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副題は『リストカット&オーバードーズ依存症』。 「リストカット」は辞書で調べると、「手首を切ること。 特に、(自殺するためではなく、自己嫌悪などから) 手首の内側をカッターなどで切る自傷行為をいう」となっている。 また、「オーバードーズ」の方は、 「薬や麻薬を過剰摂取すること。 過剰摂取によって病気になったり障害が残ったりすること。 また、致死量までの大量摂取のこと。OD」とある。本著を読んで、リスカは死ぬのが目的で切ってる人ばかりじゃなくて、切りたいから切っている(切ること自体が目的)ということが分かった。切らずにはおれなくなって、切ってしまうものらしい(即ち依存症)。実際、手首を切るだけでは、そう簡単には死なないようでもある。しかしながら、本人も望まぬ不慮の事故死もある。その例として、南条あやの名前が挙がっている。 数回のリスカやODでは死なずに済んでも、依存症になれば、 身体が知らない間に痛めつけられ、他の死因を招くことも多い。 南条あや嬢のように心臓に穴が開くこともあるし、 貧血でふらふらして交通事故死する恐れもある。 また、誰もチェックできない場所、風呂場のような密室での溺死も多い。(中略) 身体を傷つけて出血で死ぬことはめったにないが、自傷行為が依存症になれば、 このように間接的な事故死を招きやすい。(p.145)このような事故死を招かぬよう、本著では「血液検査」を勧めている。そして、もう一つお勧めしているのが「BBS&オフ会」。自分が楽にいられる場所を、自分で作ってしまおうというもの。しかし、これは上手くいけば最高なのだが、思わぬ方向に暴走する恐れもあるので要注意かも。 ウツの時は落ちるか上がるかの選択を迫られているかのような 「いつまで続くこの不安?」状態だが、 2択問題の最良の解決法は「悩まない。時の流れに任せる。」だ。 それがオルタナティブ(もうひとつの選択)。 解決手段には自分が当たり前のように考えている選択肢以外に必ずオルタナティブがあり、 自発性が活性化しているとそれをワクワクしながら想像できるので、 新鮮な発想が次々にわいてきて、解決法など無限にあるとわかる。(p.229)なるほどなぁ。ここが、本著で最も共感した部分。
2009.08.17
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問題の書物である。 知り得ないはずの情報を知ることに成功した者が、 他の知り得ないはずの人たちに知らせることを目的に文章化し、 知り得ないはずの人たちが知ってしまうことを承知で出版社が世に出した。 そして、本当なら知り得ないはずの情報を、 こうやって、目の当たりにした人間のうちの一人が、今ここにいる。 しかし、こうやって情報を得た今も、私自身の生活に大きな変化はない。 一方、本著に登場する当事者には、間違いなく大きな影響が及んだだろう。ここに書かれていることだけでは、全てを語り尽くせてなどいないはず。また、ここに書かれていることの全てが、真実とは限らないだろう。本著はあくまでも、あの事件に関する一面を、著者の視点で切り取って提示したもの。そして、そのことを知るべき人というのは、実はそんなに多くなかったのではなかろうか。まさに、現代は情報化社会である。色んな情報が、瞬時にして山のように手に入る。逆に、色んな情報を、世界に向けて簡単に発信することもできる。情報を送る側も受け取る側も、今後、ますます成長していくことを要求されている。本当に必要な情報とは何なのか、それは誰の手に届くべきものなのか。知らさねばならぬのか、また、知らねばならぬのか。私たちは、気付かぬうちに、これまで先人たちが経験したことのないとても難しい空間に放り出されてしまっている。
2009.08.17
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私自身は、そこそこのゲーマーである。 パソコンも使えば、DSやプレステも扱う(WiiやPSPは持ってない)。 DSで「ドラゴンクエストモンスターズ ジョーカー」をやった時には、 「魅惑のメタルエリア」でレベル上げに励み過ぎ、一気に視力低下の経験を持つ。 それ以降さすがに懲りて、少しばかり距離をおいていたのだが、 結局、先日も「ドラクエ9」をクリアしてしまった。 それでも、これまでならクリア後の世界も、行ける所までとことん行ってたが、 今回は、クリア後に即終了!!(それでも約30時間を費やした)そんな私にとって、「オンラインゲーム」は未知の世界。なぜ、そこに足を踏み入れなかったのかというと、経済的な理由と、あとは自分の都合でゲームを始めたり、終わることができないこと。要は、機械相手じゃなくて、人間相手になってしまうから、少々面倒。なぜ、そんなことに拘るかというと、HPやブログの管理・運営を通じて、これまでに色々と経験させてもらってきたから。「人との繋がり」が出来てしまうと、やっぱりそれを良い状態で保持しようとするし、そのための義務感を感じだすと、時間も体力も本当に無理を重ねてしまうと知ったから。