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地方では、国郡里制が制定され、政府から全国に国司が派遣されます。これがいわゆる旧国名に繋がるのですが、さらに東海道・中山道・北陸道・山陽道・山陰道・南海道・西海道の七道と呼ばれる地域と大和・摂津・和泉・山背(のちの山城)・河内などの比較的都から近い五畿に分けられていました。国にとって大事なものの一つに税金があります。例えどれだけ国の制度を整えても国の運営に必要な資金がなければ何もできません。そのため大宝律令では税制度も制定していきました。まず、日本は天皇が治めるを中央集権国家となりましたので、全ての土地は天皇の物としました。そして農民たちにはこの天皇の所有している土地の一部を口分田という形で貸し与えてそこで農作業をさせたのです。これを班田収授制というのですが、これによって政府は国民たちに対して収穫量の3%から10%を租として徴収しました。また、政府は20歳以上の国民に対して布やお米を収めるか都で一定期間中働かせるかのどちらかをさせるようになりました。これを庸といいます。さらに、17歳以上の国民には自分が住んでいる土地の特産品を収めるようになります。これを調といいます。大宝律令ではこの租庸調制と呼ばれる税金のシステムによって政府は成り立っていたのです。
2022年11月30日
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天皇中心の国家を作るために大宝律令では中央政府と地方区分について決められました。まず、中央政府の方では二官八省と呼ばれる体制が築かれました。二官というのは太政官と神祇官のことを指すのですが、太政官が政治担当、神祇官が祭事担当。今の時代で表すと太政官が内閣で、神祇官が神社本庁とです (太政官には上から太政大臣、左大臣、右大臣、大納言などの役職がありました) 。太政官の下には、中務省(天皇の命令である勅書の作成や戸籍をまとめる担当 ここが一番偉い)、式部省(貴族の人事などを担当)、大蔵省(朝廷の財政担当 今の財務省みたいな役所)、民部省(戸籍や税の管理・国の財務管理担当 今の国税庁みたいな役所)、宮内省(朝廷のお世話役担当 今の宮内庁みたいな役所)、兵部省(軍事などの担当 今の防衛省みたいな役所)、刑部省(法律の執行担当 今の法務省のような役所)の八つの省が置かれて、日本の政治を動かしていました(ちなみに、ランクは卿、大輔、少輔、大丞、少丞、大録、少録に分かれていました)。そのほかにも、朝廷の護衛や仕事をちゃんとしているかのチェックをする五衛府、警察みたいな役職である弾正台、九州を管理する太宰府、摂津国を管理する摂津職が置かれました。
2022年11月29日
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律令の律の部分です。五刑というのは犯罪を犯した時に犯人に対してどのようなことを行うというのを決めたもので、笞刑(細い竹の棒で叩く刑罰。10回から50回まで10回刻みで別れています)、杖刑(太い木の杖で叩く刑罰。60回から100回の10回刻みですが、普通に考えて死ぬほど痛いのは確実です)、徒刑(今の懲役刑。1年から3年まで半年刻みとなっている)、流刑(島流し。当時都が置かれていた奈良県から近い近流、中流、遠流の三つに別れていました)、死刑(絞首刑の絞と斬首刑の斬に別れていました)の五つの刑罰です。しかし、この五刑は貴族の場合は贖銅といって大量の金銭を政府に納めると罪が許されました。それとは別に謀反、謀大逆、謀叛、悪逆、不道、大不敬、不孝、不義、これら八虐と呼ばれる八つの重罪が決められていました。これは例えば親を殺したとかだったり、天皇に対して歯向かったり、反乱を起こした時に対する罪などですが、この罪を犯すとどれだけ金を積んでも否が応でも死刑になるのは確実だったそうです。
2022年11月28日
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藤原不比等は文武天皇を擁立したことや大宝律令を制定したことによって政治的な権力基盤を築くことになり、のちに続く藤原家の基礎を作っていくことになります。大宝律令とは701年に制定された日本初の律令のことで大宝律令の原文は存在しませんが、養老律令や書物には記録されており、五刑八虐などの法律や、二官八省などの政治システムが作られました。また大宝律令により班田収授制が成立して、国民は租庸調と呼ばれる税を納めることになりました。大宝律令が制定された時の天皇は文武天皇でしたが、実際には刑部親王や藤原不比等が中心として作られ、この大宝律令によって大化の改新以来から天皇達が目指してきた中央集権国家の設立がついに達成されます。そして、日本の歴史はここからしばらくの間、朝廷が政治を行う時代へと変わり、大宝律令は奈良時代や平安時代の律令の基礎となります。
