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風邪 を引いたと見えて、このあついのにちゃんちゃんを着て、小判形 の桶 からざあと旦那の肩へ湯をあびせる。 右の足を見ると親指の股に呉絽 の垢擦 りを挟 んでいる。こちらの方では小桶 を慾張って三つ抱え込んだ男が、隣りの人に石鹸 を使え使えと云いながらしきりに長談議をしている。 何だろうと聞いて見るとこんな事を言っていた。 「鉄砲は外国から渡ったもんだね。 昔は斬り合いばかりさ。 外国は卑怯だからね、それであんなものが出来たんだ。どうも支那じゃねえようだ、やっぱり外国のようだ。 和唐内 の時にゃ無かったね。 和唐内はやはり清和源氏さ。なんでも義経が蝦夷 から満洲へ渡った時に、蝦夷の男で大変|学 のできる人がくっ付いて行ったてえ話しだね。それでその義経のむすこが大明 を攻めたんだが大明じゃ困るから、三代将軍へ使をよこして三千人の兵隊を借 してくれろと云うと、三代様 がそいつを留めておいて帰さねえ。――何とか云ったっけ。――何でも何とか云う使だ。――それでその使を二年とめておいてしまいに長崎で女郎 を見せたんだがね。その女郎に出来た子が和唐内さ。それから国へ帰って見ると大明は国賊に亡ぼされていた。……」何を云うのかさっぱり分らない。その後 ろに二十五六の陰気な顔をした男が、ぼんやりして股の所を白い湯でしきりにたでている。 腫物 か何かで苦しんでいると見える。その横に年の頃は十七八で君とか僕とか生意気な事をべらべら喋舌 ってるのはこの近所の書生だろう。そのまた次に妙な背中 が見える。 尻の中から寒竹 を押し込んだように背骨 の節が歴々 と出ている。そうしてその左右に十六むさしに似たる形が四個ずつ行儀よく並んでいる。その十六むさしが赤く爛 れて周囲 に膿 をもっているのもある。こう順々に書いてくると、書く事が多過ぎて到底吾輩の手際 にはその一斑 さえ形容する事が出来ん。これは厄介な事をやり始めた者だと少々|辟易 していると入口の方に浅黄木綿 の着物をきた七十ばかりの坊主がぬっと見 われた。 坊主は恭 しくこれらの裸体の化物に一礼して「へい、どなた様も、毎日相変らずありがとう存じます。 今日は少々御寒うございますから、どうぞ御緩 くり――どうぞ白い湯へ出たり這入 ったりして、ゆるりと御あったまり下さい。――番頭さんや、どうか湯加減をよく見て上げてな」とよどみなく述べ立てた。 番頭さんは「おーい」と答えた。 和唐内は「愛嬌 ものだね。あれでなくては商買 は出来ないよ」と大 に爺さんを激賞した。 吾輩は突然この異 な爺さんに逢ってちょっと驚ろいたからこっちの記述はそのままにして、しばらく爺さんを専門に観察する事にした。 爺さんはやがて今|上 り立 ての四つばかりの男の子を見て「坊ちゃん、こちらへおいで」と手を出す。 小供は大福を踏み付けたような爺さんを見て大変だと思ったか、わーっと悲鳴を揚 げてなき出す。 爺さんは少しく不本意の気味で「いや、御泣きか、なに? 爺さんが恐 い? いや、これはこれは」と感嘆した。 仕方がないものだからたちまち機鋒 を転じて、小供の親に向った。 「や、これは源さん。 今日は少し寒いな。ゆうべ、近江屋 へ這入った泥棒は何と云う馬鹿な奴じゃの。あの戸の潜 りの所を四角に切り破っての。そうしてお前の。 何も取らずに行 んだげな。 御巡 りさんか夜番でも見えたものであろう」と大 に泥棒の無謀を憫笑 したがまた一人を捉 らまえて「はいはい御寒う。あなた方は、御若いから、あまりお感じにならんかの」と老人だけにただ一人寒がっている。しばらくは爺さんの方へ気を取られて他の化物の事は全く忘れていたのみならず、苦しそうにすくんでいた主人さえ記憶の中 から消え去った時突然流しと板の間の中間で大きな声を出すものがある。 見ると紛 れもなき苦沙弥先生である。 主人の声の図抜けて大いなるのと、その濁って聴き苦しいのは今日に始まった事ではないが場所が場所だけに吾輩は少からず驚ろいた。これは正 しく熱湯の中 に長時間のあいだ我慢をして浸 っておったため逆上 したに相違ないと咄嗟 の際に吾輩は鑑定をつけた。それも単に病気の所為 なら咎 むる事もないが、彼は逆上しながらも充分本心を有しているに相違ない事は、何のためにこの法外の胴間声 を出したかを話せばすぐわかる。本連載は青空文庫収録ファイル「吾輩は猫である」(新字新仮名、作品ID:789)から引用・編集し提供させて頂いています。 夏目 漱石慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。