だから、現在の私は、ブログでも割と勝手気ままなマイペース。どっぷり浸かって、無理に人の輪を広げようなどとは思わない。そこであんまり一生懸命になり過ぎると疲れてしまうし、時間が飛ぶように消費されていって、本業に差し支えるから。そして本著を読んで、やっぱり「ネット・ゲーム」は踏み込むべき世界でなかったと再確認。 ゲームにはまっていく途中から、 他の仲間への優越感よりも義務感ができていった。(p.118)おお、やっぱり、そうなんだな。 ネットゲームにはまらない方法って、ありますか? 「やらないことです」(p.189)それ以外にはないんじゃないかという、明快なお答え。 半永久的で、底なし沼のようなネットゲーム。 好きであればあるほど、終わらせたくないという気持ちが生まれるというのだ。(中略) 「終わりがないというのが、逆に魅力なんじゃないかなとも思います」と洋平が指摘すれば、 「最大の魅力でもあり、最大の落とし穴でもある」と洋二がまとめる。 ゲーマーにはゲーマーにしか通じない言葉を持っているというが、 彼らは、二人で共通の感覚を共有しているに違いなかった。(p.214)これは、私にもよく分かる。ネットゲームだけじゃなくて、ドラクエなんかのRPGでもそういう作りになっている。本編はクリアしても、その後の世界でやるべきことは、嫌と言うほどあるのだ。そういう意味で、私の今回のドラクエ9における態度は、一皮むけたものと言えるかも。 ゲーム産業に携わっているビジネスパーソンが、このようなインタビューを読むと、 初めからネットゲーム否定ありきで本書が構成されていると疑うかもしれない。 しかし、ぼくが実際に会ったハードゲーマーのほとんどが、 子どもたちへの影響を心配していた。 それは原体験からくる直感的な恐れであった。 ハードゲーマーであればあるほど、一言こんな前おきをした。 「ゲームばっかりやってきた僕が言うのは変ですが……」 「こんな私が言うのは、おかしいんですけど……」 「ぼくみたいな者が言うのは、何なのですが……」 そう断って、反省とともに自戒ともとれる警鐘を鳴らした。 彼らは異口同音にこう語った。 「自分が親だったら、子どもには、やらせない」(p.192)韓国の状況は、日本よりスゴイらしい。そのため、夜10時から朝の6時まで、ゲーム会社が青少年にオンラインゲームを供給しないシャットダウン制というものを作ろうとしているらしい。韓国のほとんどの親は、この導入を歓迎しているとか。 人類はゲームを創造した。 ゲームの面白さを知った以上、もう誰も後戻りはできないのだ。 では、後は何ができるのか? それは、雀院長の言葉を借りるならば、「ゲーム時間を減らすこと」 それしかないのかもしれない。(p.201)日本では「ゲーム」を「ケータイ」に入れ替えれば、ちょうどそういう状況だ。
2009.08.13
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「フィンランドの教育は、日本の教育とはこんなにも違う!」 ということが書かれていると思って読み始めたけれど、 読み終えて感じたのは、それとは全く逆のこと。 「もっと違っててもいいはずなのに、こんなにも一緒なのか」ということ。 もちろん、教育制度そのものは、随分違う。 まずは、高校入試というものがなくて、高校に格差がない。 大学入学資格試験というものがあって、 それに合格しても、実際に入学するまでには2~3年かかったりする。さらに、大学院まで含めて学校の授業料は無料で、その他の補助が手厚い。また、教師になるには修士号の取得が必要だが、人気の職業となっている。そして、2か月半の夏休みに、全く宿題がないということ!!もちろんクリスマス休暇にも。 それに、宿題を出したらそれを回収して採点をするという仕事が増えます。 夏休みは、とにかく生徒も教師も学校から解放されて、自分の時間を過ごします。 子どもたちが遊んでいる間に教師が学校に行くこともありませんし、 近所に住んでいるのでもない限り、夏休み中に生徒に会うことも、まずありません。 彼らのことを耳にすることもなければ、目にすることもありません。 教師も生徒と同じ休暇を取ります 普段は、「お給料はもっともらってもいいはず」などと内心不満を持っていても、 夏休みに入ると、教師でよかったと思います。(p.134)これは随分大きな違いがある。日本の生徒は過剰な宿題のために、夏休み後半は大半の者が四苦八苦し、親の援助無しには新学期を迎えられない状況なのは誰もが知るところ。もちろん、教師も基本的には毎日学校に出勤している(これは知らない人が多い?)。しかしながら、学校現場で起こっていることや、教師が生徒や保護者に対して感じていることは、実に驚くほど似通っていた。 言い方を変えると、本来家庭で教えるべきことを教えない親が増えているのです。 その結果、教師が子どもに対して「ダメ」という最初の大人になることも 珍しいことではなくなってきました。 