強させれば? という暖かなご意見もあるでしょうが、それは馬・・・根本的学力不足の子供や人間についての洞察が足りない机上の空論、あるいは憲法9条があれば戦争は起こらないと信じるぐらいの理想論であり妄想です。 中学3年生、それも受験間もなくのレベルで進学困難なほど学力が準備不足の子供は、学力以外の問題があり、甥のケースでいえば、大人が張り付いていると「遊んでくれることを期待して勉強が疎かになる」 のです。生育歴、環境によるものです。なまじ、大人の中で育った子供というのは、子供好きな大人を見抜く鑑定眼を装備しており、色々と質問するふりして「脱線」することを期待します。大人はよかれと予備知識や、周辺情報を説明し、勉強するより話を聞いている方が楽しいと手を休め、もっともっと、それからどうしたと食い付く様は、絵本をせがむ幼児と同じで、自動的に勉強は停止します。 それでは教えずに「監視」だけした場合でも、子供好きな大人を見抜く鑑定眼があると厄介です。「遊んでくれない」 と無意識下で逆ギレ状態になるのです。 ただし、彼が生まれた時から「強い大人(オジサン)」を演じ続けた私へは、トラウマかと思うほどの恐怖心とリスペクトがない交ぜで、私が監視している間は寝ることはありませんが、専務(妻)の場合はなめてかかって寝てしまいます。 そこで先ほど述べた30分から1時間のあいだの「不定期便」に落ち着いたのですが、・・・仕事にならないのです。細切れの時間でこなせる仕事は問題ないのですが、充分な時間を要するものは難しく、また彼を襲う睡魔は不定期で、そこに神経を貼りながら、仕事への集中力を維持するのは困難だったのです。 塾に入れて貰える程度の学力と、それを応援できる「財力」があれば、17日間ものバカンスを「修行期間」にあてることもできるのですが、それも叶いません。 幸いにして、夫婦ふたりで爪に火を灯しながら、その燃えるタンパク質のイヤな匂いで遊びながら暮らしてきた我々には、塾に通わせる程度の貯金はあったのですが、塾から断られてしまい、専属の家庭教師をつけるなど、もっとお金のかかる方法ならあったのですが、隙あらば居眠りし、尾崎豊を写経し、握力を鍛える人間に投資するのは、1万円札の白線流しです。お客様から頂戴した貴重なお金をドブ・・・自覚のない子供に投じることはできません。 そこで甥と一緒に大型書店に出向き、2時間ほどかけて、彼が「これなら」と思う(もちろん、我々大人が誘導したことは否定しません。教育に強制は不可欠と考えますので)参考書を「大人買い」 して、取り組ませます。塾代に比べれば安いものですが、日頃少年ジャンプと「あびるの空」の単行本しか買ったことのない甥はその金額に目を輝かせます。 買い与えただけで、勉強をしてくれるほど甘くもなく、あの手この手の工夫をした17日間だったわけです。 そしていよいよ学校。「もう、はやく学校に行って欲しい」 とは子供いる家庭の奥さんがよくこぼす愚痴です。 しかし、私は先週末からこう思うようになりました。「学校に行く必要はない」 某宗教団体や、怪しいチャンプを生み出すボクシング一家のそれとは違います。甥にとってのいま、最大のミッションは高校入試で合格・・・する以前に、善戦できる程度の学力を身につけることです。それは昭和の表現で言うところの偏差値や内申点を論じるレベルではありません。 いや、逆に5点、十点に鎬を削る受験生にとっては、学校になど通いたくないと考えても仕方がないことを痛感します。 原則を大切にする私からすると論理矛盾しているかも知れませんが、それは一個の人間として判断できる大人への注文であり、子供へのそれではありません。しかし、それでも「叔父馬鹿」故に論がぶれているという批判は甘んじて受けましょう。しかし、学校教育がおかしいのです。 まず、冬休みの宿題(課題、目標など様々な表現がありますが事実上)にこんなものがあります。「ウィンタースポーツを体験、または観戦せよ」 冬休みに入る直前、甥が私の仕事部屋にきてこう訊ねます。「オジサン、ウィンタースポーツって何?」 即座に答えます。「受験生がやってはならないもの」 私の脳裏には広瀬香美の懐かしのヒットソングと共にスキー、スノボーが広がり、クリスマス前と言うこともありニューヨークのロックフェラーセンター・リンクでヤンキーが興じるアイススケート場で伊藤みどりさんが3回転半ジャンプします。 いずれも「滑る」競技で、時に「転び」、古来より受験生の忌み嫌うものだったと教えます。 真面目に考えてもあとは駅伝ぐらいでしょうか。