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以前は、共同探索というものをさかんにしていたことがありました。特に私が熱心にやっていたのは、宇宙での共同探索です。もちろんそれは、へミシンクを使った非物質的な活動ですから、我々の目に見える物理的な宇宙空間とは異なるわけです。あくまでそういう考え方もあるのかくらいの軽いノリで聞いてもらいたいのですが、宇宙は我々の目に見えているだけが宇宙ではありません。宇宙とは、多次元的に存在しています。この多次元的というのは、平たく言うと、非物質的に、ということです。つまり、宇宙は、物質的に存在しているだけではなく、非物質的にも存在している、こういうことになります。宇宙には、様々な生命体が存在していますが、それらの生命体とコンタクトをとることが可能なのは、フォーカスレベルでいうとフォーカス35(5次元)あたりからです。それより下のフォーカスレベルでもコンタクトをとれなくはないのですが、私が今までに様々な角度から検証してみたところでは、この太陽系の惑星内にいる高次意識達は、少なくともフォーカス35以上に行かないと会うことは難しいようです。なぜ惑星「内」なのか?わかりません。わかりませんが、私がかつて宇宙探索を盛んにしていた時には、誰に教えられるのでもなく、私は自然と惑星内部へと進み、そこからフォーカスレベルを上げていくというプロセスを必ず取っていました。推測ですが、もしかしたらそれは、オコツトの言う内と外の反転といった認識に関係しているのかもしれません。いずれにしても、物理的に惑星内部に生命体が生息しているとは、私は考えません。私が探索したところによれば、人類にとって最も関係が深いのは、太陽系内にある惑星です。月と水星、冥王星には高度な生命体の存在を感じませんでしたが、それ以外の火星、金星、木星、土星、天王星、海王星、太陽には高度な生命体の存在を感じました。かつてシルバーバーチは、火星には生命体がいると告げたことがありました。火星人は地球人よりも進んでいるのかという質問に対して、シルバーバーチは、「いろんな観点から見て、決して地球人より進んでいるとは言えないでしょう。」と言った主旨のことを述べていました。私が自分自身で見て来たところによれば、火星の内部にいた生命体は、今の地球人類と深いかかわりを持っていると感じました。簡単に言うと、ディセンションしたみたいなのですが、生活様式は今の地球人よりも進んでいたように思います。確か、UFOのような乗り物を操る技術もあったように思います。ですが、地球人との間に決定的な違いがありました。それは、霊的なことに非常に関心が薄いということです。あくまでも私の認識なんですが、火星人は本当は火星人ではなく、ディセンションした地球人なんです。ですが、一面では高度に発達した技術力を持ち合わせてはいるのですが、精神的にみて霊性進化の観点からは地球人よりも遅れている、こんな感じです。それに対して、金星は霊的にみて地球よりも進んでいます。生活レベルも高く、今の地球での生活以上の生活をしていて、なおかつ地球人よりも霊性は高いです。金星は、地球から見れば、アセンションした地球に相当します。つまり、地球、火星、金星というのは、人類の進化の観点から見て、三位一体をなしているという重要な特徴があります。では、それ以外の惑星はどうなのでしょうか?こうなってくると話は尽きませんが(笑)、簡単に述べたいと思います。まず、木星、土星、天王星、海王星、ですが、今の地球との関係で見ますと、何らかの形で進化の先を行っています。この点、一部の方は木星について?と思われるかもしれません。木星はディセンションした惑星なのではないかと。ですが、私が見たところでは、必ずしもそうではないようです。今の地球人類とはまた別の進化を遂げていると感じます。土星、天王星、海王星には、高度な知的生命体が存在しています。これらの存在には、フォーカス49(7次元)以上の領域でコンタクトをとることができます。ただ、これらの存在とコンタクトを取るのは、至難の業です。私は、ガイドを通じてこれらの生命体とコンタクトを過去に取っていました。このガイドというのは、通常言われているガイドではなく、いわゆる集合意識レベル(フォーカス49)のガイドです。そんなガイドがいるのかと思われるかもしれませんが、います。私の過去記事では、「本来の自分」という表現になっています。次に太陽についてお話ししたいと思います。太陽にも高度な生命体が存在します。いわゆる陰謀論とは無縁のところに位置する、太陽系全体を統括する立場にある、高度な生命体達です。ここも、フォーカス49以上に行くことでその存在達に会うことができます。太陽系の旅を終えた私は銀河系全体、銀河を超えた旅を続けていきました。ちなみに、銀河系全体をつかさどる存在としては、地上でイエス・キリストと呼ばれた存在がいたと記憶しています。キリストは銀河系全体に溶け込むように、巨大な姿で感じられます。ブッダも似たような状況で感じることがありますが、キリストとはやや感じられ方が異なっています。銀河系をさらに越えて、別の銀河に行きますと(たとえばアンドロメダ銀河)、高度に進化したと思われる生命体がいます。私はアンドロメダでは、個別意識を持った存在は感じたことがないんですが、全体的に見て、我々の銀河系よりもはるかに高度に進化している印象がありました。今現在地球上に誕生している魂で、アンドロメダに由来する魂の方もおられるはずです。たとえばですが、アンドロメダから地球圏にまでやってくるためには、プレアデス、金星などを経由して次元降下してからやってくる必要があるようです。では、銀河を超えて、さらにこの宇宙を超えたところはどうなっているのでしょうか。私には、この宇宙を超えたところにも、無数の宇宙があるように感じられました。しかも、あまねく存在する宇宙を支配する一定の法則的存在というものがあると感じます。それは、人間的な言葉で言えば、大日如来なんかがそうです。意思を持ったシステム、定理、法則、そんな言葉がぴったりです。しかし、そのシステムを生みだした存在というもどうやらいるらしいです。ここまで来ると、私の高次にもわからないところがどうやらあるみたいなのですが、最終的には「ひとつなるもの」に行きつくと思われます。このように、宇宙には無数の生命形態があり、しかもそれが多重構造的に、多次元的に存在していて、様々な進化の様相を見せている側面があります。
2012.02.29

生きているといろんなことがあるものです。楽しいこと、うれしいこと、だけならいいんですけど(笑)、実際にはつらいことや悲しいこと、怒ること、・・・本当に様々なことがありますから。でもね、体験できるだけ幸せですよ~(笑)いろんなことを体験したくって、この世に生れて来たんですから。体験のない人生ほどさみしい人生はありませんからね。「私には体験が無い~」なんて思わないでくださいね(笑)あなたが今生きていることが、体験そのものなんですから。我々は今、時代の変わり目に生きています。俗にアセンションなどと表現されることもありますが、本当はそんな大げさなものではないと思うんです。人間の細胞は一定周期で生まれ変わるそうですが、私は人間だけではなく、地球も、宇宙も生まれ変わるように感じます。そうやって、新陳代謝しながら我々は生きているんですね。時代が変われば、多少思いやりにあふれた人が出てくるかもしれません(笑)。また、利権のためにいきなり戦争を始めたり、環境破壊をしだす人(国)も減るかもしれません(笑)。でも。。。どんな環境だろうと、「その環境で」我々は人間としての生きざまをまっとうできます。日々の生活を大切にして、人間らしく生きていきたいですね。Some rights reserved by Muffet
2012.02.28

私が直感的に得たところでは、我々は宇宙人に会うよりも、自分自身を深く見つめていき、自分自身の高次の存在(ハイアーセルフやさらに上の存在。内在するキリスト意識)とコンタクトを常にとることが大切なようです。それがなぜなのか?正直私にはよくわからないところがあります。なぜだかわかりませんが、そうすることが自分にとっての真実に到達するための近道な気がするのです。私には、ブログを書くことをきっかけに自分自身を見つめなおすという習慣があります。今日自分自身の魂の部分を見つめていくうえで、自分の別側面とのやりとりの中で得たことをこれから皆様と共にシェアしていきたいなと思います。まず一つ目は、我々にとっては常に、自分と自分の宇宙(真実)との間での関係が大事なのだということです。自分にとっての真実が、他の人にとっての真実とは限りません。ですから、他人からの情報を簡単に鵜呑みにしてはいけないわけですね。そこで、自分にとっての真実とは何かを探すためには、自分自身を深く見つめていくことが必要となります。ただその場合でも、我々が今直面している現実を生き切ることが最重要であることは変わりません。いたずらに精神世界をさまよい続けても、運が良ければ真理に到達できるかもしれませんが、多くの場合徒労に終わる可能性もあります。ですから、高次は常に、「今を生きなさい」と私の中でささやき続けているわけです(笑)。私は変わって、私はある存在とコンタクトをとることを高次に思念として送りましたが、止められました。理由は、今の私の波動に関係しているみたいです。それよりも、その存在のおおもとの部分とコンタクトをとるように勧められました。そのおおもとの部分とは、キリスト意識です。私の場合、中途半端に高い意識レベルの存在とのコンタクトを求めるよりも、もっとおおもとの存在とのコンタクトがしやすいみたいです。