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私はブログの中で、キリスト意識とサナンダ意識という二つの表現をとることがあります。一般的には両者は同じ意識を指すとされているようですし、私自身も自分のブログではほぼ同一の意味として使ってきましたが、あくまでも我々の限られた認識のもとで見ると、厳密には両者は異なっているように感じられます。もちろん、この感覚は主観的なものです。私にできる唯一のことは、自分の体験に基づいて語ることだけですので、今回はその辺の違いなんかについてお話ししたいなと思います。最近の私の感覚では、キリスト意識は人レベルの意識ではなく、高度に進化した集合意識として認識します。時空を超えた存在ではありますが、我々自身の別側面の姿であり、広い意味での「自分」自身の姿です。また、時空の観念に照らして考察してみれば、未来において高度に進化した我々の集合意識体、こういった表現も工夫次第でできます。まあ、何と表現しようと、言語を超越した世界に存在する我々自身の姿であり、名前(キリスト意識という)などはもちろん問題とはならない、我々からみれば神のように進化した存在です。私がキリスト意識を感じるとき、人の姿としては感じません。光り輝く巨大な球体として把握します。もちろん、この認識自体が本質的なものではないことは言うまでもありません。へミシンク的に考察すれば、キリスト意識が存在するのは、フォーカス49以上の領域、I/Thereスーパークラスターに匹敵する集合意識体です。これとは別に、サナンダ(意識)と呼ばれる存在がいます。以下はあくまでも私自身の体験に基づいた認識ですよ。その点お忘れなく。真実は他にも無数にある可能性があります。サナンダ(意識)には、個性があります。時空を超えた領域(非物質界)においてサナンダに会うと、その圧倒的な存在感にまず驚かされます。アセンテッド・マスターは、数キロ先までオーラが届くと言われることがあるみたいですが、まさにサナンダから発せられるそのオーラと言いますか存在感にはそれを思わせるものがあります。外見は白人の西洋人に見え、いわゆるイエス・キリストとは別人です。ですが、共通しているのは、イエス・キリストにも個性があるように、サナンダにも個性がある点です。両者の進化レベルの違いは私にはわかりませんが、両者は別個の個性を持ちつつ、かつなんらかの関連性があるように感じられます。この、イエス・キリスト、サナンダ(意識)と、キリスト意識とは異なる枠組みであり、どちらかというと、キリスト意識の中にイエス・キリストがいて、サナンダがいる、そういったようにも思えます。人間はこうやって、物事を分離して把握する習性がありますから、上のように見てきました。イエスとサナンダ、そしてキリスト意識が同一魂に由来するとしても、私にはそれらは全く別個のものとして感じられる。それはまるで、日本の様々な神々が究極的には「ひとつなるもの」に由来しつつも全く別個の神々として感じられるのに似ているのかもしれませんね。たとえば、アマテラスという神がいますが、アマテラスは天御中主神と同一存在ではないかという記事を読んだことがあります。ですが、私には両者は別個の存在として感じられます。アマテラスについては、私自身は人間の想念が生み出したものという見方をとりますが、ちゃんと実体を伴って感じられます。それは、太陽意識に確かに由来します。太陽意識の中で広告塔のような役割を果たしています。それに対して、天御中主神は、もはや人間の姿をもっていません。私には、巨大な白い球体として把握されます。ですが、ちゃんと意思をもっていて、高次の存在を介してコンタクトをとることができます。ですが、人間的な要素はなく、進化レベルでみれば、アマテラスよりもさらに高次元の存在であるように感じます。他方で、以前、九州のある神社を非物質的に見た時、男アマテラスとでも言うべき奇妙な存在と出会ったことがありました。アマテラスと同魂なのですが、かなり異質なエネルギーを持っています。また、外見も異なっていて、私には古代中国の皇帝を思わせる姿で感じられてきました。その男アマテラスは、ムー大陸から続く意識の系譜と深いかかわりがありました。つまりは、太陽神の系譜を引き継ぐものなのですが、今なお、別次元において、我々が知るアマテラスの世界とは別の世界に存在していると感じます。このように、高次元のエネルギーを見た場合、そのレベルに応じた違いもさることながら、我々の限られた認識でもってみるがために、同一魂でありながら全く別の存在として認識するということがあるわけです。前半で見たように、ときとしてそれはイエスとサナンダとして認識するかもしれません。また、後半でみたように、アマテラスと天御中主神、そして男アマテラスとでも言うべき存在として認識するかもしれません。我々の限られた認識ゆえ、分離して物事を把握するしかないわけですから、こういった見方もやむを得ないところがあります。いずれにしても、大切なことは、「自分自身で体験してみること」、これに尽きます。人から言われたことを鵜呑みにしていても、その人の「認識」を借りてくることはできませんから、あまり意味がないのです。一般には、神々をどのように知覚するか、またはしないかはどうでもいい話で、大切なのは、自分自身の「中に」いる神々に気付くことです。もっといえば、自分自身が神々であることに気付くことです。森羅万象すべてが自分自身である、これは驚き以外の何物でもありません。でもこれは、「わかったつもり」の知識によってではなく、「自分自身の体験によってしか」得られない感覚です。その体験というのは、何も遠くにあるのではなく、今見えている自然現象の中にあります。つまり、自然を見つめるというのは、自分自身を見つめることに等しいわけです。 Some rights reserved by likeaduck
