全19件 (19件中 1-19件目)
1

大和朝廷は、 古墳時代の畿内に存在した政治権力です。 日本に現存する最古の神話・歴史書である 『古事記』『日本書紀』(『記紀』)には、 神々から代々続く天皇家が 古くから日本を統治していた様子が 描かれています。 それらの記述は現実に残る「古墳」、 特に畿内を中心とする「前方後円墳」の 成立・拡散の歴史とうまく対応しています。 したがって、古墳時代の畿内に 当時の倭国(日本)を統治していた 強大な政治権力が 「大和朝廷」と呼ばれ始めたのです。 大和の統治範囲は平安遷都以前は 歴代の皇居のあった奈良県全域に相当し、 元明天皇の時、 「倭」に通じる「和」の字に「大」の字を付けた 「大和」を用いることが定められました。 朝廷は君主が政治をとるところです。 ところが、近年では 「大和」「朝廷」といった語句の定義に問題が生じ、 「大和朝廷」の呼び名は 「ヤマト政権」「ヤマト王権」に 置き換わりつつあります。
2022年08月31日
コメント(0)

はじめは傭兵にすぎなかった セルジュク・トルコ人が 次第に東部回教君主国の 支配権を接収するにつれて、 バグダドの文化的な重要性は だんだんと下り坂になりました。 しかし一部の学者は、 トルコ人の支配下にとどまりました。 たとえば、ベルシアの詩人で数学者の オマル=ハイヤム(一一二三没)も その一人です。 かれは、 アル=フワーリズミーの数学を発展させ、 アル=フワーリズミーが 二次方程式しかとりあつかわなかったのに、 かれは三次方程式を論じました。 バグダドにのこらなかった人たちで、 ペルシャ人のアルレビルニのように 東方の回教インドに移った人びともいました。
2022年08月30日
コメント(0)

回教徒が支那人からうけついで 西方世界へ伝えた技術には、 紙の製造法がありました。 七〇四年のサマルカンドの戦闘で、 回教徒は数人の支那の製紙職人を捕虜にし、 その製紙職人たちが 製紙技術を回教徒に伝えたのです。 回教圏の最初の製紙工場は、 七五一年にサマルカンドに、 つぎは七九三年に. バグダドに設立されました。 紙の製造は九〇〇年にはエジプトに、 1100年にはスペインにひろまり、 それから北ヨーロッパに伝わったのです。 ヨーロッパでの最初の製紙工場は、 一一八九年にフランスの エロ一に設立された工場でした。 しかし紙の材料は麻くずで、 それ以上の良質な紙はできませんでした。
2022年08月29日
コメント(0)

純潔兄弟は、 万物は水銀と硫黄との二原理の 相互作用によって形づくられるという教義を、 系統的に述べました。 この教義の起源は、支那の錬金術にも、 アレクサンドリアの錬金術にもあります。 硫黄の原理は、能動的.男性的で火の精であり 支那人のいう陽であり、 アリストテレスの著わした 『気象学』における煙のような発散物でした。 水銀の原理は、 感受的・女性的で液の精であり、 支那人のいう陰であり、 『気象学』における湿った発散物でした。 回教徒の錬金術師は、 ギリシャの四元素説を採用し、 金属はその元素の構成を 量的に変えることによって 変成することができるとしました。 実際面では、回教圏の錬金術師は天秤を使い、 化学的作用を定量的に研究した点が 注目に価します。 かれらはまた、 鉱酸や、硝石(支那の雪と呼んだ)など、 ギリシャ人の知らなかった 化学薬品も知っていたのです。
2022年08月26日
コメント(0)

