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★ボビ-・ジェントリー (vf=a) Bobbie Gentry本名ロバータ・リー ・ストリーター (Roberta Lee Streeter) 1944年7月27日米国ミシシッピ州生、ポルトガル系アメリカ人歌手、ソング・ライター。 米国ミシシッピ州チカソウ郡でロバートとルビー・(バリントン)・ストリーターの一人娘として生まれましたが、両親は彼女が誕生後すぐに離婚しました。母はカリフォルニアに引越し、チカソウにある祖父母の農場で育ちました。祖母は隣人からピアノを譲り受け彼女に与えました。彼女が7歳の時 "My Dog Sergeant Is a Good Dog"という曲を最初に作曲しました。 やがて彼女は地元のグリーンウッドの学校に行くようになり、ギター、ベース、バンジョーなどの楽器を演奏するようになりました。13才の時にカリフォルニアの母に引き取られます。1952年の映画の主役の名前、ルビー・ジェントリー(Ruby Gentry)の名前を芸名にして地元のカントリー・ミュージック・クラブで歌い始めます。ボブ・ホープに励まされ、ラス・ヴェガスのレビューに出演しました。 彼女はロスアンジェルスに移りUCLAの哲学科に入学、ナイトクラブで事務の仕事を始めました。その後ロスアンジェルス音楽院に転校し、63年ジョニー・レイノルズとのデュエット曲"Requiem for Love"と"Stranger in the Mirror"でレコード・デビューしました。67年にキャピトル・レコードのケリー・ゴードンに見出されるまでナイト・クラブで歌う仕事を続けます。 67年キャピトルで最初のソロ・シングル盤"想い出のミシシッピー (MISSISSIPPI DELTA)"を製作します。この曲は大ヒット曲となる"ビリー・ジョーの唄 (ODE TO BILLIE JOE)"の裏面にまわされることになります。"ビリー・ジョーの唄"の詩は物議をかもす内容でしたが、全米ホット100のナンバー1ヒット、全英トップ40の13位となる大ヒットで全世界で300万枚を売上げました。、 この曲が世界的ヒットをしたので翌68年サンレモ音楽祭に招かれ、期待の新人アル・バーノの"愛の垣根"のパートナーとして歌い、見事に9位入賞しています。鮮烈なソロ・デビュー曲ニ吉良べてその後のシングルは、3枚目の"オコロナ・リバー・ボトム・バンド (OLOLONA RIVER BOTTOM BAND)"がホット100の54位になったもののあまり芳しいものではありませんでした。 ただキャピトルのカントリー系歌手グレン・キャンベル(Glen Campbell,)とのデュエットで、"モーニン・グローリー (MORNIN' GLORY)"、"レット・イット・ビー・ミー (LET IT BE ME)"、"夢をみるだけ (ALL I HAVE TO DO IS DREAM)う"をヒットさせ、グレンのグラミー賞受賞に貢献した方が評価されています。 78年惜しまれつつも芸能界から引退しました。 ボビ-・ジェントリーの国内盤 (イタリア関係)CP- 9527 (1970年4月25日 CAPITOL -東芝音楽工業) 30cm LP ボビー・ジェントリー/ハスキーの魅力7.愛の垣根 (LA SIEPE)CP- 9527 CP-99044 CP-99044 (1971年10月5日 CAPITOL -東芝音楽工業) 30cm LP ボビー・ジェントリー/愛の復活 (BOBBIE GENTRY)20.愛の垣根 (LA SIEPE) ★ザ・サンドパイパーズ (coro=a) The Sandpipers1960年代半ばに結成されたアメリカのヴォーカル・トリオ、75年に解散。 メンバー構成・ジム・ブラディ (Jim Brady) 1944年8月24日生。・マイク・ピアノ (Mike Piano) 1944年10月26日ニューヨーク州ロチェスター生。・リチャード・ショフ (Richard Shoff) 1944年4月30日ワシントン州シアトル生。 ミッチェル・ボーイズ・コーラスの卒業生3人がフォー・シーズンズという名前でトリオを結成しましたが、既にニューヨークで同名のグループがあり、『卒業生』の名前を生かした「ザ・グラッズ(The Grads)」に変えました。グラッズの名前でレコードを出しましたが、ヒット・しませんでした。カリフォルニアにあるレイク・タホのナイトクラブに出演しているところをA&Mのハーブ・アルパート(Herb Alpert)に見出されます。アルパートは彼らをA&Mと契約させシングル盤を出しますがヒットせず、フロリダの女性トリオが使っているとも知らず、サンドパイパーズという名前に変更しました。A&Mの取っていたラテン・ヒスパニック路線からソフト・ロックに移行して過程で、"グァンタナメラ(Guantanamera)"が選ばれ、66年ビルボード・ホット100の9位になる大ヒットとなりました。翌67年"ルイ・ルイ(Louie Louie)"が同30位になりました。同年出した"さよならキューバ (CUANDO SALI DE CUBA)"はミルバがカヴァーし、その名が知られるようになります。68年サンレモ音楽祭に唯一の出場し、6位入賞、年間ヒットランキング72位のヒットになりました。翌年、映画「ある夕食のテーブル (Metti, una sera a cena)」のテーマ"ハリー・トゥ・ミー (HURRY TO ME)"を歌っています。 サンドパイパ-ズの国内盤 (イタリア関係)TOP-1254 (1968年3月20日 A&M -キング) 愛の花咲くとき (QUANDO M'INNAMORO)/アンジェリカ (ANGELIQUE) TOP-1254 TOP-1217 TOP-1254 (1968年12月1日 A&M -キング) さよならキューバ (CUANDO SALI DE CUBA)/ソフトリー (SOFTLY AS I LEAVE YOU) AML- 22 (1969年1月10日 A&M -キング) 30cm LP愛の花咲くとき/サンドパイパーズ (SOFTLY/THE SANDPIPERS)6. 愛の花咲くとき (QUANDO M'INNAMORO) AML- 22 AML- 27 AML- 27 (1969年5月10日 A&M -キング) 30cm LP愛のささやき/サンドパイパーズ (SPANISH ALBUM/THE SANDPIPERS)7.さよならキューバ (CUANDO SALI DE CUBA) AML- 59 (1970年6月10日 A&M -キング) 30cm LPビバ!サンドパイパーズ (THE SANDPIPERS GREATEST HITS)12.愛の花咲くとき (QUANDO M'INNAMORO)14.さよならキューバ (CUANDO SALI DE CUBA) AML- 59 AM- 33 AM- 33 (1970年7月A&M -キング) 涙の天使 (STASERA GLI ANGELI NON VOLANO)/風のささやき (THE WINDMILLS OF YOUR MIND) AML- 75 (1970年6月10日 A&M -キング) 30cm LPビバ!サンドパイパーズ (THE SANDPIPERS GREATEST HITS)7.涙の天使 (STASERA GLI ANGELI NON VOLANO) AML- 75 KKCP- 194 KKCP- 194(SCEB- 906・CD) (2000年8月23日 SCHEMA -キング・インターナショナル (SCHEMA,Italy)) CD メッティ・ウナ・ボッサ・ア・セナ (METTI UNA BOSSA A CENA)19.ハリー・トゥ・ミー (HURRY TO ME) KICP- 843 (2002年1月10日 SEVEN SEAS - キング) CDある夕食のテーブル (METTI, UNA SERA A CENA)12.ハリー・トゥ・ミー (HURRY TO ME) KICP- 843 RBCS-1070 RBCS-1070 (2002年12月18日 RAMBLING -パイオニアLDC) CD エンニオ・モリコーネ/シニョーレ・モリコーネ・テンポ (SIGOR MORRICONE TEMPO)1.ハリー・トゥ・ミー (HURRY TO ME) RBCS-2065 (2004年1月10日 RAMBLING - ランブリング) CDサロン:レトロ・シック (SALON:RETRO CHIC)18.ハリー・トゥ・ミー (HURRY TO ME) RBCS-2065
2014.04.29
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★ドメニコ・モドゥーニョ (Domenico Modugno) 1928年1月9日、長靴の踵の付け根辺りの小都市ポリニャーノ・ア・マーレ(Polignano a Mare)生、1994年8月6日シチリア島とチュニジアの中間にある保養地の小島ランペドゥーサ島(Lampedusa)没、自作自演歌手、俳優、監督、イタリアの政治家でした。 PM-3502 自分の楽曲管理をしているクルチ音楽出版の子会社カロセッロのクルチ・レーベルからデビューした古巣RCAイタリアーナに1968年初めから再移籍をします。レコード番号的には"メラビリオーゾ"が先ですが、実際に発売されたのは68年第18回サンレモ音楽祭出場曲"私の場所"ではなかったかと思います。 しかし、68年にリリースした2枚のシングル盤は往年のモドゥーニョからすると、決してヒットしたとは言えない成果でした。 PM-3437 (1968年 RCA Italiana - RCA Italiana) MERAVIGLIOSO (メラビリオーゾ)/NON SIA MAI (あなたは知らない) PM-3437 PM-3440 PM-3440 (1968年 RCA Italiana - RCA Italiana) Il posto mio (私の場所)/Mi sei entrata nell'anima 68年の年末に近い11月半ばに移籍初、彼17枚目のアルバムをリリースしました。日本でも翌年若干編成違いの曲順ですが同じジャケット・デザインでSHP-6052"ヴォラ-レ/ドメニコ・モドゥ-ニョ"として出ています。 PSL-10433 (1968年11月16日 RCA Italiana - RCA Italiana) Domenico Modugno (ドメニコ・モドゥ-ニョ)1.メラビリオーゾ (MERAVIGLIOSO) 22.シ・シ・シ (SI, SI, SI) 33.ヴォラ-レ (NEL BLU DIPINTO DI BLU)14.あなたは知らない (NON SIA MAI)5.愛は限りなく (DIO, COME TI AMO)6.チャオ・チャオ・バンビーナ (PIOVE)77.古い燕尾服 (VECCHIO FRAK)68.ぼく (IO)9.船乗りと悲しみの女 (MARINAI, DONNE E GUAI)10.すてきなあなた (TU SI' 'NA COSA GRANDE)11.かけたお月様 (NOTTE DI LUNA CALANTE)12.私を残して (RESTA CU 'MME) 移籍2年目の69年は4枚(3種)のシングル盤を出しています。"Ricordando con tenerezza"は69年ヴェネチア金のゴンドラ・フェスティヴァルで歌われた曲、"Simpatia"は69年にかけられた劇場喜劇"Mi è cascata una ragazza sul piatto"の曲。"なんてことを"はB面が"すてきなあなた"に差替えられ、2ヴァージョンが存在します。かなりセールスに苦労していたことが想像できます。 PM-3502 (1969年 RCA Italiana - RCA Italiana) Ricordando con tenerezza/Il minatore (ジャケット画像は今回の顔写真画像参照) PM-3504 PM-3504 (1969年 RCA Italiana - RCA Italiana) Simpatia/Vecchio frack (古い燕尾服) PM-3506 (1969年 RCA Italiana - RCA Italiana) Come hai fatto (なんてことを)/Simpatia PM-3506 PM-3506 (1968年 RCA Italiana - RCA Italiana) Come hai fatto (なんてことを)/Tu si' 'na cosa grande (すてきなあなた) モドゥーニョ本来のヒット曲は70年になるまで待たねばなりませんでした" "なんてことを"は70年になってヒットし年間ランキング33位、久々の大ヒットになりました。そして70年2月に出した"へだたり"は第2期RCA時代の代表作ともなる年間ランキンング第1位の超メガ・ヒットになります。2枚目は"La gabbia"のB面"Dove, come e quando"はモドゥーニョに珍しく他人の曲(マリオ・カステラッチとシルヴァーノ・スパダッチーノ)でした。オルネラ・ヴァノーニにも同名の曲"夜の静けさ"が有りますが違う曲のようです。 PM-3525 (1970年2月 RCA Italiana - RCA Italiana) La lontananza (へだたり)/Ti amo, amo te PM-3525 PM-3567 PM-3567 (1970年 RCA Italiana - RCA Italiana) 1970 La gabbia/Dove, come e quando "へだたり"は元々サンレモ音楽祭で歌うつもりで作られた曲でしたが、サンレモ音楽祭側はこの数年のモドゥーニョの行動と実績をみて、出場指すのを避けていたようです。しかしこの曲は大ヒットし、RCAイタリアーナに移籍した新曲と南部方言の曲をセルフカヴァーしたアルバムを70年7月にリリースしました。A面は新しくシングル盤で発売した曲、B面は54年から56年に発売したシチリアやプーリア方言で歌われた曲を新録音したものです。1 PSL- 10468 (1970年7月6日 RCA Italiana - RCA Italiana) Domenico Modugno (ドメニコ・モドゥ-ニョ) 1.La lontananza (へだたり)2.Ricordando con tenerezza3.Ti amo amo te4.Dove come quando5.Simpatia6.Come hai fatto7.Magaria (希望)8.Scarcagnulu9.Ninna nanna10.Il grillo e la luna11.Il cavallo cieco della miniera (鉱山のめくら馬)12. Il minatore (鉱山) このアルバムのB面の構成は、翌71年イタリアではまだ目新しいコンセプト・アルバム"シチリアの郷愁/ドメニコ・モドゥーニョ(Con l'affetto della memoria)"の基となったと考えられます。 ドメニコ・モドゥーニョの国内盤 (1969~70年)SHP-6052 (1969年7月5日 RCA -日本ビクター) 30cm LPヴォラ-レ/ドメニコ・モドゥ-ニョ (DOMENICO MODUGNO)1.ヴォラ-レ (NEL BLU DIPINTO DI BLU)2.メラビリオーゾ (MERAVIGLIOSO)3.シ・シ・シ (SI, SI, SI)4.あなたは知らない (NON SIA MAI)5.愛は限りなく (DIO, COME TI AMO)7.チャオ・チャオ・バンビーナ (PIOVE)6.古い燕尾服 (VECCHIO FRAK)8.ぼく (IO)9.船乗りと悲しみの女 (MARINAI, DONNE E GUAI)10.すてきなあなた (TU SI' 'NA COSA GRANDE)11.かけたお月様 (NOTTE DI LUNA CALANTE)12.私を残して (RESTA CU 'MME) SHP-6052 SR- 319 SR- 319 (1969年12月 SEVEN SEAS - キング) 30cm LPチャオ・チャオ・バンビーナ/ドメニコ・モドゥーニョ (DOMENICO MODUGNO) 1.チャオ・チャオ・バンビーナ (PIOVE)2.今夜おごるぜ (STASERA PAGO IO)3.ぼく (IO)4.リベロ (LIBERO)5.俺とおっ母とおめえ (IO, MAMMETA E TU)6.ぼくといておくれ (哀願) (RESTA CU 'MME)7.ジョヴァネ・アモーレ (GIOVANE AMORE)8.アディオ・アディオ (ADDIO, ADDIO)9.素敵なあなた (TU SI' 'NA COSA GRANDE)10.剣魚の恋 (LU PISCE SPADA)11.ミュゼット (MUSETTO)12.兵士の手紙 (LETTERA A UN SOLDATO)13.恋の十字架 (IO PECCATORE)14.ヴォラーレ (NEL BLU DIPINTO DI BLU)GW- 63~4 (1970年3月 SEVEN SEAS - キング) 30cm LPゴールデン・カンツォーネ・ダブル・デラックス (GOLDEN CANZONE DOUBLE DELUXE) 1-3. ラ・ノビア [伊] (LA NOVIA [I])1-8.ヴォラーレ (NEL BLU DIPINTO DI BLU)2-1.チャオ・チャオ・バンビーナ (PIOVE) GW- 63~4 SS-2011 SS-2011 (1970年4月5日 RCA -日本ビクター) ヴォラーレ (NEL BLU DIPINTO DI BLU)/チャオ・チャオ・バンビーナ (PIOVE...!) SR- 389 (1970年5月10日SEVEN SEAS - キング) 30cm LPカンツォニッシマ1969~70年 (CANZONISSIMA 1969-70) 7. 古い燕尾服 (ドメニコ・モドゥ-ニョ (vm))SR- 389 GW- 310~2 GW- 310~2 (1970年12月1日SEVEN SEAS - キング) 30cm 3LP決定盤!カンツォーネ大全集 (GOLDEN CANZONE BEST HITS) 1-11.チャオ・チャオ・バンビーナ (PIOVE)2-4.ヴォラーレ(NEL BLU DIPINTO DI BLU) この続き(ドメニコ・モドゥーニョ 6)は1971年サンレモ音楽祭の後になります