追い込みの受験生になにをさせるのかと憤慨しましたが、箱根駅伝をおせちでも食べながら観戦したとお茶を濁せばよいという温情と解釈することにしました。 書き初めもありましたが、こんなものは「さっさ」と書けば10分もあれば充分ですから、受験の妨げにはなりませんし、日本人の文化風俗としても大切です。 不可解で、私が「学校に行くな」と考えた宿題が「総合」 の時間で使う資料集めです。「最近気になったもの」 というテーマに沿って、各種媒体、インターネットを通じて資料を集めろというのです。そして、それを受験勉強が忙しいこの追い込みの時期に「発表」までやるというのですから呆れてしまいました。 最近気になったもの・・・自発的な興味を喚起して、自主的な学習意欲の喚起・・・とでもいいたいのでしょうか。違います。断言します。教師の手抜きです。 正解のない出題は禅問答のように真実の深淵に辿り着くという美名もありますが、真実の深淵を知らぬものが評価などできぬのもまた真実です。問題は中学生の「気になったもの」に真実の深淵があるかも知れませんが、それを高校受験を間近に控えた生徒にやらせる価値があるのかということです。「受験が全てじゃない」 とは大嘘です。その理由は簡単。中学3年生で行われる三者面談とは「どの学校を受験するか」という受験相談だからです。 さらに私的体験を重ねると、進学可能率測定不能の甥の学力を冷静に判断して「就職」の可能性を三者面談で訊ねたところ、昨今の景気を踏まえた上で「不可能に近い」とこちらも拒否され、最初の願書の段階で「夜間高校(定時制)」まで提示されています。 つまり、中学校も「進学」を前提に動いていながら、実際のカリキュラムはそれに即していないのです。 私は何も「予備校にしろ」といっているのではありません。 総合の授業も必要でしょう。しかし、それが何故? いまなのかということです。とりあえず受験が終わる2月末から2次募集(いまは後期とも呼ぶ)の3月初旬まではたっぷりと時間もありますし、あるいは一学期に進路を考えるための「自由研究」として「総合」を活用する方法だってあるでしょうに、よりにもよってこの追い込みの時期に。 さらにおかしな日々が続きます。 いまは都立高校にも推薦受験があり、この願書の提出日は1時間目の学活だけで、下校、さらに翌日の私立高校願書提出日も1時間目の学活だけで下校します。なぜでしょう? 願書を出願しにいく生徒が授業を受けられずに「不平等」 だからでしょうか。 どうしてこういう考えになるかと言えば、その先にある都立高校の推薦受験の当日は3時間授業で下校するからです。 都立校の推薦は諸条件により異なりますが、学力を検査する筆記試験はなく、事前に学校側より提出された調査書と小論文などと面接で終了するので、たいていは午前中で終了し、それは3時間目の終了時間とほぼ重なります。 昭和時代、願書を出しに行く生徒を羨んだものです。「いいなぁ、授業さぼれて」 そこかい! という突っ込みがきこえてきそうですが、願書出願という現実のプレッシャーに青白い顔のクラスメイトの表情から、軽口を叩いたことを恥じました。つまり願書(我々の頃は私立だけ別の日)を出しに行くのは個人の問題で欠席にはなりませんが、他の生徒の授業を妨げるものではなかったのです。 ところが「推薦」「私立」と、それぞれの「都合」にすぎない事情に公(集団)があわせるという本末転倒が起こっているのです。 話を総合します。 長い冬休み、自由という名の無責任な資料集め、悪平等による授業の短縮。 ここから導き出される結論はこうです。「学校に行くな、塾に行け」 ・・・ただし、これは「学校差」がかなり激しいので、お子さんの通学されている学校の方針によりますが。そしてなにより「塾がいれてくれれば」 です・・・はぁ。 入塾拒否された我が甥は拾ってくれるところはありませんが、この3ヶ月見ていて、学力が伸びたのは学校の授業ではなく、「自宅軟禁状態での参考書地獄」 です。 週末や連休に学力が伸び、学校に通いだすと学力が低下します。 今回の原稿は迷いました。なぜなら、本稿の公開により、子供の将来を左右する教師のご機嫌を損ねた先に何が待っているか・・・言葉を選ばずに言えば「人質」にとられているのですから。 ただ、馬・・・まぁ、それを気にする次元ではないので、もし受験生をお持ちの読者がいれば、お子さんが通学される学校の「事実」をチェックされることをオススメします。 公立学校の「モラル」や「レベル」って想像以上に崩壊しています。