2015年09月27日
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髯 を生 やしている男は雲母 のようなものを自分の廻りに蒔 き散らしながら独 りでにやにや笑っていた。 入れ代って飛び込んで来たのは普通一般の化物とは違って背中 に模様画をほり付けている。 岩見重太郎 が大刀 を振り翳 して蟒 を退治 るところのようだが、惜しい事に未 だ竣功 の期に達せんので、蟒はどこにも見えない。 従って重太郎先生いささか拍子抜けの気味に見える。 飛び込みながら「箆棒 に温 るいや」と云った。するとまた一人続いて乗り込んだのが「こりゃどうも……もう少し熱くなくっちゃあ」と顔をしかめながら熱いのを我慢する気色 とも見えたが、重太郎先生と顔を見合せて「やあ親方」と挨拶 をする。 重太郎は「やあ」と云ったが、やがて「民さんはどうしたね」と聞く。 「どうしたか、じゃんじゃんが好きだからね」「じゃんじゃんばかりじゃねえ……」「そうかい、あの男も腹のよくねえ男だからね。――どう云うもんか人に好かれねえ、――どう云うものだか、――どうも人が信用しねえ。 職人てえものは、あんなもんじゃねえが」「そうよ。 民さんなんざあ腰が低いんじゃねえ、頭 が高 けえんだ。それだからどうも信用されねえんだね」「本当によ。あれで一 っぱし腕があるつもりだから、――つまり自分の損だあな」「白銀町 にも古い人が亡 くなってね、今じゃ桶屋 の元さんと煉瓦屋 の大将と親方ぐれえな者だあな。こちとらあこうしてここで生れたもんだが、民さんなんざあ、どこから来たんだか分りゃしねえ」「そうよ。しかしよくあれだけになったよ」「うん。どう云うもんか人に好かれねえ。 人が交際 わねえからね」と徹頭徹尾民さんを攻撃する。 天水桶はこのくらいにして、白い湯の方を見るとこれはまた非常な大入 で、湯の中に人が這入 ってると云わんより人の中に湯が這入ってると云う方が適当である。しかも彼等はすこぶる悠々閑々 たる物で、先刻 から這入るものはあるが出る物は一人もない。こう這入った上に、一週間もとめておいたら湯もよごれるはずだと感心してなおよく槽 の中を見渡すと、左の隅に圧 しつけられて苦沙弥先生が真赤 になってすくんでいる。 可哀 そうに誰か路をあけて出してやればいいのにと思うのに誰も動きそうにもしなければ、主人も出ようとする気色 も見せない。ただじっとして赤くなっているばかりである。これはご苦労な事だ。なるべく二銭五厘の湯銭を活用しようと云う精神からして、かように赤くなるのだろうが、早く上がらんと湯気 にあがるがと主思 いの吾輩は窓の棚 から少なからず心配した。すると主人の一軒置いて隣りに浮いてる男が八の字を寄せながら「これはちと利 き過ぎるようだ、どうも背中 の方から熱い奴がじりじり湧 いてくる」と暗に列席の化物に同情を求めた。 「なあにこれがちょうどいい加減です。 薬湯はこのくらいでないと利 きません。わたしの国なぞではこの倍も熱い湯へ這入ります」と自慢らしく説き立てるものがある。 「一体この湯は何に利くんでしょう」と手拭を畳 んで凸凹頭 をかくした男が一同に聞いて見る。 「いろいろなものに利きますよ。 何でもいいてえんだからね。 豪気 だあね」と云ったのは瘠 せた黄瓜 のような色と形とを兼ね得たる顔の所有者である。そんなに利く湯なら、もう少しは丈夫そうになれそうなものだ。 「薬を入れ立てより、三日目か四日目がちょうどいいようです。 今日等 は這入り頃ですよ」と物知り顔に述べたのを見ると、膨 れ返った男である。これは多分|垢肥 りだろう。 「飲んでも利きましょうか」とどこからか知らないが黄色い声を出す者がある。 