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仏教世界の果てから果てまで、 広く交流がおこなわれ、 ナーランダの学林やカシミールの僧院 〔大乗仏教の有力な一派である 有部(うぶ)の本拠であった〕 にあらわれた新しい哲学的業績は、 巡礼や雲水によって 支那、朝鮮、日本の思想界につたえられました。 王国はたがいに交わりをむすび、 平和が学芸の交流をうながしました。 このような全アジアの一体化から、 各国は新しい刺激をあたえられました。 注目すべきことは、 一国が人類のより高い可能性を実現させよう とつとめるとき、 他の国にもおなじような動きが見られることです。 六世紀のころ、 インドのヴイクラマーディティヤ王の治世にあらわれ、 詩歌音楽の隆盛をもたらした自由高大の精神は、 支那唐朝の最盛期にも、 同時代のわが奈良朝の宮廷にもあらわれています。 さらに、八世紀のインドにおいて、 ヒンズー教の使徒シャンカラチャリヤをうんだ 個人主義と民族再興の動きは、 支那宋朝における同様の活動となってあらわれ、 新儒教学派と禅宗再建をもたらし、 その反響は朝鮮と日本にもおよびます。 こうして、 キリスト教世界が中世の形成のために苦闘していたときに、 仏教世界は、思想の花が それぞれのうつくしさを競いあう、 文化の一大庭園の観を呈していたのです。
2022年06月30日
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漢の支配者たちの帝国は 多くの独立した敵対国家に分裂し、 各国が主権を争いましたが、 紀元五八一年についに隋が主権をにぎりました。 隋王朝(五八一ー六一八)は 以前の秦王朝のように短命で、 そのあとに唐(六一八一九〇六)と 宋(九六〇-一二七九)とがあらわれました。 そしてこの二王朝では、 儒教の風習によって一段と寛大な 政治組織がゆきわたったのです。 第二戦国時代(二二一-五八〇)には 仏教が支那にはいり、 しつかりした勢力を獲得するとともに、 その時代の道徳的真空を満たしたのです。 道教は洞院・道士、歴代の天師をかかえた 神仙道的宗教となっており、 仏教に対して生来の反抗を示しました。 唐時代になると道教がもう一度盛んになり、 支那の錬金術師たちは ふたたび活動するようになりました。 かれらは、辰砂から水銀を蒸溜し、 アルコール液も蒸溜しました。 長命の秘密も新たに探究されました。 事実、唐の皇帝二二人のうち七人までが、 (不死薬)の使いすぎで死んだといわれています。
2022年06月29日
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「絹の道」と「海の道」という 二大交通路によって、 はじめて世界の一体化が なされてきたわけですが、 全世界を一つの流れとしてとらえる 世界史という学問も、 このときはじめて誕生したといえます。 たとえば、イスラーム世界では、 九世紀以後 多くの世界史の本が出版されています。 いままでの世界史では、 真の世界史が成立するのは、 大航海時代(十五世紀)に ヨーロッパ人がアメリカや アフリカなどの新大陸を探検し、 世界じゅうに航路をひらいたときから だとされていますが、 それはただ単にヨーロッパ中心の かたよった考え方にすぎないのです。
2022年06月28日
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今日でもインドシナ (ベトナムからタイをふくんで ビルマにいたる地域)には仏教国が多く、 また東南亜細亜全体において、 インド文化の影響がまだかなりのこっています。 これはインド文化が長年 東南アジアに流入していたからです。 インド人は、 紀元前から東南アジアへ進出していましたが、 支那の唐時代初期(七世紀ごろ)には、 インドにつづいて、 ベルシアの商船がさかんに 東南アジアや支那沿岸まで出航していました。 そして八世紀後半以後は、 アラビア商人がインド洋沿岸 (アフリカ東海岸をふくむ)から、 支那へいたるまでの活発な 海上活動にのりだしていました。 いっぽう、支那の船も、 唐時代から(七世紀以後)さかんに 西アジアなどへ出航しています。 そしてユーラシア大陸の南岸をまわる 東西の海上交易ルート(「海の道」)は、 七世紀から活発になっており、 「絹の道」におとらない 重要な役割りをはたしていたのです。