2012.03.31

人間、いろんな執着がありますし、生きる上ですべてを手放さなければならないわけではないのですが、まあなんといっても最も強力と思われるのが、生存に関する執着です。いろんなタイプがあると思いますが、どのタイプであっても、それに直面するとその強力さに自分でもびっくりしたりします。我々はスピリチュアル的に見れば現実世界において役柄を演じているようなものなのですが、それでも実際にいざ自分のこととなると、なかなか難しい。そういったことが出てきたりします。所詮、何があっても楽しみだと割り切れる自分がいる半面で、割り切れない、どこかに不安や悩みを抱える自分もいたりします。まあそれも無理はありません。単なる舞台とは思えないほどのリアリティの中で我々は日々生きていますし、我々の「目線からは」確かに真のリアリティをもってこの現実世界が存在しているからです。要はそこでいろいろ悩んだり葛藤を抱えたりして生きる生きざまこそが大切なのだ、そんなことを自分自身の日々の暮らし全体を見て考えざるをえません。我々はどこかで、生存競争をしています。日々、一生懸命働くのは、どこかでそういった生存に関わる部分と密接にリンクしているように思えます。ですが、いったんそれらを開放して、自由になってみると、もっと楽に生きられるのかもしれません。真剣なゲーム。そんな風に人生を割り切れたら、少しは楽に生きられるのかもしれませんね。Some rights reserved by likeaduck
2012.03.30

私の場合、ガイドとの交流は日常茶飯事なんですが、最近は無意識のうちに仕事面での方向性を模索しているのでしょうか。きっと私が「自分」に対して問いかけているのでしょうね。意識レベルのわりと高いガイドと思われる存在(おそらくフォーカス35以上)が女性と男性の二柱として現れてきて、私に現実面での仕事上のアドバイスをくれました。私の場合、こういったブログを書くことと現実世界での仕事の方向性もすべてリンクしていて、まるでリトリーバルの時に盛んに言われていたようなことを言ってきたりします。簡単に言語で表現すると、「狭い物事にとらわれるのでなく、もっと多くの人の役に立てるような、そういう意識で。」といったようなことを言ってきます。つまりは、「還元」なんです。以前、リトリーバル(救出活動)をしている時に高次から、「他人を助けているのではなく、自分を助けているのだと思って救出活動にあたりなさい。」と言われたことがありました。それとよく似ているのです。仕事というのは、自分が生きるためにするのですが、自分「だけ」のためにするのではなく、広く世の中のために役立てるといった意図ですることが、ひいては自分自身のためにもなる、そういったことをどうやらアドバイスとしてくれていたみたいです。普段の生活で仕事をしていると、どうしても目先のことに追われやすくなってしまいがちですから、私的にはそういった高次からのインスピレーションは、目からうろこ的な発想でした。意図が変わると、現実世界にすぐ変化が生じてくるのは、最近の著しい傾向です。精神的な変化・変容が、肉体的にまで影響してきます。たとえば、それまでひどい肩コリに悩まされていたのが、まるでうそのように消えてなくなったり。そういったことをその高次からのメッセージの後に経験しました。現実世界とは本当に面白いものです。与えられるものではなく、自ら作り出すもの。そういった印象を強く感じる、今日この頃です。Some rights reserved by Scott Meis Photography
2012.03.29

前回の記事で、魂は地球圏に体験を求めに来ると言いました。私が見た限りでは、高度に進化した魂もあえて自ら「選んで」地球圏にやってきて、体験を積むようです。では、なぜそんなことをするのでしょうか。一つには、部分は全体であるというワンネスの視点に立った上で、他者を援助するということがひいては自分自身の進化につながるといったことがあるのかもしれません。あとは、地球上での体験それ自体に、価値があるという点もあるのかもしれません。体験だけなら、地球上でなくても、どこででもできそうなものです。ですが、この辛辣な環境だからこそ体験できる体験というのがあります。そこで、いかに自分自身の神性を発揮できるか、思いだけではない、体験として行動に出て初めて成し遂げられる進化・向上というのがあるのではないかと思います。シルバーバーチはよく、「このお世辞にも美しいとは言えない世界(地球のことです)にあえて戻ってくるのは、あなたたち(我々人間のことです)への愛があるからです。」と伝えてきていました。神界にいるような存在からすれば、この地球上での暮らしぶりというのは、耐えがたいものらしいです。そうだとすれば、なにゆえにわざわざまた地球圏に舞い戻ってくるのか?ということになります。この点、シルバーバーチは、そのような自分自身に対する犠牲を払うことで、その見返りとしてのさらなる進化があるのだということを言ったことがありました。ですから、菩薩のように進化した存在があえて地球圏に舞い戻ってくる理由というのも、おそらくは自己の進化、そして全体の進化のため、こういうことになってくるのでしょうね。Some rights reserbed by Joi