「冷 えた後 などは一杯飲んで寝ると、奇体 に小便に起きないから、まあやって御覧なさい」と答えたのは、どの顔から出た声か分らない。 湯槽 の方はこれぐらいにして板間 を見渡すと、いるわいるわ絵にもならないアダムがずらりと並んで各 勝手次第な姿勢で、勝手次第なところを洗っている。その中にもっとも驚ろくべきのは仰向 けに寝て、高い明 かり取 を眺 めているのと、腹這 いになって、溝 の中を覗 き込んでいる両アダムである。これはよほど閑 なアダムと見える。 坊主が石壁を向いてしゃがんでいると後 ろから、小坊主がしきりに肩を叩 いている。これは師弟の関係上|三介 の代理を務 めるのであろう。 本当の三介もいる。本連載は青空文庫収録ファイル「吾輩は猫である」(新字新仮名、作品ID:789)から引用・編集し提供させて頂いています。 夏目 漱石慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。
2015年09月25日
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かように化物共がわれもわれもと異 を衒 い新 を競 って、ついには燕 の尾にかたどった畸形 まで出現したが、退いてその由来を案ずると、何も無理矢理に、出鱈目 に、偶然に、漫然に持ち上がった事実では決してない。 皆勝ちたい勝ちたいの勇猛心の凝 ってさまざまの新形 となったもので、おれは手前じゃないぞと振れてあるく代りに被 っているのである。して見るとこの心理からして一大発見が出来る。それはほかでもない。 自然は真空を忌 むごとく、人間は平等を嫌うと云う事だ。すでに平等を嫌ってやむを得ず衣服を骨肉のごとくかようにつけ纏 う今日において、この本質の一部分たる、これ等を打ちやって、元の杢阿弥 の公平時代に帰るのは狂人の沙汰である。よし狂人の名称を甘んじても帰る事は到底出来ない。 帰った連中を開明人 の目から見れば化物である。 仮令 世界何億万の人口を挙 げて化物の域に引ずりおろしてこれなら平等だろう、みんなが化物だから恥ずかしい事はないと安心してもやっぱり駄目である。 世界が化物になった翌日からまた化物の競争が始まる。 着物をつけて競争が出来なければ化物なりで競争をやる。 赤裸 は赤裸でどこまでも差別を立ててくる。この点から見ても衣服はとうてい脱ぐ事は出来ないものになっている。しかるに今吾輩が眼下 に見下 した人間の一団体は、この脱ぐべからざる猿股も羽織も乃至 袴 もことごとく棚の上に上げて、無遠慮にも本来の狂態を衆目環視 の裡 に露出して平々然 と談笑を縦 まにしている。 吾輩が先刻 一大奇観と云ったのはこの事である。 吾輩は文明の諸君子のためにここに謹 んでその一般を紹介するの栄を有する。 何だかごちゃごちゃしていて何 にから記述していいか分らない。 化物のやる事には規律がないから秩序立った証明をするのに骨が折れる。まず湯槽 から述べよう。 湯槽だか何だか分らないが、大方 湯槽というものだろうと思うばかりである。 幅が三尺くらい、長 は一間半もあるか、それを二つに仕切って一つには白い湯が這入 っている。 何でも薬湯 とか号するのだそうで、石灰 を溶かし込んだような色に濁っている。もっともただ濁っているのではない。 膏 ぎって、重た気 に濁っている。よく聞くと腐って見えるのも不思議はない、一週間に一度しか水を易 えないのだそうだ。その隣りは普通一般の湯の由 だがこれまたもって透明、瑩徹 などとは誓って申されない。 天水桶 を攪 き混 ぜたくらいの価値はその色の上において充分あらわれている。これからが化物の記述だ。 大分 骨が折れる。 天水桶の方に、突っ立っている若造 が二人いる。 立ったまま、向い合って湯をざぶざぶ腹の上へかけている。いい慰 みだ。 双方共色の黒い点において間然 するところなきまでに発達している。この化物は大分 逞ましいなと見ていると、やがて一人が手拭で胸のあたりを撫 で廻しながら「金さん、どうも、ここが痛んでいけねえが何だろう」と聞くと金さんは「そりゃ胃さ、胃て云う奴は命をとるからね。 