2014.04.27
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★ディーノ (vm) DINO本名エウジニオ・ザンベルリ (Eugenio Zambelli)1948年5月3日ヴェローナ生。 ヴェローナ美術研究所の職員の息子で、良い発声法で知られていました。子供の歌手として最初のコンテストに参加し、同郷で同い年のジリオラ・チンクェッティ(Gigliola Cinquetti)と知合いになります。チンクェッティはディーノを見て歌手になることを幼心に決めたと言われています。1959年初めて子供のためのオペッレッタに出演し、2年後ミーナの大ヒット曲"青い泡がいっぱい(Le mille bolle blu)"を「金の小さなピノキオ(Pinoccietto d'oro)」で歌い1位となりました。61年エンジェルズ(The Angels)バンドが結成されメンバーはエギター・ソロのエンニオ・オットファーロ (Ennio Ottofaro)、リズム・ギターのダリオ・デ・サンティ (Dario De Santi)、ドラムスのフランコ・ブシーニ (Franco Busini)、ベースのマルチェロ・ブットゥリーニ (Marcello Butturini)でした。最初はロック・ン・ロールを演奏していましたが、すぐにイギリスのビート・グループの曲をするようになります。彼らもヴェローナ・ビートといわれるバンドの一つとなっていました。しかしこのバンドはヴォーカルが弱点でした。その年の末、エンニオは13才で既によく知られているエウジニオ・ザンネルリ(ディーノ)バンドに誘い、ベースのマルチェロをダミアーノペランダ(Damiano Pelanda)に交代、キングズ(I Kings)として再出発しました。63年テディ・レーノがアリッチャで開催する新人発掘コンテスト「名もなき者のフェスティヴァル(Festival degli sconosciuti di Ariccia)」に参加しました。テディ・レーノはエウジニオの歌の上手さに惚れ込みRCAイタリアーナに作ったばかりの新人開発レーベルARCと契約させました。そして芸名を仇名のディーノとしました。この名前は叔母が交通事故で死んだボーイフレンドにエウジニオが似ていたので、その名前を彼に仇名として付けたと言われています。64年ロークスのシェル・シャピロ(Shel Shapiro)作曲、エンニオ・モリコーネ編曲の"過去の友情(Eravamo amici)"でデビューしました。なんとこのデビュー曲は第3回カンタジーロ・ジローネBで2位となり年間ランキング36位の大ヒットします。 AN-4005 (1964年 ARC - RCA Italiana) Eravamo amic (過去の友情)/Così come sei AN-4005 AN-4023 AN-4023 (1965年 ARC - RCA Italiana) Te lo leggo negli occhi/Cerca di capire 65年になり2枚目のシングル"Te lo leggo negli occhi"はローマの第1回バラのフェスティヴァルで第3位、これが年間ランキング31位になり、3枚目彼の代表作ともなる"コンパスの踊り(Il ballo della bussola)"は第4回カンタジーロ・ジローネAで9位となり、年間ランキング43位になりました。B面はライチャス・ブラザーズの"フラレた気持"イタリア語版です。 AN-4044 (1965年 ARC - RCA Italiana) Il ballo della bussola (コンパスの踊り)/Ma c'è un momento del giorno (YOU'VE LOST THAT LOVIN' FEELIN') AN-4044 AN-4060 AN-4060 (1965年 ARC - RCA Italiana) Sai sai sai/Il ragazzo di ghiaccio (氷の少年) 65年(最後の)3枚目"Sai sai sai"は年間ランク95位に入り、出したシングルすべてランク・インするヒットになりました。このシングル両面とも映画に挿入された曲です。しかし66年に入ると年間ランキングに入るヒットはピタッと止まってしまいます。66年のカンタジーロ・ジローネにはポール・アンカの書いた"ぼく以上の人 (Chi più di me (CAN'T GET ALONG VERY WELL WITHOUT YOU))"が8位になった曲と年末のカンツォニッシマ「王の階段」(Scala reale)で歌った"Piccola mia piccola"を出しました。67年も2枚のシングル盤を出しています。1枚目がカンタリーロ・ジローネAで4位になった"昼に目覚めて(Io mi sveglio a mezzogiorno)"とスティーヴィー・ワンダーの"太陽のあたる場所(A place in the sun)"のイタリア語カヴァー"Il sole è di tutti"でした。この"太陽のあたる場所"は久々に67年年間ランキング88位、同68年74位に入るヒットとなりました。 カンタジーロには常連のディーノですが、この勢いで68年サンレモ音楽祭に初出場しています。日本ではサンレモ音楽祭に出場していないとなかなか国内盤が発売されず、ディーノもサンレモ音楽祭に出て年間ランキング52位になり、初めて日本にも紹介されました。しかもウィルマ・ゴイクのパートナーとして"ささやく瞳"を歌ったこと、その後トム・ジョーンズが英語でカヴァーし世界ヒットになったのも幸いしたと言えます。 翌69年の夏にディスク・フェスティヴァルには"シモーネ・シモネッテ(Simone Simonette)"を歌ったものの入賞できず、復活の波に乗り切れませんでした。もう1枚シングル盤"Bye Bye City"はフランスのピエール・グロコラの曲でした。この後しばらくシングル盤を出さず、71年にレーベル変更でRCAイタリアーナから"Notte calda"を出します。極めて民謡色の濃い曲、B面がロネッツの"ビー・マイ・ベイビー"とチグハグ感のあるカップリングです。これを最後にRCAイタリアーナを離れ、アリストンに移籍します。 アリストンから72年"Che strano amore"、73年夏のディスク・フェスティヴァルに"テレーサのほほえみ(Parla chiaro Teresa)"で参加しました。彼のレコード・リリースの最後となりました。その後石油会社の幹部になりましたが、オイル・スキャンダルに巻き込まれ、80年代になって芸能界に復帰しています。 ディーノの国内盤SS-1804 (1968年5月5日 RCA - 日本ビクター) ささやく瞳 (GLI OCCHI MIEI)/パッサーノ(PASSANO I) SS-1804 SR- 829 SR- 829 (1973年8月 SEVEN SEAS - キング) 30cm LP 夏のディスク・フェスティヴァル1973 (UN DISCO PER L'ESTATE 1973)10. テレーサのほほえみ (PARLA CHIARO TERESA) KICP- 61 (1990年8月21日 SEVEN SEAS - キング) CDサンレモ・ヒッツ・コレクション (C'ERA UNA VOLTA DI FESTIVAL)11.ささやく瞳 (GLI OCCHI MIEI) KICP- 61 FKCP-30739 FKCP-30739 (1997年 SEVEN SEAS-THE CD CLUB - キング) CD 想い出のヨーロピアン・ポップス (EUROPEAN POP HITS) 特販物20.ささやく瞳 (GLI OCCHI MIEI) BVCM-37063~72 (2000年3月23日 RCA - BMGファンハウス) 10 CD Boxエンニオ・モリコーネ・クロニクル (THE ENNIO MORRICONE CHRONICLES)6-19.氷の少年 (IL RAGAZZO DI GHIACCIO) BVCM-37063~72 BVCM-37154~5 BVCM-37154~5 (2000年8月23日 RCA - BMGファンハウス) 2CDザ・ヴェリー・ベスト・オブ・エンニオ・モリコーネ (ENNIO MORRICONE CHRONICLES)1-8.氷の少年 (IL RAGAZZO DI GHIACCIO)
2014.04.25
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★トニー・デル・モナコ (vm) TONY DEL MONACO本名アントニオ・デル・モナコ (Antonio Del Monaco)1936 年12月27日ローマの東100kmの山中にある小都市スルモナ生、1993年5月28日-フィレンツェの東アドリア海沿いの中都市アンコーナ没、歌手。 SRL-10・542 68年サンレモ音楽祭にはディオンヌ・ワーウィックをパートナーに"静けさの声(La voce del silenzio)"で14位ながら入賞を果たしました。次のシングル盤は68年第7回ガンタジーロ・ジローネAの出場曲"マジア(Magia)でマッシーモ・ラニエリがカヴァーしており日本人好みの曲でした。これをCGD最後のシングル盤として68年後半リコルディに移籍しました。移籍第一弾は"Vola vola"という平凡なタイトルで、どこを探しても「らしい」資料は出てきません。彼らしいと言えばそれまでですが。2枚目がサンレモ3連続出場、ファウスト・レアーニのパートナーとして"過ぎ去ったひととき(Un'ora fa)"を歌い、彼の最高の成績4位入賞をはたします。次のリコルディでの3枚目が"ワン・モア・チャンス"のイタリア語カヴァーを上回る彼最大のヒット曲になります。年間ランキング32位になる大ヒットでしたが、残念ながらリコルディの日本販売権はポリドールが持っており、彼までのレコードは出してる状態で有りませんした。 SRL-10・542 (1969年4月Ricordi - Ricordi ) Una spina e una rosa/Peccato 翌70年サンレモ音楽祭には4年連続出場、クラウディオ・ビルラのパートナーとして"セレナータ(Serenata)"を歌いましたが入賞出来ませんでした。翌71年早々にリコルディからマイナーのPidiemmeに移籍しました。何の資料もありませんが、彼の個人レーベルかもしれません。彼は学生時代に中断した法律の勉強を再開しました。74年から75年までフォニット・チェトラで2枚、78年にイデア、79年にニュー・ポラリスで1枚づつシングルを出しました。 トニー・デル・モナコの国内盤PS- 123 (1969年4月 SEVEN SEAS - キング) 17cm CP 第19回サン・レモ音楽祭第1集 (FESTIVAL DI SAN REMO 1969 Vol.1)4.過ぎ去ったひととき (UN'ORA FA) PS- 123 GW- 17~8 GW- 17~8 (1969年5月20日 SEVEN SEAS - キング) 30cm 2LP第19回サンレモ音楽祭 (FESTIVAL DI SAN REMO 1969)1-10.過ぎ去ったひととき (UN'ORA FA) SR- 313~5 (1969年10月20日 SEVEN SEAS - キング) 30cm 3LP Boxカンツォーネ・スター大名鑑 (PANORAMA DI CANTANTI)3-5.愛の幻想 (MAGIA) SR- 313~5 MP-2085 MP-2085 (1970年6月 POLYDOR -日本グラモフォン) 30cm LPサンレモ1970第20回サンレモ音楽祭(SAN REMO 1970)13.セレナータ (SERENATA) MW-9005~6 (1971年2月 RICORDI - 日本グラモフォン) 30cm 2LPサン・レモ・フェスティヴァルのすべて (CANZONI DI SAN REMO)1-3.セレナータ (SERENATA) MW-9005~6 SR- 609~10 SR- 609~10 (1971年5月10日 SEVEN SEAS - キング) 30cm 2LPカンツォニッシマのすべて第2集 (CANZONISSIMA (II))2-11.私のいのち (VITA MIA) SR- 611~2 (1971年6月10日 SEVEN SEAS - キング) 30cm 2LP夏のディスク・フェスティヴァルのすべて (UN DISCO PER L'ESTATE)1-9.生きるしあわせ (SE LA VITA E' COSI')1-13. 君こそは愛 (TU CHE SEI L'AMORE)SR- 611~2 SRA-9195~6 SRA-9195~6 (1971年 RCA - 日本ビクター) 30cm 2LP豪華盤恍惚の映画音楽全集 (THE FAMOUS HITS OF SEXY SCREEN THEMES)2-3.狂ったバカンス (LA TUA STAGIONE) SR- 748~9 (1972年4月5日 SEVEN SEAS - キング) 30cm 2LP カンツォニッシマ1971~72 (UN DISCO PER L'ESTATE)2-13.さらば愛の季節 (CRONACA DI UN AMORE)SR- 748~9 MW-9015~6 MW-9015~6 (1972年5月 RICORDI -ポリドール) 30cm 2LPカンツォーネのすべてVol.1 (ALL ABOUT GOLDEN CANZONE Vol.1)2-2.セレナータ (SERENATA) SX- 247 (1973年6月 RCA - ビクター音楽産業) 30cm LPエンニオ・モリコーネ・ベスト (ENNIO MORRICONE)14.狂ったバカンス (LA TUA STAGIONE) SX- 247 SRA-9398~9 SRA-9398~9 (1973年7月 RCA - ビクター音楽産業) 30cm 2LP エンニオ・モリコ-ネ/ベスト24 (ENNIO MORRICONE BEST 24)2-9.狂ったバカンス (LA TUA STAGIONE) RCA-8037~8 (1974年12月 RCA - ビクター音楽産業) 30cm 2LP エンニオ・モリコーネ・ゴールド・デラックス (ENNIO MORRICONE - GOLD DELUXE4)2-8.狂ったバカンス (LA TUA STAGIONE) RCA-8037~8 GP- 440 GP- 440 (1976年9月21日 SEVEN SEAS - キング) 30cm LP 愛の幻想/トニー・デル・モナコ (MAGIA/TONY DEL MONAGO)1.愛の幻想 (MAGIA)2.最後の恋 [伊] (PARLA TU, CUORE MIO)3.君想う人 (L'UOMO CHE VUOI TU)4.月 (QUANDO SI ALZA LA LUNA)5.恋しょう (E' DIVENTATO AMORE)6.君こそは愛 (TU CHE SEI L'AMORE)7.ワン・モア・チャンス [伊] (VITA MIA)8.静けさの声 (LA VOCE DEL SILENZIO)9.偶然 (L'ULTIMA OCCASIONE)10..生きるために (PER VIVERE)11..許されぬ君 (TU NON POTRAI)12..生きるしあわせ (SE LA VITA E COSI') GXH- 11~2 (1977年3月 SEVEN SEAS - キング) 30cm 2LP第2回イタリア音楽祭(実況録音)サン・レモ・ヒット集 (MIN-ON SECONDO FESTIVAL DELLA CANZONE ITALIANA)2-13.さらば愛の季節 (CRONACA DI UN AMORE)1-2.ワン・モア・チャンス <L> (VITA MIA <L>)1-3.愛の幻想 <L> (MAGIA <L>)1-7.ヴォラーレ <L> (NEL BLU DIPINTO DI BLU <L>)2-4.静けさの声 <L> (LA VOCE DEL SILENZIO <L>)2-5.過ぎ去ったひととき <L> (UN'ORA FA <L>) GXH- 11~2 GXF- 81~90 GXF- 81~90 (1979年9月25日 SEVEN SEAS - キング) 30cm 10LP Boxサン・レモ音楽祭大全集 (FESTIVAL DI SAN REMO)5-17.静けさの声 (LA VOCE DEL SILENZIO)