その中で得た興味深いことがあります。それは、我々がブッダと呼んでいる存在のことなんです。ブッダには、どうやら師が存在したみたいです。ですが、そのブッダの師と思われる人物は、インド人風の風貌をしているのですが、実際に地球上に存在していたのかどうかは私にはわかりませんでした。それはなぜかというと、私にとってもその存在が師でありガイドのような身近な存在に思えたからです。そのブッダの師と思われる存在に出会ったのは、私がブッダに会いに行った時に、ブッダから「外を見つめないでもっと自分自身の内側を見つめなさい。」と言われたことがきっかけでした。そこで、私は自分自身の内面を深く見つめていったわけですが、その時にある存在の印象が強く沸き起こってきたのです。私には、その存在が、ブッダの師であったことを直感しました。ですが、同時に、その存在は、私自身の師でもあり高次でもあることを直感したわけです。もしかしたら、その存在は、集合意識の象徴なのかもしれません。ですが、実際に地球上に存在していた可能性もあります。わかりません。もしかしたら、ブッダは自分自身を深く見つめていった結果、自分自身の高次の存在に到達していたということなのかもしれません。つまりそれは、我々が考えるところの集合意識レベルすなわちフォーカス49以上の領域に匹敵する「自分」です。今回は、言葉にならない感覚のほうが多かったです。ですが、やはり行きつくところは、「今の生活(人生)を大切に」というところでした。我々にとって大切なことというのは、そんなに多くはないのかもしれませんね。そんな気がします。Some rights reserved by Lindsay Sorensen
2012.02.27

今日は、存在感についてお話ししたいと思います。ここでいう「存在感」とは、「私が今ここに確かに存在している。」のだという実感です。これがどんなにか貴重な体験であり、命と結びついているのかについて、多くの人は忙しさのあまりに忘れ去ってしまっています。昨日、万人が瞑想を求める必要はないと言いました。私自身、普段は瞑想しません。一応、普通に社会生活を送っています(笑)。ですが、ブログに記事をアップする時に、ごくたまに瞑想したりします。それは、精神統一というか意識を高次意識と同調しようとする際に、自然に、気がついたら瞑想に移行していた、そんな状態です。そのままでも高次とコンタクトをとることは可能なのですが、私は高次からの情報を降ろしてくる時にはへミシンクをすると決めていますので(笑)、それからCDを聞きながらさらに深い変性意識に入っていきます。我々は普段、五感に支配された生活をしているわけです。見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触る、というやつです。私の場合、自然な移行によって五感から離れていきます。言いかえれば、心と体が求めることによってなされていくのですが、まずは姿勢と呼吸を整えていきます。臍下丹田(へそ下三寸、さらにそこから奥に少し入ったところにある球状の領域)に意識を置きます。この時、背骨はまっすぐにして、肩の力を抜きます。そして、体の重心が、臍下丹田を真下に突き抜けた地点に落ちるようにします。目は軽く閉じています。この状態から、腹式呼吸に入ります。逆ではなく、通常の腹式呼吸です。ずっと、ゆっくりとした呼吸に意識を置いていきます。何も考えません。私の住んでいるところは田舎ですので、天気の良い日は少しだけ窓を開けていると、鳥のさえずりが聞こえてくるだけです。ちなみに、夜は空を見上げれば満点の星空です。私は小さいころからオリオン座を見つめてきましたが(魂の故郷はシリウスらしいです(笑))、今ほど美しいオリオン座を見たことはありません。まあ、それは置いておいて(笑)、鳥のさえずりを聞きながら、私は自分の呼吸にフォーカスしていきます。呼吸そのものに意識を置いていく感じです。目を閉じた状態ですから、自分の呼吸の他には、鳥のさえずりがするだけで、何も感じません。いわば、五感で感じる領域をせばめているわけです。鳥のさえずりしか聞こえないほとんど静寂とした中で、自分は呼吸をして、自分の存在を確かめることができる至福の時。自分自身が今ここに存在しているのだということをかみしめつつ、私はあらゆるものに感謝しました。そして、ゆっくりと目を開けていきます。その瞬間、閉じられていた視覚がその他の感覚とともによみがえっていきます。すると、自分自身が今ここに存在していることが、強烈に感覚的に自分自身に伝わっていきます。あー、この感覚を求めて、私は今ここに存在しているのだなと思いました。自分自身がただ在るという状態。そしてまた普通の日常に戻っていきます。これはいわゆる瞑想に近い状態ですが、私はこれを瞑想とは呼びません。瞑想という人間が作り出した分類にはあてはめません。瞑想と呼んだ瞬間に、我々が時空による縛りを受けるのと同様に、我々が長い年月をかけて生みだしてきた信念体系の影響を受け始めていきます。ただ在るという状態、これを噛みしめれば十分なわけです。またそれは、どんな日常生活においても感じ取ることができる状態です。何気ない日常生活の一コマの中で。自分自身の存在を噛みしめるというのは、実はとてもスピリチュアルなことなんです。ですが、それを実践している人は、スピ系以外の人にはいても、スピ系の人にはほとんどいないかもしれません。なぜなら、多くのスピ系の人は、外の膨大な情報に振り回されてしまい、自分自身を深く見つめなおすということを軽視しているからです。今日は、「存在」というテーマで皆さんとともに共有したいと思いました。ぜひ自分自身の存在を実感してみてください。Some rights reserved by capelle79
2012.02.23

今回は、ガイド(自分自身)からのメッセージがいかにして現実世界に現れてくるか、その辺についてお話ししたいなと思っています。まず、ガイドとはそもそも何なのかについて私なりの考えをお話ししたいと思います。西洋では、天使として認識されているのかもしれません(ガーディアン・エンジェル(守護天使などと呼ばれたりします))。ノルウェーでは王女が天使とコンタクトをとるための学校を作ったそうですが(笑)(素晴らしいですね)、その王女の話に天使という表現がありました。日本では、主護霊(守護霊、指導霊)などと呼ばれることがあります。私の認識では、日本語の主護霊は、いわゆる霊的な血脈からくる意識同士のつながりによるサポートを表しているようです(トライアード的側面)。それに対して、守護霊や指導霊のほうには、先祖霊などのいわゆるダイアード的なつながりからのサポートも含まれてくるようです。今回は、霊的な血脈からくるサポートを「ガイド」と呼ぶことにしたいと思います。(まあ、どのような考え方をしたとしても、結局は「自分」なんですけどね。)意識というのは、非常に高次元から連綿としたつながりがあります。我々は意識には、顕在意識と潜在意識があると考えますが、どちらかというと潜在意識のほうです。潜在意識というのは、単なる脳の産物ではなく、多次元的にも人を超えたつながりというものを持っています。それが、感覚的には「ヨコ」のつながりにいけば人類皆兄弟となってくるのでしょうし、「タテ」のつながりにいけば今の自分を超えた「トータルセルフ」(より広い意味での「自分」)やさらに上の「本来の自分」(トータルセルフを超えた人類の集合意識。集合無意識。)となっていきます。今はそのうちの「タテ」のつながりについてお話ししています。我々は、自分だけで現実世界を体験していると思っていますが、実はそうではありません。より広い意味での「自分」すなわちガイドも一緒に体験しています。私は、現実世界で私との関係で起こる現象には、「私にとって」すべて意味がある(意味があるといったら語弊を生むかもしれませんが、他に表現が思いつきません)と考えます。あらゆることには、自分との関係において、なんらかのメッセージ性を持っています。それが自分にとっていいことか悪いことかは問いません。そこから気づきを得るのも自由ですし、得ないのも自由です。特に最近は、向こうの世界との「壁」が薄くなったとでも言いましょうか、よりガイドとのつながりが私の場合強化されていて、より大きな「自分」からのメッセージが私の場合現実世界に現れやすくなってきています。それは他の人から見れば単なる出来事に見えることでも、「私にとっては」とても意味のあることだったりします。しかもそれは、私にしかわかりません。なぜならそれは、より広い意味での「自分」からのメッセージだからです。へミシンクをされる方の中には、どこからどこまでガイドからのメッセージなのかわからないと思われている方もおられるかもしれません。私も最初はそうでした。ですが、へミシンクで様々な視点から厳密に検証作業を積み重ねていった結果、非物質界は確かに存在し、しかも自分とはちっぽけな自分だけではなく、より大きな「自分」が存在していて、いわば共同作業としてこの現実世界を体験しているのだ、このことに私は次第に徐々に気付いていき、確信を得るようになっていきました。そこまでに至るのは普通は大変ですし、人によって得意不得意もありますから、気になさることはありません。特に私の場合、精神世界のことは一を聞いて十ないしは百を知るというところがたぶんにありましたから。ある意味、特殊なのかもしれません。大切なことは、少しずつでもいいので、自分と自分の周りで起こる現象を注意深く見てみることです。そして同時に、自分の内面を内観してみます。それは、「内観とはこうあるべきだ。」みたいに専門的になる必要はなく、自己流でいいんです。自己流でいいですから、自分自身が普段生きていく中で、周りの人やその人達とのかかわりで生じた出来事で、自分自身に生まれた感情を振り返ってみます。うれしかったこと、悲しかったこと、怒りで頭が沸騰しそうになったこと(笑)など。いわゆる瞑想というある意味において悟りに近づく方法を万人が求める必要性は、私はないと考えています。日常において、できる範囲でいいですから、日常生活を過ごす「中で」、そのような内観的行為をしていけば、それで十分なわけです。それがもっとも、ちっぽけな自分とより広い意味での「自分」すなわちガイドとのつながりを深めていきます。スピリチュアルなことは、実はスピリチュアルではなく、あたりまえのことなのです。あたりまえのことの中に、もっとも核心に迫る部分があります。日常生活を大切にしていきたいですね。人と人とのかかわり。自然とのかかわり。我々は大自然に生かされている存在ですから。自分一人では生きられません。そう考えると、自然に命があることに素直に感謝する気持ちが沸き起こってきます。スピリチュアルとは無縁と思われる中に、一番自分にとって最もスピリチュアルな部分があることに、最近私はようやく気付きました。私達は、ガイド(「自分」)と常に一体なんですね。Some rights reserved by tab2_dawa