2022年06月27日
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南北を統一した隋王朝は 文帝・煩帝・恭帝の三代、 わずか三十七年で農民の全国的反乱のため崩壊し、 これを平定した唐帝国の天下が 約三百年の長期にわたってつづきました。 隋・唐二王朝の関係は、 十六年の秦をうけて前漢・後漢の四百年の 安定した帝国がでてくるのとよく似ています。 唐は東西交流の大きな影響をうけたましたが、 サラセン帝国も、この東西交流のなかに、 誕生してきたのです。 東西交流の「海の道」(マリーン・ルート)は、 ユーラシアの南岸をまわり、紅海をとおって、 地中海へつながっていました。 「海の道」の繁盛によって、 六世紀末から紅海沿岸にそった アラビア半島の西岸には、 多くの都市がさかえました。 これらの都市のなかから、 新しい宗教であるイスラーム教が生まれたのです。
2022年06月24日
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前二世紀の後半に、 張騫(ちょうけん)という支那人が、 コロンブスに匹敵する大探検に成功しました。 張騫は西域(中央亜細亜)にある国と連合して、 支那(漢帝国)の敵である 北方の匈奴をはさみうちにするために、 前三九年に漢の武帝から西域へ派遣されました。 ところが、その途中で匈奴にとらえられ、 十一年間匈奴のなかで生活していました。 そして十一年後にすきをみて脱出し、 目的地である西域へ到着しました。 張騫は西域の国と連合することにこそ 成功しませんでしたが、 支那に西域について多くの情報をもたらしました。 西域の魅力的な情報 (よい馬やめずらしい物産)をきいた武帝は、 さっそく大軍を派遣して西域の国ぐにを攻略し、 西域を漢帝国の属国にしました。 これより支那と中央亜細亜との交通が さかんになっていきます。 支那と日本のあいだには、 弥生文化の伝来(二千年あまり以前)で みられるように、 すでに交流(交通)があったので、 支那と中央アジアがむすびつくことにより、 前二世紀末以後、 日本からヨーロッパにいたるまでの 「絹の道」が形成されたのです。
2022年06月23日
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「絹の道」は、長年にわたって ユーラシアの一体化をうながし、 世界の一体化に大きな貢献をしてきました。 世界の一体化は、何千年にわたって すこしずつ進展してきたのです。 世界の一体化は、いまから五百年前の 大航海のときにヨーロッパ人によってはじまった とされてきましたが、 実はすでにこの時代に 世界の一体化はすすんでいたのです。 「絹の道」は、支那からはじまるというよりも、 東端は日本になります。 そして「絹の道」の西端はヨーロッパになりますが、 ヨーロッパのどこかというのはとくにのべません。 時代によっていろいろかわっているからです。 前六世紀後半に、 すでにペルシャ帝国が中央アジアから 地中海にまたがる大帝国を建設しており、 西アジアと地中海との交通は かなりはやくからひらけており、 中央アジアからヨーロッパにいたるあいだは、 わりに早くから交通がさかんになっていたからです。 しかし、支那と中央アジアのあいだの交流は あまりおこなわれておらず、 前二世紀の後半にやっと交通のきっかけができました。
2022年06月22日