2012.03.25

前回、我々は、永遠の今を生き続けていると言いましたが、そのことを自覚する必要はあるのでしょうか。結論から言うと、不要だと思います。我々が何を考えても、考えなくても、また真理に到達しようとも、到達せずとも、永遠の今に生きる多次元的存在であるという事実は変わらないと思います。ですから、最近巷でよく言われる「悟り」に到達することも、不要ということになります。悟りについては、私は本文記事であえてふれないでおきました。ですが、そろそろ私自身の考えというか物の見方をお話ししてもいいのではないかという時代に来ているように思います。私は、いわゆる「悟り」も自我の働きに他ならないと考えます。本来我々は多次元的に存在していることは何度もお話ししてきましたが、簡単にそれについてまとめると、我々はちっぽけな自分と、広い意味での「自分」(トータルセルフやそれを超えた進化した「自分」)とを同時に兼ね備えつつ、今ここに存在しています。我々の現実世界での認識では、時空の中にいるちっぽけな自分しか感じられませんが、実は多次元的な視点からも含めてみれば、時空を超えたところでも「自分」が存在している、こいうことなんです。時空を超えたところにいる進化した「自分」にも様々なレベルが同時に存在していますが、高度に進化した存在、たとえば私の言い方では「本来の自分」なんかは、誰もが我々が想定するであろう「悟り」のレベルに普通に到達しています。つまり、見方を変えれば、我々はすでに誰もが「悟っている」のであって、そのことをとりたてて問題とする必要すらないわけです。ではなぜ、「悟りを得た」という精神的現象とでもいうべきものを問題とするかというと、悟りを得ていないちっぽけな自分を感じていて、同時に、悟りを得た「自分」をも感じるに至ったためです。ですから、悟るという現象そのものが、自我(ちっぽけな意味での自分)の働き、こういうことになってきます。もちろん、何を求めるかは人それぞれですから、別に悟りを求めたからと言ってなんら問題はないわけですが、自分が悟ったということ、あるいは悟りとは何かということについて、それを自分以外の人に伝えるということに、スピリチュアル的にはあまり意味はない、こういうことになります。別の表現をすれば、「悟り」とはあってなきがごときものだ、こういうことになろうかと思います。我々から見て悟ったと思われる人物に、ブッダがいます。別の表現をすれば、真理に対して目を開いた人物、こういう表現がぴったりです。そういう見方でいえば、これからはブッダのような人物はたくさん出てくるように思います。私自身の見方ということでお話させていただけば、今ここ、そしてとくに今後の地球上には、多数の優れた魂が「あえて選んで」転生してきて、そこでの体験を積んでいくと感じます。それはなぜなのか?一つには、今の特異な、変わり目を迎えた地球上で体験するためです。いわゆる弥勒の世を迎えつつある今の地球上では、多次元的に見て進化に向かう変化が起こりつつあるからです。かつて、何度かにわたり、ブッダを深くリーディングしたことがありました。本文記事では確か触れなかったように思いますが、ブッダを深く見つめていくと、多数の弟子と共に丘のような草原で瞑想している姿が感じられてきました。ですが、ブッダ自身が常にそうしていたかというと、どうやらそうではないということもわかってきました。ブッダはむしろ、対話を重視していました。弟子との一対一での対話です。その対話の中で何を説いていたのかというと、「現世をいかにして喜びに満ちた心境で生きるか」といった、生き方論のような問答としていたというのを感じます。私は仏教には全く詳しくはありませんが、原始仏教にそのようなものは残っているのでしょうか、よくわかりませんけれども。今風のスピリチュアルな見方でいうと、現世をよりよく生きるための引き寄せの法則、こんな感じです。もちろん、今の引き寄せの法則そのものだと言っているわけではありませんから、誤解なきように。つまり、私が言いたいことは、ブッダが直弟子に教えたことは、今の仏教とはおそらく全く異なっていて、しかも瞑想を必ずしも必須としないで真理に到達する方法をとったということです。別の言い方をすれば、ブッダはなにより「体験」そのものを重視した、こういうことになろうかと思います。それは、数多くのすぐれた魂が今後地球上に転生してくることを考え合わせても、私自身は納得いくものだと考えています。最初の話に重ねてみると、「悟り」とはあってなきがごときものだ、「悟り」よりも「体験」重視を、という今日の私が話したい真意はここにあります。 Some rights reservrd by dcysurfer / Dave Young
2012.03.25

