全19件 (19件中 1-19件目)
1

皇位は日本武尊の弟・成務天皇が継ぎましたが、 その崩御後は日本武尊の息子が継ぎ、 仲哀天皇へと即位しました。 仲哀天皇はその父と同じように 九州へ出兵しようとしますが、 熊襲征伐の途上、住吉大神に逆らったため崩御します。 その皇后である神功皇后は、 神託を告げる巫女のような役割を持っており、 「新羅を征伐せよ」との神託を受けます。 神託によれば、 熊襲の土地は荒れており わざわざ天皇が行く意味はない。 それより海上の新羅は、 まばゆいばかりの黄金で満ちあふれており、 戦わずして手に入れられるばかりか、 それによって熊襲も服従するであろう というものでした。 しかし、 仲哀天皇は山に登り大海原を見て とてもそのような国は見えないと神託を信じず、 神の怒りに触れて、 熊襲鎮圧途上に筑紫で急死したのです。 神の怒りに触れて矢で腹を射抜かれたとか、 琴を引いている時に急死したとか、 武内宿禰が取りなしたとかいう話が伝わっていますが、 遺体は豊浦の地で仮埋葬され、 後に藤井寺の方へ正式に埋葬されました。 神は皇后に、船を用意するよう告げ 住吉大神の助力により皇后は三韓を従えました。
2022年02月28日
コメント(0)

叔父である成務天皇に男子が居なかったことから、 後継者に指名され 天皇崩御(成務天皇48年)の翌々年即位しました。 日本武尊(やまとたけるのみこと)の第二子で 母は両道入姫(ふたじのいりひめ:垂仁天皇皇女)。 異称: 足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと) 生没年: 成務天皇7年 ~ 仲哀天皇9年 52歳 在位期間 成務天皇48+2年 ~ 仲哀天皇9年。 応神天皇の父で、 日本書紀には仲哀天皇は容姿端麗で 長身と書かれています。 44才で即位。 仲哀天皇(ちゅうあい)は早く亡くなったため、 当時としては短い在位です。 九州討伐に遠征に行くほどの アグレッシブな人でした。 即位して2年目に気(息)長足姫を皇后に立て、 やがて彼女が「神功皇后」と呼ばれ、 夫である天皇より有名な女性となりました。 彼女は、女性として初めて 紙幣に肖像画が描かれた人物でもあります。
2022年02月25日
コメント(0)

13代成務天皇は、311年に即位しました。 晋書によれば、台与は266年に 13歳での即位と考えられますから、 約半世紀の在位期間の記事がありません。 台与は享年57です。 景行天皇陵が「倭国の[山辺道上陵]」とあるから、 [直方市山部]の鞍手高周辺に台与の陵があるのでしょう。 台与の最大の業績は、[魏志倭人伝]にあるように、 [倭国大乱]と[卑弥呼]の死後の乱と 合せて120年におよぶ乱を鎮め、 倭国に再び平和を取り戻したことに尽きます。 晋書の266年の倭女王の遣使以降、 国外での倭国の情報は途切れますが、 韓半島の「[三国史記]」[新羅本紀]に 若干の記事が残されています。 [287年]、倭人が一礼部を襲撃し、 火を放って焼き、一千人を捕虜として去った。 [292年]、倭兵が沙道城を攻め落とした。 [294年]、倭兵が来襲して長峯城を攻撃した。 [300年]、倭国に使者を送った。 [312年]、倭国王が使者を遣わし、 皇子のために婚姻の要請をした。 台与の在位中は、 倭が[新羅]を攻撃ばかりしていましたが、 300年に新羅から使者が来た後、 和平の方針に転じました。 312年の倭王はおそらく成務天皇でしょう。 では、台与は[邪馬台国]内では どのような治世を行ったのかは、 景行・成務の治世から推測するほかありません。
2022年02月24日
コメント(0)