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「絹の道」はすなわちシルク・ロードです。 「絹の道」と名づけたのは、 当時は支那でしかとれなかった絹が もっとも貴重なものとされ、 貿易の中心をしめていたためです。 絹はラクダに積まれて支那から 西へ西へとはこばれていきました。 しかし、「絹の道」は、 ただ絹を運送するだけの道ではなかったのです。 この道をとおって、 じつにさまざまな物資が大量に輸送されたのです。 絹のほかにも、 支那の他の産物が西へはこばれています。 西方からも、さまざまな物資がラクダに積まれて 東へ東へとはこばれてきたのです。 「絹の道」は、ユーラシア大陸の東と西をむすぶ 大貿易ルートだったのです。 物資が交換されていた (交易がおこなわれた)ばかりでなく、 「絹の道」をとおって、東の文化が西へ、 また西の文化が東へつたわっていきました。 文化交流の役目もはたしたのです。 しかも東西だけではなく、中央アジアにおいて、 インドからきた南のルートともあわさっています。 ですから、「絹の道」を中心にして、 東西南北の物資が交換され、 文化交流がおこなわれたのです。 つまりユーラシア大陸のまん中をつらぬく「絹の道」は、 ユーラシアの歴史に決定的な影響をあたえたのです。
2022年06月21日
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七世紀末に、 韓にはじめて統一国家新羅があらわれました。 新羅は七世紀末から支那の儒教を国教として、 官吏採用のための試験制度も 支那をまねていました。 漢帝国時代の支那文化は、 まだ純粋な漢民族固有のものでしたが、 唐の時代には「絹の道」をとおる 活発な文化交流によって、 西方の文物が大量に支那に流入し、 そのために唐の文明は、 もはや一種の融合文明になったのです。 唐文明は支那独特のものを基調にしていますが、 もはや全世界的な価値をもつ 支那文明に成長したのです。 それほどに西方からの影響が大きかったのです。 唐の都・長安には 西域人(中央亜細亜の人びと)が居住する 特殊地域ができ、 また「胡風文化」が支那人を魅了していました。 当時、支那人は 西方の人びとを「胡人」とよび、 西方のものを「胡」という字であらわし、 長安の上流社会では、 胡曲(西方の音楽)・胡食(西方の食事) ・胡服(西方の衣服)が珍重されていました。
2022年06月20日
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九世紀ごろに満州の南方に成立した 「渤海」という国も、 唐の制度を手本にした官僚機構 (律令制度)を形成していました。 ところが、日本に支配されていた韓のみは、 随・唐の律令制度を全面的には とりいれませんでした。 七世紀初期に、 韓の北部にある日本の植民地である高句麗を 隋と唐の大帝国から三度も侵略されたときも、 日本の指導の下に小さな高句麗は三回とも 隋の大軍を撃退しています。 さらに、六六〇年代のはじめに、 唐が高句麗へせめてきましたが、 日本の鉄製武器の優秀さで、 これもまた撃退したのです。 しかし、六六六年に高句麗は内部紛争をおこし、 ついに唐と新羅(韓南部)にほろばされました。 その後、新羅は韓の大半を征圧し、 六八○年代に新羅は韓最初の 統一国家をつくりました (そして新羅もその直後に、 唐の侵略軍を撃退しています)。 この統一国家新羅について、 日本の書物では従来、 日本の植民地で中央集権的な律令国家 と記述していますが実は新羅は、 唐・日本・潮海などのような 律令国家にはならなかったのです。
2022年06月17日
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古代の大帝国の崩壊と交代のプロセスの後に、 歴史が没落していくように見えたまさにそのとき、 新しい呼吸を始め、 生命を脈打ちだした地域がありました。 ヤスパースの言う「軸の時代」が 頂点であった紀元前五〇〇年頃から 八百年ないし千年の後に、 大文化圏と接触した近接地域に登場したのです。 ユーラシア大陸の東端と西端において 文明の新しい組み替えと再出発を開始する地域です。 「軸の時代」の生んだ 文字、思考、法、宗教を借りつつも、 自らの基底文化との結合を通じて 文明の諸要素の新たな組み替えを成功させ、 自覚的な精神運動が開始されました。 ひとつは日本であり、 また中国専制国家体制に押しつぶされるまでの 朝鮮半島の新羅(しらぎ)であり、 そして現在西ヨーロッパと呼ばれている地域での ゲルマン民族の動きです。 西尾幹二はこの新しい紀元六世紀から 十世紀へかけての地球上の胎動(たいどう)を、 「第二の軸の時代」と呼んでいます。