今日も記事を書くために一応ヘミったんですが、ほとんど覚えていません(笑)。それほど時間的余裕がなかったという事情もあるんですけどね。言い訳しておきます(笑)。最近の私の中での「流れ」は、バシャールよりも、自分自身の高次の存在、ハイアーセルフとのコンタクトをもっと深めたいという感じになってきております。まあ、そうはいっても、私生活のほうも忙しいですから、なんとなくなんですけどね(笑)。ガイドやハイアーセルフとのコンタクトは、一般に言われている(行われている)よりも、もっとありふれたものなんじゃないかなと思ったりします。だって、「自分」との対話なんですから。肩の力を抜いて、リラックスして、心の声(良心の声)と対話してみます。自分自身のエゴの声も混じっていても、気にしない、気にしない(笑)。普段から、自分自身の心の声に素直に、生きてみます。現実世界でいかなる現実に直面しようとも、スピリチュアル的に見れば所詮ゲームのようなものです。対象に埋没してそこでの人生を生き切ることはとても重要なことです。ですが、私達にとってもっと大切なことは、意識を拡大した視点から見れば、「全体として」生きることです。もちろん、普段の生活でそんなことは考えている暇なんかありません。みんな生きるのに必死ですからね。でも、それでいいんです。瞑想やスピリチュアルな世界に逃げ込むよりも、今自分が直面している現実世界に没頭する、それが何よりも大切なことだと私は感じています。私はそこにこそ、本当のスピリチュアルな「自分」を見出します。永遠の今に生きる自分、それは、今自分が直面している現実の「中においても」、その瞬間瞬間に「込められて」一体不可分なものとして存在しています。そうやって我々は永遠の今を生き続けているわけです。 Some rights reserved by jojoscope
2012.03.23

人間は人生において、大きなテーマのようなものがある気がします。そのテーマは人それぞれ異なっています。一つのテーマを、年代や時期ごとに、別々の視点から掘り下げていきます。多くの場合、同じテーマを掘り下げていることにすら気付かないかもしれません。しかし、人は、何度も何度も、別の視点から、あるテーマに沿った生き方をするように感じられます。そのこと自体に良い悪いはなく、ただ、その人にとってはかけがえのない経験が積み重ねられていきます。また、もしかしたら、人との出会いやその中で生まれる経験についても似たようなことが言えるのかもしれません。たとえば親子、兄弟、夫婦、といったように、その関係は異なったとしても、似たようなことを役柄を変えて何度も学んでいき、掘り下げていきます。それは、時代を超えて、現世、過去世、来世の枠組みをも越えて、共に成長していけるように、魂同士の仲間がいて、役柄を変えて何度も学んでいきます。我々というのは、過去、現在、未来の総体としての特質をすでに備えていると思われますが、そんな我々にとって最も大切なのは、「今ここ」にフォーカスすることです。今我々が直面している現実の中にこそ、我々がクリアすべき課題があります。現実を見つめる意義は、ここにあります。
2012.03.19

所用のために北海道に行ってきました。更新しているはずの曜日にもかかわらず出来なくてごめんなさい。見に来てくださった方、ありがとうございます。さて、ご質問にもありましたように、前回の記事で書いたこととリンクしていると思われる出来事が現実世界で起きてしまいました。私としては、全くそういった予知的なものをする意図はありませんでした。それは、つい先日、そういったことはもうやめたと申し上げた通りです。今回のことは、私の意図とは無関係にリンクしてきた次第です。実は、前回の記事は、飛行機の中でうつらうつらしているときに感じ取った印象を言語化したものでした。それを急いで文章にまとめたものなので、ちょっとわかりにくかったかもしれません。ちょっとだけ補足しますと、エネルギーの流れには二種類あるように思います。一つは、物質的な流れです。具体的には、地球の活動に伴って起きる地殻変動の動きです。専門的なことは知らないんですが、私にはそれが、アリューシャン列島から千島列島にかけてつながる流線型のルートが、日本列島を南下してくるように感じられ、それをスサノオの体を借りて神剣を用いてエネルギーを北から南へと通すような動作として「感じられた」わけです。別の言い方をすれば、地球意識の高次の領域と同調することで、地球の浄化活動に伴う地殻変動の動きを、「スサノオが神剣を突き刺す行為」として認識した、ということです。言うまでもないことですが、ちっぽけな私が地震を引き起こしたわけではないです(笑)。もうひとつは、精神的な流れです。日本から、世界中へとグリッドを通じてエネルギーの伝播が起きていく。これ自体は私はビジョンとして見ましたが、精神的なものではないかなと思います。このような、高次元の地球意識の働きと同調出来る人、別の言い方をすれば、地球意識の神界へと自由に出入りできる人であれば、なんらかの形としてこういった地球意識の動きを感じ取ることができるはずです。その人の認識が絶対ではないことは言うまでもありません。それは何度も今まで申し上げて来た通りです。神界に自由に出入りできる者は多くはありません。ただ私自身、そういった神界からの使者かどうかも、わかりません。他人の評価や批判といった分離意識に根差した記事が散見されるスピ世界ですが、「本当の神は自分自身の外ではなく中にいる。」これだけは、実体験の中で、そしてこういった現実世界との興味深いリンクを見てみて、確かに言えるように思います。私が何を言うかに翻弄されることなく、ご自分の内面と向き合ってみてください。予言に意味を見出すことも大事かもしれませんが、それよりもっと大切なのは、現実世界としっかりと向き合って生きることです。Some rights reserved by llee_wu