生まれてから学校に通うようになるまでの7年間、 自分の好きなようにやってきた子どもが 「ダメ」を受け入れるのは非常に難しいことです。(p.90)アメリカやイギリス、フランス、ドイツあたりでのことなら、「あぁ、やっぱり同じなんだな」くらいで、私の中では終わったかも知れないが、フィンランドでこうだというのは、正直驚きだった。 世界中の学校で、いじめのない学校など存在しません。(中略) 「うちの学校には、いじめはありません」と校長先生が言ったなら、 その人は校内のことを何もわかっていないか、嘘をついている校長です。(p.168)この後、女の子のいじめは対応が難しいと筆者は述べているのだが、そこで述べられている内容も、日本と本当に同じ。また、保護者からのクレームも、フィンランドでもあるそうだ。しかし、筆者が立派なのは次のように述べているところ。 私がこの経験から学んだのは、小さなことであれ、 問題があると親が思えばそれは紛れもない問題なのであって、 私たち教師が、それは問題ではありません、と否定してはならないということ。 まず、その言い分に耳を傾ける、ということでした。 そして、「たとえ小さな変化であっても、彼らの問題に何らかの解決方法を示すためにも、 彼らを学校に招いて、自分たちが問題解決のために話し合いをしているということを、 はっきり示さなければならない」(p.167)そして、次のことも驚きの共通点だった。 この10年で子どもたちが一番変わったと思うのは、 広汎性発達障害や注意欠陥多動性障害など、 「行動に問題を抱えた子どもが増えた」ということです。 特別支援教育の勉強で、子どもの心理や行動について学びましたが、 誰もが、最近何かが起きている、というのです。 特別支援教育の教師と特別支援学級の需要が、毎年増加しています。 私たちが、自分と異なる相手に不寛容になってきたのか、 医学が進歩してある行動が目につくとすぐに新しい名前がつけられるせいなのか……。 いずれにしても「特別な子」が増えてきているのは事実です。(p.200)その他、第6章「日本で暮らして、感じたこと」の記述にも驚かされた。日本は、インターナショナルには、まだまだ程遠い国だと思い知った。
2009.08.13
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何だかとっても不思議だった。 待ちに待った一年ぶりのコミックス発売で、 とってもとっても期待しながら読んだんだけど、 何かシックリと来ない……。 #21を読んだときの自分のブログの記事を読み返すと、 「間違いなく、#21は、これまでの最高傑作!!」なんて書いてるから、 相当にハイテンションで盛り上がりきっている。 なのに、今回は全然気持が高まらないんだなぁ、何故か……。ショパンのピアノ協奏曲第1番。リハーサルも本番も、もっと自分の中で高揚していいはずのシーン。なのに、音が聞こえてこない……そこにあるはずの感動が全く伝わってこない……ひょっとして、一色さんのペン程には、二ノ宮さんのペンは音を伝える力がなかったということか? いや、まさか!そんなはずはない!!ラヴェルやラフマニノフ、ベートーベン、そしてブラームスだってあんなにも鮮やかに、ピアノもオケも、さらには無音の緊張感までまるでホールの中で聴いているかのように、私の心の中で鳴り響いたじゃないか……。そして、しばらくして気付いた。この不思議な感覚は、のだめの心の状態そのものなんだろうなということに。きっと演奏自体はとても凄いもので、聞く者を驚嘆させずにはおかないものなのに、演奏しているのだめ自身は別の世界で、空虚な感覚の中を彷徨い続けている。そんな、のだめの虚無感が読む者に伝わってきて、もっと盛り上がって、感動しまくっていいはずのシーンで、盛り上がることができず、もどかしさや歯がゆさでいっぱいになってしまう。もし、そうだとしたら、そこまで表現してしまう二ノ宮さんって、一体何者なんだ!! ***さて、今巻の私のお勧めシーンは、ミルヒーのロンドン公演ポスターでのポーズと千秋の「俺が聴かないで誰が聴く!?」の心の叫び。そしてさらに、ミルヒーとシャルちゃんの微妙な大人の攻防と最期に登場、千秋パパ!でした。
2009.08.13
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今巻の主役は表紙を見れば明白。 そう、言わず知れた焔の錬金術師、ロイ・マスタング。 何時もながらに、いや何時も以上にクールでカッコイイ。 そして、親友マース・ヒューズを殺した真犯人を遂に突き止める。 復習の鬼、炎となって燃えさかる大佐。 そんな彼が畜生の道に堕ちるのを阻む者、リザ・ホークアイ中尉。 何時もながらに、いや何時も以上に美しくてカッコイイ。 傷の男に鋼の錬金術師を加えた豪華配役の目前で惨めな最期、エンヴィー。それに加えて、今巻ではアームストロング姉弟が大暴れの大活躍。セリムとキンブリーを相手に、とっても頑張ってるアルが全然目立たないほどに。そうそう、ラジオ・キャピタル組もなかなか頑張ってたぞ。そして、取りを務めるのが主婦、いや錬金術師!決まったね!ヨッ、師匠!!