2012.02.22

人を待つ間暇だったので、ヘミりました(笑)。まさかこんなに早く変性意識に入れるとは思わなかったのでちょっと戸惑いましたが。ガイドが現実世界にいる私の小さな友人として現れてきて(笑)、姿は見えませんが声もしくは感覚的に「胎蔵(界)曼荼羅に行くんやろ?」みたいなことを言います。私が何のことだろうと一瞬思っていると、自然に、それは我々がフォーカス49と呼んでいる領域にあると思われる集合意識内を指していることが直感的に感覚的に感じられてきました。そこで私は、「あーあそこは曼荼羅の世界なんだな。」と思った次第です。曼荼羅をイメージしなさい的な雰囲気になってきたので、最初は太陽を映した時に見える曼荼羅を、次にCGで以前に見た曼荼羅をなんとなくイメージしているうちに、フォーカスレベルが瞬時に集合意識レベルに固定されていきました。最初、まさかとは思ったのですが(速すぎるために)。ここからは、本当に本当に夢物語として聞いてください(笑)。私は、我々がブッダと考えている存在を私に認識できる形でとらえている(視覚的に見ているように感じている)のですが、最初に出てきたのは、お釈迦さんのほうです。で、次に出てきたのは、我々が弥勒菩薩と呼んでいる存在です。ブッダによれば、弥勒菩薩と釈迦(如来)は一体らしいです。私は仏教はよく知らないんですが、確か菩薩と如来には違いがあったはずだなと思い、その辺について融合したブッダに聞いてみることにしました(「融合」という言葉を使ったのは、釈迦と弥勒との「融合」という意味合いで使っています。)。ブッダによれば、菩薩とは下界を意味し、如来とは天界を意味するのだと言います。本来は両者は一体不可分なのですが、あえて「そういう状態」をとっているのだと言います。(なぜ「そういう状態)をとっているのかはあえて言語化しません。「進化」と表現してもさらなる誤解を生む可能性がありますし、他の言葉で表現しても五十歩百歩だからです。)しかも、密教の世界で言われる、胎蔵曼荼羅と金剛界曼荼羅とは、本来一体不可分らしく、密教ではどう考えているのか私には知りませんけれども、私が感覚的に得たところでは、ブッダ達が金剛界曼荼羅にいるとすれば、我々は胎蔵曼荼羅の世界で生きている、なんとなくですがそんな印象がありました。つまり、ここで言いたいのは、胎蔵曼荼羅と金剛界曼荼羅は別々のものであるかのように我々はもしかしたらとらえているかもしれませんが、本来は一体不可分なもので、そのことが、ブッダと我々との関係にも当てはまるのだ、こんなことがどうやら言いたいらしいのです。誤解を恐れずに言うと、菩薩とは今の我々のことだと言います。それに対して、如来とは、天界で我々とは別に存在している高次元生命体です。本来我々は一体不可分なのですが、「我々から見れば」そういう風に分離して「見えている:だけなのだとか。ですから、ブッダによれば、本来はブッダも釈迦菩薩如来と表現するのが適切らしいのです。私は、そうやって我々自身の本来の姿とでも言いましょうか、そんな多次元的存在状態を通常の感覚を超えた感覚でとらえていました。ある状態が見えてきました。それは、どうやらこの先我々が進んでいく方向性とでも言いますか、エネルギー状態とでも言いますか。集合意識としてのブッダの視点から見ますと、1000年後の我々の様子も、明日の我々の様子も同じ視点で見ることができるみたいです。我々は、遅々として進まない我々の社会の混乱ぶりの印象をブッダに投げかけてみました。すると、進化とは、遅々として進まないものだが、「気がついた時には」いつの間にか以前出来なかったことができている、以前を超えたレベルに到達している。そんな、表現するには困難な淡い印象が意識の中心からやってきました。時空間にどっぷりつかった我々の持つ常識でははかりしれないのですが、時空の超えたところで(すなわち私が「永遠の今」と呼んでいる状態で)、今ここにおいても存在している我自身の姿です。そのとき、我々にはもはやいかなる葛藤もなくなっているように感じられました。争いなどは皆無で、いかなる望みもまた常に我々と共にある、そんな超現実的世界です。それが、1000年後には実現されていると感じます。今から1000年前の我々には、今の現代社会での暮らしぶりが想像さえできなかったであろうように、今の我々にとっても、今から1000年後の生活というものも、たとえこんな感じだと言われたとしても、想像できないものです(笑)。人間の形態はとっています。我々の服装とはかなり異なっているようですが(全体的に白っぽい印象がありました)、ちゃんと男女の区別もあるようです。ですが、子孫を残すための行為はしていないと感じました。それどころか、食べ物を食べている印象がなかったです。もちろん、それでも元気に生きています(笑)。今の我々から見れば、格段に調和の進んだ人類に成長しています。「我々の理解出来る感覚からすれば」、「個人レベルでそうならば、ましてや集団レベルではもっと調和が進んでいるだろう。」との推測も経ちます。なぜこんな奇妙な言い方をするのかと言えば、個人と集団との区別さえ存在しているかどうか、もはやあやしいからです。ですが、直観的に私は、「我々はあらゆる視点から見て、多次元的に、『永遠の今』において、補い合っている」のだと感じました。1000年後において、確かに我々は格段に進化しているようです。ですが、あくまでも感覚的に言いますと、「調和しすぎている」のです。次の瞬間、私の中にある印象が入ってきました。それは、調和した部分とのバランスをとるといったらいいのでしょうか、あるいは、さらなる進化のためと言ったらいいのでしょうか(誤解を招く恐れがある点を承知で言っています。他の表現が思いつきません)、菩薩となった進化した我々は、今ここの我々が生きている現実世界にあえて生まれてきて、体験を積んでいます。ごく少数というレベルではなく、多数、大勢、そういった存在がいます。それが今ここの現実世界なのです。弥勒菩薩が56億七千万年後に下乗すると言ったのは、集合意識内のブッダによれば、今ここだと言います。つまり我々は、今ここの現実世界においてすでに弥勒の世に生きているわけです。集合意識としてのブッダはさかんに、「(進化が進めば)我々は、自分で自分を助けるようになる。」という言い方をします。菩薩と如来とは一体であり、我々は菩薩であり如来として「今ここ」で体験しているわけです。問題はそのことに気付けるかどうかにあります。 Some rights reserved by Non Paratus
2012.02.20

(2.13「ブッダとしての生き方」)>時折拝見しています。naggaoと申します。≫私という存在はあってなきがごときものであることにその意識状態下では感じていたので、本日、お酒が入っていますので...(笑)失礼ながら。菩薩域に達したときの実体験からお答えします。これは解として得られるものではありません。直観であると同時に、リアルな実体験です。(でした。)そうですね。意識が拡大し、個我の殻を分離できる視点に到達すると、たとえ僅かなエゴであっても、それを羞恥として体験するようになります。それはまるで、自分という個我存在が、一粒の籾殻のようであるようにさえ、感じるものです。(でした。)私にとっては懐かしい感覚です。仏陀のメッセージ、ありがとうございました。すごい体験をお持ちなんですね。私もおっしゃる部分に共感できます。理屈やうわべだけの信念ではなく、体験に裏打ちされた部分を感じます。(2.14「神的部分をみつめることの意味」)>普遍的な変わらない良いものは良いけれど、時代は進化成長しています。今、それがカチッときてもいずれ合わなくなる日がくることもあるでしょう。また、学びっぱなしは、知識でこういうものと蓋をするそんな印象さえあります。それが、知識からだったものが、自分がしたいから、自分がこう思うからと真に腑に落とせた時、自分のものになりました際に悟るとか覚醒ということだとわたしは、感じています。あるがままをみて、それぞれが選択決断していく。自分のオリジナルな人生体験を脚色する。そこに、一人一人に内在神がいるように誰一人同じ人はいなく全ては、ありのままでそこにいるだけで素晴らしい存在と、わたしは、思っています。