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2021.10.05
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カテゴリ: 恩納村



沖縄本島北部西海岸にある「恩納村」に生まれた女流歌人「恩納ナビー」は18世紀初め頃、琉歌歌人として活躍した女性です。「恩納ナビー」が生きていた時代は琉球文化の黄金時代と呼ばれ文学、音楽、舞踊と一流の文化人が輩出すると同時に、庶民の間にも琉歌という歌が流行っていました。「恩納村」の美しい自然の中「恩納ナビー」は自由奔放かつ大胆な歌を数多く残したのです。


(恩納ナビーの歌碑)

「恩納ナビー(恩納なべ)」が生まれたのは1660年頃だと推測され、自然の美しさに恵まれ神々、木、森の精たちと語らいながら成長したと伝えられています。万座毛第二駐車場に「恩納ナビーの歌碑」があります。

「恩納岳あがた 里が生まり島 森もおしのけて こがさなたな」

(恩納岳の彼方には 我が愛する人の故郷がある その山をも押しのけて 引き寄せたい)


(恩納奈邊記念碑/表面/万座毛周辺活性化施設)

(恩納奈邊記念碑/裏面/万座毛周辺活性化施設)

「恩納ナビー」が万座毛に残した輝かしい琉歌の世界に沖縄の文化史を誇りとし「奈邊(ナビー)」の歌碑を御即位記念として、万座毛入り口に昭和3年11月10日に石碑が建立されました。現在は万座毛周辺活性化施設の新設に伴い施設内に移設されました。「恩納村」の人々は沖縄の三大女流歌人と言われる「恩納ナビー」の歌を愛し「恩納村」の誇りとして、後世に伝えるために「恩納奈邊記念碑」が建立されたのです。




(万座毛/沖縄県指定天然記念物)

2020年10月にオープンした「万座毛周辺活性化施設」に「恩納ナビーの歌碑」があります。この歌碑は昭和3年の建立後に50周年を祈念して、昭和54年に新しく建立されました。1726(享保11)年に琉球王府「尚敬王」自身を先頭に、具志頭親方蔡温をはじめ各重臣臣下をのこりなく(約200人)率いて北山巡行のおり、恩納「ムラ」の景勝地万座毛に立ち寄った際に「恩納ナビー」が詠んだ歌です。

「波の声もとまれ 風の声もとまれ 首里天がなし 美御機拝ま」

(波も風も穏やかになってほしい はるばる国王が万座毛に立ち寄られるのだから その顔は拝みたいものだ)


(恩納ナビー生誕屋敷跡)

(カンジャガー)

「恩納集落」の西側にマッコウ屋(屋号)と言われる「恩納ナビー生誕屋敷跡」があります。「恩納ナビー」は兄1人に女1人として生まれました。屋敷は現在空き地になっていますが「恩納ナビー生誕の地」の石碑が建立されています。屋敷の東側に「恩納村」の指定文化財に登録される「カンジャガー」と呼ばれるウブガー(産井)の拝所があり、昔近くに鍛冶屋があったことが名前の由来となっています。産湯水や新生児の健康祈願(ミジナディ)の為に額につける水を汲む井戸で、正月1日に村人が井泉に感謝を込めて初御願に拝します。


(神アサギ)

(根神火神)

「恩納集落」中央の恩納公民館の敷地内に「神アサギ」があります。この「神アサギ」は昔から現在地にあり、ノロ(祝女)により集落の神事を司る重要な建物です。昔から茅葺屋根は数年おきに集落の住民総出で葺き替え続けられています。また、公民館の敷地内東側に「根神火神」の拝所が祀られています。祠内には霊石が設置されており、集落の住民の健康祈願、地域の平和、安泰を願う「火の神」として崇められています。


(恩納番所跡の拝所)



(拝所内部/向かって左側)

「恩納集落」の北側に「恩納番所跡」があり敷地内には拝所が建立されています。番所とは間切の役場の事を言います。恩納間切は1673年(尚貞5年)に読谷村山間切から八村、金武間切から四村分割して創立され、この地に番所が置かれました。1853(嘉永6)年にはベリー一行も訪れ「恩納村」の美しさについて書き記しています。「恩納番所跡」は1882(明治15)年の恩納村における教育発祥の地でもあります。現在は拝所が設けられ火の神にウコール(香炉)と霊石が祀られています。


