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イスラームの多くの学者のなかで、もっともきわだっていたアピケンナ(別名、イブン=シーナー)は、九八〇年にブハラに生まれています。すべてのことに精通し、古代ギリシアでいえばアリストテレスに相当します。『医学基準』というアビケンナの著書は五冊からなっていて、一七世紀ヨーロッパでなおも医学の教科書としてつかわれていました。医学の一般問題から議論をおこし、重要な病気の診断と治療をのべ、つづいて予防や衛生について、そのあとに薬草を、それから外科、さらにさまざまな病気について記しています。しかし、アピケンナがもっとも心血をそそいであらわしたのは『快癒(かいゆ)の書』一八巻です。これは医学書ではなく、精神をなおすという意味で、哲学と神学の本です。そして、アビケンナの業績は、哲学・神学・医学においてだけでなく、数学・気象学・地質学・生物学など、当時の学問のほとんど全分野に、すぐれた仕事を残した、世界最高の哲学者でした。また、神学者でもあり、偉大な詩人でもありました。自然科学における業績も多く、自分で発明した装置で星を観測し、また、地理学者としても知られています。ちょうど古代ギリシアにおけるアリストテレスのように、アビケンナはイスラーム世界における万能の哲人だったのです。ところが、このアピケンナの一生は、流転のつづく不安定なものでした。追われて砂漠をうろついたり、投獄されて命からがらにげだしたりしたこともありました。こんな波乱万丈の生活をおくりながら、よくもあれほど多くの業績がのこせたものだと、おどろかされます。
2022年12月28日
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医師フナイン・イブン・イスハークはプラトンやアリストテレスの他、デイオスコリデス、ガレノス、ヒポクラテスの医学書も翻訳しました。エウクレイデスやプトレマイオスなどの数学書も、バグダッドでアラビア語に翻訳されました(一部、シリア語版からの重訳もありました)。歴史学者フィリップ・ヒッティは、一九三七年に出版された著書の中で、この時代のバグダッドの知的水準と中世初期のヨーロッパの無知蒙昧ぶりを鮮やかに対比してこう述べています。「東洋でアル=ラシードやアル=マームーンが.ギリシャ哲学やペルシャ哲学を研究していたとき、西洋ではシャルルマーニュや貴族たちが自分の名前の書き方を習おうとしていた」。アッパース朝カリフたちの、科学に対する最大の貢献は、翻訳や研究のための学術機関バイト・アル=ヒクマ(「知恵の館」の意)を設立したことだと言われています。
2022年12月27日
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ウマイア朝の次のアッパース朝(七五〇~二一五今年)時代に、アラブの科学は黄金時代を迎えました。アッパース朝イスラム帝国の首都バグダッドは、カリフ・アル=マンスール(在位七五四~七七五年)によってチグリス川の両岸に建設され支那を除けば世界一の大都市になりました。アッパース朝の最も有名なカリフは、『千一夜物語』にも登場するハルン・アル=ラシード(在位七八六~八〇九年)です。ギリシャ、ペルシャ、インドの原典からの翻訳が最も盛んになったのは、アル=ラシードと息子アル=マームーン(在位八一三~八三三年)の時代でした。アル=マームーンがコンスタンティノープルに派遣した使節団が、ギリシャ語の写本を持ち帰りまた。医師フナイン・イブン・イスハークが加わった使節団で、彼は九世紀最大の翻訳家であり、その翻訳技術は息子や甥に引き継がれました。
2022年12月26日
