全21件 (21件中 1-21件目)
1

イスラム教徒が 西アジアを中心に建設した大帝国を 中世ヨーロッパではサラセン帝国とよびました。 アラビア半島西岸の メッカ市に生まれたマホメットは、 自分かってに神さまをまつり、 自分の利益になるようなことだけを 祈っていた社会の矛盾を だまってみていることができず、 六一〇年に(四〇歳のとき)、 「神はただひとり、 その下においてすべての人間は平等である」 ととなえはじめました。 これがイスラーム教のはじまりです。 イスラーム教は六三二年以後、 メッカのすこし北のメジナ市で発展し、 「人間は平等」というさけびが 多くの人びとの心をとらえて、 アラビア半島のアラブ民族のあいだに急速にひろがり、 やがてメッカ市もイスラーム教の勢力下にはいりました。 さらに、アラブ民族は 宗教をひろめる使命感と情熱にもえ、 周辺の地域にイスラーム教をひろめようと決心し、 マホメットの逝去(せいきよ)した八三二年に、 東へ、西へ、北へと進撃をはじめました。 アラブの軍隊がつよかったことと、 「人間はすべて平等」という原理が 多くの人びとの心をとらえたことのために、 イスラーム教はまたたくまに拡大していきました。
2022年07月29日
コメント(0)

李治(りち)は、 一一九二年に女真国の都だった 北京で生まれた数学者です。 十代のとき、 チンギス・ハーン率いるモンゴル軍が 支那北部を攻撃して北京を占領したため、 家族は彼を河北省の学校へ遺りました。 一〇年以上にわたり極貧の生活を送りました。 才能溢れる李治は、悲惨な状況の中で 一二四八年に数学の大著 『測円海鏡』を完成させました。 やがて本の頒布と数学の指導とによって 経済的状況が好転した彼は、 平穏な生活を望んで河北省へ戻りました。 李治の本には、それまで解くことのできなかった 一七〇の問題が示されています。 彼は三角形の各辺の長さと、 それに外接あるいは内接する 円の半径との関係に興味を持ちました。 そのような解析では、ふつうピエタゴラスの定理 ――古代支那でも独自に発見されたと いまでは考えられている――が関係し、 さまざまな次数の方程式が導かれます。 そのため李治は、六次までの方程式を研究しました。 そのような方程式は、三角形に関する、 未知数を含む関係式を、 別の関係式に代入すると得られます。 こうした手順を繰り返しおこなうと、 方程式の未知数の次数は急速に大きくなっていきます。 李治は、 問題を解くための方程式の組み立て方は示したものの、 その解法は書き残していません。 より高次の方程式に焦点を当てるというこの姿勢は、 ヨーロッパが古代と近東の数学を足がかりに 暗黒時代から脱するとともに、 きわめて重要なものとなっていきます。
2022年07月28日
コメント(0)

隋王朝の開祖文帝、 すなわち楊堅の父にあたる楊忠は 北周開国の功臣の一人で、 妻は鮮卑の貴族独孤氏の女です。 北朝の漢族官僚と異民族との混血児である楊堅が、 華北における漢族と異族との融合の 結果誕生した統一王朝の君主となったのは 決して偶然ではありません。 南北を統一した隋の文帝は 異民族の鮮卑のたてた北周王朝の官制を廃止し、 漢族の要望にそって、 漠・魂の官制に復古することによって 漢族の政権であることを示そうとしたのです。 かれは自ら質素な生活の手本を示し、 不法な官吏を厳しくとりしまりながら、 律令という法制をもととした 中央集権的な国家の体制、 つまり律令国家の制度を整備したのです。 漢・魏の法制ではまだ はっきり分化していなかった刑法的な律と、 官制的な令との区別をあきらかにし、 律令を基本法とする国家の組織をさだめたのです。
2022年07月27日
コメント(0)