遣使は朝鮮半島諸国との外交を有利に進め、 なおかつ4世紀後半以降獲得した半島における 権益に関して国際的承認を得ることも 重要な目的でした。 倭王たちは宋に半島南部の軍事的支配権を 承認してくれるよう繰り返し上申し、 最終的には「使持節 都督 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」 に任ぜられ、 新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓についての公認を得たものの、 百済に関してはついに認められませんでした。 宋が北魏を牽制するため戦略上の要衝にある百済を重視したこと、 倭と対立する高句麗の反発を避けようとしたのが理由です。 また、倭王の将軍号は高句麗王・百済王と比較して 常に格下でしたが、 これも同様に高句麗・百済の 地政学的な重要性を考慮したものです。 478年の遣使を最後として、 倭王は1世紀近く続けた支那への朝貢を打ち切ります。 倭王武に比定される21代雄略天皇は 雄略の実名が記された稲荷山古墳出土鉄剣の銘文では、 支那皇帝の臣下としての「王」から 「大王」への飛躍が認められます。 江田船山古墳出土鉄刀の銘文にも 「治天下大王」の称号が見え、 支那の冊封体制から離脱し 独自の国家を志向しようとしたようです。
2022年02月22日
コメント(0)

遣使の目的は支那との交流を図ると共に、 中華皇帝の威光を借りることによって 当時のヤマト王権にまつろわぬ諸豪族を抑え、 国内の支配を安定させる意図があったのです。 倭王は自身のみならず臣下の豪族にまで官爵を望んでおり、 このことから当時のヤマト王権の支配力は 決して超越的なものではなく、 まだ脆弱だったと推測されます。 438年の遣使では倭王珍 (反正天皇:はんぜいてんのう:第18代天皇)が 「倭隋」なる人物ら13人に 「平西・征虜・冠軍・輔国将軍」の除正 (支那王朝が、近隣諸国の君主・臣下の称号を認定すること) を求めていますが、 この時珍が得た「安東将軍」は 宋の将軍表の中では「平西将軍」より一階高い位でしかなく、 倭王の倭国内における地位は 盟主的な存在であった可能性が窺えます。 451年にも、やはり倭王済(第19代允恭天皇)が 23人に将軍号・郡太守号の称号を望んでいます。
2022年02月21日
コメント(0)

宋の歴史をまとめた『宋書』には、 5世紀初頭から末葉まで、 およそ1世紀近くに渡って 主に南朝の宋(420年 - 479年)に 王、讃・珍・済・興・武の5人の倭王の使者が 貢物を持って参上し、 宋の冊封体制下に入って 官爵を求めたことが記されています。 倭の五王が 記紀(『古事記』と『日本書紀』)における 天皇の誰に該当するかについては諸説あります。 宋に続く南斉の史書『南斉書』・梁の『梁書』 ・支那の南朝について書かれた歴史書『南史』においても、 宋代の倭王の遣使について触れられています。 一方、日本側の史料である『古事記』と『日本書紀』は 朝貢の事実を記していませんが、 倭の五王に比定される天皇の時代 に「呉国」と使者のやり取りがあったという記述があり、 「呉」とは支那南東部の地域に当たることから これが南朝の宋を意味するとも考えられます。
2022年02月18日
コメント(0)

天叢雲剣は草薙剣とも言われ、 三種の神器(八咫鏡、八尺瓊勾玉、草薙剣)の一つです。 三種の神器の中では天皇の持つ武力の象徴とされています。 日本神話において、スサノオが 出雲国で八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治した時に、 大蛇の尾から見つかった神剣です。 日本武尊が「東夷の叛」の平定を父景行天皇から命じられた際、 伊勢神宮に参り、天照大神(八咫鏡)を祀る 叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)から草薙剣を授けられ、 東国へ携えて出征しました。 この記事は、 ある時期三種の神器のうち 八咫鏡と草薙剣が伊勢神宮にあり、 倭姫命によって皇位継承者として認められた とする伝承の存在を示しています。 日本武尊の東征物語では、 焼津で焼き討ちにあった時に 天叢雲剣で草を薙いで窮地を脱したとあります (天叢雲剣は、草を薙ぎって災難を逃れた時、 草薙の剣と追銘されました〉。 東征は窮地の連続でした。 走水神の折には日本武尊を慕ってついてきた妻の 弟橘比売(オトタチバナヒメ)も失ってしまいます。 愛する妻である弟橘比売が、 その命を犠牲としたとき「あづまはや」と 心がはちきれんばかりに泣き叫びました。 そこから、東国を、【あづま】と呼ぶようになりました。
2022年02月17日
コメント(0)