2014.04.23
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BVCM-37063~72 (2000年3月23日 RCA - BMGファンハウス) 10 CD Boxエンニオ・モリコーネ・クロニクル (THE ENNIO MORRICONE CHRONICLES)2-21.南への長い列車 (LUNGO TRENO DEL SUD)6-2.すてきなドンナ (DONNA DA MORIRE)6-6.あなたの季節 (LA TUA STAGIONE) BVCM-37063~72 BOJM- 1 BOJM- 1 (2000年3月23日 RCA - BMGファンハウス) 17cm CP太陽の下の18才 (DICIOTTENNI AL SOLE) ※BVCM-37063~72エンニオ・モリコーネ・クロニクル (THE ENNIO MORRICONE CHRONICLES) 特典盤 (非売品)4.すてきなドンナ (DONNA DA MORIRE) BVCM-37154~5 (2000年8月23日 RCA - BMGファンハウス) 2CDザ・ヴェリー・ベスト・オブ・エンニオ・モリコーネ (ENNIO MORRICONE CHRONICLES)1-4.すてきなドンナ (DONNA DA MORIRE)BVCM-37154~5 BVCM-37208~9 BVCM-37208~9 (2001年4月25日 RCA - BMGファンハウス) 2CDエンニオ・モリコーネ/アルティメット・イタリアン・ポップス・コレクション (ENNIO MORRICONE/40th COMMEMORATION : ULTIMATE ITALIAN POPS COLLECTION)1-13.雨は上がる (LA PIOGGIA VA' IN SU')1-14.夏のコンサート (CONCERTO D'ESTATE)2-16.僕は見た (HO VISTO)2-17.時計 (OROLOGIO)2-18.僕らは友だち (SIAMO AMICI)2-19.リングの王様 (IL RE DEL RING) VFD-8951~5 (2001年 RCA - ビクター・ファミリー・クラブ) 5CD Box イタリアン・ポップス・コレクション (ITALIAN POPS COLLECTION) 特販物3-19. 狂ったバカンス (LA TUA STAGIONE) VFD-8951~5 BVCM-37326 BVCM-37326 (2002年10月2日 RCA - BMGファンハウス) CD ベスト・オブ・エンニオ・モリコ-ネ (THE BEST OF ENNIO MORRICONE)2. あなたの季節 (狂ったバカンス LA TUA STAGIONE) BCD- 231 (2004年 RCA - BMGファンハウス) CD ベスト・オブ・エンニオ・モリコ-ネ (THE BEST OF ENNIO MORRICONE)2. あなたの季節 (狂ったバカンス LA TUA STAGIONE) BCD- 231 WQCP- 731~4 WQCP- 731~4 (2010年8月23日 WARNER Bros. -ワーナー・ミュ-ジック・ジャパン) 4CD Boxヴィヴァ・サンレモ!カンツォーネ・コレクション (VIVA SANREMO! CANZONE COLLECTION)4-11.静けさの声 (LA VOCE DEL SILENZIO)
2014.04.23
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★マリーザ・サンニア (vf) Marisa Sannia1947年2月15日サルディニア島南西部の小都市イグレシアス生、2008年4月14日同島南部の都市カリアリ没、歌手、女優。 音楽とスポーツに興味を持ち、サルディニアにあるカリアリ中央体育大学のバスケット・チームの選手で、ナショナル・チーム・レベルの選手でした。1960年初頭よりバンド"プリンチーピ(I principi)"と歌い始めます。65年地元のコンテストでアダモの"失せし恋(PERDUTO AMORE)"を歌い2位となり認められました。 幸運だったのは、66年のカンツォニッシマはスター歌手をキャプテンに新人入れたチーム、16チームがトーナメントで戦う「王への階段」となりました。新人16人が超目玉番組に出る機会が与えられました。 RAI(イタリア国営放送)は半年をかけ、テレビで新人発掘番組を作り、新人を選びました。彼女は既に大学を卒業し、カリアリの放送局でアナウンサーをしていましたが、このコンテストに応募、優勝しカンツォニッシマの出場権を得ました。ここからマッシーモ・ラニエリ、パティ・プラヴォーのサンレモ出場歌手が出ています。 66年ルイス・バカロフとセルジョ・エンドリゴの庇護の下、滅多に他人に曲を提供しないエンドリゴが"愛のわかれ道(Tutto o niente)"を与え、デビュー曲となりました。B面はブルーノ・カンフォーラの曲です。"愛のわかれ道"はヴェニスの銀のゴンドラ、TV歌番組「セッテ・ヴォーチェ」でも歌い、週間ランキング最高位13位(在位3週)のたヒットになりました。 SP-1309 (1966年 Cetra - Fonit Cetra) Tutto o niente(愛のわかれ道)/Dai (ねがい) SP-1309 SP-1322 SP-1322 (1966年 Cetra - Fonit Cetra) Una cartolina/Tutto o niente(愛のわかれ道) 2枚目のシングル盤も両面セルジョ・エンドリゴの曲、A面は本邦未発売でクリスマスを歌った曲のようで、B面は1枚目のデビュー曲を再収録。2年目67年、3枚目のシングル、A面はエンリケス・バカロフの曲、「フェスティヴァル・バール」、「セッテ・ヴォーチェ」歌い批評家賞を得ています。B面はエンドリゴの作、67年カンツォニッシマでも歌った曲でした。 SP-1329 (1967年 Cetra - Fonit Cetra) Sarai fiero di me (いつかその日が)/Lo sappiamo noi due(愛の並木道) SP-1329 SP-1351 SP-1351 (1967年 Cetra - Fonit Cetra) Sono innamorata (ma non tanto) (ちょっぴり恋したの)/Non è questo l'addio (最後のわかれ) 67年2枚目のシングル盤、A面"ちょっぴり恋したの"は翌68年ヴェネチア金のゴンドラで歌われた曲。B面"最後のわかれ"はA面と同じく金のゴンドラと67年カンツォニッシマ第1回戦で歌っています。 SP-1361 (1968年 Cetra - Fonit Cetra) Casa bianca (カーザ・ビアンカ)/Gli occhi miei (ささやく瞳) SP-1361 SP-1364 SP-1364 (1968年 Cetra - Fonit Cetra) Casa bianca (カーザ・ビアンカ)/Vorrei avere tante cose サンレモ音楽祭初出場曲"カーザ・ビアンカ"は彼女の代表作であり、唯一年間ランク入る30位の大ヒットになりました。後でB面が"ささやく瞳"からエンドリゴが作った彼女のオリジナルに変えた再盤が出ました。 "カーザ・ビアンカ"はピエトロ・ジェルミの映画「アルフィレード・アルフレード」の挿入歌にもなります。 A面は作詞にピッポ・バウドが参加していますTV番組の主題歌かもしれません。B面ブルーノ・ラウツィの曲を初めて歌っています。 SP-1376 (1968年 Cetra - Fonit Cetra) Colpo di vento/Quando torni (あなたの帰る日) SP-1376 SP-1382 SP-1382 (1968年 Cetra - Fonit Cetra) Io ti sento (あなたを感じちゃう)/Io ti sento (あなたを感じちゃう) 映画「私を引き裂いて(未)」のサントラ、A面サンニアの歌、B面トロヴァヨーリの演奏です。68年最後のシングルはカンツォニッシマ準決勝で歌った"孤独な少女"B面はA面の作詞家セルジョ・バルドッティが作詞・作曲もしています。 SP-1389 (1968年 Cetra - Fonit Cetra) Una donna sola (孤独な少女)/L'isola (太陽のない島) SP-1389 SPD-630 SPD-630 (1969年 Cetra - Fonit Cetra) La playa (夜霧のしのび逢い)/Una cartolina 彼女は69年サンレモ音楽祭に出場が出来なかったことが不満でCGDに移籍してします。移籍後カンツォニッシマ第2回戦の曲として発売されました。 マリーサ・サンニアの国内盤HIT-1511 (1968年3月SEVEN SEAS - キング) 君を歌う (CANZONE PER TE)/カーザ・ビアンカ (CASA BIANCA) セルジョ・エンドリゴ (Sergio Endrigo)/マリーザ・サンニア (vf) HIT-1511 PS- 61 PS- 61 (1968年4月SEVEN SEAS - キング) 17cm CP第18回サン・レモ音楽祭第1集 (SAN REMO 1968 Vol.1)2.カーザ・ビアンカ (CASA BIANCA) SR- 180 (1968年4月10日 SEVEN SEAS - キング) 30cm LP 第18回サンレモ音楽祭 (FESTIVAL DI SAN REMO 1968)2.カーザ・ビアンカ (CASA BIANCA) SR- 180 PS- 84 PS- 84 (1968年10月SEVEN SEAS - キング) 17cm CPラ・ラ・ラ(ヨーロッパ・ヒッツ・ベスト) (LA LA LA *EUROPEAN HITS BEST 4)2.カーザ・ビアンカ (CASA BIANCA)3.愛の花咲くとき (QUANDO M'INNAMORO)4.ささやく瞳 (GLI OCCHI MIEI) GW- 1~2 (1968年10月20日 SEVEN SEAS - キング) 30cm 2LP ゴールデン・カンツォーネ・ダブル・デラックス (GOLDEN CANZONE DOUBLE DELUXE)1-2.カーザ・ビアンカ (CASA BIANCA) GW- 1~2 SR- 238 SR- 238 (1969年2月SEVEN SEAS - キング) 30cm LP金のゴンドラ (GONDOLA D'ORO)3.最後のわかれ (NON E' QUESTO L'ADDIO)11.ちょっぴり恋したの (SONO INNAMORATA) SR- 313~5 (1969年10月20日 SEVEN SEAS -キング) 30cm 3LP Boxカンツォーネ・スター大名鑑 (PANORAMA DI CANTANTI)1-12. 愛の花咲くとき (QUANDO M'INNAMORO) SR- 313~5 GW- 63~4 GW- 63~4 (1970年3月SEVEN SEAS - キング) 30cm 2LP ゴールデン・カンツォーネ・ダブル・デラックス (GOLDEN CANZONE DOUBLE DELUXE)1-2.カーザ・ビアンカ (CASA BIANCA)2-6. 愛の花咲くとき (QUANDO M'INNAMORO) SR- 325 (1970年3月10日 SEVEN SEAS - キング) 30cm LP カンツォーネの妖精/マリーザ・サンニア (MARISA SANNIA)1.カーザ・ビアンカ (CASA BIANCA)2.愛の花咲くとき (QUANDO M'INNAMORO)3.ささやく瞳 (GLI OCCHI MIEI)4.ちょっぴり恋したの (SONO INNAMORATA)5.いつかその日が (SARAI FIERO DI ME)6.愛の並木道 (LO SAPPIAMO NOI DUE)7.太陽のない島 (L'ISOLA)8.夜霧のしのび逢い (E SE QUALCUNO SI INNAMORERA' DI ME)9.孤独な少女 (UNA DONNA SOLA)10.愛のわかれ道 (TUTTO O NIENTE)11.あなたを感じちゃう (IO TI SENTO)12.最後のわかれ (NON E' QUESTO L'ADDIO)13.ねがい (DAI)14.あなたの帰る日 (QUANDO TORNI) SR- 325 この続きは1970年サンレモ音楽祭の後になります
2014.04.21
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第18回優勝歌手セルジョ・エンドリゴは、1965年後半にチェトラに才移籍して三回目のサンレモ音楽祭の出場でした。優勝発表後に歌った時は、声を詰rらせ見る者も熱いものが込上げてくるものががりました。もう一人の優勝者ロベルト・カルロスはイタリアで人気のあるブルジル人歌手の一人でした。ブラジルに帰国した時はまるで凱旋将軍のように迎えられたとのことです。オルネラ・ヴァノーニの"逢びき"なども彼の曲です。日本でも何枚かアルバムもでたのですが、フラジル音楽が注目された時でも、何故か一般的な人気は出ませんでした。 ニーノ・フェレール (Riviera) ジュシー・ロメオ (Columbia) 第18回 1968年2月1日(木)~3日(土) サンレモ市カジノ付属劇場司会:ピッポ・バウド (Pippo Baudo)、ルイザ・リヴェッリ(Luisa Rivelli)楽団指揮: 24名の指揮者で演奏された。オーガナイザー:サンレモ市ホテル観光協会 (ATA-Azienda Turistico Alberghiera)、監督ジャンニ・ラヴェーラ (Gianni Ravera)形式:出場曲数24曲を各曲外国人歌手またはイタリア人歌手とパートナーを組み1曲2歌唱で第1夜、第2夜に12曲を歌い、各夜の中から7曲の入賞曲を選出し各夜7曲づつ最終夜に出場権を与え、最終夜に出場した中から優勝を決め2位から14位までの入賞曲を発表する。 出場歌手は48歌手(グループは1歌手)で、外人出場歌手も総て1歌手1曲の歌唱でした。初出場20歌手(内外人11歌手)、出場レコード会社17社で初出場3社、外人歌手のみの出場会社は3社です。 [数]は外人歌手数CGD7[2]; RCA ITALIANA 5[1]; V.C.M. 5[2]; FONIT CETRA4[1]; RI FI 4[1]; RICORDI 4[2]; ARISTON 3[0]; CDI 3[2]; Clan Celentano 2[0] ; PHONOGRAM 2[0]; DURIUM 2[1]; CAROSELLO 2[1]; 新DET(CAM)1[0];新BDM1 [0]; SAAR 1 [1]; BLUE BELL 1 [1]; 新SIF 1 [1] <参加曲> ◆私の場所Il posto mio (A.Testa - T.Renis) 出版社 RCA ITALIANA トニー・レニス (vm) Tony Renis (RCA Italiana - RCA Italiana) PM-3439 [45] : ドメニコ・モドゥーニョ (vm) Domenico Modugno (RCA Italiana - RCA Italiana) PM-3440 [45] PM-3439 PM-3440 ◆イギリスの王さまIl re d'Inghilterra (A.Ferrari) 出版社 LEONARDI ピラ-デ (vm) Pilade (Clan Celentano - Clan Celentano) ACC-24072 [45] :ニーノ・フェレール (vm=f) Nino Ferrer (Riviera - SIF) SIF・NP-77004 [45] ACC-24072 SIF・NP-77004 ◆いつものこと Le solite cose (V.Pallavicini - P.Donaggio) 出版社 ACCORDO ピノ・ドナッジォ (vm) Pino Donaggio (Columbia - V.C.M.) SCMQ-7081 [45] :ティミ-・ユ-ロ- (vf=a) Timi Yuro (Liberty - Blue Bel) LIB-9018 [45] SCMQ-7081 LIB-9018 ◆愛はほほえみTu che non sorridi mai (M.Terzi - S.Sili) 出版社CALIFORNIA - ALFIERE ピエルジョルジョ・ファリーナ (vm) Piergiorgio Farina (BDM - BDM.) PA-45012 [45] :オリエッタ・ベルティ (vf) Orietta Berti (Polydor - Phonogram Italiana) NH59-809 [45] PA-45012 NH59-809 ◆人生La vita (A.Amurri - B.Canfora) 出版社CURCI エリオ・ガンドルフィ (vm) Elio Gandolfi (Carosello - Carosello) CI-20195 :シャーリー・バッシー (vf=e) The Shirley Bassey (United Artist - Carosello) UA-3130 [45] CI-20195 UA-3130 最後に紹介する初参加のレコード会社はCBSディスキです。