支那の歴史では、 漢帝国が(二二〇年に)ほろんだのち、 四百年ちかくのあいだ社会がみだれており、 六世紀末になって、ようやくひさしぶりで 隋という大帝国があらわれました。 隋は、中華(漢民族による支那)の復興を めざしたのですが、 短命で、かわりに登場してきた唐朝が、 ついに中華の復興に成功しています。 唐はさかんに西域へ進出し、 領土をいちじるしく拡大しました。 支那(漢民族)の領土が これほどひろがったのは、 それ以前もそれ以後もありません。 領土のひろさだけではなく、 それにともなって唐帝国の国威が いちじるしくたかまり、 また四方の諸民族が 熱心に唐の制度をとりいれて、 国づくりにはげむようになりました。 東アジア全体の政治と文化の水準が たかまったということができます。 日本は 唐帝国が成立してまもない六三〇年から 正式に遣唐使を派遣し、 唐の行政や文物をさかんにとりいれました。 大化の改新(六四五年)と 大宝律令(七〇一年)がおこなわれたのも、 唐からかえってきた留学生の得た 知識にもとづいておこなわれたものです。
2022年07月26日
コメント(0)

当時、ユーラシア大陸深部にいた遊牧民 (匈奴帝国が東西に分裂したあと、 西匈奴はさらに南北に分裂しますが、 そのうち北匈奴が西進してきた人々ではないか と言われています)のうち、 西進してヨーロッパに現れた者らは 「フン」族と呼ばれるようになり、 当時北欧・東欧に拡がっていた ゲルマン社会を大混乱に陥れます。 これにより棲み慣れた土地を逐われたゲルマン人が つぎつぎとローマ帝国領内に 民族移動を起こしたたため、 すでに解体期にあったローマ帝国は ひとたまりもなく崩壊していき、 その混乱も中で東西に分裂しました。 正確には「分裂」ではなく、 ディオクレティアヌス帝以降の歴代皇帝が実施してきた 「分割統治」なのですが、 結果的にこのときの分割統治を最後として 二度と再統-されることがなかったため、 便宜上、最後の分割統治だけは 「分割統治」と呼ばず「分裂」と表現します。
2022年07月25日
コメント(0)

前時代から続いていた寒冷化が 400年ごろに寒期のピークを迎えました。 それにより、すでに寒冷期の中で ギリギリの生活を強いられていた遊牧民は その生存すら脅(おびや)かされるようになり、 彼らは生き残りを懸け、 棲(す)み慣れた故地を棄てて 民族移動を起こし始めました。 こうしてユーラシア大陸の深部にいた遊牧民が、 水面に拡がる波紋”のように 南縁部へと拡がっていくことになります。 こうした彼らの動きは、 この次代の上半期(5世紀)は ユーラシア大陸南縁部を大混乱に陥らせたものの、 下半期(6世紀)には 温暖化とともに落ち着きを取り戻し、 早いところではこのころから 遅くとも次の時代までに繁栄期に入っていきます。
2022年07月22日
コメント(0)

前時代から続いている寒冷期は、 5世紀初頭に最寒冷期を迎え 各地で民族移動が起こり、 分裂と混乱がはじまりましたが、 その後は温暖化に向かったため、 6世紀には各地が一斉に統一に向かった時代です。 5世紀、ヨーロッパでは東から 遊牧民フン族が侵寇してきたことで ローマ帝国の東西分裂を促したものの、 6世紀に入ると西欧ではカール大帝による、 東欧ではユステイニアヌス大帝による 再統一を達成します。 支那では、遊牧民五胡の侵寇が本格化したことで 時代は南北朝時代に入りましたが、 6世紀までに隋(ずい)の文帝による統一王朝を生みます。 イラン・インドでは、 北から大月氏の種族である遊牧民エフタルが南下して ササン朝とグブタ朝を大混乱に陥れたものの、 6世紀にはホスロー1世・ ヴァルダーナ朝による再統一を迎えました。
2022年07月21日
コメント(0)