景行天皇の即位27年8月、 熊襲が再び謀反をおこしたので、 10月に小碓尊(16歳)に命じて熊襲を征討させます。 小碓尊は首長の川上梟帥を謀殺して日本武尊の名を得ます。 即位40年8月、 大碓皇子に東国の蝦夷を平定するよう命じます。 先立つ即位25年7月から27年2月、 武内宿禰に北陸・東方諸国を視察させて 豊かな土地を発見したからです。 しかし大碓皇子は危険な任務を拒否し 美濃国に封じられました。 結局、日本武尊が東征に向かうこととなり、 途中の伊勢神宮で叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)から 草薙剣を授かります。 陸奥国に入り、戦わずして蝦夷を平定。 日高見国から 新治(茨城県真壁郡)・甲斐国酒折宮・信濃国を経て尾張国に戻り、 宮簀媛(みやずひめ)と結婚。 その後近江国に出向くが、胆吹山の荒神に祟られて身体不調になる。 日本武尊はそのまま伊勢国に入るが 能褒野(のぼの、三重県亀山市)で病篤くなり30歳で崩御、 埋葬された後に白鳥となって飛び去りました。 途中で舞い降りた大和国と河内国に白鳥陵が造られた。 出発から三年後のことです。 天皇は日本武尊の死を深く嘆き悲しんだ。 即位53年、日本武尊を追慕して東国巡幸に出ます。 まず伊勢に入り東海を巡って10月に上総国に到着、 12月に東国から戻って伊勢に滞在、 翌年9月に纒向宮に帰りました。 翌年の即位55年、 叔父である豊城命の子の彦狭島王を 東山道十五国の都督としましたが、 任地に向かう途上、春日の穴咋村で亡くなりました。 そこで翌年に 改めて彦狭島王の子の御諸別王を派遣しました。 即位58年に近江国に行幸し 志賀高穴穂宮に滞在すること3年。 即位60年11月、崩御。
2022年02月16日
コメント(0)

景行天皇(けいこうてんのう、 垂仁天皇17年 - 景行天皇60年11月7日)は 活目天皇(垂仁天皇)の第3皇子で、 日本の第12代天皇です。 『日本書紀』での名は大足彦忍代別天皇。 即位12年、九州に親征して 熊襲・土蜘蛛を征伐しました。 即位27年、熊襲が再叛すると 小碓尊(16歳)を遣わして川上梟帥を討たせました。 即位40年、前もって武内宿禰に視察させた 東国の蝦夷平定を小碓尊改め日本武尊に命じました。 3年後、帰途に伊勢国能褒野において 30歳で逝去した日本武尊を埋葬し、 大和国と河内国にも白鳥陵を造ります。 即位51年、8月4日に稚足彦尊を立太子に任命します。 即位52年、5月4日の播磨稲日大郎姫の崩御に伴い 7月7日に八坂入媛命を立后。 即位53年から54年にかけて 日本武尊の事績を確認するため東国を巡幸します。 即位58年、近江国に行幸し高穴穂宮に滞在すること3年、 即位60年、同地で崩御されます。
2022年02月15日
コメント(0)

垂仁天皇88年7月条によると、 新羅王子を自称する天日槍が持って来た 但馬の神宝を見たいと天皇が言ったので、 使者を遣わし天日槍曾孫の清彦に 勅命を下して献上させました。 神宝とは羽太の玉、足高の玉、鵜鹿鹿の赤石の玉、 日鏡、熊神籬の5物でした。 これらとは別に 「出石(いづし)」という名の小刀1口がありましたが、 清彦は「出石」だけは天皇に渡してはなるまい と思い立ち、衣の下に隠しました。 しかし天皇が清彦を遇しようと 御所で酒を与えられた際に見つかってしまいました。 清彦は隠し通せず、 これが神宝の1つであることを言上すると、 天皇はこれと他の神宝とを一緒にして 神府(みくら:奈良県天理市の石上神宮の神府)に 納めました。 しばらくのち、天皇が神府を開くと 小刀が自然になくなっており、 清彦に人を遣わして問いただすと、 清彦は小刀が自然と清彦の家に来たが その日の朝にはなくなったと言いました。 天皇は畏れそれ以上は小刀を求めることをやめましたが、 一方の小刀はのちに自然と淡路島に至り発見されたので 島人により祠に祀られました。
2022年02月14日
コメント(0)