用心しねえとあぶないよ」と熱心に忠告を加える。 「だってこの左の方だぜ」た左肺 の方を指す。 「そこが胃だあな。 左が胃で、右が肺だよ」「そうかな、おらあまた胃はここいらかと思った」と今度は腰の辺を叩 いて見せると、金さんは「そりゃ疝気 だあね」と云った。ところへ二十五六の薄い髯 を生 やした男がどぶんと飛び込んだ。すると、からだに付いていた石鹸 が垢 と共に浮きあがる。 鉄気 のある水を透 かして見た時のようにきらきらと光る。その隣りに頭の禿 げた爺さんが五分刈を捕 えて何か弁じている。 双方共頭だけ浮かしているのみだ。 「いやこう年をとっては駄目さね。 人間もやきが廻っちゃ若い者には叶 わないよ。しかし湯だけは今でも熱いのでないと心持が悪くてね」「旦那なんか丈夫なものですぜ。そのくらい元気がありゃ結構だ」「元気もないのさ。ただ病気をしないだけさ。 人間は悪い事さえしなけりゃあ百二十までは生きるもんだからね」「へえ、そんなに生きるもんですか」「生きるとも百二十までは受け合う。 御維新前 牛込に曲淵 と云う旗本 があって、そこにいた下男は百三十だったよ」「そいつは、よく生きたもんですね」「ああ、あんまり生き過ぎてつい自分の年を忘れてね。 百までは覚えていましたがそれから忘れてしまいましたと云ってたよ。それでわしの知っていたのが百三十の時だったが、それで死んだんじゃない。それからどうなったか分らない。 事によるとまだ生きてるかも知れない」と云いながら槽 から上 る。本連載は青空文庫収録ファイル「吾輩は猫である」(新字新仮名、作品ID:789)から引用・編集し提供させて頂いています。 夏目 漱石慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。
2015年09月24日
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美しい? 美しくても構わんから、美しい獣と見做 せばいいのである。こう云うと西洋婦人の礼服を見たかと云うものもあるかも知れないが、猫の事だから西洋婦人の礼服を拝見した事はない。 聞くところによると彼等は胸をあらわし、肩をあらわし、腕をあらわしてこれを礼服と称しているそうだ。 怪 しからん事だ。 十四世紀頃までは彼等の出 で立 ちはしかく滑稽ではなかった、やはり普通の人間の着るものを着ておった。それがなぜこんな下等な軽術師 流に転化してきたかは面倒だから述べない。 知る人ぞ知る、知らぬものは知らん顔をしておればよろしかろう。 歴史はとにかく彼等はかかる異様な風態をして夜間だけは得々 たるにも係わらず内心は少々人間らしいところもあると見えて、日が出ると、肩をすぼめる、胸をかくす、腕を包む、どこもかしこもことごとく見えなくしてしまうのみならず、足の爪一本でも人に見せるのを非常に恥辱と考えている。これで考えても彼等の礼服なるものは一種の頓珍漢的 作用 によって、馬鹿と馬鹿の相談から成立したものだと云う事が分る。それが口惜 しければ日中 でも肩と胸と腕を出していて見るがいい。 裸体信者だってその通りだ。それほど裸体がいいものなら娘を裸体にして、ついでに自分も裸になって上野公園を散歩でもするがいい、できない? 出来ないのではない、西洋人がやらないから、自分もやらないのだろう。 現にこの不合理極まる礼服を着て威張って帝国ホテルなどへ出懸 けるではないか。その因縁 を尋ねると何にもない。ただ西洋人がきるから、着ると云うまでの事だろう。 西洋人は強いから無理でも馬鹿気ていても真似なければやり切れないのだろう。 長いものには捲 かれろ、強いものには折れろ、重いものには圧 されろと、そうれろ尽しでは気が利 かんではないか。 気が利 かんでも仕方がないと云うなら勘弁するから、あまり日本人をえらい者と思ってはいけない。 学問といえどもその通りだがこれは服装に関係がない事だから以下略とする。 衣服はかくのごとく人間にも大事なものである。 人間が衣服か、衣服が人間かと云うくらい重要な条件である。 人間の歴史は肉の歴史にあらず、骨の歴史にあらず、血の歴史にあらず、単に衣服の歴史であると申したいくらいだ。