純潔兄弟は、 正統回教徒の学者たちが ギリシャ人からうけついでいた 演繹約・幾何学的な推理に反対しました。 かれらは、神秘を理性の上におき、 神秘は経験によって探究きると主張しました。 純潔兄弟は、 人間は全世界の小宇宙であるという、 歴史を通じて錬金術師や 宗教的な神秘家の支持を得た考えを かれらの世界体系の基礎としました。 かれらは、 人間が全宇宙のうちの小宇宙 または縮図であるという考えの結果を はじめて詳細にわたってしらべ上げ、 人間の解剖学および生理学と、 当時知られていた世界の構造および作用との 全面的にわたる類似と一致とを見出しました。 かれらは人間が肉体と魂とからできている という見解と類比し、 化学という一つの特殊の分野で、 自然界の物質を(肉体)と(精神)という 二つの大きな階級に分けまし。 そして(精神)は揮発性の物的であり、 (肉体)は非揮発性の物質であるとしたのです。
2022年08月25日
コメント(0)

自分たちの思想の普及活動のために、 神秘家であるかれらは、 回教圏のさまざまな郡市に 純潔兄弟(イフワーン・アッサファー)の 学校を設立しました。 回教国の錬金術の 大集成を著わした純潔兄弟は、 九世紀におけるスラィ主義の誕生地だった. ハスラにあるこの種の学校でした。 かれらの錬金術書は、 かれらが執筆した百科辞典の ほんの一部であり、 百科辞典の五二篇の論文のうち 一七篇が科学間題にあてられていました。 だがこの著作は、 バグダドの正統なスンナ派によって 異端と宣告されて焼かれてしまい、 そしてついに一一世紀になって 純潔兄弟は弾圧されてしまいました。
2022年08月24日
コメント(0)

錬金術は、回教圏では九世紀に、 (神秘家)と呼ばれる ジャビル=イブン=ハイヤンがおこしました。 ジャビルの著作として、 または中世ヨーロッパの呼名でいえば ゲベルの著作として今日伝わっている文書は、 みずから(純潔兄弟)と名乗る 一〇世紀の神秘主裁者の一派による集成です。 錬金術はつねにある程度 (非公開の)性格をもっており、 一方では神秘的な宗教と、 他方では化学的手工業の伝統との むすびつきを示していました。 回教圏では、おそらくほかのどこよりも、 こういうむすびつきが目立っています。 正統派の回教は公認のスンナ派ですが、 民衆のあいだには スラィ派の神秘主義がひろまっていました。 スラィ派のうちでも 急進的な分派はカルマト派で、 この派の人たちは、 万人は平等であることを主張し、 学校の建設や 百科辞典の執筆のような教育活動によって、 同志たちに同一の資格を与えようとつとめました。 カルマト派はことに職人に関心をもち、 回教圏にギルドを発展させました。
2022年08月23日
コメント(0)

医学問題について回教徒初の独創的な学者は、 ベルシア人のアル=ラジ(九二三没)です。 かれは、フナインの門人の一人について バグダドで研究しました。 西洋では ラゼスの名で知られているアル=ラジは、 一〇〇篇以上の著作をしましたが、 もっとも有名なのは、 当時知られていたギリシャとインドと 中東と支那の医学全部を包括した『関連の書』です。 なぜ支那の史料かというと、 アル=ラジの時代からすこしのちの 九八八年に執筆したアル=ナディムは、 支那の一学者が一年ほどアル=ラジといっしょにいて アラビア語の会話を学び、 ガレノスの著作を支那語に翻訳した、 と述べているからです。 ガレノスが支那の医学に 影響をおよぼしたわけではありませんが、 支那の医学で大きな役割りを演じた脈博学は、 回教徒第二の大医学者だった ブハラのイブン=シナ(九八〇-一○三七)の執筆した 百科辞典的な『医学正典』のなかにあらわれています。 アル=ラジも イブン=シナ(西洋の呼名はアウィケンナ)も、 ガレノスの諸理論の改良はしませんでしたが、 実際面では、ずっと多くの薬品を知っていたのです。
2022年08月22日
コメント(0)