三世紀から六世紀にかけて支那の漢帝国、 西アジアのパルチア王国、 中央アジアのクシャーナ王国、 地中海のローマ帝国、 インドのグプタ帝国が、あいついで滅亡して以後、 しばらくのあいだユーラシア大陸には、 もはや注目される文明大国や大帝国が 存在しなくなりました。 西のほうにある東ローマ帝国と、 パルチアのあとをついだササン朝ペルシャの二つだけが、 わずかに文明の微光(びこう)を 保持(ほじ)していたにすぎませんでした。 つぎのユーラシア史(世界史)の展開は、 七世紀にはじまります。 七世紀は、ユーラシアにとって 新しい時代の開幕(かいまく)になっています。 まず、ユーラシアの東部を中心に、 中央アジアまでまたがる大きな唐帝国が出現しました。 いっぽう、アラビアを中心に、 ユーラシアの四半部に 最初のイスラーム(回教:かいきよう)の大国である サラセン帝国があらわれてきました。 なかでも、長い世界史の視点からみますと、 イスラームの国家が登場してきたことは、 たいへん大きな意義をもっています。 その後千年あまりのあいだ、 イスラーム勢力は、 世界史に大きな影響をあたえているからです。 そこでまず、唐帝国についてかんたんにのべ、 つぎに、サラセン帝国を先頭とする イスラームの興隆について記述します。
2022年07月20日
コメント(0)

漢時代と同様、 宋時代には数学者・天文学者. 暦法師・望師がたくさんいました。 一七九九年に出版された『疇人(ちゅうじん)伝』は、 すぐれた数学者を漢時代からは三八人、 宋時代からは二九人挙げていますが、 そのあいだの王朝からは、 最大数で隋からの九人にすぎません。 一二四七年、 秦九韶(しんきゅうしょう)は『教書九章』発表し、 位取りとゼロの記号とが 支那の数字に導入されています。 かれは、三角法の問題の解法に代数学的方法を与え、 高次の数値方程式と不定方程式とをとりあつかいました。 天文局の長だった邵雍(しょうよう:一〇一一―七七)は、 一定数の項に関する平方数の級数の和を解き、 朱世傑(一二八〇年ころ)は、 二項係数のパスカルの三角形をはじめて記述しました。 支那南部では四世紀の東晋から六世紀の陳にかけて 五つの王朝が興亡しますが、 いずれの時代でも優れた支那文化が花開きました。 この五王朝に 三国時代の呉を加えた六つの王朝を六朝と呼び、 その文化を六朝文化と呼びます。 五世紀に活躍した文化人としては、 詩人陶淵明(とうえんめい)などが有名です。 この頃日本はまだ統一には程遠い状況で、 いわゆる「倭の五王」が 続々と支那(宋)に使いを送りました。
2022年07月19日
コメント(0)

五世紀はユーラシアの東西で 遊牧民が台頭した時代でした。 西のフン族、中央アジアのエフタル、 東の鮮卑(せんぴ)といった、 それまでの時代には”文明の外に置かれた野蛮人” として扱われていた人々です。 彼らは馬を武器に、農業で富を成した 今までの王朝に挑戦を始めます。 そして、これら新勢力の進出に押し出される形で、 別の民族も移動を開始するという 新たな時代を予感させる大きな変化をもたらしました。 支那北朝では五胡十六時代が終わりを告げ、 拓跋(たくばつ)氏による北魏が成立します。 この拓跋氏も 元は遊牧民だった鮮卑の一派でしたが、 支那文化に触れるにつれ、 馬を降りて定住生活を受け入れていきます。 モンゴル平原には柔然(じゅうぜん)という 遊牧民国家が成立しました。 支那北部が”異民族”に占領されたため、 支那文化の中心は南朝に移ります。
2022年07月18日
コメント(0)