だから衣服を着けない人間を見ると人間らしい感じがしない。まるで化物 に邂逅 したようだ。 化物でも全体が申し合せて化物になれば、いわゆる化物は消えてなくなる訳だから構わんが、それでは人間自身が大 に困却する事になるばかりだ。その昔 し自然は人間を平等なるものに製造して世の中に抛 り出した。だからどんな人間でも生れるときは必ず赤裸 である。もし人間の本性 が平等に安んずるものならば、よろしくこの赤裸のままで生長してしかるべきだろう。しかるに赤裸の一人が云うにはこう誰も彼も同じでは勉強する甲斐 がない。 骨を折った結果が見えぬ。どうかして、おれはおれだ誰が見てもおれだと云うところが目につくようにしたい。それについては何か人が見てあっと魂消 る物をからだにつけて見たい。 何か工夫はあるまいかと十年間考えてようやく猿股 を発明してすぐさまこれを穿 いて、どうだ恐れ入ったろうと威張ってそこいらを歩いた。これが今日 の車夫の先祖である。 単簡 なる猿股を発明するのに十年の長日月を費 やしたのはいささか異 な感もあるが、それは今日から古代に溯 って身を蒙昧 の世界に置いて断定した結論と云うもので、その当時にこれくらいな大発明はなかったのである。デカルトは「余は思考す、故に余は存在す」という三 つ子 にでも分るような真理を考え出すのに十何年か懸ったそうだ。すべて考え出す時には骨の折れるものであるから猿股の発明に十年を費やしたって車夫の智慧 には出来過ぎると云わねばなるまい。さあ猿股が出来ると世の中で幅のきくのは車夫ばかりである。あまり車夫が猿股をつけて天下の大道を我物顔に横行|濶歩 するのを憎らしいと思って負けん気の化物が六年間工夫して羽織と云う無用の長物を発明した。すると猿股の勢力は頓 に衰えて、羽織全盛の時代となった。 八百屋、生薬屋 、呉服屋は皆この大発明家の末流 である。 猿股期、羽織期の後 に来るのが袴期 である。これは、何だ羽織の癖にと癇癪 を起した化物の考案になったもので、昔の武士今の官員などは皆この種属である。本連載は青空文庫収録ファイル「吾輩は猫である」(新字新仮名、作品ID:789)から引用・編集し提供させて頂いています。 夏目 漱石慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。
2015年09月23日
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なぜ松薪 が山のようで、石炭が岡のようかと聞く人があるかも知れないが、別に意味も何もない、ただちょっと山と岡を使い分けただけである。 人間も米を食ったり、鳥を食ったり、肴 を食ったり、獣 を食ったりいろいろの悪 もの食いをしつくしたあげくついに石炭まで食うように堕落したのは不憫 である。 行き当りを見ると一間ほどの入口が明け放しになって、中を覗 くとがんがらがんのがあんと物静かである。その向側 で何かしきりに人間の声がする。いわゆる洗湯はこの声の発する辺 に相違ないと断定したから、松薪と石炭の間に出来てる谷あいを通り抜けて左へ廻って、前進すると右手に硝子窓 があって、そのそとに丸い小桶 が三角形|即 ちピラミッドのごとく積みかさねてある。 丸いものが三角に積まれるのは不本意千万だろうと、ひそかに小桶諸君の意を諒 とした。 小桶の南側は四五尺の間 板が余って、あたかも吾輩を迎うるもののごとく見える。 板の高さは地面を去る約一メートルだから飛び上がるには御誂 えの上等である。よろしいと云いながらひらりと身を躍 らすといわゆる洗湯は鼻の先、眼の下、顔の前にぶらついている。 天下に何が面白いと云って、未 だ食わざるものを食い、未だ見ざるものを見るほどの愉快はない。 諸君もうちの主人のごとく一週三度くらい、この洗湯界に三十分|乃至 四十分を暮すならいいが、もし吾輩のごとく風呂と云うものを見た事がないなら、早く見るがいい。 親の死目 に逢 わなくてもいいから、これだけは是非見物するがいい。世界広しといえどもこんな奇観 はまたとあるまい。 何が奇観だ? 何が奇観だって吾輩はこれを口にするを憚 かるほどの奇観だ。