2009.08.11
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村上さんの作品っていうのは、最後の頁を読み終えた後も、 読者が「読む」という作業を、そこできちんと打ち切りきれず、 かと言って、そこから何をどうすればいいのかもハッキリしないので、 いるかどうかも分からない誰かに向けて「これって何!?」とコッソリ叫びたくなる感じ。 でも、本著のような本を読んでしまうと、 村上さんの作品に「解説」というものがない理由がよく分かる。 そう、村上さんの作品を読もうとする人は、きっと、あの不明瞭で拠り所がなく、 方向感覚を全く失ってしまったような行き場のない空気自体を愛しているのだ。 もちろん、本著を読むと「なるほど、そうだったのか」という箇所が多々ある。そりゃそうだ、だって著者はこれで大学の講義をして給料を貰っているんだから。だから、著者の指摘というのは、間違いなく恐ろしいまでに正確・的確なのだろう。そして、世の中にはそういう真っ当な読み方も確かに存在する。しかし、村上さんの作品が好きな人(少なくとも私)は、それくらいの解説や指摘で、あの「行き場のない空気」を払拭することはできない。その空気は、払っても払っても次から次へと押し寄せてきて、読む者を包み込んでしまう。その向こう側で、村上さんはどんな表情でこちら側を見つめているのだろうか。
2009.08.10
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それにしても凄いなと思ったのは、 この旅行記の文章と、小説で馴染んでいる文章とが明らかに別物であること。 村上さんはこの旅行記において、自身の内面を語ることをある意味制限し、 目の前の事実をたいへん客観的に書き綴っていると感じた。 一方、村上さんが小説の中で主人公を描くときは、その内面に深く入り込み、 現実と非現実との間の不明瞭な境界線・狭間を彷徨う姿を克明に描き出す。 その違いが、本著の文章と小説の文章との間に大きな差を見せつける。 本著からは、現実の中を生る人間・村上春樹がストレートに伝わってくる。さて、長編小説読破に取り組んでいる最中、本著を読んでみようと思ったのは、『ねじまき鳥クロニクル』で一舞台となったノモンハンについて、村上さんが現地を訪れた時の様子が書かれていることを知ったことと、村上さんが故郷・神戸を訪れた時のことが書かれていると知ったから。そして、「ノモンハンの鉄の墓場」では、本著の中で唯一と言ってもいい小説におけるあの「村上ワールド」が感じられる部分が登場する。それは、世界が揺さぶられ、村上さんが真夜中に目覚めるシーン。世界を揺さぶったものに恐怖を感じ、怯える村上さんの姿はまるで小説の主人公のよう。次に、「神戸まで歩く」には、私にとっても馴染みのある地名が数多く登場する。そんな中、村上さんが本著の中で最も自身の内面・思いを前面に打ち出しているのが、御前浜から芦屋浜を眺めたシーンにおける記述。『羊をめぐる冒険』に登場した風景のモデルであろうこの場所には、特別な思いがあるようだ。 *** トペというのは、人家に近いところで車のスピードを落とさせるために 道路に作られた隆起物で、英語で言えばBUMPだ。 とにかく国中のいたるところにこれがある。 そこできちんとスピードを落とさないと、 ドスンという不快な振動を経験することになる。(中略) こんなややこしいものを作らなくても<スピード落とせ>という標識を 町の入口に立てておけばいいじゃないかと思うのだけど、 でもたぶんメキシコでは、標識を見たくらいでは誰もスピードなんか落とさないのだろう (まわりのドライバーを見ていると、たしかにこいつらは 標識くらいではスピードなんかまず落とさないだろうという印象を強く受ける)。(p.94)しかも、このトペというもの、メキシコだけでなく、他の中南米諸国にいっぱいあるらしい。一方、中国でもこんな感じだ。 「どうして信号が街にほとんどないのか」と中国人に尋ねると、 「そんなの無駄ですよ。信号なんてあっても誰も守らないから」 という答えがきまって返ってくる。(p.173)世界の交通事情というのは、こういうものなのか。国外へ行く際には、しっかり心得ておかねばならないようだ。さて、本著の中には音楽好きの村上さんゆえ、多数の曲やアーティスト名が登場する。そんな中、私が特に興味を持ったのは、村上さんがメキシコを旅しているときにウォークマンで聞いていたリック・ネルソン。そんな彼が人気凋落の後、彼が見事に復活を果たした『ガーデン・パーティー』という曲。そして、もう一曲は、村上さんがアメリカを横断中、ウィスコンシン州に入った頃にカーステレオから流れ始めたカントリー・ミュージックの洪水に辟易している中これだけはけっこうしんみりして悪くなかったという『テキサス・トルネード』という曲。(私は、村上さんとは逆でC&Wは、とても好きなジャンルの一つである) *** 村上さんは旅行というものについて、お金も手間も時間もかかり、その上とても疲れると言い、さらには、大量の虫に襲われたり、色んなアクシデントに出くわすとぼやく。そして、家に戻ってきたときには「やっぱり家が一番」と思うのだとも。にもかかわらず、村上さんにとって旅行とは、出かけずにはおれないものらしい。そして実際、本当に様々なところに出かけ、アクシデントに遭遇し、疲れ果てている。それでも、村上さんは旅を続ける。子どもたちに土産物を押しつけられ、お金をせびられても。
2009.08.09