田道間守(たじまもり) あるいは多遅摩毛理(たじまもり)は、 新羅の皇子といわれています。 4-5世紀頃来日し、名の通り、 但馬(たじま)の国あたりを支配した実力者でした。 新羅王子の天日槍が小舟に乗って但馬国に停泊し、 そのまま但馬に留まったとも伝えています。 そして天日槍は但馬国の 前津耳(一云に前津見または太耳)の娘の 麻拕能烏(またのお)を娶り、 麻拕能烏との間に但馬諸助を儲けました。 これが清彦の祖父です。 日本書紀によると、ある時、田道間守は、 天皇から「常世の国から橘(みかん)をもってくるよう」 指示をうけて、苦難の末やっと常世の国 (現在の韓国済州島と言われる)から帰ってきますが、 田道間守を迎えたものは垂仁天皇の死でした。 その悲しみのあまり田道間守は天皇陵の側で死んでしまう。 人々は、これを悼み、天皇陵の側に橘の木を植えました。 この故事から、御所には 「右近の橘(うこんのたちばな)」が植えられる様になった と言われています。 現在でもこの垂仁天皇陵の側に、 田道間守のみかんが植えられています。
2022年02月11日
コメント(0)

第九代開化天皇の項に、 天皇の孫に「讃岐垂根王」の名前を 『古事記』に見ることが出来ます。 更にこの讃岐垂根王の姪に 「迦具夜比売命」なる名も見る事が出来ます。 讃岐なる名前の人の姓は、 『古事記』に記載されているから 存在していた実証となります。 更にこの迦具夜比売は十一代垂仁天皇の妃となり、 その子の袁邪弁王なる御子の名も記載されています。 『竹取物語』に書かれた「おじいさん」の名前は、 『竹取物語』の冒頭に 「今は昔、竹取の翁というものありけり。 名をばさぬきの造となむいひける」とあります。 つまり竹取翁の名前は 「讃岐造(さぬきのみやつこ)」と書かれていることから、 『竹取物語』のおじいさんは讃岐村の長でした。 古代では、地名というものは その土地の豪族の名前をつけたのです。 更に地名は千年過ぎても変わらないことが多い。 つまり、「讃岐造」とは讃岐村の長で、 讃岐村を治めていたのは讃岐氏であったのでしょう。
2022年02月10日
コメント(0)

崇神天皇の時代に始まった全国統一の動きは、 垂仁天皇の御代においても継続して進められました。 この帝の御代にも政治の中央集権化は進められました。 また斎宮(いつきのみや)の齊王である皇女の 倭姫命(やまとひめのみこと)が、 天照大神を祀るための新たな場所探しを命じられ、 近江や、美濃を巡ったあげく 伊勢の五十鈴川の辺に祠を建てました。 これが伊勢神宮(内宮)の始まりです。 即位25年、 武渟川別・彦国葺・大鹿嶋・物部十千根・大伴武日の 五大夫を集めて先帝の偉業を称えて神を祀ることを誓いました。 同年、天照大神の祭祀を日葉酢媛命が生んだ皇女の 倭姫命に託しました。 宇陀、近江、美濃と周った倭姫命は 最終的に伊勢に落ち着き伊勢神宮を建立しました。 即位27年、初めて屯倉(天皇の直轄地)を作り、 また諸神社に武器を献納し神地・神戸を定めました。 即位35年、子の五十瓊敷入彦命に 河内国の高石池や茅渟(ちぬ)池を始め 諸国に多くの池溝を開かせて農業を盛んにしました。 即位39年、五十瓊敷入彦命が千本の剣を作り 石上神宮に納めたことをきっかけに 同神宮の神宝を掌らせられました。 即位88年、天日槍の曾孫の但馬清彦に 但馬の神宝を献上させました。 現在、その神宝は出石神社で祭られています。
2022年02月09日
コメント(0)