(恩納松下の歌碑/表面)

(恩納松下の歌碑/裏面)

その昔「恩納番所」の近くに松の大樹があり、その下には村人への伝言用立て札が立てられていました。尚敬王時代(1713〜1751年)の冊封副使徐葆光(じょほうこう)一行が北部の名称巡りの途中「恩納番所」で一晩宿を取ることになりました。当時地方の農村では若い男女の「毛遊び(もーあしびー)」や「しぬぐ」など盛んに行われており、そのような風紀の乱れを冊封使一行に見せたくないという役人らしい発想から、風俗取り締まりの立て札が立てられたのです。




その立て札を見た「恩納ナビー」はいささか皮肉を込めて次の歌を詠みました。

「恩納松下に 禁止の碑の立ちゅし 恋しのぶまでの 禁止やないさめ」

(恩納番所前の松の下に 禁止の立札があるが 恋をすることまで 禁止しているのではあるまい)

番所前の松の木は、戦後まで豊かな枝振りで緑陰をつくっていましたが、1955(昭和30)年に松食い虫の被害により枯れてしまい切り株のみ残されています。現在の松の木は2代目の松の木で「恩納松下の歌碑」の脇に植えられています。


(恩納ナビ伝/上間繁市著)

上間繁市著の「恩納ナビ伝」によると「恩納ナビー」の没年は不明ですが「恩納ナビー生誕屋敷(マッコウ屋)」の隣の島袋屋(しまぶくや)の娘であった「伊波マツ」さん老女の話では「ナビ女の晩年は一人暮らしで、老いた身でおりおり海漁りをしていた」という言い伝えを幼少の頃に聞いていたそうです。「恩納ナビー」はかなりの歳まで生き永らえていたと推察されます。


(デース/墓地帯)

(恩納ナビーの墓)

「恩納ナビー」を埋葬している墓は「恩納集落」の俗称「デース」と呼ばれる墓地帯で、海を前にした小高い雑木林の中にあります。1660年代の古い墓で集落で言う「模合墓」で、幾人かで組合を作り均一の金銭と労力を出し合い建造する墓を意味します。その組合員の親族のみを埋葬した「模合墓」に「恩納ナビー」が埋葬されています。上間繁市著の「恩納ナビ伝」には、この掘り込み式の墓と内部の骨壷の写真も掲載されており、現在はウコール(香炉)、湯呑み、花瓶が設置されており集落の住民により祈られています。


(厳谷小波句碑/恩納ナビーの歌碑)

(恩納ナビーの歌碑)

「恩納ナビー」は田舎乙女として水呑み百姓の貧しい家庭に育ち、当時の封建社会の厳しい時代で庶民の自由を熱望する気持ちを人一倍持っていました。「恩納ナビー」は琉球王府の布令規則などに真正面から反抗することなく、平易な言葉で自分の気持ちを正直に表現しています。「恩納ナビー」には万葉の秀歌にも劣らない歌が18首あるとされており、その中には琉球古典音楽や舞踊で今日、なお厳然として受け継がれ生き続けているのは確かな事実なのです。






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最終更新日  2022.03.06 23:06:52
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Re:恩納ナビーの琉歌の里@恩納村「恩納ナビーの歌碑/恩納集落」(10/05)  
佐野哲寛 さん
恩納ナビーのこの写真のお墓はどの辺りにございますか?

恩納ナビーの墓について  
佐野哲寛さんへ

コメントを下さり誠に有難うございました。「恩納ナビーの墓」の場所についてですが、この墓は上間繁市著の「恩納ナビ伝」による"あくまでも一説"とお考えください。

恩納村のナビービーチから西側に見える丘陵の森(通称デース)は墓群となっており、この丘陵の中腹に通じる道が3本ほどあります。

その中の1つの道を登ると森の中腹に掘り込み墓があります。上間繁市著の「恩納ナビ伝」に掲載されている写真と照らし合わせて、同じ掘り込み墓が「恩納ナビーの墓」とされている古墓となっています。

ちなみに、上間繁市著の「恩納ナビ伝」は恩納村文化情報センターの図書館で読むことが出来ます。 (2024.03.12 15:34:27)

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