2022年11月25日
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壬申の乱という古代日本の中で最大規模の内乱に勝利した天武天皇は日本を近代化させるために自ら政治を行い始めます。天武天皇は妻の持統天皇とともにかつて天智天皇が目指そうとした大化の改新を成し遂げるために、大宝律令が制定されるちょうど20年前の681年に、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)と呼ばれる法令を発布しました。この飛鳥浄御原令は余りにも唐の制度をそのまま取り入れたため浸透せずに終わってしまいます。そして20年後に、息子である刑部親王(おさかべしんのう)に大宝律令と呼ばれる律令を発表させ、ようやく日本初の律令が完成して、日本は律令国家となったのです。大宝律令の制定は唐などに舐められないような天皇中心の中央集権国家の建設の集大成とも言える出来事だったのです。この大宝律令は文武天皇が直接制定したのではなく、その親族である刑部親王や藤原不比等などが中心として制定していたのです。
2022年11月24日
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藤原京の宮殿の屋根は瓦葺が採用されており、その重量に耐えるために大きな柱と礎石を大量に必要としました。しかし、近隣の山や森林のみでは用材の調達に不足したので、「藤原宮役民の作れる歌」に詠まれているように、遠く近江国の田上(たなかみ)山(滋賀県栗太郡)に用材を求めました。そこで伐採・製材された木は、筏に組んで宇治川・淀川の水流に浮かべて流し、さらに木津川を綱で引いてさかのぼらせ、木津付近で陸揚げして奈良山を越え、奈良盆地を藤原の地まで引き運ばれたのです。全国から幾万の役民がかり出されて上京し、長期にわたってきびしい労役に駆使されました。今日、藤原京の故地とその周辺に飛弾(飛騨)・丹後・上総.薩摩など、国名をつけた地名が四十数カ所残っていますが、これらの地名の多くは、藤原京造営に徴発された役民が、出身国ごとにまとめられて寝起きした一種の飯場があった場所です。
2022年11月23日
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新都造営の動きは、壬申の乱彼の中央集権的な支配機構の形成過程、とりわけ飛鳥浄御厨令の編纂がはじまる天武十年前後から、にわかに活発化します。律令国家の首都として、唐の長安・洛陽、新羅の慶州にもつりあう大規模な都の建設を描いたのです。藤原京は東西二一一八メートル、南北三〇八六メートルの南北に長い縦長の長方形で平城京の約三分の一ほどの面積があります。藤原京は唐の長安城をモデルにしたと考えられていましたが、最近では唐以前の北魂や隋の都で、南北に長い縦長の形をした洛陽城との関連が注目されてきています。また、藤原京は、以前から存在していた古道を利用して設定され、西京極の下(しも)ツ道(みち)を北へ直進すると平城京の朱雀(すざく)大路へつながります。藤原京は律令国家の完成を象徴する都で、それまでの都の規模をはるかに凌(しの)ぐ最初の唐風の都城だけに、その造営は未曽有の大工事となり、莫大な労力と資財が投入されました。その様子の一端は『万葉集』の柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)作かという「藤原宮役民(えきみん)の作れる歌」に詠まれています。
2022年11月22日
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六六八年三月、皇太子中大兄(なかのおおえ)皇子は都を飛鳥から近江の大津に遷しました。だが、この遷都にはかなりの抵抗がありました。『書紀』は「この時に、天下の百姓、都遷ること願はずして、諷(そ)へ諌(あざむ)く者多し。童謡(わざうた:政治や異変を諷刺する歌)また衆(おお)し。」と伝えています。六四五(大化一)年以来わずか二十余年の間に、中大兄は飛鳥から難波へ、それからまた飛鳥へ、さらに筑紫へ、ついで飛鳥への遷都、いままた近江へと、めまぐるしく遷都を繰り返してきました。それに使役された人民の労苦は多大で、その上、近江は大和を遠く離れた畿外の地です。大和に本拠を有する貴族・宮人にとっても望ましい場所ではありません。当時、中大兄の妃となっていた額田王が近江へ移り行く途中で詠んだ歌には、大和に名残りを惜しむ気持がよく表われています。この歌は遷都を願わぬ人々に共通する思いでした。白村江敗戦の不満がくすぶっている折に、強い反対を押し切って遷都を断行した最大の理由は、唐の侵窺に対する危機感ですた。近江遷都の前年、唐は高句麗遠征の大軍を出兵させています。中大兄は海岸から遠く離れ、背後に広大な東国のひかえる内陸の近江が、防衛上最適の地であると判断し近江国志賀郡の大津を都に選んだのです。その後は大友皇子が大津京の主となったが、まもなく起こった壬申の乱で皇子は滅び、大津京も灰尽に帰し、わずか五年間の都に終ったのです。