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とっても短いお話し。 文字は大き目で挿絵が多く、ページ数は少ない。 これは、大人のための絵本。 そして、そに展開するお話は「?」の世界。 舞台は図書館、薄暗い廊下に階段、長い迷路の先の薄明かりが漏れる部屋。 登場するのは謎の老人と羊男、そしてきれいな女の子。 これだけ定番の舞台と役者が用意されているのだから、 まさに、これぞ完璧なる村上ワールド。最初、この本を読んだとき、短くて読みやすいので、村上春樹入門に最適な推薦図書だと思った。しかし、しばらく経って考えを改めた。全く村上文学に触れていない人がこれを読むと、ひょっとして「?」に過ぎるかも……。最後のオチ、喪失感などについても、村上文学に馴染んだ「勝手知ったる読者」が読んでこそ、この短いお話しの中で、存分に村上ワールドに浸れるのではないか。と言うことで、村上春樹初心者に、私がお薦めする一冊は『海辺のカフカ』である。
2009.08.09
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まさに、村上ワールドの神髄! 第3巻に入った途端、これでもかと言うほどに、 次から次へと村上春樹というものが、読む者の心の中へと押し寄せて来る。 その息つく暇もない怒濤の攻撃は、完膚無きまでに読者を叩きのめすのだ。 「鳥刺し男」は、モーツアルトの『魔笛』に登場する人物。 王子と共に、雲に乗った三人の童子に導かれて城へ行き、 魔法の笛と魔法の鐘で、囚われたお姫様を救い出す。 夜の国と昼の国とが戦い、途中で善悪が入れ替わってしまうお話し。主人公である「僕」オカダ・トオルが一人称で語る本流に、笠原メイの手紙や週刊誌の記事、ナツメグの回顧話といった支流が流れ込み、時間と場所が次々に転換・交錯しながらテンポ良く話は進む。なかでも、この第3巻で重要な地位を占めるのがナツメグ・シナモンの母と息子。 ***5歳の少年の真夜中の出来事。部屋の窓から見える松の木に、登っていったまま下りてこない小柄な男は、何となく少年の父に似ていた。そして、もう一人の背の高い奇妙な男は木の根本に穴を掘り、そこに何かを埋める。そして、夢の中で少年はシャベルでその穴を掘り起こす。そこにあったのは強く脈打つ心臓。ベッドに戻ると、もう一人の自分がそこに寝ている……。翌朝目覚めると、少年は声を失っていた。 「今では私にもわかっている。 彼の言葉はその物語の迷路の中に呑み込まれて消えてしまったのよ。 その物語から出てきたものが彼の舌を奪って持っていってしまったのよ。 そしてそれは、その数年後に私の夫を殺すことになった」(p.191)1975年の年末、ナツメグ40歳、シナモン11歳の時、ナツメグの夫は殺される。その頃、ナツメグと夫との関係は疎遠であり、夫には付き合っている女性が何人かいた。バスルームにあった彼の死体は刃物で切り刻まれ、辺り一面血の海であった。そして、死体からは心臓と胃と肝臓と二つの腎臓と膵臓が消え失せていた。 ***終戦間際、満州国首都新京動物園での動物たちの虐殺について語るナツメグ。その指揮に当たった若い中尉と右頬に青黒いあざのある獣医・ナツメグの父のお話し。そして、間宮中尉からは、立派な毛筆の字で書かれた手紙が送られてくる。シベリアの炭坑での出来事、そしてあの皮剥ボリスとの再会。コンピューター、その迷宮はシナモンにとって本当の現実。それを使って妻のクミコと、そして綿谷ノボルとコミュニケートする主人公。そして、主人公の前で唐突に開始された『ねじまき鳥クロニクル』。それは、コンピューターの向こうからシナモンによって語られる物語。#8は、満州の動物園での虐殺物語の続編。満州国軍士官学校から脱走した生徒が、バット一振りで処刑される。そして、#17は妻・クミコからの手紙。そこで、初めて明かされる真実。 ***今年5月『1Q84』が出版されると、その異常人気に世間が騒ぎ始め、書店では簡単に手に入りにくい状況にまでなった。その頃、とりあえず、村上作品を何か一つ読んでみようと手にしたのが『海辺のカフカ』(上)。そして(下)を読み終えたときには、すっかりその世界観に魅了されてしまっており、『1Q84』を読む前に、村上さんの長編小説を全て読んでしまおうと決めた。そして、これまでに『風の歌を聴け』、『1973年のピンボール』、『羊をめぐる冒険』(上)・(下)『ノルウェイの森』(上)・(下)、『ダンス・ダンス・ダンス』(上)・(下)『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(上)・(下)『ねじまき鳥クロニクル』第1部・第2部、そして、この第3部と読み進めてきた。これまでに読んだ村上作品の中で、最も好きなものは何かと聞かれたら、私が最初に出会った作品であったこともあって『海辺のカフカ』と答えてきた。実際、これまでに私が読んだ村上作品の中では、最も後に書かれたものであり、そこに至るまでの執筆活動の積み重ねを十分に発揮した、素晴らしい作品だったからである。しかし、今回読んだ『ねじまき鳥クロニクル』は、これまでに読んだ村上さんの長編小説の中でも最長のものであると同時に、村上さんお得意の様々な技法が最大限に駆使され、どこを取ってもこれ村上ワールド。現時点での私の中では『海辺のカフカ』を脇に追いやり、村上作品ナンバーワンである。村上さんの長編では、まだ『国境の南、太陽の西』『スプートニクの恋人』それに『アフターダーク』を、私は読んでいない。そして、それらの作品は、すでに目の前にあるテーブルに積まれている。さて、『ねじまき鳥クロニクル』を凌ぐ作品が、この中から出てくるのだろうか。
2009.08.08