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アラビアを中心に、ユーラシアの四半部に最初のイスラム(回教:かいきよう)の大国であるサラセン帝国があらわれました。世界史の視点からみると、イスラムの国家が登場たことは、大きな意義をもっています。その後千年のあいだ、イスラム勢力は、世界史に大きな影響をあたえているからです。日本は唐帝国が成立してまもない六三〇年から正式に遣唐使を派遺し、唐の行政や文物をさかんにとりいれました。大化の改新(六四五年)と大宝律令(七〇一年)がおこなわれたのも、唐からかえってきた留学生の得た知識にもとづいておこなわれたものです。同じようにインドやギリシャの学問を取り入れたイスラムは独自の科学・文芸を発展させました。ウマイア朝(六六一~七五〇年)時代に、イスラム帝国の版図は現在のアフガニスタン、パキスタン、リビア、チュニジア、アルジェリア、モロッコ、スペインのほぼ全土、オクソス川(現在のアフガニスタンからトルクメニスタン、ウズベキスタンを流れるアムダリア川)以東の中央アジアの大半にまで拡大しました。新たに征服した、それまでビザンチン帝国の支配下にあった国々やペルシャからから、ギリシャ科学を吸収しました。アカデメイアがエスティニアヌス帝によって閉鎖されたとき、ギリシャの学者たち(シンブリキオスもその一人だった)の亡命先がペルシャだったのです。キリスト教世界の損失が、そのままイスラム教世界の利益となりました。
2022年12月23日
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大仏の目は長さ約一・二メートルあります。菩提僧正の手によって筆が運ばれ、そこに瞳が入れられました。この時に用いられた筆は、現在も正倉院に残っています。この筆に、五色の績(長さ約二一・五メートルの綱)が一二本結びつけられて、聖武天皇以下参列者の人々は皆この綱を握ったのです。この高さ一六メートルもある大仏の眼に、どうやって菩提僧正が瞳を点じることができたのかは現在わかっていません。足場のようなものを設けて目の位置まで登ったのか、僧正を寵にのせて、大仏殿の梁などを利用して滑車でつり上げたのか、どちらかでしょう。このように開眼会第一の結願(けちがん)開眼の行事が終わると、講師の隆尊によって華厳経が講じられました。大安寺、薬師寺、元輿寺、興福寺からも、種々の献物が仏前になされました。大仏殿の中には、日本古来の音楽や舞楽、外来の音曲が奏せられ『続日本紀』には、この日の記事のさいごを「おこなわれた事のめずらしさ、また、さかんであった様子は、とうてい描写できない。ともあれ仏法が伝来して以来、これほどさかんな斎会は、いまだかつてなかった」と結んでいます。聖武太上天皇はこの開眼会がすんで安心したのか、ますます病がちとなり、天平勝宝今年(七五六)五月二日に没しました。
2022年12月22日
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天平勝宝四年(七五二)四月九日、大仏開眼会が行われました。大仏建立の詔が出されてからすでに九年の歳月が経っており、元正天皇も、大僧正行基(ぎようき)もすでに故人となっていました。大仏の鍍金(ときん)はまだ完全には終わらず、銅座の刻画も未完成でしたが、聖武天皇の健康があやぶまれたために、開眼供養を急いだのです。この日、大仏殿前の布板殿に、僧形の聖武天皇、光明皇太后、孝謙天皇がすわり、その左右前後に、貴族、宮人、僧侶などが座り参列者一万人を数える大儀式です。儀式は元旦の儀式のように華麗なもので、大仏殿の中には香がたかれ、朱塗りの堂の主には造花が散らされていました。東西には繍(ぬいとり)の濯頂(がんじよう)幡、八方には五色の濯項幡がたてられ、堂の周囲にも極彩色の繍の幡がたてられました。人々が待つうちに、おもだった憎たちが、玄蕃頭(げんばのかみ)の先導で南門から入場し、つぎに東門から開眼師のインド人菩提(ぼだい)僧正が白い蓋(きぬがさ)をかざして輿にのって入場します。次には、華厳経の講師をつとめる隆尊が西から、読師をつとめる延福が東から入ってきます。全員が所定の座につくと、いよいよ開眼です。鼓の音、鐘の音が鳴りひびき、散華や読経が行われる中を、開眼師が仏前に進み、開眼を行いました。
2022年12月21日