2012.03.15

同一の神的存在(我々の別側面)が、複数出現し、しかも、男性神と女性神という異なる形態として出現することは、けっこうあることなのかもしれません。以下は、私の妄想と思って読んでください(笑)。日本列島というのは、世界の雛形(ひながた)であると言われることがあります。それと関係があるかどうかはともかく、日本で変化がおき始めて、それが世界中に広まっていくという現象があると感じます。私は、意識の中で、二柱の神的存在を直感的に感じ取りました。その二柱はもともとはひとつの存在なのですが、私には女性神と男性神として感じられます。その一方は、スサノオです。もう一柱の女性神は誰かははっきりとはしません。以前、私は、スサノオとともに日本列島や世界中のグリッドと呼ばれるエネルギーの調整弁とでも言うべきポイントの調整作業を行っていたことがあると以前お話ししました。私の顕在意識には最近のぼってきませんでしたが、どうやらそれは今でも続いているようです。かつて私は、スサノオと「共に」グリッドの調整をしてきましたが、今は潜在意識の上で「自分が」スサノオだとじます。どの神かは知りませんが、私に、「スサノオよ(私のことです)、(必要があるときには)この剣を使いなさい。」と言い、剣を差し出してきました。私はそれをどうやって使うのかすでに「知っている」ようです。顕在の意識の私は知りませんが、本来の自分は知っている、そんな言語を超えた感覚です。日本列島の大きさほどもあるその剣を何に使うのかというと、「エネルギーの通りをよくするため」です。その巨大な神剣を、日本列島を貫くような形で、日本列島の中を端から端へと通します。すると、私の体にも、エネルギーが流れ込んできます。まるで、非物質的な剣を貫く行為が、物質的にも作用するかのようです。そうやって今度は私の体を導管として、土地や人にエネルギーが流れていく、そんな印象がありました。地球は、格子状に(網目のように)、地表のいたるところにグリッドが貼りめぐらされています。エネルギーの流れる通り道のようなところです。それがいたるところにあるわけです。なぜだかわかりませんが、私は日本列島のエネルギーを活性化させることで、それがグリッドの格子を伝って地球全体に伝わっていくようすが感じられます。九州がその拠点となる可能性もありますが、私にとって特に印象深いのは、千島列島、アリューシャン列島と我々呼んでいる場所です。そこが、エネルギーの通りを良くする上で、重要なポイントとなっているように私には感じられる、そういうことなんです。神界(高次元の領域)での取り決めごとは、もはや決して公開されることはないと感じます。何が起こるかはわかりませんが、たとえ何があっても我々は大丈夫だということだけはわかります。それは決して気休めで言っているわけではありません。進化には変化が伴いますが、いずれ安定期に入ります。安定期は、もうすぐそこまで来ていると感じます。次の例があまりうまい例ではないことは百も承知ですが、我々は大きな船に乗っていると思ってください。船自体が転覆することは絶対にありません。なぜなら、「そういう風に作られているから」です。そして、基本的に船というのは、揺れるようにできているわけです。水の上を進むわけですから。むしろ、ある程度揺れたほうが安全なのです。まるで、私たちは大きなゆりかごの上に乗せられて大切に育てられているようなものです。誰にでしょうか?より大きな「あなた」自身です。進化はそうやって、自分自身を大切にはぐぐみつつ、さらなる旅路へとすすんでいくわけです。
2012.03.13

昨日、従来言われていた見方は人間的な見方だと言いましたが、では私自身はどう考えているのかを少しお話ししたいと思います。今まで私がかかわってきたへミシンクの世界で言われてきたことに近づけて考えてみます。いわゆる銀河系コアから地球生命系に向かってエネルギーが流れ込んでいるという話ですが、私はそれは「我々自身の姿」として見ていて、「ひとつなるもの」とのつながりを見ているのだというような認識にどちらかというと立っています。どういうことかというと、我々の常識からすれば考えられないことですが、古い言い方で「上の如く下もあり」といったような言葉があります。確か私の記憶では、トート(トス)という古(いにしえ)の賢者が伝えたものであったと思います。(このトートにも様々な憶測(ネガティブな憶測)がありますが、それについてはここではふれません。ただ私もこの存在とかつて関わったことがあったということだけは触れておきます。)「上の如く下もあり」というのは、もちろん様々な意味があるのでしょうけれども、簡単に述べると、最近私がよく言う「すべては『自分』」なのだという多次元的な見方につながってくるように思います。単純にそれは、上(の意識レベル)で起こりうることは、下(の意識レベル)でも起こるとか、そういった相似象的な物事の道理だけではなくて。もちろん、そういった側面はあるにはあります。たとえば、向こうの世界で繰り広げられている善と悪(光と闇、ポジティブとネガティブ)との攻防ですとか。そういったものが実際にあって、それが現実世界に転写されてきているという側面は確かにあるように思います。私の感覚では、それはつい最近(2009年春頃)、まではポジティブとネガティブの勢力の違いはわずかであって(ほんのわずかネガティブが優勢)、それが今ここの地球では、ポジティブが優勢になっています。