2022年11月18日
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額田王(ぬかたのおおきみ)」は飛鳥時代に活躍した歌人です。額田王に関する資料は、非常に少なく、誕生は630年ごろ、没年は690年ごろとされていますが、生没年や両親についても詳しいことは分かっていません。しかし『万葉集』に、彼女が詠んだ歌が数多く残されていることから、歌人として高く評価されていたことは間違いありません。若いころに和歌の才能を見出され、斉明(さいめい)天皇の女官として出仕した額田王は、豊かな才能を武器に、斉明天皇の片腕となり、宮廷歌人として活躍し、やがて斉明天皇の息子・大海人皇子(おおあまのおうじ:後の天武天皇)と結ばれ、女児を出産します。その後、夫の兄である天智天皇に見そめられ、彼の妻になりました。天皇2人に愛されたことから、和歌の才能だけでなく、見た目も美しい女性だったと思われます。額田王が詠んだ歌は、『万葉集』に三首の長歌と九首の短歌が残されており、特に傑作とされているのが、「白村江(はくすきのえ)の戦い」に向けて詠んだ、次の歌です。「熟田津(にきたつ)に船(ふな)乗りせむと月待てば潮(しほ)も適ひぬ今は漕(こ)ぎ出でな」
2022年11月17日
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約一ヵ月にわたって戦われた壬申の乱は大海人皇子の圧倒的勝利に終りました。大海人皇子の最大の勝因は、貴族・地方豪族の広い支持を得ることができたからです。彼らは天智天皇の急進的改革(大化の改新)で特権(私有していた土地・人民)を奪われたことに強い不満を抱いていたのです。大海人皇子は彼らの不満をたくみに利用し、それを大友皇子と近江朝廷にぶっつけたのです。皇位継承の争いに始まった壬申の乱が大規模な内乱に発展したのは国内の不満が一挙に爆発したからでした。壬申の乱の結果、実力で皇位についた大海人皇子(天武天皇)の権力は急上昇し、天武天皇は誰はばかることなく律令国家建設への政治をおし進めていきました。
2022年11月16日
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明くれば壬申の年(六七二)、吉野で忍従の日々を送っていた大海人皇子は、天智没後の政情不安のさなかの六月二四日、わずかな従者とともに東国へ進発し、ここに壬申の乱が勃発したのです。昼夜兼行で伊賀を経て伊勢まで強行軍して、早くも二七日には美濃の不破に本営を置くのです。大友皇子が機先を制されて軍兵の動員に手間どっている間に、大海人皇子は東国の大兵力を結集し、これを二隊に編成して七月二日に総攻撃を命じました。第二隊は大和方面に進出して大伴氏らの軍と合流し、南大和の箸陵(はしはか)の戦いで大友方の大軍を撃破しました。大海人皇子の長子で弱冠一九歳の高市(たけち)皇子率いる第一隊は、近江へ進撃し、大友軍を打ち破りながら琵琶湖の東岸を破竹の勢いで進み、七月二二日、大友方の最後の防衛線である瀬田川におし寄せました。この日は大友皇子みずから出陣し、瀬田川をはさんで両軍最後の決戦が始まりました。瀬田橋を奪取された大友軍は総崩れとなり、大友皇子はわずかに身をもって逃れましたが、翌日、山前(やまさき)の地で自害し、また大津京も焼かれて灰燵に帰したのです。
2022年11月15日
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乱の原因は、天智天皇が弟の大海人(おおあま)皇子を皇太弟に立てて次期皇位継承者としていたことにあります。しかし天智天皇の長子大友(おおとも)皇子は卑母の所生ですが、人並以上の資質に恵まれていたため、晩年の天智天皇は大友に将来を託そうと考え、大友を太政大臣に任命して大友の政治的地位の強化をはかりました。このため皇太弟大海人の地位は不安定なものとなり、大海人は天智の心変わりと強引なやり方に強い不満と反感を抱きました。兄弟の仲は次第に不和となっていったのです。その原因は天智天皇が作ったのですが、まもなく天智天皇は病床に伏す身となり、枕頭に大海人を呼んで後事を託す旨を告げた。しかし、天智の真意を見抜いていた大海人皇子はこれを固辞して出家し、吉野に隠棲して皇位への野心のないことを公にしました。その二カ月後の六七一年一二月に天智天皇は没しました。
2022年11月14日