この硝子窓 の中にうじゃうじゃ、があがあ騒いでいる人間はことごとく裸体である。 台湾の生蕃 である。 二十世紀のアダムである。そもそも衣装 の歴史を繙 けば――長い事だからこれはトイフェルスドレック君に譲って、繙くだけはやめてやるが、――人間は全く服装で持ってるのだ。 十八世紀の頃大英国バスの温泉場においてボー・ナッシが厳重な規則を制定した時などは浴場内で男女共肩から足まで着物でかくしたくらいである。 今を去る事六十年|前 これも英国の去る都で図案学校を設立した事がある。 図案学校の事であるから、裸体画、裸体像の模写、模型を買い込んで、ここ、かしこに陳列したのはよかったが、いざ開校式を挙行する一段になって当局者を初め学校の職員が大困却をした事がある。 開校式をやるとすれば、市の淑女を招待しなければならん。ところが当時の貴婦人方の考によると人間は服装の動物である。 皮を着た猿の子分ではないと思っていた。 人間として着物をつけないのは象の鼻なきがごとく、学校の生徒なきがごとく、兵隊の勇気なきがごとく全くその本体を失 している。いやしくも本体を失している以上は人間としては通用しない、獣類である。 仮令 模写模型にせよ獣類の人間と伍するのは貴女の品位を害する訳である。でありますから妾等 は出席御断わり申すと云われた。そこで職員共は話せない連中だとは思ったが、何しろ女は東西両国を通じて一種の装飾品である。 米舂 にもなれん志願兵にもなれないが、開校式には欠くべからざる化装道具 である。と云うところから仕方がない、呉服屋へ行って黒布 を三十五反|八分七 買って来て例の獣類の人間にことごとく着物をきせた。 失礼があってはならんと念に念を入れて顔まで着物をきせた。かようにしてようやくの事|滞 りなく式をすましたと云う話がある。そのくらい衣服は人間にとって大切なものである。 近頃は裸体画裸体画と云ってしきりに裸体を主張する先生もあるがあれはあやまっている。 生れてから今日 に至るまで一日も裸体になった事がない吾輩から見ると、どうしても間違っている。 裸体は希臘 、羅馬 の遺風が文芸復興時代の淫靡 の風 に誘われてから流行 りだしたもので、希臘人や、羅馬人は平常 から裸体を見做 れていたのだから、これをもって風教上の利害の関係があるなどとは毫 も思い及ばなかったのだろうが北欧は寒い所だ。 日本でさえ裸で道中がなるものかと云うくらいだから独逸 や英吉利 で裸になっておれば死んでしまう。 死んでしまってはつまらないから着物をきる。みんなが着物をきれば人間は服装の動物になる。 一たび服装の動物となった後 に、突然裸体動物に出逢えば人間とは認めない、獣 と思う。それだから欧洲人ことに北方の欧洲人は裸体画、裸体像をもって獣として取り扱っていいのである。 猫に劣る獣と認定していいのである。本連載は青空文庫収録ファイル「吾輩は猫である」(新字新仮名、作品ID:789)から引用・編集し提供させて頂いています。 夏目 漱石慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。
2015年09月17日
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しかるに近来吾輩の毛中 にのみと号する一種の寄生虫が繁殖したので滅多 に寄り添うと、必ず頸筋 を持って向うへ抛 り出される。わずかに眼に入 るか入 らぬか、取るにも足らぬ虫のために愛想 をつかしたと見える。 手を翻 せば雨、手を覆 せば雲とはこの事だ。 高がのみの千|疋 や二千疋でよくまあこんなに現金な真似が出来たものだ。 人間世界を通じて行われる愛の法則の第一条にはこうあるそうだ。――自己の利益になる間は、すべからく人を愛すべし。――人間の取り扱が俄然豹変 したので、いくら痒 ゆくても人力を利用する事は出来ん。だから第二の方法によって松皮 摩擦法 をやるよりほかに分別はない。しからばちょっとこすって参ろうかとまた椽側 から降りかけたが、いやこれも利害相償わぬ愚策だと心付いた。と云うのはほかでもない。 松には脂 がある。この脂 たるすこぶる執着心の強い者で、もし一たび、毛の先へくっ付けようものなら、雷が鳴ってもバルチック艦隊が全滅しても決して離れない。