ですが、「上の如く下もあり」という言葉の真意はむしろ、「内の如く外もあり」というニュアンスに近い気がします。つまり、外側の事象(外宇宙)というのは、内側の内的精神(内宇宙)が反転しているだけなのであり、外宇宙と内宇宙とは本来一体なのだといったニュアンスです。ですから、我々が銀河系コアから地球圏に生命エネルギーが流れ込んできている様子を見るというのは、見方を変えれば、我々自身の様子を見ているに等しいわけです。もっと言うと、変化というのは常に「内側」からきます。外側(外的要因)の何かではなく。極論すると、自分が変わろうと思うから変わる(変われる)のです。今、目に見えないところで、世界規模で内側から変わろうという衝動が起きてきていると感じます。それは、東北大震災から一年経とうとしている今、芸能人の何気ない言葉にも事象として現れてきています。震災当時もそうでしたよね?あの未曾有の出来事を契機に、このままではだめだ、何か始めなくてはという思いや行動がいたるところで起こってきたように思います。それは、被害を受けた日本はもちろん、世界のいたるところで起きて来たように思います。私は、それを突き動かしているのは他でもない、その人の内面だと見ます。「内の如く外もあり」によって、逆に外面から内面が変化してきていると感じます。相変わらず他者を責めるという分離意識が見受けられても、それも含めて進化の一過程なのだ、そんな風に私はみています。その背後には、ある一定の、人類の集合意識、あるいはもっと究極的な計画性、方向性があるように感じます。その方向性を知ってか知らずか、多くの人が今のこの時期を「選んで」生まれてきて、内面から変わり始めています。これが私が考えるところなんです。変化の要因が外にあるか内にあるか、外からくる要因だけで変われるのか、それとも内からくる「衝動」こそが必要なのか。変わるとしてどう変わるのか、物質的に変わるのか、それとも精神的に変わるのか。精神的といっても、いわゆる振動数の変化やそれに伴う次元の変化はあるのか、あったとしてそれは地球だけなのか、それとも宇宙規模で起きるのか。そしてそれは観察できるのか。そして変わるのはいつか、今ここだけのイベントなのか、それとも今ここからはじまるのか。そういったもろもろのことが関係してきて、確かに変化を伴いつつあり、それが「アセンション」と呼ばれるものだと私は考えています。Some rights reserved by ugod
2012.03.09

我々は今、2012年に生きています。この2012年というのは、へミシンクの世界では「ビッグ・チェンジ」などとかつてブルースモーエン氏が言っていたのを記憶しています。私のブログはへミシンクをされておられない方もご覧のようですので、簡単にご説明したいと思います。なぜ2012年が注目されてきたのか?非物質的に見ますと、大きな自然環境の変化の波と言いますか、変化のきっかけと言いますか、「節目」があります。それを見るために、いわゆる地球外生命体が多数、地球圏に集まってきているとされています。この状態を、へミシンクの開発者でありモンロー研の創始者であるロバート・モンローは「ギャザリング」と呼びました。それで、地球圏において2012年頃に何が起きるのかというのを観察しに来ているのだとされています。最近私は、いわゆるモンロー研的な考え方をしなくなってきました。すなわち、今、地球生命系に向かって銀河系コアから大量の生命エネルギーが流れ込んでいて、それがどうやらアセンションに関係しているのではないか?といったような考え方です。モンロー研でそういった考えが本当にされているのかどうかは慎重になる必要はありますが、それにしても、何と言いますか、きわめて人間的な見方であるといった印象を受けます。それがいいとか悪いとかではないですよ。人間、ある事柄にはまっていますと、その視点からしか真実が見えなくなる場合があります。ところが、他にもいろんな経験をして見方を増やしますと、以前とは別の違った見方をするようになります。いわゆるアセンションについても、それは当てはまるように思います。もちろん、好きなように考えればいいんです。ただ最近感じるのは、時代が変化するとともに、以前言われていた価値観も大きく変わりつつあるということです。私は、いわゆるアセンションには2種類あると思っています。一つは、人間の細胞が一定周期で入れ替わるように、地球や銀河系や宇宙全体が「入れ替わる」ことです。もちろん、見た目にはなんの変化もありません。もう一つは、我々一人一人の意識、内面の変化です。2012年というのは、どちらかというと後者のほう、すなわち我々一人一人の意識変化の出発点なのではないかといことです。ですから、「見た目には」何も変わりません。変わるのは、内面だからです。ただし、内面の変化が進むにつれて、外面も変化していくと感じます。ただそれには、数十年、数百年、場合によっては数千年のタイムスパンが必要かもしれません。一人一人の意識が次第に変化していき(もちろん、人間の寿命には限りがありますから、子孫へと伝えられてということです。)、ある一定の基準点を超えた時に、一気に社会変革が起きる、イメージ的にはそんな印象を私個人は持っています。もちろん、他にも考え方はたくさんあるとは思いますよ。ただ、大まかな点で共通性があるとすれば、そういったマクロ的な視点とミクロ的な視点の二つから変化の兆しが起きてくる。そして、いつかはわからないけれども、ミクロ的変化はやがてマクロ的変化につながり、「別の人類」へと飛翔する。そういった大まかな流れといったものは、それが起こりうる時期やタイムスパン、具体的状況等には違いがあるにせよ、似通った部分というのは様々な方のメッセージの中で多少なりともあるのかもしれませんね。Some rights reserved by TANAKA Juuyoh (田中十洋)