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しかし、中大兄皇子の救援軍派遣による百済復興軍の勢力の活発化も唐が大軍を百済に送ると一変し、復興軍内部に内証がおこり、豊璋が福信を謀反の疑いありとして殺害する事態に陥りました。八月、唐・新羅の連合軍は百済復興軍の拠点である周留(す(そ)る)城(忠清南道錦江下流)に水陸から迫りました。錦江下流の白村江で唐水軍と日本水軍が遭遇しましたが、二日間にわたる戦闘の結果は、『旧唐書』に「其舟四百膿を焚(や)く。煙と談(ほのお)、天に漲(みなぎ)り、海水皆赤し」と書かれているように日本軍の惨敗に終りました。陸上でも百済復興軍は惨敗し、豊璋は高句麗にのがれ、日本軍は亡命を希望する百済遺民をともなって帰国しました。百済復興の夢はむなしく消え、遂に日本は朝鮮半島から閉めだされたのです。
2022年11月11日
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六六〇年一二月に至り、斉明女帝は百済救援軍派遣を宣言しました。朝鮮半島から遮断され、さらには第二の百済になる可能性もあるという危機感が、敢(あ)えて軍事的冒険に踏み切らせた要因です。翌正月、女帝みずから大和をたち、三月には博多湾岸の磐瀬行宮(いわせのかりみや)(福岡市三宅か)に本営を設け、長津宮(ながつのみや)と称しました。天皇自身が外征にそなえて畿内を離れたことは前例がなく、悲壮な決意でした。五月、女帝は本営を朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなひろにわ)(福岡県朝倉郡部倉町)に遷しましたが、七月に至り急死しました。そこで中大兄皇子は即位しないで、皇太子のまま、天皇としての政務をとる(称制:しょうせい)ことにしました。中大兄は本営をもとの長津宮に戻し、遠征軍の編成を行い、九月には豊璋に織冠(しきかん)を授け、五千余の軍をつけて百済に送還しました。翌六六二年五月、前将軍阿曇達見羅夫(あづみのむらじひらふ)らは船一七〇艘を率いて百済に渡り、豊璋を王位につけました。この間、唐が高句麗征討に力を入れていたので、復興軍の勢力は活発になりました。六六三年三月、日本は二万七〇〇〇の軍を新羅にむけ派遣しました。救援軍ははじめ前・後二軍でしたが、この時に動員地域別、或は派遣の時間的前後を考慮し軍編成は前・中・後の三軍に改編されました
2022年11月10日
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六六〇(斉明六)年三月、唐の高宗(こうそう)は新羅の宰相金春秋の要請を機に、行き詰まった高句麗征討を打開するため、百済への攻撃を開始しました。唐・新羅連合軍は百済軍を各地で破り、七月には百済の都の潤批(しひ)城(扶余)、さらには旧都の熊津城(公理)をも陥落させ、遂に義慈(ぎじ)王と太子隆(りゆう)を捕虜とし、百済を滅ぼしました。しかし百済遺民の国家再興の心は根強く、鬼室福信(きしつふくしん)が任射岐山(にぎきのむれ)(忠清南道大典付近)、余白進(よじしん)が久麻怒利城(くまのりのさし)(能…津江=錦江の沿岸)に拠(よ)って兵をおこし、復興運動を展開します。百済滅亡の報は九月に日本に届き、さらに一〇月、鬼室福信が使者を派遣し、唐の捕虜百余人を献じて、日本の援軍と、百済義慈王の子、余豊璋(よほうしよう)の送還を要請しました。
2022年11月09日
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天智天皇(中大兄皇子)は、大化の改新により中央集権国家の体制を整備しただけでなく、皇太子時代の斉明(さいめい)天皇6年(660)5月に日本で最初の水時計(漏刻)を取り入れ、人々のあいまいな時間意識を一変させ、即位後には新たな漏刻を整備(『日本書紀』天智天皇10年4月辛卯条)しました。1981年に発見された飛鳥寺の西にある斉明天皇時代の漏刻台跡である水落遺跡がその遺構と言われています。漏刻は、容器に水を流し入れ、たまった水の水位の変化によって時間の推移を読み取る仕組みです。漏刻は同時期の唐のものを参考に、複数の水槽を階段状に並べ管でつないでいたと考えられます。水槽は漏壺(ろうこ)と呼ばれ、一番下の漏壺(箭壺(せんこ))の上には唐の十二辰刻制に基づいて時刻を刻んだ「箭(せん)」を持つ人形が置かれていました。十二辰刻制は24時間を12に割り、十二支の名をつけたもので、箭壺の水位が上がるにつれて箭も浮上し、その動きを見て時間の変化を把握したのです。漏刻で時間を計るにあたっては、多くの人数を必要とし漏壺に水を注ぐ役、水位を読み時刻を告げる役、また時間を問わず水を流す役などがあり、重要な設備だったのだと分かります。
2022年11月08日