2022年06月16日
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支那では、漢帝国が(二二〇年に)ほろんだのち、 四百年近くのあいだ社会が乱れ、 六世紀末になって、ようやくひさしぶりで 隋という大帝国があらわれました。 隋は、中華(漢民族による支那)の復興を めざしたのですが、短命で、 かわりに登場してきた唐朝が、 ついに中華の復興に成功します。 唐はさかんに西域へ進出し、 領土をいちじるしく拡大し、 それにともなって唐帝国の国威が いちじるしくたかまりました、 四方の諸民族も熱心に唐の制度をとりいれて、 国づくりにはげむようになり、 東アジア全体の政治と文化の水準がたかまりました。 日本もその一例です。 日本は唐帝国が成立してまもない 六三〇年から正式に遣唐使を派遣し、 唐の行政や文物をさかんにとりいれました。 大化の改新(六四五年)と 大宝律令(七〇一年)がおこなわれたのも、 唐からかえってきた留学生の得た知識に もとづいておこなわれたものです。
2022年06月15日
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漢王朝がはじまるころには、 すでに法家と墨家と名家とは その重要性を失なってしまい、 儒家と道家とが 意想界の有力な学派となっていました。 孔子(紀元前五五二-四七九)の 後継者たちだった儒家は、 古代の風習と伝統とを信奉することが、 戦国時代はもちろんあらゆる時代の 諸問題の解決法であることを教えました。 漢の諸皇帝のもとでは、儒教ははじめから、 学者の官僚政治の公認哲学でした。 儒家は宋時代(紀元後九六〇-四七九)の 新儒学運動までは、 自然哲学を ほとんどもっていませんでしたが、 宇宙の本質に関しては 官僚制皮下の天文官とむすびついて、 その見解を自分のものとしていました。 儒家は、化学上や手工業上の問題には 関心をもたなかったので、 この方面の問題は、 ほとんど道家が全面的に研究をおこなったのす。
2022年06月14日
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紀元前一〇八年に起こったことは、 総合商社が日本列島の対岸に 支店を設けたということです。 日本列島は、世界最古の土器文化を持っていて、 新石器時代はここで始まったのですが、 日本列島はまた石器時代から人口が非常に多く、 大陸の商品に対する潜在的な需要が大きかったのです。 そのうえ、日本列島は鉱産物が豊富で、 中でも砂金は歴史時代でも日本の特産品であり、 銀も銅も多くとれました。 古い時代の貿易では、 小量で大きな価値を持つものが商品になります。 この点でも、日本列島は魅力のある市場でした。 アジア大陸の都市国家にとって、 朝鮮半島の水路を押さえることは、 日本列島の市場への足掛かりになります。 そのために、燕国 (えん、紀元前1100年頃 - 紀元前222年)は ここに進出したのです。 秦の始皇帝が諸々の都市国家を統一して 支那を作りあげてからも、事情は同じでした。 前漢の武帝は紀元前一〇八年、 平壌にあった朝鮮王国を併合して、 朝鮮半島全部を支那の直轄領にしました。 洛東江の渓谷には真番郡がおかれ、 日本列島のつい目と鼻の先まで 支那の勢力がおよびました。
2022年06月13日
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岡田英弘教授によると、 支那文明の本質は商業文明であり支那の皇帝制度も、 一種の総合商社なのです。 支那は国民国家でも領土国家でもありません。 皇帝のいる首都は本社で、 地方の県城は、皇帝直轄の支店です。 県城の戸籍に登録されている正社員が 「民」すなわち支那人で、 登録されていない社外の人が 「夷秋」すなわち非支那人です。 県城には、皇帝から派遣された軍司令官 が軍隊を率いて駐屯し、 商業を監督し、治安を維持して、 利潤を皇帝に送金するという形です。 皇帝制度のもとでは、国家のように見えるものは、 実は利潤をあげることを目的とした商業組織です。
2022年06月10日