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墾田永年私財法によって、資財と労働力のある王臣家や大寺院は競って大土地所有に乗り出し、いわゆる初期荘園を成立させることになりました。特にこの時期は大寺院には政府より墾田が施入され、また、七四九年に定められた諸寺の墾田地の限度を見ても、東大寺の四〇〇〇町から法隆寺の五〇〇町まであり、その規模は驚くばかりの大きさです。これらの初期荘園は、その地方の国司・郡司などの積極的協力により経営がなされていましたが、九-一〇世紀の律令国家の衰退につれて没落していきます。この法令は七六五年に、道鏡により、寺院以外の新墾田を禁じるという、寺院の優遇と王臣家の抑圧を狙った政策に改められましたが、七七二年に復活すると、再び王臣家は競って墾田の獲得にのり出していったのです。この墾田永年私財法は後の日本の方向を決める重要な転換点です。荘園を護衛するためにこの頃、武士という階級が誕生し、朝廷はこれから先この法律を廃止にせずに、この荘園から税を取り立てる方法を模索していきます。
2022年12月20日
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七四三年の墾田永年私財法により、それまでの土地国有制の原則は大きく変わりました。三世一身の法は田畑を自力で開拓した場合、三世代にわたって私有が許される期限付きの私有令であったため、期限が近づくと田地が荒れる欠点をもっていました。これを防ぐため、今度は私墾田の永年私有を許可しました。墾田は、自由にかつ永久に私財としてよいという法令が出されたのです。これにより全国に初期荘園が増大しまし。ただし、これには条件がついており、それぞれの位階に応じて五〇〇町から一〇町までの限度が設けられていました。この法令は、この頃の浮浪人対策と同じように、公田の枠ぐみからはみ出した墾田をはみ出したままに把握し、そこから田租の収入を得ようとしたものです。しかし、毎年開かれる墾田を政府が正確に把握することは難しく、思うような効果は上がりません。また、この法令が大仏造立の詔発布の直前に出されているのは、天皇が造立事業に有力者たちの協力を得ようとしたもので事実、大仏造立の事業には地方の豪族たちが莫大な寄進をしています。
2022年12月19日
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『古事記』が帝紀(帝皇日継)と本辞(先代旧事)を素材に正説を定めて記述したのに比して、『日本書紀』は、本文の外に「一書日(イワク)」「或本云(イワク)」と異説を採って並記するという変わった編纂方針をとっています。正史編纂の態度としては手本とされた唐にない客観的なものです。史書の書き方には、歴史事実をお時間経過にそって配列する編年体と、人物.事項等を部類別に通して叙述する紀伝体があり、『日本書紀』はこの折衷体で、本紀・列伝もなくて編年に記しますが、天皇一代ごとに分割した帝王本紀の体裁もとっています。文を作り語を選ぶにあたっては、漢籍の表現を参照または採用した箇所が散見し、『史記』『漢書』『三国志』『梁書』『隋書』『文選』『准南子』唐高祖実録』『萎文頼家』『金光明景勝王経』などに酷似した文があり、書記篇者が参照したのです。『重文類衆』は作文に便利なように抜粋した文例集で、これを適当に取捨選択すると一見、諸書を博捜し漢籍に詳しい人が書いた文のようにみえます。また『金光明景勝王経』は七〇三年に唐で翻訳されものを七一八年に留学僧道慈がもたらしたのです。仏教公伝時の聖明王上表をこの書に依り記したことで、『日本書紀』は奏上の直前まで大胆に内容・表現に手を入れていたことがわかります。
2022年12月16日
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舎人(とねり)親王が勅によって撰修していた『日本書紀』が、七二〇年五月に奏上されました。紀三〇巻のほかに系図一巻があり、序文.上表文の類いもあったのですが、系図以下は散逸しました。並行して同時期に『古事記』が編修されている関係もあって、編纂の過程は、はっきりしませんが、六八一年に天武天皇が川嶋皇子・忍壁(おさかべ)皇子ら一二人に帝紀及上古諸事を記定させたのが淵源となり、六九一年に大三輪・阿曇(あづみ)など一八氏の祖先の墓記の上進で史料を追加したようです。編修に紆余曲折があり、七一四年に紀清人、三宅藤麻呂らが補修を加え、七二〇年に奏上の運びとなったと考えられます。材料としては、日本の記録類として「伊吉連博徳(いきのむらじはかとこ)書」「難波吉士(きし)男大書」「高麗沙門(こまのしやもん)道顕日本世記」「安斗宿祢智徳(あとのすくねちとこ)日記」「調達淡海(つきのむらじおうみ)日記」が利用され、また、前記諸氏族の祖先の墓記・伝承、寺院の縁起、政府の古記録を使ったようです。朝鮮側史料の『百済記』『百済新撰』『百済本記』、唐史料では『貌志』『晋起居注(ききよちゆう)』等も引いています。