Jan 12, 2011
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子供との会話は執筆作業に似ております。 それは「前提」や「状況」を説明しなければならないからです。 プロの原稿は読者レベルにあわせなければなりません。例えば私の連載「Web担当者Forum」では、ある程度Webの知識がある前提で書き上げることができますが、マイコミジャーナルの「エンタープライズ0.2」においては「知らない読者」向けの解説が必要であるようにです。 例えば「昔は」と前置きするだけで、同年配以上の方なら説明は不用ですが、現代の中学生や小学生には「パソコンのない時代」 を説明しなければ、「ネットで検索」 などできなかったことを説明できません。 これは「調べる」をテーマにした甥との会話で、彼が粗忽であることにも要因があるのでしょうが、「図書館の意味」 を知りませんでした。漠然と本を読むところ、自習する場所という認識はありましたが、「調べ物をする」 という用途を知らなかったのです。よくよく訊ねると学校でも「調べ物=パソコン(ネット)」と教師は教えているそうです。 今回は「教育」がテーマではないので掘り下げませんが、教育現場はなかなか「香ばしい」ようで、いずれ特集します。 唐突ですが「命とは時間」です。 言葉を足せば「ひとりの人間が使える時間には限りがあり、その限りが命」 ということ。哲学の話しではなく、時間というの概念は人間にとって大切なものであることは言うまでもなく、おはじきやビー玉と同列に語るものではない・・・ということに異論はないでしょう。 しかし、現代日本において時間がビー玉と同列に扱われています。 その証拠が「俺の三個上」。 こう書くと分かりやすいでしょうか。「おれの3コ上」 すでに若者だけではなく中年まで、年齢の上下を、学年の差を「個数」で表すようになっているのです。 何歳、何学年、いくつ。時間を表す言葉が豊富にあるのにです。 英語でも時間は区別して数える理由は簡単です。「ジェームスはジミーの何個上ですか?」 英文で問われたら、こう聞きかえすでしょう。「その前にジミーは何を何個もっていますか?」 ものと時間は区別されており、その区別とは「相互理解」の上での「お約束」です。 言葉は生きているから変化に目くじらを立てることはない。 日本語の変化(あるいは退化)を嘆くと、こう反論する人が必ずいます。しかし、基本を知った上で無視するのと、基本を知らずに濫用するのでは意味が異なります。 甥が私と姉の年齢差をこう訊ねます。「なんコ違うの?」 私は答えます。「私と姉はビー玉ではない」 そしてそもそも年齢を「コ」と数える習慣などなかった時代があったことから説明しないと彼らは理解できません。それほど昔ではなく、90年代初頭は一般的ではありませんでした。 言葉は年齢と共に変化します。小学生が「ばぶー」といわないように、社会人がいつまでも「学生言葉」を使うのはいただけません。しかし、それは「コ」に表れるように学生言葉が継続されます。 コの普及に一役買ったのが携帯電話とみています。 年齢を個数で表すのは学生の言葉で、この表現が広まり始めた当初の90年代中期には大人にたしなめられていた風景をよく見かけたものです。 幼稚園から小学校、中学校から高校、大学、社会人と時間を経て環境が変わることで「言葉」は変化する・・・ものでした。「自分」を「名前」で称する時代から、「ぼく」「わたし」になり「俺」、そして「わたくし」と。朱に交わったからか、郷にはいったかは分かりませんが、環境の変化が言葉を変えていったのです。 かつて「固定電話」が個人的な情報伝達の主役だった時代は生活環境が変われば連絡を取ることは難しくなり、次第に距離が生まれ、反対に今置かれている環境に馴染むよう努力しました。 ところが携帯電話の普及により、いつでもどこでも「連絡」がとれるようになりました。高校生になっても「地元の友達」と遊ぶ頻度は高く、社会人になっても「学生時代の友人」とつるむことができ、最近ではこれにミクシィやツイッターが拍車をかけます。 そして「コ」からの脱却するチャンスを見逃して一般化したと説明しなければ、「コ」で事足りている世代は理解しません。 平たく言えば「知らない」ことが多すぎるのです。 もっとも中学生なら「当たり前」で、それを説明するのが年長者の仕事と噛みしめております。
Jan 5, 2011