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第2部は「予言する鳥編」。 「予言する鳥」はシューマンの『森の情景』の第7曲。 森の中に予言をする不思議な鳥がいて、 その情景を幻想的に描いた曲。 この曲は、主人公が妻からの長い手紙を読み終え、 ビールを飲み、ポテトサラダを食べ、 そして、音楽が聴きたくなったので、 FMラジオのクラシック番組を小さくつけたときに流れていた。 ***主人公は、縄梯子をつたって、自ら井戸の底に下りていく。しばらくすると、何者か(後に笠原メイと判明)によって縄梯子がはずされる。その暗闇の中、電話の女に手を引かれ208号室の壁を通り抜ける夢を見る。そして、加納クレタが垂らしてくれた縄梯子で井戸の外へと出ていく。井戸から出ると、主人公の右の頬骨の少し外側あたりには、赤ん坊の手のひらくらいの大きさの、黒に近い青色のあざができていた。そして、井戸の底に下りたはずの加納クレタは、目覚めると主人公の家のベッドで裸で寝ていた。加納クレタは、娼婦であることをやめ、霊媒であることをやめ、そして、加納クレタであることをやめる。彼女は新しい人間としての一歩を始めるため、クレタ島に行くことにする。そして、そこへ一緒に行こうという彼女の誘いを、主人公は受け入れる。新宿西口の高層ビル前の小さな広場のベンチ、通り過ぎる人々の顔を、何日も何日も眺め続ける主人公。そんな中で、一人だけ話しかけてきたのが、身なりのいい痩せた中年女性。その女は、主人公に「あなた、お金はあるの?」と訊いた。そして11日目、主人公は黒いギターケースを下げた若い男に目をとめる。それは、妻が堕胎手術した日、札幌のスナック・バーで歌っていた男。そのあとを執拗に追う主人公。アパートに入る男、あとに続く主人公、そして闇の中からバットが振り下ろされる…… でもどういうわけか、もうやめることができなくなってしまっていた。 もうやめなくちゃいけないんだ、と僕は頭の中で考えていた。 これでもう十分だ。これ以上はやりすぎになる。 こいつはもう立ち上がることもできないんだぞと。 でもやめられなかった。 自分がふたつに分裂してしまっていることがわかった。 こっちの僕にはもうあっちの僕を止めることはできなくなってしまっているのだ。 僕は激しい寒気を感じた。(p.328)結局、主人公はクレタ島には行かなかった。8月の末、クレタ島から差出人のない絵葉書が届く。笠原メイも、新しい場所へと旅立つ。そして、主人公は区営プールで幻影-啓示のようなものを見る。 間違いない。 あの女はクミコだったのだ。 どうしてこれまでそれに気がつかなかったのだろう。 僕は水の中で激しく頭を振った。 考えればわかりきったことじゃないか。 まったくわかりきったことだ。 クミコはあの奇妙な部屋の中から僕に向けて、死に物狂いで そのたったひとつのメッセージを送りつづけていたのだ。 「私の名前をみつけてちょうだい」と。(p.358)主人公と妻・クミコとの過去のエピソードが次第に明らかにされ、綿谷ノボルや加納クレタ、笠原メイの過去も少しずつ分かってきた。これまで、ハッキリしなかったものが、少しずつだが見え始めた第2巻。果たして第3巻は、この曖昧さを打ち破ってくれるのか!?
2009.08.04
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「ねじまき鳥」とは、主人公オカダ・トオルの家の辺りにやって来て、 となりの木の上でギイイイイイって鳴く鳥。 毎朝木の上で世界のねじをギイイイイイって巻く。 そして、それは主人公のニックネームとして使われることになる。 「クロニクル」とは、年代記のこと。 出来事や事件を年ごとに記述した歴史書。 そして本著、第1部は「泥棒かささぎ編」。 「泥棒かささぎ」は、もちろん、ロッシーニの有名なオペラ。さて、この物語は、主人公オカダ・トオルの身の回りに起こる数々の理不尽な出来事や不思議な出来事を、時系列で描いたもの。もちろん、途中で、回想シーンや手紙が挟み込まれたりするので、時空は行きつ戻りつしながらも、基本的には時間の流れに沿って進行していく。 ***主人公の家の飼い猫が行方不明、そして、妻・クミコもやがて家を出て行く。その兄・綿谷ノボルは、世間向けの顔と主人公への態度とが大きく異なる。そして、16歳の女子高生笠原メイは、病欠ということにして学校に行っていない。謎の電話の女、そして、これまた謎めいた加納マルタ・クレタの姉妹も登場。以上の登場人物の中では、やはり加納クレタの存在が際立っている。苦痛に満ちた時を過ごし、それから逃れようと自殺を決行した彼女は、それに失敗してからは、真逆の生活に陥る。また、綿谷ノボルとは、ただならぬ関係にあるらしい。しかし、それ以上に圧巻だったのは、間宮中尉の長い話。ノモンハンでの出来事の描写は、これまで読んだ村上作品では見られなかったもので、フィクションでありながら、フィクションとは思えない強烈なインパクトと説得力を持つ。生きた人間の皮を剥ぐシーンでは背筋が凍り付き、思わず身震いしてしまう。本田さんが、主人公に残してくれた形見は、一体何だったのか。それは、ひょっとすると、この間宮中尉の長い話だったのだろうか。 *** 「まあ実際には、気の付けようもないんだけどね。」と彼女は言った。 「禿げることに対する対抗策ってのはないのよ。 禿げる人は禿げるし、禿げるときには禿げるのよ。 そういうのって、止めようがないのよ。 だからさ、よく言うじゃない。 きちんと髪の手入れをしていれば禿げないんだって。 でもそんなの嘘よ。ウソ。 だって新宿駅に行ってその辺に寝ころんでいる浮浪者のおじさんを見てごらんなさいよ。 禿げている人なんて誰もいないでしょう。 でもあの人たちが毎日毎日クリニークだかサスーンだかのシャンプーで髪を洗っていると思う? 毎日毎日頭になんとかローションをごしごしと塗り込んでいると思う? そんなの化粧品メーカーが適当なこと言って 髪の毛の薄い人からお金をむしりとっているだけよ。」(p.119)以上、かつらメーカーでアルバイトをしている笠原メイのことば。主人公は「なるほど」と感心して言ったけど、確かになかなかの説得力である。