2022年12月15日
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簡単に言えば、シラスは日本の国体、ウシハクは帝国主義時代の西欧の国々の国体です。ウシハクは、力を持った権力者が国民を支配するという考え方で、現在も世界中で武力と経済力による権力争いがあります。一方日本という国は、シラスが国体です。天皇陛下が権威を持ち、天皇の宝物が国民で、その国民に活力を与え幸せな国を作るように天皇が臣に権力を与える国です。国民は平等で力を合わせてみんなで幸せになろうというのが日本の国体なのです。大日本帝国憲法には、『シラス』という言葉がしっかり書かれていました。昔の日本という国は、究極の民主主義国家であると同時に社会主義的であり共産主義のようでもあると言う事でそれが、日本人が求めている理想なのです。国民皆平等、困っている人がいればみんなで助け、どこの家庭も家族のように接していたのです。そういう考えを世界に広める事は可能ですが残念ながら、それは簡単にはいかない話であり、大東亜戦争はシラスとウシハクの戦いだったという見方もできるわけです。それには負けてしまったのですが、日本はいち早く復興し高度な文明社会を建設し世界を平和に導いていく努力を続けています。
2022年12月14日
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『日本書紀』が漢文で書かれたのは、支那などの外国に見せてもわかるような、また恥ずかしくないものをつくろうという意図がありました。しかし支那の官選の歴史書と違うのは、第一巻で神代(かみよ)を扱っている点です。前漢(ぜんかん)の司馬遷(しばせん)は『史記(しき)』を書いたとき、神話・伝説の類(たぐい)を切り捨てる態度で歴史に臨(のぞ)みました。日本ではわざわざ神代巻をつくり、しかも、一つの話には多くの、説話が伝承されていることを認め、「一書二日(イワ)ク」という形で、ある本にはこう書いてある、またある本ではこう言っていると、いろいろな部族のそれぞれの伝承を集めて、異説をそれをもすべて記録しています。こんな書き方は現代から見ても、歴史書としては類(るい)がないほど良心的です。素材に対する態度が確立しているのです。その理由は、支那では王朝が何度も替わっているので、古代の伝承そのものに対して司馬遷も愛着がなかったのです。それに対して『日本書紀』は、編纂した人々にとっては自分たちの属する王朝の正史です。文字がなかった時代のいろいろな伝承を、できるだけ広く集めて編集する際の客観性への意図は、十分にもっていました。現代においてすら、客観性を重視した歴史書を持たない国はいくらでもあります。『古事記』『日本書紀』は先の敗戦まで日本人の歴史観の根底をなしていました。
2022年12月13日
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『日本書紀』も『古事記』と同様に『帝紀』と『旧辞』が原典になっていますが、正史だけに巻数も多く、30巻と付属の系図1巻で構成されています。坂本太郎は、天武天皇10年(681年)に天皇が川島皇子以下12人に対して「帝紀」と「上古の諸事」の編纂を命じたという『日本書紀』の記述を書紀編纂の直接の出発点と見ており、唐の正史や朝鮮の資料なども取り入れられています。しかしこれは、『日本書紀』の原資料の1つです。『古事記』は正規の漢文ではなく、漢字を日本語の表音(ひょうおん)文字として用いているのに対し、八年ほど後、これも女帝である元正(げんしょう)天皇(草壁皇子と元明天皇の娘)が舎人親王を総裁にして編纂させた『日本書紀(にほんしよき)』は堂々たる漢文で書かれています。これには帰化人(きかじん)も参加したと思われ、多くの編集員ができるだけの材料を集めて書いたものです。記載されている年代も推古女帝からさらに下って、持統(じとう)天皇の時代までが収録されており、ヤマト政権の誕生からおよそ400年あまり、日本はようやく自らの歴史をしたためるまでに成長してきたわけです。