2012.03.08

私は神名にはそれほどこだわりません。それは、あらゆる視点から非物質的検証を積み重ねた結果、究極的には「一つなるもの」に帰することを感覚的に知っているからです。ただ今回はあえて、私に関わりの深い神名について触れたいと思います。私は、根源神である「一つなるもの」から生まれた、キリスト意識(サナンダ意識)と深いかかわりがあると感じます。私は、様々な存在、特にキリスト意識と深いかかわりのある存在に会い、交流を図ってきました。それはまるで、自分自身の足跡をたどるかのような、懐かしい感覚を覚えるものでした。いわゆるモンロー研的な考え方(ガイド、ハイアーセルフ)の枠組みをはるかに越えた霊的なつながりというものが確かに存在していて、それは、太古の昔から脈々と受け継がれてきた叡智の集団でもあります。多くの賢者が地球上に生まれましたが、それは何も彼らが特別であったわけではなく、彼らの背後にある神的存在(キリスト意識)が特別でした。少し見方を変えて、日本的な見方から見てみます。私に最も関係が深いと感じられるのは、国常立太神、スサノオ、です。そしてさらに高次の領域には天御中主之神が感じられます。星系列で見れば、シリウスBです。シリウスにはAとBとが分離して我々には見えていますが、本来は表裏一体のようです。それはあたかも、二ギハヤヒとセオリツヒメが同じ故郷に属している(私はそう感じています)のと似ています。私は、スサノオとセオリツヒメには一度ずつ助けられたことがありました。スサノオには、日本列島のエネルギーバランスを整える作業を一緒にしていた時期に、私が龍に飲み込まれそうになった時に助けられました。セオリツヒメには、かつて私が救出活動(リトリーバル)に従事していた際に、サタンに囚われた意識を天使達と救出しに行ったんですが、その際に受けた波動がもとで気分が悪くなった際に、聖母マリアと二人がかりでヒーリングを受けたことがありました。なぜセオリツヒメと聖母マリアが一緒だったのかはその時には皆目見当がつきませんでしたが、セオリツヒメとマグダラのマリアが同一存在であるという説があるらしいです。まったく異なる時期に得られた非物質的情報がこのように似通っていくるのは大変興味深いことです。では、アマテラスはどうなのか?今から思うと、私が接していたアマテラスはそれほど高次元の存在ではなかった気がします。アマテラスというのは確かに太陽意識内にいる集合意識と深いかかわりを持っているのですが、アマテラスよりももっと高次の存在がいます。このように、私は様々な高次の存在とのかかわりを持っていますが、ひとつの共通した視点があり、それは「一つなるもの」からつながる連綿とした高次の集団(キリスト意識)と深いかかわりが常に存在していた(している)ということです。(私の)「役割はメッセンジャーである」とかつてある高次から言われたことがありましたが、基本的には今でもそれは変わっていません。ただ最近私は、自分の言葉で語ることが多くなりました。高次からのメッセージはそれとして伝えますが、それよりも私自身はどう考えるのかという視点です。それは、読者の皆様お一人お一人が高次の存在として「も」生きているのと同様に、私も高次の存在として「も」生きていることを思い出しつつあるからです。 Some rights reserved by Laura Nolte
2012.03.06

最近重要だと感じているのが、「エネルギーを取り入れる」ということです。でも別にヒーリングとかスピ系の話ではないですよ~(笑)別に意識しているわけではないんですが、まじめな話、日常生活から我々に必要なすべてを手に入れることができ、もっというと我々の存在そのものがスピリチュアルです。それでエネルギーを取り入れる話なんですが(笑)、最近一番感じるのが、我々は食物を食べているのではなくて、食物からエネルギーを取り入れているのだということです。ここでいうエネルギーというのは、栄養素という意味ではなくて、非物質的なエネルギーです。我々の本質は意識(非物質)ですから、非物質的なエネルギーというのも、進化の過程(ダイアード的視点)においては重要なわけです。あと数百年もすれば、食べ物を取り入れると言うよりも、エネルギーをどう取り入れるかという点に考え方というか食生活その他文化が変化していくのではないかという気がします。今の我々にとっては、食物を体内に取り入れることがもっとも身近にエネルギーを取り入れる方法なわけですが、極論すれば、食物を取り入れることというのは、太陽光を浴びてエネルギーを取り入れたり、外の大気に触れてエネルギーを高めたりすることとエネルギーを取り入れるという点では本質的には変わらないわけです。今回は、食物についてに主に話をしぼってお話ししたいと思います。どんなものを食べるかによって、明らかにエネルギーが異なっているというのを最近強く感じます。最もエネルギーの強いのは、野菜です。野菜の中でも、豆類は非常にエネルギーが強いです。