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漢(かん、拼音: Hàn)は、支那の王朝です。 通例、前漢(紀元前206年 - 8年)と 後漢(25年 - 220年)の二つの王朝(両漢)を 総称して「漢王朝」と呼びます。 支那初の統一王朝である秦王朝が 紀元前206年に滅亡すると、 支那は秦を討った各軍の将帥による 群雄割拠の状態に戻りました。 こうした中、 漢中及び巴蜀に封じられていた劉邦が 紀元前202年に垓下の戦いで 項羽を討って支那を再統一しました。 支那を統一した劉邦は、 皇帝として即位するにあたり 旧来の国号であった漢を そのまま統一王朝の国号として用いました。 この劉邦が開いた漢と、 いったん滅亡したのち劉秀によって 再興された後漢の漢王朝は、 あわせて400年続きます。 初の統一王朝だった秦王朝が短命で滅びたので、 漢王朝は支那の統一状態を実質的に確定した王朝となり、 これから支那全土や支那の主要民族を指す名称として 「漢」が用いられるようになりました。
2022年06月09日
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支那の漢帝国、西アジアのパルチア王国、 中央アジアのクシャーナ王国、地中海のローマ帝国、 インドのグブタ帝国が、 三世紀から六世紀にかけてあいついで滅亡して以後、 しばらくのあいだユーラシア大陸には、 注目される文明大国や大帝国が存在しなくなりました。 西のほうにある東ローマ帝国と、 パルチアのあとをついだササン朝ペルシャの二つだけが、 わずかに文明の微光を保持していたにすぎませんでした。 つぎのユーラシア史(世界史)の展開は、 七世紀にはじまります。 七世紀は、ユーラシアにとって新しい時代の開幕です。 まず、ユーラシアの東部を中心に、 中央アジアまでまたがる大きな唐帝国が出現しました。 いっぽう、アラビアを中心に、 ユーラシアの四半部に 最初のイスラーム(回教)の大国である サラセン帝国があらわれてきました。 なかでも、長い世界史の視点からみますと、 イスラームの国家が登場してきたことは、 たいへん大きな意義をもっています。 その後千年あまりのあいだ、 イスラーム勢力は、 世界史に大きな影響をあたえているからです。
2022年06月08日
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「坑儒」に至っては、 人を騙し、詐欺を行い国の政策を混乱させる 一部の道士らを一掃する政策にすぎません。 『史記』には、盧生と侯生という2人の方士 (不老不死の術や卜筮、呪術などを行う人) に関する次の記述が残されています。 彼らは普段から始皇帝の信頼を得ていましたが、 裏では始皇帝について、独断でことを成し、 縁故者しか登用せず、博士らを軽んじ、 権力に固執しているなどと罵詈雑言を吐き、 始皇帝のために不老の仙薬など作りたくない (実際には作ることができなかったのだが)と、 こっそり逃亡しました。 始皇帝はこのことを知ると立腹し、 咸陽に御史を派遣し、 ほかの方士も取り調べさせました。 すると、 丹薬(不老不死の薬)の研究に携わっていた方士らが、 こぞって密告し合ったため、 禁制者が460人を超えるほどになりました。 『史記』には、始皇帝は彼ら全員を 「坑殺(生き埋めの刑)」するよう命じ、 「天下をしてこれを知らせしめ、 以て後を懲ず」と記されています。 始皇帝は、君臣の礼儀をわきまえず、 君主をだまそうとした方士たちの悪行を 天下に知れ渡るようにして、 後世の戒めにしたのです。 従来の「坑殺」の解釈は誤りです。 戦国時代から秦までは 「坑殺」とは死後に穴に埋めることを指しています。 これは、罪人を墓に埋葬することが 許されなかったためであり、 決して現代で言う「生き埋め」のことではありません。
2022年06月07日