なぜCBSがと思われるでしょう、64年以降何人もの歌手が出場していますが、みんな外国人歌手でした。この第18回に初めてCBSレーベルからイタリア人歌手ジュリアーナ・ヴァルチが出ました。 元々CBSは米コロムビアが始まりで、日本最初のレコード会社が日本コロムビアで米コロムビアの子会社として生まれました。60年代初頭まで欧州コロムビアを含む大半のコロムビア・レーベルを日本コロムビアた出していました。日本の話になってしまいましたが、イタリアでは欧州コロムビアはV.C.M.(後のイタリアEMI)が持っており、戦前戦後は多分米コロムビアも出していたと思います。米コロムビアは欧州で商標「コロムビア」は使えませんでした。53年米コロムビアはアメリカの4大ネットワークの一つCBSの傘下でCBSコロムビアとなり、またオランダのフィリップスが世界進出を始めた頃、欧州のフィリップスと提携しを米国で販売するためにエピックを作っています。ということを予め頭に入れておいてください。さてイタリアでの米コロムビアは、57年から61年頃までフィリップス・レーベルで発売されていました。62年からCBS(米コロムビア)の販売権はリコルディに移り66年まで続いています。64年のボビー・ソロの"ほほにかかる涙"のパートナーがフランキー・レインなのです。現在確認できるのは63年にGuido e Maurizioのシングル盤は作られています。67年からは販売権はCGDに変わります。70年CGDの親会社シュガー・ミュージックとの合弁でCBSシュガーを作りCGDは傘下のレーベルという形で飲込まれます。プー、カマレオンティが属し、リッキ・エ・ポーヴェリのデビューもCBSからでした。72年からレコード番号体系もCBSの形式に変更され『庇を貸して母屋を取られる』ことになりした。77年CBSイタリアーナとしてCGDから分離独立し、ラファエラ・カーラ、ジャンニ・ナザーロ、マルチェラたちがCBSに移籍してしまいます。87年CBSインターナショナル米本社がソニーに買い取られ、ソニー・ミュージックとなりました。 サッシャ・ディステル (Pathè) エリオ・ガンドルフィ (Carosello)
2014.04.20
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優勝者の事が一番最後になってしまいましたが、苦労人セルジョ・エンドリゴがサンレモの頂点に立てた時の感激は人一倍だったと思います。旧ユーゴのクロアチア領出身の彼は、デビューのリコルディでは、ジェノヴァのカンタウトゥーリ達は本レーベルだったのに、彼はサブ・レーベルのタヴォラ・ロンダ(TAVOLA ROTONDA)し、RCAイタリアーナに移籍し、ヒットを出していても、トップ歌手たちがおり、彼は2番手の存在でした。 アル・バーノ (V.d.P.) ボビー・ジェントリー (Capitol) 第18回 1968年2月1日(木)~3日(土) サンレモ市カジノ付属劇場司会:ピッポ・バウド (Pippo Baudo)、ルイザ・リヴェッリ(Luisa Rivelli)楽団指揮: 24名の指揮者で演奏された。オーガナイザー:サンレモ市ホテル観光協会 (ATA-Azienda Turistico Alberghiera)、監督ジャンニ・ラヴェーラ (Gianni Ravera)形式:出場曲数24曲を各曲外国人歌手またはイタリア人歌手とパートナーを組み1曲2歌唱で第1夜、第2夜に12曲を歌い、各夜の中から7曲の入賞曲を選出し各夜7曲づつ最終夜に出場権を与え、最終夜に出場した中から優勝を決め2位から14位までの入賞曲を発表する。 出場歌手は48歌手(グループは1歌手)で、外人出場歌手も総て1歌手1曲の歌唱でした。初出場20歌手(内外人11歌手)、出場レコード会社17社で初出場3社、外人歌手のみの出場会社は3社です。 [数]は外人歌手数CGD7[2]; RCA ITALIANA 5[1]; V.C.M. 5[2]; FONIT CETRA4[1]; RI FI 4[1]; RICORDI 4[2]; ARISTON 3[0]; CDI 3[2]; Clan Celentano 2[0] ; PHONOGRAM 2[0]; DURIUM 2[1]; CAROSELLO 2[1]; 新DET(CAM)1[0];新BDM1 [0]; SAAR 1 [1]; BLUE BELL 1 [1]; 新SIF 1 [1] <参加曲>◆ 消え去らぬ影 Che vale per me (M.Terzi - C.A.Rossi) 出版社 C.A.ROSSI - EQUIPE ペピーノ・ガリアルディ (vm) Peppino Gagliardi (DET - Campi.) DTP- 22 [45] : アーサー・キット (vf=a) Eartha Kitt (CDI - CDI) CDI-2021 [45] DTP- 22 HIT-1832 CDI-2021 ◆ 狂った蝶々 La farfalla impazzita (Mogol - L.Battisti)出版社 EL'&CHRIS ジョニー・ドレルリ (vm) Johnny Dorelli (CGD - CGD) N-9673 [45] : ポール・アンカ (vm=ca) Paul Anka (RCA Victor - RCA Italiana) 45N-1537 [45] N-9673 PS- 62 45N-1537 ◆ノー・アモ-レ No amore (V.Pallavicini - E.Intra) 出版社BELRIVER ジュシー・ロメオ (vf) Giusy Romeo (Columbia - V.C.M.) SCMQ-70821 [45] :サッシャ・ディステル (vm=f) Sacha Distel (Pathè - V.C.M.) AQ-1364 [45] SCMQ-7082 AQ-1364 ◆バルトロメオの想い出 Le opere di Bartolomeo (S.Bardotti - R.Cini) 出版社RCA ITALIANA ザ・ロークス (compl) The Rokes (ARC - RCA Italiana) AN-4142 : ザ・カウシルズ (compl=a) The Cowsills (MGM - Ricordi) MG-70・026 [45] AN-4142 MG-70・026 DM-1165 ◆生きるために Per vivere (Nisa - U.Bindi) 出版社 COLOSSELO イヴァ・ザニッキ (vf) Iva Zanicchi (RI FI - RI FI) RFN・NP-16244 [45] : ウド・ユルゲンス (vm=ou) Udo Jurgens (Durium - Durium) Ld・A-7551 [45] RFN・NP-16244 Ld・A-7551 参加曲の残りは次回に続く 3番目に紹介する初参加のレコード会社はSIFです。ウィキペディア・イタリア版で探しても昔は書かれていたようが、消されています。資料的にたどれるのは、持っていたレーベル、バークレイ(Barclay)、リヴィエラ(Riviera)、ラーレ(Rare)がウィキペディアで残されています。これらはレコード会社表示になっていますが、SIFがもっているフランスのバークレイとそのサブ・レーベルでレーベル(etiche'tta)になります。 これでお分かりのようにSIFはフランスのバークレイのイタリア子会社として存在していました。正式にはSocietà Italiana Fonografica(直訳すればイタリア蓄音器会社)で何ということのないネーミングです。イタリアでのバークレイはSAARのJollyが持っており、60年代の半ば頃にはシャルル・アズナヴールやダリダのトップ・スターの販売はRCAイタリアーナがしていましたので、販売権は移籍していたのかもしれません。 SIFのスタートは1967年から始まります。レコード番号もSIFを使っていたようですが、すぐにレーベル(バークレイ、リヴィエラ、ラーレ)別のシリーズ番号に変わったようです。この68年として初参加したフランス人歌手ニーノ・フェレールがシングル盤第一号でした。彼もダリダと同じようにイタリア人でフランスの歌手として活動しています。このサンレモの出場曲"イギリスの王さま"も彼のペンネーム、アゴスティーノ・フェッラーリ(Agostino Ferrari)で出品しています。イタリア人にとって彼はイタリア人歌手なのです。会社が出来てすぐにロベルタ・マッツォーニ(ROBERTA MAZZONI)、ピエロ・フォッカチャ (Piero Focaccia)、その後スアン(SUAN)の芸名を使うアンナマリア・バラッタ(ANNAMARIA BARATTA)など中堅歌手たちが移籍してきます。 70年代になるとディストリビューションをリコルディがするようになったようです。ウィキペディアのディスコグラフィで追えるのは73年までですが、ミラノに本社を置いて活動を続けていたようです。そして最後はCGDに吸収合併されたことになっていますが、何時だったかというのは現時点では不明です。 岸 洋子 (Fonit) ディ-ノ (ARC) ・優勝・入賞曲と参加曲を含め全体を言う場合、出場曲と表現します。・順位をつけない入賞曲の頭には"◇"を、参加曲の頭には"◆"を付けます。・太字は国内盤で出ていた曲と歌手。・サンプル音声ファイルは著作権侵害を避け、なるべくAmazon MP3のサンプル音声を利用します。昔のイントロは長く、歌が出ないまま終わる曲があります。全曲聞きたい方はYou-Tubeを探してください。見つかることもあります。
2014.04.19
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18回でアフロ系歌手は前回書いたイタリの歌手ララ・サンポール、"サッチモ"ルイ・アームストロング、サラ・ヴォーンの代役アーサ・キット、ウィルソン・ピケット、ディオンヌ・ワーウィック、シャーリー・バッシーと6人で顔ぶれも錚々たる歌手たちでした。 またヨーロッパ系の歌手は、フランスの前年サンレモで大受けしたアントワーヌ、サッシャ・ディステル、ダリダの男性版ニーノ・フェレールにオーストリアのウド・ユルゲンス。アメリカからは入賞しませんでしたが2度目のポール・アンカ、ティミ・ユーロー、ボビー・ジェントリー、コーラス・グループノサンドパイパースカウシルズ。イタリアでの人気の高い優勝したブラジルのロペルト・カルロスに日本の岸洋子と幅広く多彩な外人歌手の出場で、サンレモ史上でも最も充実した顔ぶれの大会として評価されています。 マッシ-モ・ラニエリ (CGD) ウィルソン・ピケット (Atlantic) 第18回 1968年2月1日(木)~3日(土) サンレモ市カジノ付属劇場司会:ピッポ・バウド (Pippo Baudo)、ルイザ・リヴェッリ(Luisa Rivelli)楽団指揮: 24名の指揮者で演奏された。オーガナイザー:サンレモ市ホテル観光協会 (ATA-Azienda Turistico Alberghiera)、監督ジャンニ・ラヴェーラ (Gianni Ravera)形式:出場曲数24曲を各曲外国人歌手またはイタリア人歌手とパートナーを組み1曲2歌唱で第1夜、第2夜に12曲を歌い、各夜の中から7曲の入賞曲を選出し各夜7曲づつ最終夜に出場権を与え、最終夜に出場した中から優勝を決め2位から14位までの入賞曲を発表する。 出場歌手は48歌手(グループは1歌手)で、外人出場歌手も総て1歌手1曲の歌唱でした。初出場20歌手(内外人11歌手)、出場レコード会社17社で初出場3社、外人歌手のみの出場会社は3社です。 [数]は外人歌手数CGD7[2]; RCA ITALIANA 5[1]; V.C.M. 5[2]; FONIT CETRA4[1]; RI FI 4[1]; RICORDI 4[2]; ARISTON 3[0]; CDI 3[2]; Clan Celentano 2[0] ; PHONOGRAM 2[0]; DURIUM 2[1]; CAROSELLO 2[1]; 新DET(CAM)1[0];新BDM1 [0]; SAAR 1 [1]; BLUE BELL 1 [1]; 新SIF 1 [1] <入賞曲>10位 恋に泣く男 Un uomo piange solo per amore (M.Gaspari - M.Marrocchi) 出版社 DURIUM - ARISTON <82> マリオ・ガルネラ (vm) Mario Guarnera (Ariston - Ariston) AR-0241 [45] :リトル・トニー (vm) Little Tony (Durium - Durium) Ld・A-7550 [45] AR-0241 Ld・A-7550 JET-1830 11位ささやく瞳 Gli occhi miei (Mogol - C.Donida)出版社R.R. Ricordi <71> ウィルマ・ゴイク (vf) Wilma Goich (Ricordi - Ricordi) SRL-10・491 [45] : ディーノ (vm) Dino (ARC - RCA Italiana) AN-4143 [45] SRL-10・491 HIT-1515AN-4143 SS-1804 12位今宵あなたが聞く歌は Stanotte sentirai una canzone (T.Queriolo - G.Bracardi) 出版社ABERBACH <53> アンナリタ・スピナーチ (vf) Annarita Spinaci (Philips - Phonogram Italiana) 363-726・PF [45] : 岸 洋子 (vf=j) Yoko Kishi (Fonit - Fonit Cetra) SPF-31219 [45] 363-726・PF SFL- 1146 SPF-31219 HIT-1513 13位 歌が出る Mi va di cantare (V.Buonassisi - G.Bertero - A.Valleroni - M.Marini) 出版社 EQUIPE <49> ララ・サン・ポール (vf) Lara Saint Paul (CDI - CDI) CDI-2018 [45] : ルイ・アームストロング (tp,vm=a) Louis Armstrong (CDI - CDI) CDI-2017 [45] CDI-2018 CDI-2017 14位 静けさの声 La voce del silenzio (P.Limiti - Mogol - E.Isola) 出版社 LA TURRIA <28>.トニー・デル・モナコ (vm) Tony Del Monaco (CGD - CGD) N-9675 [45] : ディオンヌ・ワ-ウィック (vf=a) Dionne Warwick (Scepter - CGD) N-9676 [45] N-9675 PS- 62 SC- 717 参加曲は次回に続く 2番目に紹介する初参加のレコード会社はBDMです。非常に情報が少ない会社、まるっきりないに等しいと言ったようが良いかもしれません。こういう社名のばあいは、頭文字から取った略なのですが、まずそれが分かりません。分かっているのは60年代に存在し約10年間活動していたことと、在籍していた若干の歌手たちの名前と僅かなレコードの事だけです。 現時点で分かるレコード番号から推測すると1966年に第1回サンレモ音楽祭優勝歌手、ニラ・ピッツィが作られたばかりのBDMに入ったようです。と言ってもその時の1枚きり。2番目がこの68年サンレモ音楽祭に出場したミルバの甥のピエルジョルジョ・ファリーナでした。どうも彼だけがスターで彼が移籍してしまうと、早々に閉じてしまったような様子が見て取ります。60年代一杯で会社はなくなったのではないでしょうか。他には日本でも発売グラツィエラ・カリー()が1枚出しており、女性歌手マリア・グラツィア・フェイ(Maria Grazia Fei)、バンドのリ・アウトゥーリ(Maria Grazia Fei)、片面づつですがA面がボローニャ市バンド(Banda Città Di Bologna)とジュリオ・ピッツィール(Giulio Pizzir)と言うクレジットが読み取れます。 JET-1519 JET-1519 (1965.年5月 GLOBE - 日本ビクター) 君に涙とほほえみを (SE PIANGI SE RIDI)/花咲く丘に涙して (LE COLLINE SONO IN FIORE) トニ-・ロベルト (TONY ROBERT (vm))/グラツィエラ・カリ- (GRAZIELLA CALY (vf)) ジュリア-ナ・ヴァルチ (CBS) ザ・カウシルズ (MGM)