アル=マムンは、八二九年にバグダドに 天文観測所を創立しました。 ここでの観測は アル=ファルガニ(第九世紀の前半)によってはじめられ、 ついで、サビ教徒で星を礼拝した アル=ハッタニ(約八五入-九ニ九)と サビト=イブン=クッラ(約八二六-九〇一)とによって つづけられました。 かれらは、メソポタミアのハッラン出身です。 ハッランでは、 古代のバビロニア宗教が 占星術と星の礼拝をともなって、 異教的なサビ派のかたちで存続していました。 この宗教は、一三世紀にその教徒が 蒙古人に絶滅されるまでは、 メソポタミアにつぎつぎとあらわれた 征服者たちすべてから、 黙認されていました。 アル=ハッタニは、 プトレマイオスよりいっそう正確な 黄道の傾斜と歳差との値を得たました。 またかれは、太陽の離心率が変化しつつあること (現代流にいえは、 地球の軌道は変化する楕円形であること) を発見しました。 このころアル=フワリズミ(八五〇年ころ没)は、 インド数学とインドの計算法とを 回教世界に紹介しましたが、 その代数学はインド人のものよりは劣っていました。
2022年08月19日
コメント(0)

アッバス王朝第二代の君主アル=マンスルは、 第五世紀にジュンディシャプルに 医学と天文学の学校を建てていた ペルシャ人の例にならって、 バグダドに科学者たちを集めました。 インドの天文学者マンカは、 七七三年にアル=マンスルに拝謁し、 インドの科学書 『シッダンタ』・『チャラカ』・『スッエルク』 を翻訳しました。 第五代の君主ハルン=アル=ラシドは、 ギリシャ語の原論文を集めることを命じ、 第七代のアル=マムンは、 これらの著作を翻訳するために、 八二八年ころ(知慧の家)を設立しました。 ここの主任はネストリオス派の フナイン=イブン=イスハク(約八〇九-七七)で、 ガレノスの医学文書の大部分を翻訳し、 プトレマイオスの天文学の翻訳をはじめました。 この仕事は、 約九〇人の門人によってつづけられました。 かれの子イスハク(九一〇没)は、 プトレマイオスとエウクレイデスとの著作を翻訳し、 フナイン=イブン=イスハクの甥ラバイシュは、 ヒポクラテスとデイオスコリデスとの著作を翻訳しました。
2022年08月18日
コメント(0)

辺境部族の一つで、 ローマの外人部隊だったウマイア家は、 シリアをそっくりそのまま接収し、 六六一年にダマスクスに 最初の回教君主国を打ち立てました。 ウマイア王朝は、 最初からギリシャ化していました。 この王朝は、ダマスクスに科学者を集め、 七〇〇年ころには そこに天文観洲所を創設しました。 しかしギリシャ化したアラビア人は、 宗教的情熱からわきでるエネルギーを欠いていました。 七四九年、 ウマイア王朝は宗教心のさらにつよい アッバス王朝の前に崩壊し、 アッバス王制はバグダドで回教君主国を建て、 征服したペルシャの文化を採用したため、 ギリシャ化よりもむしろペルシャ化しました。
2022年08月17日
コメント(0)

ヨーロッパに進出した遊牧民フンは 謎の多い民族です。 この大王アッティラの名は、 当時のヨーロッパ人を 恐怖に陥れた人物としてよく知られています。 4世紀末から5世紀にかけ、 フン族がヨーロッパを荒らしまわったことで、 そこに暮らしていたゲルマン系民族は 移住を余儀なくされ、移住先の各地で ゴート、フランク、ヴァンダル、ブルグントといった ゲルマン系民族の王国を成立しました。 この一連の動きに翻弄され弱体化していた 西ローマ帝国の皇帝は、 476年、ゲルマン系軍人オドアケルの攻撃で 退位に追い込まれます。 こうして西ローマ帝国は、 分裂後100年と経たずに滅亡しました。 ゲルマン民族大移動のきっかけを作ったフン族は、 かつての中国(漢)を脅かした 匈奴(きょうど)の子孫です。 彼らはユーラシア内陸の草原地帯を駆け抜け、 はるばるヨーロッパまでやって来たのです。 東洋史と西洋史はやはり 様々な局面で繋がっているのです。
2022年08月10日
コメント(0)