あぶみは、馬にのるときの足かけに、 馬の背中から腹へさげた馬具の一つです。 紀元後三世紀ごろまでのあぶみは、 固定されてなかったので、 のっていた兵士がよくころげおちました。 それが四世紀ごろに「固定あぶみ」が発明され、 あぶみに足がしっかりとむすびつけられるようになって、 騎馬兵はもはや、 以前のように馬からおちる心配がなくなりました。 こんな小さな技術の進歩も、 騎馬民族が世界を制圧するようになった、 一つの原因なのです。
2022年07月15日
コメント(0)

紀元元年前後に、 ユーラシア大陸の各地でさかえた古代的大帝国は、 三世紀以後におなじような事情で つぎつぎにほろんでいきました。 経済事情については、自由競争のなかで、 富裕な人がますます富みさかえ、それにともない、 国民の大半である農民の生活がくるしくなっています。 工業はまだ重要ではなかったので、 そのころの富は、 どれほど多くの土地をもつかによってあらわされました。 当時の富豪というのは、 多くの土地(田畑)をもった大地主のことで、 かれらは自由競争のなかで、 ますます多くの土地(田畑)をもつようになり、 まずしい農民は、 生活がますますくるしくなって土地を売りわたし、 大地主の耕地ではたらくどれいの地位へおちていっています。 このように、 社会が少数の富豪と多数の貧乏人にわかれてしまうと、 社会は不安定になり、国はよわくなっていきます。 このようなところへ外族(敵)が侵入してくると、 それに抵抗することができず、やがてほろんでいきます。 大帝国へ侵入してほろぼしたのは、 北方からやってきた騎馬民族だったのです。
2022年07月14日
コメント(0)

宋時代に支那人が発展させたもう一つのものは、 海陸旅行用の羅針盤の使用です。 一〇八六年、河渠の監督官の沈括は一書を著わし、 そのなかで、化石や模型地図や金属変成の実例や ふしぎな方向探知法など、 当時見たさまざまな驚異を記述しています。 かれが述べた金属変成は、 硫酸銅の溶液で鉄を銅に転換させることで、 これは西洋では長いあいだ、 一金属の他金属への真の変化だとみなされていました。 羅針盤については、かれによると、 呪術師たちは、方向を探知したいときは 天然磁石の上で針をこすり、 ついでその針を細糸につるしました。 ふつう針は南を指しますが、 時には北を指すこともある、 とかれはつけ加えています。 一一五〇年までに、羅針盤は 航海と陸の旅とで正式に用いられ、 その方向が真の南北から偏っていることも、 このころすでに認められていました。
2022年07月13日
コメント(0)

支那は一二三七年にはすでに火器をもっていました。 当時の支那の記録は、 数種の火薬用武器のことを述べていますが、 弾丸を発射する火器のことを最初に引用しているのは、 一二五九年に宋の軍隊が 竹の筒でできた火器で タタールを撃退した事件についてす。 つぎにはタタールが、 蒙古に対して使っています。 一二三一年、 蒙古は(震天雷)と呼ぶ武器を使いましたが、 これは鉄器に火薬をつめ、 信管をとりつけて発射機から射つ擲弾でした。 蒙古は一二三三年に支那の弾薬工場を分捕り、 数年後には司令官スブタイが 蒙古のヨーロッパ侵入を指導しました。 日本侵入(一二七四-八一)には、 三種の記事によると、 蒙古人は鉄製の大砲を使ったとありますが、 その一つには、 鉄の砲弾を使ったこともつけ加えています。 年代のはっきりした支那最古の大砲は、 一三五四年と一三五七年と一三七七年とであり、 おなじくヨーロッパ最古の大砲は、 一三八〇年と一三九五年と一四一〇年です。
2022年07月12日
コメント(0)