2014.04.17
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日本人にとっては二人目の歌手となる岸洋子の出場が話題となりましたが、現地ではともかくジャズの聖者(セイント)、"サッチモ"ルイ・アームストロングの出場でした。You-Tubedで』見てもらえば分かりますが、観客、ミュージシャン、スタッフ全員がスタンディング・おヴェーションをしています。しかも何とルイ・アームストロングにイタリア語で出場曲を歌わせたのですから、サンレモ音楽祭も「出世」したものです。で今回の大会の特徴はアフリカ系ミュージシャンの出場が特徴とされています。1962年(第12回)に当時タニヤの芸名だったララ・サン・ポールがサンレモ音楽祭に有色人種として初めて歌いました。 その後、64年から外国人歌手がパートナーとして出場するようになり、"スタンド・バイ・ミー"などで名の知られたベン・E.キングなど黒人歌手が歌うようになってきました。ただ16回はルイ・アームストロングを出場させるため他にも、アフリカをルーツに持つ音楽家が出場しています。 ルイ・ア-ムストロング (CDI) シャ-リ-・バッシ- (United Artist) 第18回 1968年2月1日(木)~3日(土) サンレモ市カジノ付属劇場司会:ピッポ・バウド (Pippo Baudo)、ルイザ・リヴェッリ(Luisa Rivelli)楽団指揮: 24名の指揮者で演奏された。オーガナイザー:サンレモ市ホテル観光協会 (ATA-Azienda Turistico Alberghiera)、監督ジャンニ・ラヴェーラ (Gianni Ravera)形式:出場曲数24曲を各曲外国人歌手またはイタリア人歌手とパートナーを組み1曲2歌唱で第1夜、第2夜に12曲を歌い、各夜の中から7曲の入賞曲を選出し各夜7曲づつ最終夜に出場権を与え、最終夜に出場した中から優勝を決め2位から14位までの入賞曲を発表する。 出場歌手は48歌手(グループは1歌手)で、外人出場歌手も総て1歌手1曲の歌唱でした。初出場20歌手(内外人11歌手)、出場レコード会社17社で初出場3社、外人歌手のみの出場会社は3社です。 [数]は外人歌手数CGD7[2]; RCA ITALIANA 5[1]; V.C.M. 5[2]; FONIT CETRA4[1]; RI FI 4[1]; RICORDI 4[2]; ARISTON 3[0]; CDI 3[2]; Clan Celentano 2[0] ; PHONOGRAM 2[0]; DURIUM 2[1]; CAROSELLO 2[1]; 新DET(CAM)1[0];新BDM1 [0]; SAAR 1 [1]; BLUE BELL 1 [1]; 新SIF 1 [1] <入賞曲>6位 愛の花咲くとき Quando m'innamoro (D.Pace - M.Panzeri - R.Livraghi) 出版社 FIERA <126>.アンナ・イデンティチ (vf) Anna Identici (Ariston - Ariston) AR-0242 [45] : ザ・サンドパイパーズ (coro=a) The Sandpipers (A&M - CGD) AM-812 [45] AR-0242 LL- 2159・NAM-812 TOP-1254 7位 青空の想い出 Da bambino (R.Pradella - R.Angiolini) 出版社 EL'&CHRIS <123>.マッシーモ・ラニエリ (vm) Massimo Ranieri (CGD - CGD) N-9674 [45] : イ・ジガンティ (compl) I Giganti (RI FI - RI FI) RFN・NP-16243 [45] N-9674 RFN・NP-16243 8位 夕べのしあわせ Sera (R.Pradella - R.Angiolini) 出版社 EL'&CHRIS <97>.ジュリアーナ・ヴァルチ (vf) Giuliana Valci (CBS - CGD) 3219(CBS) [45] : ジリオラ・チンクェッティ (vf) Gigliola Cinquetti (CGD - CGD) N-9676 [45] 3219(CBS) HIT-2206N-9676 HIT-1514 9位 愛の垣根 La siepe (V.Pallavicini - P.Massara) 出版社 BELRIVER <92> アル・バーノ (vm) Al Bano (V.d.P. - V.C.M.) MQ-2122 [45] : ボビー・ジェントリー (vf=a) Bobbie Gentry (Capitol - V.C.M.) QCL- 197 [45] MQ-2122 OR- 1873 QCL- 197 入賞曲の残りは次回に続く この大会で初出場したレコード会社は3社で、その中のDETから紹介してゆきます。DETとはDiscografica Editrice Tirrena(ティレンナ出版レコード会社)の略称と言われています。このレコード会社は1966年に芸能週刊誌「TVソリージ・エ・カンツォーニ」を発刊していたカンピ出版グループの子会社としてDETは設立されました。カンピ出版の子会社として既にサウンド・トラックや映画音楽のレコードを出していたカム(CAM)のポップス音楽のサブ・レ-ベルとして、また映画音楽のスコア盤のためのタンク(TANK)と共に活動を始めています。 カンピ出版も少し説明する必要があります。1762年年からあるイタリアでも老舗の出版社で「黒ひげ」と言われる占星術暦で知られている本屋さんです。まだ「黒ひげ」に関連した、年間やカレンダーを作っていたようです。また音楽関係では楽譜をルーズ・リーフ形式で出していたようです。 戦前ラジオ時代の1939年から「ラジオのカンツォーネ」誌を発刊、戦後TV時代に「TVソリージ・エ・カンツォーニ」に衣替えしています。そんな会社が作ったポップス音楽のレコード会社で"ガラスの部屋"で有名になったペピーノ・ガリアルディ、女優カトリーヌ・スパーク、シチリアのバンド、ジェンスのレコードを出し、クランを飛び出したドン・バッキーの会社アミコ、ヘルベルト・パガーニの会社ママも傘下に収めていました。 1970年映画音楽への本業回帰でポップス曲の製作を辞め、DETは閉鎖したようです。 ザ・サンドパイパーズ (A&M) アーサー・キット (CDI) ピエルジョルジョ・ファリーナ (BDM) ・優勝・入賞曲と参加曲を含め全体を言う場合、出場曲と表現します。・順位をつけない入賞曲の頭には"◇"を、参加曲の頭には"◆"を付けます。・太字は国内盤で出ていた曲と歌手。・サンプル音声ファイルは著作権侵害を避け、なるべくAmazon MP3のサンプル音声を利用します。昔のイントロは長く、歌が出ないまま終わる曲があります。全曲聞きたい方はYou-Tubeを探してください。見つかることもあります。
2014.04.15
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前年1967年は30曲でダブル・キャストですから60曲が出場し予選が2夜で行われるのですが、1日30曲を聴くのは審査員も大変な重労働になりましす。しかも第一夜終了後にルイジ・テンコが自殺したわけですから、第二夜目の混乱と緊張感は想像できると思います。 ということで68年第18大会は通常に戻し出場曲を24曲にします。また前年出場曲が多いので予選で1曲を選考委員で敗者復活として最終夜に残す方法も、委員の乱闘と、辞任劇まではってんし、テンコの事件の誘因となったと考えたのか、あまり適切でなかったと考え取りやめています。一般審査員も例年通り地方別、年代別、職業別に選出し、毎日変えていく方法は例年通りの方式でした。 マリーザ・サンニア (CGD) ロベルト・カルロス (CBS) 第18回 1968年2月1日(木)~3日(土) サンレモ市カジノ付属劇場司会:ピッポ・バウド (Pippo Baudo)、ルイザ・リヴェッリ(Luisa Rivelli)楽団指揮: 24名の指揮者で演奏された。オーガナイザー:サンレモ市ホテル観光協会 (ATA-Azienda Turistico Alberghiera)、監督ジャンニ・ラヴェーラ (Gianni Ravera)形式:出場曲数24曲を各曲外国人歌手またはイタリア人歌手とパートナーを組み1曲2歌唱で第1夜、第2夜に12曲を歌い、各夜の中から7曲の入賞曲を選出し各夜7曲づつ最終夜に出場権を与え、最終夜に出場した中から優勝を決め2位から14位までの入賞曲を発表する。 出場歌手は48歌手(グループは1歌手)で、外人出場歌手も総て1歌手1曲の歌唱でした。初出場20歌手(内外人11歌手)、出場レコード会社17社で初出場3社、外人歌手のみの出場会社は3社です。 [数]は外人歌手数CGD7[2]; RCA ITALIANA 5[1]; V.C.M. 5[2]; FONIT CETRA4[1]; RI FI 4[1]; RICORDI 4[2]; ARISTON 3[0]; CDI 3[2]; Clan Celentano 2[0] ; PHONOGRAM 2[0]; DURIUM 2[1]; CAROSELLO 2[1]; 新DET(CAM)1[0];新BDM1 [0]; SAAR 1 [1]; BLUE BELL 1 [1]; 新SIF 1 [1] 1968年は前年際立った世界的潮流のプロテスト・ソング、フォーク・ソング、長髪でジーンズ姿のバンド(グループ)の存在はかげを潜めています。というよりか明らかにRAI(イタリア国営放送)が排除したと言った方が良いのかもしれません。ただ若者文化、世界の動向はこの程度で変えられるものでもなく、現在のサンレモ音楽祭を見てもその結果が分かるように、歌謡曲がすたれ、ポップスからロックへの変遷をたどります。 ただリアル・タイムで進行する中にいると、いかにもバンド(グループ)によるフォーク・ロックは一時的流行で収まったかのように見え、メロディっくな従来の曲が戻ってきた大会と位置付けられていたようです。 <優勝> 君を歌う Canzone per te (S.Bardotti - S.Endrigo) 出版社 USIGNOLO <306> セルジョ・エンドリゴ (vm) Sergio Endrigo (Cetra - Fonit Cetra) SP-1360 [45] : ロベルト・カルロス (vm=br)) Roberto Carlos (CBS - CGD) 3243(CBS) [45] SP-1360 HIT-1511 3243(CBS) <2位> カーザ・ビアンカ Casa bianca (Don Backy - E.La Valle) 出版社 EL'&CHRIS=FAMA( <255> オルネラ・ヴァノーニ (vf) Ornella Vanoni (Ariston - Ariston) AR-0244 [45] :マリーザ・サンニア (vf) Marisa Sannia (Cetra - Fonit Cetra) SP-1361 [45] AR-0244 LL- 2158・N SP-1361 HIT-1511 <3位> カンツォーネCanzone (Don Backy - D.Mariano)出版社CLAN <251> ミルバ (vf) Milva (Ricordi - Ricordi) SRL-10・490 [45] :アドリアーノ・チェレンターノ (vm) Adriano Celentano (Clan Celentano - Clan Celentano) ACC-24073 [45] SRL-10・490 HIT-1512ACC-24073 LL- 2155・NC <入賞曲>4位デボラ Deborah (V.Pallavicini - G.Conte) 出版社 RI-FI Mus <224>.ファウスト・レアーリ (vm) Fausto Leali (RI FI - RI FI) RFN・NP-16242 [45] :ウィルソン・ピケット (vm=a) Wilson Pickett (Atlantic - RI FI) ATL・NP-03027 [45] RFN・NP-16242 ATL・NP-03027 DAT-10495位 茫然自失 La tramontana (M.Panzeri - D.Pace) 出版社 ARISTON <172>. ジャンニ・ペッテナーティ (vm) Gianni Pettenati (Cetra - Fonit Cetra) SP-1359 [45] :アントワーヌ (vm=f) Antoine (Vogue - SAAR) J-35162×45 [45] SP-1359 HIT-1513 J-35162×45 入賞曲の残りは次回に続く
2014.04.13
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1967年度のサンレモのコンピのLPはキングから発売された1枚とコンパクト盤3枚、日本ビクターのフィリップス・グループからイヴァ・ザニッキの"愛のわかれ"が優勝したリフィからアルバムが発売されました。キングが発売した盤はすべてオリジナル歌手による曲で、前年の3枚組"豪華版サン・レモのすべて"の実績で、大手4社とその他のレコード会社がすべて1枚のアルバムに収納することが可能となり、以後この形式を受け継いでいきます。ただ世界資本系列のRCA、EMI,pフィリップスなどはレーベルの枠を超え収録するには、各社曲のバーターで発売する考えが広がるまで、かなりの時間を要することになります。リフィ盤の方は67年にティミ・ユーローの"ハート(Hurt)"のカヴァー"A CHI"が年間ナンバー・ワン・ヒットで大歌手の扉を開いたファウスト・レアーリやアンチ・サンレモ派となったミーナが"涙に咲く花"をカヴァーしています。 67年サンレモ音楽祭で一番のヒットとなったのは、リトル・トニーの"狂ったハート"(年間第3位)、次いでジョニー・ドレルリ"涙に咲く花"(同11位)、13位がアントワーヌの"ピエートレ"、21位ジガンティ"平和の花"といったところでした。 SR- 114 (1967年4月20日 SEVEN SEAS - キング) 30cm LPサンレモ・フェスティヴァル1967 (FESTIVAL DI SAN REMO 1967)1.愛のわかれ (NON PENSARE A ME) クラウディオ・ビルラ (vm)2.この愛に生きて (IO PER AMORE) カルメン・ヴィラーニ (vf)3.涙に咲く花 (L'IMMENSITA') ジョニー・ドレルリ (vm)4.孤独な青春 (OVE CREDI DI ANDARE) セルジョ・エンドリゴ (vm)5.強く愛して (E' PIU' FORTE DI ME) ベティー・クルティス (vf)6.想い出のうた (MA PIANO (PER NON SVEGLIARMI)) ニコ・フィデンコ (vm)7.青空に叫ぶ (SOPRA I TETTI AZZURRI DEL MIO PAZZO AMORE) ドメニコ・モドゥーニョ (vm)8.夢の誓い (PER VEDERE QUANTO E' GRANDE IL MONDO) ウィルマ・ゴイク (vf)9.恋の革命 (LA RIVOLUZIONE) ジャンニ・ペッテナーティ (vm)10.アローラ・ダイ (E ALLORA DAI) レモ・ジェルマーニ (vm)11.風に消えた恋 (IL CAMMINO DI OGNI SPERANZA) カテリーナ・カセルリ (vf)12.太陽を燃やせ (GUARDATI ALLE SPALLE) ニコラ・ディ・バリ (vm)13.太陽の勝利 (UNO COME NOI) ミルバ (vf)14.少女 (CANTA RAGAZZINA) ボビー・ソロ (vm) SR- 114 PS- 6 PS- 6 (1967年4月20日 SEVEN SEAS - キング) 17cm CP サン・レモ音楽祭'67第1集(FESTIVAL DI SAN REMO 1967 Vol.1)1.愛のわかれ (NON PENSARE A ME) クラウディオ・ビルラ (vm)2.孤独な青春 (OVE CREDI DI ANDARE) セルジョ・エンドリゴ (vm)3.この愛に生きて (IO PER AMORE) カルメン・ヴィラーニ (vf)4.恋の革命 (LA RIVOLUZIONE) ジャンニ・ペッテナーティ (vm) PS- 7 (1967年4月20日 SEVEN SEAS - キング) 17cm CP サン・レモ音楽祭'67第2集(FESTIVAL DI SAN REMO 1967 Vol.2)1.夢の誓い (PER VEDERE QUANTO E' GRANDE IL MONDO) ウィルマ・ゴイク (vf)2.太陽の勝利 (UNO COME NOI) ミルバ (vf)3.アローラ・ダイ (E ALLORA DAI) レモ・ジェルマーニ (vm)4.