遠回りも人生、無難なのも人生、、全ては、自己責任の選択決断です。いいと思いますよ。好きなようにしたらいいんです(笑)。所詮は、自分と自分の宇宙との間で起こる出来事ですからね。(ミクシィから)(1.20「すべてのはじまりは『今』」>いみみさんの言葉にいつもハッとさせられます。いつも答えは自分の中からやってきて、何を過去や未来を思い悩む必要があるのだろうっ。今を大事に生きることを忘れないようにっ。と思います。ありがとうございます。すでにご自身で多くのことを知っていらっしゃるんです。ですから、ハッとするわけですね。(2.1「八幡宮とのかかわり」)>ありがとうございますヾ(^▽^)ノ 今月は、伊勢神宮、京都、静岡、名古屋と旅行に行くので、心惹かれる神社に行って来ますすごい旅ですね(笑)。楽しんできてくださいね。(2.2「環境に左右されずに生きる」)>>どんな環境であろうと自分の人生と真正面から向き合ってみて、精一杯生き切ったかどうかが大切なのではないかと私は考えています。 このことこそが、ここ地球に生まれてきた最大の目的ですね。きっと。 いつもありがとうございます(笑) 私はそう考えているんです。我々は監獄に閉じ込められているわけではないんです(笑)。>どんなに辛い事、悲しい事があっても、境遇でも、「喜んで」と受け入れられるか、と最近考えます。 いつも、自分と向き合うことだけですね。 辛いことや悲しいことは、それを経験しているときは本当につらいですし、悲しいものです。ですが、それを経験できるということは、とても貴重なことだと思うんです。体験してみないとわからないことって、ありますからね。(2.9「自分のために」)>これからも楽しみにしております 。 ありがとうございます(笑)>いつも素敵記事をありがとうございます 楽しみながら過ごして、ブログも書くに共感です。 これからも、応援してます。 写真もいつも癒されてます~ 何事も楽しむのが一番ですね~(笑)>imimiさんのブログはホッとします。賢そうなブログも愚痴た~っぷりなブログも好きなんですが(爆)、ホッとするブログが一番読んでいても気分が良いです(^O^)そうそう、何でも仕事にするとお金が絡んでくるでしょ。その時点で外を気にする。一般的な評価を気にする。そうするとだんだん楽しくなくなってノルマ化したりして(>_<)生きるには食べてかなきゃなんないから、そりゃ仕事は必要。楽しい事が仕事になれば一番だけど、仕事にしないから楽しいってそうゆうのわかります(≧∇≦) 仕事は生活がかかってますからね。みんな生きるために必死です(笑)。だから、いろんなことがありますし、正直楽しめないことだってあります。でも、ブログやへミシンクは、私は楽しみたいんですね(笑)。 Some rights reserved by matsuyuki
2012.02.15
>久しぶりにログインさせていただきました。imimiさんのブログを拝見して、ビックリしました!先ほど私も出会いについて…出会う相手によって自分のカラーが変わるのは何故だろう??と考えていたところだったんです。いろいろ考えた結果、自分の本質は変わらないけど相手によって演じ方が違うだけ?なんて結論に至った訳です…でも、"人は自分を映す鏡"という言葉を思い出して感じたのですが、相手の中の自分自身に反応してたような気もします。最近、素直な自分自身のままで接することのできる人に出会うことがあったのですが、不思議に感じたことがありました。歳も育った環境も違うのに、自分とよく似てるということ…相手の中に自分自身?を感じられるので、考えていることがわかったり同時に同じことを言ったり…??きっと、この時期にこんな人と出会うということって必然的であり、自己鍛練なのかな?とも思いました。 何はともあれ、今までいろいろな出会いはありましたが、どんな出会いにも感謝できるようなった素敵な出会いに…さらに心から感謝しました(笑)とてもポジティブで、前向きで、共感できる部分が多いです。あなたは、望ましい現実をご自分で作っていらっしゃいますし、そのことにもしかしたら気づいておられるのかもしれません。この現実世界は自分一人で作ったものではないから変えられないという見方もできますが、私は、自分と、自分が出会う人や出来事等との対峙関係において、現実は自分が実際に作っている側面があるのだと認識しています。どんな出会いにも感謝できるようになったというコメントは、とても共感できますし、素晴らしいなと思います。>月讀尊との意識会話、拝見させていただきました。どう繋げはよいのか…思いつかなかったのですが、瞑想のときに、月と自分を繋ぐイメージをつくってみようと思います。とても参考になりました。月讀尊に初めて会った時、かぐや姫かと思いました(笑)。まあそれはさておき(笑)、月は、非常に高次元の領域とつながっていまして、地球、月、太陽は、高次元でネットワーク構造とでもいうべき共通の意識構造が形成されています。そのおおもとは、「ひとつなるもの」なんでしょうけれども、月からネットワーク構造に入っていくのも、ひとつのやり方ですね。(1.28「現実とは『選択した結果』」)>パラレル・ワールドを見てしまったんですね・・・。「破滅的な自然災害が起き、一部の選ばれた人たちは宇宙船で助け出される」というパターンの世界だと思います。でも、私はこのシナリオ好きになれないんですね。自分だけが救われて、何が幸せなの?っていう・・・。「日本がとことん破壊されてから弥勒の世が訪れる」という形のアセンションを信じている信念体系の人たちもいます。私はこれも選ぶことができません。もっと穏やかに楽しくシフトするパラレルな世界も存在するはずだと思っているからです。日本においては3・11以上の苦難の必要性を感じないんです。未来とは本当に私たちの選択ですね^^いろんな意見が散見される中で、私はどちらかというと穏やかな近未来を見ています(笑)。パラレルワールドについては、無限にその可能性があってもそれらすべてに我々が直面するわけではなく、どうやら可能性の高いものとそうではないものとがあるみたいです。といっても、パラレルワールドについてはバシャールの影響がとても強くて、実際に並行次元なるものが存在していると考えている人も多いかもしれませんが、むしろそれよりも、瞬間瞬間に現実世界を創造し続けているととらえるほうが真実味があると私は考えています。(2.2「環境に左右されずに生きる」)>お気付きになられたんですね。災害予想は意味を成さないと。自分を信頼して、ありのままをみる。良し悪しや善悪、理屈さえ手放し何を伝えてるんだろうと観察していく。モノや人、形に未来や過去さえフォーカスせず本質をみていく。すべては、別れは辛くとも失うものは無く形を変えてもっています。人は、乗り越えられない試練はないとわたしは、思ってます。災害予想に意味がないわけではなく、それよりももっと大切なことに時代がシフトしつつあることに気づいたんです。試練と思うと試練に実際になってしまいます。ですが、本当は試練なんてないんです。土砂降りの雨は試練でしょうか。誰もそんな風には考えないと思います。あらゆる現象は、ただそうあるべくしてあるというのが一つの真実であって、それ以上でもそれ以下でもないわけです。命がまだあること、そこから見れば、すべては貴重な体験ですよ。>『何があっても大丈夫』なんだかとっても心にズシンっときました。・・・それにしてもお花の写真、とっても綺麗ですね。少なくとも、私のハートはそう告げています(笑)。花はとてもいいですね。あんなに美しいものがあるとは、驚きです(笑)。(2.7「循環型の社会」)>今年になって素晴らしい記事が多いですが、いいねボタンが無くて気軽にその時の気持ちを表現できないのがやや残念ですね。さすがに「心に沁みる記事でした」と一言書くためだけにコメント欄使うのも勿体ないですし。ミクシィはその点便利ですよね(笑)。一言コメントも大いに歓迎ですよ。ただ、返事をするほうとしては、何を返事していいのか困ることがありますが・・・(笑)>不思議といえば、昔読んだ宇宙人の本では「原始生活を続ける民族や日本のような科学的な生活を続ける民族など様々な文明が同時に混在する地球は珍しい」というのを思い出しました。原発で環境を破壊してしまった現在をふりかえると、現在の人間のレベルには負いきれない科学や富がどこかの集団からもたらされているように私も思えます。社会の仕組みの一番最後に登場してきたこどもは既存の現実を当たり前のように享受してますが問題に気づいたときに立ち向かうことが出来ないかもしれません。現実は選択した結果なのですが個人の宇宙を充足させていくことはいかようにも進めますが、マクロ的な文明となると選択以外の影響もあるように思えます。その集団が関与を失敗した責任を取って人類を宇宙船に救済するというシナリオも十分ありうると思えるようになりました。人類はいろんな失敗を重ねてきましたが(笑)、それもトータルな側面でみれば必要だった(必要だ)ということなのかもしれませんね。これからも様々なことが起きてくるのでしょうし、いろんな失敗を重ねていくんだろうと思います。ですが、その中でも、人類はいろんな経験を積み重ねていき、いつの時点かはわかりませんけれども、気づいた時には、他の文明を助けるぐらいにまで成長している。多次元的にはそんな印象が私にはあるんです。でもそれまでは、他の文明は私達に直接的な関与はしないでしょうし、出来ないと思います。
2012.02.15