唐時代の末期までに 火薬が発達していましたが、 火器があらわれたのは宋の末期以前です。 硝石は、支那とインドとでは、 土壌の自然的風化物として産出されます。 硝石のことは、 紀元前第一世紀の支那の古文書に はじめて述べられています。 紀元三世紀の支那の錬金術師たちは、 硫黄と硝石とを火薬としての正しい割合で混ぜ、 この混合物を 高温に熱する実験をおこなっています。 この実験は、 七世紀の文書に述べられている花火の起原です。 唐時代の戦争では火矢が使われましたが、 これは、 矢尻に燃えている木脂をつけただけのものでした。 九六九年に新型の火矢があらわれましたが、 これは一種のロケットです。 一〇四〇年の記録は、 火薬が新しい火のロケットに使われたことを述べ、 火薬の正しい方式を くわしい調製法とともに記しています。 一〇六七年に発せられた勅令では、 硫黄と硝石とを国外に輸出することを禁じましたが、 これも当時の支那で 火薬がどれほど貴重視されたかを物語るものです。
2022年07月11日
コメント(0)

磁器の製造は、 漢時代の粗末な素焼きにはじまり、 唐で高度な完成を見ました。 六二一年には その製造のための官が設けられました。 手押し一輪車は第五世紀に発明され、 七世紀には、 耐水の仕切りと船尾材の舵とをとりつけ、 踏み車で動く外輪船があらわれました。 唐時代には、 木版印刷が支那の仏教の僧院にはじまり、 この印刷の残存している最古の本は、 紀元七七〇年のいくつかの仏教の経文で、 最古の印刷本は、 甘粛の千仏洞で発見された 紀元八六八年の金剛経です。 本の印刷は、 まもなく支那一帯にひろくおこなわれ、 孔子の古典は九三二年に、 正史類は九九四年から一〇六三年のあいだに 印刷されています。 蒙古人が辺境の民族を踏みにじった 一二〇六年以前の時期に、 木版印刷はウイグル族にまでひろがり、 ウイグル人は仏典を、 サンスクリット語の註釈と 支那語のページ数とを附して、 シリア起原のアルファベット文字を使った 自国のトルコ語で印刷しました。 粘土活字は、支那で一〇四〇年代に、 畢昇(ひつしよう)によって発明されました。 木活字も その後のある時期に使用されるようになり、 一二○○年ころの標本が 千仏洞で発見されています。 最後に、鋳造金属の活字が発展し、 一四〇三年の同型活字の標本が 朝鮮で発見されていますが、 この活字を使った印刷本は 一四〇九年のものでした。
2022年07月08日
コメント(0)

唐代の玄奘(六〇二~六六四年)が翻訳した 『成唯識論』によって成立したのが法相宗で、 弟子の基(慈恩大師、六三二~六八二年)が 開祖とされています。 支那仏教全体に大きな影響を与えたのが、 法相宗の教理の中の五性各別説です。 それまでの支那仏教では、 すべての者が悟れることを疑いませんでしたが、 これは人が悟れる能力に五つの 区別を設けるもので、 なかには悟れない者もいる、 という主張です。 当時の最先 端の学説に基づく 五性各別説に反論するのは容易ではありません。 この学説に対して反論した人物が、 華厳宗を大成した法蔵(六四三~七一二年)です。 杜順、智儼につぐ三祖・法蔵が大成した華厳宗は、 『華厳経』に基づき南北朝時代の 地論宗(じろんしゅう)を受けて成立した宗派です。 法蔵は、 法相宗の立場を自分の教学の中に取り込みつつ、 それを超える原理を提示して 五性各別説を克服しました。
2022年07月07日
コメント(0)