少女 (CANTA RAGAZZINA) ボビー・ソロ (vm) PS- 7 PS- 8 PS- 8 (1967年4月20日 SEVEN SEAS - キング) 17cm CP サン・レモ音楽祭'67第3集(FESTIVAL DI SAN REMO 1967 Vol.3)1.涙に咲く花 (L'IMMENSITA') ジョニー・ドレルリ (vm)2.強く愛して (E' PIU' FORTE DI ME) トニー・デル・モナコ (vm)3.風に消えた恋 (IL CAMMINO DI OGNI SPERANZA) カテリーナ・カセルリ (vf)4.強く愛して (E' PIU' FORTE DI ME) ベティー・クルティス (vf) SFON- 7083 (1967年6月 FONTANA - 日本ビクタ-) 30cm LP 愛のわかれ/サン・レモ・フェスティバル'67 (XVIII FESTIVAL DI SAN REMO)1.愛のわかれ (NON PENSARE A ME) イヴァ・ザニッキ (vf)2.夢の誓い (PER VEDERE QUANTO E' GRANDE IL MONDO) ザ・クラシックス (compl)3.アローラ・ダイ (E ALLORA DAI) ジョルジョ・ガーベル (vm)4.狂ったハート (CUORE MATTO) ファウスト・レアーリ (vm)5.私を信じて (DEVI AVERE FIDUCIA IN ME) ロベルタ・アマディ (vf)6.ピエートレ (PIETRE) マット65 (compl) マット65 (compl)7.孤独な青春 (DOVE CREDI DI ANDARE) パオロ T. (vm)8.涙に咲く花 (L'IMMENSITA') ミーナ (vf)9.愛を囁くとき (QUANDO DICO CHE TI AMO) フランク・オルランド10.平和の花 (PROPOSTA) イ・ジガンティ (compl)11.この愛に生きて (IO PER AMORE) パオロ T. (vm)12.君を失った時 (BISOGNA SAPER PERDERE) マット65 (compl)13.ばらのほほえみ (IO, TU E LE ROSE) ザ・クラシックス (compl)14.恋の革命 (LA RIVOLUZIONE) ジャンニ・インベルティ (vm) SFON- 7083 昨年11月始めからヤフオクの出品のため、ほぼ12月いっぱい(年末ぎりぎりから再開しましたが)、ブログの方はお休みし、1967年を3ヶ月かけて書いてきました。今年のサンレモのことを書いて1週間ほどごまかしてしまいましたが、ほぼ四分の一年かかったことになります。 多分サンレモ史上最大の30曲(ダブル・キャストですから60曲)出場し、がオ人歌手や新人歌手が多かったので、物理的な時間がかかるのはやむを得ないことです。しかも一回しか出場していないので、この回の歌手ではダリダ、ニコ・フィデンコのようなヴォリュームのある人たちは、何回かに分けて書くことになりました。 最後になり端折ってしまい、また機会があれば各つもりですが、ルイジ・テンコの自殺事件があり、またこの頃の世界的潮流で、プロテスト・ソング、フォーク・ロックが台頭し、従来サンレモ音楽祭に出場しなかった歌手たちの存在もあるかもしれません。 ただ日本にも言えることですが、この傾向は一時的なものでなく、その後イタリアの音楽界に大きな変化をもたらします。2年後、多大t度だけの出場でしたがルチオ・バッティスティ(ルーチョ・バティスティ)の出場は転換点で有ったと思われます。 60年代後半に出場した歌手は70年代半ばに起きた所謂「歌謡曲歌手」に対する厳しい選別を乗り越え、現在でも活動を続ける大物歌手たちを生みだしましました。 一方サンレモ音楽祭に出場しないフランチェスコ・デ・グレゴリ、ジャンナ・ナンイーニや新人歌手として出場しますが、フランコ・バティアートの手によって大きく変貌をするカルラ・ビッシ(後のアリーチェ)、ジュシー・ロメオ(後のジュニ・ルッソ)なども生まれてきます。 これこらも細々と書き綴っていきますが、何十年の経過の中でサンレモ音楽祭(イタリアの音楽)が、どのように変化していくか見て頂ければと思っています。
2014.04.11
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★ルイジ・テンコ (vm) Luigi Tenco1938年3月21日ジェノヴァの北北西50kmにある小さな町カッシーネ (アレッサンドリア)生まれ、 1967年1月27日サンレモ (インペリア)没。自作自演歌手、俳優。彼自身は作曲家を望んでいたようです。 彼の出生は複雑で、母が結婚し、彼が生まれる前に死んだジュゼッペ・テンコから名前を貰っていますが実の父ではありませんでした。高校に行く頃にはジェノヴァに引越していました。 1953年には友人のブルーノ・ラウツィらとバンドを組み演奏活動をし、57年にロス・マルチェロスのリーダーとなるマルチェロ・ミンルビのグループでサックスを吹いていました。翌年ジェノヴァの「ロックの悪魔(I DIAVOLI DEL ROCK)」(ジーノ・パオーリがギターで在籍)に加わりました。 58年ミラノに出来たばかりのレコード会社リコルディにジェノヴァ派カンタウトゥーリ達が入社し、彼も59年3月歌手デビューしました。また他の自作自演歌手同様に違うペン・ネームで作品を作っています。また端正な顔の彼は62年から映画「La cuccagna」に出演しその後も俳優の仕事も加わります。62年11月初めてアルバムを出しますが、1部の曲がRAIの検閲を通りません。 64年早々サールのジョリー・レーベルに移籍します。3枚のシングル、LP1枚を作り2年で、RCAイタリアーナに66年再移籍します。 移籍3曲目がサンレモ音楽祭初出場の運命の"チャオ・アモーレ・チャオ(青春の墓標)"でした。第1夜、落選の夜、彼はホテルの自室でピストル自殺を図り亡くなりました。彼の死後、残された曲は多くの歌手に歌われます。 ルイジ・テンコの国内盤)MH- 207 (1965年8月SEVEN SEAS - キング) 30cm LP 一緒にカンツォーネを歌おう第6集(LE PIU' BELLA CANZONI Vol.6 )6.愛のめざめ (HO CAPITO CHE TI AMO)11.恋の絶望 (NO, NON E VERO)MH- 207 SR- 313~5 SR- 313~5 (1969年10月20日 SEVEN SEAS -キング) 30cm 3LP Boxカンツォーネ・スター大名鑑 (PANORAMA DI CANTANTI)2-14.夜の想い (SE STASERA SONO QUI) RCA-5048 (1973年3月RCA - ビクター音楽産業) 30cm LP 青春の墓標/ルイジ・テンコ (LUIGI TENCO)1.青春の墓標 (CIAO AMORE CIAO)2.遠くはなれて (LONTANO LONTANO)3.ぼくという男は... (IO SONO UNO)4.君と結ばれる日に (UNO DI QUESTI GIORNI TI SPOSERO')5.愛のいらだち (SE SAPESSI COME FAI)6.ぼくたちの戦場 (IO VORREI ESSERE LA')7.過ぎゆく人生 (UN GIORNO DOPO L'ALTRO)8.誰もが自由に (OGNUNO E' LIBERO)9.アモーレ・アモーレ・ミオ (AMORE, AMORE MIO)10.今日との訣別 (E SE CI DIRANNO)11.ヴェドライ・ヴェドライ (VEDRAI, VEDRAI)12.彼らが帰ってくるのを見た (LI VIDI TORNARE) RCA-5048 SX- 249 SX- 249 (1973年6月RCA - ビクター音楽産業) 30cm LPカンツォーネ・ベスト (CANZONE)13.愛のめざめ (HO CAPITO CHE TI AMO) MW-9801~2 (1974年4月RICORDI - ポリドール) 30cm 2LPパーフェクト・シリーズ カンツォーネ (PERTECT SERIES CANZONE)2-11.クァンド (QUANDO) MW-9801~2 MW-9050~2 MW-9050~2 (1974年9月RICORDI - ポリドール) 30cm 3LP Boxイタリー・カンタウトーリのすべて (I CANTAUTORI)1-1.クァンド (QUANDO)1-8. 君に恋して (MI SONO INNAMORATO DI TE)2-3.愛の悔恨 (IO SI')2-10.先生 (CARA MAESTRA)3-5.私の王国 (IL MIO REGNO)MW-3001 (1975年4月RICORDI - ポリドール) 30cm LPほほにかかる涙 (JOY FOREVER CANZONE UNA LACRIMA SUL VISO)14.クァンド (QUANDO) MW-3001 RCA-8079~80 RCA-8079~80 (1975年6月RCA - ビクター音楽産業) 30cm 2LP 100万人のカンツォーネ・ゴールド・デラックス (CANZONE-GOLD DELUXE)2-9.愛のめざめ (HO CAPITO CHE TI AMO) MW-8629~30 (1975年11月RICORDI - ポリドール) 30cm 2LPパーフェクト/カンツォーネのすべて (PERFECT-AMOR, AMOR)2-8.クァンド (QUANDO) MW-8629~30 RCA-8211~2 RCA-8211~2 (1975年6月RCA - ビクター音楽産業) 30cm 2LPシャンソン & カンツォーネ・ベスト30 (CHANSON/CANZONE BEST 30)2-7.愛のめざめ (HO CAPITO CHE TI AMO) GXC- 120 (1979年6月21日 SEVEN SEAS - キング) 30cm LPエモツィオーニ/ルチオ・バッティスティ:愛のめざめ/ルイジ・テンコ (EMOZIONI/LUCIO BATTISTI:HO CAPITO CHE TI AMO/LUIGI TENCO)8.愛のめざめ (HO CAPITO CHE TI AMO)9.ヴェドライ・ヴェドライ (VEDRAI, VEDRAI)10.夜の想い (SE STASERA SONO QUI)11.クァンド (QUANDO)12.愛の悔恨 (IO SI')13.私の王国 (IL MIO REGNO)14.君に恋して (MI SONO INNAMORATO DI TE)GXC- 120 KICP- 7 KICP- 7 (1990年2月21日 SEVEN SEAS - キング) CDルイジ・テンコ/夜の想い (LUIGI TENCO/TI RICORDERAI DI ME...)1.夜の想い (SE STASERA SONO QUI)2.クァンド (QUANDO)3.君に恋して (MI SONO INNAMORATO DI TE)4.アンジェラ (ANGELA)5.センツァ・パローレ (SENZA PAROLE)6.過ぎ去りし時 (IL TEMPO PASSO')7.私の王国 (IL MIO REGNO)8.世界のどこかで (IN QUALCHE PARTE DEL MONDO)9.イジー (ISY)10.愛の悔恨 (IO SI')11.他人の関係 (COME MI VEDONO GLI ALTRI)12.あなたのもどる時 (TI RICORDERAI) KICP-8019~20 (1990年11月15日 SEVEN SEAS - キング) 2CD決定盤!カンツォーネ全曲集 (CANZONE BEST COLLECTION)13.夜の想い (SE STASERA SONO QUI) KICP-8019~20 KICP- 84 KICP- 84 (1990年12月21日 SEVEN SEAS - キング) CD ポップス・オン・TV-CF'91 (POPS ON TV-CF 1991)4.夜の想い (SE STASERA SONO QUI) KICP-8105 (1991年7月21日 SEVEN SEAS - キング) CD決定盤!カンツォーネ (THE VERY BEST OF CANZONE ITALIANA)4.夜の想い (SE STASERA SONO QUI) KICP-8105 NFA-91801~10 NFA-91801~10 (1991年 JAZZY - ジャジー・プランニング) 10CD Boxエンサクロペディア・オブ・カンツォーネ (ENCYCLOPEDIA OF CANZONE) 非ライセンス商品4-20.チャオ・アモーレ・チャオ (CIAO AMORE CIAO) KICP- 215~9 (1992年3月25日 SEVEN SEAS - キング) 5CD Boxカンツォーネの歴史1200-1900 (LA STORIA DELLA CANZONE ITALIANA)4-13.夜の想い (SE STASERA SONO QUI) KICP- 215~9 KICP-2345~6 KICP-2345~6 (1992年11月6日 SEVEN SEAS - キング) 2CDスーパー・ベスト・ボックス/カンツォーネ (CANZONE BEST)2-13.夜の想い (SE STASERA SONO QUI)
2014.04.09
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KICP-8207 (1993年7月21日 SEVEN SEAS - キング) CD決定盤!カンツォーネ (THE VERY BEST OF CANZONE ITALIANA/BEST SELECT LIBRARY)11.夜の想い (SE STASERA SONO QUI) KICP-8207 KICP-2465~6 KICP-2465~6 (1993年11月3日 SEVEN SEAS - キング) 2CDスーパー・ベスト・ボックス/カンツォーネ (SUPER BEST BOX CANZONE)2-13.夜の想い (SE STASERA SONO QUI) BVCP- 8725 (1994年8月3日 RCA - BMGビクター) CD カンツォーネ・ベスト・セレクション (THIS IS CANZONE)16.青春の墓標 (CIAO AMORE CIAO) BVCP- 8725 KICP-2556~7 KICP-2556~7 (1994年10月21日 SEVEN SEAS - キング) 2CD カンツォーネ (CANZONE)2-13.夜の想い (SE STASERA SONO QUI) DMW-92810 (1995年SEVEN SEAS - キング) CDTVポピュラー・ヒットコレクション (TV POPULAR HIT'S COLLECTION) 特販物8.夜の想い (SE STASERA SONO QUI) DMW-92810 KICP-2777~8 KICP-2777~8 (1996年9月21日 SEVEN SEAS - キング) 2CD カンツォーネ (NEW BEST BOX CANZONE)2-6.夜の想い (SE STASERA SONO QUI) KICX-81037~8 (1998年9月181日 SEVEN SEAS - キング) 2CDKING TWIN BEST・カンツォーネ (KING TWIN BEST・CANZONE)1-6.夜の想い (SE STASERA SONO QUI)2-15.愛のめざめ (HO CAPITO CHE TI AMO) KICX-81037~8 FBCP-30948 FBCP-30948 (1998年 RCA - BMGジャパン) CDイタリアン・ポップス・ヒット曲集 (BEST OF ITALIAN POPS) 特販物16.青春の墓標 (CIAO AMORE CIAO) BVCM-37063~72 (2000年3月23日 RCA -BMGファンハウス) 10CD Boxエンニオ・モリコーネ・クロニクル (THE ENNIO MORRICONE CHRONICLES)1-9.勘定 (QUELLO CHE CONTA)6-16.もみくちゃ (TRA TANTA GENTE) BVCM-37063~72 BVCM-37355 BVCM-37355 (2002年9月4日 RCA -BMGファンハウス) CDベスト・オブ・イタリアン・ポップス (THE BEST OF ITALIAN POPS)13.夜の想い (SE STASERA SONO QUI)
2014.04.09