>はじめまして。記事に共感しました。内面に目を向ける、外側には答えは無いと言う意味にわたしは、解釈しました(⌒▽⌒) 直感的に理解していただければ幸いですが、我々とは「仮の」姿なんですね。まるでそれは、さなぎから蝶へと変身する最中のようなものです。そのさなぎとしての我々の生きる姿を、「鏡の世界」という表現にしたためた次第です。>人が悪く思えたら要注意ですね。私は何かを悪だと思うときは、100%自分が悪(の想念に)になっていると思っています。(しかしだからといってそれが無くなるわけではないですが泣)そこに「気づいている」ことが大事ですよね。なかなか難しいですが。「その時はそれを味わう」というのが必要かなと。そういう部分は確かにありますね。なにかに引っ掛かる時には、自分の中に引っ掛かる要素があったりしますからね。>はじめまして。いつも記事を楽しみにしてます。>つまり、「今」に生きて、自分自身の存在を噛みしめていく方法です。私もそうおもいました。鏡の世界って何なのだろうと考えてみると、私は、「自我のフィルター(信念)を通してみる世界」なのかなと思いました。自我のフィルターを通さずにありのままを見るには「今」に生きるですよね。いつも素敵な記事有難うございます。確かに私達は自我のフィルターを通して生きていますね。自我が無くなってしまうと生きられなくなってしまいます。かといって、自我をとことん追求すると、自我同士の衝突だらけになります(笑)。その辺が難しいところではありますが、お互いの自我を認めつつ調和した世界に生きる第三の道も、もしかしたらあるのかもしれませんね。(1.20「すべてのはじまりは『今』」)>おっしゃる意味を心で受け取りました。心(内在神)と直感は、辿りつくべき場所は知ってると。今、ここを精一杯生きる大切さ、伝わりましたよ。現実から逃げても、結局は堂々巡りをするだけです。ですから、今自分が直面している現実から目をそらさないことが、とても大切になってきます。>はじめまして。imimiさんの様に特殊技能のある方が「今を生きなさい」的な発言をされることについて意見させてください。鏡の話もこの話も真実ですよね。私はこの話好きです。でも、常人にはわからないことを伝えるのは、それぞれの好奇心を満たす上でよいとしても、結局そこに集う人たちは「今を生きる」とは最も無縁なのではないですか。こうしたことにはその矛盾を孕むのがあなた方にはわかっているのに、なんでimimiさんやあなたのような方たちはこんなことをされているのですか(やめろと言ってるのではなく)。今を生きるところから一番遠い地点に連れて行って、さあ今を生きなさい、は酷なのでは?と思うのです。あなたに一番縁のある人は、ここに書いてあるような色々な(誰それがどうだとか、宇宙がどうだとか、ある意味どうでもいいこと)ことも知らずに今を生きている人(今を生きるなどという言葉も知らずに)なんだろうと思うのですが、imimiさんのこうしたことをなさっている目的は何なのですか。何かが成就する見込みがあるのでしょうか。。私はいつもそれが不思議なのです。いつか時間のある時にでも教えてください。imimiさんにとって、失礼な書き方になっていたらごめんなさい。。。いや、とても言いたいことはよくわかりますよ(笑)。私も一応、長年社会生活を送っている人間ですからね(笑)。何か「意図」があるんじゃないかとか、それをする「目的」は何なのだろうとか、そういったことは、普通に社会生活をする中で我々は身につけていくものですからね。でもね、それとは別のところに私の「意図」や「目的」があるんです(笑)。簡単に言いますと、私が今ブログを書いているのは、へミシンクで得た気づきをより多くの人と共有できたらいいなという思いからです。特に最近ではへミシンクネタは減りましたが(リトリーバルはゼロです(笑)、現在の私は、へミシンクで体験を求めるよりも完全に現実世界に思いがシフトしていて、現実世界の中で様々な気づきを得るほうが、格段に重要であるという認識に至っています。そういった現実世界での気づきをなぜ世の中に発信するのかというと、最近私は、他人はより広い意味での「自分」であることに気づき始めたからです。つまり、「自分」へのメッセージなわけです。とりわけ、私のブログに来られる方はへミシンクをされておられる(おられた)方が多いでしょうから、同じようなことをしている中で得たお互いの気づきを、記事やコメント等のやりとりを通して共有できたら、お互いに進化・向上していけるのではないかなと思っています。そういうわけで、私は今ここにフォーカスすることが重要だという思いを発信しているわけです。>真理を探究されたimiminさんだからこその視点。神は、自分の中に居ると。全ての人の中にいると、伝えたいと腑に落とせましたよ。わたしは、大好きです。わたしのような考え方をする貴方が大好きです。最も、わたしは、リトリーバルは出来ませんがわたしの視点となりますが、考え方が価値観が似ていらっしゃるのでとてもすんなり聞けました。(不愉快でしたらごめんなさい)我々すべての人の中に内在神=我神、真我はいます。大いなる自分こそが。無意識こそが神だから。だからこそ、無意識が何より清らかだと理解できると現象は、シンクロニティ(共時性)が起きると思いは叶うと理解しております。摂理違反は、カルマとなり全て自己責任として現象となり表れ様々な形で出来事を引き寄せると。気付く為に必要な事であると。ブログ、見守らせてくださいね。imiminさんの行く末を見させてください。私の認識では、神というのも人間が勝手に作り出したフィクションだということです。本当は神なんていなくて、いるのは「自分」だけなんだと。そういった視点にもしあなたが立てるとしたら、それは素晴らしいことですね。>お久しぶりです^^お時間がありましたら前に書いていたようにM◯◯がくる確率、火山噴火が起こる確率…みたいなやつをまた今の状況で書けないでしょうか(´;ω;`)ご自分でやってみてください(笑)。(1.23「出会いに感謝」)>自分にとって心地よくない人とかかわらないといけないことに疲れてしまいます。自分にとって心地よくない人とのかかわりで成長できるとは思います。でも、そもそも地球で過ごす人生にどのような意味があるのだろうかと最近よく思います。成長?もしかして何の意味もなかったりするのでしょうか?imimiさんはどう考えられていますか? 自分にとって心地よくない人とかかわらないといけないという現実を作り出している点に、意味があります。いくら言葉を尽くしても伝わらない部分がありますし、さらなる誤解を招くかもしれませんが、一応私の考えを言わせていただきますと、人生に無駄なことはありません。何を選択するのも自由です。好きなように生きたらいいんです。いろんなしがらみがあるように見えますが、本当はしがらみなんてないんです。それらに縛られるという選択を自分自身でしているだけです。人間、本当に変わろうと思ったら、すぐに変われます。自分自身の生活環境は、自分で決めていけます。自分にとって望ましいと思える人生を、まずは意図なさってみてはいかがでしょうか。人間、自分が変わろうと思わない限り、変わらない自分や環境を永遠と選択していくだけです。どんな人生に直面して、そこから何を学ぶのかは、まさに自分次第です。地球での人生に意義を見出すのも自由、見出さないのも自由です。成長するのも自由、しないのも自由です。
2012.02.15
(1.16「新生の地球へ」)>今回も深謀なお話をありがとうございます。今朝はビートルズの「アクロスザユニバース」の「Nothing's gonna change my world」(何者も僕の世界を変えることはできない)フレーズが思い出されました。かつて虚空蔵55さんについて記述がありましたが、氏の最近の掲示板のコメントに「外に何かを求めるのではなくあなた自身の中にあなたが求めるものを見出してください。」いったことがかかれてました。imimiさんのお話とおなじようでした。高次元のみなさんはキャンペーン活動してるみたいですね。ただいまキャンペーン中です(笑)。でも、やはり行きつくところというのは、みなさん同じようなところなのではないでしょうか。よく高次から言われることの一つに、真実(真理)は無数にあるということです。でも、たとえば球体なんかを想像してもらうとお分かりいただけるかと思うのですが、球体のどの表面からでも、球体の中心部分にはたどり着けます。最終的にはワンネスに至ると思われます。そのための有効な方法が、自分自身を見つめるということだと私は考えています。方法は人それぞれだと思うのですが、できることなら最短距離で行きたいですよね。「私、方向音痴なんです~」という方は、なおさらです(笑)。(1.18「鏡の世界」)>ガイドに会うことが一種の分離であるとのこと。ガイドが、もともと自分の一部であるとするならば、別の存在として会うことは、確かに分離なのですね。とても分かりやすいです。頼りすぎれば自己の分離を強めるし、信頼していなければガイダンスに気づくこともないし。自分が感じるすべてを、過大にも過小にもすることなく、受け取り、味わい、前へ進んでゆくこと、なんですね。ガイドと会うというのは、ひとつの方法論としては有効なんですが、そこに落とし穴が潜んでいるなんて、誰も思わないですよね。でも、その落とし穴というのは、相対的なものであって、絶対的にあるものではないわけです。簡単に言うと、人によってある場合もありますし、ない場合もあります。ですから、ちょっと立ち止まって見て、自分自身を振り返ってみるといったことが非常に有効だったりするわけですね。>いつも貴重なメッセージをありがとうございます!!鏡の世界…ガイドに会おうとすることが既に分離…、しみじみと染み入るお話しでした。ガイドと会うという方法論はすばらしいんですよ。