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任那(みまな) が新羅(しらぎ)にほろぼされてから約1世紀,朝鮮半島の三国は,攻防をくり返していました。新羅は7世紀のなかばに,唐(とう)と結んで 百済(くだら)を攻めます。唐が半島に水陸13万の軍を送り込むと,日本は危機感を覚えます。300年におよぶ百済との親交もありますが,半島南部が唐に侵略されると唐・新羅連合軍による日本侵略の直接の脅威を無視できなかったのです。天智天皇(中大兄皇子)は,662年,百済に援助物資と共に大軍を送り、翌年663年,半島南西の白村江で唐・新羅の連合軍との決戦を行いました。2日間の壮烈な戦いののち,日本軍は大敗北します(白村江の戦い)。日本の軍船400隻は燃えあがり,天と海を炎でまっ赤に焼き百済は滅亡しました。その後、唐と新羅の本土侵入をおそれた日本は, 防人(さきもり:海防(かいぼう)のために九州に置かれた兵士)を置き, 水城(みずき:水城(九州の大宰府(だざいふ)防衛のために築かれた城)を築いて,国をあげて防衛に努めました。日本書紀にも「天智(てんち)三年(664),対馬嶋(つしまのしま)、壱岐嶋(いきのしま)、筑紫国(つくしのくに)などに防(さきもり)と烽(とぶひ)を置く。また、筑紫(つくし)に、大堤(おおつつみ)を築きて水を貯えしむ。名づけて水城という。』とありますように、この防衛努力は,おのずと日本における国家統合の意識を高めました。
2022年11月07日
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中臣鎌足(なかとみのかまたり)は,中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)に接近し,蹴鞠(けまり)の会で蘇我氏打倒の思いを打ちあけます。それから1年半後,2人は,645年6月の朝鮮からの使者が来日する日に,宮廷で計画を決行することにします。当日は雨でしたが,中大兄皇子は,みずから長槍(ながやり)を取って身を隠しました。鎌足は,宮廷に来た入鹿(いるか)の刀を腰からはずさせました。しかし天皇の御前に出た入鹿が、切りつけることを命じてあった者が,恐怖のあまり体が動かないのを見て,あやしみだしたので,中大兄皇子は機会を失ってはならないと感じ,すばやく飛び出して剣で入鹿を斬ったのです。おどろく天皇に,皇子はひれふして,ことのしだいを述べました。蘇我氏を助ける者はちりぢりになり,蘇我蝦夷(えみし)は屋敷に火をつけて自害し,蘇我氏は滅亡(めつぼう)しました。
2022年11月04日
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豪族蘇我入鹿が天皇の廃位・擁立をするほど権力を誇っていた時代に、その専横を快く思わなかった中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が立ち上がります。後に日本の政治に常に居座り続ける藤原氏の祖となった鎌足を中心に行われたこの改革により、日本の政治は大きく変わることとなります。最大の変化は、唐を手本とした中央集権国家となったことです。土地と人民の私有を認めず、全て国家のものとする公地公民制租調庸の統一税制田の収穫から税をとる班田収授法などが取り決められたことが、中央集権化の大きなポイントです。また、蘇我氏が倒されたことや、豪族も私有地を奪われたことから、天皇を中心とした政治が行われるようになったことも、この改革の大きな意義です。
2022年11月02日
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徳川時代の学者からは、太子は蘇我氏との関係から、非難を加えられましたが太子の偉大な理想、業績は大化の改新で実現されています。太子は学問を好み、儒教を博士覚哿、仏教を高麗の傑僧慧時慈法師に学びました。太子が仏教に造詣が深く信仰にも厚かったことは言うまでもありませんが、わが国固有の神祇祭祀と仏教の信仰は一致すると信じ、推古の摂政として政をするにあたり、三方(仏・法・僧)を敬うべしという詔を推古二年に下し、大いに仏教を奨励し諸群臣の仏寺建立を励ますだけでなく、推古十五年に神祇祭祀の詔を下し「今、朕(あ)が世に當(あ)たりて、神祇(かみ)を祭祀(いはひまつ)ること、豈(あに)怠り有らむや。故(か)れ、群臣(おみたち)共に為に、心を竭(つく)して、宜しく神祇(かみ)を拝(ゐやま)ひまつるべし。」と仰せられました。これにより人間の心の文化である仏教と自然を尊ぶ神祇祭祀とが一致してわが国家の精神となったのです。
2022年11月01日
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