しかのみならず五本の毛へこびりつくが早いか、十本に蔓延 する。 十本やられたなと気が付くと、もう三十本引っ懸っている。吾輩は淡泊 を愛する茶人的猫 である。こんな、しつこい、毒悪な、ねちねちした、執念深 い奴は大嫌だ。たとい天下の美猫 といえどもご免蒙る。いわんや松脂 においてをやだ。 車屋の黒の両眼から北風に乗じて流れる目糞と択 ぶところなき身分をもって、この淡灰色 の毛衣 を大 なしにするとは怪 しからん。 少しは考えて見るがいい。といったところできゃつなかなか考える気遣 はない。あの皮のあたりへ行って背中をつけるが早いか必ずべたりとおいでになるに極 っている。こんな無分別な頓痴奇 を相手にしては吾輩の顔に係わるのみならず、引いて吾輩の毛並に関する訳だ。いくら、むずむずしたって我慢するよりほかに致し方はあるまい。しかしこの二方法共実行出来んとなるとはなはだ心細い。 今において一工夫 しておかんとしまいにはむずむず、ねちねちの結果病気に罹 るかも知れない。 何か分別はあるまいかなと、後 と足 を折って思案したが、ふと思い出した事がある。うちの主人は時々手拭と石鹸 をもって飄然 といずれへか出て行く事がある、三四十分して帰ったところを見ると彼の朦朧 たる顔色 が少しは活気を帯びて、晴れやかに見える。 主人のような汚苦 しい男にこのくらいな影響を与えるなら吾輩にはもう少し利目 があるに相違ない。 吾輩はただでさえこのくらいな器量だから、これより色男になる必要はないようなものの、万一病気に罹 って一歳|何 が月 で夭折 するような事があっては天下の蒼生 に対して申し訳がない。 聞いて見るとこれも人間のひま潰 しに案出した洗湯 なるものだそうだ。どうせ人間の作ったものだから碌 なものでないには極 っているがこの際の事だから試しに這入 って見るのもよかろう。やって見て功験がなければよすまでの事だ。しかし人間が自己のために設備した浴場へ異類の猫を入れるだけの洪量 があるだろうか。これが疑問である。 主人がすまして這入 るくらいのところだから、よもや吾輩を断わる事もなかろうけれども万一お気の毒様を食うような事があっては外聞がわるい。これは一先 ず容子 を見に行くに越した事はない。 見た上でこれならよいと当りが付いたら、手拭を啣 えて飛び込んで見よう。とここまで思案を定めた上でのそのそと洗湯へ出掛けた。 横町を左へ折れると向うに高いとよ竹のようなものが屹立 して先から薄い煙を吐いている。これ即 ち洗湯である。 吾輩はそっと裏口から忍び込んだ。 裏口から忍び込むのを卑怯 とか未練とか云うが、あれは表からでなくては訪問する事が出来ぬものが嫉妬 半分に囃 し立てる繰 り言 である。 昔から利口な人は裏口から不意を襲う事にきまっている。 紳士養成|方 の第二巻第一章の五ページにそう出ているそうだ。その次のページには裏口は紳士の遺書にして自身徳を得るの門なりとあるくらいだ。 吾輩は二十世紀の猫だからこのくらいの教育はある。あんまり軽蔑 してはいけない。さて忍び込んで見ると、左の方に松を割って八寸くらいにしたのが山のように積んであって、その隣りには石炭が岡のように盛ってある。本連載は青空文庫収録ファイル「吾輩は猫である」(新字新仮名、作品ID:789)から引用・編集し提供させて頂いています。 夏目 漱石慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。
2015年09月08日
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すると真先の勘左衛門がちょいと羽を広げた。やっと吾輩の威光に恐れて逃げるなと思ったら、右向から左向に姿勢をかえただけである。この野郎! 地面の上ならその分に捨ておくのではないが、いかんせん、たださえ骨の折れる道中に、勘左衛門などを相手にしている余裕がない。といってまた立留まって三羽が立ち退 くのを待つのもいやだ。 第一そう待っていては足がつづかない。 先方は羽根のある身分であるから、こんな所へはとまりつけている。 