回教徒は外国文化を熱心にとりいれました。 紀元六三四年から七五〇年のあいだに、 東は支那の境界から西はピレネー山脈におよぶ 帝国を打ち立てたアラビア人は、 征服に乗りだす前も、 野蛮遊牧民ではありませんでした。 アラビア商人は、インドのウジャインから エジプトのアレクサンドリアまでの 海上輸送貿易に参加し、 アデンからインドまでの航路の大部分を 独占していました。 予言者ムハムマドの教義は アラビア人に征服への霊感を与えましたが、 そのムハムマド自身も商人だったのです。 辺境のアラビア部族は、 ローマ人やビュザンティオンのギリシャ人に 外人部隊として勤務し、 雇い主たちのやりかたをある程度学んでいました。 一部のアラビア人はキリスト教に改宗し、 ビュザンティオン帝国内でもとくにシリアで、 文官として勤務していたのです。 ですから回教周が出現する以前に、 アラビア人のうちには教養的な要素があり、 これが、 ギリシャ科学を同化しやすくした要囚でした。
2022年08月09日
コメント(0)

すでに紀元前3000年に古代エジプトには、 図書館があり天文学や医学、数学などの 書物がおさめられていました。 ナイルの氾濫は、自然科学を生み育てた母でした。 古代ギリシャからローマに受け継がれた科学的な遺産は、 ヨーロッパでは戦争により破壊され、 その後キリスト教によって闇に押し込められますが、 アラビア人の手によって発掘され、 ヨーロッパより東の地域で受け継がれ、 発展することになります。 彼らは、ギリシャやローマ時代の科学上の古典を アラビア語に翻訳し、 首都バグダットには 書籍商や天文台、大図書館もあったそうです。 バグダットでは、学校や学会もつくられ、 学術研究のために 各地にすんでいる学者との交流も さかんにおこなわれていました。 アラビア人は、その東にある東洋とも交流をもち、 羅針盤などにみられるように 支那の科学も利用した文化が混在していました。 自然を研究するのに、 ギリシャ時代の古典にさかのぼりましたが、 ギリシャ人が単に頭の中で自然を考えたのとはちがって アラビア人は、実際の自然を観察し、 測定と実験によって研究を進めていきました。 ビルニーは、中世最大の科学者のひとりといわれ、 彼は数学と天文学にひいでていたそうで、 子午線を用いて地球の大きさの測定をおこなった と言われています。 また、光線の幾何学も アラビア人によって進歩したもので、 1050年ころにはレンズを製作していました。
2022年08月08日
コメント(0)

インド古代の文明については まだわからないことが多い。 インドの文明社会も、 メソポタミア・エジプト・支那の場合と同様に、 河の流域に青銅給時代の文化とともにおこりました。 しかしながら今までのところ、 紀元前三〇〇〇年ころ栄えた インダス河の文明については、 多くのことがわかっていません。 インダス河流域の人びとは、 絵文字と十進法の数とをもっていました。 かれらは、スメル人とおなじように 回転の早いロクロを使い、 銅と錫との合金である青銅をつくりました。 しかし織物は、 西洋の亜麻や羊毛あるいは東洋の絹ではなくて 木綿でした。 しかし紀元前二〇〇〇年ころには、 このインダス河の文明も絶滅してしまいました。 古代のインダス文明の滅亡は、 おそらく、サンスクリット語を語る アーリア族によります。 かれらは北方からインドに侵入し、 征服したドラヴィダ人の上に 自分たちの姓階制度を打ち立てました。 そのバラモン僧のなかには学者たちがいて、 プラクリット語が日常語になったのちまでも 長く古代サンスクリット語を使って かれらの祭式と学問とを口伝してきました。 しかしアルファベット文字は キリスト紀元のはじまる以前に採用され、 そのころから古代の学問が転写されました。 こういう古代のテキスト、 すなわち『ヴュダ』には、 太陽や月やいくつかの星座について 述べてあるところもありますが、 惑星は認められていません。 ピエタゴラスの定理の特殊な場合が、 祭壇の建立に関連して記され、 金・銀・鉛・鉄、それに錫のような 金属についての記載もありました。
2022年08月05日
コメント(0)