そこは誤解なさらないでくださいね。大切なことは、自分と他人という対峙(たいじ)関係とでもいうべき分離構造でとまってしまっていいのかという問題なんです。結局はすべて「自分」なのではないかと。その辺のところを、私を含めてもう一度考えてみませんかという問題提起でした。>仰る事に共感できます。私は、数年前から、頭上に観えない何かが…私を無言で観ている…と言う、上手く言葉では表現出来ない感覚がまとわりつく様になりました。声、とかじゃないんです。ただ、ただただ、私と言う存在を、見つめている、観察している…たとえそれが、私が悪意をもって行動しようと、悲劇に見舞われ様と、改心する為に苦しくてももがきながら精進すべく行動しようと、迷いながら模索の中に居ようと、涙に明け暮れる日が続こうと、異次元的な一面の空模様に魅せられて幸せを感じていようと、瓦礫の中の誰も目に止める事もない小さな雑草の花に心を動かされている時であろうと、他人の真心に芯から感謝して涙が流れてこようと…、そんな私の頭上で、ニュートラルに無言で私を観察している様な存在を、感じるようになったんです。もう一人の自分、である様な…それがどう言う状況かは判りませんが、何となく、導かれているように感じるんです。また、心底涙に暮れたり落ち込んでしまっている時、無言でありながら、前進できる勇気をその存在からもらっている気が、するのです。明らかに自分自身がネガティブな反応で行動出来ない状況に見舞われた時、ふっと、背中を押してくれるような状況がタイミングよくやってきたりして…単なる偶然かもしれませんが…その時、「恐怖なんて幻想…前進するんだ」と言う気になり、理屈なくして体を動かす事ができます。夫が息を引き取る状況の時は、呆然としている私と言う存在が在りながら、そのもう一人の自分の存在が黙して私を観察する感覚を特に濃く感じていました。そして今…一日一日を、自分と言う人間を魂が学ぶべき事を地道に学んで一生を終える時に備えようと言う意識が自然と湧いてきて、現実をしっかりと生きようと私なりに精進していますが、人間の私は、葛藤を感じる事が毎日です。鏡の世界…。ここ数年、そこからどう学んでいくか、自分を見つめる日々が続いています。清々しく共感し、思わずコメントしたくなりました。素晴らしいコメント、ありがとうございます。あなたは、きちんと自分の立ち位置が分かっている人なんだなと感じます。ご自身を客観的に見ることができているんでしょうね。素晴らしいことだと思います。まるで、鏡の世界で生きていることを自覚され、さあこれから本当の世界で思う存分生きるぞと準備されていらっしゃるかのようですね。
2012.02.15

内在する神的部分を深く見つめていきますと、キリスト意識に到達します。古代においては、地球上のいたるところで太陽信仰としての崇拝がありましたが、同一の根源神に由来すると感じます。いわゆるキリスト意識がそれにあたると思われます。かつて、ルドルフ・シュタイナーは、キリストとブッダを同一の根源神が宿った存在であるとして分析していました。すなわち、イエス・キリストに対して、ブッダ・キリストと称して、同一のエネルギーの根源すなわちキリスト意識が両者に宿っていたと考えていました。私自身このことに異論はありませんが、自分自身でイエス・キリストと称された存在とブッダと称された存在を深く見つめてみると、両者の個性を持った人間らしさが浮かんできます。つまり、二人とも、人間味のない単なるエネルギー存在として感じられるのではなく、人間味があるのです。もっとも、私が両者とコンタクトを盛んに取っていた時期には違いがあり、イエスのほうへのコンタクトは、へミシンクでの探索を始めて初期の頃に盛んに行っていました。ブッダも初期にコンタクトをとった記憶がありますが、ブッダのほうは割と最近でも(昨日の記事で書いたように)コンタクトをとることがあります。ですが、最近では、多くの方が考えておられるように、ブッダを他人と見るのでなく、ブッダを自分と見て自分へのコンタクトを図るといった心境となっています。これは、同じブッダにアクセスしているようでも、全く違った状況を生んできます。他人と見た場合には、自分自身の外側にいるブッダにアクセスします。ですが、自分と見た場合には、自分の中にいる別側面のブッダにアクセスします。得られる情報が仮に同じだとしても、根本的な状況が異なっているわけです。自分の外側に意識が向いた場合、ブッダを崇(あが)める方向に行く可能性もあります。それは、私のブログの初期の頃の高次の存在とのアクセスを読んでもらえばわかると思います。そこには、自分よりもすぐれた者から何かを教えていただくという図式が成り立っていきます。これを現実世界で発展させていけば、やがては宗教が成立していきます。ところが、ブッダを自分自身の「中に」ある存在としてみますと、どこまでいってもブッダは自分自身です。ただ、ちっぽけな自分という存在を、広い意味での「自分」にまで拡張させている点にご注意ください。人間はどうしても狭い意味での自分中心に物事を見てしまいますから、そういった視点で上の話を読むと誤解を招くということを申し上げています。人間というのは不思議なもので、ちっぽけな自分を捨てた時に、本当の意味での「自分」が見えてくることがあります。それが我々と高次の存在との関係でもあります。両者とも「自分」なわけです。ただ、「自分」へのアクセスもバランスを失すると方向性を見失っていきます。現実世界で生きること、これなくして自分自身の成長はありません。我々は、分離しているように「見えても」、いついかなる時もより広い意味での「自分」と一体不可分なのだ、このことを自覚した時、私達は単に自分が直面している現実世界を生きればよい、こういうことになってきます。なぜならそれは、自分であり、かつ「自分」の生きざまなのですから。我々は、広い意味での「自分」という叡智から知識をフィードバックすることもできますが、狭い意味での自分の体験が全体としての「自分」の進化を生んでいくという関係のもとで生きています。そのための生きる知恵の一つが、自分自身に素直に生きることであったり、命を与えられたことに対する感謝であったり、土地や出会う人を癒すことであったりします。そういった自然な生き方によって、いわゆるガイドとの直感的なつながりや叡智も自然とインスピレーションとして受け取っていけるようになり、自分自身が直面している生活においてよりよい方向性を生んでいきます。へミシンクをするかどうか、瞑想をするかどうか、ヨガをするかどうか、等々、そういったこと「だけに」固執していると、その先が見えてこなくなります。より広い視点から見ますと、どういった視点に立てば全体としての進化を生んでいくのかについて、単なるテクニックではない「知恵」が働きます。ですから、何をしても、しなくても、一向に関係なく、全体として自分自身としっかり向き合って生きることが何より大切になってきます。内在する神的部分を見つめるとは、結局はそういうことなのではないかなと思います。 Some rights reserved by scubadive67
2012.02.14

ことばにならないかすかな印象をことばに変換している点があることをご理解ください。ことばそのものに特別な意味はありません。 感覚的に感じ取ってみてください。私が再びバシャールとコンタクトを取ろうとすると、どこからか「自分自身を見つめなさい。」という印象が返ってきました。そこで私は、自分自身を見つめ始めました。すると、見えてきたのは、4,5歳くらいである自分自身のすがたです。自分とは、なんと幼いのかと思いました。しばらく私はずっと自分自身の内側に意識を向けていました。光を求めて何かを探し続けていたのです。ふと自分自身の姿を振り返りました。すると、自分が菩薩の化身のような高貴に満ちた姿をしているではありませんか。今の自分よりもはるかに意識が拡大した状態です。でも、次の瞬間、人間の姿が現れました。その時思いました。そうか、菩薩も人間としての体験を求めて、たくさん今ここに誕生しているのだなと。本来我々は、菩薩と呼ばれる高貴な存在と一体なわけです。我々が今ここに存在していることそれ自体が、菩薩として存在して体験を積んでいる状態なのです。体験とはそれぐらい貴重なものだという話です。でも私は、私という存在はあってなきがごときものであることにその意識状態下では感じていたので、そのことの意味について深く探求したいと思い始めました。それについて深い回答を得られる存在は・・・私には、自分自身の別側面であるブッダに回答を求めるのが適切だとなぜか思いました。ずっとブッダにフォーカスしていきますと、光り輝く中に人らしき姿が現れてきました。いわゆる仏像とは似ても似つかぬ姿です。私には表情しか見えなかったんですが、私には日本人に見えました。インド系の顔ではなかったです。30代くらいの、悟りに到達した直後を思わせる若い姿でした。ブッダはいまどこにいるのかを聞いてみました。すると、ブッダは今、8次元~9次元に存在しているように感じられてきました。ですが、ブッダ自身にその答えを求めると、こんな感じです。ブッダは、いかなる領域にも存在している。様々なところに、空気のように溶け込んでいる、のだとか。ブッダは今、何をしているのかと聞いてみると、こんな印象が返ってきました。「あなたとともに生きている。」ブッダによれば、ブッダはいかなるところにもあまねく存在していますから、当然、一人一人の人間の中にも存在しているわけです。それで、私達が生きているときに、同時にブッダも私達を通して生きている、言葉にするとこんな感じです。