従って気に入ればいつまでも逗留 するだろう。こっちはこれで四返目だたださえ大分 労 れている。いわんや綱渡りにも劣らざる芸当兼運動をやるのだ。 何等の障害物がなくてさえ落ちんとは保証が出来んのに、こんな黒装束 が、三個も前途を遮 っては容易ならざる不都合だ。いよいよとなれば自 ら運動を中止して垣根を下りるより仕方がない。 面倒だから、いっそさよう仕ろうか、敵は大勢の事ではあるし、ことにはあまりこの辺には見馴れぬ人体 である。 口嘴 が乙 に尖 がって何だか天狗 の啓 し子 のようだ。どうせ質 のいい奴でないには極 っている。 退却が安全だろう、あまり深入りをして万一落ちでもしたらなおさら恥辱だ。と思っていると左向 をした烏が阿呆 と云った。 次のも真似をして阿呆と云った。 最後の奴は御鄭寧 にも阿呆阿呆と二声叫んだ。いかに温厚なる吾輩でもこれは看過 出来ない。 第一自己の邸内で烏輩 に侮辱されたとあっては、吾輩の名前にかかわる。 名前はまだないから係わりようがなかろうと云うなら体面に係わる。 決して退却は出来ない。 諺 にも烏合 の衆と云うから三羽だって存外弱いかも知れない。 進めるだけ進めと度胸を据 えて、のそのそ歩き出す。 烏は知らん顔をして何か御互に話をしている様子だ。いよいよ肝癪 に障 る。 垣根の幅がもう五六寸もあったらひどい目に合せてやるんだが、残念な事にはいくら怒 っても、のそのそとしかあるかれない。ようやくの事|先鋒 を去る事約五六寸の距離まで来てもう一息だと思うと、勘左衛門は申し合せたように、いきなり羽搏 をして一二尺飛び上がった。その風が突然余の顔を吹いた時、はっと思ったら、つい踏み外 ずして、すとんと落ちた。これはしくじったと垣根の下から見上げると、三羽共元の所にとまって上から嘴 を揃 えて吾輩の顔を見下している。 図太い奴だ。 睨 めつけてやったが一向 利 かない。 背を丸くして、少々|唸 ったが、ますます駄目だ。 俗人に霊妙なる象徴詩がわからぬごとく、吾輩が彼等に向って示す怒りの記号も何等の反応を呈出しない。 考えて見ると無理のないところだ。 吾輩は今まで彼等を猫として取り扱っていた。それが悪るい。 猫ならこのくらいやればたしかに応 えるのだが生憎 相手は烏だ。 烏の勘公とあって見れば致し方がない。 実業家が主人|苦沙弥 先生を圧倒しようとあせるごとく、西行 に銀製の吾輩を進呈するがごとく、西郷隆盛君の銅像に勘公が糞 をひるようなものである。 機を見るに敏なる吾輩はとうてい駄目と見て取ったから、奇麗さっぱりと椽側へ引き上げた。もう晩飯の時刻だ。 運動もいいが度を過ごすと行 かぬ者で、からだ全体が何となく緊 りがない、ぐたぐたの感がある。のみならずまだ秋の取り付きで運動中に照り付けられた毛ごろもは、西日を思う存分吸収したと見えて、ほてってたまらない。 毛穴から染 み出す汗が、流れればと思うのに毛の根に膏 のようにねばり付く。 背中 がむずむずする。 汗でむずむずするのと蚤 が這 ってむずむずするのは判然と区別が出来る。 口の届く所なら噛 む事も出来る、足の達する領分は引き掻 く事も心得にあるが、脊髄 の縦に通う真中と来たら自分の及ぶ限 でない。こう云う時には人間を見懸けて矢鱈 にこすり付けるか、松の木の皮で充分摩擦術を行うか、二者その一を択 ばんと不愉快で安眠も出来兼ねる。 人間は愚 なものであるから、猫なで声で――猫なで声は人間の吾輩に対して出す声だ。 吾輩を目安 にして考えれば猫なで声ではない、なでられ声である――よろしい、とにかく人間は愚なものであるから撫 でられ声で膝の傍 へ寄って行くと、大抵の場合において彼もしくは彼女を愛するものと誤解して、わが為 すままに任せるのみか折々は頭さえ撫 でてくれるものだ。本連載は青空文庫収録ファイル「吾輩は猫である」(新字新仮名、作品ID:789)から引用・編集し提供させて頂いています。 夏目 漱石慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。
2015年09月02日
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