2009.08.02
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冒頭の「ノーベル文学賞受賞の祝辞」が度肝を抜く。 内田先生が、どれほど村上文学を愛しているのかが、 ひしひしと伝わってくる。 とても「ヴァーチャル」だとは思えない。 それもそのはず、 この文章は、2006年10月のノーベル賞受賞者発表前日に、 某新聞社からの依頼によって、内田先生が書いたもの。 現実に、新聞誌上を飾る予定で書かれた文章なのである。残念ながら、この時、村上さんはノーベル賞を受賞することはなかった。しかし、それ以後も、最もノーベル賞に近い人物でとされ続けている。にもかかわらず、村上さんの作品については、国内でも、その評価が人によってかなり違う。そんな中で、内田先生は、村上応援団の先頭を切る人物である。ただし、本著は、この本を出版するために書き下ろされたものではない。内田先生が、自身のブログに書いている様々な記事の中から、村上さんに関わる部分だけを選び出し、まとめたもの。それゆえ、本著を一つのまとまりとして見たとき、曖昧さやとらえ所の無さを感じてしまう。もちろん、本著以外の出版物においても、内田先生は、この手法を度々用いているのだが、それらに比べても、流れがあまり良くない、断片的と感じた。しかし、日々のブログの中に、これだけ村上さんにまつわる記事が登場することだけでも、ある意味驚きであり、内田先生が、どれほどの想いで村上文学を見守っているかが分かる。 ***さて、本著の中にも、さすがに内田先生と言える部分がいくつもあった。 社会学者の書いたものがあまり面白くないのは、 あの人たちは「生きている人間」の世界にしか興味がないからである。 霊能者の書いたものがあまり面白くないのは、 あの人たちは平気で「あっち側」のことを実体めかして語るからだ。 「こっち」と「あっち」の「あわい」でどうふるまうのが適切なのか、 ということを正しく主題化する人は本当に少ない。 村上春樹は(エマニュエル・レヴィナスとともに)その数少ない一人である。(p.25)なるほど、そう言われてみると、村上さんの作品には、確かに「あっち側」と思えるものが数多く登場し、しかも、「あっち」と「こっち」の境界線が定かでなく、そこを、平気で行き来するというパターンが多いことに気付かされる。 私たちは「自分が知っているもの」の客観性を過大評価する。 「私が知っていることは他者も知っているはずだ」というのは 私たちが陥りやすい推論上のピットフォールである。 話は逆なのだ。 「私たちが知らないことは他者も知らない」。 そういうことの方が多いのである。(p.38)哲学的である。しかし、よく分かる。 私たちは「ほんとうの体験を共有している人間」より、 「回顧的に構築された模造記憶を共有している人間」のほうにずっと親近感を感じる。 村上春樹はそういう人間の想像力のありようを熟知している。(p.88)ここから展開する内田先生の論述は絶品である。「本当はそんな経験をしたことのない読者たちすべてを、その時代を共に回想する同時代人たちのうちに回収するテクニック」の解説には、思わず「ス、スゴイ……!」と唸らされた。 「ものを書く」というのは、「バーを経営する」というのとそんなに変わらない、 というのが村上春樹の考え方である。 店に来た客のうち、「あ、この店いいな、また来よう」と思うのは十人に一人くらいである。 その十人に一人を照準にして店をやるのが、経営の要諦である。(p.193)まさに経営の、そして人生の極意ではなかろうか。「来る人は来る、来ない人は来ない。」である。来る人を、いかに来させ続けるか、である。 しかし、心を鎮めて考えれば、誰にでも分かることだが、 私たちを傷つけ、損なう「邪悪なもの」のほとんどには、 ひとかけらの教化的な要素も、懲戒的な要素もない。 それらは、何の必然性もなく私たちを訪れ、まるで冗談のように、何の目的もなく、 ただ私たちを傷つけ、損なうためだけに私たちを傷つけ、損なうのである。 村上春樹は、人々が「邪悪なもの」によって無意味に傷つけられ、 損なわれる経験を淡々と記述し、 そこに「何の意味もない」ことを、繰り返し、執拗に書き続けてきた。(p.210)この文章の前に、人々が「邪悪なものによって損なわれる経験」をしたとき、それを必ず「合理化」しようとするという下りが登場するのだが、その部分も「ある、ある」と思わず頷いてしまうところである。しかし、本当は理由なんかない、合理化なんかできないのである。 ジェイズ・バーは『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』と 『羊をめぐる冒険』における記述を仔細に検討するならば、 芦屋と国道二号線から少し入ったところに存在する。 私が「芦屋の国道二号線から少し入ったところ」に居住することに固執するのは、 そこに私にとっての理想的な「港町」があるような気がするからである。(p.215)私が、『羊をめぐる冒険』に登場する街の景色について、ブログで記事に書いたことは、やはり正解だったようだ。そして、内田先生は、あの辺にお住まいなのか。ま、大学からも近いことですし、いい場所ですよね。 勘違いしている人が多いけれど、私たちが何かにはげしく惹き付けられ、 それに固執するのは、それが移ろい、壊れ、消えてゆくものだからだ。(中略) 花、鳥、風、月、雪、共通する特性は何だか分かるね。(中略) 家族もまた同様である。(中略) 子どもたちは進学したり就職したりして家を出て行くし、 爺さんや婆さんはいずれ死ぬ。 そういうテンポラリーな共同体であるからこそ、 その家族における印象深いすべての出来事は、 「ああ、あの時にはまだ……がいたんだ」というメンバーの欠落とともに回想されることになる。(p.230)この後に続く『北の国から』の解説も見事である。