印象としては、人間だけではなく、生きと生けるものすべてを通して、ブッダは生きている、そんな印象がありました。あと、次元の話が先ほどでましたが、私はバシャールから言われたことが気になっていました。それは、今の人間が7次元にいる存在までしかコンタクトがとれないということです。それに関する印象をブッダに投げかけてみると、私はその時、確かに7次元においてブッダの意識と交流していたのですが、どうやらそれは、私の高次が間に介在して、さらなるう高次元の領域と交流を図っているような状態だったみたいです。ブッダは言います。7次元とは、はじまりにすぎないと。次元というのは、そこからずっとかなたまで続いているのだ、そんな印象が返ってきました。ブッダはあるがままに生きることが大切だと言います。でも、それはいったどういう意味なのか?ブッダは言います。あるがままに生きるとは、あなたそのものであるということだと。あなたそのものであることが、あるがままであることなのだと。あるがままであること=生命そのものといってもいいでしょう。いかなる脚色をも必要としない、それ自体の姿です。また、求めないことだとも言われました。何かを求めているうちは、あるがままではありません。あるがままであることとは、求めないことなのだと。ブッダに、あなたが地球で生きていた当時の教えについての印象を投げかけてみると、こんな印象が自分自身の中心から湧き起こってきました。我々=ブッダ自身が投げかけてきた印象と言い換えてもいいです。「・・・そんなちっぽけなことはどうでもいい。真理は我々自身の中にあり、これからは、我々一人ひとりがブッダとして生きる時代なのだから。」some rights reserved by MShades
2012.02.13

夢物語と思って聞いてください。バシャールとの対話からです。バシャールは惑星エササニから来たと言われていますが、それ以外の情報というのはほとんど知られていません。なので、バシャール自身のことについて少し聞いてみることにしました。まず、なぜバシャールが今の地球人類との接触を始めるようになったのか、そのあたりからです。バシャールによれば、バシャールはその昔、バシャールが惑星エササニと呼ぶ星で平和に暮らしていました。バシャールは、今の地球人とは直接的な関係はありません。ですが、エネルギー的に親戚同士なのです。惑星エササニが陽の星だとすれば、地球は陰の星です。陰だけではバランスをとることが出来ないので、陽の星も必要だった、こういうことみたいです。そして、エネルギー的なルーツは一緒なのですが、当初は全くこの二つの星は交流がなかったんです。ですが、バシャールは、平和な生活をしている中で、何か物足りなさを感じました。バシャールは今、第4密度から第5密度へと進化しつつあると言われていますが、それでも、神的部分との接触がバシャール自身の認識では希薄なのだとか。ですが、バシャールによれば、地球人にはそれがあるのだと言います。バシャールは、地球人は7次元までの存在との神的交流があるのだと言います。ですから、そういった神的部分との交流を図るべく、バシャールは意図的に地球圏にやってきて、地球人に自らが知っている知識を教え始めたんです。これが、バシャールが地球とコンタクトを取り始めたきっかけみたいです。そうはいっても、多くの地球人にとって、神的部分との交流はほとんど断たれた状態です。それは、我々自身にも、世間の様子を見ればわかることですよね。ですが、バシャールによれば、それでも、ごく一部であっても、神的部分との交流のできる人類がいて、そういった存在を通して神的部分を垣間見ることができるのだと言います。不思議ですよね?我々地球人にそういった力が内在しているなんて。具体的に著名な人物の中で名前を告げられましたが、誤解を招くので公開は控えます。ですが、名前を聞けば、あ~なるほど、あの人ならばと皆さん納得するはずです。ですが、著名人でなくても、「誰でも」そういった神的部分との交流をとることができる、そういった特殊な環境に置かれているのが、我々地球人なわけです。私は、バシャールが表面的に言っている、ワクワクすればすべてうまくいく、みたいな話は誤解を招くのではないかという話をしました。ワクワクするというのは、結果であり状態であって、行為ではないわけです。ですから、「ワクワクすれば・・・となる」という風に考えると、誤解を招く恐れがあります。ちょうどそれは、アセンション(個々人の意識変化)が結果・状態であって、行為ではないのと一緒で。結果的に個々人の意識変化によってアセンションしたという話にはなり得ても、「アセンションしよう!」という話にはならないわけです。この微妙な話が伝わるといいんですが。バシャールのワクワク論も、それと似たところがあります。ですが、バシャールによれば、それも一つのきっかけになるのだと言います。「それはちょうど、君にとってへミシンクが意識変化のきっかけになったのと同様なのだよ。」と。こういうと、へミシンクをしさえすれば意識改革ができるのだという風にとらえられる恐れがあるので、またさらなる誤解を招く恐れがあるのですが。あと、最近、宇宙人に会おうという試みがなされているらしいですが(笑)、物質的肉体をもったままそういったことが可能なのかについても聞いてみると、そういったことはないだろうということでした。ごくまれに、すでに宇宙人とコンタクトをとっている人類もいるが、それは意識の上であって、肉体を持ったままではないわけです。現に、私も、宇宙船に乗ろうと思えば乗れるのですが、それは物質的肉体を伴った状態ではないです。何度も何度も変性意識下で肉体や霊体の調整を意識的にしたうえで、ようやく高次元のレベル、私の感覚でいうと、フォーカス35あたりで宇宙船に乗ることができます。私の場合、明確に宇宙船に乗ったという感覚が得られるのは、フォーカス35あたりからです。宇宙船の中というのは、静かで、とても乗り物の中とは思えないほどです。それでM87(だったかな?)の星系に連れて行ってもらったことがあります。こういった話をすると、現実離れしているのでよくないなと思い、普段はあまりしませんが。まあそうはいっても、ブログの初期の頃はもっととんでもない話をしていたので、このくらい普通ですよね?(笑)ちょっと話がずれるのですが、私が多次元的に見たところでは、ブッダは生前スピリチュアルな話を一切しなかったという話をしたことがありました。どんな話をしていたのかというと、人間としての生き方みたいなものを延々と説いていたわけです。私のブログは、忙しいときにほんの少しの時間を見つけて書いた記事は、そういった人間的な話になるのですが、少し時間に余裕ができた時に書く記事は、とんでもない話になりがちです(笑)。でも、客観的に見てみますと、現象面の中に埋没している真っ只中に、我々のブッダとしての側面を見て取ることができる、このことだけは確かです。それは、ブッダが当時、何を私達に説いたのかと感応してみるとわかります。あたりまえに生きること、この中に最も神秘的なことがあります。それは、本人が自覚していても、していなくてもです。神的な部分というのは、あたりまえの日常生活の中にあります。Some rights reserved by dbgg1979
2012.02.10

最近ブログを書く時は、いつも読者の皆様のことが念頭にあって(本当ですよ(笑))、少しでも楽しんでいただければと思い、ときどき「夢物語」を織り交ぜつつ(笑)、自分の好きなことを書いています。いつも大切にしているのは、楽しむことです。最近ではへミシンクをすることはほとんどなくなりました。というか、時間が単になかったんです。あっても疲れを癒すためにする感じです。基本的に寝てすっきりします(笑)。寝てすっきりするには最高のツールですよ!(笑)話は変わりますが(笑)、この前オフ会に参加した際に、ある方から、「imimiさんはリーディングをする時にへミシンクをするんですか?」と聞かれました。へミシンクは必ずします。これは私にとっては一種のおまじないみたいなものなんです。これをすれば必ずうまくいくみたいな。あと、最近C1での忙しさもあって、なかなか変性意識に入りずらくなっているという事情もあったりします。なので、たとえばですが、バシャールなんかとつながる際にも、私は念入りに準備をします。2~3回CDを聞いてクリックアウトして、徐々に精神・肉体・霊体を高次意識に同調させていきます。今でも、リーディング等で高次からメッセージをもらう際には、そのくらい徹底的に準備をします。でも、楽しんでやってますよ。好きだからこそ長続きしますし、ブログを書くと記事や写真で自分も癒されます(笑)。誰かのためになんてやってない気がします。でも、それができるのも、私はブログを書くことやへミシンクをすることを仕事にしてこなかったからなのかもしれないと思ったりもします。だから、気楽なもんですよ(笑)。でも、情報を降ろす際には、誠実に降ろしてきます。きちんと準備をして、念入りに。基本的に性格は大雑把なんですが(笑)。私はブログを書いてきてよかったと思っています。ブログを通して多くの人と知り合うことができましたし、オフ会でも多くの方と実際お会いしてお互い意見交流し、自分自身また成長できましたから。そういうわけで、これからもどんどん好き放題書いていきますよ(笑)。Some rights reserved by LenDog64
2012.02.08