御間城天皇(崇神天皇)の第3皇子である垂仁天皇 (すいにんてんのう、 崇神天皇29年1月1日 - 垂仁天皇99年7月14日)は 日本の第11代天皇です。 『日本書紀』での名は活目入彦五十狭茅天皇。 兄の豊城入彦命をこえて、 24才で皇太子に立てられました。 父帝が崩御した翌年の1月2日に即位します。 即位2年に彦坐王(天皇の伯父)の娘の 狭穂姫命を皇后としました。 即位5年に皇后の兄の狭穂彦王が叛乱を起こし、 皇后もこれに従って兄と共に焼死しました。 即位15年2月、丹波道主王の娘の日葉酢媛命を 新たな皇后として大足彦尊(景行天皇)、 倭姫命らを得ました。 即位25年、五大夫を集めて祭祀の振興を誓い、 伊勢神宮、武器奉納、相撲、埴輪、鳥飼といった 様々な文化の発祥に関わりました。 即位37年、大足彦尊を立太子。 即位99年に140歳で崩御、 『古事記』には153歳と記されています。
2022年02月08日
コメント(0)

高句麗、新羅、百済、任那が朝鮮半島を経営しますが、 朝鮮半島は、地政学的に極めて独立が難しく 支那の属国状態が続きました。 日本が経営した任那も大陸との直接交易・交流の経由地でした。 この地域は、中央集権化されていない「クニ」段階の地域で 百済、新羅のような成長する国家に統合されるか、 日本の下で新しい国家形態をつくって行くかといふ 国家発展段階でした。 新羅、百済は日本の国威には一目置いていましたので、 日本の任那経営を諸国から認められていたわけですが、 十分統合し、統一の実を上げられずに任那は衰退してしまいます。 支那は313年までおよそ400年もの間、 朝鮮半島中部・北部を郡県により直接支配し、 また朝鮮半島南部に対して間接統制を行いました。 漢四郡に先立って、紀元前128年に漢は蒼海郡を置きましたが、 紀元前126年に廃止しました。 漢四郡のうち、真番郡と臨屯郡は早く廃され、 玄菟郡は朝鮮半島から西に移ったが、 204年には朝鮮半島に新たに帯方郡が置かれました。 楽浪郡と帯方郡は313年まで存続しました。 紀元前107年に設置され、 高句麗の攻撃により遼東に撤退した313年までの400年間、 平壌の存在した楽浪郡を通じて 支那の政治的・文化的影響を朝鮮に与え、 また朝鮮も主体的にそれを求め、支那文明が朝鮮にもたらされ、 楽浪郡・帯方郡の支那人が高句麗王権・百済王権に取り込まれ、 高句麗・百済の発展に寄与しました。 朝鮮には「三国史記」をもとに 漢四郡は朝鮮半島に存在しなかったとする主張もありますが、 「三国史記」は実に、12世紀の作です。
2022年02月07日
コメント(0)

崇神天皇の即位65年、任那が使者として 蘇那曷叱知(そなかしち)を遣わしてきました。 蘇那曷叱知は活目尊(垂仁天皇)の即位2年に任那へ帰国したが、 その際に天皇からの下賜品を新羅に奪われてしまいました。 『日本書紀』における任那と新羅の抗争はここから始まるのです。 その後ヤマト王権は 神功皇后摂政49年(369年)に朝鮮に出兵し任那を征服、 新羅に奪われるまでのおよそ200年間、 その地に任那日本府を置きました。 日本は、南京・山東半島・任那・沖ノ島(宗像)という 交易交流圏を形作っていたのです。 それは、日本列島固有の墓制である前方後円墳が 朝鮮半島南西部(任那の勢力範囲)に多数分布していること、 1980年代に相次いで発見された14基の前方後円墳は、 我が国に存在する前方後円墳より様式的に新しく、 我が国から伝わったことは間違いありません。 また、日本産の翡翠勾玉が 新羅・百済・任那で大量に出土していることによって 倭国の勢力が当時その地に存在したことが明瞭に裏付けられます。 日本における応神天皇から仁徳天皇にかけての時期に、 高句麗の使者がもたらした威嚇、降伏勧告の文書があり、 日本側はその文書を破り捨てたといふ事件もありましたが、 十五年にわたった高句麗との戦ひも和議が成り立ち、 そのための使節が日本を訪れ、宴がひらかれるのです。
2022年02月04日
コメント(0)