あと、その土地でとれた新鮮な野菜は、エネルギーが強いです。あと、玄米も非常にエネルギーが強く、精妙な波動を持っています。あと、誰が作るかによっても、料理に含まれるエネルギーは異なってきます。家で作るのと、外で食べるのとでは、素材等の面でいえば家で作るほうがエネルギーが高くなります。エネルギーを求める必要性は、健康な人でも大事ですが、病気の方であれば特に重要です。術後、ある程度症状が安定してきたら、エネルギーを奪うもの(薬)から、エネルギーを得る物、循環させる物(自然から得られるもの。食材。太陽光。空気。大地に触れることで得られるエネルギー。)をできるだけ多く取り入れるような工夫をされるといいと思います。エネルギーを浪費する(奪う)のではなく、循環させる、温存するという視点は、とても重要だと感じます。天皇陛下のように高齢で外科手術をされたような場合には、エネルギーを温存させて、できれば積極的に取り入れるような工夫をされるとよろしいかもしれません。特に、どこに意識を向けるかという点も、意識されるとよろしいかと思います。特に意識を向けるべきところは、太陽光です。これは、太陽光そのものを直視するという意味ではなく、「太陽光のありがたみを肌で感じ取るようにする」ということです。太陽に対する感謝の視点というのは、現代人にはすでに失われてしまっていますが、とても大切なことなのです。Some rights reserved by Olaf
2012.03.06

私は以前、救出活動(Retreival)というものをやっていました。人間は死後、通常の自然なプロセスをたどれば、自分にとって身近な存在(いわゆるガイド)等の手助けによって、死後に進むべき方向性が示され、新たな生活の場へと移っていきます。ですが、それがなんらかの過程でスムーズできない場合というのがあります。その場合に、いわゆる高次の存在(ガイド達)と死者とのパイプ役を務めて、なんらかの援助活動を行うことがあります。これが救出活動なんですが、多くの場合、手助けは不要であることが多いですそれは死者をそのまま放置しておいて自然な気づきに任せるのが最良の学びであることもあるからです。助けられる側からすれば、助けなど本来は不要なことが多いです。救出活動はむしろ、助ける側にそういった他者とのかかわりが必要な場合のほうが多いように思います。他人の宿題には手を出さずにただ見守っていたほうがいい場合というのは、救出活動だけではなく、広く現実世界にも見受けられます。たとえば、霊能者がやる除霊なんかがそうです。除霊(浄霊)は、多くの場合、霊をとる側と取られる側との相互作用によって引き起こされているように思います。つまり、両方の原因が相まって除霊(浄霊)という現象が「引き寄せられている」わけです。ですから、霊を取り除く側がいなければ当然除霊(浄霊)は起こりませんし、「助けてください。」来る側がいなければ、そもそも起こり様がありません。霊をとる人と、放置する人のどちらが親切なのかを考えることがあります。様々な意見があるでしょうけれども、あくまでも個人的な意見を述べさせていただけば、霊を取らずに放置するほうが本人のためになるように思います。「そうですね。詳しく見てみないとなんともいえませんが、・・・もしかしたら母方の先祖何か原因があるのかもしれません。」「先祖霊ですか?」「そうです。」「あの~、もし除霊と言ったら変ですけど、母方のほうの原因を取り除くことはできないものでしょうか。」「できなくはないです。ただ・・・」「ただ?」「料金が少しかかります。一回の浄霊につき5万円ほど。」「5万円?」「ええ。」というのと(笑)、「・・・いろいろお話をうかがってきましたが、おつらいでしょうが、現実から目をそむけていても事態は一向に改善しませんよ。今の状況を引き寄せたのは、霊のせいではなく、あなた自身に原因の一端があります。あなたの悩みを私が引き受けてあげることができません。まずは、霊のせいにせずに、きちんとした現実的な対応を取られることをお勧めします。」という2つのパターンをここでは例示してみます。他にもたくさんのパターンがあるかもしれませんよ。両者の中間的アプローチなんていうのも、もしかしたらあるかもしれません(笑)。私はどちらかというと、学びというのは、他人が変わってあげられない部分というのがあるんじゃないかなという立場をとります。つまり、上の例で言うと、放置する(後者の例)のが最善とみます。たとえ本当に霊的に原因があったとしてもです。もちろん、見てみて原因がはっきりしない場合というものありえます。ですが、今想定しているのは、相手と対面して、霊的に見た時にその原因が霊障にあるのだと「わかった」場合です。そんな殺生(せっしょう)な、と思われるかもしれません(笑)。ですが、最近私は、他人を助けられるというのは、おこがましいのではないかと思ったりします。本当の思いやりは、見守ってあげることではないかと。もちろん、状況にもよりますけれども。そうなってくると、どこに意識が向かい始めるかというと、自分自身と向き合うことになります。本当の思いやりというのは、もっとトータルな視点から見ないと見えてこない場合も、もしかしたらあるのかもしれませんね。Some rights reserved by nattu
2012.03.03
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