夢物語と思って読んでください。人類の文明でよく言われるのは、レムリアやアトランティスではないでしょうか。ですが、それよりも古い(と言っていいのかどうか微妙なのですが)文明というのがどうやらあったみたいなのです。高次によれば、「釈迦が生まれるよりもはるかに古い時代だ。」と言います。もちろんそんなことはわかりきった話であり(レムリアやアトランティスでさえそのはるかに前ですから)、ちょっとしたジョークが混じっているのですが(笑)、私が感応したところでは、年代の特定は不可能なようです。言葉で表すとこんな感じです。レムリアも、アトランティスも、第3の文明も、「すべて同時に並行的に存在している」。その文明は、この地球上での文明なのかというと、どうやらそうではないみたいです。ですが、私達の地球とのかかわりが深いと言いますか、ちょっと言葉で表しにくい状況なのですが、我々の常識を超えたところで「第3の地球」とでも言うべきものが存在していて(今でもしている)、そこでの話だと思ってください。当初、そこでの文明は、我々に割と近い感じの文明を持っていたと感じます。つまり、普段の暮らしぶりがまだ我々にも理解できると言いますか、なじみがあるといいますか。人類なのですが、我々とは異なった組成を持っているようです。似ているのですが、同じではないとでも言いますか。全人口は、250~350万人程度です。今の我々の人口と比べて圧倒的に少ないです。争いはなく、平和で満ち足りた生活を人々は送っているようです。我々の文明との最も大きな違いは、エネルギーの使い方にあります。我々の文明を一言で「エネルギー消費型」であるとすると、その文明ではエネルギー循環型」という表現がぴったりです。つまり、エネルギーは消費するものではなく、生みだすものなのです。生みだして、それを再利用していきます。我々の現代からすると、究極のエコとでもいいますか、そんな未来的なエコ社会が実現されています。高次が私にわかりやすく伝えてきたところによれば、我々人類が自動車のプリウスを生みだした時の発想に似ているのだと言います。つまり、エネルギーは循環させて、還元させていくものである。そこの発想部分が、その文明での発想によく似ているのだというのです。以前、プレアデスとシリウスの叡智がプリウスをもたらしたという話をしたことがありましたが、その文明はプレアデスやシリウスとは別の叡智を持った集団が関与していたみたいです。あくまでも感覚的に言いますと、シリウスやプレアデスやオリオンが人類に関与してきたのは、ごく最近なのです。感覚的にと言ったのは、我々が時系列抜きには考えられない思考形態を持っているからで、本当は時系列的には計れない部分があります。我々が人類だと考えている存在に力を課しているのは、もっと他にもかつていた(今現在も同時進行ですから、今現在もいる)ということなんです。では、その文明において、エネルギーはどうやって生み出していたのでしょうか。私が直感的に把握したところでは、こんな感じです。「無から有を生み出す。」「空間からエネルギーを取り出す。」「非物質から物質を生みだす。」そうやって我々が普段利用しているようなエネルギーを生みだしていたというのです。先ほど、この文明は、時代の特定は不可能であり、あえて表現するとすれば、他の文明と同時に存在しているのだと言いました。なので、ちょっとわかりにくいのですが、この文明が誕生して以来、この文明独自の進化というものを遂げていき、私の感応では、この文明は文明発生当時からみてさらなる進化を遂げていると感じます。どんな進化かと言いますと、我々に近い感覚で言いますと、我々のような物質的社会を持たない生活をするようになったとでもいいましょうか、そんな印象があります。言い方を変えると、我々のような共同体や国、文明を持たない生活とでも言いましょうか。別の表現をすれば、個別意識から集合意識レベルでの生活を重視するようになっているとでも言いましょうか。 今回はバシャールとアクセスしていろんなことを聞いてきたのですが、バシャールはそういった進化の方向性に向かいつつあるのだと言います。バシャールは我々とは異なった感覚や価値観を持っていて、今回は我々が普通だと感じているところとの違いなんかを今回は共有しました。我々は、自分にはないものを得ようとします。それが行き過ぎれば、力づくでも奪い取ろうとします。ですが、バシャールの世界は、すべてが満ち足りていて、そんなことをなぜするのか分からないという印象があります。バシャールが言うには、今の地球人(我々のことです)は、そうやってない状態からある状態への変化や反応を得ることに価値を見出しているのではないかと。我々にはそういった発想は全くないわけですが、違う文明の存在から見れば、我々というのはかなり奇妙に映っているようです。ですが、興味深かったのは、バシャールは我々が選んだ選択を劣っているとは見ていないということです。それは単なる選択の問題であり、進化の一過程なのだ、そういったニュアンスが、言葉ではない直感として、雰囲気として、伝わってきました。バシャールによれば、今後、今の人類は、個別意識から集合意識への変化を求めない可能性もあると言います。おそらくですが、そういったさらなる進化を求める人類と、求めない人類とに二分される、そういうことが言いたいのではないかなと思います。 Some rights reserved by Jean-Sébastien Roy
2012.02.07

今の自然環境の様々な変化について不安を感じている方もおられるかもしれません。地震や火山の噴火、その他の自然災害に関してです。そういったことの多次元的な意味を私自身深く検証していたこともありました。そしてそこで得た気づきを「部分は全体」というワンネスの観点から、ブログをという公共媒体を使って多数の皆さまとシェアリングしていた時期もありました。ですが、ある時期からそれはやめました。今後私とお会いした方々との会話の中で、2012年の状況全般について、あるいは各地で予想される地震や火山の噴火さらには福島での状況について、「お互いに」意見交換し合うことはあったとしても、公の場で「現時点での状況について」と言った形で以前のように自然変化の生じる確率を述べることは、おそらく今後ないと思います。それはとりもなおさず私自身が変わったことと、それにともない私を取り巻く環境が変わったことが大きいように思います。もうそんなことをしている時代ではないと思うのです。自然環境の変化の確率を出すよりも、自分自身を見つめていくことのほうが、これからの時代にとってはより一層重要だと思われるからです。2012年に入りもう弥勒の世の出発点に立っていますから。また、環境の変化で私達の人生の価値が決まってしまうわけではなく、人生の価値を決めるのは、私達が人生とどう向き合っていくかです。どんな環境であろうと自分の人生と真正面から向き合ってみて、精一杯生き切ったかどうかが大切なのではないかと私は考えています。つらいことや苦しいことがあるでしょうけれども、それはそれで受け入れて、貴重な体験として噛みしめてみることも大切な気がします。つまり、貴重な「今」の体験から目をそらさずに、喜びや楽しみ、感動、そして悲しみ、怒り、それらすべての体験を人間として思う存分噛みしめてみるということです。何があっても大丈夫です。我々は「永遠の今」に生きる存在なのですから。Some rights reserved by TANAKA Juuyoh (田中十洋)
2012.02.02

去年から私は八幡宮に行くことが多くなりました。それは、行く先々で八幡宮が出現する機会が多くなったからです。ただそれだけなんですけれども。最近、仕事帰りに立ち寄った八幡宮がありました。そこは、見るからに「参拝してね~」という雰囲気を醸し出していたんです(笑)。まず惹かれたのは、その八幡宮の立つ場所です。実際に中に入ってみると、二つ目の鳥居をくぐり抜けると、清浄さが強まった感じがしました。本殿で手にマカバを作りながら光の柱をいつものように建てていると、龍が見えてきました。私にはそれが何の象徴であるのかすぐにわかりました。地球意識です。驚いたのは、境内の敷地内にあった稲荷系の神社を参拝した時のことです。そこは、境内でありながら他の場所とは別次元という雰囲気を醸し出していました。実際に本殿で光の柱を建ててみますと、ハイハート(ハートとのどの間にあるチャクラ。多次元領域へのゲート。)とものすごく共鳴してきます。この強烈なつながり方は、以前訪れた別の八幡宮内にあった稲荷系神社でも感じました。同じような強くてしかもハイハートに共鳴する高次元のエネルギーでした。今回感じたのは、もしかして私は、稲荷系神社の神様と深いかかわりがあるのかな?ということでした。詳しく調べてはいないので、まだよくわからないんです。そういえば、正月に宇佐神宮に行きましたが、エネルギー的にはいまひとつでした。多くの参拝客でごった返していたせいかもしれませんけれども。思えば、宇佐神宮の御祭神とかかわりのある神社を訪れる機会がここ最近多かったです。2012年の初めに宇佐神宮を訪れたこと自体が、私にとって重要なことなのかもしれないな~と、なんとなく思っています。神々のルーツは、もとは一つのはずですが、そこに至るまでには系統というか、エネルギー的な流れとでもいったようなものがある気がします。私にとってのその1つが、宇佐神宮にゆかりのあるエネルギー系なのかもしれませんね。みなさんも、ご自分にゆかりのあるエネルギー系を探してみられるといいと思います。この神社(あるいは他の聖地)にいると、なんとなく心地よい、そういった感覚を大事にされるとよいと思います。 Some rights reserved by Kabacchi
2012.02.01
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