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子供との会話は執筆作業に似ております。 それは「前提」や「状況」を説明しなければならないからです。 プロの原稿は読者レベルにあわせなければなりません。例えば私の連載「Web担当者Forum」では、ある程度Webの知識がある前提で書き上げることができますが、マイコミジャーナルの「エンタープライズ0.2」においては「知らない読者」向けの解説が必要であるようにです。 例えば「昔は」と前置きするだけで、同年配以上の方なら説明は不用ですが、現代の中学生や小学生には「パソコンのない時代」 を説明しなければ、「ネットで検索」 などできなかったことを説明できません。 これは「調べる」をテーマにした甥との会話で、彼が粗忽であることにも要因があるのでしょうが、「図書館の意味」 を知りませんでした。漠然と本を読むところ、自習する場所という認識はありましたが、「調べ物をする」 という用途を知らなかったのです。よくよく訊ねると学校でも「調べ物=パソコン(ネット)」と教師は教えているそうです。 今回は「教育」がテーマではないので掘り下げませんが、教育現場はなかなか「香ばしい」ようで、いずれ特集します。 唐突ですが「命とは時間」です。 言葉を足せば「ひとりの人間が使える時間には限りがあり、その限りが命」 ということ。哲学の話しではなく、時間というの概念は人間にとって大切なものであることは言うまでもなく、おはじきやビー玉と同列に語るものではない・・・ということに異論はないでしょう。 しかし、現代日本において時間がビー玉と同列に扱われています。 その証拠が「俺の三個上」。 こう書くと分かりやすいでしょうか。「おれの3コ上」 すでに若者だけではなく中年まで、年齢の上下を、学年の差を「個数」で表すようになっているのです。 何歳、何学年、いくつ。時間を表す言葉が豊富にあるのにです。 英語でも時間は区別して数える理由は簡単です。「ジェームスはジミーの何個上ですか?」 英文で問われたら、こう聞きかえすでしょう。「その前にジミーは何を何個もっていますか?」 ものと時間は区別されており、その区別とは「相互理解」の上での「お約束」です。 言葉は生きているから変化に目くじらを立てることはない。 日本語の変化(あるいは退化)を嘆くと、こう反論する人が必ずいます。しかし、基本を知った上で無視するのと、基本を知らずに濫用するのでは意味が異なります。 甥が私と姉の年齢差をこう訊ねます。「なんコ違うの?」 私は答えます。「私と姉はビー玉ではない」 そしてそもそも年齢を「コ」と数える習慣などなかった時代があったことから説明しないと彼らは理解できません。それほど昔ではなく、90年代初頭は一般的ではありませんでした。 言葉は年齢と共に変化します。小学生が「ばぶー」といわないように、社会人がいつまでも「学生言葉」を使うのはいただけません。しかし、それは「コ」に表れるように学生言葉が継続されます。 コの普及に一役買ったのが携帯電話とみています。 年齢を個数で表すのは学生の言葉で、この表現が広まり始めた当初の90年代中期には大人にたしなめられていた風景をよく見かけたものです。 幼稚園から小学校、中学校から高校、大学、社会人と時間を経て環境が変わることで「言葉」は変化する・・・ものでした。「自分」を「名前」で称する時代から、「ぼく」「わたし」になり「俺」、そして「わたくし」と。朱に交わったからか、郷にはいったかは分かりませんが、環境の変化が言葉を変えていったのです。 かつて「固定電話」が個人的な情報伝達の主役だった時代は生活環境が変われば連絡を取ることは難しくなり、次第に距離が生まれ、反対に今置かれている環境に馴染むよう努力しました。 ところが携帯電話の普及により、いつでもどこでも「連絡」がとれるようになりました。高校生になっても「地元の友達」と遊ぶ頻度は高く、社会人になっても「学生時代の友人」とつるむことができ、最近ではこれにミクシィやツイッターが拍車をかけます。 そして「コ」からの脱却するチャンスを見逃して一般化したと説明しなければ、「コ」で事足りている世代は理解しません。 平たく言えば「知らない」ことが多すぎるのです。 もっとも中学生なら「当たり前」で、それを説明するのが年長者の仕事と噛みしめております。
Jan 5, 2011
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