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★コニー・フランシス (vf=a) Connie Francis本名コンセッタ・マリア・フランコネロ(Concetta Maria Franconero)1938年12月12日米ニュー・ジャージー州ニューアーク生。イタリア系アメリカ人歌手。本名については諸説ありますが、「コニー・フランシス・ザ・オフィシャル・ウェブ・サイト」(http://www.conniefrancis.com/)の表記を採用しました。 31453-9556・2 MGMの契約先が1967年からCGDからリコルディに変更となります(CGDは代わりにリコルディがもっていたCBSと契約しています。)。このことが彼女に有利になったと思えませんでした。パートナーも人気を失ったボビー・ソロで、彼の作った"少女(Canta ragazzina)"を歌いましたが参加曲に終わります。コニー・フランシスとMGMの契約は69年で終了したようです。彼女のディスコグラフィーでMGM最後のシングル盤が69年K-14091 "Zingara"/"Mister Love"となっています。きっと69年サンレモ音楽祭優勝曲"涙のさだめ"だと思います。一度聞きたいものです。 70年から3年間半引退状態で新譜のレコードは出していませんでした。73年に前年ニューヨークに出来たばかりのGSFレコードと契約し"幸せの黄色いリボン"を出します。 GSD-1002 (1973年10月 GSF - テアック) 幸せの黄色いリボン(THE ANSWER - (Should I) Tie a Yellow Ribbon)/ペイント・ザ・レイン (Paint The Rain) GSD-1002 心機一転、再起を目指したその矢先、彼女にとって最大の不幸に見舞われます。74年11月8日ウエストベリー音楽フェアでニューヨークに行き、モーテルに泊まっていたところを、暴漢に襲われrレイプされた揚句、マットに押しつぶされ意識不明状態で発見されました。幸い一命は取り留めたものの、喉をつぶされてしまいました。77年声を失った状態のコニーは、鼻の手術を受け、声を取り戻すためヴォーカル・レッスンを受けなければなりませんでした。89年再起を目指し歌手活動を続けています。 コニー・フランシスの国内盤(イタリア関係)SMM-1047 (1965年10月 MGM - 日本グラモフォン) 30cm LPコニー・フランシス・イタリアン・スタイル (CONNIE FRANCIS/MALA FEMMENA & CONNIE'S BIG HITSFROM ITALY)1.マーラ・フェンメナ [伊・英] (MALA FEMMENA [I&E])2.ラ・パロマ [伊] (LA PALOMA [I])3.カプリの月 (LUNA CAPRESE)4.私の心はヴァイオリン [伊・英] (UN VIOLINA NEL MIO CUOR)5.夜のセレナーデ [伊・英] (VIOLINO TZIGANO [I&E])6.あなたがにくい (TANGO DELLA GELOSIA [I&E])7.ボーイ・ハント [伊] (C'E' QUALCUNO)8.星影で愛して (CHE BELLA NOTTE!)9.フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン [伊] (PORTAMI CON TE)10.泣かせないでね (UN DESIDERIO FOLLE)11.イタリアン・ララバイ (ITALIAN LULLABY)12.ネッスーノ・エ・ソーロ (NESSUNO E' SOLO) SMM-1047 MM-9011~2 MM-9011~2 (1965年11月 MGM - 日本グラモフォン) 30cm 2LPコニー・フランシスのすべて第1集 (ALL ABOUT CONNIE FRANCIS)1-1.明日を忘れて [英] (FORGET DOMANI [E])1-5.いついつまでも (IL PRIMO BACIO E L'ULTIMO)2-8.アル・ディ・ラ (AL DI LA')2-9.あこがれはいつも心に (HO BISOGNO DI VEDERTI)DM-1120 (1967年6月 MGM - 日本グラモフォン) アナザ・ペ-ジ (ANOTHER PAGE)/イタリーの想い出 (SOUVENIR D'ITALIE) DM-1120 MM-9067~8 MM-9067~8 (1971年1月15日 MGM - 日本グラモフォン) 30cm 2LPコニー・フランシス・リサイタル (RECITAL BY CONNIE FRANCIS)2-8.アル・ディ・ラ (AL DI LA')2-9.コメ・プリマ (COME PRIMA)2-10.ロマンティカ (ROMANTICA)2-11.クァンド・クァンド・クァンド (QUANDO QUANDO QUANDO)2-12.あこがれはいつも心に (HO BISOGNO DI VEDERTI)2-13.タンゴ・イタリアーノ (TANGO ITALIANO)2-14.24,000のキッス (24 MILA BACI) ★イヴァ・ザニッキ (vf) Iva Zanicchi過去ブログ サンレモの歌手たち 92 イヴァ・ザニッキ、〃 サンレモの歌手たち 120 イヴァ・ザニッキ 2 の続きです1940年1月18日リゴンキオ(Ligonchio)生、歌手、テレビ司会者、女優。ミーナを「クレモナの虎」("Tigre di Cremona")、ミルバを「ゴーロの豹」("Pantera di Goro")と言われているのはご存じだと思いますが、日本では一般的になっていませんがイヴァ・ザニッキは「リゴンキョの鷲」('"Aquila di Ligonchio")と言われています。 1967年サンレモ音楽祭で3年連続出場となり、良い成績を残したいと思っていたことでしょう。カンツォーネ界の大御所クラウディオ・ビルラ(Claudio Villa)のパートナーとなり曲もスケールの大きな"愛のわかれ(Non pensare a me)"でしたが、前夜のルイジ・テンコの自殺騒動のなか2夜目の歌唱で落着きのない会場で歌うことになりましたが、結果は堂々の優勝で、ベテランのクラウディオ・ビルラにに引けを取らない立派な歌唱が評価されています。 67年2枚目のシングルは夏のディスク・フェスティヴァル出場曲"QUEL MOMENTO"は入賞できませんでした。その後サンレモ音楽祭優勝曲を中心とした2枚目のアルバムを5月にリリースしています。 RFN・NP-16207 (1967年4月 Ri Fi - Ri Fi) QUEL MOMENTO/DOVE È LUI RFN・NP-16207 RFL・LP-14019 RFL・LP-14019 (1967年5月 Ri Fi - Ri Fi) 30cm LP Fra noi (ふたりの間)1.Non pensare a me (愛のわかれ)2.Ci amiamo troppo (恋を探し求めて)3.Dove è lui4.Oltre la notte (悲しみは星影と共に)5.Monete d'oro (一つの金貨)6.Tu saie 'a verità (誠実なあなた)7.Quel moment8.Vita (愛の人生)9.Fra noi (ふたりの間)10.La notte dell'addio (別れの夜)11.Vivere, non vivere12.Ma pecche' (私の欠点)RFN・NP-16222 (1967年6月 Ri Fi - Ri Fi) Le montagne (Ci amiamo troppo) (恋を探し求めて- River deep mountain high)/Vivere non vivere RFN・NP-16222 RFN・NP-16233 RFN・NP-16233 (1967年11月 Ri Fi - Ri Fi) Dolcemente (ラヴ・ミー・テンダーLove Me Tender)/Come stai bene e tu? 67年はサンレモ音楽祭優勝が大きすぎて、"愛のわかれ"だけ目立ち、4年連続の68年サンレモ音楽祭出場に悪影響したと思われます。 イヴァ・ザニッキの国内盤SFON- 1008 (1967年3月15日 FONTANA - 日本ビクター) 愛のわかれ (NON PENSARE A ME) /愛の人生 (VITA) SFON- 1008 SFON- 7083 SFON- 7083 (1967年6月 FONTANA - 日本ビクター) 30cm LP愛のわかれ/サン・レモ・フェスティバル'67 (XVIII FESTIVAL DI SAN REMO)1.愛のわかれ (NON PENSARE A ME) SFON- 7087 (1967年6月 FONTANA - 日本ビクター) 30cm LP 愛のわかれ/イバ・ザニッキ (NON PENSARE A ME)1.愛のわかれ (NON PENSARE A ME)2.別れの夜 (LA NOTTE DELL'ADDIO)3.愛は限りなく (DIO, COME TI AMO)4.生命をかけて (IO TI DARO' DI PIU')5.恋に時を忘れて (I TUOI ANNI PIU' BELLI)6.愛の人生 (VITA)7.一つの金貨 (MONETE D'ORO)8.悲しみは星影と共に (OLTRE LA NOTTE)9.私の欠点 (MA PECCHE')10.誠実なあなた (TU SAIE' A VERITA')11.カラ・ミア [伊] (CARA MIA)12.ふたりの間 (FRA NOI CE' (E FINITA COSI))13.イフ (SE)14.わたしだけを愛して (ACCAREZZAMI AMORE) SFON- 7087 イヴァ・ザニッキ4は1969年サンレモ音楽祭の後に続きます
2014.04.07
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サンレモの歌手たち 101 コニー・フランシス1 からの続きです★コニー・フランシス (vf=a) Connie Francis本名コンセッタ・マリア・フランコネロ(Concetta Maria Franconero)1938年12月12日米ニュー・ジャージー州ニューアーク生。イタリア系アメリカ人歌手。本名については諸説ありますが、「コニー・フランシス・ザ・オフィシャル・ウェブ・サイト」(http://www.conniefrancis.com/)の表記を採用しました。 31453-9556・2 1958年"フーズ・ソリー・ナウ(Who's Sorry Now)"のナンバー・ワン・ヒットはスターの誕生を象徴していました。多くの男性ポップ歌手の中で新たな女性ポップ・スターは際立っていました。 イタリアの年間ヒット・ランキングにコニー・フランシスの名前が登場するのは58年"フーズ・ソリー・ナウ"98位、"スチューピッド・キューピッド(Stupid Cupid)"からでした。59年本国では"マイ・ハピネス(My Happiness)ポップ・チャート2位、"カラーに口紅(Lipstick on Your Collar)"同5位、"想い出のなかに(Among My Souvenirs)"同7位や、60年のナンバー・ワン・ヒット"私の心(My Heart Has a Mind of Its Own)"など出す曲は順調なヒット・チャート入りをしていますが、イタリアの年間ランキングではコニーの名前は有りませんでした。 60年の後半からヒットした"あなたがにくい(Jealous of you - 嫉妬のタンゴ(TANGO DELLA GELOSIA))"が年間ランク4位のメガ・ヒットとなり、この年は12位"ボーイ・ハント(Where the boys are)"、19位"ローマのギター(Chitarra romana)"、24位"Aiutami a piangere"、40位"Valentino"、位96"ママ(Mama (Mamma))"、97位"ブロークン・ハート(La Valle senza eco (Breakin' on a brand new broken heart))"計7曲ランクインさせています。特徴はイタリア向けの曲あるはイタリア語で歌った曲がヒットしていることでした。この傾向は続きます。 62年はほとんどイタリア・ローカル・ヒットと言った方が良い状態でした。56位"ラ・パロマ(La Paloma)"、69位"Io sola andrò (I'm so alone)"、73位"夜のセレナーデ(夜のヴァイオリン Violino tzigano)"、82位"カプリの月(Luna caprese)"。この年のアメリカでナンバー・ワン・ヒットになった"泣かせないでね(Don't Break the Heart That Loves You)"、"ヴァケイション(V-A-C-A-T-I-O-N)"の名前が出ていないのが特徴です。 63年になるとコニーの人気も陰って来ます。本国アメリカでも10位以内のホットが出ず、20~40位どまりになってしまいます。イタリアで年間ランク・インしたのは90位"Un Violino nel mio cuore (Love is Like a Violin)"のみでした。64年以降はイタリアの年間ヒット・ランキングに彼女の名前が載ることはありませんでした。 64年アメリカでも前年と同じような足踏み状態が続いていました。彼女にとって一つのチャレンジとして、両親の祖国のサンレモ音楽祭出場に挑戦してみました。前年優勝歌手ジリオラ・チンクェッティ(Gigliola Cinquetti)のパートナーとして"あこがれはいつも心に (Ho bisogno di vederti)"を歌って入賞しました。年間ランキング100には入りませんでしたが、週間ランキングでは4週ランク・インで最高位5位になっています。まとこの年、映画「黄色いロールス・ロイス」の主題歌"明日を忘れて (FORGET DOMANI"をカヴァーし、週間ランキング10位(在位5週)になっています。 彼女の名前が第1線に出てくるのもこの頃までで、アメリカで66年にはホット100位に入るのもやっととなり、67年にはランクインできなくなりました。67年サンレモ音楽祭に2度目の出場をします。 コニー・フランシスの国内盤(イタリア関係)LL- 2186 (1963年1月 MGM - 日本コロムビア) 愛さずにはいられない (I CAN'T STOP LOVING YOU)/アル・ディ・ラ [英・伊] (AL DI LA' [E・I]) LL- 2186 LL- 2197 LL- 2197 (1963年4月 MGM - 日本コロムビア) 想い出の冬休み (I'M GONNA' BE WARM THIS WINTER)/24,000のキッス (24 MILA BACI) YS-5089 (1963年5月MGM - 日本コロムビア) Stereo 30cm LPコニ-・フランシス・イタリアン・ヒット/サン・レモ受賞作を歌う (CONNIE FRANCIS SINGS MODERN ITALIAN HITS)SL-5103 (1963年5月MGM - 日本コロムビア) Mono 30cm LPコニ-・フランシス・イタリアン・ヒット/サン・レモ受賞作を歌う (CONNIE FRANCIS SINGS MODERN ITALIAN HITS)1.アル・ディ・ラ (AL DI LA')2.タンゴ・イタリアーノ (TANGO ITALIANO)3.愛の世界 (NESSUNO AL MONDO)4.クァンド・クァンド・クァンド (QUANDO QUANDO QUANDO)5.むせび泣く抱擁 (IL CIELO IN UNA STANZA)6.17歳よさようなら (ARRIVEDERCI)7.コメ・プリマ (COME PRIMA)8.コメ・プリマ (COME SINFONIA)9.ロマンティカ (ROMANTICA)10.ヌン・ネ・ペッカート (NUN E' PECCATO)11.24,000のキッス (24 MILA BACI)12.アディオ・アディオ (ADDIO, ADDIO) YS-5089 LL- 5020 LL- 5020 (1963年11月 MGM - 日本コロムビア) 虹を呼ぶレッド・リヴァ- (DROWNIN' MY SORROWS)/わるいのはいつも私 (悪い女 [伊・英] - MALA FEMMENA [E&I]) SKM-1024 (1965年3月MGM - 日本グラモフォン) 17cmCPコニー・カンツォーネを歌う (CONNIE SINGS CANZONE)1.アル・ディ・ラ (AL DI LA')2.クァンド・クァンド (QUANDO QUANDO QUANDO)3.コメ・プリマ (COME PRIMA)4.タンゴ・イタリアーノ (TANGO ITALIANO) SKM-1024 DM-1034 DM-1034 (1965年3月25日 MGM - 日本グラモフォン) あこがれはいつも心に (HO BISOGNO DI VEDERTI)/あなたの知らないこと (NO BETTER OFF) DM-1022 (1965年4月 MGM - 日本グラモフォン) いついつまでも (IL PRIMO BACIO E L'ULTIMO)/アル・ディ・ラ (AL DI LA') DM-1022 SKM-1039 SKM-1039 (1965年8月 MGM - 日本グラモフォン) 17cm CPコニー・カンツォーネを歌う第2集 (CONNIE SINGS CANZONE Vol.2)1.いついつまでも (IL PRIMO BACIO E L'ULTIMO)2.ロマンティカ (ROMANTICA)3.あこがれはいつも心に (HO BISOGNO DI VEDERTI)4.幸せがいっぱい (IL CIELO IN UNA STANZA)SMM-1037 (1965年8月 MGM - 日本グラモフォン) 30cm LPコニー・フランシス・カンツォーネを歌う (CONNIE FRANCIS SINGS CANZONE)1.いついつまでも (IL PRIMO BACIO E L'ULTIMO)2.アル・ディ・ラ (AL DI LA')3.タンゴ・イタリアーノ (TANGO ITALIANO)4.愛の世界 (NESSUNO AL MONDO)5.クァンド・クァンド・クァンド (QUANDO QUANDO QUANDO)6.むせび泣く抱擁 (IL CIELO IN UNA STANZA)7.17歳よさようなら (ARRIVEDERCI)8.コメ・プリマ (COME PRIMA)9.あこがれはいつも心に (HO BISOGNO DI VEDERTI)10.コメ・シンフォニア (COME SINFONIA)11.ロマンティカ (ROMANTICA)12.ヌン・ネ・ペッカート (NUN E' PECCATO)13.24,000のキッス (24 MILA BACI)14.アディオ・アディオ (ADDIO, ADDIO)SMM-1037 DM-1053 DM-1053 (1965年10月 MGM - 日本グラモフォン) 明日を忘れて [英]/[日] (FORGET DOMANI [E]/[J]) コニー・フランシス3は次回に続きます