インドではグプタ朝が、 チャンドラグプタ2世の元で 最盛期を迎えます。 彼の時代、新しい仏教美術が開花し、 アジャンター寺院など インド各地の宗教施設を彩りました。 またヒンドゥー教が 大きく拡大したのもこの頃で、 交易を通じ、仏教やヒンドゥー教は、 新興国が生まれつつあった 東南アジアにも伝わりました。 しかしチャンドラグプタ没後の5世紀後半には、 遊牧民エフタルがインドにも侵入し、 交易路を断たれたグプタ朝は衰退を始めます。 エフタルは西アジアのササン朝ペルシャ帝国にも 打撃を与えるなど、 後の歴史にも大きな影響を与えていますが、 当時を知る資料が少なく、 その実態は多くの謎に包まれています。
2022年08月04日
コメント(0)

ササン朝ペルシャは、 イラン高原ファールス地方から勃興した勢力で、 その支配領域は エーラーン・シャフル(ĒrānŠahr)と呼ばれ、 おおよそアナトリア東部、 アルメニアからアムダリア川西岸、 アフガニスタンとトルクメニスタン、 果てはウズベキスタン周辺まで及びました。 始祖アルダフシール(アルダシール1世)が ゾロアスター教の神官階層から台頭したこともあり、 帝国の支配の正当化と統一力として ゾロアスター教を活性化させました。 壮大な記念碑や公共事業を建設し、 文化的および教育的機関を優遇しました。 ササン朝の文化的影響力は、 西ヨーロッパ、アフリカ、中国、インドを含む 領土の境界をはるかに超えて広がり、 ヨーロッパとアジアの中世美術の形成に 大きな影響を与えました。 ペルシャ文化はまた イスラム文化の多くの基礎となり、 イスラム世界全体の 芸術、建築、音楽、文学、哲学に影響を与えました。
2022年08月03日
コメント(0)

サラセン帝国は、東のほうでは、 ササン朝ペルシャをほろぼしてから、 まもなく中央アジアのサマルカンドまで 征服しました。 西のほうでは、 北アフリカ沿岸にそって西へすすみ、 七一一年にジブラルタル(地中海の西端)にたっして、 そこをこえてイベリア半島(今日のスペイン)に せめこみました。 そしてまもなくイベリア半島を征服しました。 こうして、 東はユーラシア大陸の中央にあるサマルカンドから、 西は大西洋岸にいたるまでの大帝国が出現したのです。 いっぽう、ユーラシア大陸の東半分では、 大唐帝国が国威をかがやかせており、 この二つの大帝国は、 サマルカンドで国境を接することになりました。 サマルカンドは今日ロシア領内にあり、 アフガニスタンのすぐ北に位置しています。 二つの大帝国がユーラシア大陸を 二分してしまったようなものです。
2022年08月02日
コメント(0)

漢帝国行政の組織が 秦帝国のひきうつしであるにかかわらず、 漢帝国の確固とした統治のかげにかくれて、 支那最初の中央集権的官僚国家を創造した 秦始皇の偉業は長いあいだ忘れられていました。 後漢末以後の内乱と 異民族の内地移住とによって生じた 支那社会の大変動を収束してうちたてた 隋の集権的な世界帝国の組織は、 唐帝国の母型となったのですから、 その功績も高く評価されます。 唐は、隋 を滅ぼした李淵(高祖)が 618年建国した中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国です。 中央アジアや、東南アジア、 北東アジア諸国(朝鮮半島や渤海、日本など)に、 政制・文化などの面で多大な影響を与えた世界帝国です。 隋と唐の違いは二代目皇帝の差です。 隋の二代目皇帝の煬帝は能力は高かったのですが横暴で、 多くの民を苦しめて結局クーデターで倒されました。 それに対し唐の二代目皇帝の太宗・李世民は 民の生活にも留意することで名君と呼ばれ、 300年近く続く唐帝国の基盤を築きました。
2022年08月01日
コメント(0)
全19件 (19件中 1-19件目)
1
![]()
![]()
![]()