部族を率いて九州から大和へ赴き、 大和を征服するという偉業は、 神武天皇の強い指導力と行動力によって達成されたものです。 そして四道将軍を東海、北陸、山陽、山陰に派遣して 勢力範囲を広げ、出雲を服属させ、 国の祭祀体制を確立した大きな業績は 崇神天皇の強い指導力と行動力によって達成されたものです。 『古事記』には天下を統一して平和で 人民が豊かで幸せに暮らすことが出来るようになり、 その御世を称えて初めて国を治めた 御真木天皇「所知初国之御真木天皇」と謂う、とあります。 「国家の推進力の根元」だ、「国家の柱石」のようだ と褒め称えたのがこの称号だったのです。 この「ハツクニシラス」という称号は、 マオリ語の、「ハ・ツクヌイ・チラツ」、 HA-TUKUNUI-TIRATU (ha=what!;tukunui=mainbody of an army,large; tiratu=mast of a canoe)、 「なんと巨大なカヌーのマストよ!」の転訛と解します。 天皇を「巨大なカヌーのマスト」のようだとほめたたえてのです。 即位17年には、献上品を運び込むための船を作らせました。 即位48年、豊城命と活目尊を呼んで夢占いを行い 弟の活目尊を皇太子とし、兄の豊城命には東国を治めさせました。 即位62年、灌漑事業を行って 依網池(よさみのいけ、大阪市住吉区)や 軽(奈良県高市郡)の酒折(さかをり)池などを開き 大いに農業の便を図りました。
2022年02月03日
コメント(0)

崇神天皇の即位5年、 疫病が流行して人口の半ばが失われました。 翌年に天皇は祭祀で疫病を治めようと、 天照大神と倭大国魂神を宮中の外に出すことにしました。 天照大神は豊鍬入姫命に託して 笠縫邑(現在の檜原神社)に祀らせました。 倭大国魂神は渟名城入媛命に託し長岡岬に祀らせました。 しかし渟名城入媛は身体が痩せ細って 倭大国魂神を祀ることが出来なませんでした。 即位7年、「昔皇祖大いに聖業高く国は盛であったのに、 朕の世になり災害が多い。 その所以を亀卜にて見極めよう。」と詔して、 神浅茅原に幸して八百万の神を集めて占いました。 天皇は沐浴斎戒して宮殿を中を清めて、 「願わくは夢に教えて、神恩を示してほしい」と祈ると、 夜の夢に一人の貴人が現れ自ら大物主神と称して 「もし我が子の大田田根子を以って我を祭れば たちどころに平安となる。」と告げました。 続いて倭迹速神浅茅原目妙姫・大水口宿禰(穂積臣遠祖) ・伊勢麻績君の三人がともに同じ夢を見て、 大物主神と倭大国魂神(大和神社祭神)の祭主を それぞれ大田田根子と市磯長尾市にせよという 神託を受けたのです。 そこで大物主神の子とも子孫とも言われる 大田田根子が探し出されて大物主神を祭る神主となりました。 三輪山を御神体とする大神神社の始まりです。 市磯長尾市(いちしのながおち)も 倭大国魂神を祭る神主となると 疫病は終息して五穀豊穣となりました。 即位8年、活日(いくひ)という者を大神の掌酒(さかびと)とし 活日が神酒を捧げて歌を詠み、 続けて諸大夫(役人)と天皇もそれぞれ歌を詠みましだ。
2022年02月02日
コメント(0)

稚日本根子彦大日日天皇(開化天皇)の第二皇子で、 『日本書紀』での名は御間城入彦五十瓊殖天皇です。 祭祀、軍事、内政において ヤマト王権国家の基盤を整えたとされ 御肇国天皇ともいわれます。 即位3年、 三輪山西麓の瑞籬宮(みずかきのみや)に都を移し、 即位4年、 詔を発して万世一系を謳いました。 即位10年、四道将軍を派遣して 全国を教化すると宣言しました。 大彦命を北陸道に、 武渟川別を東海道に、 吉備津彦を西道に、 丹波道主命を丹波(山陰道)に将軍として遣わし 従わないものを討伐させました。 即位12年、戸口を調査して初めて課役を課し、 この偉業をもって御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと) と称えられたのです。 『古事記』には天下を統一して平和で 人民が豊かで幸せに暮らすことが出来るようになり、 その御世を称えて初めて国を治めた御真木天皇 「所知初国之御真木天皇」と謂う、とあります。
2022年02月01日
コメント(0)
全19件 (19件中 1-19件目)
1