ユングの分析心理学によると「こころ」は、 表面に(顕在)意識があり、 その奥に個人的無意識・集合的無意識がある、 という構造になっています。 唯識思想は、 ユングの分析心理学に類似した部分があります。 ユングの「こころ」の構造と対比すると阿頼耶識とは、 主に集合的無意識に近い機能を持ち、 一部、個人的無意識の概念もあるように思えます。 個人的無意識は普段現れてこない個人的な無意識で 集合的無意識は人間が先天的に持っている 民族・集団などに共通する無意識で、 「元型」と呼ばれるものが存在しています。 つまり「元型」(archetype)とは、 人間に生まれ持ってそなわる集合的無意識で働く 「人類に共通する心の動き方のパターン」 のことで 阿摩羅識と類似しています。
2022年07月06日
コメント(0)

唯識では成仏には三大阿僧祇劫 (さんだいあそうぎごう: 数えることのできないほどの) と呼ばれるとてつもなく長い時間の 修行が必要だとされています。 修行の結果悟りを開き仏になると、 9つの「識」は「智」に転じます。 これを転識得智(てんじきとくち)といいます。 五識は成所作智(じょうしょさち: なすべきことを成し遂げる智)に、 意識は妙観察智(みょうかんざつち: 十分に観察する智)に、 末那識は平等性智(びょうどうしょうち: 自己と 他人とは平等で有ると知る智)に、 阿頼耶識は大円鏡智(だいえんきょうち: ありのままに観じ取る智)に 転ずるとされています。 さらに清浄と染汚が並存する 阿頼耶識よりも根本にあって清浄な阿摩羅識 (根本清浄識)が不汚染智(ふぜんなち: 衆生の生命に本来的にそなわる智に転じます。 転識得智の考え方は 天台宗や真言宗にも受け継がれています。
2022年07月05日
コメント(0)

唯識はインドで成立し、中央アジアを経て、 支那・日本と伝えられ、 さらにはチベットにも伝播して、 広く大乗仏教の根幹をなす体系です。 倶舎論とともに仏教の基礎学として学ばれています。 龍樹(ナーガルジュナ)に始まる空の思想を 「中観」といいます。 さらに続いて弥勒 (みろく:三五○~四三〇年:Maitreya:マイトレーヤ)や 世親(ヴァスバンドゥ)が出て、 「唯識」をおこしました。 諸存在が、唯(ただ)、 九種類の識によって成り立っているという 大乗仏教の見解の一つです。 ここで、九種類の識とは、 五種の感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、 意識、2層の無意識 (末那識:まなしき、阿頼耶識:あらやしき)、 そして阿摩羅識(あまらしき)という清浄な領域を指します。 唯識は、認識論的傾向を持つ思想体系です。 瑜伽行唯識学派は、 中観派の「空 (くう)」思想を受けつぎながらも、 心の作用は仮に存在するとして、 その心のあり方を瑜伽行(ヨーガの行・実践)で制御し、 また変化させて悟りを得ようとしました。
2022年07月04日
コメント(0)

大乗仏教の中観の教理の基盤は、 般若経の教えです。 この世のすべての現象は、 存在現象も含めて、 原因(因)と条件(縁)によって 生起(縁起)しており、 その現象はそのまま 他の現象の原因もしくは条件となっています。 現象にそれ独自の固有な本性が あるわけではなく無我であり、 空性(くうしょう)であり、 現象は「空」という「相」を持っているとします。 真実には存在しない現象を、 人間が誤って認識するために 様々な名称をつけていますが、 現象自体が空なので、 我々が現象を認識することそのものが誤りであり、 すべてのとらわれから離れた、 いずれにも偏らない 「中(ちゅう)」の立場でなくてはならない という中観(空)の教えは、 大乗仏教の中心的課題となり、 禅宗やチベット仏教などにも大きな影響を与えました。 唯識学派の論理学や認識論を 中観の立場から解釈し中観の学説の下に 瑜伽行唯識学派の学説を配置することによって 両学説の統合を図る折衷的立場は、 それぞれの名から瑜伽行中観派とも呼ばれます。
2022年07月01日
コメント(0)
全21件 (21件中 1-21件目)
1


![]()