2014.04.05
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★ザ・ロークス (compl) The Rokesイギリス生まれでイタリア育ちの「ビートニック」バンド、イタリア版GSでエキペ84と人気の頂点を競った。60年代のポップス・バンド。 メンバー・シェル・シャピロ、ヴォーカル、ギター、ベース。本名ノーマン・デヴィッド・シャピロ (Norman David Shapiro)1943年8月16日イギリス・ロンドン生、歌手、音楽家、音楽プロデューサーと俳優。イタリアの市民権を取得。・ボビー、本名ロバート・ポズナー (Robert Posner)ベース。1945年2月8日イギリス・ロンドン生。・ジョニー、本名レイ・チャールトン (Ray Charlton)ギター。1945年12月3日イギリス・ロンドン生。・マイク、本名マイク・シェプストン(Mike Shepstone)ドラムス。1944年10月14日イギリス・ロンドン生 1960年シェル・シャピロは英国でシェル・カーソン・コンボ(Shel Carson Combo)と言うバンドを結成しました。ギター、ヴォーカルの彼とベースのポズナー、シェプストンがドラムス、そしてロークスのメンバーには名前のないヴィック・ブリッグス(Vic Briggs)がギターで参加していました。 60年秋、彼らはツアーで西ドイツのハンブルグに、その後英国に戻り、次はコリン・ヒックス(Colin Hicks)と共にイタリアに行きます。コリンはイギリスの人気ロック・ン・ローラーのトミー・スティール(Tommy Steele)の弟で歌手でした。ある資料ではバンド名はコリン・ヒックス&キャビン・ボーイズ(Colin Hicks & The Cabin Boys)となっています。(私の過去ブログ「サンレモの歌手たち 95 リッキー・ジャンコ、 オードリー 」のリッキー・ジャッコの項) ヴィックは国から離れたくなかったので、ジョニーに交代となりました。ジョニーはジーン・ヴィンセントがアメリカで税務トラブルになり、ヨーロッパに一時「亡命」していた時のバックバンド"ザ・ブルー・キャップス(The Blue Caps)"に2年間在籍していた経験を買われました。これでロークスとなるメンバーが揃いました。彼らはツアーの際、映画「ヨーロッパの夜(Europa di notte)」の中で"Giddyup a Ding Dong,"を歌い、ちょっとした成功感を味わいます。しかし事態は思ってもみない方向に進みだしました。トリノのコンサートで主役コリン・ヒックスが急病で声が出なくなりました。しかし、ショーはちゅうしされず、彼らだけで演奏するように頼まれました。この窮地を救ったのがイタリアの古参ロック・ン・ローラー、リッキー・ジャンコ(Ricky Gianco)だったようです。ブルースとロック・ン・ロールのレパートリーを演奏し、コンサートはかなりの成功でした。イタリアのマネージャーはバック・バンドの彼らをコリンから切離し、イタリアに留めました。彼らはバンド名も変えることにしました。ザ・ロークスの名前はジョニー・カールトンの発案のようです。 ローマのアンブラ・ヨヴィネッリ劇場に出演した時のことです。リタ・パヴォーネ(Rita Pavone)の育ての親でもあり、その後彼女と結婚した歌手でプロデューサーのテディー・レーノ(Teddy Reno)が彼らを見出し、パヴォーネのバック・バンドの仕事を与え、新生RCAイタリアーナの新人開発レーベルARCと契約させました。リバック・バンドの仕事をしながら機会を待っていました。63年テディー・レーノのお陰で彼の主催する「アリッチャの名もなき者の音楽祭(FESTIVAL DEGLI SCONOSCIUTi DI ARICCIA)」で"Un'anima pura"を歌うことが出来ました。この曲はマリーノ・バレットJr.(Don Marino Barreto Jr.)がオリジナルの"愛の魂(Un'anima tra le mani)"のことです。(私の過去ブログ「サンレモの歌手たち 54 ロッコ・モンターナ、 ブルーナ・レッリ、ジャン・コステロ」の"愛の魂"をご参照) デビュー当時の「サザン」のように、歌は独特の英語訛で若者に好評を得ます。64年漸くARCからデビューが出来ました。ビル・ヘイリーのカヴァー曲"シェイク・ラトル・アンド・ロール"でした。2枚目はアリッチャの音楽祭で歌った"愛の魂"で小ヒットになっています。本格的なヒットが出るようになったのは65年で3枚目がジャッキー・デ・シャノンが作り英国のサーチャーズのヒット曲"ウォーク・イン・ザ・ルーム(When You Walk in the Room)"のイタリア語カヴァー"C'è una strana espressione nei tuoi occhi"が年間ランキング63位の大ヒットとなりました。 AN-4013 (1964年 ARC - RCA Italiana) "Shake rattle and roll(シェイク・ラトル・アンド・ロール)"/"Quando eri con me" AN-4013 AN-4046 AN-4046 (1965年 ARC - RCA Italiana) "C'è una strana espressione nei tuoi occhi(ウォーク・イン・ザ・ルーム)"/"Ci vedremo domani(明日も愛して)" 66、67年は彼らの年となりました。同11位"冷たい世界(Che colpa abbiamo noi)"、97位"Grazie a te"で、"冷たい世界"は裏表逆転で国内盤がでました。と言うのも"泣いておくれ"が日本のGSテンプターズがカヴァーしたのです。 AN-4081 (1966年 ARC - RCA Italiana) 冷たい世界 (Che colpa abbiamo noi)/泣いておくれ (Piangi con me) AN-4081 FS- 1029 FS- 1029 (1967年10月25日 PHILIPS - 日本ビクター) 忘れ得ぬ君 (WASURE-ENU KIMI)/今日を生きよう (LET'S LIVE FOR TODAY - PIANGI CON' ME) 66年の実績で67年サンレモ音楽祭に"君を失う時"で初出場、初入賞、年間ヒット32位の大ヒットになります。同33位に"Ricordo quando ero bambino"、"Cercate di abbracciare tutto il mondo come noi"が66位、88位"Eccola di nuovo"と絶好調です。 そんな彼らですがサンレモ音楽祭は恐ろしい所。連続出場の68年"バルトロメオの想い出(Le opere di Bartolomeo)"が参加曲どまり、年間ランク89位、もう1曲ランク・インした"Lascia l'ultimo ballo per me"も81位。 翌69年はRCA期待の新人ナーダ(Nada)と組んだ"なんて寒い (Ma che freddo fa)"は5位入賞を果たしました。しかしセールス的にはナーダの一人勝ち、69年年間ランクには入れず、70年ロークスは解散しました。 ロークスの国内盤SS-1734 (1967年3月1日 VICTOR - 日本ビクター) 君を失う時 (BISOGNA SAPER PERDERE) ザ・ロックス (THE ROKES, (compl))/ルチオ・ダッラ (LUCIO DALLA (vm)) SS-1734 SS-1732 SS-1732 (19674月VICTOR - 日本ビクター) 泣いておくれ (PIANGI CON' ME)/冷たい世界 (CHE COLPA ABBIAMO NOI) SS-1886 (1969年6月5日 RCA - 日本ビクター) なんて寒い (MA CHE FREDDO FA) ナーダ (NADA (vf))/ザ・ロークス (THE ROKES, (compl)) SS-1886 VFD-8951~5 VFD-8951~5 (2001年RCA - ビクター・ファミリー・クラブ) 5CD Boxイタリアン・ポップス・コレクション (ITALIAN POPS COLLECTION) 特販物5-16. ラスト・ダンスは私に [伊] (LASCIA L'ULTIMO BALLO PER ME - SAVE THE LAST DANCE FOR ME [I])
2014.04.03
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★シャンソンの友 (coro=f) Les Compagnons de la Chanson第二次世界大戦中の1941年リヨンで結成されたたフランスのボーカル・グループで1985年2月14 日最後のコンサートをして活動を終結。 メンバー(3声9人)・ジャン・ルイ・ジョべール (Jean-Louis Jaubert)バス、リーダー 本名ルイ・ラザール・ヤコブ(Louis-Lazare Jacob)1920年8月29日フランス東部ドイツ国境に近いミュールズ生、2013年6月3日パリ没・ジョー・フラション (Jo Frachon) バス1919年8月14日フランス東南部山中の小さな町ダヴィジュー生、1992年2月10日パリ没・ユベール・ランスロー (Hubert Lancelot) バリトン1923年9月11日リヨン生、1995年3月7日リヨン没・フレッド・メラ (Fred Mella) テノール1924年3月10日リヨンの南にある小都市アノネー生、両親はイタリア人、ルネ・メラの兄・ルネ・メラ (René Mella) テノール1926年6月6日リヨンの南にある小都市アノネー生、両親はイタリア人、フレッド・メラの弟・ジェラール・サバ (Gérard Sabbat) バリトン1926年9月26日リヨン生、2013年2月2日パリ郊外トリエル・シュル・セーヌ没・ギイ・ブルギニョン(Guy Bourguignon) バス1920年7月26日フランス中部の小都市チュール生、1969年12月31日パリ没・ジャン・ブルッソール (Jean Broussolle) バリトン1920年12月15日リヨンの南にある町サン・ヴァリエ生、1984年3月22日コート・ダ・ジュールのアルル没・ジャン=ピエール・カルヴェ (Jean-Pierre Calvet) テノール1925年2月12日マルセイユの北にある小さな町プラン・ドルゴン生、1989年2月16日パリ没 1941年Louis Liébardがリヨンで8人の若者で作ったコーラスグループCompagnons de la Musiqueがシャンソンの友の始まりです。ドイツ占領下で古いフランスの民謡を歌う9人の合唱団として活動をしていました。 44年エディット・ピアフのオランピア公演に参加したのが彼らの成功の始まりでした。46年ピアフの"谷間に三つの鐘が鳴る(Les Trois Cloches)"が世界的大ヒットになり、彼らもバック・コーラスで参加しており、ピアフのアメリカ公演など行動を共にし、演奏活動をしていました。 彼らは戦後初期の頃・ピアフと行動を共にしていたのでレコード会社は仏コロムビア(EMI France)に所属し、60年代初めはポリドール、60年代後半はCBSに所属、その後70年代に入るとソノプレス、フィリップスと移籍していきます。 67年サンレモ音楽祭に出場した時は、CBSに移籍した頃で新しいレパートリーを開発しており、イタリアの音楽祭にも出たと思われます。元々歌の質は高く、美しいハーモニーと各メンバーの人柄が表れたコーラスで定評がありました。 69年ギイ・ブルギニョンが急死し、彼らの中の意思疎通に問題が起こり、72年ジャン・ブルッソールが脱退、メンバーが変わっていきました。83年5週間のオリンピア劇場コンサートを成功させ、1985 年2月14日のコンサートを最後に彼らの活動を終えました。 シャンソンの友のイタリア関係国内盤LL- 1044・C (1967年5月 CBS COLUMBIA - 日本コロムビア) バラのほほえみ (IO, TU E LE ROSE)/囚人 (IL PRIGIONIE'RO) LL- 1044・C ★ボビー・ゴールズボロ (vm=a)) Bobby Goldsboro本名ロバート・ゴールズボロ(Robert Goldsborough,)1941年1月18日米国フロリダ州マリアンナ生。アメリカの60、70年代のカントリー、ポップス自作自演歌手。 GXC- 71 ゴールズボロの家族はマリアンナから35マイル北のドーサンに引越しました。彼は1959年にドーサンの高校を卒業し、オーバーンの大学に入学しますが、2年生の時に音楽の道に進みたくなり、大学を辞めます。そして62年から64年までの2年半、ロイ・オービソン(Roy Orbison)のギタリストとして働きました。61年ウェブス(The Webs)のヴォーカル、ギタリストとして2枚4曲をマイナー・レーベルから出しているようです。62年12月ルーリー(Laurie)から"Molly"/"Honey Baby"からを出したレシングルが幸運にもチャートの70位になるちょっとしたヒットになりました。 その後もルーリーから"" Lonely Traveler/"You Better Go Home"、"Light the Candles"/"That's what love will Go"、"The Letter"/"Runaround"を出しましたが最初のようにヒットすることはありませんでした。63年の後半ユナイテッド・アーティスツに移籍しました。移籍第一弾が彼の歌手生活2番目の大ヒットになります。("ハニー"が一番のヒットですから、それまでは彼の最高のヒット曲だったと言えます。) これが国内盤デビュー・シングルでもありました。 LL- 568・UA (1964年5月 UNITED ARTISTS - 日本コロムビア) ひとりぼっちのクラウン (SEE THE FUNNY LITTLE CLOWN)/恋のぬけがら (HELLOW LOSER) LL- 568・UA このヒット以降64年から66年までリリースした曲でホット100にランク・インできなかった曲は2曲で、この間、国内盤の契約のあった日本コロムビアは、ホット100に入った曲はすべてシングル盤を発売していました。しかし日本コロムビアはユナイテット・アーティスツの契約が68年初頭まであったにも関わらず、67年以降はゴールズボロのシングルを出していません。売れていなかったようです。 そして67年彼は唯一のサンレモ音楽祭に出場し、ドナテラ・モレッティ(Donatella Moretti)のパートナーとして"想いをこめて(Una ragazza)"を歌いましたが、この国内盤は発売されていません。残念なことです。日本の発売権はキングに移ります。皮肉なことに68年2月17日リリースされた"ハニー"は4月から5月にかけて大ヒットで、遂にホット100のナンバー・ワン・ヒットになりました。 HIT-1521 (1968年5月20日 UNITED ARTISTS - キング) ハニー (HONEY)/ダニー (DANNY) HIT-1521 ボビー・ゴールズボロはイタリアで年間ランキング100位以内のヒット入りませんでしたが、週間ランキングでは4週ランクイン、最高29位に入りました。またボビー・ソロなどもこの曲をカヴァーしています。彼は76年までユナイテット・アーティスツに在籍し77年エピックに移籍、78年ヴィスタへ、、そして80、81年はCBSカーブと契約しますが、82年歌手を引退しました。作曲、著作活動や油絵の画家となり画廊を経営し絵画の販売をしています。 ボビー・ゴールズボロのイタリア関係国内盤はありません
2014.04.01
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