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丞相の李斯は淳于越が古の慣習を懐かしみ 現制度に反抗的であることを理由に 『焚書令』を提起しました。 その中では、 「以前は諸侯が互いに争い天下が乱れていたから、 富国強兵の策を求めて遊説の士を呼び集めていた。 天下が平定され太平な世の中となった今、 法令を定めるのは始皇帝おひとりだけである。 民はそれぞれの生業に力を尽くし、 知識人たちは法令を学習すべきだ」と、 夏、商(殷)周の古代3王朝で採られていた 古い制度を採用することへの反対が、 したためられていました。 そして、始皇帝に個人が 学校を設立することを禁じるよう進言し、 史官(史実の記録を司る官職)に 秦以外の国の典籍を焼き捨てさせるよう指示しました。 これが焚書の起こりです。
2022年06月06日
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始皇帝と言えば焚書坑儒を連想します。 焚書坑儒は始皇帝の残虐さの象徴ともいえる事件で、 それまでの支那の歴史や文化を 破壊したとも言われています。 しかし、始皇帝が焚書坑儒を行った真の目的は、 玉石混淆な思想・文化が入り乱れた状態を一掃し、 詐術を用いて人心を惑わす者を排除することで、 正統な文化を後世に残すためでした。 始皇帝の行った「焚書坑儒」は 後世に語り継がれるべき大きな功績です。 「焚書」と「坑儒」は混同されることが多いのですが、 実は全く別のものです。 坑儒と焚書とを関連づけて最初に論じたのは、 東晋時代の梅賾が漢代の歴史学者孔安国の作として書いた 偽の『古文尚書』です。 つまり、秦代でも漢代でも、 坑儒と焚書が関係のある出来事として 認識されていなかったことを示しています。 始皇帝が焚書を行ったのは紀元前213年で、 坑儒を行ったのはその翌年の紀元前212年で、 同時に行われたものではありません。
2022年06月03日
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錬金術師のうちでもっとも有名な 紀元四世紀の葛洪(かつこう)は、 「草木は焼けば灰になるが、 辰砂は火に熱すれは水銀に変えることができ、 その逆もまた同様である。 辰砂は、ふつうの植物性物質と大きな差異をもち、 それによって人を不死にすることができる」 と書いています。 西洋と同様、支那でも 鉱物や金属は地下で生長するものと考えられており、 紀元五世紀の『鶴頂新書』には、 辰砂は大地のなかで緑色の陽によって受胎させられ、 二〇〇年後には金属を懐妊した緑色の物質になる、 と書いてあります。 最初は鉛が、つぎは銀が、 最後に黄金がうまれる。 死と復活との題目につづいて、 うまれるべき黄金のために、 陽は死に、陰は凝縮されねばならぬと教えています。 こういう自然界の移りゆきは、 実験室で模倣できると考えられ葛洪は、 昇華と蒸溜との過程を、重要だと考えました。 なぜなら、この二つは、 陽の作用の加熱と陰の作用の冷却とが むすびついているからです。 二つの原理は、物質的に水銀と硫黄として 遊離させることができました。 水銀は大部分が陰で、硫黄は陽であり、 この二つの結合から辰砂ができました。 したがって辰砂は、 金属の自然的および人工的形成と、 不死薬の調製との出発点となったのです。
2022年06月02日
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支那の錬金術について 最初に触れたものとして知られているのは、 『前漢書』です。 泰の始皇帝は、 自分が長生きする見込みについて、 道家の呪術師たちに相談したのです。 紀元前三三年に一錬金術師が漢の武帝を訪れ、 辰砂から黄金をつくる方法を お目にかけようと申しでました。 こういう黄金づくりの容器で液体を飲めは、 飲む人が不死になるからです。 支那の錬金術は、 最初から黄金の製造に関係はしていましたが、 卑金属を黄金に変成することよりも、 はるかに(不死薬)の探究のほうに 深くかかわりあっていました。 黄金が重視されたのは、 それが黄色の太陽の金属であり、 活気をつける陽の原理で 満たされているからです。 しかし、辰砂はさらに上位に立っていました。 それは、赤色をしているためと、 熱すると生きている金属の水銀ができるからでした。
2022年06月01日
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