2022年12月12日
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我が国では国を治める2つの方法について『古事記』上巻「出雲の国譲り」の段で、天照大神(あまてらすおおみかみ)が建御雷(たけみかつち)神をして大国主(おおくにぬし)神に問わしめた言葉に「汝のうしはける葦原中国(あしはらのなかつくに)はわがみ子の知らさむ国と言よさし給えり」として、「ウシハク」と「シラス」の二語がありました。「ウシハク」は本居宣長の解釈によれば、領するということで、これは西欧や支那の発想と同じく、土豪が土地・人民を私有物として支配し領有するということです。これに対して「シラス」は我が国の皇室独自の統治理念で、これに類する言葉は他国にはありません。「ウシハク」は支配者が国土・人民を自分の私有財産と公私を混同してとらえるのに対して、「シラス」は支配者が公私を混同せず、国と家とを明確に区別して、さらに支配者自らの利益のために統治するのではなく、支配者が国民の心を汲み取り、国民の利益を図るべくして行うという統治理念です。これは神代の昔から定まっている我が皇室の伝統的な統治理念で、これこそが我が国を国家として成り立たせている理念に他なりません。明治憲法の策定に当たった井上毅が「シラス」の理念を重視したのは、何より天皇による国家統治が天皇やその一族のためになされるのではなく、国家全体のためになされるのだという公共的な性質を帯びているのだということを示すためです。
2022年12月08日
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『古事記』の場合、原典となったのは、皇室の系図である『帝紀(ていき)』、そして神話や伝承を記した『旧辞(きゆうじ)』の2冊です。もっとも原典になったといっても『帝紀』と『旧辞』から『古事記』が生まれるまでには、現代では考えられないような経緯を経ています。天武天皇は最初、この2冊の精選した内容を稗田阿礼(ひえだのあれ)に暗記させていました。しかし阿礼が年老いて死んでしまうと内容が失われてしまいます。これを心配した元明(げんめい)天皇は、太安万侶(おおのやすまろ)に阿礼の語りを記録させます。こうして老人の記憶を頼りに書かれたのが『古事記』です。その完成は、712年のこと。上中下の3巻からなり、建国神話から推古(すいこ)女帝の時代までが記されています。つまり国史編纂(へんさん)を命じた天武天皇(在位六七三~六人六)の遺志を継ぎ、息子の草壁皇子(くさかべのみこ)の后(きさき)であった元明(げんめい)天皇が太安万侶(おおのやすまろ)に命じて、舎人(とねり:天皇・皇族の身の回りの世話をした役人)の稗田阿礼(ひえだのあれ)による口述(こうじゆつ)を筆録・編纂(へんさん)させたのが『古事記(こじき)』です。天武天皇の意図は、『古事記』にくわしく書いてあるとおり、天皇家の系図や古い伝承を保存することにありました。
2022年12月07日
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「牛、馬、犬、さる、鶏の肉を食べてはならない」という食生活についての国家の方針は牧畜や狩猟を積極的に行うヨーロッパなどの人々とは異なる生き方を日本人に選ばせました。日本人は農業をもっぱらにする民族になっていったのです。これにともなって、山から草や木をむやみにとらないという道徳観念もつくられていきました。中国やヨーロッパでは、たくさんの牛や羊を養っていくために山や森の木を切り倒し、牧草地を広げていきました。その草が食べ尽くされ、思うように草が生えなくなると、さらに山や森の木を切り倒して牧草地を広げました。その結果、土地が裸になり、乾燥して荒れ、深刻な問題になっています。しかし日本は緑にあふれています。この豊かな風土は、天武天皇の時代に定められた方針のおかげです。国を幸福に保ち、繁栄と呼ぶ状態にするには、万人に雇用される機会を与えること、政府の第一の任を、できる限り多種多様な製造業、工芸、手工芸など人間の思いつく限りのものを奨励することとすべきです。そして第二の任は、農業と漁業をあらゆる方面で奨励し、人類だけでなく地球全体が頑張るよう強制することです。国の偉大さと幸福は、豪奢を規制し倹約を進めるような規制からくるのではなく、この方針から期待されるのです。黄金や銀の価値が上がろうと下がろうと、あらゆる社会の喜びは大地の果実と人々の労働の成果に常にかかっているのです。