2009.08.02
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今からちょうど一年ほど前、『ネットいじめ』を読んだ。 それは、当時世間を大いに騒がせていた現象であり、 それ故、多数の関連書籍が発行されることになった。 それらの中で、私の一番のお勧めが『ネットいじめ』だった。 そして今回、同じ著者による『ウェブ炎上』を読んだ。 期待に違わず、本著の出来も素晴らしい。 先日読んだ『ウェブはバカと暇人のもの 』にも重複する部分があるが、 本著の方がより冷静で、学術的なものを感じさせてくれ、好感が持てた。さて、本著の中には様々なキーワードが登場するが、その中でも、最も重要だと思われるのが「サイバーカスケード」。この言葉を、本著では、こんな風に説明している。 アメリカの憲法学者キャス・サンスティーンが 『インターネットは民主主義の敵か』の中で提唱した概念で、 サイバースペースにおいて各人が欲望のままに情報を獲得し、議論や対話を行っていった結果、 特定の-たいていは極端な-言説パターン、行動パターンに 集団として流れていく現象のことを指します。(p.034)次は、コメントスクラム。 コメントスクラムは炎上と非常に似た概念ですが、 小倉は掲示板など公的な場所で起こるものを「炎上」、 ブログなどの私的な場所で起こるものを「コメントスクラム」と区別しています。 ただし、サイトの性質を私的か公的かで明確に区別することは難しいでしょうから、 この言葉はむしろ「コメントがスクラムを組んで押し寄せる」という 現象のみを表現するものとして使用した方が便利です。(p.040)これらのキーワードをあらかじめ説明した上で、著者は、それらに関わるウェブの特徴について述べていく。まずは「匿名性」について。 そして何より匿名であることで、 軽率な発言によってネガティブな反応が返ってくるというリスクへの備えが甘くなり、 「不用意な発言」をしやすくなります。(p.077)続いて「つながり」について。 ただし、「これまでつながっていなかったものがつなげられる」ことによって、 「出会いたかった人」だけでなく、それまで「出会うはずのなかった人」や 「出会いたくなかった人」とつながることも起こります。 通常であれば自分の前では囁かれないようなたぐいの陰口を耳にすることだってあるでしょうし、 聞かれたくない人に相談事を聞かれてしまうかもしれません。(中略) このようにウェブ上では、場所や時間による棲み分けのルールが変わることで、 「もともと届くはずのなかった人」にメッセージが届く、ということが起こりえます。(p.106)そして、「可視化」について。 空間も時間も超えてすべてをつなげていくウェブにおいては、 異なる文脈へと接続しやすいために誤配が生じやすく、またそれが可視化されやすい。 まったく異なる文脈同士を接続してしまうため「約束事」のあり方が変容し、 その一方で誤配の痕跡がいつまでもウェブ上に残ってしまう (たとえブログが閉鎖したとしても、キャッシュ=断片としてウェブに保存され続ける)。(p.110)このような特徴を背景としながら、ウェブ上には様々な情報が飛び交うことになる。そして、そこで飛び交う情報・発言がどれほど広まるかは、次のようにして決まる。 こうしてオルポートとポストマンは 「流言の量は問題の重要性と状況のあいまいさの積に比例する」という有名な公式を提示します。 ウワサやデマの流通は、その重要さと曖昧さとのかけ算によって決まるので、 流言が重要なものでないか、はっきりとした情報が得られている場合には広がりません。(p.122)その情報の持つ「重要さ」と「曖昧さ」。この二つが、大きければ大きいほど、ウェブ上でより多くの様々な情報が飛び交うことになる。そして、それらの情報は、次のように集約され、大きなうねりとなって、時として、ある特定の個人やサイトを襲い、呑みこんでいく。 人が自らに必要な情報を収集していった結果、 各人が自らにとって必要な情報=都合のよい世界観に飛びついてしまうことで、 特定の極端化された言説に集団でなだれ込んでしまうこと。 自らの世界観を満たしてくれるような言説が存在しない場合、 自ら情報の発信者となってデマの補強に加担してしまうこと。 「ヒミツの大計画」のようなデマへのカスケードは、 そのメカニズムを顕著に反映しています。(p.130) ***「自らにとって必要な情報」というのは、自らにとって「都合のよい世界観」を補強するのに役立つものである。そして、より強く「自分にとって都合のよい世界観」を補強してくれる情報が有り難い。それ故、出来るだけ極端で強力な情報の方が、より有り難く感じられるのである。そして、これまで現実世界ではそう簡単に出会えなかったそれらの情報に、ウェブ上では、出会える機会が驚異的に増加した。しかも、そこは匿名性が強いため、期待以上に極端で強力な情報に満ち溢れている。それらの極端な情報が、さらに極端な情報を呼び、よりパワーを増していく。「出会わなくてもいい人」と出会わずに済むような「棲み分け」が、ウェブ上で可能だろうか?そして、そこで「目にすることが出来るもの」を、せめて現実社会レベル程度の慎み深さがあるものに、コントロールすることは可能だろうか?全ては、そこに集う人、そしてその人たちが、そこでどう振る舞うかにかかっている。
2009.08.02
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