2022年12月06日
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天武天皇は妻の持統天皇と共に薬師寺を中心とした仏教文化を推進しました。天武天皇が亡くなったあと、皇后から天皇へ転身した持統女帝は、政治的リアリズムの極致をゆく、驚くべき女性でした。即位から十年間、エネルギッシュに地方巡幸に歩き、天武が始めた国史編纂を引き継ぎ、和同開珎を作成し、遣唐使を再開し、律令制度を整備するなど、天武路線による古代天皇制の黄金時代を築くのです。孫の文武天皇に譲位してからも、上皇として死ぬまで政治の権力を握ってはなしませんでした。天武天皇の時代は、その後の日本人の食生活の指針となるものも定めました。日本では、魚を中心にタンパク質を摂る習慣が長く続きますが、これはこの時代からはじまるのです。『日本書紀』には「牛、馬、犬、さる、鶏の肉を食べてはならない」と書かれています。これが食生活についての国家の方針だったのです。このことは牧畜や狩猟を積極的に行うヨーロッパなどの人々とは異なる生き方を日本人に選ばせました。日本人は森を切り開き、広大な牧場をつくる牧畜民の道をとらないで、農業をもっぱらにする民族になっていったのです。
2022年12月05日
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本格的都城であった藤原京を廃してさらに平城京を造営した目的は、第一に、律令を整備し、長年の目標であった中央集権、全国支配を実現しえた自信と唐に似せた小帝国を建設した自負に支えられて、大都城をつくり、内外に勢威を誇示しようとしことです。第二に、律令政治の展開に伴う役人の数は六〇〇〇人に及び、その家族などを合わせると二〇万人が京内に居住することになり、旧来の京城では手狭になったことです。新都造営にあたっては、奈良盆地北端の地が「四禽図にかない、三山鎮をなし、亀笠並び従う」という吉相の所であっただけではなく、膨大な材木をはじめとする資財はすでに周縁地域から得られないため、畿内及び全国に求めざるをえません。その際、平城の地は、材木等の運送される泉川と集積地である木津とが山ひとつ越しただけの、物資調達にきわめて便のよい所であり、とくに注目されたのです。奈良時代は平城が都であり、聖武天皇が短い期間、都を恭仁(くに)、紫香楽(しがらき)、難波に遷したほかは七代七十余年に及びました。
2022年12月02日
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七〇八年九月に巡幸して地形を調査し、直ちに阿倍宿奈麻呂、多治比池守を造平城京司長官に任命し、一二月には平城宮の地で地鎮祭を行うなど、手際よく事業をすすめていた元明(げんめい)天皇は七一〇年三月、遷都を宣し、都を平城(なら)に移しました。しかし、まだ宮も造営中の段階で、京城の整備にも時間を費やし、都城としての完成は、大極殿で朝賀の式を行ない京職の公印を下付した七一五年頃です。唐の都長安に倣って構想された都城で、藤原京の西の京極として利用された下つ道・東の京極に使われた中つ道を各々北に延長して平城京の朱雀大路、東大路とし、これを西に折り返して藤原京の二倍を構想した都城計画です。京内は朱雀大路の東西を左京・右京とし、東西八坊・南北九条に区分しました。東西四・三キロ、南北四・八キロほどです。とくに左京の二条から五条にわたり三坊分の東への突き出しがあり、外京といいます。また、北京極以北に北辺坊が存し、京城は少し複雑な形になっています。京の北部中央に位置する宮には、天皇の居住する内裏(だいり)、儀式・政務を行う大極殿、朝堂十二堂などが建てられていました。造宮は和銅の遷都当時だけでなく、奈良中期にも第一次内裏・朝堂院と第二次の大改造が行なわれました。
2022年12月01日
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